【目次】
- 【前話へのリンク】
- 第21話 初戦の相手は!?の巻
- <登場人物紹介>
- 1.松下との再会
- 2.谷口の提案
- 3.まさかの結末
- <次話へのリンク>
【前話へのリンク】
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第21話 初戦の相手は!?の巻
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<登場人物紹介>
松下:城東高校野球部の主戦投手。右投げ右打ち。墨谷二中の出身であり、かつて谷口や丸井、イガラシ達と同じ釜の飯を食った仲である。
誰よりも「わずかな可能性をなんとしてもモノにする」という谷口の恐ろしさを理解している人物。過去二度の墨高との対戦では、いずれもノックアウトされチームも大敗。苦い経験を味わった。
大橋:青葉学院出身。長身、右投げの本格派投手。かつて墨谷二中と地区決勝を戦った試合では、佐野のリリーフとして登板。彼に匹敵するほどの快速球と変化球を投げ込み、青葉の「次期エース候補」と言われていた。
(以下、小説オリジナル設定)
卒業後は、城東高校へ進学。奇しくも雌雄を決した墨二の卒業生・松下とチームメイトになり、ともに近年苦戦が続く城東野球部の復活を期す。
1.松下との再会
六月の最終週。ついに夏の甲子園出場を賭けた東京都予選が、幕を開けた。都内各地の野球場では、連日のように熱戦が繰り広げられている。
開幕後の数日を、墨高ナインは妙な気分で過ごしていた。
例年であれば、もう初戦を終えている頃だ。しかし今年はシード校のため、墨高は三回戦からの登場である。試合の日まで、だいぶ間隔があった。
それゆえ、さほどナイン達の日常は変わらず。キャプテン谷口以下、通常どおりの厳しい練習に取り組んでいる。
ただ一点、違うこともあった。
昨年と同様、こちらと対戦する可能性のあるチームの偵察に、ナイン達は手分けして繰り出す。しかも今回は、練習だけでなく試合も見た上で、分析することができた。こればかりは、初戦まで日があることの利点である。
日曜日の正午。イガラシと横井は、都内のとある野球場を訪れていた。
すでに目当ての試合は終わり、二人は球場を出てバス停へと向かう。これから学校に戻り、午後の練習に備える予定だ。
「ヒー、あちぃぜ」
汗だくの横井が、大仰なほど顔を歪める。
「これからもっと暑くなりますよ。お昼ですし、梅雨も明けちゃいましたし」
「お……おめぇ、よくそんな涼しい顔してられるな」
先輩は声を上げる。なんだ元気じゃないか、とイガラシは苦笑いした。
「まさかイガラシって、暑さとか感じないタチなのか?」
「そんなワケないでしょう。騒ぐと余計に疲れるので、おとなしくしているだけですよ」
短く吐息をつき、空を仰ぐ。日差しは容赦なく降り注いでいた。直射日光はまだ我慢できるとして、ビル街のコンクリートの照り返しには、さすがに参る。
バス停前には、屋根付きのベンチがあった。
「……ふぅ。やっと影に入れるぜ」
横井は安堵の顔をした。
幸い、先客もいない。案内板の時刻表を見ると、次のバスが来るまで、あと十分近くあるようだ。二人はベンチに並んで座り、しばらく待つことにする。
イガラシは、胸ポケットの手帳を取り出し、メモしたことを読み返した。
「どうだい?」
ベンチにもたれかかった格好で、先輩が「ふふっ」と笑う。
「聖稜、強かったろ」
二人は、最も初戦で当たる可能性の高い、聖稜の一回戦を偵察していた。
格下の相手ということもあり、試合は序盤から、聖稜の打線が爆発。守っては、二投手のリレーで五回を零封。十五対〇とコールド勝ちを飾っていた。
「え、そうですか?」
こちらの返答に、横井は「あら」とずっこける。
「あ。いや、もちろん侮れない相手ですけど」
「そんなの大してちがわねーよ。ま、いいさ。おまえの見解を聞かせてくれ」
