第1話「変わる“リアル”」の巻
※一部推敲(2019.3.30)
正門を出ると、学ラン姿のグループに出くわした。三、四……いや五人か。
暗がりで顔はよく見えないが、バットケースの影が揺れているので、野球部だと分かった。背格好から、おそらく上級生だろう。何やら談笑しているようだ。
「お先に失礼します」
イガラシは、すれ違いざま、制帽を取って軽く会釈した。
「おお。イガラシかぁ」
聴き慣れた声だ。その影がこちらに振り向く。グループの中で、ひときわ小柄な少年。こう言うと本人は激怒するだろうが、おにぎりのような顔の輪郭。
「丸井さん、まだ残ってたんですか」
「イガラシ。おまえこそ、こんな時間まで何してたんだよ」
「部室を掃除してたんですよ。床がちょっと汚れてたので」
「掃除? 誰かに頼まれたのか」
丸井とは別の声が問うてくる。上級生の名前は、元々顔見知りだった者以外、まだ全員は覚えられていない。
「別に頼まれたわけじゃないです。ただ、強いチームは、そういう所ちゃんとしてるので」
「ははっ。だとよ丸井、これじゃあどっちが先輩か分かんねぇな」
「元墨谷二中のキャプテンなら、これぐらい当然だよ。なっイガラシ」
雲が晴れ、月明かりが差してきた。丸井達の顔が照らし出される。
「そういやぁイガラシ、試合デビューおめでとう」
丸井が、ぽんと左肩を叩く。
「高校では初出場だったよな。しかも初打席でいきなりタイムリー。相手はあの谷原のエース・村井さんから。やっぱオマエ、すげぇよ」
「よしてくださいよ、あんなラッキーヒット」
照れではなく、本心から答える。相手投手の速球に押され、辛うじて合わせた打球が、幸運にも一塁ベースに当たり高く弾んだ。とても「打った」という感触ではない。
「おまけに、試合があんなんじゃ」
「分かった分かった。けど、もう終わったことだ。あんまり落ち込むなよ」
グループの中で長身の少年が、励ますつもりなのか優しげに言った。
「落ち込む? 落ち込むって、何にです?」
思いを率直に返すと、相手は明らかに戸惑った顔になる。あちゃぁ……と、イガラシは軽く後悔した。
こういうトコなんだよな、俺が先輩に嫌われるのは。
野球を始めた幼い頃から、上級生や指導者に「生意気」だの「口の利き方がなってない」だの「もっと目上の者を敬え」だの、散々言われてきた。
その度に、並外れた野球の実力を見せ付けることで、周囲を黙らせてはきたが。ただ、中学時代にキャプテンを務め、人の上に立つ経験を経ると、自分のような人間がチームにいるとやりにくいということも、段々分かってきた。
考えてみりゃあ、谷口さんって凄かったんだな。俺みたいなのを一年生でいきなりレギュラーに抜擢して、他の奴らの不満も抑え込んだ上で、しっかりチームをまとめ上げたんだもんな。フツ―できねぇよ、あんなこと。
「わりぃ、俺コイツと話があるんだ。じゃあな」
仲間に別れを告げ、丸井はイガラシの背中を押しながら、歩き始める。
「ほら行くぞ。イガラシ」
「あっハイ」
二人だけになると、丸井は「おまえなぁ」と吐息混じりに言った。
「あぁいう時は、本心と違っても『大丈夫です』とか『ありがとうございます』とかって言うもんだぞ」
声の感じから、怒ってはいないらしい。この人も丸くなったな、とイガラシは思った。以前の丸井なら、きっと青筋を立てて声を荒げていただろう。
「ですね。スミマセン」
素直に返答すると、丸井はきょとんとした顔になった。
「……オマエ、なんか丸くなったな。まさかイガラシに『スミマセン』なんて言われるとは思わなかったよ」
「いつまでもガキじゃないんで。丸井さんを見習います」
「オイやめろよ、照れるなぁもう。で……俺の何を見習うって?」
「先輩への上手なゴマの摺り方ですよ」
「なっこのヤロ、やっぱしからかってんのか」
分かりやすく声を荒げたので、おかしくて吹き出してしまった。短気で強情で、少々扱いづらい先輩ではあるが、こういう単純なところが可愛らしくはある。
おまけに情が厚く、涙もろい。イガラシは、丸井のことが嫌いではなかった。もっとも出会った当初はお互い険悪で、一年が経過した後も「オマエのことなんか今でも好きじゃねーよ」と言われたきりだが。
荒川が、向こう岸とこちら側を縦に縫い合わせるように、長く長く伸びていた。水面には街灯が点々と映り、揺れている。
二人とも、野球用バッグを左手に提げていた。荒川沿いの道を歩いていく。川音に履き慣れない革靴の音が重なり、静かに響く。
