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第8話「努力の天才」の巻
※井口源次を“右利き”として描いてしまっていたので、本来の設定である左腕投手に修正しました。(2019.3.30)
ガシャッ、と大きな音が鳴る。ほぼ同時に、グラウンドから「あーあ」とため息混じりの声が漏れた。
マウンド上で、井口源次が半笑いの口を開けている。
この回の先頭打者に投じた初球だった。捕手の倉橋が、飛び上がってミットを伸ばしても、届かない遥か頭上。ホームベースより十数メートル後方のバックネットに、勢いよくぶち当たる。
「オイオイ……」
グラウンド脇のブルペンで、イガラシは思わずつぶやく。
腹筋運動の最中だったが、中断して立ち上がった。制球が定まらないのは前日からだったが、ここまでの大暴投はなかった。どこか痛めたんじゃあるまいな、とさすがに心配になる。
倉橋も同じことを思ったらしく、控え部員から替えのボールを受け取ると、憂うような顔でマウンドへと駆け寄った。帽子を取り「す、スミマセン」と謝る井口に、声を掛ける。
「どしたい。何かアクシデントか」
「だ、大丈夫っス。グラブの紐が切れかけているのが気になって。すぐ直して来ます」
「あっああ……」
困惑げな倉橋を背に、井口はこちらに走り寄ってきた。イガラシと目が合うと、「へへっ」と妙な笑みを浮かべる。
「笑ってる場合かよ。こっちは怪我したんじゃないかと、ヒヤヒヤしたんだぞ。本当に平気なのか?」
「平気だって。むしろ……俺、ちょっと掴んだかも」
「はぁ?」
投球内容とは裏腹の自信ありげな顔つきに、呆れてしまう。
第二試合は、五回表まで進んでいた。井口は、最終回のみ登板した前日と同様、制球に苦しむ。その上、相手の浦和商工は、埼玉の昨夏十六強。とりわけ打線に力があり、甘く入った球は井口の速球に負けず打ち返してきた。
ここまで五本のヒットを許し、与えた四死球も六つ。二失点に抑えているのが不思議な内容である。
四回には、クリーンヒットを二本浴びた。バックの好守備もあり、辛うじて最小失点で凌いだものの、崩れるのは時間の問題に思えた。
「随分と余裕だな」
イガラシは、皮肉を言った。
「ノックアウト寸前の投手のセリフとは、とても思えないぜ」
「違うんだって。俺、やっと馴染んできたのよ」
「何が?」
おや、とイガラシは思った。意外なほど、井口は真剣な面持ちだ。
気分にムラがあり、少々荒っぽいところもあるが、野球に関してはこちらが驚くほど深く考えていたりする。イガラシ自身、その知略に昨夏の都大会決勝では、危うく痛い目に遭いかけた。
「硬球だよ」
井口は、何だか可笑しそうに告げた。
「まぁ俺も、なかなか調子が出なくて焦ってたんだけどよ。さっき思い切り投げたら……結果は暴投だったけど、やっと指にしっくりくる感触がしたんだ。これならイケそうだぞ」
「デカい口叩くのは、まともに抑えてからにしろや。この分だと、おまえ昨日みたいに、また試合後倉橋さんと丸井さんに説教されるぞ」
「わっ分かってるよ。そりゃおっかねぇや……ちゃんと抑えるから、まぁ見てろって」
そう言い残し、井口はマウンドへと駆けていった。その背中に、ほぉ……と吐息をつく。何気ない口調だったが、かなり確信ありげだ。
マウンドに戻り、ロージンバックを手に馴染ませていると、倉橋が走り寄ってきた。
「グラブはもういいのか? 切れた紐を直しているようには見えなかったが」
嫌味をぶつける倉橋に、井口はさっきの真剣な眼差しを向ける。グラブで口元を覆い、何事がささやいた。
えっ……というふうに、倉橋の唇が動く。
「……そんなこと言って、おまえ直球もまともに制球できていないのに」
「シッ。敵に聴こえちゃいますよ」
「おまえな、相手を気にする内容かよ。ったく……しょうがねぇな、好きにしろ」
苦笑いを浮かべ、倉橋はポジションへと帰っていく。
倉橋が屈んでミットを構えると、井口はすぐ投球動作に入った。頭上に掲げるグラブと体軸とが一直線になり、地面と垂直になる。
あっ……と、イガラシは小さく声を発した。井口の投球に、グラブと地面が「垂直になる」瞬間を見て取れたのは、かなり久しぶりだったからだ。