「は、はぁ……」
イガラシは手帳を見ながら、ポイントを説明した。
「まず打線です。ハデに打ち込んでましたけど、ありゃ相手投手のコントールが悪かったせいですよ。真っすぐも変化球も高かったので、好き放題に打てたでしょうね」
「甘いタマをかく実に仕留めたってことじゃないのか?」
「良く言えばね。けど、打ち方を見たら……ほとんど引っぱりでしょう。コースに逆らわず打ち返せてたのは、一番と三番だけでした。あれじゃ内角を見せダマにして、外に変化球を投げておけば、カンタンに凡打してくれますよ」
ほう、と横井が吐息をつく。
「じゃあ……見かけほど、打線は怖くないってことか」
「そう思います。ただ、やはりパワーはあるので、速球……とくに重いタマには強そうです。うちの投手陣でいうと、松川さんには相性がいいかも」
「ああ。たしかに昨年の試合で、やつらは松川を苦にしなかったもんな。谷口に代わった途端、ぱたりと打てなくなったが」
イガラシは「えっ?」と目を見上げる。
「そうだったんですか」
「なぁんだ。てっきり知ってて、言ってるのかと思ったよ」
昨年の対戦について、詳細は初めて聞いた。逆転勝ちしたという結果だけは、ちらっと耳にしていたが。
「ま、あんときゃ松川も本調子じゃなくてよ。さっきのピッチャーみたいに、浮いたタマをねらい打たれてたんだ。しかし……こっちが驚いちゃうわ、ズバリ的中じゃないか」
「なるほど。そういう前例があるんでしたら、もう間違いないですね」
そう言って、イガラシは手帳のページをめくる。
「ま……強いていえば、警戒すべきはピッチャーですかね」
「おっ、そう思うか」
イガラシの発言を、横井は首肯する。なぜかうれしそうだ。
「とくにカーブですね。左ピッチャーなので、右打者にとっては喰い込んでくるボール。あれは打ちにくそうでした」
「あいつ木戸っていうんだけどよ。昨年の俺達との試合では、リリーフで出てきたはいいが、ビビッて腕が縮こまってやんの。しまいにゃマウンドで泣き出しちゃって」
「……そ、そうでしたか」
どう返答していいか分からず、口ごもる。
「だから今日の姿を見て、あいつも成長したんだなーって」
「ちょっと横井さん。敵のピッチャーを応援して、どうするんですか」
ほんと気のいい先輩だぜ、と吹き出してしまう。
「それと、横井さんには悪いですけど……まだ短所を克服できてないようでしたよ」
イガラシがそう告げると、先輩は「はっ」と驚いた声を発した。
「ほとんどヒット打たれてないんだぞ。弱点、見えてたか?」
「ええ、しっかりとね」
手帳を見せながら、話を続ける。
「たしか四回辺りから、相手バッターがベース寄りに立ち始めたんですよ」
「えっ……ああ、言われてみれば」
「きっとインコースを投げにくくさせるためだと思うんですけど。そしたら木戸ってピッチャー、真ん中にボールが集まり出したんです」
そこまで言って、手帳を胸ポケットにしまう。
「ちょっと強いチームなら、ねらい打ちされてますよ」
「た、たしかに……」
イガラシは、束の間うつむき加減になる。
しかし思ったより、聖稜はアラが目立つな。これじゃシード漏れするはずだぜ。同じ山に対抗馬は見当たらないが、なにかのキッカケで足をすくわれることも、十分ありうるぞ。
ほどなくバスが到着した。乗ってみると、あいにく座席は僅かしか残っていない。仕方なく、二人は離れて座ることにした。
「んじゃ、後でなイガラシ」
「ええ」
イガラシは、前方にある運転席近くに座る。二人席の窓側には、大学生風の若い男が居眠りしていた。乗客が多い分、車内は蒸し暑い。
その時だった。ふいに「イガラシじゃないか」と声を掛けられる。
「……え、あっ」
目を見上げ、ぎくっとした。傍らに、こちらも制帽と白いワイシャツ姿の少年が立っている。長身の端正な顔立ち。
「ま、松下さん……」
「やっぱりイガラシか。しばらくだな」
