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第29話 先手必勝!の巻
1.キャプテン動じず!
墨谷対川北の四回戦は、終盤へと差しかかっていた。
ここまで二対一とリードする墨高は、六回よりエース谷口を登板させ盤石と思われたが、川北も名門の意地を見せる。
臨時コーチをつとめるOB田淵の知略により、墨高バッテリーの作戦を見抜くと、七回には大胆な代打攻勢をかける。
この代打策が当たり、ツーアウトながら一塁三塁。双方にとって勝敗を左右する、重要な局面である。
ツーアウトから広げた好機に、一塁側ベンチとスタンドは活気づく。
「いいぞ川北、ここらで押し返せ」
「まず同点。いや一気に、逆転だ!」
「名門の底力、見せてやれっ」
そしてまたも、ベンチより田淵が出てきて、アンパイアへ告げる。
「八番バッター、水島に代わります」
一人目の戸田と同じく大柄な選手が、ベンチ奥より姿を現した。すぐにネクストバッターズサークルへと入り、置かれていたマスコットバットを軽々と振り回す。
「よくもまぁ、ゾロゾロ出てくるもんだぜ」
倉橋は、呆れたように言った。
マウンド上。キャプテン谷口を中心に、墨高内野陣は集合していた。バッテリーの二人、そして加藤、丸井、イガラシ、岡村の面々が並ぶ。
「なにも焦ることはないぞ」
そう告げたのは、谷口だった。
「もうツーアウトだし、少なくともスクイズの心配はない。バッターをおさえることに集中すればいいんだ」
その場の誰もが、キャプテンの顔を見つめる。
「あるとすれば、足を使ってくることぐらいだが」
さらに谷口の話は続く。周囲が戸惑うほど、穏やかな表情だ。
「ここはホームスチールさえ気をつければいい。もし一塁ランナーが走ったとしても、かまうな。二・三塁にされても、一塁が空いている。バッターの力量しだいでは、塁を埋めることもできる。まだ打てるテはあるのだから、みんな慌てるな」
「け、けどよ……」
倉橋が口を挟む。
「リクツは分かるが、そんな上手く運ぶものなのか。向こうが代打をつぎつぎ送ってくるもんで、やつらの苦手コースをかく実に打てなくさせるという、うちの当初のねらいは封じられちまったし」
ええっ、と他のメンバーは声を発した。ますます「マズイぞ」という雰囲気になる。
「それも大した問題じゃないさ」
意外な言葉が返ってくる。一堂は、口をつぐんだ。
「バッターの得手不得手が分からなければ、探ればいいじゃないか」
事もなげに、谷口は言った。
「だいたい倉橋。さっきのバッターの弱点が、インコース高めだと見抜いてくれたのは、おまえじゃないか」
「む……ああ、そういやぁ」
倉橋がうなずくと、谷口は微笑んだ。そして「みんなもいいか」と周囲を見回す。
「試合前に言ったことを、いまこそ思い出すんだ。どんな展開でも、じっくり慌てず、われわれのベストを尽くす。まさに試される場面だ。そこに今日の勝敗だけでなく、大会の行く末もかかっている。そのことを頭に入れてプレーするんだ!」
ナイン達は、力強く「はいっ」と返事した。
ほどなくタイムが解かれる。倉橋はポジションに戻り、マスクを被って座る。一人ひそやかに溜息をついた。
谷口のやつ。終盤の緊迫した場面だってのに、まるで動じてない。キャプテンが落ち着いているから、これだけの強敵相手に、ほかのやつものびのびプレーできてる。まったく、大したリーダーだぜ。
フフと笑いがこぼれた。傍らで左打席の水島が、訝しむ目になる。
「プレイ!」
アンパイアのコールと同時に、倉橋はサインを出す。む、と谷口はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。
初球。真っすぐを要求した倉橋は、ミットを「ここよ」と外にボール二個分ずらす。そこにズバンと飛び込んできた。
水島は一瞬反応しかけたが、すぐにバットを引く。
「ナイスボールよ、谷口」
返球しながら、倉橋は思案した。
