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第27話 相手のスキを突け!の巻
1.田淵の誤算
球場の外は、立ち見やらタバコやらの客で溢れている。
「フウフウ……どうにか、間に合ったぜ」
三塁側スタンドへと続く外階段の前で、田所は汗を拭った。そして人混みを掻き分けながら、階段を上っていく。
「ち、ちょいと失礼」
ようやくスタンドに出ると、バックスクリーンが視界に飛び込んできた。
「ええと……いま四回が終わって、零対一。ああ一点負けてやがる」
左へ視線を移すと、黒い学ラン姿の一団があった。墨高の応援団だ。これから相手の攻撃が始まる前ということで、今は客席に座り休憩中である。
近付いていくと、そのうちの一人が振り向いた。
「あっ。田所先輩じゃありませんか」
「なんでぇ、おまえか。しばらくだな」
昨年から顔馴染みの応援団員だった。
「電器屋の作業着ってことは、仕事を抜けてきたんスか?」
田所は「あら」とずっこける。
「ひ、人聞きの悪いこと言うなよな。ちゃんと終わらせてきたさ」
一つ咳払いして、尋ね返す。
「んなこたぁ、どーだっていい。覚悟してたが……やはり劣勢のようだな」
「ええ、お察しのとおりです」
うなずいて、後輩は答えた。
「やはりシード校はちがいますね。一点に抑えちゃいますが、毎回のようにランナーを背負って、もう二点くらい取られてもおかしくなかったですから」
おやっ、と田所は思う。
「ようよう。おめぇ話のわりに、ずいぶん口調が明るいじゃないか」
「へへっ、分かりますか」
後輩はにやっとした。
「じつは向こうと同じくらい、うちもチャンスを作ってるんですよ。ですから……内容は、ほとんど互角と言っていいと思います」
「ほ、ほんとかい」
口をぽかんと開けてしまう。
「ええ。それに……自分は野球のこと、よく分からないですけど。心なしか、相手よりもうちの方が、生き生きしてる感じがします」
眼前では、墨高ナインがボール回しと投球練習を行っている。倉橋と松川のバッテリー。内野陣は谷口とイガラシ、丸井に加藤。外野は、横井と島田、そして久保。たしかに応援団員の言うように、誰もが充実した表情だ。
し、信じらんねぇ。うちが……あの川北と、互角以上にやり合うなんて。力をつけてきてるのは知ってたが、ここまでとは。
「ま……見てりゃ、分かりますよ」
「お、おう」
後輩の一言に、田所はグラウンド上を凝視した。
やがて五回表が始まった。依然として、川北が一点リード。
パシッ。先頭の七番打者が、右方向へ打ち返す。巧く捉えたかに見えたが、思いのほか伸びない。右翼手の久保が、数メートル下がっただけで捕球した。
「ようし、ワンアウトっ」
キャッチャー倉橋の掛け声に、ナイン達も応える。
「バッテリーうまく打たせたぞ」
「その調子だ。どんどん攻めてけ!」
視界の隅で、バッターが首を捻りつつ引き上げてきた。
「……ヘンだなぁ、得意コースだったのに。打ち損じちゃうなんて」
後続打者が「バーロイ」と怒鳴り付ける。
「いまのはボール球だぞ。きさまどこに、目ぇつけてやがんだ」
「え、そうだっけ」
「しっかりしろい。よくそれで、レギュラーが務まったな」
くすっ、と倉橋はほくそ笑む。
指摘ごもっとも。しかしまだ、カンジンな点に気づいてないようだな。こっちが二巡目から、少しずつコースを外して、そちらの選球眼をずれさせてるのを。
ガキッ。鈍いゴロが、三塁ファールグラウンドに転がる。
「くそっ、読みどおりカーブだったのに」
この八番打者も首を捻る。前のバッターと、ほとんど同じ反応だ。
「さーて。おつぎは、どうするかな」
挑発的に言うと、相手はムッとした顔をした。
