南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

<野球小説>白球の“リアル”【第10話】「天秤に掛ける」の巻 ~ ちばあきお原作『プレイボール』もう一つの続編 ~

※前話<第9話「投手の感覚」の巻>へのリンクは、こちらです。

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第10話「天秤に掛ける」の巻

 

 ノックの打球が、右中間へと飛んでいく。

「センター、ライト! 丸井さん中継だっ」

 二塁ベースカバーに走りながら、イガラシは叫んだ。すかさず「任せろ」と、丸井の威勢の良い声が返ってくる。

 ボールは右中間に落ち、転々とする。

「カットマン、右だ右っ。前に行き過ぎてる」

「井口、本塁のカバーだ」

 掛け声のさなか、ライトの鈴木が回り込み、素早い動作で投げ返す。その送球が、中継に入った丸井の頭上を越え、三塁ベース近くでバウンドした。

「中継が乱れた。レフトカバー!」

 倉橋の指示を待つまでもなく、カバーに入っていたレフトの戸室が捕球する。この間、打者走者役の島田は、スライディングもせず三塁を陥れていた。

「こらぁ、中継!」

「ライト、セカンド、集中しろよっ」

 キャッチャーの倉橋、ノッカーの谷口から檄が飛ぶ。

「はっハイ! って……鈴木さぁん」

 丸井は直立不動で礼をすると、定位置に戻っていく鈴木の方へ体を向ける。

「送球、頼んますよ」

「今のはおまえの位置だろ」

 思いのほか、鈴木がきつい言葉を返した。予想外の反応だったらしく、丸井は「は……へっ」と泡を食ったような顔になる。

 へぇ、とイガラシは感心した。普段は飄々とした質の鈴木が、下級生とはいえ実力者である丸井に、ここまではっきり言い返すとは思いもしなかったのだ。

「丸井。鈴木の言った通りだぞ」

 倉橋が、諭すように言った。

「鈴木との距離が近すぎだ。おまえ、もう少し鈴木の肩を信用しろ」

「すっスミマセン」

 丸井は素直に頭を下げる。気まずい雰囲気になりかけたが、ポジションに着いた丸井が「よしこぉい」と間の抜けた掛け声を発したので、部員達は「あーあー」とずっこける。

 束の間緩む。しかし、すぐにピィンと張り詰めた空気へと変わっていく。

 いい雰囲気じゃねぇか……と、イガラシは胸の内でつぶやいた。

 西将学園と聞いて、多少浮足立つかと思いきや、我を忘れた顔をしている者は一人もいない。それはきっと、谷原戦の苦い経験もあるのだろう。誰もが気を引き締めつつ、目の前の自分のやるべきことに集中している。

 全員がポジションに戻ると、ノッカーを務める谷口が「ワンアウト、一・二塁」と状況を指定した。そして、打球方向の予告なしでバットを振り抜く。

「ショート!」

 三遊間へ速いゴロが飛んだ。イガラシは飛び付き、逆シングルハンドで捕球すると、すかさず二塁ベース上へ送球する。すでに、丸井が「ヘイッ」と合図する姿を視界に捉えていた。六-四-三。まるで閃光のように、ファースト・加藤のミットに到達する。

「ナイス、セカン!」

 そう言うと、丸井から「あたりめぇだろ」と不機嫌そうな声が返ってきた。そのわりに、口元が緩んでいる。明らかに照れ隠しだ。

「ショートもナイスだぞ」

 えっ、と思わず声を発していた。谷口の眼差しに、僅かながら翳りがあったからだ。イガラシへの掛け声にしても、谷口にしては力がない。

「どうしたイガラシ?」

 サードを守る松川が、訝しげに問うてくる。咄嗟に「な、何でもありません……」と笑って返答した。

 シートノックは、適宜守備位置を入れ替えながら、一時間近く続いた。その後、二十分間の休憩を挟み、投手を立ててのフリーバッティングへと移る。休憩といっても、水分補給や柔軟、用具の準備といった作業が続き、弛緩した空気が漂う暇はない。

