南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

もし自分が“大船渡高校野球部監督”だったなら、佐々木朗希の起用法をどうするか考えてみた<2019年 選手権・沖縄県大会>

【目次】

 

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0.はじめに

 

 高校野球における「球数制限」の議論について、今最も旬な話題といえば、大船渡高校の主戦投手・佐々木朗希の“決勝戦登板回避”だろう。

 

 賛否両論あるのは当然だと思う。また、佐々木を登板させなかったことについて、同校へ抗議(?)の電話を掛けた大馬鹿者が多数いたらしいが、ただの迷惑行為でしかない。当人達が納得してさえいれば、外野が口を挟むべきではない。

 

 そう、当人達が納得してさえいれば……

 

1.足りなかった「言葉」

 

 この件について、ネット上で次の記事を見付けた。単に持論を展開するのではなく、きちんと現場を取材した方の意見なので、かなり信憑性の高い記事だと判断した。

 

number.bunshun.jp

 

 佐々木のように、有望選手の才能を守ることを優先すべきか。あるいは、ここが高校三年間の集大成として、多少のリスクを背負ってでも全力を尽くすべきか。……どちらも「正論」ではあるし、おそらく答えは出まい。

 

 ただ重要なのは、記事にもあるように「選手達が納得していたか」どうか。より具体的に言えば、納得“できる”ような働きかけを、監督・部長始めチーム関係者が、選手達に対して十分に行っていたか。その一点に尽きる。

 

 記事を読む限り、おそらくそれが……不十分だったのだろう。

 

2.もし自分が監督だったとしたら

 

 いささか不遜な想像ではあるが、自分が“大船渡高野球部の監督”だったとしたら……と考えてみる。

 

 私なら、前日のミーティングにて、まず佐々木抜きで部員達を集める。そして正直に、佐々木を「明日投げさせると故障のリスクがある」という旨、さらに「ここまで甲子園を目指すために頑張ってきたが、将来のある佐々木に無理をさせたくない」と本音を告げる。

 

 ここで、選手達に「どう思うか?」と尋ねる。

 

 いろいろな反応があることは予想される。大事なのは、選手達の意見を「受け止める」ということだ。自分(監督)と意見が違っていても構わない。繰り返すが、一度はお互いに腹を割って話したという事実が重要なのだ。

 

 ここからは推測。おそらく大船渡の選手達ならば、「佐々木のおかげで決勝まで来られたのだから、あいつの好きにさせて欲しい」と言うだろう。ここで「分かった」とだけ返答し、一旦解散する。

 

 次に、佐々木を呼び出す。

 

 佐々木には、はっきりと「故障のリスクがあり、本音では投げさせたくない」という本音、部員達が「おまえの好きにさせて欲しい」と言っていたこととを両方伝える。

 

 ここでも重要なのは、本音を引き出すこと。「投げたい」でも「投げたくない」でも、どちらでも構わない。とにかく一度、“監督は俺の思いを受け止めてくれた”という事実が大事なのだ。

 

 そして、おそらく佐々木のことだから「投げたい」と口にするだろう。

 

 私(監督)は「分かった」と返答し、その上で「ただし試合中、少しでもおかしな兆候が見られたら降板させる。それでもいいか?」と念押しする。こう言えば、さすがに本人も納得するだろう。

 

 迎えた当日。球場へ出発する前のミーティングで、佐々木本人に自分の思いを語らせる。

 

――監督には、怪我と将来のことを心配された。でも、俺にとってはみんなと戦う最後の夏が大事だからと、ワガママを聞いてもらった。その代わり、俺はみんなのために全力で投げる。みんな、それでいいか?

 

 チームを引っ張ってきたエースの言葉に、全員の覚悟と結束が固まるだろう。ここまでやれば……たとえ、初回で一死も取れずに降板となったとしても、誰もが「仕方ない」と納得するだろう。

 

3.高校球児の“主体性”と“三年間の重み”を無視すべきではない

 

 この「球数制限」に限らず、高校野球を巡る様々な意見を見聞きする度に思うのだが、意見自体の是非は別として、どうも高校球児の“主体性”と“三年間の重み”というものの存在が、軽く扱われがちである。

 

 高校球児は、断じて監督や大人達の“ロボット”ではない。

 

 厳しい指導で知られる興南我喜屋優監督も、沖縄県大会決勝において、体力の限界を迎えつつあった宮城大弥に降板を促しはしたが、最終的には本人の意思を尊重した。

 

www.youtube.com

 

 我喜屋監督が、単に勝利至上の監督なら、最初から降板を促しはしない。あるいは、故障のリスクを思うのなら、本人の意思を問うことなく、強制的に降板させていたはずだ。

 

 降板を促した上で、結果的に最後まで交代させなかったのは、やはり宮城本人の意思、彼らの“最後の夏”に賭ける思いを尊重したからだと思う。我喜屋監督でさえ、それを軽く扱うことはできなかったのだ。

 

 投げさせるにしても、投げさせないにしても、その“重み”を理解した上での意見でなければ、当事者である彼らには届くまい。

 

4.どっちが良い、悪いの話ではない

 

 酷なようだが、大船渡高野球部には、監督と選手達との間の“共通理解”が、十分でなかったように感じる。

 

 前回エントリーでも述べたが――目的は「甲子園へ行くこと」なのか「佐々木をプロで活躍する選手に育てること」なのか。

 

stand16.hatenablog.com

 

 

 

 

 どっちの結論が良い、悪いの話ではない。

 

 はっきりと「甲子園へ行くこと」が目的なのだとしたら、たとえ故障のリスクがあったとしても、それを貫徹すべきである。直前で方針転換するとしたら、他の部員達が納得できるように、何度でも話し合いを持つ必要があった。

 

 あるいは、佐々木の将来を考えるなら、そういう選手起用もあり得ると“大会の開幕前”に伝えるべきだ。

 

 共通理解が十分に図られていなかったから、試合後の腑に落ちない選手達の表情があったのだろう。

 

5.まとめに代えて ― 大船渡高野球部に足りなかったもの ―

 

 結局のところ――この件において、足りなかったのは「言葉」である。

 

 佐々木のエースとしての思い、他のチームメイトの思い、監督の思い、父母の思い。……それらを虚心坦懐に、お互い打ち明ける「言葉」があったなら。たとえ“登板回避”という結果は同じだったとしても、まるで違った試合後の光景があったのではないか。

 

 繰り返すが、基本的にはこの件、外野があれこれ口を挟むべきではない――そう、当事者が納得できているのであれば。

 

 しかし、この“納得”ということと、高校球児にとっての“三年間の重み”ということ。それがあまり理解されなかったという点が、今回のケースにおける「寂しさ」の正体ではないかと私は思う。

 

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