【目次】
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<登場人物紹介(その7)>
鈴木:二年生。ポジションはライトだが、現在は控えに回されがちである。当初は野球未経験であり、「このごろ太ってきたから」という理由で入部した。それでも飲み込みが早く、経験のあった半田を抜くのに、そう時間はかからなかった。
(※学年は、アニメ版『プレイボール』に合わせます。)
部長:墨高野球部の顧問。野球よりも、練習熱心なあまり学業がおそろかになりがちなナインを心配し、シーズンオフには補習を開いていた。自宅は、埼玉の所沢にあり、片道二時間かけて通勤している。
野球に関しては素人だったが、毎日練習に顔を出すうち、松川の不調を見抜くなど徐々に野球を見る目も養われていった。
第7話 とられたら、とり返せ!の巻
1.苦しい序盤戦
迎えた日曜日。荒川球場にて、墨谷と箕輪の練習試合が開始されようとしていた。
一回表、すでに後攻の墨高ナインは守備位置に着く。
マウンド上には、先発の松川が立ち、試合前の投球練習を始めている。受けるのはキャッチャーの倉橋。ファースト加藤、セカンド丸井、ショート横井。そしてサードには、いつもの谷口ではなく、一年生のイガラシが入っていた。
さらに外野は、レフト戸室、センター島田、ライトにこちらも一年生の久保。相手の攻撃力を考慮し、守備の巧い三人を起用した。
ナイン達にとって、願ってもない強敵との対戦である。しかし、残念ながらキャプテンの谷口を負傷で欠く。
また、もう一つあいにくだったのが……ちと雲の量が多すぎる。
ほぼ無人のスタンドは、静まり返っている。
グラウンド上空に、灰色の雲が集まってきていた。湿気が纏わりついてくる。今朝の予報によれば、正午頃から雷を伴う雨となるらしい。
「これ、九回までもつかぁ?」
横井が傍らで、屈伸しながらつぶやく。
ジャンプを繰り返しながら、イガラシは答える。
「……よっと。ただ夏大を思えば、雨天時のゲームを経験しておくのは悪くないですけど」
「おまえよく、そんな先のことまで考えてられるな」
横井が腕組みをして、呆れたように笑った。
イガラシは、小さくかぶりを振る。ほとんど無意識の仕草だった。横井が「む……どうした?」と怪訝そうに問うてくる。
「あ、いえ……なんでも」
球場入りしてから、何だか落ち着かない。この今にも崩れそうな空模様が、波乱含みな試合展開を暗示しているような気がした。
現象の一つは、すでに現れている。
倉橋が掛け声を発しながら、両肩を回すジェスチャーをした。その視線の先に、松川がスパイクで足元を均している。明らかに落ち着きがない。
まずいな、とイガラシは思った。
どうも昨日から、松川のボールが浮きがちだ。先週の大島工業戦では、ほぼベストピッチングを披露していたから、怪我でもしたのかと心配になった。もっとも倉橋とのやり取りを聞いていると、時々あるらしい。
ふと、三塁側ベンチ横のブルペンを見やった。二番手として登板予定の井口と根岸が、早くもキャッチボールを始めている。
井口に、アップ急がせた方がよさそうだな。松川さん、なんとか踏んばってくれりゃいいが……制球難に付け込まれたら、ひとたまりもねぇ。
こちらの懸念をよそに、アンパイアが「プレイボール!」とコールする。
箕輪の先頭は、上林という細身の打者だった。軽やかな足取りで、右バッターボックスへと入る。
見るからに華奢ではあるが、イガラシは警戒すべき打者だと感じた。素振りや屈伸運動の様子を見ていると、一つ一つの動きに無駄がなく、それに柔らかい。足も速そうだ。
駿足巧打。トップバッターには、まさに打ってつけのタイプだろう。
倉橋がサインを出す。どうやら、初球はカーブを外にはずして、打者の反応を見るつもりらしい。松川はうなずき、足を上げて第一球を投じる。
その瞬間、イガラシは「やられたっ」と声を発した。
松川のカーブが、倉橋の構えた外角低めよりも、真ん中寄りに入ってくる。明らかなコントロールミスだ。上林は、躊躇なくフルスイングする。
「センター!」