 イガラシは、水道水を一口だけ飲み下し、あとは吐き捨てた。経験上、あまり水分を取り過ぎると、かえって体が重くなってしまうからだ。

 余った休憩時間は、柔軟と筋力トレーニングに充てることにしている。仰向けになり、膝の関節を曲げ伸ばしした。

 その時、ふいに「イガラシ君」と呼ばれる。

「お、おう。どしたい」

 上半身を起こすと、野球部員らしからぬ端正な顔立ちが、こちらに向けられていた。意外な声の主に、少し戸惑う。

「肩と足首の具合は、もういいのか。片瀬」

 片瀬は、イガラシや井口達と同期の一年生だ。谷原戦の後、右肩と両足首の痛みを訴え、練習を二週間近く休んでいた。

「おかげで、すっかり良くなったよ。心配かけてすまない。なぁに、単なる関節と筋肉の炎症さ。まったく面目ない」

 微かなため息混じりに答える。

「何せ、三年近くも野球から遠ざかっていたからね。高校レベルの練習に、体が付いていけなかったらしい。この分だと、周りに迷惑を掛けてしまいそうで、いっそ退部することも考えたんだが」

「え……おまえ、そこまで思い詰めていたのか」

 話の深刻さとは裏腹に、片瀬は淡々と話した。そのどこか達観したような口ぶりが、イガラシには何だか不思議に感じる。

「一応『退部届』も用意して、次に来た時、提出するつもりだったんだ。でも、あの人……キャプテンは、お見通しだったんだ」

「お見通し?」

「うん。何度か丸井さんと、わざわざ僕の家に見舞いに来てくれてね。その時、谷口さんに言われたんだ。野球を諦めるな、怪我さえ治せばいくらでもチャンスはあるってね」

「谷口さん自身、中学の時の怪我で、指が曲がってしまって、まともにボールが投げられなかった時期があったからな」

 そう言うと、片瀬は「へぇ」と目を丸くした。

「そんなに重傷だったのかい」

「ああ。だから片瀬の気持ちは、痛いほどよく分かったんだろうよ」

 そういえば、と頭の中で合点する。五月に入って、練習熱心で知られる谷口と丸井が、揃って早めに個人練習を切り上げたことが何度かあった。

 ひょっとして片瀬を見舞いに行ったのか、と一瞬思いはしたが、さほど重傷でもないから違うだろうと打ち消した。しかし、怪我の見舞いというより、退部を迷っている後輩の説得に通っていたのだとすれば、納得がいく。実に谷口と丸井らしい心配りだ。

「何にしても、よかったじゃないか。こうして復帰できたんだから」

「そうだな。けど……君には謝らないといけないな、イガラシ君」

 朗らかな声のまま、片瀬は言った。

「謝る?」

「僕が練習に出られなかった間、バッティングピッチャーまでさせてしまったようだね。君に負担を掛けてしまって、すまない」

「何だ、そんなこと気にしてたのか」

 返答しながら、腕立て伏せの姿勢になる。

「どうってことねぇよ。元々、俺が言い出したことなんだし。というか、むしろわりぃな。本職のおまえより先に、俺が“初登板”させてもらったぞ」

「そう言ってもらえたら、有り難いよ」

「ん……あぁ、そうかよ」

 おどけたつもりだったのに、片瀬が生真面目に返答したので、ずっこけそうになる。

「ところで、イガラシ君」

 妙に落ち着いた口調で、問うてくる。

「……あ、あのよ。そのイガラシ“君”っていうの、やめてくんねぇかな。“イガラシ”でいいよ、同学年なんだし。君付けで呼ばれると、なんか照れくさくってよ」

「ははっ」

 片瀬は、爽やかな笑い声を発した。

「いいとも。君でも、そうやって照れることあるんだね」

「かっからかうのは、よしてくれよ」

 声が上ずる。イガラシにとって、片瀬は今までに接したことのないタイプの相手だ。どうも調子が狂う。

「それで、イガラシ君……いや失敬、イガラシ」

 何だか言いにくそうに呼ぶので、つい吹き出してしまった。

「ああ、無理にとは言わねぇよ。“イガラシ君”の方が呼びやすいなら、別にそれで」

「そうかい。なら、そうさせてもらうよ。とにかく……君はどう思う?」

「どうって、何が」

「キャプテンだよ。さっきから、心ここにあらずという様子じゃないか。招待野球についても、『今はとにかく目の前のことに集中しよう』って、随分素っ気ない感じだったし」

 ほぉ……と、密やかにつぶやく。こいつ、ちゃんと見てやがる。

「ああ……それはきっと、素直に喜べない事情があるからだろうな」

 口元を引き締めて、返答する。

「おまえなら分かるだろ。ただの練習試合と、今度の招待野球との違い」

「大きな球場で観客も入れて実施するから、偵察され放題になるってことかい」

 即答してきた。その聡明さに、驚かされる。

「ああ。レギュラーを出して、本気で戦えば、ライバル校にうちの手の内を晒すことになる。かといって……何の備えもせず、誤魔化しで通用する相手でもない。下手すりゃ、谷原戦の二の舞だ。そうなりゃ、精神的ショックを引きずったまま、夏を迎えることになる」

