【目次】
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第18話 これが王者の底力!の巻
1.四番の一撃
谷口が駆け寄った時、イガラシはまだ頭を伏せていた。
「おいっ。どこを傷めたんだ?」
すぐに丸井と加藤、他の内野陣も集まってきた。この間、アンパイアはタイムを掛け、遠巻きに見守っている。
「……だ、だいじょうぶですよ」
やがて、イガラシが立ち上がった。そして苦笑いする。
「ボールが鳩尾に当たっちゃって。一瞬、息が苦しかっただけです」
「しかし、さっきスゴイ音したぞ」
「平気ですって。ほら」
谷口の目の前で、イガラシは高くジャンプして見せた。
「このとおり、なんともないでしょう?」
「む……そうだな。よかった」
後輩の無事を確認して、まずは胸を撫で下ろす。
「それよりキャプテン。つぎは、あの四番です」
「分かってる。みんな集まれっ」
谷口の掛け声に、内野陣はマウンドに集合した。
墨高ナインの眼前。ネクストバッターズサークルにて、西将の四番高山が素振りしている。なにやら口笛を吹き、余裕の表情だ。
「歩かせた方がいいと思うぞ」
左手のミットを腰に当て、まず倉橋が発言した。
「ここまで、高山はすべて敬遠だ。それが功を奏して、まだ向こうさんは、打線に勢いがついていない。もうツーアウトだし、後続さえ抑えりゃ」
「でも、その後続が……けっこう打ってますよ」
丸井が苦笑いを浮かべる。
「五番の竹田さんは、二安打です。両方とも火の出るような当たりで、長打にならなかったのが不思議なくらいでした。タイムリーを打たれたら、投げる方まで調子づくかも」
「ぼくも、ここは勝負すべきだと思います」
淡々と告げたのは、イガラシだった。
「ピンチで中軸を迎えるっていう状況は、公式戦でもありえます。この機会に、そういう経験をしといた方が、後々いいんじゃないでしょうか」
「しかし……得意のシュートを、ねらわれちまってるからな」
憂うように、加藤が言った。
「やつら序盤は打ちあぐねてたが、ここにきて捉え出してるし」
ナイン達の言葉を、谷口はしばし黙って聞いていた。それでも、ほどなく輪の中心に立つ一年生投手へ顔を向け、口を開く。
「井口。おまえの気持ちが、一番大切だぞ」
こちらと目を見合わせ、井口はきっぱりと答えた。
「勝負します」
周囲から「おおっ」と吐息が漏れる。
「試合の流れは、いま西将に大きく傾いています。あれじゃ四番を歩かせたところで、やつらの勢いは止まりません。ここはなんとしても、あの高山を打ち取らないと、どっちみち勝ち目はないと思います」
思いのほか理路整然とした回答に、谷口は感心させられた。
けっして蛮勇ではなく、冷静に状況判断する力を、この男は有している。それを確認できただけでも、好きに投げさせた意味はあったと思う。
「分かった、やってみろ」
そう告げて、軽く右拳を突き上げる。
「井口……その代わり、中途半端は許さんぞ。おまえのベストボールで、高山をねじ伏せろ」
キャプテンの言葉に、井口は「はいっ」と力強くうなずいた。
タイムが解け、内野陣はそれぞれのポジションへ散っていく。ホームベース奥に、倉橋が屈み込んだ瞬間、スタンドが大きくどよめいた。
「キャッチャーが座ったってことは、勝負する気かよ」
「ずっと歩かせてたのに……まさか、このピンチでか」
「いい度胸してるじゃないか。墨谷のやつら」
観客のそんな声が聴こえてくる。
「が、ガンバレ墨谷!」
誰かが叫んだ。さらに、数人が続く。
「そうだ。墨谷負けるなっ」
「もし勝ったらスゴイことだぞ」
「西将なんか、やっつけちまえ!」
丸井が「ははっ見ろよ」とスタンドを指差す。
「観客も、やっと俺っちらの強さに気づいたようだぜ」
「どうでしょう。いわゆる判官贔屓ってやつじゃないスか」
イガラシの冷静なツッコミに、丸井は「あら」とずっこける。
マウンド上。ロージンバックを足元に放り、井口は投球動作へと移った。セットポジションから、右足を踏み出しグラブを掲げ、弓のように左腕をしならせる。
アウトコース低めいっぱいの速球を、高山は見逃した。
