【目次】
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<登場人物紹介(その9)>
岡村:一年生。右投右打。原作『プレイボール』には名前のみ登場。OBの田所にスカウトされた一人。中学時代は、駿足・強肩の“オールマイティ”の選手として活躍した。
第9話 あせるな墨高バッテリー!の巻
1.イガラシの気づき
墨谷対箕輪の練習試合は、前半五回を終えて三対五。打撃戦の様相を呈していた。
初回にいきなり四点を奪われた墨谷だったが、リリーフ井口の力投で箕輪の勢いを止めると、四回裏に反撃し三点を返す。
直後の五回表、犠牲フライにより一点を追加されたものの、甲子園出場校相手に二点ビハインドという展開は、大健闘といって良かった。
迎えた六回表。マウンドには、ついにイガラシが上がる。
またイガラシ登板に伴い、サードには中学時代、オールマイティーの選手として鳴らした岡村が起用された。さらに攻撃時を考え、井口はレフトで残し、戸室を下げる。
この回――箕輪の攻撃は、厄介な一番打者・上林からである。
第一球。外角低めに構えた倉橋のミット目掛け、イガラシは速球を投じた。その瞬間、上林はバットを寝かせる。
くっ……初球から、セーフティバントかよ。
マウンドを駆け下りる。ボールは、三塁線に転がった。この回からサードに着く岡村が「まかせろっ」と素早くダッシュして拾い、送球する。しかし加藤が捕球する前に、上林は一塁ベースを駆け抜けていた。
「ファール!」
一塁塁審のコールに、イガラシは安堵の吐息をつく。
あぶねぇ。代わったばかりの岡村をねらうとは、ほんと油断もスキもねぇ。しかも、あんな外角の球をきれいにサードへ転がすたぁ、なんて技術の高さだ。
「イガラシ、どんどん打たせろっ」
岡村がサードのポジションに戻り、声を掛けてくる。
「おまえはピッチャー前だけ処理すりゃいい。あとは全部、俺がさばく」
「そりゃ頼もしいな。けど……もう数秒早く、前に出ねぇと」
イガラシの突っ込みに、岡村は「あらっ」とずっこける仕草をした。
とはいえ、今のダッシュからフィールディングまでの動きは、スムーズだったな。内外野、どこでも守れるってか。岡村のやつ、さすがオールマイティーの選手として鳴らしただけのことはある。
倉橋が二球目のサインを出した。イガラシはうなずき、投球動作へと移る。
内角の胸元へ喰い込むシュート。上林は反応せず。三球目に内角へ真っすぐ、四球目には外角へカーブを投じたが、これも手を出さない。一球外れ、もう一球は決まり、イーブンカウントとなる。
なんだ? まるで反応するそぶりも見せないなんて。この人、打つ気がないのか……?
不気味に感じながらも、次のサインを確認する。倉橋の指が「内に落とせ」と告げる。イガラシはうなずき、振りかぶった。
途中までシュートと同じ軌道、ホームベース付近に差し掛かった辺りから、鋭く沈む。得意球、落ちるシュート。
ガッ。鈍い音を立て、打球はバックネット近くまで転がる。アンパイアがポケットから代わりのボールを取り出し、倉橋に手渡す。
へっ……と、思わず声を発していた。
さすがだな。初見で、いつも簡単にカットしやがった。いちばん当てづらいボールを選んだってのに。ふふ、そうこなくちゃな。
六球目。内角高めに速球を投じたが、見極められた。七球目はカーブ、八球目にシュート、九球目に再び落ちるシュートと変化球を続けていくも、すべてファールにされる。ツースリー、フルカウント。
倉橋と目を見合わせる。マスク越しに、微かな苦笑がのぞく。さすがの倉橋さんも、ここまでカットされちゃ、リードするの大変だな……とその心中を察する。
けどよ、とイガラシは相手打者を睨んだ。
上林さんと言ったってか。俺はそういう、しつこい打撃には慣れっこなんだよ。ちょっと粘られたくらいで、そうやすやすと出塁されるほど、こちとら甘かねぇんだ。
十球目。倉橋が速球、カーブ、シュート、落ちるシュート……とサインを出したが、イガラシはすべて首を横に振った。