やがてバスが発車する。松下は、吊革につかまった。僅かに息を切らしているところを見ると、彼も今しがた乗り込んできたばかりらしい。
「会うのは中学以来かな。けっこう背が伸びて、ちと雰囲気も変わってるから、すぐには気づかなかったよ」
「そりゃ三年ぶりですから……あ、どうぞ」
席を譲ろうとするのを、松下は「いいから」と制した。
「ヘンに気を遣うなよ、おまえらしくもない」
まいったな、と小さく溜息をつく。じつは適当に言いつくろって、その場を離れるつもりだったのだ。松下を嫌っているわけではないが、今はタイミングが悪すぎる。聖稜と同じく、彼の城東とは初戦でぶつかる可能性があるからだ。
「れ……たしか城東は、今日が初戦だったんじゃ?」
仕方なく、無難な雑談をしてやり過ごすことにした。
「ああ。早い時間だったから、終わってすぐ移動してきた。知ってのとおり、聖稜とは次戦で当たるからな」
「てことは、勝ったんスね」
「どうにかな。ふふっ」
松下がふと、含み笑いを漏らす。
「ま、くわしくは……後で丸井と島田に聞いたらいいさ」
どきっとする。たしかにその二人が、城東の試合をチェックする役目だった。松下は、ちゃっかり偵察に気付いていたらしい。
「イガラシ達は、聖稜の偵察だろ? 俺と同じく」
「え、ええ……まぁ」
「聖稜のこと、どう思った?」
メンドウだな、と胸の内につぶやく。いま迂闊にしゃべれる話ではない。
「どうでしょう。まだ高校野球というものが、あまり分かっていないので」
はぐらかすと、松下は「またまたぁ」と笑う。
「甲子園優勝校相手に堂々とプレーしてたやつが、よく言うぜ」
えっ、とまたも驚かされる。
「招待野球、見にきてたんですか?」
「もちろんさ。かつての仲間が、何人も出てたんだもの。それに……おまえ達があの西将相手にどう戦うか、興味があったんだ。きっと自分達のヒントにもなると思ってな」
イガラシは、ますます警戒した。
ずいぶん、せいりょく的だな。かなり情報収集に力を入れている様子だ。戦力的には、はっきりと聖稜より落ちるだろうが……
「松下さんこそ、どうなんです」
あえて直接的に尋ねてみる。
「聖稜に勝てると思いますか?」
松下はふと真顔になり、しばし口をつぐむ。
「……あのな、イガラシ」
それでも、やがて表情を緩め、おもむろに話し始める。
「帰ったら、谷口に伝えてくれ。相手をよく調べて、最後まであきらめずに戦えば、勝負は分からない。俺はそれを、あいつから学んだ。同じことが自分にもできるのかどうか、やってみるよって」
ほどなくして、降車ブザーが鳴った。続けて案内アナウンスが流れる。
―― つぎは、城東高校前。城東高校前。
「おっと、着いたようだな」
バスが停車すると、松下は「それじゃ」と手を振り、踵を返す。
やれやれ……と、イガラシは制帽の頭を掻く。どうやら松下は本気らしい。決然とした口調が、それを物語っていた。
さらにもう一つ、イガラシが松下を警戒する理由があった。
あの人は、谷口さんのやり方を知っている。かつて谷口さんが、どうやって青葉に対抗したか、その過程を見てきたんだ。たとえ力の差があっても、相手をよく研究したうえで鍛錬を積めば、十分戦える。同じことを実行するつもりなら、あるいは……
2.谷口の提案
イガラシと横井が部室に戻ると、すでにほぼ全員が揃っていた。それぞれ椅子やベンチに腰掛けている。
「おお来たか。二人とも座って、さっそく聖稜のこと話してくれ」
谷口に促され、二人は並んで座った。そしてイガラシから説明を始める。
「……なるほど。昨年と同様、パワーには要注意ってことだな」
倉橋はうなずき、さらに「横井はなにかあるか?」と話を向ける。
「あはっ、ほとんどイガラシに言われちまったい。けど……強いて伝えるなら」
おどけた口調で、横井は付け加える。