この局面で、ええとこ投げよる。スピードとシュートのキレだけやのうで、コントロールも悪うない。これだけのピッチャーが、よく埋もれとったな。
二球目。カーブが指に引っ掛かったらしく、ホームベース手前でバウンドした。キャッチャー倉橋が、プロテクターに当てて止める。これやもんな……と、ひそかにつぶやく。
カーブがイマイチやな。他のやつに投げた時も、曲がりきらなかったり、すっぽ抜けたりしとった。これも使えるようになれば、もっと的が絞りづらくなるのやが。速球とシュートの二択じゃ、うちの打線は抑えられへんで。
「井口。これでいいんだっ」
倉橋が声を掛ける。
「ミスしても俺が止めてやる。いまのように、思いきり腕振れ」
ほう。このキャッチャー、うまい声かけするやんけ。しかも「止めてやる」なんて、よほどバウンドに自信があるんやな。
話しかけて、僅かでも集中を削ごうかと考えたが、寸前で思い留まる。
やめい。この際、小細工はナシや。このチーム、ええ根性しとるで。それやからこそ……俺のバッティングで、真っ向から粉砕したる。
四球目は、またもアウトコース低めの速球。決まってツーストライクとなった。顔を伏せ、ほくそ笑む。
つぎは十中八九シュートやろ。一番の得意を投げんで打たれたら、悔いが残るもんな。もしちがう球種だとしても、それは見せダマにするはずや。勝負は、必ずシュート。
ところが……迎えた五球目。高山は、あっけに取られた。
またもアウトコース低め。しかしスピードを殺したボールが、大きな弧を描き、倉橋のミットに吸い込まれる。スローカーブ。意表を突かれ、手が出ない。
しっしもた、見送っちまった……
「ボール!」
アンパイアのコールに、高山は安堵する。
スタンドが「おおっ」とどよめく。双方のナインそして観客までも、この勝負に引き込まれていた。やがて歓声が潮のように引き、周囲は静寂に包まれる。
ふぅ、命拾いしたわぁ。まさか、さっきミスしたスローカーブを、ここで投げてくるとは。しっかし……落差といいコースといい、今度はええボールやったな。
倉橋が「惜しかったぞ。ナイスボール!」と、微笑んで返球した。それを横目に、高山はバットを握り直し、マウンド上を凝視する。
ボール半個分てとこか。おたくら、ちとツキがなかったな。気の毒やが……つぎこそ、仕留めさせてもらう。よう覚悟しとき。
そして六球目。読み通り、井口はシュートを投じてきた。
速球とほぼ同じスピードで、膝を巻き込むように鋭く曲がる。だがその軌道を、高山はくっきりと捉えていた。躊躇なくフルスイングする。
「……れ、レフト!」
はらうようにマスクを脱ぎ、倉橋が叫ぶ。左翼手の横井は、必死の形相で背走するも、フェンスの数メートル手前で諦めた。ボールは、レフトスタンド最上段へ飛び込む。
球場がざわめいた。三塁塁審が、ぐるぐると右腕を回す。スリーランホームラン。
「く、くそうっ」
井口はグラブを腰にぶつけ、歯ぎしりする。他の内野陣は、悔しげに頭上を仰ぎながらも、すぐに掛け声を発した。
「しゃーない。切りかえよう」
「まだ一点差だ、どうとでもなる」
「井口。よく攻めたぞ、ナイスガッツ!」
バットを放り、高山は小走りにダイヤモンドを回る。
にしても相手のバッテリー、よく勝負を決断できたな。いや意図は分かる。竹田が登板した後、うちらは押せ押せだった。敬遠くらいじゃ潮目は変わらない。
ホームベースを踏み、短く吐息をついた。
意図は分かるが、フツーできねぇよ。勝負を選んだことじたい、正気の沙汰じゃないが。あの井口ってピッチャーに至っては、失投したのと同じボールを放りやがって。
しかし紙一重やったな、と胸の内につぶやく。
もし、あのスローカーブが決まっていれば、いまごろ流れは向こうや。あいつらの図ったとおり。ほんの束の間にしても……追いつめられとったわけやな、墨谷に。
顔を上げた時、ベンチ奥に佇む、監督の中岡と目が合う。ほとんど無表情に見えたが、微かに口元が緩む。そうか、と高山は合点した。
分かってきたで。なんでこの試合、監督がレギュラーを起用しとるのか。
「ナイスバッティング、高山ぁ」
「さっすが四番。よう打ったで!」