一瞬、正捕手は戸惑った顔になる。そして、すぐ「これか?」と言いたげに、この試合では初めてのサインを出した。
イガラシは小さくうなずき、しばし間を置いて投球動作へと移る。
腕の振りから速球だと思ったらしく、上林はバットの始動を早めた。しかしボールが来ない。つんのめるように、大きく体勢を崩す。なお喰らい付こうとするバットを嘲笑うかのように、ホームベース手前でボールはさらに沈む。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアの声が、甲高く響いた。
三振を喫した上林は、しかし二、三度首を横に振っただけで、ポーカーフェイスを崩さない。むしろ軽やかな足取りで、ベンチへと引き上げていく。
「イガラシ」
倉橋が呼んだ。すぐに返球せず、タイムを取りこちらに駆けてくる。
「ナイスボール。さすがの上林も、あのチェンジアップには対応できなかったな」
「ええ。けど、二打席目以降も通じるかどうか。この後も手を焼かされそうです」
それに……と、イガラシはバックネット越しにスタンドを睨んだ。佐野と倉田が、時折何やら言葉を交わしながら、終始こちらに視線を注いでいる。
チェンジアップ、佐野さん達には見せたくなかったな。けど、仕方あるまい。そのへんのチームならともかく、箕輪は手の内を隠して通用する相手じゃねぇし。東実の連中の前で、弱みをさらすわけにもいかねぇからな。
続く二番清水は、初球、二球目といずれも速球を見送った。さらに三球目のカーブ、四球目のシュートにも手を出さず。
ツーエンドツーとなった五球目。イガラシが外角低めにカーブを投じると、ようやくバットを出しファール。六球目は、内角に落ちるシュート。これもやはりカットされる。七球目のカーブは見送られ、フルカウント。
一旦プレートを外し、ロージンバックを拾う。しばし間を取ってから、足元に放る。
八球目。内角高めを突いた速球に、清水のバットが空を切った。その瞬間、周囲から「おおっ」と歓声が上がる。連続三振、ツーアウト。
みょうだな……と、イガラシはこっそりつぶやいた。
上林のセーフティバントの後、なぜやつら……追い込まれるまで手を出してこないんだ。ピッチャーが代わった直後だから、じっくり見るつもりなのか。けど、松川さんや井口の時は、もっと積極的に打ってきたってのに。
次打者は、前の回から登板の三番児玉だ。ここまで三安打を放っている。
児玉は右打席に入ると、一度素振りした。華奢にも見える体躯だが、そのスイングはやはり迫力がある。風を切り裂くような音。しかもまるで力みのない、鞭を思わせるしなやかなバットの軌道。
バッテリーは、慎重に対した。
初球のカーブ、二球目の速球といずれも外角低め、ボール一個分はずす。三球目は、また速球を今度は内角低めに。これは決まり、ツーボール・ワンストライク。さらに四球目、同じコースにシュートを投じるも、見送られスリーボール。
ちぇっ。さすが、いい目してらぁ。きわどいコース、ぜんぶ見きわめやがる。
五球目は、真ん中低めにカーブ。決まってツー・スリー、フルカウント。六球目のシュート、七球目の速球はカットされた。
そして八球目。真ん中低めに、今度は落ちるシュートを投じる。
児玉はつんのめる体勢になり、バットを払うようにスイングした。よし、引っかけさせた……と思った瞬間、快音が響く。速いゴロがマウンド横をすり抜け、二遊間を襲う。
やられた、と目を瞑りかけた刹那、セカンド丸井の体が横倒しになる。パシッと捕球の音が聴こえた。そして素早く起き上がり、一塁へ送球。間一髪アウト。
「ナイス丸井さん!」
声を掛けると、小柄な先輩は「どうってことないさ」と快活に答えた。
「キャッチャーが『真ん中』のサインを出した時は、ベース付近に寄る。さんざん練習してきたじゃないか。うちのレギュラーなら、アウトにできて当然よ」
「たのもしいですね。それにしては、ちと必死だったような」
