南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

<私選>21世紀以降の沖縄高校野球・ベストナイン(+DH)で打順を組んでみた! 殊勲賞・MVPも発表!!

 

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<はじめに>……「平成は沖縄高校野球“躍進の時代”」

 

 平成の世が、幕を閉じた。

 

 沖縄高校野球にとって、「平成」はまさに“躍進”の時代であった。沖縄水産の二年連続準優勝に始まり、浦添商業、八重山商工宜野座ら新興勢力の台頭。ついに悲願達成となった11年春・沖縄尚学の選抜初優勝。そして二度目の優勝。そして迎えた22年、興南春夏連覇

 

 本エントリーでは、時代の変わり目ということを踏まえ、今回は平成……とりわけ活躍の著しい21世紀以降という枠組みの中で、印象に残る選手を紹介していくこととする。

 

 具体的には、次の三項目に分け、計13人の選手を取り上げる。まだベストナイン(+DH)については、打順を組んで発表する。

 

①殊勲賞……2人

ベストナイン(+DH)……10人

③MVP……1人

 

 

1.殊勲賞

 

 このコーナーでは、泣く泣くベストナインには選べなかったものの、県球史に残る活躍を見せた2選手を取り上げることとしたい。

 

<その1>

 

→ 金城長靖(八重山商工・2006)

 

 沖縄県球史の中でも、唯一となる離島勢の甲子園春夏連続出場。タレント揃いのチームだったが、その中でひときわ輝きを放った選手である。

 

 まず選抜において、左右両打席でのホームラン。夏の選手権でも、バックスクリーン直撃のスリーラン。さらに、ビハインドを負った終盤、ここで一本欲しい場面での勝負強さも光った。近年の沖縄勢甲子園出場球児の中で、おそらくナンバーワンスラッガーだろう。

 

 そして、金城のもう一つの魅力。なんとピッチャーとしても活躍した。

 とりわけ印象的なのは、夏の県大会準決勝・浦添商業戦。準々決勝までの四試合で、すべて二ケタ得点を挙げていた浦商打線を、六回まで無失点に抑える。続く大嶺裕太との完封リレーで、1-0という僅差の試合をモノにした。エースの大嶺は、好不調の波が激しかったので、もし金城がいなければ浦商には勝てなかっただろう。

 

 ちなみに、翌日の決勝・中部商業戦では、試合を決定づけるバックスクリーン直撃のダメ押しツーラン。投打に渡る大車輪の働きを見せた。

 

 

<その2>

 

→ 比嘉裕(宜野座・2001)

 

 今ではすっかり定着した、選抜の「21世紀枠」最初の出場校・宜野座。この“宜野座旋風”最大の立役者となったのが、背番号は「6」と本来は内野手ながら、この大会でエース級の働きをした比嘉裕である。

 当時、話題となった「宜野座カーブ」を駆使し、神奈川・桐光学園、大阪・浪速と強豪校の並み居る打者を翻弄するさまは、まさに痛快だった。

 当時の映像を見返してみると、比嘉はカーブを内外角へ投げ分けることができた。さらに速球を効果的に混ぜてくるから、相手打者はねらいを絞り切れなかったのだろう。

 近年、県勢の“技巧派投手”が、甲子園で簡単に打ち崩されている。それはインコースへ投げ込むことが、なかなかできないからだろう。比嘉の投球を見ていると、あのベスト4はけっしてマグレではなく、やはり「勝てた理由」があったのだと分かる。

 

 

2.ベストナイン(DH含む)&最優秀投手

 

 以下、ベストナインを記していく。なお選手の特徴から、打順を組んだ。またDHの枠も設け、ピッチャーは打順から外している。

 

一番<セカンド> ――頭脳明晰なリードオフマン。脅威の打率六割超!