「キャッチャーの態度が良くなかったな。際どいコースを『ボール』って言われると、あからさまに不満げな顔して、何度か審判に注意されてたな」
へぇ、とイガラシは感心した。これは重要な情報だ。飄々としているふうで、横井はなんだかんだ物事をよく見ている。
「まったく、あの学校は」
戸室が舌打ちして言った。
「昨年も、こっちがホームへすべり込もうって時に、マスクを置きやがったからな。ほんと態度の悪いチームだぜ」
「もっとも今年に関して言えば、ピッチャーを励ます意味合いもあったかも。なにせ、昨年マウンドで泣きべそかいてた、木戸だものな」
谷口が「うむ」と相槌を打つ。
「イガラシの話では、揺さぶられると制球を乱すクセがあるそうだからな。もちろんカーブには手こずるだろうが、じわじわ攻めていけば、どうにか捉えられそうだ」
「……あの、ところで」
ここでイガラシは、割って入る。
「帰りのバスで、松下さんに会いましたよ」
なんだって、と周囲がざわめく。
「そうか……ということは、松下も聖稜を見にきてたんだな」
谷口は思いのほか、冷静に答える。
「ええ。話した様子だと、ひそかに闘志を燃やしてるって感じでした。キャプテンと同じことができるか、やってみると伝えてくれって」
倉橋が「お、おい」と目を見上げる。
「それって……少なくとも聖稜には、勝つ気だってことじゃないか」
「ううむ。ですけど、それは……」
渋い顔をしたのは、島田だった。イガラシは「そういやぁ」と思い至る。
「島田さんと丸井さんは、城東の試合を見てきたんですよね。実際どうでした?」
「……うむ。中学の後輩として、言いづらいんだが」
島田は丸井を目を見合わせ、話し始める。
「昨年と比べて、松下さんも城東も、そこまで良くなった印象はないな」
同感だ、と丸井もうなずく。
「俺っちは昨年のことを知らないが、あれじゃ打たれるだろうよ。ま……丁寧にコースを突いて、なんとか零封したが」
「けど……相手が言問(こととい)じゃ、参考にならないでしょう」
島田がそう言うと、上級生達は「ああ……」と溜息をつく。墨高は昨年、言問と初戦で当たり、あっさりコールド勝ちを収めていた。
「打撃の方は、どうなんです?」
拍子抜けしながらも、イガラシは質問を続ける。
「それもショージキ、さっぱりだったよ」
丸井が苦笑い混じりに答える。
「もっとも松下さんの方は、かなり腕を上げたらしく、堂々と四番に座ってたがな。一人で四打点、城東の全得点を叩き出してた。けど裏を返せば……あの人さえ注意しとけば、こわかねぇってことだ」
「……そ、そうでしたか」
腑に落ちないものを抱えながらも、イガラシは引き下がることにした。
この後、ナイン達はそれぞれ集めてきた情報を、順に発表していった。やはり話題は、初戦で当たりそうな聖稜と、次に勝ち上がってくるであろう川北に偏る。
お互いの情報共有を済ませた後、ナイン達は練習の準備に取り掛かる。
「なぁイガラシ」
着替えた頃合いに、谷口が問うてくる。
「キャプテン……」
「まだ納得いかないのか?」
「ええ……もちろん、うちを城東がおびやかすほどとは、ぼくも思ってませんけど」
野球帽を被り、相手に向き直る。
「ただ、さっきの松下さんの口ぶりが、どうにも気になるんですよ。あれはよほど、なにかハラを決めている様子だったので」
「……そうか、分かった」
谷口はふと、微笑んで言った。
「そんなに気になるのなら、たしかめに行こうか」
「はっ、なにをです?」
「城東と聖稜の試合、つぎの木曜日だったろ。一緒に見てこようじゃないか。たしか四時開始だったから、放課後すぐ向かえば間に合う」
キャプテンの思わぬ提案に、イガラシはしばし言葉を失った。
迎えた水曜日、荒川球場。
谷口とイガラシは、急いで階段を上り、内野スタンドに出る。眼下のグラウンドでは、すでに両軍のナインが、それぞれのベンチ前に控えている。あとは試合開始の合図を待つばかりのようだ。
「向こうに座りましょうか」
