【目次】
【前話へのリンク】
第22話 松下のしゅう念!の巻
1.城東対策
谷口とイガラシは、一旦部室に戻りユニフォームに着替えてから、グラウンドへ向かう。
ちょうどナイン達は休憩中で、水飲み場に集まっていた。また松川らバッテリー陣は、ブルペンで練習を続けている。そこにOBの田所も付いているようだ。倉橋だけは、全体の指揮を執るため、皆と一緒にいた。
「な、なにいっ。聖稜が負けただと!」
倉橋は、声を上ずらせた。周囲のナイン達もどよめく。
「しかも九回に逆転されて、サヨナラ負けだぁ? なにやってんだよ聖稜は」
まさに開いた口が塞がらない様子だ。
「そ、そんな……城東が、シード常連の聖陵をやっつけるなんて」
倉橋以上に驚嘆の声を発したのは、島田だった。丸井と目を見合わせ、もう一度「まさか」とつぶやく。彼は城東を偵察しただけでなく、昨年には聖稜と対戦し、その強さを体感している。なおのこと、信じられない思いだろう。
「ああ……なんだか俺っち、落ち込んできた」
傍らで、丸井が溜息をつく。こちらは驚くよりもショックを受けたらしい。
「そりゃ松下さんには、がんばって欲しいと思ってたよ。けど客観的に見て、申し訳ないが聖稜には勝てないと、分析したつもりだったのに。見る目が曇っちまったのか」
「丸井さん、それがですね……」
イガラシが気の毒に思ったのか、詳細を伝える。聖稜の各打者が、全員バスターの構えで相手投手を揺さぶったこと。さらに九回から、青葉学院出身の大橋が登板したこと。
「えっ……な、なんだと」
丸井は、口をあんぐり開ける。
「あの大橋が、こんなトコに潜り込んでやがったのか」
さらに島田や加藤ら、墨谷二中出身メンバーも一様に、驚いた顔をした。
「なぁ島田。一回戦で、やつの姿を見かけたか?」
「いや。もしいたら、気づいてるはずさ」
苦笑い混じりに、島田が言った。
「やられたな。松下さん、手の内を隠してたんだ」
「うむ。その時は、あえてベンチメンバーから外したんだろう」
しっかし……と、加藤が首を捻る。
「意外だよな。あの人が、こんなに策を使ってくるとは」
そしてこちらに顔を向けた。
「キャプテンも、さすがに予想外だったでしょう?」
「うむ。聖稜との力量差を分かったうえで、それでも勝ってやろうと、あらゆる手を尽くしたのだろう。これしかないと、よほどハラをくくってたんだな」
「……あの、ところで」
おずおずと挙手したのは、久保だった。
「俺としては……松下さんが八回を二点に抑えたことの方が、ずっと驚きです。昨年うちと戦った時は、一イニングもたなかったと聞いてましたから」
「久保、それはな……」
イガラシが説明しかけるのを、谷口は「まて」と制した。
「それより練習を再開しよう。もう六時前だし、やがて暗くなる」
キャプテンの言葉に、ナイン達は「はいっ」と返事した。一瞬イガラシは訝しく思ったようだが、すぐにピンときたのだろう。こちらと目を見合わせ、ふっと笑みを浮かべた。
そのイガラシに声を掛け、井口を呼んでくるように伝える。彼は「キャプテン」と、こちらに質問を返してきた。
「これからシートバッティングで、松下さんへの対策をするのでしょう?」
「うむ、そのつもりだが」
にやっとして、イガラシは言った。
「それでしたら……打撃投手は、ぼくがやりますよ」
えっ、と谷口は目を見開く。
「さっき見たとおり、フツウには投げないぞ」
「分かってます。こういうのは、わりと得意なので」
ふふっと含み笑いを漏らす後輩に、谷口は「そ、そうか……」と苦笑いした。
ブルペンへ向かうイガラシを横目に、谷口はホームベース奥に控えていた倉橋へと駆け寄り、練習の趣旨を説明する。
