南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

私が教職の道を「断念した」時――武井壮さんの“体罰動画拡散”事件の「炎上騒動」に思う

 スタンドの記憶 (@stand161) | Twitter

 

 実は私、教員免許を持っている。

 

 学生時代には教職関係の講義を受け、世に言う“教育実習”なるモノもさせていただいた。今思えば授業等、色々酷かったのだが(汗)、何とか必要単位をすべて習得することができた。ちゃんと「教員免許状」も実家の引き出しに仕舞ってある。

 

 しかし……結局、免許を取っただけで教員にはならなかった。所謂“ペーパードライバー”である。なぜ教員を目指さなかったかと言えば、詳細は後述するが、簡単に言えば「向いていない」と思ったからだ。

 

 前置きはこれぐらいにして、そろそろ本題へ入ろう。

 

 件の都立高校における「体罰動画拡散事件」について、タレント・武井壮さんのテレビ及びツイッターでの発言が、物議を醸している。実際に武井さんのツイートを読んでみたが、賛否両論……というより、彼を批判するコメントの方が多数を占めていた。

 

 武井さんの主張の趣旨としては、「どんな理由があっても体罰はダメだ」というもの。多数の批判コメントに対して、真っ向から反論する主張を繰り返したことにより、炎上に近い状態となっていた。

 

 私は当初、武井さんのツイートを淡々と眺めていた。こういう事件が起こると、テレビタレントがやたらと、見当外れにも思える“熱い主張”をするのは、いつものコトだ。さほど情を動かすこともない。

 

 が……ただ一つ、気になる点があった。それは事件そのものというよりも、全国の教員や生徒達へのメッセージを綴った、以下のツイートだ。

 

――外からで申し訳ないけど、全国の生徒たちが、無法な行為をすることが自分を幸せにする事のない蛮行だと、人を傷付ける一生消えない汚れを自分の人生に付ける事だと分かるように発信します。そして大人の我々がルールを守って暴力の無い強くて美しい教育が実現するように全力で声をあげさせてもらいます。

<(19:57 - 2019年1月25日)のツイートより。※傍線は筆者>

 

 この点、武井さんのみならず、多くの方が“誤解”されているように思う。もしかしたら、現在教員を目指している学生の中にも……あまりにも無弱に教師を夢見ていた、かつての私のように。

 

 だが――そもそも「暴力のない」教育というものが、本当にあり得るのだろうか。

 

 武井さんも、そして多くの人達も、きっと分かってない。いや、内心ではその自覚があったとしても、認めたくないのかもしれない。

 

 あえて断言する。教育とは、その性質自体に“暴力”を内包するものである。

 

 武井さんは「暴力の無い強くて美しい教育が実現するように」と言う。“体罰禁止”自体は否定しないし、正しいとも思うのだが、私は「暴力のない美しい教育」という考え方そのものが、やはり“綺麗事”だと感じてしまう。

 

 「殴る」までいかなくとも、例えば朝礼で、ふざけて列に並ばない子の手を引っ張り、無理やり並ばせる行為――これは“暴力”じゃないのか。

 

 もしくは、身体接触はなくとも、子供が「怖い」と感じる口調で強く叱責すること――ある意味「恐怖」で従わせることになるが、これも“暴力”とは言わないのか。

 

 さらに言えば、道徳の時間などに「ある考えが正しい」と教えることも、見方によっては“価値観の押し付け”とも取れるが、これも“暴力”には入らないのか。

 

……念のため断っておくが、上記のがダメだと言いたいわけではない。むしろ、どれも教育上不可欠な指導だと思う。

 

 ただ、所謂“教育行為”と、“暴力”との線引きはかなり曖昧なのだと、お分かりいただけるだろうか。教員でなくとも、子育て経験のある方であれば、教育ないし躾けというものが、決して美しい行為(ばかり)でないということは、実感しておられると思う。

 

 これだけだと納得できない方もいると思われるので、さらに例を挙げよう。

 

 かのヘレンケラーが、幼い頃にサリヴァン先生という素晴らしい教師と出会い、教養を身に付けていったというエピソードを、伝記などで読んだ方も多いはずだ。では、サリヴァン先生が「どのように」教育を行ったか、その具体的な行為もご存知だろうか。

