【目次】
【前話へのリンク】
第24話 気持ちで負けるな!の巻
1.川北対策開始!
鮮やかな大勝劇で、初戦を飾った墨高ナイン。
しかし、その余韻に浸る暇はなかった。三日後には、都内四強の一角・川北との四回戦が控える。学校に帰ると、さっそく次戦へ向けての練習が開始されたのだった。
マウンド上。片瀬がサイドハンドから、速球を投げ込んでくる。
キャッチャーを務める谷口は、ミットを顔の上に伸ばして捕球した。右打席の丸井が、ちらっと不安げな目を向ける。
「ボール!」
谷口のコールに、丸井は「ふぅ当たってた」と安堵の吐息をついた。
「いいぞ丸井。高めのきわどいコース、よく見極めたな」
「ええ、なんとか。あまり自信なかったスけど」
グラウンドでは、フリーバッティングが行われていた。
投手の生きた球を打ち込むグループと、トスバッティングのグループの二手に別れる。片瀬と谷口がバッテリーを組むほかは、トスを上げる者が一名。
残りのメンバーは、守備練習も兼ねて球拾いに回った。なお負傷の倉橋と根岸のキャッチャー二人は、松川の投球練習に付き合う。
「さぁ片瀬、どんどん行こうよっ」
キャプテンの掛け声に、細身の一年生投手はうなずく。
二球目。片瀬が大きなカーブを投じてきた。丸井はよく引き付け、センター方向へ打ち返す。快音とともに、ライナー性の打球が飛ぶ。
「ナイスバッティング! さすが一番打者、まさにお手本だ」
谷口はマスクを脱ぎ、立ち上がってナイン達に呼びかけた。
「いまの丸井の二球、みんなよく頭に入れておけ。川北のエース高野は、アンダーハンドから真っすぐとカーブを投げ込んでくる。三年生は覚えているだろう、あの小野田さんってピッチャーと瓜二つらしい」
ここまで言って、傍らで素振りする戸室に「そうだよな?」と話を向ける。
「え……ああ、それが分かりやすいな」
きっぱりと戸室が言った。この前日、彼は一年生の高橋と連れ立って、川北の試合を偵察しに行っている。
「一、二年生は知らないだろうから、ちと話しとこうか。特徴としては……浮き上がってくる真っすぐとカーブ。両方とも、かなり威力あるぞ。俺なんて、まえに対戦した時、ほんとタマが見えないくらいだったもんね」
戸室の説明に、下級生のメンバーが顔を歪める。十分その脅威は伝わったらしい。
「谷口が言うように、高野はまえのエースそっくりだ。フォームといい、スピードといいタマの軌道といい。ま……イメージできる分、対策はしやすいかもな」
「た、対策したって……そうカンタンには」
外野の方で、横井が顔を引きつらせる。彼もまた小野田のボールを体感していた。
「そのとおり。でもポイントは、はっきりしている」
谷口は、語気を強めて言った。
「高めの見きわめだ。ボールは見逃し、ストライクだけねらい打つ。なんでもかんでも手を出すと、凡フライの山を築くことになるぞ。それにはスピードに目を慣らす必要があるので、明日からピッチャーを近くに立たせて練習しよう」
キャプテンの助言に、ナイン達は「はいっ」と応えた。
「よし。それでは、続きといこう」
ポジションへと戻り、丸井に「二打席ずつだからな」と伝えて屈み込む。
「……あの、キャプテン」
ふと片瀬が尋ねてきた。
「どうした?」
「よろしければ、下から投げましょうか。一時期アンダーハンドも試してたんです」
丸井が「そりゃ助かる」と顔をほころばせる。しかし谷口は、首を横に振った。
「ありがとう。でも、それはやめておけ。せっかく固めたフォームを崩してしまう」
「は、はぁ……」
「それに片瀬。こうして打撃投手をさせているのは、なにもみんなの練習のためだけじゃない。おまえに少しでも早く、実戦の感覚をつかんでほしいってのもあるからな」
しばし間を置き、さらに告げる。
「もし川北に勝ったら、次戦以降はおまえの起用も考えてる。しっかり備えてくれ」
「……はい、分かりましたっ」
生真面目な性分なのだろう。さほど表情を崩すことなく、僅かに唇を結ぶ。
こちらがミットを構えると同時に、片瀬は投球動作を始めた。インコース高めに飛び込んできた速球を、丸井は見逃す。
「ストライク! いまのは入ってるぞ」
「ええ……キャプテン。片瀬のやつ、だんだん制球良くなってきてませんか」
