南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

学校教育に纏わる”極論”に反論する!<雑記帳「日々、感じたこと・考えたこと」>

 数年前に書店で立ち読みして、非常に気分が悪くなった本である。この時、私はすでに学校教育から離れていたが、ものの数十秒で放り投げたくなった。

 本当に教員が書いたのかと疑わしいほど、やたら攻撃的なわりに中身が浅く、著者の傲慢さと尊大さばかりが鼻に付く一冊だ。

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 わりと高評価のレビューもあり、それもまた悲しい。だが、学校現場を知らない一般の人にとっては、この本の主張が正しいと勘違いされるのも、無理からぬことなのかもしれない。

 

 同著に限らず、学校教育に纏わる言説には、やたらと“極論”が現れがちである。単に現れるだけではなく、なぜかそれが“一定の説得力”を持ってしまうものだから、始末が悪い。

 

 そこで、今回は学校教育に纏わる“極論”について、反論を試みることとする。私も教育現場から離れて久しいが、まったくの経験皆無ではないので、多少の説得力はあると思う。

 

極論1:塾があれば、学校なんてイラナイのでは?

→ 学校がなくなれば、塾が「学校の役割」をしないといけなくなるだけ!

 

 塾の先生の方が、学校の先生よりもずっと、教え方が分かりやすい。いっそのこと、学校なんかなくたって、塾だけあれば良いのでは?……この類の意見、教育に関心のある方なら、一度は目にしたことがあるのではないだろうか。

 

 私の答えは、簡単である――だったら試しに学校をなくしてみれば良い。「生徒指導(生活指導)」「地域との連携」「特別支援教育」……学校が担っている、これらすべての機能を、塾が引き受けるハメになるだけだ。

 

 さらに、格差社会と言われる昨今、子供を塾に通わせられる家庭は限られてきている。まさか、経済的に余裕のない家庭の子供は、教育を受けさせなくて良いとでも?

 学校をなくすということは、明治維新以降、我が国が貫いてきた「教育の機会均等」という理念を否定することである。

 

極論2:「教員免許」って何のためにいるの? むしろイラナイのでは……

→ 「教員免許」とは、学校現場における“信用証明”のようなものである!

 

 これも最近、ちょくちょく見かける。教師の不祥事のニュースが、度々メディアなどで取り上げられるから、何のための教員免許だと言いたい気持ちは、まぁ分からなくもない。

 

 ただ、逆に考えて欲しい。

 

 教員免許を与えられても、不祥事を起こす人間がいるのである。これで、教員免許ナシでも教壇に立てるようになったとしたら……ますます教師として不適格な人間が、学校現場に溢れてしまうではないか!

 

 また、一口に「先生」といっても、学校には様々な立場の人が働いている。

 

 各都道府県によって呼称は違うだろうが、教員免許を保持し、かつ採用試験に合格した先生を通称“本務(教員)”と呼ぶ。しかし、“本務”の先生だけだと足りないので、まだ試験には通っていないが免許は持っていない人を“臨時的任用(教員)”として追加で採用する。そうしないと、学校は回らないのだ。

 

 また、最近では「特別教育支援員(通称“ヘルパー”)」「学習支援員」「教育相談員」など、一般の教員とは異なる立場で、学校現場に関わる人も大勢いる。

 

 どんな立場であれ、子供達の教育活動に携わるのである。いい加減な人間を雇い入れるわけにはいかない。単に知識が秀でているだけでも、人格が素晴らしいというだけでもダメだ。その両方をバランスよく満たした人物でなければ、教育者は務まらない。それをどうやって、見極めるのか。

 

 最も確実な方法は……「教員免許」の有無、それしかないだろう。

 

 そう。学校現場において「教員免許」とは、その人物が教育者として、とりあえず適格かどうかを示す“信用証明”のようなものなのである。

 

 もちろん、免許があるからといって、全員が本当に教育者としてふさわしいとは、言えない部分もある。だからといって、教員免許をなくしてもいいと言うのは、「運転免許があっても交通事故を起こす人はいるのだから、運転免許はなくてもいい」と主張するのと同じ暴論だろう。

 

<まとめ>

 

 それにしても、なぜ学校教育に纏わる言説には、かような“極論”が罷り通ってしまいがちなのだろうか。

  私が思うに、それは「誰しも学校に通ったことがあるから」だろう。

 通ったことがあるから、学校のことが“分かった気”になってしまう。しかも、「自分自身の体験を基準に考えてしまう」のだろう。

 実際には、子供の目線と教師の目線、あるいは保護者の目線と教師の目線とでは、まるで断崖にも似た、大きな隔たりがあるというのに……