逆転ホームランを放った高山が、味方から手荒な祝福を受けている。
「……って、やめい。おまえら、人の頭をぽんぽん気安く叩くなや」
その背中がベンチに引っ込むのと同時に、谷口はタイムを取る。そして内野陣に集まるよう指示し、自分もマウンドへ向かった。
す、スゴイ……とひそかにつぶやく。
井口のベストボールだった。右打者の膝を巻き込むように、内角のストライクゾーンぎりぎりに飛び込むシュート。並のバッターなら、腰が引けてしまう。
あれをスタンドまで持っていくとは、恐ろしい力量だ。パワーだけじゃなく、選球眼とスイングのしなやかさ。初めて見るぞ、こんなバッター。
谷口は、小さくかぶりを振った。敵チームの打者を感心している場合ではない。今こそキャプテンとして、すべきことがある。
マウンド上。井口が唇を噛み、西将の一塁側ベンチを睨んでいる。
いい顔してる、と谷口は思った。痛恨の一発を浴びてなお、この一年生投手の闘志は、少しも衰えていない。下を向くようなら、すぐにでも交代させようと思っていたが、その心配はなさそうだ。
「どうだ。さすがに疲れたろう」
分かった上で、あえて煽るように問いかける。
「いまの一発は、仕方ない。向こうが完全にうまかった。それを差し引いても、五回途中まで三失点。あの西将相手に、ちょっと出来すぎなくらいだ。よく投げてくれたな」
「は、はぁ……」
井口が、こちらに怪訝そうな目を向けた。
「もう十分だ。ここで無理して、むやみに傷を広げることはない。松川の準備もできてるし、下がっていいぞ」
「な、なにを言うんですかっ」
相手は左拳を握り、口角を尖らせる。
「打たれるのが怖くて、ピッチャーなんか務まりませんよ。ここで尻尾巻いて逃げ出したんじゃ、悔やんで夜も眠れなくなります。だいたい試合前、向かっていく気持ちが大事だと言ったのは、キャプテンじゃありませんか」
井口の傍らで、丸井とイガラシが目を見合わせ、くすっと笑う。どうやら、こちらの意図を見抜いたらしい。
「まだ投げられるというのか?」
尋ね直すと、井口は「あたりまえです」と即答した。
「さっきので通用しないってんなら、それ以上のタマを投げてやりますよ。やつら調子づいてくるでしょうから、こちとらそう甘くねぇって、思い知らせてやんねぇと」
無言でうなずき、他のメンバーを見回す。
「このとおり、井口の闘志は失われていない。彼の心意気を、俺は大事にしてやりたいと思う。みんなはどうだ?」
「けっ、身の程知らずが」
丸井がわざとらしい悪態をつく。
「しゃーねぇ。キャプテンに免じて、つき合ってやらぁ。そんかし……半端なタマ投げやがったら、承知しないぞ」
そのとおりだ、と加藤もうなずく。
「結果はともかく、思いきりよく投げろ。バックがついてる」
「ていうより……いっそ、コテンパンに打たれちまえ」
辛口の言葉を発したのは、倉橋だった。
「この聞かん坊は、泣くぐらいの思いをした方が、課題を自覚できていいかもな」
「うっ……そ、そんな。倉橋さん」
井口がバツの悪そうな顔をした。正捕手はにやりとして、付け加える。
「まーいい。やるからには、しっかりな」
やがてタイムが解け、内野陣はそれぞれのポジションへ散っていく。
すでに西将の五番打者、エースの竹田が右打席に立つ。倉橋が「しまっていこうぜ!」と叫び、屈み込む。おうよっ、とナイン達も応えた。ほどなくプレイが掛かる。
初球。井口は、インコース高めへ速球を投じた。竹田のバットが回り、バックネットへファールが飛ぶ。チッ、ガシャンと音が鳴る。
おや、と谷口は思った。
二球目は、外寄りの低めにシュート。竹田はぴくりとも反応しない。アウトコースいっぱいに決まり、あっさりツーストライクとなる。
真っすぐをファールにした後、やはりつぎのシュートは見逃した。彼らは三点取って、どうもシュートねらいをやめたらしいぞ。
そして三球目。井口は、なんとスローカーブを投じた。さしもの竹田も意表を突かれたのか、手が出ない。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアのコールと同時に、墨高ナインは一斉に駆け出した。