「うむ。当初は、なんとかストライクは取れるくらいだったのが、いまじゃコースに投げ分けられるようになってきた。あのイガラシが舌を巻くほど、すごい努力家らしいからな」
おや……と思い、谷口は顔を上げる。後輩が涙ぐんでいた。
「丸井どうした?」
困惑しながら尋ねる。
「……い、いえね。片瀬がケガで苦しみながらも、くさらずにがんばってるの見てきたので。こうして復活したんだって思うと……ううっ。俺っち、こういうの弱いんス」
「ああ。しょーがないなぁ」
戸室が苦笑いして、ハンカチを差し出す。
それから四十分近く、フリーバッティングが続けられた。少人数のため、ブルペンのバッテリー陣も含めて、あっという間に二巡目へと入る。
谷口は一つ、気掛かりなことがあった。
「ストライク!」
片瀬の速球が、アウトコースに決まる。傍らの右打席では、珍しく横井が難しい顔をして、バットを握り直す。
「どうした横井。いまのは、おまえなら打てるだろ」
「う、うむ。さっき大勝した後だし、バッティングが雑になっちゃいけないと思ってよ」
「そりゃ悪くない心がけだが、かといって消極的になるのも良くないぞ。そもそも今日の二安打は、しっかり引きつけて、巧いセンター返しができてたじゃないか。いまの調子なら、今後もじゅうぶん活やくできるはずさ」
「あ……ああ。そう言ってくれるのはうれしいが、つぎは相手も強いしな」
やはり、と胸の内につぶやく。
横井だけじゃない。戸室、島田、加藤……とくに上級生の動きが、カタいぞ。試合の疲れかとも思ったが、丸井や一年生達はぴんぴんしてるし、そもそも消耗するような内容でもなかった。これは精神的なものだろう。
二球目。谷口はわざと、ど真ん中に速球を投じさせた。横井のバットが回り、ライナー性の打球がセンター方向へ打ち返される。
「なにしてるんだっ」
マスクを取り、横井を叱り付ける。
「え……いまの、ヒットだろう」
「こんな甘いコース、誰だって安打できる。レギュラーならしっかり振り切って、外野の頭を越さなきゃいけないタマじゃないか。なんだいまの、当てるだけのスイングは!」
いつになく険しいキャプテンに、周囲はざわめく。
「……あ。スマン、言いすぎた」
「い、いや……谷口の言うとおりだ」
横井は苦笑いした。
「このスイングじゃ、たしかに手抜きと見られてもしかたない。以後気をつけるよ」
そう言ってグラブを拾い、外野守備へと駆けていく。
ほどなく二巡目も終わる。校舎の時計を見ると、ようやく一時を回ったところだ。試合が五回コールドで終わり、随分早く帰ってきたのだなと改めて気付く。
「ようし。だいぶ暑くなってきたし、お昼にしよう」
ナイン達は「はいっ」と返事して、グラウンドから引き上げていく。
谷口もその輪に加わろうと、捕手用プロテクターを外し始めた。その時、ブルペンから戻ってきた倉橋に「少しいいか」と声を掛けられる。
「む……あっ、そうだ」
身軽になり、こちらから尋ねた。
「右手の具合はどうだい?」
「ん? ああ、これか」
倉橋は渋い顔で、右手の指を広げた。白い包帯が痛々しく巻かれている。
「そんな大したことないんだけどよ。つぎに影響あると困るから、念のため球場の医務室で、ちゃんと治療してもらったんだ」
「じゃあ、次戦には間に合うんだな」
「もちろん。今日だって、ほんとは無理すりゃやれたんだけどよ。こういう機会でもないと、根岸に経験させてやれないからな」
「そ、そうか」
大事がなかったことに、ひとまず安堵した。
「しかし明日、ちゃんと病院に行ってくれよ。長引いたらコトだぞ」
「うむ。分かってるって」
うなずいてから、倉橋は「ところで」と話を変える。
「プルペンから様子を見てたんだが、どうもピリッとしないな。とくに何人か、思いきりの良さが消えちまってる」
「そう、そうなんだよ」
我が意を射たりと、谷口は深く首肯した。
「ただ……こうなるんじゃないかと、予想してはいたんだ」
正捕手は「ほう」と目を丸くする。
「今日のコールド勝ちも含めて、このところ上手くいきすぎてるんだ。その流れが崩れてしまうのを、どこかで怖がってるんだと思う」
「言われてみりゃ、ちと一直線に進みすぎてるってのはあるな」