「う、うるせっ。素直に礼を言やぁいいじゃねぇか」
「どうも、失礼しました。ありがとうございます」
「けっ。おせぇんだよ、いまさら」
くすっと含み笑いが漏れる。
スパイクで軽く足元を均し、イガラシはマウンドを降りた。攻守交代となり、他のナイン達も一斉にベンチへと引き上げていく。背後から「ナイスピッチャー!」「いいぞイガラシ」と声を掛けられる。
ふぅ、と小さく吐息をついた。
わかっちゃいたが、さすがのバットコントロールだな。並の打者なら、引っかけて凡打になるはずが、きっちりとらえてきやがった。それに……十球、八球、八球。あわせて二十六球か。たった三人のバッターに、投げすぎだ。このペースでは終盤へばっちまう。
厄介な上位打線を抑えた安堵感は、まるでない。むしろ焦燥が募る。
にしても……やっぱりヘンだぞ、箕輪のバッティング。厳しいコースをついたが、百戦錬磨のやつらのこと、さほど驚くようなボールでもなかったはずだ。
「よぉ。ナイスピッチング」
ふいに背後から、声を掛けられる。
「どしたい、そんなムズカシイ顔して。仏頂面はいつものことだが」
倉橋だった。いつの間にか、そばに来ていたらしい。
「あいにく、こういうツラなので」
「そうムクれるなよ。ま、冗談はともかく……おまえさんのことだ。相手のねらいとか、いろいろ考えてたんだろ」
「ええ」
イガラシは、素直に答えた。
「やつらの意図が、どうも読めなくて」
「なかなか打ってこなかったことか」
「はい。いちばん簡単なのは、球数を投げさせて、消耗させようってとこですけど。言うのはシャクですが、ぼくの体つきを見れば、そういう手もアリでしょう。ただ……」
「言いたいこと分かるぜ。序盤ならともかく、もう終盤にさしかかろうとする時に、やる意味あるのかって話だろ」
「そうなんですよ。ぼくが先発していたのなら、ともかく」
「俺もリードしていて、その点が引っかかってた」
倉橋は、深くうなずいた。その明晰さを嬉しく思う。
「しかもやつら、松川や井口の時は、けっこう早打ちだったってのに」
「ええ……まぁその二人については、だいたい分かりますけど」
先輩は「なにっ?」と目を丸くした。
「まず松川さんは、見るからに不調だったので、いっきに畳みかけたんでしょう。次の井口は、真っすぐとシュートをどんどん投げ込んでくるので、あえてその得意球をねらったのかと。相手の自信をなくさせるように」
「ま、まさか……」
唾を飲み込み、倉橋が言った。
「やつら相手ピッチャーに合わせて、攻め方を変えてきてるってのか」
「だと思います。どんなピッチャーなのか、調子はどうなのか。それらを観察した上で、もっとも効果的なやり方で攻略する」
「おいおい。俺達……箕輪のやつらの、練習台かよ」
「でしょうね」
イガラシは、舌打ち混じりに返事した。
「けど、カンジンの……自分がやられている攻め方の意図が、よくつかめないんですよ。体力をけずるだけなら、分かりやすいんですけど。どうも、それだけとは思えなくて」
「もしくは、こういうことも考えられるぞ」
ふと倉橋が真顔になり、端的に告げる。
「……そうやって、おまえを悩ませるとか」
「えっ」
ぎくっとした。確かに、箕輪ならやりかねない。もしそうだとしたら、自分は今まさに、相手の術中に嵌っていることになる。
ぽんと、ミットで頭を叩かれる。
「だとしても、そう心配いらねぇよ。ピッチングつうのは、なにも投手だけじゃなく、バッテリー二人で組み立てていくものだからな。いざとなったら、俺のサインだけ見てろ」
先輩を心強く思いながらも、あえて強い言葉を返した。
「ご心配なく。いざとなったら、チカラでねじ伏せてやりますよ」
「ははっ、頼もしいな」
倉橋は、快活に笑った。
ベンチの手前で、イガラシはふと上空を仰いだ。僅かながら、雨粒の勢いが強まってきた。試合開始時よりも雲の暗さが増している。
おもしろい。この俺を、頭脳戦で追いつめようって気なら……やってみろよ!