左腕を引き、右手のグラブを突き出し、足を踏み出す。やがて左手の指先から、白球が放たれる。時間にすれば数秒にも満たないはずなのに、なぜかそれがスローモーションのように映像として目に流れ込んでくる。
真ん中低め、比較的狙いやすいコースだ。左バッターボックスに入った浦和商工の打者は、躊躇いなく強振する。
ところが……ボールは打者の手元に差し掛かった瞬間、まるで直角を描くような軌道で、その膝元を抉る。「ストライク!」というアンパイアのコールが、やけに甲高く聴こえる。
井口の最大の武器、“直角に曲がる”と恐れられたシュートが、打者の内角低めに決まった。予想外の変化に、打者は明らかに面食らった顔をした。
「ナイスボール! これだよっ、井口」
丸井が、二塁ベース付近で叫んだ。
「やればできんじゃねぇか。そうだよ、この球をずっと見たかったんだ」
気を良くしたらしく、井口は照れた顔で「ドモ」と会釈する。
三球目。井口はまたも、シュートを投じた。打者は、今度は手が出ず、二球目と同様に内角低めぎりぎりに決まる。これでツーストライク。
そして四球目。倉橋は、外角のやや外したコースにミットを構えた。井口はうなずき、一転して直球を投じる。
風を裂く音がした。打者はカット気味にバットを差し出したが、その上をボールが通過する。ズバンと、ミットの音が小気味よく響いた。空振り三振。
相手ベンチの面々が、一瞬にして険しい表情へと変わる。
井口の勢いは、なおも止まらない。二番目の打者は、初球を狙ったが、ボールの勢いに押されキャッチャーファールフライ。さらに次の打者は、直球を二球続けて見逃した後、三球目のシュートを狙ったが掠りもせず、三球三振。圧巻の投球だった。
「す、すごいな……オイ」
傍らで、松川が感嘆の声を発した。第二試合は、元々井口と谷口の継投の予定だが、展開次第では松川の登板もあると告げられ、念のため調整していた。その手を止め、グラウンド上を凝視する。
「田所さんが『すげぇ奴を拾ってきたぞ』と言ってたけど、昨日の投球を見る限り、とてもそんなふうには思えなかったけどな。練習も真剣にやっているのか、あやしかったし。俺達の見てないところで、アイツなりに努力していたのか」
「いえ……これが“普通”ですよ、アイツの」
イガラシは、苦笑して答えた。
「本領を発揮しさえすれば、あれぐらいのことはできます。ただアイツ、意外に繊細なとこあるんで、硬球が指に馴染むのに時間が掛かってただけなんですよ」
「繊細? あのツラでか?」
温厚な松川らしからぬ、辛辣な言葉が飛び出した。
「はい。中学の時も、最初のうちは左打者相手にストライクが入らなかったんです」
イガラシにとって、中学時代初めての公式戦だった。膠着した試合展開に「俺が出ていれば」と苛立ちを隠しきれず、上級生達の剣呑な視線に晒されたことを思い出す。
「後になって克服しましたけど。ちょっとしたことで、良くなったり悪くなったり。でも一度ハマると、とんでもないチカラを出してくる。ああいう奴のことを、“天才”って呼ぶんでしょうね」
「うん……天才、かぁ」
ふいに松川が、不思議そうな眼差しを向ける。
「……何かおかしなこと、言いましたか」
「いや。ただ……イガラシが“天才”って言うと、妙な気がして」
やや自嘲的にも思える笑みを浮かべ、松川は答えた。
「俺に言わせれば、イガラシこそ“天才”って思うけどな。どのポジションもこなせるし、バッティングも力あるし。俺みたいな平凡な人間からすれば、正直叶わないって」
「何言ってるんですか。松川さんだって、チカラが認められたからこそ、ここまで谷口さんと二本柱で戦って来られたんでしょう」
「あぁ。けど、そういうことじゃないんだ。俺が言いたいのは……もっとこう、高いレベルのことを、いとも簡単にやってのけるような」
「僕だって、簡単だと思ってやってるワケじゃないですよ」
思いのほか、強い口調になった。松川が一瞬、怯んだような目になる。しまった言い過ぎたと、小さく舌を出す。
「……松川さん、部員の誰もが認めるくらい、練習熱心じゃないですか。でもそれって、松川さんにとっちゃ、試合で活躍するための、最善の方法だと思ってやってるんでしょう?」
「あ、あぁ……」
「俺も松川さんと、たぶん同じです」
やや声を潜めて、イガラシは言った。