「……なるほど、まず井口にね。分かった」
倉橋は、すぐに理解してくれた。
「とくにアイツには、必要だろうな。いちばん挑発に乗りそうだからよ」
「たのむ。投球の方は、イガラシがうまくやるだろう」
やがてナイン達は、打者を除いて各ポジションへ散っていく。
谷口もサードのポジションにつき、ちらっと空を見上げた。この頃だいぶ日が長くなり、七時過ぎまではボールがよく見える。ナイン達は嫌がるだろうが、練習時間を多く確保できるのはありがたい。
ほどなくシートバッティングが開始された。
こちらの指示通り、まず井口が打席に立つ。マウンド上のイガラシに、ほう……と目を丸くする。心なしか嬉しげだ。
「今日はろくに練習してないってのに、すぐ投げて平気なのか?」
「いらん心配すんな。それより本気でいくから、そのつもりで向かってこいよ」
イガラシはむやみに挑戦的だ。幼馴染の井口だから言っているのだろうが、それでもハラハラしてしまう。
「ふふん、面白いじゃねぇか」
井口がバットを構えると、イガラシもすぐに投球動作へと移る。
「……おっと」
ガシャン。井口の背中を掠めるようにして、ボールはバックネットに当たる。
「て、てめぇイガラシ。どこ投げてやがんだ」
井口が怒鳴った。さらに事情を知らない周囲も、不安げな顔になる。
「おまえのグチにつき合っているヒマはない。さっさとかまえろ」
さすがにイガラシは慣れたもので、冷たく言い放つ。
「こ……このヤロウ」
顔を真っ赤にしながらも、井口はバットを構える。
二球目。イガラシは、速球を顔付近に投じる。井口が「わっ」と上体を仰け反らせた。そしてマウンド上を睨み付ける。
「ぐっ……ま、まさかイガラシ。てめぇわざと」
「さすがケンカ慣れしてるじゃねーか」
イガラシはそう言って、挑発的に笑う。
「よけられると思ったよ。ま、だからって打てるとはかぎらんが」
「なにぃっ」
「ほれ、どんどん行くぞ」
いきり立つ幼馴染を相手せず、イガラシは三球目を投じた。
今度は、一転してチェンジアップ。予想外のボールに、井口のバットは空を切る。そのままバランスを崩し、もんどり打って転ぶ。
「……ちいっ、なんだよ。マトモに投げられるなら、最初からそうしやがれ」
「そういうことは、マトモに打ってから言うんだな」
「な、なんだとっ」
見かねたらしく、丸井が「た、タンマ」とマウンドへ駆け寄る。
「お……おいイガラシ、なに考えてんだよ。井口の言うとおりだぜ。ありゃどう見ても、ケンカを売っているようにしか」
「そこまでっ!」
谷口は、わざと大声を発した。丸井と井口が、びくっとしてこちらを見やる。
「びっくりしたぁ」
「な、なんスか急に」
一つ吐息をつき、マウンドの傍まで寄る。
「すまなかった井口。みんなも、ちょっと集まってくれ」
ナイン達が近くに来てから、谷口は説明を始めた。
「これが松下の戦法だ。いまイガラシがやったように、危険球すれすれのタマで、バッターの冷静さを失わせる。そして選球眼やバッティングの形までくるわせていく」
「まさに、さっきの井口だな」
倉橋の一言に、井口はバツの悪そうな顔をした。
「わりぃな井口」
イガラシはくすっと笑い、幼馴染をなだめる。
「さっきも言ったが、おまえならよけられると思ったんだ」
「ったく……シュミわりーぜ」
井口が唇を尖らせる。
「イガラシを悪く思わないでくれ」
谷口は苦笑い混じりに、弁解する。
「もともと俺がやるつもりだったんだが、イガラシが代わってくれてな。彼のコントロールなら間違いはないだろうし」
なるほどっ、と丸井が手のひらを鳴らす。
「そりゃ良い考えだ。イガラシにやられる方が、ずっとムカつくもんな」
イガラシが「あっ」と軽くずっこける。