 俺でも迷うだろうな、とイガラシは思った。

 強い相手と戦う機会がどれほど貴重かは、中学時代、当時丸井の所属していた朝日高校と練習試合を重ねてチーム強化を図った経験からも、身に染みている。かといって、優勝を争う他校に、現時点で手の内を晒すわけにもいかない。さて、どうしたものか。

「なるほど。キャプテンとしては、両方のリスクを天秤に掛けて、悩まざるを得ない状況ということかな」

「……九十七、九十八、九十九、百っ。ふふ、天秤ねぇ。上手いこと言うじゃねぇか」

 腕立て伏せの姿勢を崩し、仰向けになる。日の傾いた空がのぞく。

「イガラシ君……暇さえあれば、そうやって筋トレしているのかい」

「ああ……こんなの、俺にとっちゃトレーニングのうちに入らねぇよ。おまえさんほどじゃないにしても、受験で体がなまっていたからな。それに見ての通り、俺は体格面で不利だ。かといってデカい奴に負けるつもりもないし、体格を言い訳にしたくねぇんだ」

 ふいに、足音が近付いてくる。体を起こすと、谷口が微笑んで立っていた。

「珍しい組み合わせだな。ピッチャー同士、相談でもしていたのか」

「え……まぁ、そんなところです。なぁ片瀬」

「そうか。イガラシすまないが、今日もバッティングピッチャーを頼みたい。井口はまだコントロールが不安定だし、俺と松川の二人だけで回すのは、さすがに難しいんだ」

「ええ、お安い御用ですよ」

 考えるまでもなく、即答した。

「僕としても、むしろその方がありがたいです。ただの投球練習より、バッターを相手にした方が、感覚を掴めるので」

「助かるよ。選球眼を磨くには、おまえぐらいコントロールの良い投手が相手じゃないと意味がないからな。今のうちにアップを済ませておいてくれ。それと片瀬」

「はい」

 片瀬はイガラシの傍らで柔軟運動をしていたが、すぐ手を止めて返答した。

「もうちょっと回復したら、イガラシと同じことをおまえにも頼むことになる。当分は球拾いに回って、少しずつ体を慣らしていくんだ。とにかく焦るなよ」

 谷口はそう言うと、倉橋の待つグラウンド脇の簡易ブルペンへと向かった。その背中に、小さく吐息をつく。

 ほんと、よく見てるな。大したリーダーだぜ。さすがと言うほかねぇよ、谷口さん。

「イガラシ君、そういうわけだから」

 片瀬は立ち上がり、グラブを手に取る。

「肩、作るんだろ? 僕が受けるよ」

「おお。サンキュー、助かるよ」

 イガラシも投手用グラブを左手に嵌め、ボールを握った。

「念のため、キャッチボールからいくぞ。ちょっとずつ距離を開けながら。けど片瀬、おまえは軽くでいいからな」

「心得てるよ」

 互いにボールを十球近く投げ合う。

 イガラシは、片瀬のボールを捕り、投げ返すまでの一連の動作を注視した。体のどこかを庇っている様子は見られない。怪我自体は、本当に治っているようだ。

 ただ、気になることもあった。片瀬の投球フォームが、サイドスロー気味になったりスリークォーター気味になったり、投げる度に違っている。特に意識しない限り、キャッチボールの時は自分の一番投げやすいフォームになるはずだ。

「……なぁ、片瀬」

 二十メートルほど先の相手を呼ぶ。

「おまえ、確か俺らの世代のリトルリーグで、優勝したんだったよな」

「覚えてくれてたんだね。もしかして、同じ試合会場にいたのかい」

「いや。俺は用事で、行けなかったんだが……井口の奴が、優勝決定試合を観戦してたらしい。翌日、やたら興奮して話してたから」

――優勝チームのエース、片瀬っていう奴だが、おまえとそっくりのタイプだったぞ。他のチームの奴らは“小さなエース”と呼んでてよ。チビだってのに球はえぇし、何種類もの変化球を使い分けるんだ。中学でそいつを敵に回したら、厄介になるぜ。

