【目次】
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第10話 三人のキャプテンの巻
1.たたみかける箕輪
「ちょっといいか」
七回裏終了後。谷口は、マウンドへと向かうイガラシを呼び止めた。
「はい。なにか?」
思いのほか、穏やかな眼差しを向けてくる。
「向こうの意図が分かったからといって、あまりムキになるんじゃないぞ」
決め球をカットし続けることで、制球ミスを誘っているのではないかという見解を、さっきイガラシが伝えてきた。その観察眼の鋭さに感服しながら、同時に危惧も覚える。
相手の思い通りにはさせまいと、この負けん気の強い後輩は、ありとあらゆる手を尽くそうとするだろう。結果として、不必要な無茶をしかねない。試合の行方よりも、谷口はその方がずっと心配だった。
「倉橋もついてる。知ってのとおり、彼は優れたキャッチャーだ。いざとなったら、おまえは余計なことを考えず、倉橋のサインだけ見て投げればいいからな」
「同じこと、倉橋さんにも言われました」
イガラシは、そう言って微笑む。
「だいじょうぶですよ。たかが練習試合だってことぐらい、わかってますから。まぁ東実のやつらに見られてるので、なるべく弱みはさらしたくない、くらいは思ってますけど」
ほら、これだ……と谷口は苦笑いした。
八回表。箕輪の攻撃は、駿足巧打の一番打者・上林からである。イガラシと倉橋のバッテリーが、要警戒としてマークしている打者の一人だ。
右打者の膝元を突いた速球が、ボール一個分外れる。上林は、微動だにせず見送った。
「ボール! ツーボール、ツーストライクっ」
アンパイアのコールに、イガラシは唇を噛む。
くっ、やはり手を出さねぇか。誘い球には乗ってこない、決め球はカットする、少しでも甘く入ればミートしてくる。この上林ってバッター、なんて選球眼と反射神経のよさなんだ。
登板した六回から数えて、もう八十球近く投げただろうか。短いイニング数にしては多いのだが、それでも普段であれば、さほどの負担になる球数ではない。
にも関わらず、この八回に入り、イガラシは疲労を感じ始めていた。原因は自覚している。ベストボールを続けなければならないプレッシャーが、じわじわと効いてきているのだ。分かっているから、なおさら忌々しい。
その時、視界の隅に引っ掛かるものがあった。
何かすぐに分かる。ファーストの加藤だ。さほど汚れてもいないのにユニフォームの土をはらったり、帽子のつばを直したりと、明らかに落ち着きがない。
「加藤さん」
声を掛けると、少し間があってから「お、おう」と返事してきた。
「イーブンカウントです。やつらまた、なにか仕掛けてきますよ」
「ああ、わかってる。まかせろ」
何となく声に張りがない。どこか傷めているふうではないから、疲れているのだろう。
この相手じゃ、誰だってそうなるか。ほとんど打つだけだった谷原とちがって、この箕輪は大ワザ、小ワザ、足となんでもありだからな。とくに内野陣は、そりゃあ神経をすり減らすだろうよ。
八回の攻守交代時、加藤だけでなく、いつになくナイン達の足取りは重かった。ひとたび綻びが生じれば、ガタガタと崩れかねない。
倉橋のサインにうなずき、五球目の投球動作へと移る。内角高めの速球。空振りさせるか、詰まらせる狙いだった。
次の瞬間、イガラシは「なにいっ」と声を発した。
コンッ、と澄んだ音。上林がバットを斜めにして、ボールをちょうどマウンドと一塁線の真ん中付近に転がした。セーフティバント。
「まかせろっ」
ダッシュしてきた加藤にボール処理を任せ、イガラシは一塁ベースカバーに走った。
「へいっ……あぁ」
一瞬捕球したかに見えた加藤の手から、ボールがこぼれる。慌てて拾い直した時、すでに上林は一塁ベースを駆け抜けていた。
「す、すまん……イガラシ」
