南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

本田バッシングに思う、日本人の”チーム観”の脆弱さ

 

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 サッカーW杯・ロシア大会の開幕が近づいているというのに、巷では本田圭佑へのバッシングが続いている。まったく不愉快でしょうがない。

 

 先に断っておくが、私もここ数年の本田のプレーぶりには、大いに不満である(こう書かないと、たちまち“本田信者”などと絡んでくる者がいたりするから、面倒だ)。所属クラブで出場機会に恵まれない時期が続いたこと、監督の起用法など様々な要素があるが、一時期の「本田がいれば負けない」とさえ感じさせた頃の圧倒的なパフォーマンスは、今やすっかり影を潜めている。これでは“不要論”が囁かれるのも無理はない。

 

 ところが、メディア等でよく聞かれる本田バッシングの中身を見てみると、どうもビッグマウスと言われる彼の言動に対するものが少なくない。曰く「口だけ」、曰く「(監督に)造反した」、曰く「自己中心的」などと。

 

 だが考えてみて欲しい。過去、W杯本大会で結果を出した日本代表には必ず、放っておけばチームから外れてしまいそうな“個性派”がいたではないか。日韓W杯では中田英寿松田直樹南アフリカ大会では田中マルクス闘莉王中村俊輔、そして本田圭佑

 

 一方、惨敗したドイツW杯では、中田や中村俊輔ら“個性派”が悪い意味で浮き上がってしまった。この違いは何なのか。

 

 単に「チーム作り」が成功したか、失敗したか――の違いだけである。

 

 日本人の特性として、“和を重んじる”ということが挙げられる。それがスポーツになると、「チームプレー」が重視され「個人プレー」は疎んじられる傾向にある。

 

 実際は、“どちらも”勝つためには必要である。個人プレーしかできないチームが弱いのと同じように、チームプレーしかできないチームもまた、弱い。「チームプレーか個人プレーか」という単純二元論で括られるものではないのだ。

 

 うんざりしてしまうのは、本田バッシングの原因となった一つが、ハリルホジッチ前監督の「(W杯出場を決めたオーストラリア戦で、試合に出られず)不満を持つ選手が二人いた」とコメントだったことだ。こんなことを言えば、(事実はともかく)その日控えに回されていた本田や香川真司らに疑いが向けられ、彼らが批判に回されることは容易に想像できるではないか。

 

 まったく「選手を守ろう」という気持ちがない。自己中心的とまでは言わないが、最後の最後まで“思慮の足りない”指導者だったと思う。この一件を見ても、やはり解任すべきだったのだと首肯せざるを得ない。

 

 話は逸れたが、本田をプレー面でなく、「チームの和を乱す」などという理由でバッシングするのはアン・フェアだ。本田のような“個性派”選手を、如何にしてチームから浮き上がらないようにしていくか――これこそチーム作りの核心であり、指導者にとって「腕の見せ所」でもある。

 

 本田の自己中心的な言動のせいで、ハリルホジッチが解任させられた――と本田を批判するのは、実はハリルホジッチに対しても失礼なのだ。それは本田をチームの一員として機能させる力が、ハリルホジッチにはなかったと認めるのに等しい。

 

 あえて書くが、本田“程度”の個性すら受容できない日本代表で、どうする。そんな「ひ弱なチーム」が、ツワモノ揃いのW杯本大会で、勝てるはずがない。

 

 西野朗新監督に期待するのは、まずその点である。戦術どうこう以前に、まず個性豊かな23名の面々を、一人残らず“チーム”としてきちんと機能させること。その上で、ピッチに立った11人には、何よりも“迷いなく”プレーさせること。それが叶えば、勝てるかどうかは別にして、案外良い勝負になるのではないかと思う。

 

 個人的には、そこまで本田の熱狂的なファンというわけではないのだが、あまりにも理不尽な批判(?)が世に溢れているので擁護することにした。

 

 本田をプレーではなく、その言動を以って「チームの和を乱す」とバッシングしてしまうところに、日本人の“チーム観”の脆弱さがよく表れている。

 

 チームプレーか個人プレーか、パスサッカーかカウンターサッカーか、……などという単純二元論は、ハイレベルな勝負の世界において足枷にしかならない。願わくば、サッカー日本代表の活躍によって、早くそうした二元論から脱却できるようになって欲しい。