倉橋がマスクを取り、叫ぶ。センターの島田が背走し始めた時には、フェンスにボールが直撃していた。上林は駿足を飛ばし、あっという間に一塁を回り、二塁ベースも蹴った。
中継のボールが、ショートの横井へと返ってくる。その間、上林は悠々と三塁を陥れていた。スリーベースヒット。
すぐに倉橋がタイムを取り、マウンドへ駆け寄った。松川は、いきなりの一打に面食らったのか、呆然としている。
「どうした松川。今のは、完全に失投だぞ」
「……は、はいっ」
「なんでぇ、そのザマは。こんなんじゃ、箕輪どころが、その辺のチームにだって打たれちまうぞ。しゃきっとしろい」
先輩の叱咤に、松川はようやく我に返ったようだ。一度深呼吸して、気合を入れ直すかのように唇を結ぶ。
「……す、すみません。もっと強気でいきます」
「そうだ、その意気だっ」
後輩の返答に、僅かながら倉橋も安堵しだようだ。足取り軽く、キャッチャーズボックスへと戻っていく。
続く二番は、清水という小柄な左打者だった。背格好が弟の慎二と似ている。
メンバー表によれば、なんと彼が先発登板するという。データでは、この男が投げた記録はなかったから、正規のポジションは野手だろう。やはりナメられたのか……と苦々しい気持ちになる。
ただ投手ができるだけあって、足腰は強そうだ。おまけに素振りといい屈伸といい、すばしっこい選手特有の動きをする。塁に出すと厄介だろう。
清水に対し、墨高バッテリーは簡単に追い込む。初球は外角の真っすぐがボール、あとはシュート、カーブと変化球を続ける。今度は内外角の厳しいコースに決まった。
そして、四球目。松川は勝負球として、真っすぐを外角低めへと放る。
ナイスボール、とイガラシが言いかけた時、清水がバットをはらうように差し出す。直後、小気味よい音がした。ショートの横井がジャンプする、その頭上をボールが越える。
レフト前ヒット。三塁走者の上林が、ゆっくりとホームへ返ってきた。
「ドンマイ! ボールは悪くなかったぞ」
倉橋がミットを取り、すかさず松川を励ました。他のナイン達も、「一点ぐらい何でもない」「ここからだ、切り替えろ」と声を掛ける。
やばいぞ……と、イガラシは唇を噛んだ。
真っすぐと変化球、両方とも打たれた。しかもさっきの真っすぐは、松川さんのほぼベストボールだ。そのへんのチームならともかく、箕輪ほどのレベルとなれば、間違いなく「打てる」と判断したはず。こりゃ、止められないかも……
イガラシの予感は、当たった。
次の三番児玉への初球、箕輪はエンドランを仕掛ける。児玉は外角のカーブを引っ張り、一・二塁間を破る。
ノーアウト一塁三塁として、迎えた四番堤野(つつみの)は、松川が力んで高めに浮いた真っすぐを見逃さず、振り抜いた。
「レフト、バックだ!」
倉橋の声に、戸室が懸命に背走する。しかし、途中で足を止めた。コーンという外野席のボールの弾む音が、やけに響く。
「す、スリーラン……」
悪夢のような光景に、イガラシは目眩を覚えた。そのすぐ横を、箕輪のランナーが次々と通り過ぎ、ホームベースを踏んでいく。
倉橋がまたタイムを取り、今度は内野陣全員を呼び集める。
マウンド上。松川は青ざめた顔をして、宙に視線を泳がせていた。すでに、肩で息をし始めている。それでもナイン達の顔を見ると、気丈にも「だ、だいじょうぶです」と微笑を浮かべた。さすがに頬の辺りが引きつってはいるが。
「仕方ねぇ、向こうの方が上回っている」
ぽんと松川の背中を叩き、倉橋は諭すように言った。
「気落ちするなよ松川。こういう相手だと、分かってたんだからな」
丸井が「まったくだ」とうなずく。
「いい経験、させてもらってると思え。ビビってたら、もったいないぞ」
「は、はい……」
松川はそう返事して、帽子のつばを直す。この時、谷口もベンチから出て、こちらに駆けてきた。マウンドに来るや否や、「きりかえろよ」と声を掛ける。
「まだ初回だ、なんとか踏んばってくれ」
キャプテンの激励に、二年生投手はもう一度うなずく。
タイムが解けた後、松川と倉橋のバッテリーは、何とか流れを変えようと試行錯誤を繰り返した。ボールを散らしたり、牽制球を多投したり、間を長く設けたり。
それでも、一度火のついた箕輪打線を、なかなか止めることができない。