「ああ……とくに上級生は、昨年あれだけ苦労して、やっと八強入りしたのを覚えてる。このままいけるはずがないと、構えちゃうんだろう」
なるほど、と倉橋は苦笑いした。
「それだけチーム強化を、思うように運べたってことだが」
「む。ここらで、今後もし上手くいかないことがあっても、それを打開していける自信を身につけさせたい」
しばし間を置き、問うてみる。
「こういう時、倉橋ならどうする?」
「……ふむ、そうだな」
相手は数秒考えただけで、すぐに返答した。
「俺なら、思い悩むヒマを与えないほど、練習に没頭させるがね」
そう言って、くすっと笑う。
「んなこと聞いちゃって。おまえさん、とっくにテは考えてあんだろ」
思わぬ一言に、谷口は「えっ」と声を発してしまう。
「だから田所さんに、ノックを頼んでたんじゃないのか?」
「え、ああ……」
「この期に及んで、とぼけるのはナシだぜ」
珍しく、倉橋はおどけて言った。
2.勝って兜の緒をしめよ!?
ナイン達は、校舎脇の大樹の陰に集まり、それぞれ弁当を広げた。自然とミーティングのような雰囲気になる。
「さっきの試合は、あまり参考にならないからな」
渋い顔で言ったのは、横井だった。やはりらしくない。
「もともと力の差はあったし、向こうが策に溺れすぎたのもある。つぎも同じ調子でいけると思ったら、大間違いだぞ」
「……むぐっ、そのとおりだな」
卵焼きの切れ端を飲み下し、戸室も同調した。
「つぎの川北は強敵だ。おまけに、倉橋がいつ復帰できるかも分からん」
「こらこら、誰が復帰できないって?」
茶碗の水をすすりながら、倉橋は苦笑いする。右手には包帯が巻かれてた。
「二日もすりゃ、腫れは引くだろうよ。さっきは大事を取っただけさ」
「おっと、これは失敬」
戸室は照れたように笑う。
「……あの、みなさん」
おずおずと挙手したのは、イガラシだった。
「危機感を持つのは、たしかに必要ですけど。ぜんぶ相手が格下だったからと片づけるのも、少しちがうと思いますよ」
「じゃあ、もっと気楽でいいと言いてぇのか」
ややムキになる口調で、横井が問い返す。
「そういうわけじゃありませんがね」
後輩は、やや戸惑ったふうに答える。
「つぎに生かすことを考えるなら、課題ばかりでなく、ちゃんと成果も押さえるべきってことです。たとえば……向こうの先発が引っ込んだ後も、攻撃の手を緩めずに畳みかけられたことは、今日の成果だと言えるでしょう?」
丸井が「たしかに」と相槌を打つ。
「しかもあの大橋は、いずれ一線級になるピッチャーだからな。それをあそこまで打ち込んだのは、大差がついた後っていうのを差し引いても、胸をはっていいと思う」
「……ううむ、そうは言ってもなぁ」
苦笑い混じりに、横井は返答した。
「やっぱり、まだ確信は持てねぇよ。なにせ一回勝っただけなんだし」
その一言に、数人がうなずく。イガラシはもう言い返そうとせず、おかずのシシャモを口に放り込み、モグモグと噛みほぐした。
「ふぅ……食った、食ったぁ」
傍らで、鈴木が呑気そうな声を発した。ナイン達は「あーっ」とずっこける。イガラシもあやうく吹き出しそうになり、慌てて口元を覆う。
「……そ、そういえば」
ふと谷口は思い出す。
「まえに練習試合で戦った時、いまの高野というエースは、もうベンチ入りしてたな」
「へ、へえっ!」
丸井が素っ頓狂な声を発した。
「あの名門で、一年生から準レギュラーだったんですか」
「む。よほど期待されてたやつなんだろう」
二人の話を受け、倉橋が「そのとおりだ」と発言する。
「もっとも次代を見据えて、有望な一年生をベンチ入りさせるっていう、向こうの方針もあるがな。とはいえ当時から評判は高かったよ。おまけに、あの小野田さんとよく一緒に練習して、いろいろ教わってもいたらしい」
「なるほど……だからって、タマの威力まで似なくてもいいのによ」
戸室は苦笑いして、さらに尋ねる。
「ついでに……いまのレギュラーのこと、なにか知らないか? まえに対戦した時は、倉橋が相手バッターの特徴をよく知ってたもんで、善戦できたじゃないか」
相手の質問に、倉橋は「わりぃ」と頭を掻く。
