※前話<第1話「変わる“リアル”」>へのリンクは、こちらです。
第2話「こだわり」
谷原との練習試合から、三日が過ぎた。墨谷ナインの焦燥を置き去りにして、着実に「最後の夏」へのカウントダウンは刻まれていく。
「おぉい、イガラシっ」
野太い声に呼ばれた。十八・四四メートル先のホームベース手前で、キャッチャー用プロテクターを装着した青年が、立ち上がり叫ぶ。がっしりとした体躯……というか、若干腹部の丸みが目に付いてしまうが。
「ウォーミングアップはもういいだろ。そろそろ、本気で投げろ」
墨谷高校野球部OB、前主将の田所だ。現在は家業の電気屋の継ぎ、あちこち営業で駆け回っているらしい。仕事の傍ら、しばしば野球部の練習に顔を出してくれる。
そこは一学年上の丸井と似ているが、彼との違いは口うるさく意見してくることはなく、どちらかというと温かく見守るという雰囲気だ。おまけに太っ腹で、よくアイスクリームやら牛乳やら、何かと差し入れを持ってきてくれる。
谷口曰く「こんなに懐の深い先輩は滅多にいない」らしい。その面倒見よく大らかな人柄は、まだ数回顔を合わせただけのイガラシも感じ取っていた。
「ボクはもう、とっくに肩は温まっていますよ。田所さん」
柄にもなく、可愛らしい言い方で答えた。そして……一応“加減”はしたつもりだが、毒づいてみる。
「先輩がボクの球に慣れるのを待ってたんです。怪我でもされて、仕事に障りが出てしまったら悪いじゃないですか」
「なにぃっ。こんにゃろナメやがってぇ」
分かりやすいリアクションに、くすっと笑いがこぼれた。
「俺はな、墨高の元正捕手だぞ。倉橋の前に、谷口の球を受けていたのは、この俺だぁ」
「元正捕手っていうのは聞いてますよ。二年前のね」
言い終えるや否や、イガラシは振りかぶった。そのまま左足を踏み出す。グラブを突き出し、右腕をしならせる。
「おっオイ。まだちゃんと構えてな……うわっ」
バシッ。小気味よい音を残し、白球は田所の後方、外野のファールグラウンド近くまで転がった。拾いに行こうとしたが、すぐさま外野の守備練習をしていた同学年の久保がグラブに収め、返球してくる。
「サンキュー久保」
礼を言うと、久保は妙に恥ずかしげな笑みを浮かべた。
墨谷二中時代、久保は三年時には不動の三番打者として、全国制覇の立役者の一人となった。元々穏やかな質ではあるが、ひとたび打席に入れば、冷静かつ精度の高いバッティングで、“強打・墨谷打線”の一翼を担った。
イガラシにとっても非常に頼りがいのある存在だったのだが、当の久保に中学時代の自分の印象を尋ねると「かなり怖かった」らしい。その名残からか、同級生でありながら、今でもどこか緊張したような態度を取られたりする。
転送されてきた白球を握り直し、振り向くと、田所が「アハハハ……」と妙な笑い声を発していた。
「いやぁ、ちょっと土埃が目に入ってなぁ。イガラシくん、君も君だ。俺がちゃんと構えてから、投げろっつーの」
「スミマセン。先輩……やっぱり、もうちょい“ウォーミングアップ”しましょうか」
「なっふざけんな。たかが一年坊主の球、一球見りゃ十分だよっ」
そう吐き捨てると、田所はマスクを被り、屈んでミットを構える。
イガラシは、白球の縫い目に指をかけた。今一度その感触を確かめる。
多くの先輩が、軟球と硬球の違いに早く慣れるようアドバイスをくれた。両者は、確かにまるで違う。
それでも中学野球部を引退後、丸井に頼んで譲ってもらった硬球を使って弟と毎日キャッチボールやトスバッティング(ピッチャーへワンバウンドで打ち返す練習のこと)などを繰り返してきたから、高校入学前には、もうさほどの違和感なく握ることができた。
まっ俺にとっては、どちらも同じ“白いタマ”だけどな。
ブルペンとはいえマウンドに立つのは中学以来だったが、どうということはない。マウンドだろうが内外野の守備だろうが、「ボールを投げる」という行為に大して違うがあるとは思えない。
「さぁ遠慮はいらん。ドンドン投げ込んでこいっ」
威勢の良い声に対して、胸の内で返答する。
俺が遠慮するワケないでしょ。体中アザだらけになって、本当に仕事に響いても知りませんよ、田所さん。
立て続けに十球、直球を全力で投げ込む。田所は、捕り方はやや危なっかしいものの、二球目からは落とさず捕球した。
「どうだ見たかっ、一年坊主!」