加藤が右手を縦にして、謝るポーズを取る。
「いや、どっちみちセーフです」
イガラシは、首を横に振った。
「ぼくもウカツでした。まさかツーストライクからバントしてくるなんて、思わなかったので。それも、あんな高めの球を、ぜつみょうのコースに……相手がうまかったんです」
「わ、わりぃ」
「それより……切りかえましょう。でないとやつら、つけ込んできますよ」
「あ……あぁ、そうだな」
先輩はうなずき、自分のポジションへと返る。その背中に、いまのは俺のせいだ……と、イガラシはひそかにつぶやく。
さっき俺が、一声かけたせいだ。やつらそれを見て、加藤さんが集中を欠いていること、見抜いたんだ。それで一塁へ、セーフティバントを……くそっ。向こうの狡猾さを知りながら、あまりにも不用意すぎたぜ。
ふふっと、含み笑いが漏れる。小さくかぶりを振った。
いかんな。あまり考えすぎちゃ、こっちがつけ込まれちまう。一人ずつ、バッターを仕留めていくことに集中しねぇと……
前傾し、倉橋のサインを確認する。
球種は真っすぐ、高めに……ああ一球はずせってことか。なるほど、さすが倉橋さん考えてるな。しゅん足の一番が出塁して、次は小ワザのある二番の清水。なにか仕かけるには、もってこいの状況だ。盗塁か、エンドランか。とにかく、やつらのねらいを探るんだ。
すぐには投球しない。まず一塁へ、ゆっくり牽制球。
返球を受け取り、再びセットポジション。そして、今度はクイックモーションで牽制。やはり反応素早く、上林は難なく帰塁した。
ちぇっ、まるで慌てねぇな。けど、そういつまでも、アンタらの好きにはさせねぇぞ。
またもセットポジションから、今度こそ投球動作へと移った。その刹那、丸井が「走った!」と叫ぶ。
驚くイガラシの眼前で、清水はミットにまるでバットを被せるようにして、わざと空振りした。惑わされたのか、倉橋の送球がワンテンポ遅れる。ベースカバーに入った丸井がタッチにいく間もなく、上林は難なく二塁を陥れていた。
な、なんてやつだ。あれだけ牽制したってのに……
「タイム!」
ふいに後方で、丸井が声を発した。こちらに駆け寄ってくる。
「びっくりしたぁ。急に、どうしたんですか」
「なに、礼を言わなきゃと思ってよ」
丸井は、妙におどけた口調で言った。
「れ、礼って……なんの」
「エラーした加藤をはげましてくれたんだってな。ほんとうは、俺っちが言わなきゃいけないことなんだが、たすかったよ」
「それはドウモ。けど、なにも……こんな時に」
「ああ。だから、おまえが加藤に言ったのと、同じことを伝えにきた。いまのは相手がうまかったんだから、切りかえろってな」
はっとして、口をつぐむ。
「ま、俺はピッチャーなんてしたことねぇから、えらそうなことも言えないけどよ。あまり難しく考えず、気楽にエイヤーっていった方が、案外うまくいったりするもんだぞ」
「……はい。ありがとうございます」
素直に礼を言うと、丸井は「よっよせやい」となぜか狼狽えた。
「こちとら、思ったことを口にしたまでだ。礼なんて言われる筋合いはねぇよ」
「そんなこと言って、顔が真っ赤ですよ」
「うるせぇ。口をひらきゃ、人をからかいやが……まっ。と、とにかくだ」
最後は「がんばるんだぞ」と告げて、ボールを手渡す。何だかんだで気のいい先輩だ。
ほどなくタイムが解ける。イガラシがプレートを踏み、丸井もポジションに戻ると、倉橋はすぐにサインを出した。
真っすぐを外角高め、ボールに。なるほど……もう一球はずして、様子を探るってことか。たしかにそれがけん明だろう。やつら、どうも調子づき始めてる。少しでもテンポを狂わせねぇと。
念のため二塁へ、胸周りで牽制球を放る。まず、ゆっくりと。次はクイックで。さらに二球、繰り返す。十分にランナーを制してから、二球目の投球動作を始めた。