ちとバットを出しかけたということは、アウトコースの真っすぐをねらっていたのか。いや……そう決めてかかるのも、良くない。コースか球種か、大まかに絞っていたのかも。ようし、たしかめてみるか。
二球目。続けて真っすぐを、今度はインコース低めに投じる。
果たして水島は、スイングした。しかし厳しいコースを突いたからか、差し込まれてファールとなる。打球は一塁側ベンチ手前に転がった。
続く三球目は、同じインコース低めにカーブ。水島は手を出さず。際どいコースだったが、ストライクぎりぎりに決まる。これでツーストライク、ワンボール。
なるほど、やはり真っすぐをねらっているらしいな。しかも打ち方からして、どうやらインコースは苦手らしいぞ。
思案の末、倉橋はサインを出す。
ようし。だったら初球と同じく、アウトコース低めに真っすぐ。そのボール球へ手を出させちまえば……
ところが、谷口は首を横に振った。
倉橋が「えっ」と思うのも束の間、相手はちょんちょんと人差し指を動かす。バッターを見よ、という合図だ。指示通り、ちらりと水島を見やる。そして、はっとした。
水島がさりげなく、立つ位置をベース寄りに移している。
あ、あぶねぇ。いまアウトコースへ真っすぐを放っていたら、ボールであっても踏み込んで、弾き返されてた。きっと田淵さんのサインだな。谷口のやつ、よく見てくれていたぜ。
倉橋は、改めてサインを出し直す。
「……ううむ」
一塁側ベンチ。田淵は、ひそかに唇を噛んだ。
あのバッテリー、ちっとも一塁ランナーに注意を向けないな。無警戒というより、あくまでもバッター勝負に徹すということだろう。向こうが過剰に意識して、浮足立ってくれればホームスチールもねらえたが。
帽子のつばを触り、一塁ランナー野木へサインを送る。
それなら……ありがたく走らせてもらおう。二・三塁になれば、一打逆転の状況だ。あのバッテリーに、ここは少しでもプレッシャーを与えないと。
四球目。墨高バッテリーは、真ん中低めにフォークを投じてきた。その瞬間、野木がスタート。明らかなボール球に、水島は手を出さず。
キャッチャー倉橋は、やはり送球しなかった。それどころか、内野手がベースカバーにさえ入らず。あっさり二・三塁となる。
谷口は後方を振り向き、ふと微笑んだ。
「ツーアウト二・三塁。みんな思い出せ、練習したパターンだぞ」
墨高ナインは「おうよっ」と、なんだか嬉しげな声を発した。そして外野は前進、内野は深めというシフトを敷く。
やれやれ動じないか、と田淵は苦笑いした。
敵ながら、ほんと大したチームだぜ。バッテリーだけでなく、全員が意思を一つにして動いてやがる。おまけに判断も速い。
無意識のうちに、右手の拳を握りしめていた。
しかし……だからって、そう易々とやられはしないぞ。いけっ、水島。おまえのバットで、墨谷を正面からねじ伏せてやるんだ。
野手陣がシフトを敷いたのを確認し、倉橋はマスクを被る。
やはり走ってきたか。これで二・三塁、たしかに一打逆転の危険はある。けど、これでダブルスチールから本塁を突いてくるテはなくなった。向こうさん、自ら選択肢の一つを消しやがったぜ。
そして五球目。倉橋はいよいよ、勝負球のサインを出した。
マウンド上、谷口はうなずき投球動作へと移る。セットポジションから、左足で踏み込み、グラブを突き出し、右腕をしならせる。
ボールは、アウトコース低めへ。水島は「待ってました」とばかりに、バットを払うようにしてスイングする。
ところが……ボールはアウトコースの、さらに外へ逃げた。決め球はシュート。
「く、くそうっ」
体勢を崩しながら、水島はそれでも喰らい付き打ち返す。
速いゴロが、三遊間へ飛んだ。通常のシフトなら抜けている当たりだが、あらかじめ深く守っていたショートのイガラシが、軽やかなステップで難なく捕球する。そして、一塁へ矢のような送球を投じた。
水島はヘッドスライディングを敢行する。だが一塁ベースへ飛び込んだ時、すでにファースト加藤がボールを掴んでいた。
「……アウト! スリーアウト、チェンジ」
塁審のコールに、川北の一塁側ベンチとスタンドが静まり返る。一方、墨高の三塁側ベンチとスタンドは、沸き上がった。