そういえば、高校生として最初の一週間が過ぎたのだなと思った。思っただけで、さほどの感慨はないが。
「……疲れました」
少し手前を歩いていた丸井が、こちらを振り返る。
「疲れる? オマエがかよ」
同年代の中でも小柄とはいえ、体力には人一倍……どころか並外れて秀でているはずだ。しかし、肩といい腕といい足といい、この全身に纏わりつくような疲労感は、何だ。苛立ちすら頭をもたげてくる。
「……谷口さんが」
丸井と目を合わせることなく、イガラシは独り言のように呟いた。
「谷口さんが、あんな顔するなんて」
「うん? 谷口さん……あぁ、そりゃあオマエ。あんな試合をした後だったから」
この日、イガラシの所属する墨谷高校野球部は、都内屈指の強豪・谷原と練習試合を行っていた。
言うまでもなく、谷原は都内でも三本の指に入る野球名門校。特に現チームは、つい十日前まで開催されていた春の選抜高校野球大会に出場し、ベスト4。準決勝では大会の優勝校に接戦の末敗れたものの、全国トップレベルの力を証明していた。
谷原の“控えメンバー”に対し、墨谷は相手投手の制球難や守備の乱れに乗じて五点を先取する。
ところが、レギュラーと替わってからは投手陣が打ち込まれ、十九失点。打線も六回以降は無安打に終わる。まさに圧倒的な力の差を見せ付けられる結果となった。
この試合、イガラシは五回途中から代打で出場していた。結果的には五点目を叩き出す適時打となったものの、相手投手の球威に押された印象が強い。とても納得できる形ではなかった。
五回裏からはショートの守備にも着いたのだが、幾度となく内外野の間を破り、外野手の頭上を越えていく打球の処理にばかり追われた。
何よりも、谷原各打者のスイングスピードの速さ、際どいコースに投げ込まれた球を苦もなく弾き返すミートの精度、閃光を思わせるような打球スピードに、ただただ圧倒される。
それ以上にイガラシにとって衝撃的だったのは、帰りの電車内で、キャプテンを務める三年生・谷口タカオが見せた、蒼白な顔だった。
谷口とチームメイトになるのは、中学に続き二度目となる。当時、イガラシは新入部員だった。期間にすると一年弱の付き合いでしかないのだが、この男との邂逅がなければ、その後の自分はなかったと思う。
元来、誰かに憧れたり影響を受けたりといった純情な質ではない。そんなイガラシにとってすら、キャプテン・谷口タカオの存在は、あまりにも大きなものだった。
墨谷二中野球部への入部当初、イガラシは「何てこんな人がキャプテンなんだよ」と、胸の内で毒づいていた。
第一印象として、実直そうではあるものの、どう見ても不器用で頼りなげだ。さらに、名門として知られる青葉学院中学野球部に所属していたらしいが、谷口のプレー自体は驚くようなセンスを感じさせるものではなかった。
正直、一プレーヤーとしてはまったく負ける気がしなかったし、“こんな人”がキャプテンに選ばれるようなチームなのだから、どうりで弱いはずだと得心した。
ところが……地区予選を勝ち上がり、あの青葉へ挑戦する過程の日々の中で、イガラシは谷口の“凄さ”を次第に思い知らされていくこととなる。
一言でいえば、谷口タカオとは「不屈の男」だ。
青葉との再戦を間近に控え、中学レベルではあり得ないほどの圧倒的戦力を誇る相手に挑まなければならない焦燥感、さらに周囲の喧騒にもエネルギーを吸い取られ、当時の墨谷二中野球部は、チーム全体が浮足立っていた。
そのさなか、投手経験のなかった谷口がピッチング練習を始めた時は、さすがに呆れた。この行動は、イガラシ自身が「青葉相手に一試合投げ切る自信がない」とこぼしたことがきっかけだったのだが、あまりにも無謀に思えた。
普通のチームが相手でも、急造投手はかなりのリスクが伴う。まして、相手はあの青葉だ。「やるだけムダだ」と陰口を叩く者も、少なくなかった。
イガラシも当初、チームメイトと同様の感想を抱いた。だが同時に、青葉戦へ向けての強化練習の合間を縫ってはブルペンへと向かう谷口の姿に、イガラシはある種の迫力を感じた。
自分と同じく、野球選手としては小柄なその背中が、力強く語っていた。
――オレは絶対諦めないぞ。イガラシ、おまえはどうだ? と……
あの頃、何度も自問自答した。
同じことが、俺にできるのか。過去ピッチャー経験はない。相手はあの青葉。それでも勝つために、不可能と思えることにも挑戦する……本気で、勝つために。
思えば、地区予選を勝ち上がった頃からそうだった。