よほど嬉しかったのか、田所はホームベース上で高笑いしている。
「俺がちょっと本気を出せばこんなモンよ。俺の手にかかれば、たとえ江夏だろうが堀内だろうが……」
「次、シンカーいきます」
「……へっ、しん……」
田所が戸惑いながらミットを構えると、イガラシは指を掛ける位置をずらし、それでいて直球とほぼ同じフォームで投げ込んだ。白球はシュートしながら、ミット手前で鋭く沈む。さすがにこれは捕まえきれず、田所はまたも後逸する。
球種の名前を知らず、イガラシは中学までこのボールを“落ちるシュート”と呼んでいた。たまたまテレビのプロ野球中継で、ある投手が自分と同じ球を投げていることに気付き、それが“シンカー”だと解説されるのを聞いた。
あーあ……というため息混じりの声が、スパイクの足音とともに近付いてくる。
「ったく……あんまりOBをからかうなよ。イガラシ」
振り返ると、谷口と同学年の三年生・倉橋が苦笑いを浮かべていた。
倉橋の姿を見るや、イガラシは自然に口元を引き締めていた。この倉橋こそ、墨谷高校野球部現チームの正捕手だ。プロテクター姿が、田所よりも明らかにサマになっている。
「別にからかってるつもりはありませんよ、倉橋さん」
つい素っ気ない口調になる。
「キャプテンの指示に逆らってまで『やっぱりピッチャーをやらせて下さい』と言ったのは、自分ですから。やるからには本気だってこと、見せなくちゃいけないじゃないですか」
「分かった分かった。分かったから、その鉄仮面みたいなツラやめろ。怖ぇから」
倉橋が苦笑いを浮かべる。
こと野球に関しては厳しいが、決して人当たりは悪くない。ついつい張り切り過ぎてしまう新入部員に対して、倉橋が「あまり入れ込み過ぎるなよ。先は長いんだから」と声を掛けるのを、よく見かける。
この気配り、そして視野の広さ。まさにキャッチャーらしい性質の持ち主だ。さすがだなと、密かに感服していた。そして、何より。
隅田川中学・倉橋。イガラシにとって、忘れられない名前だった。
あれは三年前、中学一年時夏の準決勝だった。墨谷二中は、初戦で剛腕・井口源次擁する江田川中を逆転サヨナラ、二回戦で“データ野球”金成中を終盤の大逆転で破ると勢いに乗り、ついに創部以来初のベスト4進出。
決勝で「あの青葉をやっつけるんだ」と意気込むイガラシ達の前に立ちふさがったのが、倉橋と二年生エース・松川のバッテリー擁する隅田川中学だった。
初回、墨谷二中は松川の失投を見逃さず、幸先よく二点を先制。快勝の予感もあったが、その後なかなか追加点が奪えず。逆に中盤、倉橋、松川らの連続長短打で同点。思わぬ苦戦を強いられる。
復調した松川の、見た目以上の球威。それ以上に厄介だったのが、倉橋の頭脳的なリードだった。
この試合、イガラシは二度の敬遠もあったが、大会通して唯一無安打に抑え込まれる。松川にやられたというよりも、倉橋の巧みな配球の前に、本来のバッティングを狂わされた。
それでも延長十回、当時からスタミナ不足が弱点だった、松川の球威が落ちたところを捉え二点を勝ち越し。4-2と、辛くも逃げ切った。
中学野球引退後、同学年の久保らとともに墨谷高校の練習見学にグラウンドを訪れた際、倉橋と松川の姿を見かけた時は、さすがに驚いた。
あの倉橋さんと、まさか同じチームになるとはな……
「このボールで、去年の中学選手権を制したんだよな」
イガラシの胸中をよそに、倉橋はいつになく饒舌だ。
「中学で対戦した時は、おまえがピッチャーもできるなんて知らなかったけどよ」
「でも……倉橋さんも分かっているでしょう、僕の弱点」
情を動かすことなく、淡々と言った。
「球が軽いので、間違ったらデカイのを打たれやすいんですよ。まだ球威では、松川さんや近藤の方が、上です」
「近藤? ああ、オマエと丸井の中学の後輩か。この前テレビで観たぞ、中学選抜の一回戦。確かにいいピッチャーだけど、うーん……何つうか、アイツ何となく、井口と似てねぇか? 体格といい、“お山の大将”っぽいところといい」
くすっ……と、思わず吹き出してしまう。
「似てるどころか、ソックリですよ。ついでに、丸井さんとウマが合わないところも」
「丸井と? ははっ、ちげーねぇ。アイツほんと頑固だからな。いちいちムキになって突っかかっていくからよ」
心底おかしそうに、倉橋は声を立てて笑う。
「しっ。聴こえますよ」