「谷口、ナイスボール。さすがエースだぜ」
「すげぇぞイガラシ。ヒット性の当たりを、簡単にアウトにしやがって」
「やるじゃないか墨高、よく守り切った!」
歓声の中を、墨高ナインは足取り軽く引き上げていく。そして一旦ベンチ手前に集まり、円陣を組む。
「さすが倉橋、完全にウラをかいたぞ」
こちらに顔を向け、谷口は朗らかに言った。
「なーに。真っすぐねらいだと、早い段階で分かったからな」
丸井が「す、すごい」と目を見開く。
「すべて読んでたからこそ、決め球はシュートだったのですね」
「いやあれは、イガラシが上手くさばいてくれたから」
純朴なキャプテンは、照れた顔になる。
「あれぐらいは……練習で、何度もやってましたから」
当のイガラシは、ニコリともせず言った。
「それより、せっかくいい流れです。ここらで追加点といきましょう」
「む、そうだな」
表情を引き締め、谷口はナイン達を見回す。
「さっきのように、向こうも必死だ。こっちの作戦に対して、それを封じようとしてきたり、ぎゃくに策を仕かけてくることだってある。しかし……われわれが力を出しさえすれば、ああして押し返すことができるんだ」
軽く右拳を突き上げ、力強く告げる。
「最後まで、われわれのベストを尽くそう。いいな!」
「おうっ」
三塁側に、墨高ナインの声が凛々しく響いた。
くそう。あと一歩、押し切れなかったか……
三塁ベース上。高野は、小さく溜息をついた。さすがに足腰が重い。束の間、膝に両手をつきかける。
「君、どうしたのかね」
ふいに声を掛けられ、はっとする。三塁塁審が怪訝そうな目を向けていた。
「ぼうっとしていたようだが。まさか、どこか傷めたんだ」
「な、なんでもありません。失礼します」
慌ててベンチへと駆け出す。劣勢の展開で、マウンドを譲るわけにはいかない。挽回するには自分が踏んばるしかないと、高野は心得ていた。
一塁側ベンチに戻り、ヘルメットを戻しグラブを手に取る。すぐにまたグラウンドへ出ていこうとした時、高野は「ん?」と顔を上げた。
ベンチ手前に、水島が神妙な顔つきで立っている。
「おお、どしたい?」
「先輩、すみません。援護できなくて」
思わず「ばかやろうっ」と怒鳴り付けた。
「来年の四番候補と言われているやつが、そんなショゲた顔するんじゃねーよ。俺にあやまるヒマがあるのなら、つぎどうしたら打てるか考えろ」
そう言って、高野はフフと笑みを浮かべる。
「心配されなくとも、あと二回きっちりおさえてやる。分かったか!」
「は、はいっ」
後輩の顔に生気が戻る。まったく世話が焼けるぜ、と高野は胸の内につぶやいた。
2.ねらい打ち
七回裏。マウンドには、この回も高野が立つ。
墨高の攻撃は、中軸に回る好打順だ。まず三番倉橋が、右打席へと入る。その後は谷口、イガラシへと続いていく。
「さ、こい!」
バットを短めに持ち、倉橋は気合の声を発した。
あれだけ走った挙句、点にはつながらなかったんだ。高野のやつ、そろそろガックリきてもよさそうだが……
その初球。高野は、真っすぐをインコース高めに投じてきた。
ボールの風を切る音。このコースは、ホップして高めに外れる。倉橋はそう判断し、見送った。ズバン、とキャッチャーミットが鳴る。
「ストライク!」
アンパイアのコールに、倉橋は「えっ」と目を見開いた。
ばかな。いままでは、すべて外れていたコースだってのに。まさか俺まで、ちと選球眼がずれてきてるのか。
眼前のマウンド上。高野が笑みを浮かべ、キャッチャー秋葉からの返球を捕る。
続く二球目は、真ん中低めのドロップ。低めを狙っていた倉橋は「きたっ」と、迷いなくスイングした。
ところが、思ったタイミングでボールがこない。
「……ん、とっ」
上体を泳がされた倉橋は、それでも掬い上げるようにして、ドロップを打ち返す。
速いゴロがマウンド横をすり抜け、二遊間を襲う。しかし川北の二塁手が飛び付き、グラブに収めた。そして片膝立ちになり、一塁へ送球する。
「あ……アウト!」
一塁塁審のコール。ヘッドスライディングも及ばず、倉橋は唇を噛んだ。ベンチも束の間湧きかけたが、すぐに「ああ」と溜息が漏れる。