 

→ 国吉大陸(興南・2010)

 

 ご存知、興南“最強打線”における不動のリードオフマン

 

 野球の実力もさることながら、学業面でも「オール5」という秀才。野球部内で開かれていた勉強会で、成績不振の部員に勉強を教えていたというエピソードは有名である。優秀な頭脳を生かし、春夏連覇メンバーの中で、唯一高校卒業後はすぱっと野球から離れ、猛勉強を積む。その甲斐あって、現在は公認会計士として活躍している。

 

 最後の夏の甲子園では、野球を“これが最後”と決めていたこともあったのか、野手陣の中でひときわ輝きを放った。

 初戦の鳴門戦でダメ押しのツーランホームランを放つなど、大爆発。大会六試合で、打率は脅威の六割超え。準決勝・報徳学園戦の逆転劇につながるセンター前、決勝・東海大相模戦の二本の技ありのヒットなど、重要な場面での一打も多かった。

 

 また忘れちゃいけないのが、報徳戦の九回裏。あわやライト前へ抜けそうな当たりを横っ飛びで好捕し、先頭打者を打ち取った。このワンプレーにより、興南の決勝進出を大きく手繰り寄せた。

 

 セカンドは、他にも2008選抜の優勝メンバーである仲宗根一晟、近年では最強スラッガーの呼び声高い水谷留佳(いずれも沖縄尚学)ら、名選手が目白押しであったため、かなり選考に悩んだが、大舞台での戦績がずば抜けているので、国吉を選出した。

 

二番<センター> ――鮮烈な選抜決勝のランニングホームラン!

 

→ 伊古聖(沖縄尚学・2008)

 

 打ってよし・守ってよし・走ってよし。まさに走攻守、三拍子揃った名外野手。

 沖尚が二度目の優勝を果たした2008年の選抜。攻守において、試合のキーになる場面での活躍が印象的である。

 

 初戦の聖光学院戦と決勝・聖望学園戦の初回、いずれも先取点につながる三塁打。そして聖望戦の五回には、トドメのランニングスリーランホームランを放った。際どいタイミングながら、片手でホームベースをさっと払う瞬間のプレーは、鮮やかだった。

 

 ラストゲームとなった夏の県大会・浦商戦では、追撃のタイムリーとなるフェンス直撃のツーベースを放つ。小柄ながら、意外にパワーも備えていた。もし、あのままスタンドインしていれば……興南よりも先に春夏連覇を果たしていたのは、この年の沖尚だったかもしれない。

 

三番<サード> ――県民の胸を打った名スピーチ。これぞ“沖縄のキャプテン”

 

→ 我如古盛次(興南・2010)

 

 言わずと知れた興南の三番キャプテン。島袋洋奨とともに、春夏連覇メンバーの主役として、沖縄球史にその名を刻まれる存在である。

 

 まず春の選抜における、いずれも大会タイ記録となる八打席連続安打と大会通算十三安打。

 

 さらに夏の選手権では、一時不調にも陥りかけたが、ラスト二試合では「これぞ主役」という働きぶりを見せた。

 準決勝・報徳学園戦の同点タイムリスリーベース、決勝・東海大相模戦の優勝をほぼ決定付けるスリーランホームラン。“ここぞの場面”での一打が光った。

 

 そして我如古キャプテンといえば忘れちゃいけないのが、夏の優勝インタビューにおける、沖縄の高校野球ファンの心を打ったあの名言。

 

―― 今日の優勝は、沖縄県民で勝ち取った優勝だと思っているので、本当にありがとうございました!

 

 まさに「記録にも記憶にも残る」名キャプテンであった。

 

四番<DH> ――沖縄球児の出世頭! 誰もが認める“練習の虫”

 

→ 山川穂高(中部商業・2009)

 

 いまや西武ライオンズの四番打者にして、パリーグの2年連続ホームラン王。あまりにも突出した存在であるため、ベストナインの中では、唯一甲子園出場の経験はないものの、迷いなく「四番」に据えることとした。

 

 高校時代より、その才能には光るものがあった。

 とりわけ印象的なのは、09年のチャレンジマッチ・興南戦。翌年の春夏連覇投手・島袋洋奨から逆方向へ弾丸ライナーで放った同点2ランには、度肝を抜かれた。

 もっとも再戦となった夏決勝では、島袋もお返し。二回の満塁のチャンスで、山川は三振に仕留められた。それでも、やられっ放しでは終わらず、終盤に追撃のタイムリーを放つ。

 山川と島袋の対決、近年では最もハイレベルな打者対投手の真っ向勝負だった。この経験が、島袋の翌年への大いなる糧となったのは、想像に難くない。

 また山川自身も、島袋を相当意識していたようで、特にスライダーを打つためにかなり練習を積んでいたそうである。チャレンジマッチのホームランは、その成果だった。

 