二球目。インコース高めに、速球を投じさせる。見せ球のつもりだったが、バッターは手を出してしまう。松川の重いボールに詰まらされ、平凡なレフトフライ。
「オメーも人のこと、言えねぇだろ!」
さっきの七番打者が、ベンチより野次を飛ばす。
「……ストライク、ツー!」
アンパイアのコール。後続の九番打者は、顔を上げ「えっ」と声を発した。アウトコース低めのカーブである。これでイーブンカウント。
おやおや。慎重に見きわめていると思いきや、こっちもだいぶズレてきてるな。前の打席では得意コースにくると思って、振りも大きくなってたし。
それなら……と、倉橋はサインを出す。
五球目。速球をわざと、真ん中高めに投じさせた。打者のバットが回る。鈍い音と同時に、ピッチャー頭上へ高いフライが上がる。
「オーライ!」
掛け声を発し、松川が難なく捕球した。スリーアウト。
「ナイスピーよ、松川」
ベンチへ向かいつつ、丸井が愉快そうに言った。
「ひさびさの三者凡退。リズムよく守れたぞ」
「む、いいムードになってきた。これを攻撃につなげようぜ!」
ナイン達は、そう互いに声を掛け合う。誰もが明るい表情だ。
「おい松川」
倉橋は後輩を呼び、その背中をぽんと叩く。
「ご苦労さん、よく投げてくれたな」
「ありがとうございます」
僅かに口元を緩め、松川は軽く一礼した。ここで彼はお役御免となる。
「まて、おまえ達」
一塁側ベンチ。田淵は、語気を強めて言った。
「……は、はぁ」
守備へと向かいかけていた川北ナインは、ベンチ手前で一斉にこちらを振り向く。その数人が、明らかに浮かない表情だ。
「いったん攻撃のことは忘れろ。この五回裏が終われば、少し間も空く。終盤トドメを刺すために、どうあっても凌ぐんだ。いいなっ」
「はい!」
後輩達は快活に返事した。しかしグラウンドへと散っていく、その足取りは重い。
「あっさり終わっちゃいましたね」
記録員を務める部員が、そう言って溜息をつく。
「まえの回あたりから、振りが大きくなったりボール球に手を出したりして」
「む、それなんだが……」
ナイン達のボール回しを見守りながら、田淵は苦々しい思いで答える。
「やられたのさ。向こうのバッテリーは、これを始めからねらってたんだ」
生真面目そうな後輩は、目をぱちくりさせる。
「どういうことです?」
「一巡目にミエミエの組み立てをしてきたのは、こっちの警戒心を薄れさせるためだったんだ。いつでも打てると思わせておいて、ちょっとずつ外していく」
「な、なるほどっ」
相手は驚嘆の声を発した。
「それでみんな……得意コースなのに打ち損じていると、カン違いして」
「ああ。じつは選球眼を狂わされていると、気づかずにな」
「し、しかし先輩」
田淵の言葉に、後輩はなおも首を傾げる。
「うち相手に、どうして墨高のやつら……こんな危険を冒してきたのでしょう。序盤で打ち込まれることだって、十分あり得るんですよ」
「これは、三つ理由があると思う」
一つ吐息をつき、田淵は話を続けた。
「まず……単にバッターの苦手コースをつくやり方では、読まれてしまうと推測したのだろう。実際、そのように対策していたじゃないか」
「じゃあやつら、それを見越して」
「うむ。そして二つ目は、序盤に何点か取られたとしても、後半にばん回できると踏んでたんだろう。向こうの攻撃を見る限り、かなり対策を積んでたようだし」
ですが……と、記録員はまだ食い下がる。
「結果として一失点ですんだものの、もし大差をつけられていれば、取り返しがつかなくなります。それくらい、やつらも分かってたはずでは」
「これこそが、最後の理由さ」
やや肩を竦め、田淵は返答した。