「よくしのいだぞ墨谷。さぁ反撃だっ」
「エリートチームなんか、やっつけちゃえ」
「取られたら取り返せ!」
スタンドから、力強い声援が降ってくる。健闘を称える拍手も重なる。
ベンチに入ろうとした時、背後から「キャプテン」と呼ばれた。振り向くと、イガラシが微笑んでいる。
「さっきは、うまく井口をノセましたね」
「む。このレベルの相手には、あいつの闘志が欠かせないからな。ちょっと打たれたからって、ショゲるようじゃ困る」
「ええ。かといって、素直に聞くようなやつじゃありませんから」
そう言って、ふとイガラシは真顔になる。
「けど、キャプテン。そろそろ代え時は見極めないといけませんね」
「分かってる。彼ら、どうやら制約をなくしたらしい」
「キャプテンも気づいてましたか。一番難しいシュートだけねらって、逆転に成功したわけですし。好きなタマを打つとなれば、やつらどんなチカラを発揮してくるか」
「ああ……しかしそのまえに、われわれの攻撃だぞ」
イガラシは「はい」とうなずいて、グラブをベンチの隅に置き、バットを拾う。この回の先頭打者は、彼からだ。
「あの竹田というピッチャーは、ちょっと見たことのないレベルだ。いくらおまえでも、そうカンタンには打ち込めないだろうが、喰らいついていけ」
なぜか返事がされない。こちらに背を向け、うつむき加減で立っている。
「い、イガラシ?」
改めて声を掛けると、後輩は「えっ」とようやく振り返る。
「あ、スミマセン……ちょっと考えごとを」
「めずらしいな。もしや、ねらいダマでも決めかねてるとか」
「い、いえ。そういうワケじゃないですが」
なぜか歯切れが悪い。いつものイガラシなら「あれぐらい打ってみせますよ」と、事もなげに言い放ちそうなものだ。
「どうしたイガラシ」
丸井も傍に来て、怪訝そうに尋ねる。
「ひょっとして、なにか気づいたのか?」
「えっと……まだ確信がないので、たしかめてきます」
そう返答して、イガラシは打席へと向かう。心なしか足取りが重い。
「なんだよアイツ。腹でも下してんのか」
丸井が心配そうな目を向けた。
2.双方の駆け引き
イテテ、やっちゃったぜ……
打席へ向かう途中、イガラシはそっと左手首を押さえた。さっきショートへの痛烈な打球を捌いた時、ショートバウンドが当たったのだ。すぐにバッティンググローブを嵌めたので、誰には見られずに済んだが、赤く腫れてしまっている。
眼前のグラウンド上。西将のキャッチャー高山が、二塁送球を投じた。ボールが矢のように、ベールカバーの二塁手のグラブへ吸い込まれる。
「……よし、いいだろう。バッターラップ」
アンパイアがこちらを振り向き、白線のバッターボックスを指差した。
イガラシは右打席に入り、短くバットを握った。通常のスイングでは、おそらく当てることすらままならないだろう。
「またせたなボーズ。ほな、いこっか」
高山が相変わらず、不敵な笑みを浮かべる。
けっ。自分のホームランで逆転したもんで、余裕しゃくしゃくってツラだな。しかし、こういう時にこそスキが生まれるもの……
「べつに余裕こいてなんか、おらへんで」
思わぬ一言に、イガラシは「えっ」と声を上げてしまう。
「いま、こいつホームラン打って調子に乗ってる、とか思うてたやろ。そんな余裕あるかい。なにせ……おたくら、けっこう手ゴワイもんな」
高山はそう告げて、にやりと笑う。
なるほど。やはり西将、少しも油断はないってか。もっとも慎重になりすぎて、変化球でかわしにくるようなら、そっちの方が攻め手はあるが。
ズバン。速球がうなりを上げ、インコース高めに飛び込んでくる。
「ストライク!」
ちぇっ、そう甘くないか。にしても……やはり近くで拝むと、すごい速球だ。こりゃ初打席で、どうにかできるタマじゃないぞ。
ふと後方を振り向く。ネクストバッターズサークルの丸井が、ベンチの谷口や他のナイン達が、必死の声援を送り続けていた。時折掠れ声が混じる。
「がんばれイガラシ。負けるなよっ」
「思いきりいけぇ。おまえなら打てるぞ」
「ボールをよく見て、喰らいつけ!」
一旦打席を外し、軽く素振りする。
でも……なんとかしなきゃ。ここで点を取らなきゃ、おそらく勝ち目はない。