「そこまで細かい話は、仕入れてねぇな。つき合いがあったのは、先代キャプテンの田淵さんの頃まで。一期上の小野田さん達も卒業しちまったし、それ以後はさっぱり」
「……そうか、ううむ」
「打線の特徴なら、見てきたおまえの方が、よく分かるんじゃないか?」
「そ、それがな」
一年生の高橋と目を見合わせ、戸室は肩を竦める。
「やはりレベルがちがいすぎて、参考にならねーのよ。相手のピッチャー、球威がないうえにボールが浮きがちで、好き放題に打たれてたからな」
「あの……くわしくは、ぼくが説明します」
おずおずと、高橋が割って入る。やはりメモの紙を広げた。
「全体的に、真ん中から外寄りのボールを、逆らわずに打ち返していました」
「ということは、高橋」
イガラシが質問する。
「川北のバッターは、インコースを避けてたってことか?」
「ま……数字上は、そうなるんだけどよ」
渋い顔で、高橋は返答した。
「けど、ほっといても甘いタマがきてたからな。あれじゃ苦手で避けてたのか、打てるのにわざと手を出さなかったのか、判別できないんだ」
「……なるほど」
谷口は、微笑んで言った。
「よく分析できたじゃないか。さすが高橋は、あの金成中の出身だな。どうりで墨二時代、あのデータ野球に苦しめられたわけだ」
「は、はぁ……ドウモ」
後輩は照れ笑いを浮かべる。
「……しかし、どっちみち」
苦々しげに、横井が言った。
「そうそう大量点は、望めないよな。やはり……川北打線をどう抑えるか、なおさら考えておかないと」
「あ……それなら、ぼくが」
おずおずと挙手したのは、半田だった。こちらは大学ノートを開く。
「秋の大会で、もしかしたら当たるかもって組み合わせだったから、いちおう調べておいたんです。三回戦と、準々決勝の二試合を」
「おおっ、そいつは助かる」
戸室がそう言って、安堵の吐息をつく。
「出場した選手は、すべての打席を記録しました。これを見れば、各バッターの得意と苦手が、ある程度は分かるはずです」
「ううむ。ある程度……ねぇ」
一つ吐息をつき、横井は腕組みする。まだ不安そうだ。
「ま、どっちみち……百パーセントかく実な方法なんてものは、ねぇよ」
倉橋が取りなすように言った。
「谷原の招待野球や、川北との対戦で、もう分かっただろ。たとえ苦手コースでも、そこへ来ると読んでりゃ打ち返せるのが、あのレベルのチームなんだ」
「そ、そうだったな」
納得したようだが、今度は顔を引きつらせる。
「なーに。そうビビることもねぇだろ」
声を明るくして、倉橋は話を続けた。
「うちの投手陣だって、いまや格段に成長してる。谷口も松川も、あの西将相手に力投したんだからな。いくら強力打線だからって、そうカンタンにはやられないさ」
「しかし、万が一だな」
「……オイオイ、横井」
さすがに正捕手は、呆れ笑いを浮かべる。
「んなこと気にしてたら、どことも試合できなくなるぞ」
「……でも、気持ちは分かります」
溜息混じりに言ったのは、島田だった。
「どうも昨年とは、なにかちがう気がするんですよ。無心で戦おうとしても、ちょっと難しくて。やはりシード校だからでしょうか」
そうだな……と、戸室が相槌を打つ。
「なんつーか、負けちゃいけないって気持ちが、昨年より強くなったとは思う。それと……今日のコールド勝ちもそうだが、あまりに順調すぎるってのもな」
「ああ、分かります」
加藤も同調した。
「招待野球で善戦したりして、ずっとのぼり調子ですからね。これが噛み合わなくなった時、どうなるんだろうって考えたりします」
他の数人も、共感するようにうなずく。
「あ、あの……みなさん」
見かねたのか、丸井が発言する。
「勝って兜の緒をしめよ、とは言いますけど。なにも……そこまで思い悩まなくたって」
マズイな、と谷口は胸の内につぶやいた。
思った以上に、みんな神経質になってる。負けられないという気持ちが強くなりすぎてるんだ。ムリもない、はっきり甲子園を目標に置いたのは、今回が初めてだからな。
ふと倉橋が、こちらに視線を向けてくる。そして小さくうなずいた。チームの雰囲気に、やはり同じものを感じ取ったらしい。
手を打つしかないな……と、谷口は決心した。
3.鬼キャプテン・谷口!?