丸井は今、グラウンド上でセカンドの守備位置に着き、内野ノックを受けている。イガラシ達のいるブルペンから、フェアライン一本で隔てた僅か数十メートルの距離だ。キャプテン谷口が直々にノッカーを務めているから、いつも以上に張り切っているようだ。
「まっ冗談はこのぐらいにしてよ。正直、今オマエの球を見て、驚いたぜ」
真顔に戻りそう言うと、倉橋がホームベースの方向をちょんちょんと指さした。田所が「早く次を投げろよ」と言わんばかりに、こちらを睨んでいる。
「あっスミマセン。次もシンカーです」
「おうよっ。今度こそ……げっ」
田所の必死に差し出したミットを嘲笑うかのように、イガラシのシンカーはさらに鋭く沈む。今度は内野へと転がり、丸井が噂のネタにされていたとも知らず、笑いながら拾って投げ返す。
「これがシンカーか。今俺が打席に立っても、打てる自信ねぇわ。特にツーストライク取られた後、投げ込まれたら厄介だな。分かっていても、つい手が出てしまう」
イガラシは無言でうなずき、田所へもう一度シンカーを投げ込んだ。今度は、捕球こそならなかったものの、何とか体に当てて手元で押さえる。
さすが元正捕手。腹は出ても、反応は鈍っちゃいないな。
「球が軽いと言ってもよぉ。こんだけスピードがあって変化球も一級品のピッチャーって、高校レベルでもそうはいねぇぞ」
倉橋は、吐息混じりに言った。それには答えず、ホームベース方向へ意思を告げる。
「次、カーブいきます」
左足を踏み出すと、さっきとは逆向きに手首を捻った。シンカーほどのスピードはないものの、ブレーキのある大きなカーブが、田所のミットに収まった。
「ひゃあ、カーブまで投げれんのかよ。しかも、こんなに打者の手元で曲がるカーブ、初めて見たぞ。いくらオマエさんの本職が内野だからといっても、これだけの球が放れる奴を使わないテはないよなぁ」
内野が本職というわけじゃありません。どのポジションも、一通りできます――と言いたかったが、嫌味に聞こえそうなのでやめた。その代わり「分かってます」と、視線を向けずに答える。
「あの谷口さんと松川さんが、谷原打線にはまるで通じなかったんです。それを『ボクは内野です』なんて、黙って見過ごせるはずないじゃないですか」
「なんだよ。自分だったら抑えられるとでも思ってるのか?」
幾分揶揄するような響きがあったが、気には留めない。あくまでも率直に答える。
「まさか。さっきも言ったように、僕の球は軽いんです。もし谷原戦で僕が投げていたら……きっと僕も、谷口さんや松川さんと同じ目に遭っていました。でも、倉橋さん」
倉橋の双眼を、今度はしっかりと見据え、しかし静かに言い放つ。胸の奥に、確信めいた思いがあった。
「可能性のあることは、全部試すべきだと思います。谷原に勝つために……違いますか?」
この日、早朝に部室でシャドーピッチング(※ボールの代わりにタオルなどを使って、投球フォームを固める練習のこと)をする谷口に声を掛け、進言した。
「やっぱり、僕にもピッチャーをやらせて下さい」
この時、谷口は意外にも、さほど表情を変えなかった。むしろ素っ気ないとも思える口調で、短く「そうか」と答えただけだった。
予想外の反応に、戸惑う。誤解されるのは嫌だったので、こう付け加える。
「別に、ピッチャーに未練があるわけじゃありません。ただ……谷原に勝つために、やれることは何でも……」
「イガラシ」
途中で話を遮られる。
「それ以上言わなくていい。分かってる。おまえが私的感情で『ピッチャーをやらせろ』なんて口にする人間じゃないことぐらい、分かってるさ」
タオルを置き、こちらに向き直る。そして、今度は穏やかな表情になり、静かに告げる。
「早速、今日の“本練”からピッチング練習を始めてくれ。今日は田所さんも来てくれるから、受けてもらう……スマンな、イガラシ」
ふいに頭を下げられる。
「えっ」
「本当は俺が言わなきゃいけなかったんだ。俺が“内野専念”を指示したんだもんな。けど、先におまえに言わせてしまって」
「どうでもいいじゃないですか、そんなこと」
やばい言い過ぎた、と慌てて口をつぐむ。今の言い方、もし丸井さんに聞かれたら怒られるどころじゃ済まないだろう。
「そういうお人好しなところ、変わってないですね。ハッキリさせましょうよ。やるならやる、やらないならやらないで。時々優柔不断になるのが、谷口さんの悪いクセですよ」
「おまえ、随分はっきり言ってくれるじゃないか」