「ま……とにかく、これで城東戦のポイントは分かったと思う」
全員を見回し、谷口は口調を厳しくして言った。
「向こうは必死だ。なにせ過去二度も、うちに大敗している。だからこそ、どうにかこっちの平常心を失わせようと、あらゆるテで揺さぶってくるぞ」
「つ、つまり……」
こちらの話を受け、横井が発言する。
「相手の揺さぶりに動じず、冷静に戦うってことか」
「うむ。いつも通りのプレーさえできれば、地力ではこっちが上だ。なにをされても、どっしりと自分達の野球をしよう。いいなっ」
ナイン達は「おうっ」と返事した。
全員が一打席ずつ立ったところで、この日のシートバッティングは打ち切られる。
時刻は七時を回り、さすがにボールが見えづらくなってきていた。仕上げのベースランニングを済ませ、あとは個人練習という流れになる。
「倉橋、ちょっと」
捕手用プロテクターを片付ける正捕手に、谷口は声を掛けた。
「む、なんだい?」
「城東戦の投手起用のことだが……」
周囲に人がいないのを確かめてから、囁くように告げる。
「先発は、井口でいこうと思う」
「おう……え、井口だと?」
倉橋は顔を上げ、目を見開く。よりによって……と言いたげだ。
「ま、ひとまず理由を聞いてくれ」
先に前置きして、谷口は根拠を述べた。
「さっき伝えたとおり、城東はみんなバスターの構えから、喰らいつく打ち方をしてきた。こういう相手には、チカラで抑え込める井口が合っている。こんなことしても、ムダだと思わせるためにも」
「……うむ。そりゃ意図は分かるが」
「もちろん倉橋の懸念は、俺だって理解してるさ」
苦笑いして、谷口は言った。
「あの短気な井口が、城東の挑発に乗らないかってことだろう?」
「そうだ。分かってて、なんでまた」
訝しげな目で、倉橋が問うてくる。
「城東の試合を見てて感じたんだが……こっちが相手を研究するのと同じように、相手もこっちを研究してくる」
ホームベースを挟んで座り、二人は話を続けた。
「井口も同じだ。あいつの短気が弱点になるのなら、遅かれ早かれつけ込まれる。それなら、早い段階でそれを克服させた方が、後々のためじゃないかと思うんだ」
「……ううむ、なるほどね」
「もう一つ。城東に勝ったとして、つぎの試合まで中三日しかない。おそらく川北がくるだろうから……ここは松川と俺で継投して、万全を期したい」
大会日程を頭で追いながら、順に説明していく。
「そしてイガラシには、いずれの試合でも先発投手が崩れた時のために、控えてもらわなきゃならん。こう考えると……城東戦は井口先発の方が、あとあと計算が立つ」
倉橋は、数回うなずき「分かった」と返事した。
「そこまで考えてるなら、反対する理由はない。俺も協力させてもらうよ」
「ありがとう倉橋」
「なーに。俺だって長いこと、キャッチャーやってるからな。井口がいくら短気だからって、みすみす試合をぶち壊させるようなマネ、させないさ」
その時、背後に足音が聴こえた。振り向くと田所が立っている。
「ようよう。いろいろ考えてるようだが、あまりいまのうちから気張るなよ」
「田所さん、ありがとうございます。ピッチャー陣を見てくれて」
谷口は立ち上がり、軽く一礼した。
「よ、よせやい。まえも話したが、こっちは自己満足でやってんだ。俺にできることがあれば、なんでも言ってくれい」
倉橋が「仕事の方はいいんスか?」と、心配げに尋ねる。
「ああ……それが、アタマ痛いのよ」
そう言うと、作業の胸ポケットから手帳を取り出す。
「また最近、冷蔵庫だの洗濯機だのの注文が増えてきてんだ。商売繁盛はありがてぇが……」
そういやぁ、と田所は問うてくる。
「谷口。おまえらの初戦、つぎの日曜日だっけ?」