日を追うごとに苛烈さを増していく練習に、多くの部員が付いていけず「キャプテンに抗議しよう」という声が上がった時も、神社の境内で、傷だらけになりながら父親と特訓を続ける谷口の姿に、誰もが言葉を失った。
絶対に諦めない――口にするのは容易だが、それを実現させることの、いかに困難なことか。
イガラシも“負けず嫌い”の度合いでは人一倍だと自負していたが、さすがに「この人には敵わねぇな」とこっそり呟いたこともある。
谷口の「諦めない」心は、やがて周囲へも伝播していく。気付けば、バラバラになりかけていたチームが、いつの間にかまとまり始めていた。その結束力は、日に日に強度を増し、試合前日には誰もが「負ける気がしない」と口にするまでになった。
チームの溢れる力は、あの青葉をも圧倒する。力投に肩を痛め、消耗しながらも、イガラシは不思議な感覚を抱いていた。
俺達が、このチームが、負けるはずがない。最後は必ず勝っている……
予感は外れなかった。ついに墨谷二中は、あの青葉を下し「全国優勝」の栄誉を手にする――この試合が、翌年夏の都大会優勝、そしてイガラシ達が三年生となった夏の全国制覇へと繋がる“墨二中伝説”の幕開けとなった。
やがて、川音は後方へと遠ざかる。住宅街の路地裏を歩いていると、家々から夕餉の香りが漂ってくる。そこに、プロ野球のラジオ実況の声が被さる。
――さぁ六回裏、巨人軍の攻撃。ランナー一・三塁、巨人軍絶好の追加点のチャンスです。バッターは王。ピッチャー、カウント1-3から第六球……打った、打った大きい! 入った、入ったぁ、スリーランホームラン! 王、早くも今季第10号の特大アーチ!
各家から、歓声が聴こえてくる。
「へぇすげっ。王選手、またホームランだってよ」
丸井が、無邪気な野球少年の顔で言った。
「丸井さん、プロの試合に興味あるんですね」
「当たり前だろ。日本最高峰の野球だぜ。イガラシ、オマエは興味ねぇのか」
「はい。正直……他人の野球は、あんまり」
「なんでぇ。オマエそれでも、野球部かよ」
つまらなさそうに言い捨てると、丸井は家々から漏れるラジオ実況に聴き入った。
「一時期ほどでないとはいえ、王・長島のクリーンアップは健在ですね」
「ああ。特に、王の一本足打法は……ん?」
怪訝げな顔を向けられる。
「……なんだよオマエ、興味ないんじゃなかったのかよ」
「丸井さんほど熱中はしてないってだけです。毎日新聞を読んでいたら、嫌でも覚えてしまいますよ。俺……記憶力はいい方なので」
「記憶力が“いい方”だって、イガラシが言うと嫌味だぞ。一年の奴らが噂してたけど、オマエ、入試ではトップだったそうじゃないか」
「違いますよ。トップは千原って奴です。確か父親が大病院の院長で、跡取り息子なんですよ。俺はそいつに一点負けて、三位でした」
「どっちも変わんねぇよ。ったく、俺は編入でやっとかっと墨谷に入れたっていうのに」
「そういえば丸井さん。今度の試験も赤点で、追試受けなきゃいけないそうですね。何なら、勉強一緒にやりましょうか」
「ばっバカにすんなよ。いくらなんでも、一年坊主に勉強習わなきゃいけないほど、落ちぶれてねぇよ」
ふいに目の前を闇が広がった。いつの間にか路地裏を抜け、表通りに出ていた。
「……谷口さんなら」
ふと呟いていた。
「同点の九回裏、ノーアウト満塁で王選手を迎えたとしても、絶対諦めないですよね」
「……ああ、そうだな。谷口さんなら」
丸井も同調する。今、丸井さんもきっと、自分と同じ谷口さんの表情を思い浮かべているのだろうなと、イガラシは思った。
絶対に“諦めない”――口にすることは容易でも、それを実現させることの、どれほど困難なことか。
イガラシが知る限り、谷口はそれを成し得た、数少ない一人だ。
中学時代の実績では谷口を上回るイガラシも、「諦めない」心とそれを「実現する」力が谷口以上に備わっているかと問われると、すぐさま首肯できる自信はない。
自分の代での“全国制覇”には、谷口の築いた土台があったことを、イガラシ自身認めていた。無論、誰の前でも口にしたことはないが。
それ故に――蒼白した谷口の顔が、信じられなかった。かつての自分であれば「キャプテンがそんな弱気でどうするんですか」と、躊躇なく喝を入れていただろう。
だが、高校生となった今、動揺する先輩に何も言葉を掛けられなかった。
少しは上下関係を弁えるようになった……わけではない。今でも自分のスタンスを変えるつもりはないし、相手が誰であっても、勝つためであれば言うべきことは言うつもりだ。