2.それぞれの思惑
六回裏。墨高は、先頭の岡村がヒットで出塁したものの、箕輪のリリーフ児玉の素早い牽制に逆を突かれ、タッチアウト。後続も凡退し、この回けっきょく無得点に終わる。
続く七回表、箕輪は四番の堤野から攻撃が始まった。
堤野も、他の打者と同様、なかなかバットを出さない。それでも追い込まれてから、イガラシの鋭い変化球をことごとくカット。最後は、やはりチェンジアップで空振り三振に仕留めたものの、十三球も使ってしまう。
「ファール!」
両腕を広げ、アンパイアが叫ぶ。四球続けて同じコールだ。ボールは鈍い音を立て、一塁側ベンチの方向へ転がった。
眼前には、箕輪の五番打者・中谷が左打席に立っている。ずんぐりむっくりとした体躯。丸く大きな瞳は、どことなく愛嬌がある。
マウンド上。イガラシは、小さく舌打ちした。
堤野に十三球費やしたのに続き、この中谷にもすでに八球を投じていた。体躯から、力任せに振り回すタイプかと思いきや、思いのほかスイングはしなやかだ。得意球の落ちるシュートさえ、簡単にカットされる。
けっ。顔に似合わず、ねちっこいバッティングしやがって……
九球目。キャッチャー倉橋のサインに従い、イガラシは相手の膝元へシュートを投じた。打者の懐に喰い込み、ストライクからボールになるコース。
「ボール! スリーボール、ツーストライク」
中谷は、悠然と見送った。
くっ、手が出なかった……わけじゃなさそうだ。並のバッターなら、引っかけてセカンドゴロになるはずだが。いい目してるぜ。おまけにコースを散らしても、緩急をつけても、対応してきやがるし。
溜息が漏れる。額に、汗が滲み始めた。
さて、どう料理するか。生半可な球じゃ通用しそうにねぇし、かといってチェンジアップはそうそう多投したくない。いっそ、歩かせて……むっ。
倉橋のサインにうなずき、ロージンバックを放る。振りかぶり、左ひざを上げ、スパイクの足を踏み出す。右腕を思い切りしならせる。
ズバン。ボールは、内角高めに構えたミットに、勢いよく飛び込んだ。やや遅れて、中谷のバットが回る。
「ストライク、バッターアウト!」
空振り三振。アンパイアが、拳を突き上げた。
さすが倉橋さん。たしかに内角のスイングは、少しきゅうくつそうだったからな。よく相手バッターの弱点を探し出してくれたよ。って、感心してる場合じゃねぇか。
中谷にも十球。この回、たった打者二人に二十三球を投じた。体力そのものに不安はないが、攻撃の時間が長くなると、チームのリズムが悪くなる。守備の集中が切れたところを付け込まれれば、機動力に優れた箕輪のこと、一点や二点では済まないだろう。
次打者は、六番の喜多という選手だ。ここまでの打席を見る限り、バットコントロールは秀でているものの、さほどパワーはない。
ふん。どうせこのバッターも、追い込まれるまで手を出さないつもりだろう。ったく、こっちは長打のリスクも考えて、ちゃんとコーナーを突いてるってのに……ん?
その時、あることを閃いた。
こちらからサインを出す。倉橋は、一瞬驚いた目をしたが、すぐにうなずいた。現状では埒が明かないという思いは、同じらしい。
初球。イガラシは、真ん中へカーブを投じた。
喜多が、鋭くバットを振り抜く。快音が響いた。低いライナー性の打球が、二遊間を破りセンターへ抜けていく。
すぐに倉橋がタイムを取り、マウンドへと駆けてきた。
「……思ったとおりだな」
ミットで口元を隠し、囁くように告げる。
「中に入ってきたボールは、ちゃんとねらってきた」
「ええ。やつら、こっちが焦れて、コントロールが甘くなるのを待ってたんですよ」
「そうと分かったら、どうする?」
「もちろん……このまま、やつらの手のひらで踊らされるのもシャクですし」
「うむ。ここはバックを信じて、打たせようか」
倉橋がポジションに戻ると、イガラシは後方の野手陣を振り向き、右拳を突き上げた。
「いくぞバック!」
すぐさま「おおっ」「よし来い!」と、威勢の良い声が返ってきた。
タイムが解ける。イガラシは、セットポジションに着き、まず一塁へゆっくりと牽制球を放った。ランナーの喜多は、足から戻る。
加藤の返球を捕り、再びセットポジション。そして、次は素早く牽制球。喜多は、今度は手から帰ったものの、まだ余裕がありそうだ。