松川は、次の五番打者にツーベースヒットを許すと、続く六、七番に連続で四球を与えてしまう。ついにノーアウト満塁。
ここで谷口が、再びベンチを出る。今回はマウンドに来ず、ブルペンを指さし叫んだ。
「井口! 松川と交代だっ」
2 リリーフ・井口
井口は、スパイクを踏みつけるようにして、マウンドを均した。それからロージンバックを手に取り、指に馴染ませる。一連の動作が、どうも慌ただしい。
「……ちょっとすみません」
イガラシは周囲に断り、マウンドへと駆け寄る。
「こら井口。ブルペンで、ちゃんと準備してたかよ」
「む……あ、あぁ」
幼馴染は、苦笑い混じりに答える。
「もちろん、してたさ。いちおう」
「い……いちおう、だとっ」
つい口調が激しくなる。
「てめぇ何のために、先発から外してもらったと思ってんだ。登板が早まるかもしれねぇから、いつでも行けるように備えておくためだろ」
「し、仕方ねぇだろ。まさか……こんなに早くなるなんて」
傍らで、倉橋が「まぁまぁ」となだめる。
「そうイキリ立つなよ。誰だって、想像できねぇさ。あの松川が、ワンアウトも取れずに降板するハメになるとはよ」
その松川は、ベンチに座ってうなだれている。唇を結び、さっきまで自分が立っていたマウンドを睨んでいた。その隣で、キャプテン谷口か何か声を掛けている。
誰も責められない。たしかに本調子ではなかったとはいえ、ほんの少し弱みを見せただけで、あれほど容赦なく畳み掛けてきたのだ。それは箕輪が、あの谷原と匹敵するほどの実力校であることを、まさに証明する結果だった。
「ふぅ……こうなったら、強気でいくしかねぇ」
一つ吐息をつき、倉橋が言った。
「初球からシュート。いけるな?」
意外だったらしく、井口は「へっ?」と目を見開く。
「い、いきなりスか?」
「ああ。この期に及んじゃ、おまえのベストボールで勝負するしかねぇ。頼むぞっ」
「は、はいっ」
先輩の檄に、さしもの井口も背筋が伸びる。
イガラシと倉橋がポジションに戻ると、すぐにアンパイアが「プレイ!」と声を掛けた。相手の足を警戒し、井口は念のためセットポジションから、一球目を投じる。
パシッと音がした。速いゴロが、ショート右を襲う。
横井が「ぐっ」と、呻き声を発した。体で打球を止めたのだ。一旦は前にこぼすが、すぐ拾い直してバックホームする。
アンパイアは、少し間を置いて「アウト!」とコールした。周囲から、安堵の吐息。それはすぐ歓声へと変わる。
「ナイスプレーよ、横井!」
「よく止めてくれたっ。今のは一点、いや二点分防いだぞっ」
横井は「いてて……」と胸元をさすりながらも、得意げな笑みを浮かべた。
「だ、だいじょうぶですか?」
さすがに怪我が心配だったので、声を掛けた。横井は「なぁに」と、やや顔を歪めながらも力強く答える。
「俺達……あの谷口に、ずっと鍛えられてたからな。これぐらい、どうってことねぇよ」
強がる横井は、自分の胸を「まかせとけ」と拳で打ち、また痛がった。イガラシはつい、吹き出してしまう。
次の九番打者も、初球を叩いた。井口の速球に力負けしたものの、ふらふらっとショートとレフトの中間地点に上がる。
ポテンヒットか……と思った瞬間、レフトの戸室が飛び付く。
地面すれすれで、戸室はグラブに収めた。同時に、三塁ランナーがタッチアップからスタートを切る。
戸室はすばやく、中継のイガラシに返した。それを捕球してすぐ、イガラシは軽く助走を付けてバックホームする。本塁上のクロスプレー。僅かに、土煙が舞う。
「……アウト! スリーアウト、チェンジっ」
イガラシは起き上がり、マウンドを降りる井口に怒鳴る。
「コースが甘いっ。これじゃあ二巡目には、捉えられるぞ」
「わーってるよ、うるせえな」
井口も言い返してくる。
「エンジンかかるのは、ここからだ。俺のボールをナメるなよ」
「だといいがな」
憎まれ口を叩きながらも、イガラシは内心祈った。
ほんとに頼むぜ、井口。谷口さんが投げられず、松川さんも下がった今……ここはもう、おまえに踏んばってもらうしかねぇ。
イガラシは立ち止まり、ふと視線を移す。その目に、箕輪ナインの陣取る一塁側ベンチの光景が飛び込んでくる。