イガラシは、見晴らしの良いバックネット裏の席を指差す。
「うむ。そうしようか」
すぐに移動して、並んで座る。平日ということもあってか、客入りは少ない。おかげで好きな場所を選ぶことができた。
「あの……なにも一緒に、来てくれなくても」
イガラシが珍しく、恐縮した様子だ。
「わざわざ練習を抜けてまで」
「なに。倉橋もいるし、今日は田所さんが来てくれる。とくに問題ないさ」
笑ってから、谷口は「それに……」と表情を引き締める。
「口では『どこが来ても一緒だ』とみんな言っているが、これまでの戦績からして、内心では聖稜と決めてしまってる。そのアテが外れた場合を考えると、心配でな」
「分かります。そうなると、どうしても気が抜けてしまうでしょうから」
「うむ、それが怖いんだ。スキのある状態で臨めば、きっと苦戦させられる。もし勝てたとしても、つぎ以降に引きずるだろうし、他校にもつけ込まれてしまう」
「でしょうね。そうなったら、とても谷原と戦うところまで勝ち残れませんよ」
やがて、四人の審判団が姿を現す。そしてアンパイアが合図した。
「……ではっ。両チーム整列!」
両校の選手達が一斉に、グラウンドへと駆け出した。
挨拶の後、後攻めの城東ナインが、まず守備位置へと散っていく。すぐにボール回しが始められた。もともとは実力校なだけあり、動きは軽快である。
マウンド上。いまや城東のエースとなった松下が、投球練習を行う。
「ふむ、コントロールは良くなってるな」
谷口は手帳を広げ、さっと鉛筆を走らせる。
速球にカーブ、シュート、さらにドロップか。丸井と島田が言っていたように、ボール自体は昨年とそう変わらないみたいだ。打力のある聖稜に、これだと厳しいかな。
ふと横を向くと、イガラシも同じことをしていた。
「なにか気づいたか?」
「はい。さすがに中学の頃と比べると、スピードもキレも増していますね」
問うてみると、後輩は淡々と答える。
「もっとも……あれでシード校クラスを抑えられるとは、思えませんけど」
だからこそ、と続ける。
「どんな策を用意しているのか、気になるんですよ」
「俺も同感だよ」
谷口は深くうなずいた。
「松下だって、あのボールだけで聖稜をどうにかできるとは、さすがに思ってないだろ。なにか奇襲を仕掛けるのか、それとも別の方法か。お手並み拝見だな」
ほどなく、アンパイアが「バッターラップ!」と声を掛けた。
3.まさかの結末
聖稜の一番打者は、右打席に入る。長身で腕や足腰が太い。いわゆるパワーヒッターだが、横から「ああ見えて逆らわずに打ち返しますよ」と、イガラシが教えてくれた。
試合開始のサイレントと同時に、松下は振りかぶった。オーバーハンドのフォームから、第一球を投じる。その瞬間、谷口は思わず「おっと」と声を上げた。
ガシャン。打者の背中を掠めるようにして、速球がバックネットに当たる。すぐにアンパイアが、袋から替えのボールを取り出し、キャッチャーに渡す。
「いまの、すっぽ抜けでしょうか?」
イガラシが怪しむように、苦笑いを浮かべる。
「それにしては……けっこう、威力ありましたよね」
「うむ、そうだよな」
同じ印象を、谷口も抱いた。二人の疑念を裏付けるように、キャッチャーは何らジェスチャーをせず、松下も平然としている。
二球目、またも速球。今度は、内角高め……いや顔のところに来た。打者は、もんどり打って倒れる。
「……き、気をつけろ。バーロイ!」
起き上がると、松下へ怒鳴った。すかさずアンパイアがタイムを取る。
「きみ、口はつつしみなさい。それとピッチャーのきみも」
二人に注意を与える。
「たしかに危ないボールだった。せめて、帽子くらい取ったらどうかね」
松下は言われた通り、脱帽して僅かに頭を下げた。ほとんど無表情のままだ。黙してロージンバックを拾い、指先に馴染ませる。
「……こ、これは」
谷口は、頬の辺りが引きつる。
「ええ。わざとですね」