「ちきしょう、抜けたと思ったのに」
「さすが川北だな。守備もよく鍛えられてる」
ネクストバッターズサークル。谷口は、マウンド上を凝視していた。
あの倉橋が、ねらった球でタイミングを合わさせらなかっただと? そういや、初球の見逃し方も、なんだかあっけに取られた感じだったし。これは、なにかおかしいぞ。
悔しがるナイン達の傍らで、谷口はマウンド上を凝視していた。
「……き、キャプテン」
ふいに背後から呼ばれる。振り向くと、半田がノートを手に立っていた。
「おお、どうした」
「いまちょっと気づいたんですけど……あのピッチャー、ちょっとフォームが変わってきてるように見えるんです」
谷口は「なんだって?」と、思わず声を上げた。一旦タイムを取り、詳しく聞いてみることにする。
「そ、それで……どう変わってきてるんだ」
「はい。投げるときに、右腕をこう……引く幅が、小さくなってます」
つぶらな瞳をパチクリさせて、半田は説明した。
言われてみれば……と、腑に落ちる。この七回裏、谷口もグラウンド上の光景に、どこか違和感を覚えていたのだ。その正体が、半田の話で明確になる。
「ありがとう。半田、よく気づいてくれたな」
野球帽の頭をぽんと撫でる。
「さっそく、みんなにも伝えてくれ」
「分かりました」
半田がベンチへ駆け出した時、ちょうど倉橋が引き上げてくる。
「スマン。思ったより、ボールがこなくってよ」
「む……倉橋、ひょっとして」
囁くように、谷口は言った。
「あのピッチャー、もう球威がなくなってるんじゃないか」
「えっ……あ、そういや」
倉橋が目を見開く。
「初球、いままでならホップして高く外れていたコースが、そのままストライクに入ってきたんだ。となると……やはり、疲れが出てきてるのか」
「ああ。それと半田に言われて、俺もさっき気づいたが、フォームまで微妙に違ってきてる。さっきのドロップも、わざと遅い球を投げたのじゃなく……変化球ではもうスピードが出せないんだ」
ほどなくタイムが解かれ、谷口は右打席へと入っていく。
マウンド上。川北のエース高野は、その指先にロージンバックを馴染ませながら、こちらを睨む。弱みなど見せない、まさに堂々たる振る舞いである。
かなり疲れているはずだが。敵ながら、立派なエースの態度だな。
初球。真っすぐが、アウトコース低めいっぱいに決まる。まだスピードはあるな、と胸の内につぶやく。コントロールも健在だ。
ようし……つぎのボールで、たしかめてみるか。
そして二球目。高野はまたも真っすぐを、今度はインコース高めに投じてくる。これを狙っていた谷口は、素早くバットを寝かせた。
コンッ。三塁線とマウンドの中間に、緩く打球が転がる。
まるで想定外だったらしく、三塁手は慌ててダッシュした。しかし「まかせろっ」と、高野がマウンドを駆け下りる。まさに軽やかなフットワークで打球を処理し、すかさず一塁へ送球する。
「くっ……」
谷口は、ヘッドスライディングした。間一髪のタイミング。
「……あ、アウト!」
塁審が高らかにコールした。一塁側ベンチとスタンドが、また湧き上がる。
「な、なんて素早いフィールディングなんだ」
「すげぇぞ高野、さすがエース」
高野はマウンドに戻ると、野手陣へ振り向く。そして「どうだっ」と雄叫びを上げた。エースの気迫に、味方も応える。
「ナイスプレーよ、高野!」
「いいぞ。これでまた、勢いに乗っていこうぜ」
一塁ベース上。谷口は起き上がり、苦笑いした。
う、うまい。打球の速さも転がした位置も、ねらったとおりだったのに。まさか、あれをアウトにしてしまうとは。
でも……と、ひそかにつぶやく。
「オタク、ちと弱気じゃねぇの」
ベンチに戻る途中、キャッチャー秋葉が挑発的に言った。
「どうしても点が欲しいのは、分かるけどよ。それにしても四番がセーフティバントつうのは、どうだろうな」
「は、はぁ……ドウモ」
間の抜けたような返事に、秋葉は「あら」とずっこける。
谷口は肩を竦め、無言で踵を返した。そしてネクストバッターズサークルに控える、イガラシへ駆け寄った。