「ええ、そうですが」
「ちょっとまてよ……ああ、よりによって」
手帳をめくり、OBは溜息をつく。
「洗濯機の取りつけが四件も入ってやがるぜ。仕事を切り上げる頃には、もう試合も終わっちまってる。なんとかグラウンドには、顔を出せそうだが」
「……それじゃあ、田所さん」
ふっと笑みを浮けば、谷口は言った。
「ノックを練習していてもらえませんか?」
「おう……む、ノックだと?」
田所は戸惑った顔で、僅かに首を傾げた。
そして三日後――いよいよ墨高ナインは、夏の初戦を迎えたのである。
2.井口の立ち上がり
日曜日。荒川球場の第一試合は、墨谷と城東の対戦が組まれていた。
試合前にも関わらず、すでにスタンドの客席は半数以上が埋まっている。休日というだけでなく、この一戦はそもそも注目度の高いカードだった。
墨谷は、昨夏の八強にして、今大会のシード校。いっぽうの城東は、ノーシードながら二回戦にて、強豪の一角・聖稜を破る番狂わせを起こしている。この組み合わせに、観客達の期待も否応なく高まるのであった。
「つぎ、ライト!」
ノッカーを務める一年生の岡村が、右方向へ打ち放った。右翼手の久保が、無駄のない動きで数メートルほど背走し、捕球と同時に投げ返す。
「ナイスライト! へいっ、サード」
規則的なバウンドのゴロを、谷口は軽やかに捌いた。送球が一塁手加藤のミットに収まるのを確認して、他のメンバーを見回す。
みんな動きはいいな。初戦ということでカタくならないか心配だったが、さすがに上級生は経験のたまものだ。おかげで下級生も、のびのびプレーできてる。
「よし、ラスト……キャッチャー!」
バックネットとホームベースのほぼ中央に、岡村はフライを打ち上げる。倉橋がすばやくダッシュし、おでこの前で捕球した。
これにて試合前のシートノックが済み、墨高ナインは三塁側ベンチへと引き上げる
「よう岡村、ノックうまいじゃねーか」
帰り際、丸井がそう声を掛ける。一年生は顔をほころばせた。
「ええ。中学時分はキャプテンをしてたもんで、慣れてるんです」
「なんで投手のタマは、からっきしかね」
横から加藤に突っ込まれ、岡村は「あっ」とずっこける。
こちらと入れ替わり、城東ナインがほどなくシートノックを始めた。墨高と同じく、控え選手がノッカーを務める。
「へいっ、サード!」
掛け声と同時に、ノッカーは速いゴロを打った。城東の三塁手は、ショート側へ飛び付き、辛うじて捕球する。
「おいおい。いきなり、とばすなぁ」
吐息混じりに、横井が言った。
城東のノッカーは、以後も速い打球を放つ。さらに外野へは、頭上を越えそうな大飛球を弾き返した。それでも野手陣は、果敢に喰らいついていく。
「……なるほど。こういう打球がくると、想定してるわけか」
倉橋のつぶやきに、ナイン達は「ああっ」と声を発した。
シートノックのさなか、取り損ねたボールがこちらに転がってくる。谷口は、咄嗟にベンチを出て、拾い上げた。すぐに相手の一塁手へ投げ返す。
「ありがとう」
ふいに声を掛けられ、はっとした。振り向くと松下が立っている。
「しばらくだな谷口」
旧友は、そう言って握手を求めてきた。
「や、やあ。しばらく」
戸惑いながらも、相手の右手を握り返す。
「招待野球の試合、見せてもらったぞ」
松下はそう告げて、口元に笑みを浮かべる。
「さすが谷口だと思ったよ。あの西将相手に、すごい試合だった」
「松下こそ、あの聖稜を九回にうっちゃったりして。あれは驚かされたよ」
心なしか、松下はすっきりした表情だ。やるべきことは、すべてやりきったという充実感なのか。どんな展開になっても戦い抜くという覚悟なのか。開き直りか。あるいは、そのいずれもなのか。