昼食後は、軽いランニングと柔軟運動、キャッチボールとメニューが進んでいく。そしてベースを敷き、ナイン達はいつも通り、各々の守備位置についた。
「これからシートノックを始めるぞ」
ノッカーを務める谷口は、力強く声を発した。
「内野は捕ったら一塁送球。外野は中継に返すか、直接バックホームかは、打球によって判断するんだ。ポジションに関わらず、しっかり足を動かすこと。いいな!」
「おうっ」
ナイン達も快活に応える。
「俺は球出しでもしようか?」
傍らで、倉橋が問うてくる。
「いや。まず外野の方で、コーチしてほしい。心配なメンバーがいるからな」
「ああ……半田と鈴木ね。リョーカイ」
「後でランナーを置いて、状況を設定する。その時は三塁コーチャーも頼む」
「なんでも言ってくれ。こちとら、今日はヒマなんでよ」
「ありがとう、そりゃ助かる」
まずライトから、谷口はポジション順にノックを始めた。同じポジションに複数いる時は、その人数分だけ打っていく。また順番を待つ間、暇を与えないように内外野ともボール回しをさせる。
「……つぎ、ショート!」
二塁ベース寄りに強いゴロを放つ。しかしイガラシは、滑らかなフィールディングで難なく捌いた。送球も速い。
「よし、サード!」
今度は、上から叩きつけて高く跳ねさせた。一年生の岡村は、鋭くダッシュしてショートバウンドで捕球し、一塁へ素早く送球する。
「いいぞ岡村。だいぶ迷いなく、プレーできてきたな」
一声掛けると、岡村は「ありがとうございます」と初々しく一礼した。
「つぎは、ピッチャー!」
マウンド上には、井口が立つ。やはり高いバウントを放った。こちらは素早く後退し、勢いをつけて一塁へ送球する。
「いい判断だぞっ」
キャプテンの声掛けに、井口は「へへっ」と照れた顔になった。
こうして三巡目まで打ち終えると、谷口は一旦手を止め、倉橋を呼び戻した。そして「みんなその場で聞け」と指示を伝える。
「以後は、細かく状況を設定していく。いつものようにイニング、アウトカウント、そしてランナーの状況。それらを踏まえて、しっかり頭と体を連動させるんだ」
ここで三塁コーチャーに入った倉橋が、詳しく補足する。
「たとえば一塁三塁で内野ゴロなら、バックホームするのか、ダブルプレーを狙うのか、あるいは確実にアウトを増やすのか。なにが正解かは、試合展開や相手との力関係で変わる。いまどうすべきか、お互いで必ず確認するんだぞ」
「おうよっ」
「分かりました!」
ナイン達は、はりきって返事した。
谷口は、まずイガラシを三塁へ、岡村を一塁へそれぞれランナーとして立たせる。それに伴い、空いたサードに松川、ショートには横井が入った。
「もちろんランナーも守備も、交替ずつだからな」
そう告げて、さらに設定を付け加える。
「ええと……まず初回のノーアウト、もちろん両チーム得点なし。相手投手から四、五点は取れると考えてくれ。ただし打線はチカラがある」
横井がすぐに「ならアウト優先だな」と答える。
「一点を惜しんでオールセーフにでもしちまったら、相手は調子づく。ここは最少失点で切り抜けて、後の反撃につなげる方が賢明だ」
他の内野陣も「異議なし」「それでいきましょう」と賛同する。
谷口は、ショート正面に速いゴロを打った。横井はこれを捕球すると、すかさず二塁へ送球。しかしイガラシがスタートを切った。それでもベースカバーの丸井が転送し、六-四-三の併殺が完成する。
「フフ、これでいいだろ」
得意げに笑う横井に、倉橋が「五十点だな」と辛辣に言い放つ。
「な、なんでよ」
「おまえダブルプレーを取ることしか、アタマになかったろ。いまの打球のスピードじゃ、三塁ランナーをけん制してからでも、じゅうぶん間に合うはずだぜ」
「ぼくもそう思います」
三塁ベースに戻りながら、イガラシも同調した。
「横井さんがこちらを見向きもしないので、躊躇なくスタートが切れました。いくら取り返す自信があるからといって、カンタンに点をやっちゃダメです。序盤でこういうスキを見せると、後でつけ込まれますよ」