「スマン。せめて、塁には出てやりかったが」
イガラシは「仕方ないですよ」と、口元で微笑む。
「うまくウラをかいたんですけどね。ピッチャーがうますぎました」
そう言って、後輩はふっと表情を引き締める。
「それより……いまのボール、ほとんどホップしませんでしたね」
ああ、と谷口は首肯した。そして尋ねる。
「イガラシ。おまえなら、なにをねらう?」
「そりゃもちろん、高めの速球です」
当然でしょうとでも言わんばかりに、イガラシは即答した。
「俺も同感だ。さ、いけイガラシ!」
谷口の励ましに、後輩はうなずく。
「はい。まかせてください」
キャッチャー秋葉は逡巡していた。ホームベース手前に立ち、ひそかに溜息をつく。
傍らで、五番打者のイガラシが右打席に入ってくる。柔らかな仕草で足元を均し、バットを構えた。その表情は、冷静そのものである。
ツーアウトとはいえ、また厄介なやつに回ってきたな。いっそ歩かせるか。いや……こいつは足もあるから、塁に出られるのもメンドウだ。
この小柄な強打者に、川北バッテリーはドロップをいとも簡単にクリーンヒットされるなど、かなり手を焼いていた。
「どうした秋葉」
マウンド上より、高野が声を掛けてくる。
「こいつもさっさと片づけて、表の攻撃につなげるぞ」
「あ、ああ。分かってる」
エースの頭には、勝負しかないらしい。高野は座ってマスクを被り、腹を決めた。
ちと危険だが……やはり勝負するしかない。うちは一点負けてんだ。相手のクリーンアップをしっかり打ち取って、また流れを引き寄せないと。
いくぞ高野、とつぶやく。相手は小さくうなずいた。
あいつの踏んばりで、やっとうちにもチャンスが出てきたんだ。ここは、エースを信じようじゃないか。高野、おまえのベストボールを見せてくれ。
初球。秋葉はインコース高めに、真っすぐのサインを出した。
ほんとはカーブも使いたいが、いまの体力からして、少し間違えばすっぽ抜けて死球になるおそれがある。このイガラシも、高めは球威を嫌ってか、ここまでマトモに打ちにはきていない。それを三球続ければ、さすがに焦って手を出すだろうよ。
高野は「分かってるじゃないか」と言いたげに、一瞬笑みを浮かべた。そして投球動作へと移る。ダイナミックなアンダーハンドのフォームから、第一球を投じた。
次の瞬間……イガラシが躊躇なく、バットを振り下ろす。
「な、なにぃっ」
秋葉は、思わず声を上げた。
パシッ。快音を残し、ライナー性の打球がレフト頭上を襲う。左翼手は十メートルほど背走したが、すぐに諦めて立ち止まった。
呆然とする川北ナインの眼前。打球は、なんとレフトスタンド中段に飛び込んだ。直後、墨谷の得点を示すスコアボードの枠が、「2」から「3」へと差し替えられる。
三対一。墨高が、川北を突き放した。
静まり返る一塁側スタンド。対照的に、墨高応援団の陣取る三塁側スタンドとベンチは、大きく湧いた。
「すげぇ。川北のエースから、まさかホームラン打っちまうなんて」
「あのイガラシってやつ、まだ一年坊だろう」
「ちいせぇ体して、なんつうパワーだ」
もっとも当の本人は、ニコリともせず。淡々とグラウンドを一周していく。
その傍らで、マウンド上のエース高野は、初めて膝に両手をついた。すぐに仲間達が集まってくる。
一塁側ベンチ。田淵は、小さくかぶりを振る。
いまのは、俺の判断ミスだ。この回、高野の球威がガクンと落ちたのは、先頭の倉橋の打席で気づいてたのに。あいつの力投を頼みにするあまり、決断できなかった。
「せ、先輩」
ふと声を掛けられる。ブルペンから、石川が戻ってきていた。
一つ吐息をつく。そして「行くぞ石川」と、後輩に告げた。試合はまだ続いている。いつまでも悔やんでいる暇は、指揮官にはないのだ。
田淵はベンチを出て、アンパイアへ伝えた。
「審判、選手交代とシートの変更を行います。ピッチャー高野をレフトへ。レフトの戸田に代わって、石川がピッチャーに入ります」
マウンド上。痛恨の一発を浴びうなだれるエースに、川北ナインは誰も声を掛けられずにいた。励ますのも慰めるのも、どれも場違いに思える。