「……それじゃ谷口、いい試合しよう」
「む。おたがい、ベストを尽くそう」
短く言葉を交わし、二人は互いに踵を返す。
ベンチに戻り、谷口は「集合っ」と一声発した。すぐにナイン達は、三メートル半径内に集まる。ずらりと円陣を組み、キャプテンの言葉を待つ。
「いよいよ初戦だ。昨年と大きくちがうのが、われわれはシード校だということ。つまり相手から警戒され、いろいろ対策を取られる立場だ。こういう中で勝ち上がっていくのは、はっきり言って容易じゃないぞ」
厳しい言葉に、束の間ナイン達の顔がこわばる。
「……しかし、臆することはない」
声を明るくして、谷口は話を続けた。
「どんな状況であっても、その場その時のベストなプレーが求められるということに、変わりない。相手の揺さぶりに、動じてしまうこともあるだろう。そういう時こそ、シンプルに考えるんだ。いまやるべきことは、なんなのかを」
しばし間を置き、気合の声を発す。
「よし……みんな、いくぞっ」
キャプテンの掛け声に、ナイン達は「おうっ」と力強く応えた。
やがて城東の野手陣が、シートノックを終えて一塁側ベンチへ引き上げていく。それと同時に、墨高ナインはベンチ前に整列する。相手も用具を片付け、こちらに習う。
ほどなくバックネット下の扉が開き、四人の審判団が姿を現す。
「両チーム集合!」
アンパイアの掛け声。両校ナインは一斉に駆け出し、ホームベースを挟んで並ぶ。
「これより城東先攻で、試合を開始する。礼っ」
「お願いします!」
挨拶の後、さっと墨高ナインは各ポジションへ散った。
マウンド上。井口はスパイクで足元を均し、ロージンバックを拾う。すぐに倉橋もホームベース奥に座り、投球練習が始められる。
谷口は、内野陣のボール回しに加わりながら、井口のボールを観察した。彼の持ち味である快速球、そしてシュート。さらにカーブも、この日はキレがある。
倉橋の二塁送球が済むと、谷口はマウンドに駆け寄った。
「調子よさそうだな」
声を掛けると、井口は「へへっ」と笑う。
「今日はなに投げても、打たれる気がしません」
「ふふっ。たのもしいな」
口元を引き締め、谷口は言った。
「まえに伝えたとおり、城東はいろいろ揺さぶってくる。根負けするんじゃないぞ」
「なーに、そういうのは慣れてるもんで。ムダだと思い知らせてやりますよ」
「む。いいぞ、その意気だ!」
ほどなく城東の先頭打者が、右打席に入った。やはり内側のラインぎりぎりに立ち、バットを寝かせる。聖稜の木戸に使ったのと同じ戦法だ。
井口が不敵に笑う。
「フフ。聖稜には効いたのかもしれんが、この俺にも通じると思うなよ」
やがて、アンパイアが「プレイボール!」とコールした。
初球。相手が封じようとするインコースを、井口は構わず突いた。打者の胸元に、快速球が飛び込む。
「ストライク!」
閃光のようなボールの迫力に、城東応援席の一塁側スタンドは静まり返る。
一番打者は、怯まず同じ構えをした。
くそっ、と一番打者は顔を歪める。それでも果敢に同じ構えをした。井口が振りかぶり、二球目を投じる。
ズバン。今度はスピードのあるカーブが、やはり胸元を抉った。打者はヒッティングを試みるも、バットが間に合わない。これでツーストライク。
「だから、ムダだと言ってるだろ」
井口はテンポよく、三球目の投球動作へと移る。次はアウトコース。一番打者は、またもバスターの構えから、はらうようにバットを差し出す。ところがボールは、ホームベース手前で鋭く外側へ曲がった。
「ストライク、バッターアウト!」
打者は空を仰ぎ、呻くようにつぶやく。
「……くっ。なんだよ、いまのシュートは」