 このエピソードからも分かるように、山川は当時から練習熱心として知られていた。

 一時期、沖縄出身の選手はプロで大成できないと言われていたが、彼の出現がそれを覆してくれた。何のことはない。誰よりも努力することが、成功の近道だということ。

 

 山川の野球への姿勢は、あの落合博満氏も認めるほど。今後、さらなる飛躍が期待される選手である。

 

五番<ライト> ――ミートの天才! 今の球児も参考にすべきバッティング技術

 

→ 銘苅圭介(興南・2010)

 

 個人的には、興南の優勝メンバーの中で“打撃センスナンバーワン”だったと思う。ホームランこそないものの、広角に打ち分ける高い技術を誇る。チームメイトからも「ミートの天才」と称されていたらしい。

 

 とりわけ印象深いのは、夏の準々決勝で、聖光学院の二年生エース・歳内宏明のスプリットを、鮮やかにセンター前へ弾き返したものである。勝負球をいとも簡単に打たれた歳内は、この後「ストレート一辺倒」になり、それを興南の各打者が狙い打ちされる。試合の流れを左右した、重要な一打であった。

 

 さらに、点にこそつながらなかったが、準決勝・報徳学園戦で逆転した直後のセーフティバント。決勝戦、逆方向への当たりで外野の頭上を越したツーベース。そのどれも、彼の技術の高さが詰まっている。

 

 銘苅のバッティングは、今の沖縄高校球児達にも参考にして欲しいと思う。

 よく逆方向へのバッティングというが、それは単なる“流し打ち”ではない。彼は、コンパクトなスイングながら、しっかり「振り切って」いる。だから逆方向へも長打が打てた。

 

 近年、沖縄大会ではホームランが極端に減少している。これはパワー不足と同時に、バッティングが“技”に偏りすぎた弊害ではないかと思う。長打のない「巧いだけのバッター」など、ちっとも怖くない。長打力のあるバッターが“要所では単打も狙う”からこそ、相手にとって脅威なのだ。

 

 バッティングの基本は、しっかり振り切ること。このことを、沖縄の高校球児達には、いま一度思い出してもらいたい。

 

 

六番<レフト> ――前向きな言動で、チームを引っ張るサブリーダー!

 

→ 伊禮伸也(興南・2010)

 

 エース島袋やキャプテン我如古ら、個性派揃いの2010興南のメンバーの中で、意外な存在感を発揮した選手。実は、チームの副主将である。

 

 伊禮といえば、まず選抜優勝後のテレビ取材にて、レポーターから拝借したであろうマイクを使って、チームメイト達にインタビューしていたユーモラスな姿が印象深い(その際、島袋から「(ノーヒットに終わった)伊禮君の分まで打てて良かったです」と見事な返しをもらう)。

 同じことを夏優勝後の地元テレビ局の特番にて、我喜屋優監督にもやらされていたが、さすがに緊張していた(笑)。ちなみに、監督からも「(うれしかったのは)打てない伊禮君が打ったことです」とイジられた。

 

 打てない? いや、そんな印象はない。夏の明徳義塾戦、一点差とされた直後に突き放すソロホームラン。決勝の東海大相模戦での先制タイムリーと、要所できっちり仕事を果たす。打てない試合はサッパリだが、打つときは固め打ちをしていた。

 

 また、我喜屋監督が著書の中で「気持ちの切り替えがうまい」と評していたのも印象的。選抜決勝の日大三高戦。三失点目を喫した後、平凡なフライを落球。普通ならここでショゲてしまいそうだが、直後のレフト前ヒットは焦らず処理し、見事な中継プレーで二走をホームで刺す。

 著書によれば、伊禮はベンチに帰ってくると「甲子園に魔物はいないけど、幽霊がいたみたいです」と発言、その場を和ませたという。こういう選手がいると、劣勢に立たされた時でも、雰囲気が暗くならずに済む。

 

 余談だが、興南は(キャプテン我如古の他にも)この伊禮に加え、国吉大陸・大将の兄弟や島袋ら、他校に行けばキャプテンを務められそうなリーダー性のある子が多かった。それ故か、チームとして“大人の雰囲気”があった。これも強さの秘訣だったように思う。

 

七番<ファースト> ――捉えた瞬間の打球音! 名将も認めた“真の四番”

