南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

金子達仁氏への反論と、一部同意できる点——日本とオーストラリアの比較に見る“スタイル”ということ

 ご周知の通り、W杯アジア最終予選にて、日本はオーストラリアに20で完勝。6大会連続の本大会出場を決めた。

 試合内容についての分析は、既に多くの方がなされているから、改めてここで触れることもないと思う。それよりも興味深かったのは、日本が従来の“ポゼッション”ではなく堅守+速攻スタイルで戦ったのに対し、オーストラリアは本来日本が得意としていた(とされる)ショートパスを主体とする“ポゼッション”サッカーで臨んだことから、サッカーの「スタイル」ということがメディア等で様々な意見が述べられるようになってきたことだ。

 例えば、スポーツライターとして著名な金子達仁氏は、次のように述べている。

—— なぜあれほど効果的だった日本相手のパワープレーをオーストラリアは捨てたのか。日本には通用しても、世界には通用しないと考えたからではなかったか。結果だけにこだわる外国人監督がやらなかったことを、現在だけでなく未来も視野に入れた自国出身の監督がやってみたいと考えたからではなかったか。

 今回の勝利で、ハリルホジッチ監督は一躍名将と祭り上げられるだろう。主体性のサッカーではなく、対策のサッカーこそが正しいと考える人も増える。長くポゼッションにこだわってきた日本サッカーは、大きな転換期を迎えるかもしれない。W杯出場はむろん喜ばしいことながら、今後の迷走の可能性も予感させる、今回の勝利である。

スポニチアネックス・H29年9月1日付のコラムより】

 私は、「勝つためにはあらゆる手段を講じるべき」だと考えている。したがって金子氏の論には賛成できない——ただし、一部同意できる部分もあるのだが。

 本大会を意識した戦術を採用して、予選で躓いてしまうなど、本末転倒である。また「対策のサッカーで勝っても未来がない」というのも、いわゆるサッカーの識者達がよく使う言い回しだが、この“未来”というのも何を指すのかよく分からない。

 まず、金子氏の言う「主体性のサッカー」をしている国とは、どこを指しているのだろうか。スペインかブラジルか、それともドイツか。あるいは“トータルフットボール”のオランダか。

 Jリーグ創設前からサッカーを取材している氏なら承知のはずだが、彼ら強国とて少しずつスタイルを変化させている。ブラジルでさえオランダの影響から逃れられなかったことは有名な話だし、そのオランダも堅守+カウンターを組み合わせることで近年復活の兆しを見せ始めている。

 特に強豪国であれば、相手国のマークも厳しくなる。従来の“スタイル”だけでは、通用しない場面も多々あったのだろう。その「対策」として、強豪国であっても一部“スタイル”を変えたのだろうが——その後、彼らは弱くなったか。答えは否である。

 さらに言えば、日本の“ポゼッション”“パスサッカー”もオリジナルではなく、Jリーグ黎明期に数多くの助っ人選手を招いたブラジル、最近ではFCバルセロナの影響が大きい。そこに、オランダ人であるハンス=オフトの組織サッカー、総力を重視するイビツァ=オシムらとの邂逅が作用し合い、現在の「日本サッカー」と言われる形がある。

 従来の“スタイル”に、新しい形を取り入れることは、何も今に始まったことではない。日本は、そうやって強くなっていったではないか。

 もっとも、金子氏の危惧も分からなくはない。確かに「対策」ばかり考えてプレーすると、いつの間にか自分達の“スタイル”を見失い、長期的にはチームの低迷につながるということも、ままあるものだ。

 ただ、金子氏は「なぜあれほど効果的だった日本相手のパワープレーをオーストラリアは捨てたのか。日本には通用しても、世界には通用しないと考えたからではなかったか」と述べているように、オーストラリアのサッカー“スタイル”の転換を肯定的に捉えている。それなら、なぜ日本のサッカースタイルの変化も同様にして肯定できないのだろうか。

 日本だって「アジアでは通用しても、世界には通用しないと考えたから」従来の“ポゼッション”“パスサッカー”から“デュエル”“堅守+カウンター”への転換を図ったである。変える方向性こそ逆だが、発想は日本もオーストラリアも全く同じではないか。

 だから、私はオーストラリアの“スタイル”転換を笑わない。発想自体は、間違っていないと考える。実行する相手を間違えただけだ。少なくとも日本に対しては、効果的ではないということ。同様にポゼッションが効果的である相手と、効果的でない相手がいるはずだ。次回からは、相手の特徴をよく見極めて、使い分ければ良いだけだろう。

 同じことは、日本にも言える。今回は“堅守+カウンター”でオーストラリアを下したが、だからといって従来の“ポゼッション”を捨てることもない。例えば次のサウジアラビア戦、分析の結果「ポゼッション重視のサッカーの方が効果的だ」と判断したのなら、オーストラリア戦とは違う戦い方を選択して欲しい(予選突破は決まっているが、戦い方の“幅”を広げるためにも勝ちにこだわるべきだと思う)。

 というより、日本はポゼッションを「捨てられない」はずだ。どっちみちアジア相手では(W杯本大会でも出場経験の少ないチーム相手なら)、望む・望まないに関わらず、ボールを保持する時間が長くなるのだから。

 ボール保持率(ポゼッション)か、それともカウンターか……という“二者択一”が良くないのだ。「ポゼッションもカウンターも両方できる」と、日本サッカーの器用さと奥深さを誇れば良いではないか。

 こう言うと、次のような批判があるだろう。「相手に合わせるリアクションサッカーだと、結局自分達の“スタイル”を見失ってしまう」と。

 それもまた、間違いではない。どんなサッカーを志向しようが、勝てない時はある。その時、自分達の“スタイル”を持っていないチームは、何をすればいいのか路頭に迷ってしまうのかもしれない。

 だが——スタイルとは、ポゼッションや堅守+カウンターといった「戦術」だけを指すものなのだろうか。

 そう……金子氏や多くの“リアクションサッカー”否定派が捉え違いをしているのは、おそらくここだろうと私は思っている。

 だからあえて、“スタイル”と括って書いた。本当のスタイルとは、プレーや戦術といった「目に見える部分」だけでなく、もっと広い意味がある。

 ヒントは海外にある。例えば、ドイツサッカーといえば「ゲルマン魂」、最後まで諦めない勝負強さを連想する方が多いだろうが、これは戦術のように目に見えるものではない。また、ブラジルのマリーシア。これも特定のプレーや戦術を指すものではなく、勝つための様々な駆け引き・勝利への執念を指す。

 いや、ヒントを出すまでもない。日本はすでに持っているのだ。相手に大怪我を負わせるようなラフプレーはしない「フェアプレー」。勝つためには全員が労を惜しまない「献身性」とチームとしての「団結力」。戦術をチーム全員が理解し実行に移す「知性」。試合が終われば、戦った相手と健闘をたたえ合う「尊重」。……これらとて、素晴らしい日本サッカーのスタイルと言えるはずだ。

 技術や戦術といった、目に見えるものだけではない。そこで戦う選手達の姿勢、心。そうした目に見えないものでさえ、サッカーのスタイルとなり得るのだ。

 そもそも日本人は、目に見えないものにも価値を見出すことのできる奥深い精神文化を持っているはずだ。戦術=スタイルという捉え方は、日本人本来の感性からすると、あまりにも表層的で味気ないのではないだろうか。

 目に見えるものだけがスタイルではない。形はどうであれ、日本人らしい心を表現したサッカーこそ「日本サッカーのスタイル」だと。いつの日か、そう胸を張って言えるようになって欲しい。