軽く睨む目になったが、本気ではない。優しすぎるのが玉に瑕なんだよな……と、イガラシは密やかに溜息をつく。
「昔からです。谷口さんも、よく分かってるでしょう? それに……それに、谷口さん」
短く吐息をつき、眼差しを上げて言い添えた。
「……俺だって、谷口さんと同じ元“墨二”のキャプテンです」
胸の内で、さらにこう付け加える。
――元“墨二”のキャプテンなら、最終的に狙う所は同じでしょう。谷口さんも、甲子園に行きたいでしょう? あの谷原に「勝ちたい」んでしょう? だったら、俺も谷口さんも、結論は大して変わらないと思いますよ。
「よぉし、一旦休憩」
キャプテンの声が、グラウンド中に響く。
「十五分後には再開するから、みんな水分しっかりな。それと次は、ランナーも置いてより実践的に行うから、そのつもりでいろよ」
はいっ、と小気味よい返事の声が響く。
一旦解散となると、セカンドの守備位置に着いていた丸井が、こちらに駆け寄ってきた。どうやら、さっきからこちらの様子が気になって仕方なかったらしい。
「すごいなイガラシ。硬球でも、軟式と全然変わらないじゃないか。というか、むしろスピードは中学の時より上がってないか?」
開口一番、はしゃぐように言った。
「一応、いつでも投げられるように準備はしていたんで」
「準備って……毎日暗くなるまで練習なのに、いつやってたんだよ。オマエ全然、そういう素振りなかったじゃねぇか」
「ほら、去年僕達が選抜を辞退する前に使ってた、工場裏の空き地ですよ。慎二と一緒に……アイツも近藤のバックアップができるように、ピッチング練習が必要だと言って。それで交互に投げ合ってましたよ」
「かぁーっ。おまえ達兄弟は、どこまでも抜け目がないな」
やや大げさに、丸井が天を仰ぐ。
「谷口さんは、“今は”内野に専念してくれって言ったんですよ。けど、うちの選手層からして、この先もずっと内野だけというわけにはいかないじゃないですか。まぁ……予想より、ちょっと早かったですけど」
イガラシがそう言うと、なぜか丸井は、ふっと笑みを浮かべた。
「何です? 急に……気味悪いですよ」
「いやな……オマエがピッチング練習を再開するって聞いて、俺っちとしては少し安心したのよ。いくら谷口さんに『内野専念で』と言われたからって、おまえがあっさり了承したもんだから。正直モッタイナイと思ってたんだ」
イガラシの左肩をぽんぽんと叩き、丸井は妙に感慨深げな顔になる。
「モッタイナイ? 俺はあんまり、そういうふうには思わなかったですけど」
「またまたぁ、素直じゃないんだから。実際、おまえ中学の頃は、青葉とか和合とか強敵相手に、凄いピッチングしてたじゃないか。あれだけできる奴が、ピッチャーに未練がないはずないと思ってたんだよ」
「別に……今だって、俺がピッチャーやるのがチームに『必要ない』ということだったら、すぐにでもやめますよ」
「えっ……ええーっ、オマエそれ本気で言ってるの?」
さすがに、心底驚いた顔になる。
「近藤なんか、入部して最初の選抜の時『ライトなんて格好悪い』なんて拗ねて、試合前に島田を怒らせちまったんだぞ。まぁアイツはガキだから仕方ないけどよ。でも、オマエ……オマエは、そういうこだわりとか、何もないのかよ」
「ないですよ、そういうの」
即答すると、丸井はさらに目を丸くした。
「……あのねぇ、丸井さん」
イガラシは首を横に振り、返答する。
「誰がピッチャーだとか四番だとか、誰が内野だとか外野だとか、そんなのチームが勝つことに、何の関係があるっていうんですか。丸井さんなら、百も承知でしょう」
「そ、それは……確かにそうだけどよ」
ふと正門の方へ視線を向けると、野球のユニフォーム姿の二人が駆け込んでくるところだった。松川と井口だ。ようやくロードワークを終えて戻ってきたらしい。
「俺にもし、こだわりがあるとしたら……」
丸井に視線を戻し、イガラシは短く言った。
「試合に“勝つこと”だけですよ。それで十分でしょう?」
ホームベース上に顔を向けると、田所が大きくミットの手を振りながら、こちらを睨んでいる。
「いけねっ。田所さんを待たせたままだった」
足元のロージンバックを掌に載せ、指先で撫でてみる。それを軽く手前に投げ、イガラシは今までにも増して大きく左足を踏み出した。
※次回<第3話「意外な訪問者!?」の巻>へのリンクは、こちらです。