「松川さんと同じで、俺も練習でやれることを全部やっておかないと、絶対活躍できないと思っているんです。けど……たぶん井口とか、前に言った後輩の近藤とかは、たぶんそこまでしなくても、試合でとんでもないチカラを発揮できるんです。だから“天才”だと」
「……イガラシって、意外に謙虚なんだな」
いや、謙虚というのも違うと思いますけど……と言いかけたが、ではどう違うのか、説明する言葉が浮かばない。
「違うぞ。松川」
ふいに、違う声が背後から降ってくる。振り向くと、さっきまで松川の投球を受けていた田所が、傍に来ていた。
「俺も、イガラシは“天才”だと思う。ただ……松川の言う意味とは、少し違うけどな」
「……どう違うんです?」
話が良く掴めず、イガラシは率直に尋ねた。
「松川の言いたいのは、野球の“プレー自体”だろう。いや、俺だってイガラシは、非凡なプレーヤーだと思うがよ。イガラシも、自分が人並み以上に野球が上手いっていう自覚はあるんだろ」
「まぁ。小学校時代から、ずっと三、四番を任されてましたから」
「だよな……って、そこまでハッキリ言うとさすがに嫌味だぞ。あっ……それはともかく」
いたずらっぽく笑みを浮かべ、田所は告げた。
「俺が思うに……イガラシは、“努力の天才”だ」
「え、それは……」
ほとんど無意識のうちに、イガラシは数十メートル先、ネクストバッターズサークルに視線を投げかけていた。打順を待つ「背番号5」の背中が覗いている。
「俺より、むしろ……谷口さんに当てはまるんじゃ」
「俺は別に、おまえと谷口と“どっちが努力家か”なんて話をしてるんじゃねぇよ。谷口は、おそらく松川もそうだろうが、『自分は才能がない』と思って、努力するというのは……もちろん尊いことではあるが、わりと自然なことだ。そして、反対に」
横目で、ちらりと味方ベンチを見やる。井口は涼しい顔で、ベンチにもたれ掛かっていた。丸井が睨み付け、何事か言っている。きっと「態度がデカい」と叱っているのだろう。
「チカラのある奴は、井口や近藤って奴のように、努力しようっていう気にはなれないものだ。別に努力しなくても、人並み以上にできてしまうんだから」
「まぁ……確かに。怠けていても、試合になると活躍するタイプですもんね」
「そうだ。でも、おまえはどちらにも当てはまらない。俺がおまえを見ていて、本当に凄いって思うのはよ」
一呼吸置き、田所は続ける。
「自分には人並み以上のチカラがある、そう自覚していながら、なお努力する……努力っていう自覚はないのかもしれないが、努力しようという気持ちになれる、その感性の方さ」
「……はぁ、なるほど」
気のない返事をすると、田所が軽く睨む。
「何だよ。言うほど『なるほど』って顔、してねぇぞ」
「僕が天才だろうと、じゃなかろうと、別にどうでもいい話だなとおもって」
「なっコノヤロ。人が分かりやすく丁寧に説明してやったというのに。先輩を怒らせるのも天才的だな、てめぇは」
「というか……そもそも田所さんって、そんな理屈っぽい話をする柄じゃなかったんじゃ」
「こら松川。おまえまで、こんな生意気な小僧の肩持つのかよ。おまえだけは俺の味方だと思ってたのに……ぐすん」
大仰に泣き真似をする田所に、墨高ベンチが追い打ちをかける。
「ちょっと田所さん、さっきから声が大きいですよ。OBが試合の邪魔をして、どうするんですか。デカいのは腹だけにしてください」
横井がおどけて言った。「テメこの……」と分かりやすく反応する田所に、つい吹き出してしまう。
快音が響く。カウント2-3(※当時の数え方で表記します)からの七球目を弾き返した谷口の打球が、右中間を深々と破った。先頭打者として四球で出塁していた倉橋が、悠々と本塁へ還ってくる。
あえてツーストライク取らせる制約付にも関わらず、打線は好調だ。
続く五番の久保も、初球のカーブを鮮やかにセンター前へ弾き返す。久保は、本来のレギュラー組ではないため“制約”はないものの、これで二打数二安打。
十七点を奪った第一試合に続き、この試合も前半五回で七得点。またも快勝ムードが漂い始めた。
そして六回表。井口の投球に圧倒され始めた浦和商工の各打者は、バットを短く持ち、打ち返すというよりも「何とか当てる」というスイングを見せるようになった。