 

→ 真栄平大輝(興南・2010)

 

 言わずと知れた興南春夏連覇メンバーの不動の四番。

 当たった瞬間、閃光のような打球がライトへ飛ぶのをご記憶の方も、多いのではないだろうか。甲子園でのホームランは、2年夏と3年春に一本ずつ記録。2年夏は、大分・明豊の“怪童”今宮健太(現ソフトバンク)から放ったもの。

 個人的には、3年春の智弁和歌山戦、センターバックスクリーンへの一発が印象的。県勢が過去一度も勝てなかった智弁へ引導を渡す一打となった。

 

 また3年夏は、打撃不振に陥ったものの、我喜屋優監督は決して打順を変えることはしなかった。著書では、彼が四番打者として日々やるべきことをこなしていた姿を知っているから、不振でもあえて外さなかったとのこと(このエピソード好き)。

 

 そして準決勝の報徳学園戦、逆転タイムリーはこの真栄平が打つのである。前進守備の間を抜く渋い当たりだったが、紛れもなく四番の仕事を果たした。また決勝で、久々に真栄平らしい豪快なフェンス直撃の当たりも放った。

 

八番<キャッチャー> ――巧リードで、投手の力を引き出す。プロでも活躍!

 

→ 嶺井博希(沖縄尚学・2008)

 

 沖尚が二度目の優勝を果たした2008年選抜にて、唯一の2年生のレギュラー。

 特筆すべきは、3年春の戦績だ。選抜の5試合をすべて2点以下に抑えている。しかも初戦から、聖光学院(福島)、明徳義塾(高知)、天理(奈良)、東洋大姫路(兵庫)、聖望学園(埼玉)と、名だたる強豪ばかり相手にして、である。

 

 ピッチャー(東浜巨)が良かったから? それもあるが、例えば島袋洋奨(興南)や伊波翔悟(浦添商)といった他の名投手も、打たれる時は打たれていた。だからこれは、東浜だけの力ではなく、嶺井のリードによるところも大きい。とりわけインコースアウトコースのコンビネーションが、素晴らしかった(これは確かに、東浜のコントロールの良さあったのものだが)。

 

 また負け試合ではあるが、あの浦添商との決勝、初回に五点を失った後は配球を変え、二回以降はピシャリと相手打線を封じた。高校生が試合中に修正するのは、なかなか出来ることではない。

 

 現在は、横浜DeNAベイスターズに所属。躍進著しいチームの力となっている。

 

九番<ショート>――史上最強チームの“ラストピース”

 

→ 大城滉二(興南・2010)

 

 おそらく沖縄県高校野球史上でも、1,2を争うショートだろう。

 選考の際は、西銘生悟(沖縄尚学・2010)との二択で迷ったが、春夏ともに活躍したという点と、唯一の二年生レギュラーということを加味した。

 

 この大城こそ、最強チーム・興南の“ラストピース”である。

 

 大城がレギュラーとして起用されるまで、興南は「そこそこ強い」くらいのレベルだった。前年の秋九州では、打線のつながりがなく、さらに内野守備の乱れも絡み準決勝敗退。県決勝で完勝した嘉手納の後塵を拝す。このように、まだまだ粗があり、とても甲子園優勝をねらうチームの雰囲気ではなかったのだ。

 

 ところが翌年の選抜。大城のショート抜擢により、興南は本当に隙がなくなった。

 なにせこの大城、優勝メンバーの中でも明らかに動きが違う。抜かれると思った打球をいとも簡単にさばき、一体いくつアウトにしたことか。

 そして、起用した我喜屋監督も「嬉しい誤算」と語ったのが、バッティングである。選抜準決勝の大垣日大戦、センターオーバーの打球を放った際に、NHKの解説者が「九番バッターのスイングじゃありませんね」とコメントしたのが印象的。

 

 さらに夏の甲子園では、四割近いアベレージを記録。これで九番なのだから、いかにこの年の興南が恐ろしい打線だったか分かるだろう。

 

 個人的には、春夏連覇レギュラーの中で、プロで活躍しそうなメンバーは大城だと思っていたが、その期待通り、オリックス・バファローズにドラフト3位指名(2015年)。今年(2019年)は九十一試合に出場し3本塁打を放つなど、レギュラー争いに名乗りを上げている。

 