「なんといっても……やはり松川の力量を、向こうは信頼してたんだろう。ねらわれても、そうカンタンには連打されないと」
後輩が「そ、そんな」と、頬を引きつらせる。
「だとしたら……ここまで、すべて墨谷の計算どおりに」
「悔しいが、そういうことだ」
当日にしか合流できなかったことが、今さらながら悔やまれる。時間が足りなかったせいで、現メンバーに必要な助言をしてやれなかった。過去の傾向からして、墨谷がより多様な策を講じてくることは、十分想定できたのだ。
「……ここはもう、辛抱だ」
相手にではなく、自分自身へ言い聞かせる。
「幸い、まだ一点リードしてる。点をやらなければ負けることはない」
遅ればせながら、向こうのねらいが見えてきた。ここを凌いでくれれば、つぎの対策ができる。たのむぞ……高野、秋葉。どうにか踏んばってくれ。
祈るような思いで、田淵はグラウンド上を見つめた。
2.川北バッテリーの隙
マウンド上。指先にロージンバックを馴染ませつつ、高野は悩んでいた。
さっきの回……たった十二球で、終わっちまったな。どうも流れが悪いぞ。こっちも短い時間で終わらせて、試合のリズムを変えていきたいが。しかし上位打線かぁ。
「ようし行くぞっ」
高野の眼前。墨高の一番打者・丸井が気合の声を発し、右打席へと入ってくる。
「一番バッターからだ。しっかり守っていこうよ!」
キャッチャー秋葉の掛け声に、ナイン達は力強く「おうっ」と応える。
丸井に対して、速球とカーブを二球ずつ投じた。すべて高めのコース。二球はファール、もう二球は見きわめられる。
思わず舌打ちした。
「ちぇっ。こいつら、高めはカットすりゃいいと」
五球目。真ん中低めに、高野はドロップを投じる。
「……ボール!」
アンパイアのコール。丸井はぴくりともせず、悠然と見送った。
いまの見逃し方……これはボールだと、もう確信してたな。まさか高低とも見きわめられるとは。かといって下位打線のように、力でねじ伏せるわけにもいくまい。
高野の頬を、冷たい汗が伝う。
「バッテリー、打たせろっ」
ふいに中堅手の柳井が叫ぶ。
「二人だけで野球すんな。バックを信じて、どんといけ!」
「そうだ、俺達が助けてやる」
「気持ちで負けるな。全員で、アウトを奪うんだ!」
他の野手陣も呼応する。高野は、深くうなずいた。
そして六球目。アウトコース低めいっぱいに、速球を投じる。丸井は左足を踏み込み、おっつけるようにスイングした。パシッと快音が響く。
痛烈なゴロが、一塁線を襲う。
一瞬ライトへ抜けるかに思われたが、あらかじめ深く守っていた一塁手が、なんと横っ飛びで捕球した。その間、高野はベースカバーに入り「へいっ」と合図する。一塁手はすぐに起き上がり、こちらに送球。丸井のヘッドスライディングは、間一髪及ばず。
「あ、アウト!」
一塁塁審が、右拳を高く突き上げる。またも飛び出した好プレーに、一塁側スタンドが沸き返った。
「ナイスファースト!」
高野は一声掛け、ほっと胸を撫で下ろす。
やれやれ……ほんとに助けられちまった。しかし、ああも毎回のように食い下がられたら、さすがに疲れるぜ。こうなった以上、野手陣をアテにするほかねぇかもな。
またも快音。今度は、左中間へライナーが飛んだ。破れば長打という当たりだったが、中堅手の柳井が背走しながら、目いっぱい伸ばしたグラブの先に収める。
「ああ……くそぅ、捕られたか」
すでに一塁ベースを蹴っていた島田が、悔しそうに引き上げていく。
「ほれっ、高野」
遊撃手からの返球を捕り、高野は一つ吐息をつく。
どうにかツーアウトまで、こぎつけたか。クリーンアップのまえに、一人でも出塁されていたら、ただじゃすまないと思ってたが。しかし、つぎは三番から。スリーアウト目を取るまで、気は抜けねぇな。