その瞬間、清水もバットを寝かせた。サードの岡村、ピッチャーのイガラシ、ファーストの加藤が同時にダッシュする。
しかし、清水は寸前でバットを引いた。決まってワンストライク。
拍子抜けしながらも、イガラシは次のサインを確認し、三球目を投じた。外角低めへカーブ。清水はまたも、バントの構え。再び三人がダッシュした。ボールは僅かに外れ、ツーボールとなる。
なるほど。そういうことか……
胸の内でつぶやくのと同時に、倉橋がタイムを取り、こちらに駆けてきた。妙なタイミングを訝しく思っていると、先輩はにやっと笑う。
「べつに言うことはねぇよ。ちと間を取って、おまえを休ませようと思ってな」
「ええっ、そんな気をつかわなくても」
「なーに。やつらがバント攻めで、おまえを疲れさせようとしてるのがミエミエだからな。そのテにまんま引っかかるのも、シャクじゃねぇか」
たしかに、とイガラシはうなずく。この局面、かさに掛かって攻めたい相手を、少しでも焦らすことができれば御の字だ。
「ま、できれば……バント守備は、加藤と岡村にまかせてほしいトコだがな。そんなこと言っても、どうせおまえは聞く耳持たねぇだろうし」
「すみません。ピッチャーとしての習性で、どうしても足が前に出ちゃうんです」
「ふふん、谷口と同じこと言いやがる。あの先輩にしてこの後輩あり、だな」
「ど、どうも」
イガラシは頬をぽりぽりと掻き、苦笑いした。
「……ところでよ」
倉橋がミットで口元を隠し、囁いてくる。傍から見れば、何かの作戦を伝えているように映るはずだ。
「いぜん丸井が言ってたが。おまえ、ラーメン作るの得意だそうじゃないか」
「はっ?」
「夏大へ向けて、定期的に合宿をやる予定だ。そん時、俺らにも食わせてくれよ」
「ぷっ。先輩、なにを言い出すかと思えば」
「こ、これっ。笑うな」
「あっ……」
視線を横に向けると、アンパイアの渋い顔とぶつかった。
タイムが解け、イガラシは再びセットポジションに着く。ツーボール・ワンストライクのカウントから、速球とカーブを一球ずつ投じる。
やはり清水は、バントの構えで揺さぶってきた。またも寸前でバットを引き、フルカウントとなる。
ロージンバックを拾い、イガラシはしばし間を取った。足元に放り、それから額の汗を拭う。ふぅ、とひそかに吐息をつく。
ちぇっ。認めたかねぇが、さすがに効いてきたぜ。いつもなら、どうってことないダッシュなんだがな。あれだけ神経を使って投げてる時にやらされると、こんなにも疲れるものなのか。へへっ、俺もまだまだってことか……
続く六球目と七球目、清水は一転してヒッティングの構えをしてきた。そして二球ともファールにされる。思った通り、こちらを疲労させるためだけの戦法だと分かったが、まんまと嵌ってしまった自分を情けなく思う。
そして八球目。倉橋のサインに従い、イガラシは速球を内角高めへ投じた。その瞬間、清水が再びバットを寝かせる。
なに、またバントだと……あっ。
清水は、バットを押し出す動きをした。サード方向へのハーフライナーとなり、前進してきた岡村の頭上を越えて、ちょうど三塁ベース手前に落ちる。
「投げるなっ!」
倉橋が叫ぶ。横井が懸命のダッシュでボールを拾いにいく間に、上林はスライディングもせず三塁を陥れていた。清水も楽々と一塁セーフ。
イガラシは膝に右手を置き、ぐっと拳を握り込んだ。
やられた……なにか仕かけてくると踏んでたが、まさかプッシュバントでくるとは。それも清水さんといい、さっきの上林さんといい、あんな高めのボールを。
視線を相手ベンチへと向ける。作戦でも伝え合っているのか、何事か話していた。なるほどね……と、胸の内につぶやく。
やつら、この八回が潮時と見ていたか。とうとう本腰を入れて、試合を決めにきたな。
「イガラシ」
倉橋に呼ばれた。すぐにタイムを取るのかと思いきや、一塁方向を指差している。敬遠の指示だ。なるほど……と思い、それに従う。