事前の想定もあってか、聖稜を苦しめた城東の策にも、井口はまるで動じない。続く二番をサードフライに打ち取ると、さらに三番打者もあっという間に追い込み……
「ストライク、バッターアウト!」
高めの吊り球に、バットが回る。
「へん。当てることしか考えてねーから、ボール球に手が出ちまうんだ」
余裕綽々と言い放ち、井口はマウンドを降りる。
「いいぞ井口!」
「三番にかすらせもしないとは、おそれいったぜ」
快投の一年生を称えつつ、墨高ナインは足取り軽くベンチへ引き上げていく。
3.アクシデント発生
指先に汗が滲む。かなり緊張していると、自分でも分かった。
「くそっ、やられたか」
マウンド上。松下は、ひそかに溜息をつく。
谷口め、こっちの弱点を突いてきやがった。コントロールの良い谷口や松川なら、どうにか食い下がれると思ったんだが。まさか、いきなり井口を使ってくるとは。うちの場合、たしかにアラ削りでも、速球をどんどん投げ込まれる方がキツイ。
松下の計算違いは、他にもあった。
おまけに……井口は思ったより、コントロールも悪くないぞ。ふつうベース寄りに立たれると、意識して制球が甘くなってしまうものだが、かまわずインコースだった。あいつに小細工は通じないのか。
「バッターラップ!」
アンパイアの声に促され、丸井が右打席に入ってくる。こちらと目が合うと、ヘルメットを取りぺこっと会釈した。松下は「やあ」と、右手をかざし合図する。
ははっ、そうか丸井まで加わったんだな。イガラシや久保もいることだし、まるで同窓会だぜ。なんて……ノーテンキに、考えてる場合じゃないな。
プレイが掛かると同時に、松下は投球動作へと移る。
初球。打者の足元へ、意図的にワンバウンドを放る。丸井は飛び上がってよけた。続く二球目は、速球を顔付近に投じた。今度は「ひゃっ」と仰け反る。
危険球すれすれのコースに、双方のスタンドがざわめく。
「オイオイ危ないじゃねーか」
「わざとやってんだろ。きたねぇぞ」
そんな野次も聴こえてきた。なんとでもほざけ、と胸の内につぶやく。
いまや墨谷は、都内でも五指に入るチームだろう。まともに戦えば、きっと木っ端みじんにされる。少しでも食い下がろうと思ったら、手段を選んでいる場合じゃない。松下はそう腹を括っていた。
三球目。一転してアウトコースへ、松下はカーブを投じた。丸井がバットを差し出す。目論み通り引っ掛けさせたと、束の間思う。
パシッ。鋭いライナーが、右中間を切り裂く。
「な、なにぃっ」
丸井は一塁ベースを蹴ると、さらに加速した。あっという間に二塁ベースも回る。
「中継ストップ!」
ベースカバーに走りながら、松下は叫んだ。
ボールは中継の二塁手に渡ったのみ。その間、丸井はスライディングしただけで、悠々と三塁を陥れていた。スリーベースヒット。
「ど、どんまいよ松下」
キャッチャーの内山が声を掛けてくる。
「いまのはバッターがうまかったんだ。切りかえよう」
「あ、ああ……」
微笑んで返事したものの、マウンドに戻ると舌打ちしてしまう。
しまった……カンタンにストライクを取りにいきすぎた。迷いなく振ってきたところを見ると、ボールを散らされても、しっかり選球する練習を積んできてるようだ。たしかに谷口なら、そこまで考えるだろう。悔しいが、抜かりなしってことか。
次打者は二番の島田だ。彼もまた、松下の墨二時代の後輩である。
「外野、バックだっ」
背後を振り向き、松下は外野陣に指示する。
ここでスクイズはない。コントロールがまとまっていない投手に、それは危険だ。しかも井口を先発させたことからして、向こうはチカラで押し切るつもりだ。となれば、ここは連打で畳みかけようとするはず。
島田は左打席に入った。スイッチヒッターの彼は、状況によって左右を使い分ける。