それがなぜ、できなかったのか……言うまでもなく、谷原になすすべなく圧倒されたのは、イガラシも同じだったからだ。
中学レベルとは明らかに格が違う、スピードとパワー。ちょっとやそっとの努力では埋められない、圧倒的な力量の差がそこにはあった。あまりの違いに、半ば感心すらしていた。
ところが……あの谷口の姿を目にした途端、屈辱が溢れ出た。谷口に対してではなく、「悔しさ」さえ置き去りにしてしまった自分に、今は無性に腹が立つ。
やがて三叉路に差し掛かる。丸井とは、ここで帰り道が別れる。短く挨拶を交わし、イガラシは東向けに歩き出した。あとそこから数百メートルほど進めば、自宅の中華ソバ屋の看板が見えてくる。
一人になり、けど……と呟きが漏れる。
現実問題として、勝てるのかよ。全国四位だぜ? 今の墨谷と谷原を比べたら、それこそ高校生と巨人軍くらいの差があるんじゃねぇのか。高校生が巨人軍に勝つなんて、そんな話リアルにあるわけ……
「リアル、かぁ」
あれは中学三年の冬の定期試験だったか。英語のテストで“real”という語の意味を答える問題が出されたことがあった。当然、難なく解答欄に書き込む。
その後、規定時間を三十分近くも残してすべての問題を解き終え、内心「いくらなんでも簡単すぎ。先生、もうちょい捻れよな」と毒づきながら、暇を持て余していた。
しかし、手持ち無沙汰に教室の窓外を眺めていると、さっき目にした“real”という語が、不思議と頭から離れなくなる。
この時、なぜか谷口のことを連想していた。
指の怪我で、しばらく野球から遠ざかっていたからか。それとも、本人なりの気遣いだったか。足繁く後輩達の激励に訪れていた丸井と違い、墨谷高校へ進学した谷口は、一度も母校のグラウンドに姿を見せなかった。
あっ、そういえば……と思い出す。夏の地区予選の組み合わせ抽選の日、たまたま帰りに会って、少し話したっけか。
「谷口さん、もう指は治ったんでしょう。練習見に来ないんですか?」
「ばか言うな。こんな時期にOBが顔を出したら、現役は気を遣ってやりにくくなるだろう」
「その奥ゆかしさが、丸井さんにもあったらなぁ」
「オイ、そんなこと言うなよ。合宿の手伝いとか相手校の敵情視察とか、色々と世話になってるんだろ」
確かそんな会話を交わして、笑って別れた気がする。
――real=本当の、真の。
ソバ屋の看板が、数ブロック先に覗いた。街灯に照らされ、看板の文字まではっきり見える。イガラシは、ふと足を止めた。
考えてみりゃ、あの人の存在が一番“リアル”から遠いよな。青葉で二軍の補欠だった人が、転校してその学校でキャプテンを任されて、その青葉をやっつけてチームを優勝させちまうなんてよ。
いや……違う、か。
二年生キャプテンとなった谷口率いる墨谷高校が、強豪・聖陵と専修館を立て続けに破った報は、近所でもちょっとしたフィーバーになっていた。
イガラシも丸井からしつこく新聞を読むように言われ、仕方なく目を通してはいた。わざわざチェックしなくても、ソバ屋の客達が話題にするので、父母の業務を手伝いながら嫌でも耳にしてしまうのだが。
あの人なら、全然不思議じゃねぇよ。
現時点では、「墨谷が都大会を制して甲子園へ行く」というシナリオは、リアルじゃない。しかし……その「リアル」も変化する。
あり得ない、どう考えても無理だと思ってたことが、案外簡単にひっくり返る。それもまた、野球の「リアル」なのだ。
確かに試合直後は蒼白な顔をしていた。それでもあの人は、結局一度として、弱音を吐かなかった。歴然とした力の差に、確かにショックを受けただろう。
しかし……だからといって、唯々諾々と「負け犬根性」に陥るような真似を、あの人がするわけはない。それがキャプテン・谷口タカオなのだ。
谷口さんが、諦めるはずがない。だから俺も……
やがて自宅の前へと辿り着く。正面の扉は客の出入り用としているので、裏へと回る。この後、今日も小一時間は父母の手伝いをしなければならない。
ドアを開けると、すでに弟の靴が並べられていた。
慎二の奴、もう帰ってきているのか。アイツ要領いいから、おやじとおふくろの手伝いもソツなくこなすんだよな。そしてアニキの俺が、おふくろに「アンタも少し弟を見習いなさい」なんて、嫌味を言われるハメになるんだよ。
春の夜風を吸い込み、イガラシは裏口のドアを閉めた。
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