「そ、そうだな……ハハ」
バツの悪そうに、横井は苦笑いを浮かべる。
しばらく同じ条件で、内外野へと打ち分けていく。始めは戸惑っていたナイン達も、やがて互いに確認し合い、柔軟に判断してプレーできるようになってきた。
「……ようし、ちょっと変えるぞ」
谷口は、設定を一部変更した。
「試合は進んで八回裏、こっちが三点リードしている。ランナーはさっきと同じ、ノーアウト一塁三塁の状況だ」
そう告げて、今度はサードへ速いゴロを放つ。
松川は、やはりイガラシには目をくれず、捕球すると素早く二塁へ送球した。すかさず丸井が転送し、またも鮮やかなダブルプレーが決まる。
「横井!」
「お、おうっ。なんだよ谷口」
ふいに呼ばれ、横井は一瞬びくっとした。
「いまの松川の判断、どう思う? さっきと同じくランナーをけん制しなかったが」
「ううむ……これは、正しいと思う」
戸惑いながらも、すぐに返答する。
「どうして?」
「だって、もう終盤じゃないか。ここは一点取られたとしても、ランナーをなくしちまった方が、相手を焦らせられるだろ」
谷口は、深くうなずいた。
「さすが横井。うちで長く、レギュラーを張ってるだけあるな」
「い、いやぁ。それほどでも」
現金な反応に、周囲は「あーっ」とずっこけた。
「……ふふっ、横井のやつ」
ふいに倉橋が、意味深な笑みを浮かべる。
「ほかの連中も。いつまでそう、笑っていられるかな」
――それから、およそ二時間半が経過した。
グラウンド上から、苦しげな吐息が漏れてくる。ナイン達は、誰もが肩を上下させ、全身から汗が噴き出していた。ここまで一切休憩は取られていない。
「……き、キャプテン。ちとタンマ」
息を荒げながら、丸井が発言する。さすがに堪りかねたらしい。
「これ、いつまで……続けるつもりです?」
「なにを言ってる」
谷口は、わざと突き放すように言った。
「状況は、限りなくあるんだぞ。これぐらいで止められるはずないじゃないか」
丸井が顔を引きつらせる。ナイン達は「えーっ」と、悲鳴のような声を発した。
営業用の軽トラックを走らせながら、田所は逸る気持ちを抑えられずにいた。
「くそっ、もう四時前かよ。あのバァさん、何度言っても洗濯機のスイッチの場所、覚えられねぇでやんの。おかげで、すっかり時間くっちまった」
ラジオからは今、流行りだというピンクレディの「UFO」が流れてくる。
「近頃の歌謡曲は、シャレてやがる。今度カセットでも買ってやろうかな。これを聴けば、あいつら気分転換になるかも……なんてノンキに考えてる場合じゃないか」
ほどなく曲が終わり、ニュースへと切り替わる。
――つぎは、連日熱戦が続く高校野球と大会の結果をお伝えいたします。
「わっと」
あやうくブレーキを踏みそうになる。朝から営業で飛び回っていたから、まるで情報を仕入れていない。相手との力関係からして、勝っただろうと思ってはいるが、やはり結果を聞くまでは不安なものだ。
「た、たのむ……勝っててくれよ。でないと、どんな顔して連中と会えばいいか」
――また、荒川球場の三試合では、こちらもシード校の墨谷が登場。城東相手に力の差を見せつけ、十九対〇。五回コールドで初戦を飾りました。木曜日の四回戦では、同じくシード校川北との対決に臨みます。
「じ、十九対ゼロだとっ」
予想外の結果だった。思わず「ハハ」と、声を上げて笑ってしまう。
あ、あいつら……とんでもなく強くなってやがる。城東なんて、俺が現役の頃には、まだまだ強敵だったってのに。こりゃ、ますます次戦以降が楽しみだぜ。
やがて墨高に到着する。裏門から入り、駐輪場の手前に停車した。テニスコートの脇を抜け、野球部のグラウンドへと向かう。
「……え、オイオイ」
グラウンドの光景に、田所は言葉を失う。三塁側のベンチ周辺で、ナイン達は大の字に転がり、息を荒げている。