三番打者の児玉が一塁へ歩くと、倉橋はマウンドに駆けてきた。ここで守備のタイムが取られ、他の内野陣も集まってくる。
バックスタンドは、まるで石段のような造りだった。
佐野は、今座っている右側を、手持ち無沙汰に撫でてみる。かなり湿り気を帯びていた。こりゃ帰りは土砂降りだな、と思った矢先、さらに雨足が強まる。
「せ、先輩。移動しましょう」
後方から、一学年下の後輩・倉田が声を掛けてきた。
「風邪でも引いたらコトですし、屋根の下にでも」
「かまわん」
即答し、にやっと笑ってみる。
「誰がゆずるかよ。墨高のやつらを丸裸にするのに、こんな特等席ねぇぞ」
二人の眼前。バックネットの向こうに、黒褐色のグラウンドが広がってた、土に汚れた四つの白いベースが、ダイヤモンドを形作る。
守備側の墨高ナインは、内野陣がマウンドに集まっていた。三つの塁は、すべて埋まっている。ノーアウト満塁。
ふん。なんとか二点差でこらえてたが、さすがにもう限界だろうな。
「……それより倉田。イガラシは、ここまで何球だ?」
「あ、はい」
スコアブックを膝元に、倉田は指を折り曲げる仕草をした。
「ええと……八十五球です。この二イニングちょっとで」
「はっアリ地獄だな。もがけばもがくほど、箕輪の思うつぼってワケだ」
「けど、ちょっとやりすぎじゃないですか」
倉田が鉛筆を握り、眉を顰める。
「一年生のピッチャーに、ファール攻めだなんて」
「それだけ必死なのさ」
佐野は、吐息混じりに言った。
「おまえも聞いたろ。箕輪はエースが故障して、ほぼ再起不能だってよ。やつら控え投手だけで、夏大に臨まなきゃなんねぇんだ」
「しかも箕輪は、墨谷と同じ公立だそうで。選手起用のやりくりが大変だって、監督が新聞のインタビューに答えてました」
「ああ。んなもんだから、なりふりかまってらんねぇんだろ。どんなテを使っても、勝ち抜いてく。その戦術を磨くのに、墨谷はもってこいの相手だろう。なにせ他府県のチームで、手の内を隠す必要もねぇからな」
「けど……それを墨谷相手にできたからって、なんの保証にも」
倉田の暢気な物言いに、苦笑いが浮かぶ。
「おい、てめぇ墨谷をナメてんのか」
「はっ。いえ、そんなつもりは……」
「昨年、うちは墨谷に負けてんだぞ。しかも内容では、はっきり言って完敗だった。俺がリリーフしたから、なんとか数字上は格好ついたがな。そうでなきゃ、もっと点差をつけられててもおかしくなかった」
わざとらしく、はぁ……と溜息をつく。
「ボヤっとしてんな。この墨谷に余裕もって勝てるほど、うちはチカラねぇよ。もっと危機感をもて。でないと、また泣くことになんぞ。去年、江田川にやられたようにな」
頬を紅潮させ、後輩は口をつぐむ。
「倉田。目ん玉かっぽじいて、よく見とけ」
佐野は、厳しい口調で諭した。
「墨谷相手に、なんて言うけどよ。やつら、結果として……あの箕輪をたった二点差でしのいできてるじゃねぇか」
「……そ、そういやぁ」
「これが、やつらの怖さだ。こちらが押しているようでいて、なぜかスルリとかわされ、いつの間にかペースを握られてる。箕輪もそれがわかるからこそ、この戦術なんだろう」
まったしかに、イガラシにはちと気の毒だがな……と、胸の内につぶやく。
さて、どうする。箕輪はどうやら、本気でおまえらを潰しにきてるぞ。まさに絶体絶命だが、このまま順当にやられちまうのも、張り合いがねぇよ。もちっとねばって、俺を楽しませてほしいもんだぜ。
2.先輩の思い、後輩の思い
マウンド上。加藤が「スマン」と、頭を下げた。
「俺のせいだ。やつら、さっき俺がエラーしたもんで、ねらってきやがった。つけ込むなら、いまがチャンスだと。俺のせいだ……」
「やめてください」
イガラシは、あえて突き放すように言った。