静かだった。
ちょっとした戦術や連係の確認だろうか。短く会話する程度で、あとは黙って道具を並べたり、スパイクの泥を落としたりしている。初めて目にする、相手チームの雰囲気だ。
なんだよ、みょうに淡々としやがって。四点取って喜ぶでもなく、チャンスを逃して落胆するでもなく。
そういやぁ、と胸の内につぶやく。
箕輪のやつら、先週のうちと浦和商工の試合、見てたんだよな。それなら、どうして後続の二人とも、初球から手を出してきたんだ。井口のボールがそう簡単に打てる代物じゃないってことぐらい、分かってたはずなのに。
いずれも、右打者の内角へのシュート。井口の最も威力あるボールだ。
ちらっと空を見上げた。雲がいつの間にか、黒ずんできている。やがて、頬に冷たいものが落ちた。チームメイト達が「雨だ」「とうとう降ってきたか」と口にする。イガラシは、ひそかに溜息をついた。
くそっ、ちっとも先が見えねぇ……
イガラシの不安は、ほどなく形として現れてくる。
やはり全国屈指のチーム・箕輪である。続く二回には、井口のシュートを早くも捉えだし、初安打を記録。この回、さらに三回と、得点には至らないものの、少しずつ塁上を賑わせるようになってきた。
しかし、墨高も黙ってはいない。
箕輪の先発は、やはり清水だった。その緩急を使ったピッチングに、初回こそ三者凡退に終わったものの、二回に倉橋が初安打を記録するなど、こちらも段々とチャンスを作れるようになってきた。
やがて試合は、箕輪の四点リードのまま、中盤へと差し掛かる。
四回表。墨高はツーアウト満塁とされるも、井口が最後は力でねじ伏せ、辛うじて無失点で切り抜けた。
その裏。ピンチを凌いだ墨高の攻撃は、五番のイガラシからである。
3 反撃、そして……
真っすぐが、外角低めいっぱいに決まる。
「ストライク!」
アンパイアのコールを聴きながら、イガラシは「へぇ……」とつぶやいた。
この清水ってやつ。ちいせぇナリして、けっこう……いい球放るな。思ったよりスピードはあるし、制球も悪くない。球種も多彩だ。長いイニングは無理としても、試合の終盤辺りに、ぽんと目くらましに出てこられたら、あんがい手こずるかも。
打席を一旦外し、軽く素振りする。けどよ……と、眼前の清水を睨む。
わりぃが、引っぱりすぎたな。いくら良くたって、谷原の村井あたりと比べりゃ、はっきりと格は落ちる。ナリに惑わされるのも、せいぜい二打席目までだ。
前の打席はサードライナー。結果こそアウトだったが、しっかり振り抜けた。次はヒットにできると、イガラシは確信していた。
二球目はカーブ、三球目にシュート。いずれも際どいコースだったが、ボールと見極める。四球目は内角高めに真っすぐ、これはカットした。そして、五球目。清水の投じた緩いボールが、ホームベース手前で沈む。
やはりチェンジアップか。引っかけさせようとしてくると、思ったぜ。
前日の練習通り、やや掬い上げるようにして、ピッチャー方向へ打ち返す。低いライナーが、二遊間を抜けていった。センター前ヒット。
「ナイスバッティング!」
「よく打ったイガラシ。またノーアウトのランナー、今度こそモノにしようぜ」
チームメイトの歓声に、イガラシは苦笑いする。
これで三イニング続けての、ランナーだな。でも……ここからが、箕輪はなかなか行かせてくれねぇんだ。
予想通り、墨高はランナーを進塁させるのに手こずる。
続く六番横井は送りバントを失敗。通常なら成功している打球だったが、箕輪のサード武内が鋭くダッシュして捕球し、二塁フォースアウト。さらに七番の戸室は、初球のカーブを捉えたものの、ライナーがセンター正面を突く。あっという間にツーアウトとなった。
「……あぁ、くそっ」
悔しげにセンターを睨む戸室と入れ替わるようにして、久保が右打席へと入ってきた。
「久保、ねらってけ!」
イガラシは、ベンチから声援を送る。
墨二時代、久保は三番打者として、イガラシとともに全国優勝の立役者となった。今日は守備の安定感を買われての起用だったが、本来の武器はバッティングだ。長身の堂々たる体躯ながら、鋭くしなやかなスイングができる。