<ピッチャー>――1点でもリードすれば一安心。県勢二人目の甲子園優勝投手

 

→ 東浜巨沖縄尚学・2010)

 

 えっ島袋じゃないの? と思われた方が多いのではないだろうか。しかし、筆者にとっての沖縄ナンバーワン投手は、東浜巨をおいて他にいない。

 

 なぜ、そこまで東浜を推すのか。一番の理由は、彼の「終盤の勝負強さ」である。なんと彼は、高校三年間の公式戦において「先発登板した試合」で、同点ないし逆転されたことが一度も(※リリーフした試合では、二度ほど点を取られていたが)ないのだ! ここが、島袋を凌ぐ部分である。

 

 圧巻だったのは、優勝した2008選抜の五試合。決勝戦を除き、すべて1~2点差の接戦だった。しかし、当時ご覧になった方は共感していただけると思うが、僅差にも関わらず「これで勝ったな」という安心感を抱いたものだ。

 

 さらに、当時のハイレベルだった沖縄県大会において、錚々たる好投手と何度も投げ合い、激闘を繰り広げた。

 とりわけ、浦添商業・伊波翔悟との三度に渡る激戦(一年時の新人戦も含めると四度)は、見る者の心を震わせた。最後の夏は、浦商の執念の前に屈したものの、東浜の気迫の投球には、胸を打つものがあった。

 

 なお浦商に敗れる前日には、興南の一年生投手・島袋とも投げ合い、こちらも好勝負を演じている。選抜優勝投手と、後の春夏連覇投手が相まみえた、まさに黄金カードだった。

 

 筆者が、初めて東浜の投球を見たのは、彼が一年時の夏準々決勝・宜野座戦である。当時まだ130キロ前後だったはずの速球に、宜野座の各打者がことごとく詰まらされている。捉えたと思ったタイミングで、もうひと伸びしてくる感じだ。この試合、宜野座は一本もクリーンヒットを打てなかった。

 

 東浜がどれほどの才能を秘めていたかは、後の大学、さらにプロ野球ソフトバンクホークスにおける戦績で、もう十分証明されたといって良いだろう。

 ただし、あの一年夏に衝撃を受けた筆者からすれば、まだ物足りない。それこそ侍ジャパンに選ばれるくらいの活躍を夢見てしまう。今季(2019年)は手術により戦列から離れたが、来年の復活を大いに期待したい。

 

3.MVP(最優秀選手賞)

――最後に語るべき、伝説となった”あの男”

 

 発表の前に、ちょっと衝撃的なお断りを入れさせていただく。

 

 実は……このMVPを、私はベストナイン(+DH)の中から選んでいない(!)。

 上記メンバーは、ほぼ能力優先で選考した。しかし、このMVPに関しては、能力はもちろんのこと、さらに「沖縄高校野球に与えた影響・インパクト」の大きさも加味して、総合的に選ぶ必要があると考え、このような結論となった。

 

 なんで? オカシイだろう、と思われるのも、重々承知だ。しかし……その選手の名前を見たら、きっと納得していただけるはずである。

 

 それでは、いよいよ発表することとしよう。

 

 

→ 島袋洋奨(興南・2010)

 

 最後は、やはりこの男を取り上げないわけにはいくまい。

 沖縄球史のみならず、高校野球の歴史にその名を刻まれた春夏連覇投手。伝説となった“トルネード左腕”――それが島袋洋奨である。

 

 前述のように、純粋なピッチャーとしての才能で見るなら、東浜の方が上だと思っている。それは、両者の明暗が分かれたプロでの戦績から見ても、明らかだろう。

 その上で、私はそれでも島袋を「21世紀沖縄高校球児」のMVPに推したい。

 

 なぜなら……「才能では一番じゃなかった彼が、甲子園球史の中でもトップクラスの戦績を残した」という事実自体が、春夏連覇を果たした興南というチームの、まさに象徴だからである。

 

 島袋が、初めてその名を知らしめたのは、1年夏の県大会だ。

 

 彼の投球を筆者が初めて見たのは、準々決勝の名護戦。

 この時の名護は、かつて宜野座を選抜ベスト4に導いた知将・奥濱正監督の野球が浸透し、県立普通校とは思えないほどのハイレベルなチームであった(対戦した我喜屋監督も「名護は勝ち方を知っているチーム」と評している)。