「こうやって動揺を誘うのも、箕輪のねらいです。加藤さんが、さっきのプレーを引きずるのなら、それこそやつらの思うつぼじゃないですか」
「う……わ、わかった」
ふいに丸井が、あっ……と声を発した。ナイン達が振り向くと、谷口がベンチを出て、こちらに駆けてくる。
キャプテンは内野陣の輪に加わると、微笑んで言った。
「バッテリー、よく敬遠を決断したな」
「ああ……俺より、イガラシだよ」
倉橋が、苦笑い混じりに答える。
「たしかに一・三塁だと、相手はなんでもアリだからな。せめて守りやすい方がいいと思って、俺は塁を埋める方を選んだんだが、イガラシがあっさり賛成してくれるとはな」
「うむ。俺でも、ためらうだろうな。ノーアウト満塁で四番だなんて」
谷口の妙に優しげな口調が、イガラシは気に掛かる。
「次善の策ってやつですよ」
訝しく思いながらも、きっぱりと返答した。
「あの児玉って三番バッターは、曲者です。ここでもう一つなにか仕かけられて、失策がらみで点を失えば、とうぶん立ち直れなくなりますよ。それよりは……満塁で、相手の四番に一本喰らうっていう方が、あきらめもつくじゃないですか」
「おまえ、そこまで考えて……」
倉橋は溜息をつく。傍らで、谷口がしばし瞑目する。
「……さすがだな」
やがて、キャプテンはおもむろに口を開いた。
「こんなにも冷静に、戦況を判断できるとは。イガラシのような人材は、そうそういるもんじゃない。けどな……みんなも聞いてくれ、だからこそ」
微笑みを湛えた目で、もう一度「だからこそ」と繰り返す。
「俺は、キャプテンとして……これ以上おまえに無理させるわけにはいかない」
イガラシは、困惑していた。谷口のひととなりについては、それなりに知っているつもりでいる。しかし今、この男が何を言おうとしているのか、皆目見当が付かない。
それでも、ほどなく頭に浮かんでくるものがあった。相手の目を見上げる。
「……まさかキャプテン。この試合、中止にするつもりですか」
尋ねると、谷口は短く答えた。
「そうだ」
「意味がわかりません」
率直に答える。
「井口には五イニング投げさせたのに、こっちはまだ二イニングちょっとですよ。ずいぶん、見くびられたもんですね」
「回の問題じゃない、球数だ。おまえ気づいてないのか? この六七八回で、とっくに……井口の球数を越えてるんだぞ」
無論、知っていた。井口も再三ピンチを背負ったが、比較的早いカウントから打ってきたので、さほど球数は費やさなかった。
「……ダメですよ」
それでもなお、言葉を返す。
「知ってのとおり、東実のやつらが偵察もしてるんです。ここでぼくが降板すれば、墨高の投手陣は『ファール攻めに弱い』って、知らしめるようなものじゃないですか」
「気持ちはわかる。けど、これは練習試合なんだ。なにもここで、力を出し尽くすことはない。今日のところは、八回途中まで接戦できた。それで十分じゃないか」
「いいえ、わかってません」
やや声を潜め、尋ねる。
「キャプテン。ぼくらの目標は、甲子園へ行くことなんですよね」
「ああ、そのつもりだ」
「その意味、ほんとうにわかってるんですか? ぼくらが甲子園へ行くためには、谷原や東実みたいな強敵を、いくつも倒さなきゃいけないんです。それをやるには、わずかなスキも見せちゃダメじゃないですか」
反論しながらも、イガラシは胸が痛んだ。諦めることを知らない谷口という男が、あえて試合を捨てると言っている。それは他でもない。後輩である自分を心配してのことだ。
案の定、谷口は険しい眼差しになる。
「敵にスキを見せないという、ただそれだけの理由のために、将来のある一年生を潰してもいいってのか」
「なにかを成しとげる上で、多少のリスクと犠牲はつきものです。キャプテンも、よくわかっているはずでしょう」
「それで中学の時みたいに、また肩をこわすのか」
さすがに倉橋が、「落ち着けよ二人とも」と割って入る。