打席に戻ると、高山が内野陣へ「もっと前だ!」と手振りで指示した。一塁手と三塁手がじりじりと前に寄ってくる。
イガラシは、唇を噛んだ。
くそっ。ランナーなしで前進守備とは、ナメられたもんだぜ。俺じゃ、あの速球は打ち返せないと踏んだな。あるいは、このキャッチャーのことだ。手首を傷めているとバレちまったかも……むっ、そうだ。
この時、一つのアイディアが浮かぶ。
眼前のマウンド上。竹田がロージンバックを足元に放り、振りかぶる。左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕をしならせる。
見てろよ高山さん。この俺を甘く見たこと、後悔させてやるぜっ。
やはり速球、またもインコース高め。イガラシは、すばやくバントの構えをした。そしてダッシュしてきた三塁手の背後をねらって、バットを押し出す。
コン。打球は小フライとなり、三塁手の頭上を越えた。
「投げるな!」
カバーに入った遊撃手に、高山は叫ぶ。この間、イガラシは悠々と、一塁ベースを駆け抜けていた。
鮮やかなプッシュバントに、墨谷の三塁側ベンチとスタンドが大いに沸く。
「うまいっ」
「さすがイガラシ。まんまと敵の意表を突いたぜ」
返球を捕り、高山は「スマンみんな」と謝った。
「いまのは、俺の判断ミスや。あのボーズに一杯喰わされたで」
努めて明るく言うと、二塁手の平石に「こんのボケ」と突っ込まれる。
「おしゃべりがすぎるからや。ま、ええクスリになったやないの」
「うっさいわ平石。キャプテンのくせに、もちっとマシな言い方できひんのかい」
言い返すと、内野陣から笑いが起きた。よし、ムードは悪うない。守備が崩れる心配はなさそうや……と、ひとまず安堵する。
―― 二番セカンド、丸井君。
ウグイス嬢のアナウンスと同時に、高山はホームベース手前に屈み込む。ちらっと横目で、一塁ベース上を見やる。
俺としたことが、ウカツやったな。あのイガラシって一年坊、明らかに動きがおかしいもんで、どこか傷めてるはずと踏んだのやが。まさか小ワザを仕掛けてくるとは。いや、ほんまに怪我してるからこそ、咄嗟にそうしたのかもしれへん。
短く吐息をつき、サインを出す。
どちらにせよ、えらい頭の回転の速いガキやな。あれで一年坊っていうんやから、まったく末恐ろしいで。
丸井は右打席に入り、始めからバントの構えをした。
初球。アウトコース低めをねらった速球が、大きく高めに外れる。高山は苦笑いして、肩を上下するジェスチャーをした。
「……う、うむ。分かってる」
どうも表情が硬い。しまった、とひそかに舌打ちする。
竹田のやつ、悪いクセが出かかっとる。コマイことやってくる相手に、ちと神経質になりすぎるんや。ボールは一級品やし、けん制もうまいのやから、そこまで気にする必要はないんやがな。
二球目のサインを出したが、竹田はすぐに投球せず、一塁へ牽制球を放る。
イガラシは手から返る。そして立ち上がり、今度はだいぶ長くリードを取った。竹田はたまらず牽制球を続けたが、これも余裕を持って帰塁される。
「こら竹田っ。あまりランナーを見るな、後続を仕留めればええんや」
マスク越しに怒鳴った。竹田がうなずき、ようやく投球動作へと移る。
ふいに「走った!」と平石が叫ぶ。ランナーに幻惑されたのか、竹田の投球がワンバウンドした。強肩を誇る高山だが、ボールを拾い直した分、送球が遅れてしまう。
「せ、セーフ!」
二塁塁審が、両手を水平に広げた。再びスタンドが沸き上がる。
「どないした竹田」
さすがにマスクを取り、立ち上がる。
「ホームに返さなきゃいいって、さっきから言うてるやろ。勝手にコケる気か」
「す、スマン」
「まったく……おまえほどのピッチャーが、なにをうろたえとんのや。もっとビシッとせんかい、ビシッと」
高山はマスクを被り直し、さらに付け加える。
「けん制はいらんで、かすらせなきゃエエだけや。墨谷なんぞチカラでねじ伏せんかい」
「わ、分かってる」
サインにうなずき、竹田は三球目の投球動作を始めた。その瞬間、なんとイガラシが再びスタートを切る。
こ、この俺から三盗だとぉ。ナメんなぁ!