「……みょうだな」
ネクストバッターズサークル。倉橋は、僅かに首を傾げた。
「お、おい倉橋」
後続の谷口が、声を掛けてくる。
「どうしたんだ、ぼーっとして。早く打席に行かないと」
「あ、うむ」
立ち上がろうとすると、田淵がタイムを取り、バッテリー二人を呼び寄せた。中軸を迎えるに当たり、注意点を伝えるだめだろう。ともかく、これで少し時間を稼げる。
「なぁ谷口。この回の高野、どこかヘンじゃないか」
率直に感じたことを伝える。
「もちろんフォームの変化はないし、球のキレが落ちてるわけでもねぇんだが。でも、なにかオカシイのはたしかだ」
分かれば攻りゃくのヒントにできそうなのに、と倉橋はもどかしい。
「ああ、それなら」
谷口はふと、口元に笑みを浮かべた。
「ちょうど良かった。じつはこのことを、倉橋に言おうと思ってたんだ」
「な、なにっ」
思わず目を見開く。
「といっても……俺もさっき、ようやく気づいた」
囁くような声で、谷口は端的に告げた。
「この回、投げるテンポが速くなってる」
「そ、そうか!」
つい声を上げてしまい、慌てて口をつぐむ。谷口は「うむ」とうなずいた。
「とくに島田に対しては、二球目から低めを突いてきた。四回までは、ねらわれてると感じてたからか、追い込むまで投げなかったのに」
「なるほど。早く打たせて取ろうと、気が急いているのか」
頭の中で、すばやく計算を立てる。
「となると……はじめの三球以内に低めを突いてくることも、十分あり得るな」
「俺もそう思う。だから倉橋、ここはねらっていけ」
「よし来た!」
倉橋はそう言って、今度こそ立ち上がった。
「投球のテンポが速すぎるぞ」
一塁側ベンチ前。田淵は開口一番、そう告げた。
「は、はぁ」
「言われてみれば」
高野と秋葉。バッテリー二人は、戸惑いつつもうなずく。
「早く終わらせたい気持ちは分かる。しかし何度も言うが、こういう展開では焦った方が負けた。とくに中軸の三人は、少しまちがえば長打の危険がある。じっくり時間を使って、ぎゃくに向こうを焦れさせてやれ」
「わ、分かりました!」
「まかせてください」
いつも通り、二人は快活に応えた。そしてグラウンドへと戻っていく。
「……返事はいいんだがな」
残された田淵は、一人つぶやいた。どこか不安が拭えない。
「プレイ!」
倉橋が右打席に入ると、試合は再開された。
マウンド上。高野はすぐに、投球動作へと移る。インコース高めのカーブ。ややボール気味だったが、打者はこれをファールにした。
ほう……なかなか初球には、手を出さなかったのに。ここに来て、やつも少し打ち気に逸っているのかもしれんな。
高野はこの直前に、倉橋が谷口となにやら話していたのを、視界に捉えている。
ふん。なに打ち合わせしてたか知らんが、ツーアウトランナーなしの状況で、大した策もあるまい。どうせドロップをねらうとか、そんな程度だろう。
二球目は、アウトコース高めのカーブ。これも倉橋はカットした。
案外カンタンに追い込めたぜ。ボールでもいいと思って投げたが、そっちから手を出してくれるとは。まったく助かるぜ。
「高野、ゆっくり」
キャッチャー秋葉が、そう言って返球してくる。
「お、おう。分かってるよ」
苦笑いして、ボールを受けとる。でもな……と、胸の内につぶやいた。
田淵さんの言うことは、当たってる。けど……俺はむしろ、守備の時間が長いのが、ずっと気になってるんだよな。二回以降、きれいに二人ずつ出塁されちゃってるし。守りに神経を割かれているせいか、攻撃がうまく回らない。
そして三球目。秋葉から、インコース高めの速球というサインが出される。