やがてベンチから、二年生投手の石川が駆けてきた。
「……た、高野さん」
すでに投手交代が告げられている。後輩がためらいながら呼び掛けると、高野はすっくと背筋を伸ばした。そして、口元で微笑む。
「悪いな石川。後は、頼んだぞ」
ボールを手渡し、石川の肩をポンと叩いた。そしてレフトのポジションへ走り出す。ついに泣き言ひとつ口にしなかった。
「立派な態度だろう」
キャッチャー秋葉が、リリーフの二年生に告げる。
「石川、あれがエースの姿だ。よく覚えておくんだぞ」
「は、はいっ」
短く返事して、石川は表情を引き締めた。
「す、スゴイ……」
三塁側スタンド。田所は、ひそかにつぶやいた。
傍らで、墨高応援団が「ワッセ、ワッセ」と盛り上がる。後輩達の姿を横目に、田所もまた高揚を抑えられない。
信じらんねぇ。あいつらピンチになっても落ち着きはらって、当たり前みてぇに切り抜けやがった。おまけに直後、あっさり突き放すなんて。まるで横綱ずもうだぜ。こんな試合を、あの川北相手にやってのけるとは。
不覚にも、涙腺が緩んでしまう。慌ててハンカチで拭った。
「先輩。どうしたんスか?」
さっきの応援団員が、暢気そうに尋ねてくる。
「まだ試合は終わってないですし、泣くのはちと早いスよ」
「……ば、バカヤロウ」
ややムキになり、田所は言い返す。
「ここで油売ってるヒマがあるなら、しっかり応援しやがれ。そうとも、まだ試合は終わってねーんだからよ!」
「は、はぁ……ドウモ」
後輩はぺこっと一礼して、また応援に戻る。
フフ、と田所は笑いがこみ上げてきた。そして財布を取り出し、開いて中身を確認する。「今年こそ、うなぎおごれっかな」と、頭の中で勘定した。
まったく。あいつら、ほんと強くなったもんだ。ハハ、ずいぶん遠くへ行っちまったようだせ。うれしいような、ちとさびしいような……
そんなことを考えていると、また泣けてきた。
3.最後のツメ
この後――リリーフ登板の石川は、後続打者を何とかおさえる。墨高の得点は、イガラシのホームランに寄る一点に留まった。
続く八回表。谷口の投球はますます冴えを見せ、上位に回った川北の攻撃を、難なく三者凡退に封じる。その裏、墨高はまたもチャンスを作ったものの、石川の懸命な力投とバックの好守により、あと一本が出ず。けっきょく追加点はならなかった。
シード校同士による白熱の一戦は、墨高が三対一と二点リードのまま、いよいよ最終回の攻防を残すのみとなった。
迎えた九回表。墨高のマウンドには、やはりエース谷口が立つ。
カキ。鈍いゴロが、三塁線に飛ぶ。
「サードっ」
谷口の指示の声。しかしそれを待つまでもなく、三塁手の岡村が軽快なフィールディングで捌いた。そして一塁へ送球。
「……アウト!」
一塁塁審のコール。打ち取られた三番打者の池田は、腰に手を当てて空を仰ぐ。簡単にワンアウトを奪われ、一塁側ベンチから「ああ……」と溜息が漏れる。
次打者は、川北の四番秋葉だ。やや足早に右打席へと入ってきた。その顔には、すでに悲壮感が漂い始めている。
相手の主軸に対し、墨高バッテリーは初球、二球目と続けて、カーブをインコ―ス低めに投げ込む。苦手コースを突かれ、秋葉は手が出ない。
「ストライク、ツー!」
アンパイアのコール。あっという間に、相手の四番を追い込んだ。
そして三球目。谷口は、真ん中高めに真っすぐを投じた。これは吊り球だったが、相手打者は我慢できず打ちにいってしまう。
またも鈍い音。秋葉は「しまった」と、バットを放って走り出した。打球の伸びはなく、中堅手の島田が、ほぼ定位置で捕球する。これでツーアウト、ランナーなし。
ふいに「まだだぞ」と、叫び声がした。ネクストバッターズサークル。高野が静まり返った味方ベンチを、一喝する。
「最後まであきらめるな! 俺達は、川北だろっ」
すごい気迫だな、と谷口はつぶやく。
「そ……そうだ高野。まだ試合は、終わってない」
「一人出たら、分からねぇぞ」
「たのむ高野、なんとかつないでくれっ」