丸井の体が邪魔にはなったが、高山は手首のスナップだけで送球する。イガラシの滑り込んだ右手に、三塁手のグラブが被さるのが見えた。
よしっ、アウトや……
「ボーク!」
三塁塁審が、マウンド上を指差した。
「な、なんでやっ」
竹田は険しい眼差しになる。
「セットが不十分だった。プレートをきちんと踏んでいなかったよ」
塁審の返答に、主戦投手はかぶりを振る。
「ウソや。俺は、ちゃんと……」
「やめい竹田、このアホウ!」
高山はタイムを取り、慌ててマウンドへ駆け寄る。
「見苦しいマネすんなや。あんなに落ち着きをなくせば、そらボークも取られる。自業自得や、少しは反省せいっ」
きつく叱り付けると、竹田はようやく落ち着きを取り戻す。
「す、スミマセンでした」
脱帽し、塁審に頭を下げた。
「ま……俺もヒトのこと、言えへん」
少し声を明るくして、高山は言った。
「あのボーズに搔き回されて、アタマに血が昇っとった。正捕手がこれじゃアカンな」
「なーに、お互いさまや。しっかし……イガラシってやつ、ええ度胸しとんな。続けざまに走ってくるとは」
「ああ。せやから、ここは本気でつぶしにいくで」
語気を強めて告げる。
「やつらはまだ、おまえのボールを捉えたわけやない。となると……ここで、かく実に点を取ろうと思えば」
竹田が「スクイズ」と返答した。
「そうや。といってヘタに警戒するのも、球数が増えてシンドイ」
「せ、せやな。どないしよか」
「カンタンなこっちゃ。竹田、アレを使うで」
その一言に、主戦投手は「なんやと?」と目を見開く。
「あ、アレは……公式戦以外は、封印するっつう話やったろ」
「監督から禁じられたわけやないし、べつにええやろ。しゃーない。ここでハッキリ、やつらに格のちがいを見せつけんと」
「む……そやな。分かった」
ミットで相手の腰をぽんと叩き、高山は踵を返した。
西将ナインは、内外野ともに前進守備を敷く。なんとしても一点を防ぐ構えだ。ほどなく高山がポジションに戻り、屈んでマスクを被る。
一方、三塁側ベンチの墨高ナイン。
この時、谷口が「スクイズ」のサインを出した。打席の丸井とランナーのイガラシは、同時にヘルメットのつばを摘まむ。「了解」の合図だ。
スクイズしかない、とイガラシも思った。
あのピッチャーからまともに打ち返すのは難しい。しかしバントなら、速いタマでも決められる練習は、ずっと積んできてる。おまけにツーボールとワンストライク。向こうもスリーボールにはしたくないだろうから、外しにくいはずだ。
やがてタイムが解ける。丸井が「さあ来いっ」と気合の声を発した。
イガラシは、そっと左手首を押さえた。プッシュバントした時の衝撃で、痛みが増してきている。どうにかポーカーフェイスを装う。
マウンド上。竹田がセットポジションから、足を上げる。その瞬間、丸井がバントの構えをした。これを見て、イガラシはスタートを切った。
読みどおり、相手バッテリーは外してこない。しかも速球が、ほぼ真ん中に投じられる。丸井なら簡単に当てられるコースだ。
ところが……
「な、なにぃっ」
駆けながら、イガラシは思わず叫んだ。
竹田のボールは、ホームベースを通過しようとする瞬間、急激に沈んだ。さしもの丸井も、想定外の軌道に反応できない。バントを空振りし、体勢を崩してつんのめる。
ワンバウンドしたボールを、高山がすぐに拾った。イガラシはその背後に回り込み、僅かな隙間からホームベースへ右手を伸ばす。この時、左手首をひねってしまう。
指先に、高山のミットが覆い被さる。
「……あ、アウト!」
アンパイアが、無情のコールを告げた。
コールを聴き、高山は安堵の吐息をつく。