高野は、首を横に振った。相棒が目を見開く。この後、すべて高めに速球とカーブを指示されるが、いずれも首肯せず。
「……た、タイム!」
アンパイアに合図し、秋葉がこちらに駆け寄ってきた。
「おい、なんで高めはダメなんだよ」
声を潜め、問うてくる。
「低めはねらわれてるって、分かるだろ」
「いや……高めも対応されてる。ここで粘られたら、さすがに終盤までもたねぇよ」
こちらの返答に、相手は一瞬黙り込んだ。
「心配すんなって」
高野はそう言って、少し笑う。
「ちゃんとコースに投げれば、たとえ打たれても大ケガはしねぇよ。それに……やつらが気にしてるのは、ドロップだ。その意表を突こう」
「……なるほど、アウトコース低めの速球か」
「うむ。さ、分かったら戻れ」
ようやく秋葉は納得し、ポジションに帰る。そして打ち合わせた通り、速球をアウトコース低めにというサインを出した。
高野はうなずき、すぐに投球動作へと移る。
投じられた速球は、ほぼねらったコースと高さ。ところが、倉橋は「待ってました」とばかりに左足を踏み込み、迷いなくフルスイングした。
「……な、なんだとっ」
思わず叫んでしまう。
ジャンプした一塁手の頭上を、ライナー性の打球が越えていく。そして白線のぎりぎり内側に落ちた。一塁塁審が「フェア」とコールする。
「ら、ライト!」
秋葉の指示よりも先に、右翼手がフェンス手前で捕球する。その間、倉橋は一塁ベースを蹴り、二塁へと向かった。送球は、中継の二塁手に返っただけ。
倉橋は三塁へ向かいかけたところで、さっと引き返す。ツーベースヒット。
「ナイスバッティング!」
「さすが三番、よくねらい打ったぜ」
三塁側ベンチより、墨高ナインの声援が飛ぶ。
「……くそっ。ヤマをはられた」
グラブを腰に叩き付け、高野は唇を噛んだ。
一塁側ベンチ前。田淵は、ひそかに唇を噛んだ。
「ううむ……高野のやつ、血迷ったか」
この回で二度目のタイムを取り、再びバッテリーを呼び寄せる。
「す、スミマセン」
駆けてくるなり、高野は頭を下げた。さすがに肩を落としている。
「オイオイ、しょげている場合じゃないぞ。すんだことは仕方がない。ただ……どうして打たれたか、ちゃんと分かってるのか?」
「そ、それは……低めにヤマをはられたと」
「うむ。といっても、ただの当てずっぽうじゃないぞ」
田淵の一言に、二人は「えっ」と声を重ねた。
「おまえ達のテンポが速いもんで、早く勝負をつけたがっているとカンづいたのさ」
あっ……と声を発し、高野は顔を赤らめる。
「始めの二球をカットしたのも、低めを呼び込むためだろう。あの倉橋は……墨高は、そういう知略に長けているからな」
「……あの、高野だけの責任じゃありません」
横から秋葉が、おずおずと割り込んだ。
「こいつの体力を考えて、自分が賛成しました」
「気持ちは分かるさ」
田淵は、穏やかな口調で言った。
「高野にしても……早く終わらせて、リズムを作りたかったんだろう。守りに神経を割かれて、攻撃がチグハグだからな」
はっとしたように、高野は目を見上げる。
「だが、もうそんな余裕はないはずだ。二人とも薄々気づいてるだろう」
しばし間を置いて、率直に告げた。
「墨谷は強い。八強に進んだ昨年と比べてさえ、別格のチームになった。ヘタすりゃ……いまのうちと互角か、それ以上だろう。しかし、モノは考えようさ」
二人のうつむき加減の肩を、田淵はぽんと叩く。
「高野、秋葉。おまえ達の目標はなんだ? 言ってみろ」
「は……そ、それは」
高野は秋葉と目を見合わせ、戸惑った顔をした。それでもきっぱりと答える。
「もちろん谷原を倒して、甲子園へ行くことです」
「だったら……今日はその、いい予行演習じゃないか」
その言葉に、ようやく二人は背筋を伸ばす。