それでも、井口はまるで動じない。快速球とシュートに加え、この回から混ぜ始めたカーブに、ますます的を絞れなくなる。三振こそ奪えなかったものの、またもキャッチャーフライトと内野ゴロ二つ。僅か六球で三者凡退に打ち取る。
「……九十六、九十七、九十八、九十九、百っ」
ブルペンの端で、イガラシは腕立て伏せの三セット目を終え、大きく吐息をついた。
「おい、イガラシ……いくらなんでもオーバーワークじゃないのか」
投球練習の合間、松川が心配そうに問うてくる。
「おまえ、五回までとはいえ投げた直後なんだぞ。しかも昨日だって、ロードワークやら投げ込みから、あれだけの激しいメニューを消化して」
「大丈夫ですよ。あのレベルの相手に、手抜きの投球をして、それぐらいで疲れるわけないじゃないですか」
「てっ手抜きの投球?」
松川の声が裏返る。イガラシは、ふふっと笑みを浮かべた。
「変化球でかわす“だけ”の投球なんて、僕本来のスタイルじゃないですよ。あれは目くらまし……にしても、あれじゃあダメですね」
「えっ何がだよ」
「今の相手チームのバッティングですよ」
イガラシは起き上がると、重い足取りで守備位置へ散っていく、浦和商工ナインへと視線を投げた。
「あんな打ち方じゃぁ、逆に『僕達は君の球を打てません』って宣言してるようなモンじゃないですか。まるで打ち崩そうという意思が感じられない。粘られるのは確かにうっとうしいですけど、打とうとしてこないチームは、結局怖くないですね」
「……敵チームのこととはいえ、辛辣だな」
「親切な助言じゃないですか。俺がキャプテンなら、あんな弱気な作戦、絶対にさせな……」
あれ……と、微かなつぶやきが漏れる。胸の奥に、ちくっと何かが刺さった。さっきも覚えた違和感と同じものだと、すぐに思い当たる。
何だよ、コレ。気持ちわりぃな……試合展開は、これ以上ないぐらい理想的だってのに。相手に歯応えがなさすぎて、逆に焦っているのか、俺。それにしても……
六回裏。墨谷は九番の井口にツーランホームランが飛び出すなど、さらに三点を追加。十対二と、前日から三試合連続の二桁得点をマークした。
迎えた七回表。やや浮かれた顔の井口が、鼻歌混じりでマウンドへと上がる。
「ばかっ井口。最後まで油断すんなよ」
ブルペンから、思わず怒鳴った。それでも井口は「わーってるよ」と呑気な声を返す。
浮かれた気分が祟ったのか、井口は先頭打者に死球を与えてしまう。久しぶりのランナーだ。迎えるは、ここまで二安打を放っている三番。
ほどなくして、イガラシは「あちゃぁ」と呆れ声を発した。
直球が真ん中高めに入る。球威は充分だったが、それだけで抑えられるレベルの打者ではなかった。ここまでの鬱憤を晴らすかのように、思い切りよく振り抜いた打球は、レフトフェンスの遥か上を越えていく。ツーランホームラン、これで十対四。
二人がホームベースを踏んだ直後、谷口がタイプを掛け、アンパイアに投手交代を告げた。井口からボールを受け取り、そのまま自らマウンドへと上る。
俺と一緒だな。アイツの弱点は、球質が軽いこと。軟球から硬球に変わったからといって、弱点まではそう簡単に直らないってことか。
一転してうなだれた顔で、井口がマウンドを降りる。クールダウンを指示されたらしく、ベンチには戻らず、真っすぐブルペンへと駆けてきた。
「だから言ったろう、油断すんなって。締まりのない終わり方しやがってよ」
露骨に嫌味をぶつける。言い返す気にもなれないらしく、井口は黙って肩を竦めた。
井口をリリーフした谷口は、貫禄の投球を見せる。続く四、五、六番を、緩急を付けた巧みな投球で翻弄し、三者連続三振。相手に傾きかけた流れを、あっという間に引き戻した。
まだ胸のうちに、もやもやとした感じが残る。すっきりしない気分を振り払うべく、イガラシは次の筋トレメニューへと移った。
それから約四十分後、試合は決する。墨谷は七、八回にも一点ずつ追加し、トータルスコア十二対四。
出場機会のなかったイガラシは、試合後の整列には加わらず、松川らと共にグラウンド整備のためのトンボを取りに、部室横の倉庫へと走った。
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(第1話~第6話までのリンクは、以下の通りです。)