やれやれ……どうにかアウトを奪ったが、ぎりぎりやったな。このボーズ、竹田のフォークがバウンドした一瞬に、回り込んできやがった。拾うのが少しでも遅れたら、タッチを掻いくぐられとったで。
「ち、ちきしょうっ」
眼前で、丸井がバチンと土を叩き、右拳を震わせる。それでも立ち上がると、まだホームベース手前で伏せている後輩の背中を、ぽんと叩く。
「わ、わりぃイガラシ。当てられなくて」
なぜか反応がない。高山も訝しく思い、声を掛ける。
「こらボーズ。先輩が、心配しとるで。そんなトコで寝転んでたら」
その時、微かながら「ぐっ……」と呻き声が漏れた。
「え……おいボーズ、どないしたんや」
「イガラシっ」
二人の声が重なる。
それでもほどなく、イガラシは自力で立ち上がった。丸井と目を見合わせ「やられちゃいましたね」と、力なく笑う。
「お、おいイガラシ」
「ワンバウンドしたので、なんとか滑り込みたかったんですけど……うっ」
ふいにイガラシが、顔を歪めた。
「も、もしや……」
丸井は何かを察したらしく、後輩の左腕をつかみ、長袖のアンダーシャツをめくる。そして「うわっ」と声を上げた。
「おまえ……手首が真っ赤だぞ。かなり膨れてるじゃねーか」
「ま、丸井さん。こんな所で」
「ばかっ、んなこと言ってる場合かよ。早く手当てしないと」
その時、墨高ナインの陣取るの三塁側ベンチから、大柄な選手が飛び出してきた。右手に小さな氷袋を携えている。
「おっ根岸、気が利くじゃねぇか」
丸井が感心げにうなずく。
「あとはまかせてください」
根岸と呼ばれた選手は、イガラシに氷袋を手渡し、横から肩を支えた。
「こっちは気にせず、先輩は打席に集中しましょう」
「分かってらい。ちゃんと挽回してくるから、よく見といてくれよな」
「ええ、たのみます」
後輩の励ましに、丸井は「おうよっ」と快活に答えた。負傷のイガラシは、そのまま根岸に付き添われ、ベンチへと引き上げていく。
傍らで、高山はマスクを被り直す。
あのヤロウ……こんな手負いの状態で、よう搔き回してくれたの。なかなか見上げた根性しとるわ。もっとも味方は、気が気やないやろうけど。
ホームベース手前に屈み、ひそかに溜息をつく。
こういう捨て身で向かってくる相手が、一番怖いんや。認めるのはシャクやが、ええチームやで。やつらもう、とっくに……甲子園へ行けるレベルに達しとるのやないか。
「やはり隠してたのか。まったく、ムチャしやがって」
ベンチに座ると、谷口が眼前で腕組みする。
「今日こそ下がってもらうぞ。公式戦でない試合に、ケガ人を出さなきゃならんほど、うちの層は薄くないからな」
怖い顔で睨まれ、イガラシは「え、ええ」と苦笑いした。
「手首は動くようだから、折れてはいなさそうだな」
倉橋が打席に向かう準備をしながら、のぞき込んでくる。
「打ぼくとねんざってとこだろう。いまはかなり痛むだろうが、ちゃんと治療すれば、きっと大会には間に合うさ」
そう解説した後、倉橋は「こっそり余計なことしなけりゃな」と凄む。
「は、はぁ……」
「ねんざってやつは、クセになるんだ。ちゃんと治さないと、ずるずる大会まで引きずって、カンジンの公式戦で力が出せないってことになりかねんぞ」
そのとおりだ、と谷口が言葉を重ねる。
「傷めた手でプッシュバントだのスライディングだのって、あまりにも無謀すぎる。もし悪化でもして、大会に出られなかったらどうするんだ」
「は、はい。スミマセン」
イガラシは、素直に謝った。
「……まったく」
苦笑いして、倉橋がつぶやく。
「いったい誰に似たんだか」
傍らで、谷口が「あっ」とずっこけた。