ふん。けん制でアウトにできるとは思ってないが、足でかき回されないよう、釘は刺しとかねぇとな。さて、つぎは七番か。
すでに後続の七番武内が、右打席に立つ。半田の話によると、まだ一年生らしい。頬のにきび跡が、他の箕輪ナインと比べ、まだあどけない。それでも甲子園出場チームのレギュラーに抜擢されただけあり、ここまで二安打。センスの高さを見せ付けている。
初球、倉橋は「真ん中にシュート」のサインを出した。イガラシはうなずき、セットポジションから第一球を投じる。
バシッと音がした。速いゴロが、一・二塁間の真ん中を破る。一塁ランナーの喜多が、あっという間に二塁ベースを蹴り、三塁へと到達した。
イガラシは、ベースカバーに回った三塁側ファールグラウンドで、ぐっと唇を噛んだ。
やられた……打たせて取るつもりが、なんてしなやかなバッティングをするんだ。箕輪のやつら、少しでも中に入ってきたボールは、確実にヒットにする自信があるのか。
この後、イガラシは八番打者を敬遠し、二死満塁。
迎えた九番打者には、ツーストライクと追い込んでから七球粘られたが、最後は落ちるシュートで空振り三振に仕留め、辛くも無失点で切り抜ける。
しかし、少しでも甘く入ると狙い打たれ、際どいコースを突けば粘られる。何か策を講じれば、その上を行かれる箕輪打線の狡猾さに、バッテリーは追い詰められつつあった。
東信彦(ひがしのぶひこ)は、球場内の通路を通り、一塁側ベンチに出るドアを開けた。
箕輪ナインは、ちょうど七回表の攻撃を終え、これから裏の守備に向かうところだった。東の顔を見ると、なぜか皆一様に苦笑いを浮かべる。
「おお。もどってきたか」
キャッチャーの中谷だけが、明るく声を掛けてきた。
「どれくらい走ったんだ?」
「およそ十キロかな。球場のまわりを、三周してきたから」
「あいかわらず、せいりょく的だな」
「そんなことより……みんな、どうした。元気ないじゃないか」
「どうもこうも、ねぇよ」
中谷は、溜息混じりに答える。
「おまえと話したっていう、あのイガラシってボウヤ、なかなかしぶとくってな。ついさっき満塁のチャンスだったんだが、山野のやつが三振しちまって」
名指しされた山野が「わるかったな」と、バツの悪そうに言った。
「ほぉ……めずらしいな。当てるのがうまい山野が、凡打ならともかく……三振、か」
「言い訳にしか、きこえないだろうけどよ」
うつむき加減で、山野は付け加える。
「ほかのやつの時、何球か中に入ってきてたんだ。俺もそれをねらったんだけどよ」
傍らで、中谷が「そうそう」と相槌を打つ。
「粘っていれば、いつか甘い球がくるっていう、当初のねらい通りだったけどな。たしかにランナーがたまった後は、ぜんぶ厳しいコースだった。こいつも運がなかったわけよ」
「……いや、ちがうな」
東は、大きくかぶりを振った。
「前のバッターに投げたという甘い球は……おそらく、わざとだ」
山野と中谷が、同時に声を発した。
「な、なんだとっ」
「どういうことだよ」
他のナイン達も、一斉にこちらへ顔を向ける。
「あのボウヤ、さぐりを入れてきたんだ。わざと甘いコースに投げて、こちらがどんな反応をするのか。そしてコントロールミスを誘ってるとかぎ取ったもんで、山野には一転して、厳しいコースを攻めたんだろう」
「ま、まさかぁ」
中谷が、懐疑的に問うてくる。
「かりにも甲子園出場チーム相手に、一年生がそこまで大胆になれるものか?」
「彼ならするさ。なにせ、とても頭のキレる男だからな」
「けど、長打のリスクもあるだろうに」
「だから……甘い球といっても変化球にして、フルスイングを封じ、長打にならないようにしてなかったか?」
図星だったらしく、ナイン達は押し黙った。
「……と、ところで中谷」
東は、グラウンドを横目にしながら呼び掛ける。
「こんな所で、おしゃべりしてていいのか?」
「む……あっ、いけね」
いつの間にか、アンパイアがこちらのベンチ手前に来ていた。オホンと、わざとらしく咳払いする。箕輪ナインは、慌ててベンチから飛び出していく。