初球。久保が、外角へのカーブを狙い打ちした。打球は、飛び上がった箕輪のセカンド・児玉の頭上を越えて、ライト前に落ちる。
「うまいっ」
傍らで、谷口が感嘆の声を発した。思わず、ふふっ……と含み笑いが漏れる。そして、ゆっくりと打席へ向かう大きな背中に、イガラシは怒鳴った。
「いい場面じゃねぇか。たのむぜ、井口!」
幼馴染の声援に、井口は小さくうなずいた。集中しているらしく、いつもの憎まれ口は叩かない。打席に入ると、自然体でゆったりと構える。
直後、三塁側ベンチが沸いた。
初球の真っすぐを振り抜いた井口の打球が、鋭いライナーで右中間を破る。ボールは二度バウンドして、フェンスにぶつかった。
まず横井、続いて久保がホームに返ってくる。その間、井口はスライディングして三塁ベースに達した。
「へへっ。どうだイガラシ、見たかぁ!」
何のアピールなのか、こちらに拳を突き上げる。イガラシは聴こえないフリをして、ぷいと横を向いた。
けっ。一人でオイシイところだけ、さらっていきやがって……まぁこれで、つぎの回から気分よく投げてくれりゃぁいいか。
「……おいイガラシ」
ふいに袖口を引っ張られる。振り向くと、谷口がマウンド上をちょんちょんと指さす。
「彼ら、まだ清水を続投させる気らしいぞ」
マウンド上では、清水が手の甲で、額の汗を拭っていた。表情はまだ、ポーカーフェイスを保っている。さらに箕輪ナインは、タイムすら掛けない。
「あくまでも練習試合。今日のところは、やつがどこまで踏んばれるのか、見ておこうってトコでしょうね。公式戦では、目くらましのワンポイント起用くらいでしょうが」
打順はトップに帰った。丸井がゆっくりと、右打席へと入っていく。
その初球。内角低めの真っすぐを、丸井は振り抜いた。ライナー性の打球が、レフト線を襲う。ファールラインのぎりぎり内側でワンバウンドする。
ツーアウトのため、すでに三塁ランナーの井口はスタートを切っていた。ゆっくりとホームベースを踏む。
丸井は一塁ベースを蹴り、二塁へ向かいかける。
ところが箕輪のレフトが、素早く回り込んで捕球して中継のショートへ返す。さらにショートの児玉が、二塁ベース上へ矢のような送球を放つ。ノーバウンドのストライク返球。丸井は、慌てて一塁へ引き返す。
「くそうっ」
一点差とするタイムリーヒットを放ったにも関わらず、悔しげに空を仰いだ。
「丸井、ナイスバッティング!」
イガラシの傍らで、谷口がベンチから叫ぶ。キャプテンに励まされ、丸井は引きつった顔ながらも、拳を握り応えた。
「ははっ。二塁へ行けなかったのが、よほど悔しいようですね」
「ああ……しかしあのショート、すごい送球だな。さすがよくきたえられてる」
「ええ。ただ丸井さんも、真っすぐの球威が落ちているのを分かって、しっかり狙い打ちましたよね。あの人もうでを上げて……むっ」
もう一言、イガラシが付け加えようとした時だった。
こちらのすぐ手前を、ボールが横切っていく。方向からしてグラウンドではない。ベンチを出ると、一塁側ベンチ横のブルペンにて、箕輪の控えキャッチャーがこちらに手を挙げている。
「すみませーん。だいじょうぶですか?」
どうやらリリーフピッチャーの投球練習が、逸れてしまったらしい。
「ぼく返してきます」
ボールは、三塁側ファールグラウンドの芝に引っ掛かり、思いのほか近くに留まっている。イガラシはそれを拾うと、一旦バックネット近くまで行ってから、投げ返した。
「ありがとうございました」
相手の一礼に、こちらも「ドウモ」と会釈する。すぐに踵を返し、ベンチへ帰ろうとした、まさにその時だった。
「あいかわらず、ハデな試合してんな」
明らかに、聞き覚えのある声だ。イガラシはすぐに周囲を見回す。そして、後方のバックスタンドを見上げ、あっ……と声を発した。
小柄なウインドブレーカー姿の少年が、不敵な笑みを浮かべている。
胸元には、漢字で「東実」の二文字。もっとも、そんなものなどなくても、容易にその名前を諳んずることができた。
目が合うと、少年は「やぁ」と朗らかに言った。
「……佐野、さん」
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