「キャプテン。この裏からのポジションは、どうしましょう?」
ベンチ奥より、加藤が尋ねる。
「む、そうだな。先に確認しておくか」
谷口は、該当者と目を見合わせ伝えた。
「まずショートは、横井。そしてレフトには、戸室が入ってくれ。こういうアクシデントの時は、やはり三年生の経験がたのみだ」
横井と戸室は、力強く返事した。
「よし来た」
「まかせとけって」
さらに谷口は、前列の左隅に腰掛けている、井口を呼んだ。
「井口。おまえは、六回までだ」
「え……そ、そんな」
肩を上下させ、明らかに疲れている様子だが、やはり納得いかないらしい。
「もっと投げられますよ。終盤、いや最後まで」
「気持ちは分かるが、それは公式戦にとっておいてくれ。おまえが強豪相手にも通用するというのは、じゅうぶん分かった。あとは松川、それと俺も、打たれたイメージを払拭しなきゃいけないのでな」
「……わ、分かりました」
井口は説明を聞くと、意外にもあっさり引き下がった。
「分かったのなら、さっさとキャッチボールして来い」
顔を上げ、イガラシは追い払う仕草をした。
「それとも動けないのか。なら、この回で交代してもらった方がいいんじゃねーの」
「ば、ばか言うな」
幼馴染は立ち上がり、グラブを抱える。
「よしっ。根岸、つき合ってくれ」
「あ、ああ……」
根岸は戸惑いながらも、連れ立ってベンチから出ていく。
「……ストライク、バッターアウト!」
グラウンド上。アンパイアが、右拳を高く掲げた。八球粘りながら三振を喫した丸井が、悔しそうな表情で引き上げてくる。
「くそっ、最後もフォークか」
イガラシのつぶやきに、倉橋が頬を引きつらせる。
「な、なんだよあのボール。ほとんど速球と同じスピードで、すごい落差だったぞ」
「ええ。ど真ん中と思ったボールが、ワンバウンドしましたからね」
「ははっ、まるでプロが混じってるようだな」
倉橋はそれでも、勇んでネクストバッターズサークルへと向かう。
ふと気になることが浮かび、尋ねてみる。
「なんだイガラシ」
「井口は降板したら、そのままベンチに下げる予定ですか?」
「うむ。そのつもりだが」
横井が「なんでだよ」と割り込む。
「あいつ今日、ホームラン打ってるんだぞ。まだバッティングに期待できるだろうに」
「……横井さん」
イガラシは、小さくかぶりを振った。
「きっと、それどころじゃなくなります」
「えっ。そりゃ、どういうこったよ」
「つぎの回から、西将は猛攻をかけてきますよ。逆転して、ピンチの芽も摘んだ。あとやるべきは……ここらで畳みかけて、試合を決めにいくことでしょうから」
シビアな返答に、横井は言葉を失う。傍らで、谷口が「そういうことだ」うなずく。
「あまり考えたくはないがな。だから横井、戸室。ここからは守備の勝負になる。余計な点だけは与えないように、しっかり備えてくれ」
「お、おう」
「分かったよ」
横井は返事すると、イガラシの左肩をぽんと叩いた。
「あとはまかせろ。おまえのガッツ、無駄にしないからな」
五回裏。後続の丸井と島田が打ち取られ、墨高はけっきょく無得点に終わる。
グラウンド整備の後、迎えた六回表――谷口とイガラシの予感が的中してしまう。
この回よりシュートねらいの制約をなくした西将打線は、すでに疲労困憊の井口に、容赦なく襲いかかった。先頭打者がツーベースヒットで出塁すると、そこから四連打。一点を追加し、なおもノーアウト満塁と攻め立てる。
井口はここで降板となった。リリーフには、二年生の松川が告げられる。
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