 その名護相手に、島袋は九回二失点の力投。打者が差し込まれる“手元で伸びる速球”の威力は、あの東浜を髣髴とさせた。

 

 そして――なんといっても準決勝。あの選抜優勝校・沖尚相手に、あわや大金星かと思える力投。八回に力尽きたものの、観戦した誰もが「次の沖縄高校野球を引っぱっていくのは島袋だ」との思いを強くしたことだろう。

 

 ところが、意外にも……島袋は全国大会での勝ち星が遠かった。

 

 当時よく言われたように、なかなか援護に恵まれなかったのもある。

 ただ彼自身、「ここを抑えれば」という局面で、よく点を取られていた印象がある――1年秋準決勝の神村学園戦(4-5)然り、2年春九州決勝の九州国際大付属戦(1-2)然り、同夏の甲子園・明豊戦(3-4)然り。

 

 勝てる投手というものは、まさに“ここ”という場面で抑えるものだ。その力が、2年生時点の彼には、まだ足りなかった。

 

 しかし……ここからが、島袋洋奨の真骨頂だった。

 

 ひと冬超えた、3年春。彼自身、自分の課題をよく自覚していたのだろう。一回り足腰が太くなり、スタミナを蓄えた。ハイライトは、選抜大会決勝。強打の日大三高相手に、十二回を完投。そこには、終盤の勝負所で打たれていた、前年までの姿はなかった。

 

 だが、これに満足することなく、島袋はさらに鍛錬を続ける。雨合羽を着込んでの投げ込みには、我喜屋監督をして「死ぬ前にやめておけよ」と言わしめるほどだった。

 

 迎えた夏の甲子園大会。その素晴らしいクライマックスについては、ここで取り立てて触れる必要もないだろう。

 

 近しい人と、時々「なぜ興南春夏連覇できたんだろう」という話になる。

 

 力量ある選手が揃っていたから? 我喜屋監督の采配がスゴイから? いや……もちろん、それも当然だが、なにせ“春夏連覇”という球史に残る大偉業である。選手の能力、監督の采配だけでは、説明がつかない。

 

 私は、こう思っている――2010年の興南は、チームとしての「成長する力・成長しようとする意思」が、ずば抜けていたのだと。

 

 夏の甲子園興南のラスト三試合を思い出して欲しい。

 

 島袋のピッチングはもちろんのこと、他の選手達のプレーが、試合を重ねるごとに研ぎ澄まされていく。準々決勝、準決勝、決勝……と、投打ともに、まるで精密機械を思わせるような精度の高さだった。

 

 試合ごとの成長――よく言われることだが、これはそう容易ではない。

 

 疲労も溜まってくるし、相手も研究する。それらを乗り越えて、これまで以上のパフォーマンスを発揮するというのは、並大抵のことではないのだ。

 

 まして興南は、すでに「選抜優勝」という結果を残した後である。フツウなら、これに満足して、停滞してしまってもオカシクない状況だった。しかし、それでも彼らは“成長しようとする意思”を持ち続けた。それだけでなく、実際に成し得て見せた。

 

 高校野球史上、どこよりも“成長する力が強かったチーム”それが興南である。島袋は、まさにその象徴だったのだ。

 

 さらに付け加えると――当時、私は何人かの高校野球関係者に、話を伺う機会があったが、誰もが口を揃えて、島袋洋奨は「人間として素晴らしい子だ」と評していた。

 

 実直な人柄は、テレビ取材で見せた通りだったそうだ。さらに、練習にはいつも真っ先に来て、面倒な用具の準備を進んで行っていたと聞く。これこそ、誰もが理想とする“高校球児”そのものだろう。

 

 

 あえて言えば……人間としての美質を備えすぎていた点が、島袋の選手生命を縮めてしまった要因なのかもしれない。生き馬の目を抜くようなプロの世界では、彼の人間性が、かえって邪魔をした部分があったのではないかと思う。

 

 しかし、プロで成功しなかったことは、彼の甲子園での輝きを損ねるものではない。むしろこの経験とて、いずれ後進を指導する際には、必ず生きてくるものと思う。

 

 島袋洋奨投手。ひとまず、お疲れ様でした。彼のその後の人生に、幸多からんことを祈って、本稿を閉じることとしたい。