ふむ……ここで左を選んだのは、きっと中に入ってくるカーブをねらうためだろう。なら、あえてそのカーブを打たせる。犠牲フライの一点は、しかたない。
初球のカーブを、やはり島田は打ち返した。
「せ、センター!」
大飛球がセンター頭上を襲う。まずい、と松下は思った。もっと打ち上げさせるはずが、コンパクトに振り切った打球は、ぐんぐん伸びていく。とうとう中堅手は、背中をフェンスに付けた。
「……くっ」
それでも左手をフェンスに掛け、よじ登りグラブを目いっぱい伸ばす。その先端に、辛うじてボールが収まる。
「あ、アウト!」
二塁塁審が、大きく右手を突き上げた。
好守備に一塁側スタンドが沸く。墨高の三塁側スタンドからは「ああ……」という溜息が漏れた。しかし三塁ランナーの丸井は、タッチアップから楽々と生還する。
「ワンアウト! ここから守っていこう」
野手陣に声を掛けた後、こっそり安堵の吐息をつく。
あぶねぇ。打たせて取ろうなんて……もし両翼だったら、叩き込まれてたな。島田のやつ、ウデを上げやがって。
「……ああっ、捕られちまったか」
ネクストバッターズサークルにて、倉橋が苦笑いした。
「カーブを誘って、ねらい打ったのは良かったが。さすがに守備は鍛えられてるぜ」
「む。その直前に、松下がバックを下げさせたのも、好判断だったな」
谷口の指摘に、倉橋は「オイオイ」と突っ込む。
「いくら同窓だからって、敵を称えてどうすんだよ」
「ま、いいじゃないか。一点取れたんだし」
笑って返答した後、すぐに表情を引き締める。
「しかしあのワンプレーで、流れを渡すわけにはいかないな。ここで畳みかけないと。そのためにも……たのむぞ、倉橋」
「おうよ。まかせとけって」
倉橋は快活に返答し、打席へと向かう。
残された谷口は、そのまま白線内に入る。マスコットバットを拾い、素振りを二度三度と繰り返した。
順調だな……と、胸の内につぶやく。
予定どおり、初回で城東のねらいをくじけた。井口は相手の揺さぶりに惑わされなかったし、攻撃でもしっかり好球必打ができている。このまま行けば、早いうちに勝負を決められそうだぞ。
試合はここまで、ほぼ谷口の思惑通りだった。
城東打線の特徴を踏まえた投手起用。相手バッテリーの揺さぶりに、惑わされないバッティング。谷口ばかりでなく他のナイン達も、しっかり自分達のプレーができていることに、大いなる手応えを感じ始めていた。
しかし……好事魔多し、とはよく言ったものだ。
この後、すべて計算づくで試合を進める墨高に、まさかのアクシデントが降りかかるのである。
パシッ。倉橋の引っ張った打球が、レフトスタンドのポール際へ飛ぶ。
「れ、レフトっ」
松下の掛け声よりも先に、左翼手は背走を始めていた。しかしフェンスの数メートル手前で立ち止まり、ボールを見送る。
「……ふぁ、ファール!」
三塁塁審が、両腕を大きく開いた。松下は「ほうっ」と大きく吐息をつく。カウントは、ワンエンドワンとなる。
ちっ。インコースぎりぎりと突くはずが、少し中に入っちまった。これを見逃さずにねらい打つとは、さすが倉橋だぜ。
三球目。丸井の時と同様、足払いのようにワンバウンドを投じる。
倉橋は、小さくジャンプしてよけた。そしてふと、こちらに視線を投げかける。口元に笑みが浮かぶ。
く、くそうっ。こんなことしても、ムダだって言いたいのか……
続く四球目は、ドロップをアウトコースへ投じる。聖稜戦では、これを要所で使い内野ゴロの山を築いた。ところが、倉橋は乗ってこない。
スリーボールだし歩かせるか……いや、後続に谷口とイガラシが控えている。なんとか倉橋を打ち取らないと。