「ゼイゼイ……も、もうダメ」
「し、死ぬぅ……」
そんな声が、漏れ聴こえてくる。
「な、なにしてんのよ」
すぐに倉橋が駆けてきた。
「田所さん、こんちわっ。来てくれたんスね」
こちらは呼吸を乱していないが、右手に包帯を巻いている。
「や、やぁ……っておまえさん、手はどうしたのよ」
「ああ、これですか。試合でちょっと当てられちゃいましてね」
「す、すると……次戦は厳しいんじゃ」
「それはご心配なく。今日のところは、大事を取っただけです」
「う、うむ。ならいいんだが」
ひとまず安堵する。そしてすぐに、眼前の光景へと話が及んだ。
「午後から三時間近く、シートノックをやってます」
「さ、三時間だとっ」
「ええ。いちおう間に五分ずつ、二回休憩は挟んでますけど」
「たった五分か! それでなくても、連日みっちりメニューをこなしてたってのに。ここへ来て、ますますハードにしちゃってだいじょうぶなのか」
「ま、つぎの試合まで中三日ありますから」
「だとしても……ちとやりすぎじゃないのか。大会期間中だぞ」
倉橋は「そうですね」と苦笑いを浮かべる。
「じつは俺も、そう思うんですけど。谷口のやつ、一度こうと決めたら、テコでも曲げませんから。田所さんも、よく知ってるでしょう」
「む、それはそうだが……」
戸惑いながらも、倉橋と連れ立ってナイン達へ歩み寄る。
「……せ、センパイ。こんちわっ」
「た、田所さ……ゼイゼイ」
何人かが起き上がろうとするのを、慌てて制す。
「い、いやっ……このままでいい。ちゃんと休んでろ」
「……ど、ドウモ」
ナイン達の中心に、谷口は体育座りの姿勢で佇んでいた。そして静かに口を開く。
「みんな聞いてくれ。どうしてこんなに、ハードな練習をしなきゃいけないのか、きっと疑問に感じている者もいると思う。それをいまから説明したい」
キャプテンの言葉に、丸井やイガラシら、数人が上半身を起こす。
「言うまでもなく、これから相手はどんどん強くなる。ということは、試合において厳しい局面も、必ず出てくるということだ。どうやってそれを乗り越えるか」
一つ吐息をつき、話を続ける。
「なにより大事なのは……必ずどうにかしてやるという気持ち、挽回できるという自信だ。これはもう、厳しい練習を乗り越えることでしか、身につかない」
「……へへっ」
笑い声を上げたのは、イガラシだった。
「さすがキャプテン。いくら技りょうだの戦じゅつだのと言っても、最後はどうしたって、気力の支えが必要ですからね」
そう言ってグラブを拾い、立ち上がる。
「あまり長く休むと、かえって疲れますよ。さっさと再開しましょう」
「ふん……ちとシャクだが、おまえの言うとおりだ」
丸井も同調し、後に続く。二人で先導するようにポジションへ向かう。
「ははっ、言ってくれるぜ」
快活に笑い、横井が跳ねるように体を起こす。
「下級生にああまで言われたら、われわれ三年生としても、黙ってられないよな」
まったくだ、と戸室が相槌を打つ。
「しゃーない。どうせこうなることは、分かってたんだ」
立ち上がり、周囲に声を掛ける。
「ほら、時間だぞ。もう少しの辛抱だ」
「みんな起きろ。あまり寝転んでると、体が動かなくなるぞ」
横井と戸室に促され、他のメンバーも重い体を起こしていく。
「……は、はい」
「がんばらなくちゃ」
田所は、ただ呆然と立ち尽くしていた。キャプテン谷口の覚悟と、それに応えようとするナイン達。もはや口を挟む余地はない。
やがて全員が、ポジションにつく。なお谷口はノッカーを、負傷の倉橋は三塁コーチャーを、それぞれ務めるようだ。また、三人のランナーを置くようだ。
「相手は川北。二点ビハインドの八回裏、ワンアウト満塁だ」
谷口が状況を指定し、すぐにバットを振るう。
ファーストへ高いバウントのゴロが弾んだ。加藤はこれを捕球して一塁ベースを踏むと、すかさず二塁へ送球。際どいタイミングながら、三-三-四のダブルプレーが完成する。