東は、一人ベンチに腰かける。三塁側の相手ベンチに目を向けると、イガラシは他のチームメイトと何事か話していた。相手はキャッチャーの倉橋と、この日は出場していないキャプテン谷口のようだ。
ふむ。入部して間もない立場でありながら、チームの要である上級生に、どう堂々と意見を言えるのか。これは、よほどの信頼を勝ちえているのだろう。
「東さん」
ベンチに残る控え部員の一人が、尋ねてくる。
「この後、どうされます? ストレッチなら手伝いますよ」
「ありがとう。けど……いまは、やめておくよ。しばらく観戦する。後で、みんなにコーチしてやらなきゃいけないからね」
「わ、わかりました……」
控え部員は、ごにょごにょと何やら口ごもった。
「……なあ君」
見かねて、東は問うてみる。
「言いたいことは、はっきり言うものだよ」
「は、はい。ではっ」
恐縮しながらも、控え部員はおずおずと言った。
「練習試合で、ちょっと非情すぎやしませんか。この作戦……たんに、甘い球を誘うだけのものじゃないのでしょう?」
「ほう。よくわかってるじゃないか」
「だって……東さんご自身が、相手にそれをやられて……あっすみません」
「皆まで言わなくていい。すまない……気を遣わせてしまったようだ。しかし、これが勝負の現実というもの。君もいずれ、わかる時がくるさ」
制球ミスを誘うだけではない。甘いコースを狙われ、決め球はカットされる。これをやられれば、なまじレベルの高い投手ほど、ベストボールを続けようとしがちだ。しかし、それは心身を激しく消耗させる。
だから、この作戦は格上のピッチャーが相手の時のみと決めていた。それを甲子園三出場の、しかも一年生投手を相手に実行している。非情と言われるのも無理はない。
「この夏……われわれは甲子園へ行き、そして勝つ」
なだめる口調で、東は言った。
「知ってのとおり、エースピッチャーの離脱という逆境の中、ナイン達は血を吐く思いで、毎日がんばってくれている。皆の思いに報いる方法は、ただ一つ……勝つことだけだ。そのための戦術を、いまで完成させなければならないからね」
「東さんの、覚悟はわかりました」
後輩は、なおも怪訝そうに尋ねてくる。
「ですが……あのイガラシというピッチャーに、それをする価値はあるのでしょうか」
「ああ、それなら」
ふふっ、と含み笑いが漏れる。
「……まぁ見てなさい。見ていれば、おのずと理解できる」
「は、はぁ」
戸惑う相手を傍らに、東はグラウンドへと視線を向けた。
それにしても……イガラシ君、お見事。こちらの意図を、半分とはいえ見破ってしまうとは。じつに興味深い。まったく、君とグラウンドで戦えないのが残念だよ。
「……たしかに、えたいの知れないチームではありますね」
バットを並べながら、控え部員がぽつりと言った。
「君も、そう思うかい?」
「はい。初回に四点取った時は、東さんには申し訳ないですが、正直どうしてこんなチームとって思いました。でもその後は、押してこそいますけど、けっきょく突き放せないでいますし。おまけに点差を詰められてしまいました。東さん……いったい、墨谷って」
「言ったろう、底知れぬ可能性をもったチームだと」
愉快な気持ちで答える。
「いまはまだ未熟だが、なにかキッカケさえつかめば、きっと彼らは大化けする。いや……もう、化け始めているのかもしれない」
だからこそ君らなんだ……と、東は胸の内につぶやいた。
この戦術は、そこらの平凡な相手にしたところで、意味がないのだ。墨高のように、成長いちじるしいチームに成功させてこそ、われわれは自信を持って夏を迎えられる。
無意識のうちに、右肩をぐるっと回す動作をした。そして、あれっ……と思う。いつものような、途中で引っ掛かる感触がなかった。
もう一度回してみる。信じられず、繰り返す。何度やっても、関節がきれいに回転する。久しく忘れていた感覚だ。
大声で笑い出しそうになるのを、東は必死に堪えた。
七回裏。墨谷は、先頭の丸井がヒットで出塁したものの、続く加藤が送りバントを失敗しダブルプレー。次の島田も倒れ、けっきょく三人で攻撃を終える。
いよいよ試合は、八回・九回の攻防を残すのみとなった。
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