そして五球目。松下は、二球目と同じくインコース高めに投じる。より厳しいコースを突こうという意識だった。ところが……指からボールを離した瞬間、さっきより内側にずれてしまったことに気付く。
あ……やばいっ。
倉橋は上半身をよじった。その右手を、速球が直撃する。相手は「うっ」と呻き声を漏らし、バットを足元に落とす。
「デッドボール!」
アンパイアが一塁を指さした。松下は咄嗟に、マウンドを駆け降りる。
「す、スマン。だいじょうぶかよ?」
「こっこれぐらい、なんでもねーよ」
正面に向き直り、倉橋は苦笑いした。
「だが気ぃつけてくれよな。必死なのは分かるが……それでケガしちまったら、お互いに後味が悪いからよ」
「あ、ああ……すまなかった」
氷袋を手に駆け寄る控え部員を制し、倉橋は一塁へと駆け出す。
「おい内山っ」
試合が再開されると、松下はキャッチャーを立たせる。ランナーを置いて四番谷口との勝負は、危険すぎると判断した。
敬遠四球。谷口が一塁へ向かい、内山は座ろうとする。そこで「まだだぞ」と、さらに指示した。
「まだって……松下、五番もかよ」
内山は驚嘆の声を発した。その傍らで、後続のイガラシがほとんど無表情のまま、こちらに視線を向ける。
「そうだ内山。つぎのイガラシも、歩かせるぞ」
キャッチャーは戸惑いながらも、立ってミットを構える。
つぎのイガラシは、ある意味で谷口以上に厄介だ。なんでもできる。長打だけでなくエンドランやバスターなど、小ワザも警戒しなきゃいけない。守備をかき回されたら、完全に試合が終わってしまう。それだけは避けるんだ。
四つ目のボール球を見送り、イガラシもバットを置いて駆け出す。
ワンアウト満塁……これでいいんだ。なん点か取られるにしても、せめて相手の得意パターンさえ出させなければ、まだ流れを取り返せる。
迎えるは、六番打者の横井だ。
こいつにも気を抜けないぞ。クリーンアップ三人のように一発はないが、自分の役割をよく理解している。甘く入ったら、きっとやられてしまう。
横井への初球。松下は、またもドロップをアウトコースへ投じた。
快音が響く。横井は読んでいたのか、踏み込んでおっつけるように弾き返した。鋭いライナーが一塁線を襲う。
「ふぁ、ファースト!」
一塁手がジャンプした。そしてミットの先に、幸運にもボールが引っ掛かる。
「……あっ」
二塁へ走りかけたイガラシが、手から帰ろうした。しかしこれは間に合わず。一塁手がそのままベースを踏む。
「アウト! スリーアウト、チェンジっ」
攻守交代を告げるアンパイアのコールに、横井は頭を抱える。それでもすぐに切りかえると、苦虫を嚙み潰したような顔のイガラシに「ドンマイよ」と声を掛ける。
マウンド上。松下は、思わず膝に両手をつく。
やれやれ……どうにか、一点で切り抜けられたぜ。もう一試合投げ終えたような気分だな。しかし、これが毎回続くんだ。大橋がリリーフできるところまで、なんとか俺が踏んばらないと。
「ナイスピッチャー、よくしのいだぞ」
「たった一点だ。今日も粘って、なんとしても取り返すぞ」
「おう。バックもよく守ってくれたな」
チームメイト達と声を掛け合い、松下はベンチへと引き上げた。
ほどなく、墨高ナインが二回表の守備につく。野手陣のボール回しを横目に、井口が投球練習を始めた。最初の数球は控え捕手の根岸だったが、途中で準備を終えた倉橋と代わる。
やがて井口が、ラストの練習球を放る。倉橋はこれを捕球し、いつものように滑らかな動作で、二塁へ送球した。
そのボールが、あさっての方向へ飛ぶ。
「……く、倉橋!」
サードのポジションから、谷口が悲鳴のような声を上げた。
<次話へのリンク>
※感想掲示板
【各話へのリンク】