 

 視覚と聴覚を奪われ、かんしゃくを起こすことも多かった少女の頃のヘレンケラーを、サリヴァン先生は力づくで押さえつけ、羽交い絞めにするなどして躾けていったという。その光景は、家族や周囲の者が「何もそこまでしなくても」と眉をひそめるほど、壮絶なものだったようだ。

 

 急いで付け加えると、サリヴァン先生の採った教育行為が、他のどの子にも通用するというわけではない。ヘレンケラー本人に、それを受け取るだけの素養があったのだ。

 

 また逆に言えば、ヘレンケラーの素晴らしい素養があっても、さらにはサリヴァン先生の力量を以てしても、「教育」するということが、これだけの格闘を伴うものだということ。少なくとも武井さんの言う“美しい教育”などでは決してなかったのだ。

 

 そろそろ、結論を出すこととしたい。

 

 教育とは何か。この問いには様々な解があろうが、私ならこう答える――教育とは「文化の継承」である、と。

 

 例えば、朝起きて「おはよう」と言うこと。ご飯を朝・昼・晩に食べるということ。学校で様々な学問を学ぶということ。年長者や目上の者に礼儀を示すこと。……これらは、すべて“文化”の範疇に入る。

 

 今、何気なく言ったが――この「文化の継承」という行為こそ、かなり厄介なのだ。

 

 それは“学校”だけが、「文化の継承」を担うわけではないということ。まずは“家庭”で躾けられ、その家庭の「文化」を身に付けることになる。さらに、見過ごされがちなのが“メディア”だ。新聞やテレビだけでなく、インターネットの世界。これらもすべて、(無意識のうちに)「文化の継承」を担う媒体となる。

 

 子供は、“学校”へ来た時点で「白紙」の状態ではなく、すでに“家庭”と“メディア”によって、ある「文化」を身に付けて“しまって”いる。

 

 すでに子供達が身に付けている「文化」が、“学校”で教える「文化」と同じか、親和性の高いモノであれば、教員はさほど苦労しない。だが、往々にして……それらは対立する。

 

 そう。学校現場で起こっている現象というのは、端的に言えば――学校で教えるべき(とされる)「文化」を身に付けさせようとする教員と、それに対して様々なリアクション(素直に受け取る子もいれば、面従腹背を決め込む子もいれば、反発する子もいれば、話自体聞こうとしない子もいる)を見せる生徒との、終わりなき“せめぎ合い”なのだ。

 

 文化を巡る“せめぎ合い”だと分かれば、教師に対して生徒が反発する理由も、その延長線上に「体罰」が発生してしまうのも、ご理解いただけるのではないだろうか。

 

 最後に。もし武井さんが、タレントではなく教員だったら、と仮定してみる。

 

 皮肉めいた言い方になるが――武井さんのようなタイプこそ、「体罰」をしてしまいがちだと私は思っている。なぜなら、ツイートを読む限り、彼は自分自身の「正しさ」をまるで疑う様子がないからだ。

 

 自分は生徒のためを思っている。なのになぜ、そんなオレに反抗する。何度言っても、聞かない。許せない。……こういう思考過程を辿りがちなのだ。

 

 ただ一方で、私のように「自分自身を疑ってしまう」タイプの人間は、教師としては“弱い”。指導者の「自我の揺らぎ」を生徒は見透かし、やがてナメてかかるようになる――教育実習、また用務員のような形で数ヶ月就業した際、それを強く感じた。

 

 自分を強く信じ切ること。一方で、時に自分自身を疑うこと。この二つが、教師として生きていく上で必要だと感じ……その葛藤の中に身を置き続けることは「自分には無理だ」と悟り、私はこの道を断念するに至った。

 

 まぁ、私のショボイ体験談はどうでもよろしい(苦笑)。

 

 とにかく――“教育”というものが、そもそも「暴力」を内包するということを、私達はもっと認識する必要がある。その「リアル」から目を背け、学校は「文化の継承」ではなく、教育「サービス」を提供する場だと“カン違い”されてきたことが、今日の“崩壊”へとつながったのではないか。

 

……少々筆が滑り過ぎた。この続きは、項を改めて書くこととしたい。