苦笑いして、イガラシが言った。
「な、なるほど。これが松下の策ってことか」
「どうも、そのようですね。ほめられたテじゃありませんが」
三球目。松下は、ようやくストライクを投じる。外角高めのカーブ。
パシッ。強引に引っぱった打球が、センター頭上を襲う。しかし、あらかじめ深く守っていた中堅手が、フェンスに背中を付けながらグラブを構える。捕球して、ワンアウト。
「ははっ、さすがのパワーだ。でも……ちょっと力んだか」
谷口がそう言うと、後輩は首を傾げる。
「それもありますけど……前の試合では、おっつけてライトへ打ててたんです。明らかに、ほんらいのバッティングを崩しちゃいました。これ、後に響いてきますよ」
「む。強引な打ち方してると、フォームがおかしくなってしまうからな」
続く二番打者が、左打席に入る。こちらは上背こそないものの、体全体は太い。やはりパワーがありそうだ。
初球。またも内角高めを狙ったボールが、打者の右肘を直撃する。
「……ぐっ」
打者が呻き声を発し、その場に屈み込む。松下は、また脱帽して頭を下げるも、やはり無表情は変わらない。
「まさか……ねらって当てたってこと、ないでしょうね」
頬の汗を拭いつつ、イガラシが言った。
「さすがに、それはないと思うが」
聖稜にはそう受け取られかねんな、と谷口は胸の内につぶやく。
次は、こちらもイガラシがマークしたという三番打者だ。ホームベース後方で二、三度素振りしてから、先頭と同じく右打席に入る。
その初球。松下が、またも顔付近に投じた。
「……ちっ。こ、こんにゃろ」
仰け反ってよけると、打者はバットを足元に放る。そしてマウンドへと詰め寄った。
「もう三度目だぞ。きさま、わざとやってんのか」
慌てて後続の四番打者が、タイムを取り駆け寄る。
「おい落ち着けって。気持ちはわかるが、おまえが退場になるぞ」
しばし球場内が騒然とした。
「ノーコンは引っ込め。城東は、ろくなピッチャーいねぇのか」
「もしケガでもさせたら、承知しねぇぞっ」
そんな野次も聴こえてくる。しかし、当の松下は涼しい顔だ。
「……ふふっ。やるじゃないか松下さん」
イガラシが含み笑いを漏らす。谷口は「こ、これっ」とたしなめた。
「なに感心してるんだ。おまえが言ったように、ほめられたテじゃないぞ」
「ええ、そうなんですけど。でも……ああして松下さん、動じてないですし。いっぽう聖稜は、かなりアタマにきてます。たしかに、効いてきてるのかも」
ほどなく三番が打席に戻り、タイムが解かれた。
再開後の初球。松下は、外角へカーブを投じた。これは彼の勝負球だ。打者は無造作に手を出し、引っかけてしまう。
「し、しまった!」
サード正面のゴロ。三番打者が、思いきり顔をしかめる。城東の三塁手は、捕球してすぐさま二塁へ。さらにボールは一塁へと転送された。
五-四-三。まさに一瞬のダブルプレーで、チェンジとなる。
「聖稜にとっては、嫌な終わり方だな」
谷口の一言に、後輩は「ええ」と首肯した。
「キーとなるべき一、三番が、あんな形で封じられちゃいましたからね。その二人が、ほんらいのバッティングをできないようだと、聖稜は苦しくなりますよ」
グラウンドでは、初回を無失点に抑えた城東ナインが、ベンチへと引き上げていく。その面々に、ふとイガラシが「あれっ」と声を発した。
「どうしたイガラシ」
「さっきダブルプレーを取った、城東のサードですけど……昨年からいました?」
「む。そういやぁ、初めて見る顔だな」
のっぺりとした顔の、大柄な選手だ。谷口は手帳をめくり、すぐに名前を確認する。
「大橋っていうのか。ううむ、やはり覚えがないな。きっと一年生だろうが……しかし、彼がなぜ気になるんだ? まぁゴロさばきは、体格のわりに滑らかだったが」
「どこかで見た覚えがあるんですよ」
思わぬ返答に、つい「なんだって?」と声を上げてしまう。