「いいか二人とも。この試合は、谷原への挑戦権が掛かってもいるんだ。墨高よりも、それは自分達こそがふさわしいのだと、きっちり証明してこい!」
「はい!」
二人は力強く返事して、グラウンドへと戻っていく。
秋葉がポジションに座ると同時に、谷口は右打席へ入っていく。
「バッター四番だ。しっかり守っていこうよ!」
マウンド上。エース高野が、野手陣に声を掛ける。その表情は明るい。
あのピッチャー、少し元気になったな。きっと田淵さんに励まされたんだろう。倉橋に二塁打を浴びた時は、だいぶガックリきてたが。
注意深く相手エースを観察した。その当人は忙しなげに、足元をスパイクで均す。どうも落ち着きがない。やはり……と、胸の内につぶやく。
この様子じゃ、内心の動揺が消えたわけじゃない。なにか策を授けられたのかもと思ったが、あれではバッターとの勝負に集中するのが精一杯だろう。
さらに谷口は、視線を左右に広げる。
「強気でいけ、高野!」
「バッター勝負だっ」
川北の野手陣、よくピッチャーを盛り立てているな。ウラを返せば、どこか不安があるということ。しかも得点圏でクリーンアップという状況から、どうやらバッターを打ち取ることしか考えてないぞ。
こうして、ひそかに決心を固めた。
相手に気づかれぬよう、谷口はこっそりサインを出す。二塁ベース上の倉橋は、一瞬驚いた目をしたが、すぐにうなずいた。
マウンド上。高野は一回、二回……と、牽制球を二塁へ投じた。足を警戒するというより、バッターを焦らすためのものだ。そして、一つ吐息をつく。
落ち着け、もうツーアウトなんだ。この四番を打ち取れば問題ない。
「そうだ高野!」
秋葉がマスク越しに、声を掛けてくる。
「慌てなくていい。じっくり攻めよう」
「おう、任せろ」
言葉を交わし、相棒がサインを出す。高野はうなずき、セットポジションから投球動作を始めた。インコース高めのカーブ。
次の瞬間。ふいに「ゴー!」と、谷口が叫んだ。
えっ、と思った刹那。背後から土を蹴る音がした。そこに内野陣の「走った」という声が重なる。この時、指からボールのすっぽ抜ける感覚があった。
「し、しまった……」
ガシャン。飛び上がった秋葉の頭上を越え、投球はバックネットを直撃する。
ボールは一塁側へ、緩く転がった。秋葉が慌てて走る。その間、倉橋は躊躇なく三塁ベースを蹴り、一気にホームへ突っ込んできた。
高野はベースカバーに入り、グラブを掲げる。
「へいっ」
ボールを拾い、秋葉が素早く送球した。しかし……それを捕球した高野の眼下で、倉橋の右手がホームベースをはらう。
「せ、セーフ!」
アンパイアが二度、両腕を水平に広げた。
倉橋は起き上がると、右拳を軽く突き上げる。三塁側ベンチとスタンドの応援団が、大きく沸き返った。眼前では、秋葉が片膝を付いたまま、何度もかぶりを振る。
「く……くそうっ」
バチン。自分の不甲斐なさに、高野はホームベースを叩いた。
「よーし、追いついたぞ」
三塁側ベンチ。墨高ナインは身を乗り出して、倉橋を迎え入れる。
「ナイススチール。それにナイススライディング!」
「さすがキャッチャー、完全にウラをかいたな」
谷口は一旦打席を外し、仲間達に呼びかけた。
「同点で満足するな。いま相手は、動揺してる。もう一押しするんだっ」
すぐに「おうよ!」と、力強い声が返ってくる。
片やマウンド上。束の間話し込んでいた川北ナインは、やがてタイムを解く。
「……とにかく、まだ同点だ」
「バッテリー引きずるなよ」
一人残された高野は、まだ表情が硬い。ロージンバックを拾い上げ、しばし弄んだ後、やや無造作に足元へ放る。
そうとうショックを受けているな。たたくなら、いまだ!