「どっちの言い分も、それぞれ一理あるが、ちと頭をひやせ」
隣で、加藤が苦笑いした。
「まったく。少しは丸くなったと思ってたが、あいかわらずだなイガラシ」
その時だった。
「……キャプテン」
ふいに、静かな声が発せられる。思わぬ声の主に、この場にいる誰もが、意外そうな面持ちになる。
それは、丸井だった。
「こいつの好きにさせてやりましょう」
驚いたらしく、谷口は大きく目を見開く。
「なにを言うんだ丸井。イガラシが過去、無理なピッチングで故障してきたことは、おまえもよく知っているじゃないか。いま、また同じことがあれば……つぎはもう治らないかもしれないんだぞ」
「もちろん、わかってます。でも……イガラシが言っていることも、よくわかるんです。リスクは承知のうえで、ギリギリのところで勝負しないと、上にはいけないってことが」
イガラシは「さすが丸井さん」と、努めて陽気に言った。
「よくわかってるじゃないですか。これまでも、そうやって戦ってきましたもんね」
途端「てやんでえっ」と、凄まれる。
「ひとの気も知らねぇで。俺はな、キャプテンの後輩を思う気持ちに感動しながらも、あえて異を唱えてるんだ。こんなキャプテンだからこそ、一緒に甲子園へ行かなきゃってな」
谷口が後方で、「そんな大げさな」と頬を掻く。
「だいたいだな、イガラシ」
丸井は腕組みをして、説教じみた言い方をした。
「てめぇが全部悪いんだよ」
「はっ?」
「イガラシ。てめぇ湿っぽいピッチングしかできねぇから、キャプテンをこんなに心配させてんじゃねぇか。そんなチカラのないやつが、他校がどうの、甲子園がどうのと、えらそうに語る筋合いはねぇ」
捲し立てるように言って、丸井はふっと笑みを浮かべる。
「そんだけデカイ口、たたくんなら……おさえてみろよ。ねばられて、球数が増えるだと? だったら、当てさせるなよ。三球でビシッと、かすらせずに仕留めてみやがれってんだ」
おいおい……と、横井が呆れ顔で口を挟む。
「相手がどこか、わかって言ってんのか。箕輪は高校の、それもトップクラスのチームなんだぞ。イガラシはむしろ、健闘してる方じゃないか」
「こいつが、えらそうな口きくからですよ。その自信なら、箕輪どころか、王や長島でもベーブ・ルースでも、ちっとも怖かないんでしょうよ」
「……ははっ」
思わず、笑ってしまう。
「あいかわらず、こくな“キャプテン”だぜ」
とても愉快な気分だった。
タイムが解け、内野陣がポジションへと散っていく。一人残った倉橋が、口元でミットを覆いながら「どうする?」と問うてくる。
「おまえの望みどおり、試合続行となったが、こうなればおさえなきゃ意味ねぇぞ。すでにアップアップだったってのに……なにか、策でもあるのか」
「とうぜんです」
イガラシは即答した。
「それがなきゃ、素直に降板してますよ」
「なんだそりゃ。もったいぶらずに、さっさと教えろよ」
「そう特別なものじゃないです。今日、ゆいいつ……出してないサインがありましたよね」
箕輪のランナーに聞かれないよう、こっそり耳打ちする。
「……おい、それって」
倉橋の顔色が変わる。
「危険すぎねぇか。少しまちがえば、その一球で」
「もし、そうなったら……その時はおとなしく引っ込みます」
「んだよ。あんだけタンカ切っといて、もう弱気になったのか」
「まさか……でもどっちみち、こういう局面をしのぐ力がなければ、おそかれ早かれ潰されます。その意味では、いい予行演習じゃないですか」
先輩の目を見上げ、イガラシは微笑んだ。
二人の眼前では、箕輪の四番打者・堤野が素振りを繰り返していた。やがて、その鋭い眼光がこちらに向けられる。
ほどなく、アンパイアが試合再開を告げた。
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