 もっとも、井口の懸念は、杞憂に終わった。片瀬自身が、中学野球の舞台に立つことを選ばなかったのだ。

 井口の言葉を思い出し、あれ……と密かにつぶやく。

 片瀬の体躯は、細身ではあるが、高校一年生にしてはむしろ長身の部類に入る。“小さなエース”と呼ばれた頃の面影は、ほとんどない。

「なぁ。ひょっとして中学に入ってから、急に身長伸びたか?」

 片瀬は、大きく目を見開いた。

「……驚いたよ。谷口さんといい、イガラシ君といい、元墨谷二中のキャプテンは凄いなぁ。僕のこと、何でもお見通しなんだ」

「オイオイ、丸井さんを忘れてるぞ」

「ああ、もちろんだよ。あの人も、僕に何度も胸が熱くなる言葉を掛けてくれてね。とても励まされたよ」

 それは“暑苦しい言葉”の間違いじゃないのか、と言いかけたが、本人に聞かれそうなので止めた。

「……あのな、片瀬」

「ん、何だい」

「あ……いや、いいんだ。何でもない」

 口にしかけた質問を、寸前で飲み込む。やたら他人の過去を詮索するのは、褒められたことではない。

 片瀬の経歴が、ずっと腑に落ちなかったのだ。

 リトルリーグで優勝するほどの実力者が、なぜ中学で野球を続けなかったのか。同学年の根岸のように、中学の野球部が弱小だからと、あえて入部しなかった者もいる。

 だが、片瀬の出身中学は、墨谷二中のように全国上位を狙うほどではないものの、毎年地区の八強辺りには勝ち残るチカラは有していた。そもそも、片瀬の大らかな性格からして、「チームが弱い」という理由で入部しないというのも考えにくい。

 野球自体が嫌になったのか、とも思った。だが、昨年イガラシ達が出場した全国選手権大会のように、大きな試合は必ずチェックしていたというから、そうでもなさそうだ。

 しかし、片瀬がかつて“小さなエース”と呼ばれていたのを思い出したことで、ようやく一つの答えが見付かった。

 おそらく体の急な成長で、投球フォームのバランスを崩してしまったのだろう。

 片瀬ほどの実力者が、まともにボールを投げられないとなると、野球部に入らなかったのも頷ける。嫌になったのではなく、やはり離れざるを得なかったのだ。

 それでも諦めなかったのか。きっと、密かにトレーニングを続けて。俺達の中学選手権の試合までチェックして。こいつも、何だかんだで大した奴だな。

「イガラシ君。そろそろ、全力投球いこうか」

 相手に呼ばれ、思考が途切れる。

「あ、あぁ……頼む」

 頭上にグラブを掲げ、左足を踏み出し、全力で右腕を振り下ろす。勝負所で投じる速球だったが、片瀬は瞬き一つせず、難なく捕球した。

「ナイスボール!」

 掛け声の後、すぐに返球される。投球フォームのばらつきを除けば、柔らかな捕球の仕方といい、滑らかな足の運びといい、とても長らく野球から遠ざかっていた者とは思えない。

 そこから立て続けに五球、全力の速球を投じる。さらにカーブ、シュート、シンカー、そしてチェンジアップと、一通り球種を試す。どれもキレに問題はなかった。もう十分だなと思った頃合いで、簡易ブルペンの谷口から「イガラシそろそろ」と声を掛けられる。

「サンキュー片瀬」

「こちらこそ。良い刺激をもらえたよ」

 ボールを受け取ろうと右手を差し出した時、片瀬が立ち上がったので、小柄なイガラシは見上げる格好になった。長身の奴には、長身なりの悩みがあるのだな……と、妙な感慨を抱いてしまう。