再開後の初球。力んでしまったのか、キレのないカーブが真ん中に入ってくる。失投を予感していた谷口は、躊躇なく振り抜いた。
バンッ。打球はあっという間に、レフトフェンスを直撃する。
川北の左翼手が、ボールを必死の形相で拾い、中継の遊撃手へ投げ返す。谷口はその間、悠々と二塁ベースを陥れた。ツーベースヒット。
ホームベースの方を振り向くと、すぐに後続のイガラシが右打席へと入ってきた。
「イガラシ! 思いきって……」
そう言いかけた時、相手ベンチから田淵が出てくる。またバッテリーを呼ぶかと思いきや、一塁方向を指差した。歩かせろ、という合図だ。
そうくるか……と、谷口は苦笑いした。
ちょっとアテが外れちゃったな。向こうの立場からして、無理にでも勝負しようとすると思ったが。やはり田淵さん、状況をよく理解してる。
イガラシが一塁へと歩き、塁が埋まる。谷口は攻め方を思案した。
「……た、タイム!」
思わぬ声に、はっとする。次打者となる横井だった。
「谷口。ちょっといいか」
「む、どうした」
なぜか横井は、打席より数メートル下がり、グラウンドに背を向ける。そして、こちらに耳打ちしてきた。
「真っすぐが、もしアウトコース高めにきたら……ねらっていいか?」
意外な一言に、谷口は「えっ」と目を見開く。
「イガラシを歩かせたってことは、なんとしても俺を打ち取るつもりだろう」
横井は囁くように述べる。
「ただ低めはねらわれている。となれば、きっと高めの速球とカーブで勝負してくる」
「うむ、そうだろうな」
「それに……あの高野のボール、まえのエースとよく似てるもんで、だいぶ目が慣れてきた。インコースは難しいだろうが、アウトコースの速球なら合わせられると思う」
一理あるな、と谷口は思った。ピンチの時ほど、得意球で勝負しようとするのがピッチャー心理だ。しかもまえの打席で、横井にドロップを打ち返されている。となれば、なおさら高野は低めを投げてこないだろう。
「……分かった。思ったとおり、やってみろ」
首肯して、さらに付け加える。
「ただし向こうは、早くこの回を終わらせたがってもいる。ツーストライク後は、一転して低め……またドロップということも」
「うむ、心得てるさ」
微笑んで、横井が言った。
「くるとしたら、きっと早いカウントだ。ひょっとして初球かもしれない」
同感だ、と谷口はうなずく。
「ねらいどおりのタマがきたら、迷わずいけ」
「おうよっ」
それだけ言葉を交わし、二人は互いに踵を返した。
マウンド上。高野は一度、大きく深呼吸する。
「……落ちつけ、まだ同点なんだ」
眼前では、墨高の六番打者・横井が右打席へと入ってきた。ほぼ同時に、谷口も二塁ランナーの位置に戻る。やがて試合再開が告げられた。
投球前、束の間思案した。
けっこう長く打ち合わせてたな。一点取った後、しかもツーアウトで下位打線だ。また足を使ってくることも、十分考えられるぞ。
初球。秋葉のサインは、アウトコース高めの速球。さらにボール一個分ずらす。
ストライクから外すってことは……どうやら秋葉も、同じことを考えたようだな。もしダブルスチールでも許して、三塁に行かれたらメンドウだ。そうなれば、内野安打やエラーでも一点入っちまう。
「さぁ来い!」
横井が気合の声を発した。
この六番、さほど怖いバッターじゃないが、当てるのはウマい。さっきもドロップをうまく拾われた。三振を奪うのが難しい以上、念には念を入れないとな。
サインにうなずき、速球を投じる。アウトコース高めのボール球。
「ま、まさか……」
その刹那、パシッという音が響く。横井は、外へ思いきり踏み込み、強引に引っ叩いた。ボールは、二塁ベースの数メートル後方へ飛んでいく。
「く、くわっ」
中堅手の柳井が懸命にダッシュし、飛び付いた。その目いっぱい差し出したグラブの先。ボールは、芝の上で弾む。カバーに入った左翼手がそれを拾った時、二塁ランナーの谷口は、すでにホームベースへ滑り込んでいた。
この瞬間。三塁側スタンドに陣取る墨高応援団が、大きく沸いた。
「よっしゃあ、ひっくり返した!」
「すげぇぞ横井。川北のエースから、タイムリー打つなんて」
殊勲打を放った横井は、一塁ベース上で照れた顔になる。
マウンド上。高野は一連の光景を、無言で凝視していた。膝を付かずにいるのは、せめてもの意地だ。唇を痛いほど噛み締める。
ちきしょう……墨高のやつらめ! このままですむと思うなよっ。
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