「たぶん中学での対戦チームだと思うのですが、いつだったか。井口や佐野のように主力級なら、覚えてるはずなんですけど」
思いあぐねるイガラシをよそに、聖稜ナインが守備につく。そしてマウンドには、やはりエースとなった木戸が登る。
すぐに投球練習が始められた。こちらは速球とカーブ、シュートの三種類だが、明らかに松下のボールよりも威力がある。周囲の観客から「すげぇっ」「さすが聖稜のエース」との声が漏れてきた。
「あのカーブだな。たしかに、けっこう速いぞ」
「ええ。とくに右バッターには喰い込んでくるので、打ちづらいはずです」
「む、城東がどう対応するか見モノだな」
二人が話し終えるのと同時に、アンパイアが「バッターラップ!」と声を掛ける。
すぐに城東の先頭打者が、右打席に入ってくる。直後の動作に、谷口は「やはり……」とつぶやいた。イガラシもこちらと目を見合わせ、深くうなずく。
打者はベース寄りに立ち、さらにバントの構えをしてきた。
「予想どおり、ピッチャーの弱点を突いてきましたね」
口元に笑みを浮かべ、イガラシは言った。
「うむ。明らかにインコース、とくにカーブを封じにきたな」
ほどなくプレイが掛かる。聖稜のキャッチャーは、構わずミットを内角に構えた。木戸もサインにうなずき、投球動作へと移る。
初球は、カーブが決まりワンストライク。しかし逆球となった。続く二球目は速球。これも内角をねらったが、外側にずれる。
「……うわぁ」
イガラシが頭を抱え、苦笑いした。
「マズイぞ。あのピッチャー、城東の策にハマっちまってる」
そして三球目。またも速球が、中に入ってしまう。打者は一転してヒッティングの構えをし、これを狙い打った。しかし球威が勝り、結果はセカンドフライ。
「ううむ、いまのも甘かったんだがな。ちょっとスイングが鈍かった」
「はい。丸井さんと島田さんが言ってたとおり、打力はありませんね」
イガラシはそう言って、「ですが」と付け加える。
「なんだい?」
「この後……もし球威が落ちてきたら、話はべつですが」
続く二番打者も、右打席に入った。前打者と同じくバントの構えをする。
「そういやバッターの構えのこと、丸井さんと島田さんは言ってませんでしたね」
「ああ。今日の秘策として、取っておいたんだろう」
後輩は「でしょうね」と、なんだか楽しげに言った。
「松下さん。なかなか手の込んだコト、やってくれるじゃないですか」
パシッ。ライナー性の打球が、レフトへ飛ぶ。周囲が「おおっ」と沸いた。しかし浅く守っていた左翼手の真正面、惜しくもツーアウト。
「この試合、かなりもつれるんじゃないか」
谷口の発言に、イガラシは「ええ」とまた首肯した。
二人の予想は当たった。
地力に勝る聖稜は、二回と四回に一点ずつ挙げ、二対〇とリードを奪う。
しかし……松下の挑発的なピッチングにより、だんだんとバッティングを狂わされ、もちまえの快打は影をひそめる。中盤以降は、チャンスさえ作れなくなっていた。
いっぽう城東打線も、木戸のボールに押され、なかなか捉えることができない。
それでも打者一人一人が、ピッチャーの嫌がる策をかく実に遂行。得点には至らないものの、じょじょに相手の体力をけずり、制球を乱していく。
そして試合は、あっという間に九回の攻防を残すのみとなった……
「……聖稜、ちょっとズルズルきちゃいましたね」
イガラシが吐息混じりに言った。
「ここで点を取らないと危ないですよ。零点に抑えてはいますけど、さっきからピッチャーの制球が乱れてきてます。替えようにも、こういう展開だとムズカシイですし」
「む。しかし松下も、かなり投げてるからな。そろそろ疲れが……」
その時だった。球場内に、ウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 城東高校、シートの変更をお知らせいたします。ピッチャーの松下君が、サードへ。サードの大橋君がピッチャーへ。それぞれ入れ替わります。