 マウンドへと上り、足元の土を均す。ロージンバックを手に馴染ませてから、ボールを握る。まず肩慣らしに、七割程度の力で三球投じた。

「もう少しスピードを落としてくれ」

 まだウォーミングアップのつもりだったが、倉橋にそうリクエストされた。

「速球は六割程度。ただし、コーナーぎりぎりを突いて欲しい。それと変化球も頼む。ちと要求が多いが……できるか?」

「はい」

「もちろんサインも出す。練習試合の時と同じだ。分かるな?」

「まったく問題ありません」

 倉橋がホームベースやや後方に屈み込むと、イガラシの墨谷二中時代からの一期先輩、島田が左バッターボックスへと入った。

「島田。ツーストライクまでは、見逃すんだぞ」

 倉橋の指示に、島田は「分かってます」と短く答える。

 初球と二球目は、外角低めに速球を投じた。ただし二球目は、僅かに外へ外す。ボールがキャッチャーミットに収まった瞬間、島田が「ふぅ」と吐息を漏らす。

「ボール、ですよね?」

「そうだ。見えてたのか」

「まぁ何とか……これがツーストライク取られた後なら、見逃す勇気はありませんけど」

 倉橋と島田のやり取りが、マウンド上のイガラシの耳にも入ってくる。さすがだな島田さん。中学、高校と上位に座っているだけのことはあるぜ。

 三球目、カーブが内角の低めいっぱいに決まる。島田がこちらを睨んだ。

「カーブを一番難しい、膝元に……腕を上げたな。イガラシ」

「ど、ドウモ……」

 内心、安堵していた。カーブの制球は、シュートやシンカーほど自信がない。傍らで、倉橋が一瞬にやっと笑みを浮かべた。今の球は、ほとんどマグレ同然だったと、さすがに正捕手は分かっている。

 ツーストライク・ワンボールからの、四球目。再びカーブのサインが出された。ただし、今度は外角へ。イガラシは振りかぶり、倉橋のミット目掛けてボールを放つ。

 あっ……と、微かな声が漏れる。リリースポイントが僅かにずれた。狙った外角低めではなく、真ん中高めへと入っていく。完全な失投だ。

 やられたと思った瞬間……ガッ、と鈍い音が響く。

「キャッチャー!」

 三塁ベース手前で、谷口が叫ぶ。倉橋はマスクを取り、ほんの数歩後退しただけで、難なくボールをミットに収める。

「どうした島田。今のは、打って当たり前のコースだぞ。おまえらしくもない」

「スミマセン。まさかイガラシが、あんな甘いコースに投げてくるとは思わなかったので」

 力んだのか。だとしても……対応力のある島田さんなら、咄嗟にセンター方向へ弾き返すくらい、わけもないはずだ。いつもの島田さんなら。

 再び、島田が今度は右打席に立つ。スイッチヒッターの島田は、いつも左右両打席で練習していた。さすがに、ミスを繰り返すことはなかった。ツーストライク・ワンボールまで見逃した後、四球目の外角低めへの直球をきっちりライト前へ弾き返す。

 続けて、十人の打者に投じた。

 何度か打ち損じや空振りはあったものの、どの打者も二打席目には捉えてきた。鋭い打球が内野手の間、外野へと次々に飛んでいく。

「いいぞイガラシ」

 倉橋がそう言って、返球する。

「内外角の際どいコースに出し入れできるから、打者にとってはストライク・ボールを見極める良い練習になってる。これにスピードが加わると、シード校クラスでもそうそう打てないだろうな」

「あ、ありがとうございます」

「うむ……何だ。今日は妙に、素直だな」

 一瞬訝しげな眼差しを向けるも、倉橋はすぐにマスクを被り、ホームベース後方に屈み込んだ。暇もなくサインが出される。

 あっ……と、イガラシは声を発しそうになった。

 そういやぁ、今日……外野の頭を越した打球が、一球もない。いや、今日に限らず、昨日、一昨日の松川さんや谷口さんが投げた時もそうだ。この頃、“長打”が明らかに減ってきている。これは……ちょっと、マズイんじゃ。

「タイムっ!」

 ふいに谷口が叫ぶ。そして、こちらに駆け寄ってきた。

「イガラシ」

 口元をグラブで覆うようにしながら、囁いてくる。

「色々と考えてくれているのはありがたいが、今はあれこれ悩むな。俺が責任を持つ。おまえは何も気にせず、プレーに集中してくれ」

「は……はい」

 くそっ、戸惑いが顔に表れていたのか。情けねぇ。

 谷口がサードのポジションに戻ると、プレーが再開された。倉橋がさっきと同じサインを出す。外角低め、真っすぐ。

 天秤か……と、さっきの片瀬の言葉が脳裏に反すうされる。

 あいつ、ほんと上手いこと言ったもんだな。チーム強化と情報管理。チームと個人。練習メニューの一長一短。どれもなかなか、すっきり上手くはいかないということか。

 雑念を振り払うように、イガラシは大きく振りかぶる。そして、倉橋の構えるミット目掛けて、右腕を思い切り振った。

 

次回<第11話「キャプテン谷口の決意」の巻>へのリンクは、こちらです。

 

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第1話~第8話へのリンクは、こちらです。

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