「加藤!」
返球を受け取り、谷口が問い掛ける。
「いまなぜ、バックホームしなかったんだ? たしかにタイミングは際どかったが」
「終盤で、二点負けてるからです」
加藤は確信ありげに答えた。
「劣勢の流れを変えるためには、思い切ったプレーが必要です。成功すれば……勢いを得て反撃につなげられます」
「いいぞ加藤、そうやって試合の流れを読んでいくんだ」
す、すげぇ……と田所は溜息をつく。
心身ともに追い込んでるのか。こんな練習を考えつく谷口もさすがだが、ついていく連中も大したもんだ。よほどの覚悟がないと、こういうことはできねぇ。
それでも、やはり限界はくる。
数分も経たないうちに、少しずつナイン達の足が止まり、さっきまで捕れていた打球を逃すようになる。そして谷口自身も、だんだん狙った所へ打てなくなっていく。
「……た、谷口。もうこれ以上は」
さすがに見かねて、声を掛ける。
谷口は一旦ノックの手を止め、ナイン達へ「その場に座ってくれ」と指示する。練習を終えるのかと思いきや、こちらにノックバットを差し出した。
「しばらく、ぼく一人で受けます。ノックを代わっていただけますか」
「え……そ、そんな。おまえだって疲れてるだろ」
「お願いしますっ」
鋭い眼差しに気圧され、田所はバットを受け取る。谷口は他のナイン達が見守る中、サードのポジションにつき、力強く「さぁ来いっ」と掛け声を発した。
むぅ……ええいっ、ままよ!
半ば自棄になり、田所はノックを打ち始めた。強いゴロ、弱いゴロ、高いバウンド。どんな打球にも、さすがにキャプテンは喰らいついていく。
「……ヒッ!」
閃光のようなバックホーム。受けるキャッチャー根岸が、怖じた声を発した。
「な、なんて速い送球なんだ」
そうして二十球近く打ち込んだ頃だろうか。ふいに「タンマ!」と声が発せられる。その主は、やはりイガラシだった。
「ハァハァ……な、なんだ?」
立ち上がり、サードへ駆け寄っていく。
「これじゃ不十分ですよ。シートノックですし、ちゃんと連係プレーも入れないと」
「あ……うむ、そうだな」
「ぼくが二塁ベースに入るので、そこへも投げてください」
すると後方から、丸井が「おいイガラシ」と怒鳴る。
「ま、丸井さん」
「サードゴロの時、おまえが毎回ベースに入るつもりか?」
「い、いえ……そういうわけじゃ」
「だったら俺も混ぜろ。試合とちがう動きをすると、変なクセがついちまうぞ」
「は……はい。分かりました」
先輩の気持ちを察してか、イガラシはくすっと笑う。
「キャプテン、すぐに一塁送球ってこともあり得ますよね!」
加藤までそう告げて、ファーストベースについた。他のナイン達も「やれやれ」と腰を上げ、それぞれのポジションに戻っていく。
「あーあ、けっきょく全員が……」
キャプテンはつぶやき、頬をぽりぽりと掻いた。
「みんな疲れてるようだから、少し休ませようと思ったのに」
笑いを堪えながら、田所は「バカヤロウ」と怒鳴る。
「た、田所さん……」
「リーダーのそんな懸命な姿を見せられたら、周りも休んじゃいられないだろう。ちったぁ自覚しやがれ」
「は、はぁ……そんなものですか」
キャプテンの素朴すぎる返答に、田所は「はりゃっ」とずっこける。
「それより田所さん」
レフトのポジションから、横井がおどけて言った。
「まだノック、ちゃんと打てるんスね」
「あ……当たり前だろ。元キャプテンをナメるんじゃねぇ」
谷口に頼まれ、こっそり練習していたことを、しいて話すつもりはない。
「しかし、はり切ってケガされちゃ、また仕事に響きますよ」
「ムッ。こら横井、てめぇまたヒトをからかいやがって」
OBの分かりやすい反応に、数人が「ププッ」と吹き出す。
「こうなりゃ諸共だ。覚悟しろ、おまらっ」
根岸からボールを受け取り、バットを構える。
「いくぞ!」
田所の掛け声に、ナイン達は「おうっ」と力強く応えた。
<次話へのリンク>
※感想掲示板
【各話へのリンク】