なにっ、と谷口は思わず声を上げた。
「聞いてないぞ。城東に、替えのピッチャーがいるなんて」
「む……ああっ」
傍らで、ふいにイガラシが腰を浮かせる。
「やっと思い出しました。あの大橋ってやつ、青葉の元リリーフ投手ですよ」
「え、そうなのか?」
谷口はまた驚かされる。
「はい。丸井さんがキャプテンだった時に、地区の決勝で当たりました。佐野さんのつぎに出てきたのが、やつですよ。当時、青葉の次期エース候補って言われてました」
後輩はそう告げて、一つ吐息をつく。
「丸井さんと島田さんは、なにも言わなかったので……初戦はきっと温存してたんでしょうね。最後の勝負所で、満を持して使うつもりだったんだ」
その大橋が、投球練習を始めた。オーバーハンドから、速球、カーブ、ドロップ……と投げ込んでいく。やはり速い。キャッチャーのミットが、迫力ある音を立てる。
「ははっ、さすがに成長してやがるぜ」
両手を頭の後ろに組み、イガラシは呆れたように笑う。
「さすがに甲子園クラスの投手と比べたら、まだ荒削りな感じですけど。でも……あれだけバッティングを狂わされた聖稜にとっちゃ、たまらないでしょうね」
「うむ、そうだな」
果たして、イガラシの言葉通りとなる。
大橋の快速球、さらには変化球も織り交ぜたピッチングに、聖稜の各打者はまるで対応できず。あえなく三者凡退に終わった。
「や、やるな……」
谷口は、苦笑い混じりに言った。
「ただいつもの聖陵なら、こんなカンタンにやられなかったろうが」
「ぼくもそう思います」
真顔に戻り、イガラシが返答する。
「すべて松下さんのシナリオどおり。ここまでやるとは、さすがに予想外でした」
「うむ。正直、恐れ入ったよ」
けっしてクリーンとは言えないが、まさしく勝つためにあらゆる手段を用いた戦いぶりだ。これはもう、執念のなせる業だろう。
松下……と、谷口は胸の内につぶやく。
そして九回裏……
すでに疲労困憊だった聖稜のエース木戸に、城東打線が襲いかかる。ヒットと二つの四球をもぎ取り、ツーアウトながら満塁と攻め立てた。
ここで迎えるは、四番の松下である。
「……これはさすがに、決まりでしょうね」
傍らで、イガラシが気の毒そうに言った。
「あの様子じゃ、もう気力さえ残ってませんよ」
マウンド上で、木戸が苦しげに顔を歪めていた。肩を大きく上下させ、顎や頬から汗がしたたり落ちる。
「そうだな」
谷口も認めざるを得なかった。
「だいぶ握力が落ちて、ほとんどキレもないからな。あとは打ち損じに期待するしか」
初球。木戸の投じたカーブが、真ん中高めに入ってきた。失投というより、もはやコースを突く余力はなかった。松下は、躊躇なくフルスイングする。
パシッ。鋭いライナーが、センターの頭上を襲う。
ツーアウトのため、三人のランナーは打球の行方を見ず、スタートを切る。聖稜の中堅手が、懸命に背走する。下がる、また下がる……そして飛び付く。差し出したグラブは、しかしボールに届かない。
「回れ回れ!」
「中継、バックホームだっ」
両チームの掛け声が、グラウンド上に交錯する。
二人のランナーが、悠々とホームベースを踏んでいく。さらに一塁走者までも、三塁ベースを蹴った。中継のショートから、矢のような送球。
直後、ガシャンという音。
ボールは……飛び上がったキャッチャーの頭上を遥かに超え、バックネットに当たる。一塁走者は、ヘッドスライディングで本塁へすべり込んだ。
「……セーフ、ゲームセット!」
アンパイアのコールが、むやみに甲高く響いた。同時にスタンドが沸き上がる。
グラウンドでは、聖稜ナインが各ポジションに崩れ落ちる。いっぽう三塁側スタンドのすぐ下には、殊勲の城東ナインがもつれ合い、喜びを分かち合っていた。
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