南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

本当に批判すべきことと、一見正しいようで危うい“条件” ――サッカー日本代表、次の4年間へ

 

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 当ブログにて、私は散々ハリルホジッチ前日本代表監督への批判を繰り返してきたが、それも前回のエントリーで打ち止めにしようと思う(もし彼が日本サッカーに対してまた妙な発言をすれば、書いてしまうかもしれないが)。彼は彼の道を往き、そして我々は我々の道を進んでゆくだけだ。

 

 メルシー・ヴァヒド。あなたとの旅は、残念ながらお互いに苦い思い出となってしまったが、あなたがこの遠い異国の地にて、日本サッカーを強くするために情熱を注いでくれたことは、決して否定しない。我々にとっては、ブラジルW杯での惨敗、アジアカップ早期敗退とアギーレ元監督解任という逆風の中、あなたが(方法は間違っていたかもしれないが)共に戦ってくれたことは、深く感謝している。

 

 願わくは――近い将来、あなたの率いるチームと我々日本代表が、雌雄を決する日が来ることを。その試合が、互いの哲学をぶつけ合う好勝負となることを。

 

 

 さて、巷では日本代表の健闘が称えられている一方、ハリルホジッチを解任した日本サッカー協会に対しては、依然として厳しい声が浴びせられ続けている。

 

 確かに、ロシアW杯へ向けて日本代表のチーム強化が順調に進められたとは言い難いから、批判があるのは当然である。ただ問題は、“何を”批判すべきなのか、ということだ。

 

 ハリルホジッチを解任したことか? これは断言して良いと思うのだが、ハリルホジッチのままなら今大会の躍進は100%なかった。解任に関して、長谷部誠本田圭佑ら主力選手達からネガティブなコメントが一切聞かれなかった一方、解任前の欧州遠征のマリ戦・ウクライナ戦では、チームの雰囲気が悪化しているという事実を、複数のメディアが報じている。チーム作りの失敗は明らかで、このまま放置すれば、戦術以前にチームが崩壊したジーコJAPAN・ドイツW杯の二の舞だった。

 

 では、ハリルホジッチを招聘したことか? よく批判の槍玉に上がるのが、田嶋幸三協会会長だが、ハリルホジッチを招聘したのは田嶋氏ではなく、現レノファ山口監督の霜田正浩氏だ。霜田氏から引き継いだ田嶋氏のハリルホジッチ体制へのサポートが万全だったかどうかは別として、現体制では限界だと判断したのなら、解任を決断するのは組織の長として当然だろう。

 

 それなら、霜田氏を批判すべきなのか? あの当時は、ブラジルW杯惨敗のショックから、ザッケローニ体制で志向されたポゼッションサッカーに対する否定的な空気が強まり、勝つために、より現実的な路線でということから、ハリルホジッチを招聘する流れとなったはずだ。つまり霜田氏のハリルホジッチ招聘は、当時のサッカー関係者の意見及び世論に沿うものだったのだ。それを今になって、霜田氏だけを批判するのはアンフェアだろう。

 

 私も正直、一時期の“バルサのサッカー”に象徴される、ポゼッションサッカーへ極端に傾倒する風潮に嫌気が指していたので、ハリルホジッチが「もっとバランスの取れたサッカーをしてくれるのではないか」と、就任当初はかなり期待もしていた。だから、ハリルホジッチを招聘した意図自体は悪くなかったと思う。

 

 では一体、何を批判すべきなのだろうか。

 

 誤算だったのは、ハリルホジッチがあまりにもポゼッションサッカーを否定し過ぎたことと、彼の戦術云々以前のチーム作りが、予想外に“下手”だったこと。

 

 協会の長であれば、ハリルホジッチの戦術とチーム作りを間近に見ているか、もしくは協会の人間から報告を受けていたはずだ。そこに問題を見出していたのなら、「ここは修正してくれ」ともっと直接的に要求すべきだったかもしれない(これは霜田氏に限らず、後を継いだ田嶋氏にも言えることだが)。そうしたやり取りがあったのなら、解任するに至った場合でも、その理由を世間にも、ハリルホジッチ本人に対しても、もっと明快に説明することができたはずだ――我々のオーダーするチーム作りができないようだから、これでお別れすることになった、と。

 

 しかし問題は、サッカー協会自体に「こういうチーム作りをすべき」という明確な指針が、果たしてあったのかということ。それがなければ、どうしてもハリルホジッチにチーム作りを“丸投げ”してしまうことになる。

 

 私は、協会に明確な指針がなく、ハリルホジッチに対してチーム作りの問題点を指摘することができず、丸投げに近い形だったのではないか――と推測している。だから解任時期も遅れ、結果としてあのようなドタバタ劇を演じることとなってしまったのだろうと。

 

 批判すべき点は、協会が日本代表のチーム作りにおける「明確な指針」を持てなかったこと。……そこに尽きるのではないか。

 

 ただ……サッカー協会を批判できる資格のある人間が、果たしてどれくらいいるのだろうか。前述したように、ハリルホジッチが招聘されたのは、「現実路線の勝てるサッカーをしたい」という、当時の圧倒的な世論を受けてのものだったからだ。

 

 日本代表は、どんなサッカーを志向して、どのようなチーム作りを行っていけば良いのか? ……この問いに、根拠を持って答えられる人間が、果たしてどれくらいいるのだろうか。誰も彼も、やれ世界ではこう欧州ではこうだのと、他の強豪国の例を引き合いに出すだけで、きちんと“日本を主語にして”答えられる人間は、まだまだ少ないのではないか。

 

 これと関連して、もう一つ述べておきたいことがある。

 

 日本代表監督に求める条件として、よく「日本サッカーに足りない部分を埋めてくれる人物」という意見を耳にする。ハリルホジッチが招聘されたのも、同様の理由だったと記憶している。

 

 一見すると、正しい意見のように思われがちだが……私は、この「足りない部分を埋めてくれる」という条件は、そろそろ見直すべきではないかと考える。

 

 クラブチームなら、妥当かもしれない。だが代表チームは、クラブチームと比べて活動時間が非常に短い。選手をセレクトし、基本戦術を植え付け、大事な試合に向けて心身のコンディションを整える。……それだけで、もう手一杯だろう。

 

 そもそも日本サッカーの「足りない部分」とは、何を指すのか。例えば、フィジカルコンタクトの強さ(ハリルホジッチの言っていた“デュエル”)。例えば、シュートの精度(長年“決定力不足”と言われ続けている点)。例えば、試合運び。……これらをすべて代表監督に託すのは、現実的でない。「足りない部分」を埋めていくのは、それこそ“日本サッカー全体”で取り組んでいくべき性質のものだ。

 

 そう考えると、一見正しいように思える「足りない部分を埋めてくれる」という条件は、実はかなり危うい。こんな大事を、一代表監督に求めてしまった――それ自体を、日本サッカー協会のみならず、我々は大いに反省すべきではないのか。

 

 結局のところ、日本のサッカー文化自体が、まだまだ未熟だったのだ。まずそこを認めるしかないだろう。