南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

「現実は――」としたり顔で言うんじゃない! ~ 翁長前知事と辺野古移設に纏わる言説について ~

 

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 このところ、翁長雄志現沖縄県知事の追悼特番が、しばしば地元のテレビ局にて放送されている。多くが、最後まで辺野古基地移設に反対した“不屈の政治家”としての、彼を讃える内容である。ほとんど英雄扱いだ。

 

 私はその風潮に、強い違和感を覚える。

 

 翁長前知事が、沖縄の為に尽力してきたことは、私も否定しない。また後に詳述するが、彼が強く「辺野古移設反対」だと主張し続けたことは、沖縄にとっても、そして日本全体にとっても、良かったと思っている。

 

 ただ――翁長前知事が“悲劇の英雄”扱いされることによって、必然的に彼と意見の異なる者、すなわち「辺野古移設に賛成」という意見の者が、まるで死者に鞭打つロクデナシのように思われかねない。

 

 彼の死を悼む気持ちは分かる。しかし、それと「辺野古移設の是非という本筋」は、関係のないことだ。感傷に囚われては、冷静な議論ができなくなる。

 

 辺野古移設に反対する方へ、ずっと尋ねたいことがあった。あなたは、そもそも辺野古移設に「なぜ」反対なのですか、と。

 

 きれいな海が汚される? これは基地建設に限らず、単なる埋め立て事業とて同じだろう。沖縄だけ不公平だ? 確かにそうだが、だから「他の都道府県も米軍基地を引き受けてください」と、嫌われる覚悟で言えるのか。「命(ぬち)どぅ宝」? 他国に侵略されてしまうリスクを前に、そんなキレイ事を言っている場合か。

 

  残念ながら日本の周辺には、好戦的な国が揃いすぎている……どことは言わないが。夢見る少年少女ならともかく、今のご時世、ひたすら「平和」を唱えさえすれば自国の安全が守られると信じていられるノーテンキな者は、大人ではほとんどいないだろう。

 

 しかし、かといって「現実は――」としたり顔で語られるのは、「チョット待てよ」と叫びたくなる。

 

 今の沖縄は、米軍基地を引き受けるのが“現実的”だとよく言われる。いや、私自身……安全保障上の問題や日米関係など様々な事情から、すぐに基地を全撤去するわけにはいかないということも、重々承知している。

 

 ただ、「現実は……」の一言で済まされないような、多くの苦難を背負わされてきたのが、ここ沖縄だということも、また事実なのだ。

 

 一昨年、うるま市で発生した女性暴行殺害事件の報を聞いた時。私は久しぶりに、全身の血が逆流するような怒りを覚えた。あまりにも惨い、許されざる出来事だ。そして同時に、この事件が米軍基地の存在によって引き起こされたこと。そのどうしようもない理不尽さを思うと、ただただ悲しかった。

 

 こういうことがあるから、私は基地“賛成派”にはなれない。しかも同様の事件は、過去に幾度となく発生している。やはり、これは沖縄にあってはならないものだと、強く思わずにはいられない。

 

 これも感情論か? 感情論だとしても、斬り捨ててよいものなのか。何が安全保障だ。こうして罪なき人が、命を奪われる“現実”があるのだぞ、と……

 

 さて――前述の「問い」だが、私ならこう答える。

 

 辺野古移設の是非については、“今は”判断できない。しかし将来的には、沖縄からすべての米軍基地を撤去する。この方向性で基地問題の解決を図るべきだ。なぜなら……

 

 なぜなら……基地が存在し続けることは、私にとってウチナーンチュとしての、さらには日本人としての“誇り”が、著しく傷付けられるからである。

 

 ウチナーンチュとしての、そして日本人としての、“誇り”。抽象的なようだが、実はこれこそが、最も重要なキーとなる。

 

 前述の事件。私は沖縄の人間だから、この件に憤った。だがもし、私が他府県の人間で、安全保障のために沖縄が基地を受け入れていることを、十分理解していたら……きっと、やましさを感じていたと思う。

 

 もっと言えば、これは――“恥”である。自分達の安全を守るため、他県に外国の軍隊が駐留することを黙認し、結果……一人の罪なき女性が命を奪われた。これは“恥”以外の何者でもない。

 

 被害者面するつもりはなし、自分にそんな権利があるとも思わない。ただ、せめて……この「痛み」を理解して欲しい。色々なことを考えた末、結果として、やっぱり基地を受け入れることになったとしても。

 

 大体……言われなくても、分かっているのだ。少なくとも“一般の”沖縄県民は。

 

 経済面でも、安全保障の面でも、今すぐ基地を撤去するわけにはいかないと。だから公の場でなければ、はっきり「基地反対ばかり唱える方がおかしい」と口にする人も少なくない。

 

 ただ同時に、そういう人達だって……内心は思っているのだ。「基地がなくて済むのなら、それに越したことはない」と。思ってはいても、どうしようもない現実があるから、“仕方ないさ”と諦念しているだけだ。

 

 この辺りの、微妙な心の機微を理解できない限り、日本政府は沖縄県民を説得することなど、到底不可能である。

 

 他にも、某元自衛官が書いた「アメリカのお陰で沖縄は豊かになった」だの、「(基地で)お金がもらえるからいいだろ」だの、乱暴かつ下品な言説(?)を目の当たりにしたが、イチイチ突っ込む気にもなれない。ここまで共感能力がないというのは、もはや日本人の感性ではない。

 

 

 もっとも、これも人の世の常だが……“理想”は“現実”の海へと埋没していく。

 

 一般の沖縄県民は、基地がある現実に「慣れ切っている」という面もある。私自身、コンビニで店員のアルバイトをしていた時や、地元のバーで飲んでいた時に、米兵らしき青年と楽しく会話したこともある。そんな日々を過ごしていると、いつしか“理不尽”の存在さえ忘れてしまいそうになる。

 

 悪いことではないと思う。ただ、きっと……それだけではダメなのだ。

 

 人は誰しもが、歴史の中に生きている。そして“私”が平穏に暮らしている裏では、歴史の矛盾に巻き込まれ、命を散らしていった、あるいは苦難の人生を歩むこととなった、数多くの人達がいる。

 

 たとえば、件のうるま市の女性。たとえば、戦中・戦後を生き抜いた祖父母達。たとえば……戦争で、命を散らした多くの人々。

 

 私も、歴史の中に生きている一人である以上、その人達の存在を忘れることはできない。これが――私にとって、ウチナーンチュとしての、そして日本人としての、“誇り”を守るということ。

 

 

 翁長雄志は“辺野古移設反対”論を唱えながら、「沖縄の誇りを取り戻せ」と訴えた。それは、ある方面の人々にとっては“理想論”にしか聴こえなかっただろうし、私自身そこまで辺野古移設反対にこだわる必要は、ないとも思っていた。

 

 ただ、こうも思う――翁長が強く“辺野古移設反対”を唱え続けたことで、少なからぬ人々の心に眠っていた“誇り”を呼び覚ます、キッカケとなったのではないかと。

 

 反対だの賛成だの唱える以前に、もっと根本的に大切なものがある。

 

 何度でも言う。ウチナーンチュそして日本人としての、“誇り”。これを持っているからこそ、胸の奥に抱く「痛み」――まずそれを分かち合うことから、始めようではないか。