高野の喝に、他のナイン達も元気を取り戻す。さすがエースの存在感だ、と谷口も認めるしかなかった。そして束の間、思案する。
向こうはまだ、高野の一打に期待してる。七回の再現をねらってるんだ。そしてたしかに、一人でも出したら局面が変わってしまう。これを防ぐには……
ほどなく、谷口は決断した。強く右拳を握りしめる。
試合をここまで優位に運べてきたのは、つねに向こうの先手を打ってこられたからだ。それを最後までつらぬかなくては。相手に反撃の期待さえ持たせないためには……やはり、このテしかない。
背後を振り向き、谷口は一人の男を呼んだ。
「イガラシ、来い。ピッチャー交代だ!」
一塁側ベンチは、ざわめき始めた。
「やつらなに考えてんだ。この土壇場で、エースを下げるだと」
「ツーアウトだもんで、一年生に経験つませるとか」
「ば、ばかな。五番だぞ」
それはちがうな、と柳井が冷静に言った。
「高野のヒットと代打策で、七回にチャンスを作ったろう。打順のめぐりは、その時と同じだ。同じことをさせないように、向こうさん目先を変えやがったんだ」
活気を取り戻した直後、一転して浮足立つ後輩達を横目に、田淵はほぞを噛む。
やられた……また、後手を踏んじまった。高野と代打のメンバーなら、そこまで谷口に悪い感触はない。二打席目はよりタイミングを合わせられると計算してたが、ここで代えてくるのか。しかも、高野からホームランを打ってるイガラシとは。
ちらっと三塁側ブルペンを見やる。左投手の井口が、まだ投球練習を続けている。
もしイガラシから出塁できたとしても、墨高はまだいくつも手が打てる。谷口を戻すか、もしくはあの井口という一年生を登板させることもできる。我々の出方を見て、選べるというわけだ。それに引き換え、こっちはもうバッターに期待するしか……
「いい加減にしろ!」
ふいに声を上げたのは、秋葉だった。ナイン達は口をつぐむ。
「きさまら、うろたえてる場合か。我々を引っぱってくれたエースが、最後になるかもしれない打席へ、いま向かおうとしてるんだぞ。この期に及んで、味方の背中を押してやれないチームのまま、ゲームセットを迎えていいのかよっ」
田淵は正捕手に歩み寄り、軽く背中を叩いた。
「……た、田淵さん」
「ありがとう、秋葉」
ふっと笑みを浮かべ、そして他のメンバーへ向き直る。
「秋葉の言うとおりだ。今日の苦しい試合、高野の踏んばりで持ちこたえることができた。あいつの気持ちに、我々も応えてやろう」
川北ナインは、声を揃え「はいっ」と応えた。
一旦ネクストバッターズサークルに下がり、高野はマウンド上を凝視した。
眼前では、イガラシの投球練習が続く。やがてラストボールを全力で放り、あとはスパイクで足元を均す。どれも無駄のない、ごく自然な動作だ。
ちぇっ、まるで力みがないな。あの様子じゃ、このリリーフは前もって予定してたんだろう。しかし……最後のボール、けっこう速かったな。それにしても、まさがイガラシでくるとは。ずっと井口が準備してたから、ダマされちったぜ。
ほどなくタイムが解かれ、アンパイアが「バッターラップ」と声を掛ける。
高野は立ち上がり、ゆっくりと打席へ向かう。そして白線を踏み越えた。背後から、ベンチの仲間達の声援が送られる。
「さぁ高野、思いきりいけっ」
「気持ちで負けるな! 喰らいついていくんだ」
「墨谷の一年坊なんか、ねじ伏せろ」
投手交代に伴い、墨高はシートを変更していた。降板の谷口がサードに戻り、またイガラシの抜けたショートに横井が入る。さらに一年生の岡村が下がり、レフトには三年生の戸室がつく。
高野が右打席に入ると、アンパイアはすぐに「プレイ!」とコールした。
一方のマウンド上。イガラシは足元にロージンバックを放り、キャッチャー倉橋のサインを確認する。そして、僅かにうなずいた。
数秒の間。高野はベース寄りに立ち、バットを短く持つ。
もう一度アウトコースをねらってやる。ここまでベースの近くに立たれたら、いくら強気のイガラシでも、インコースには投げにくいはずだ。さあ来い一年坊。ホームランの借りは、いま返してやる。
初球。果たしてイガラシは、インコース低めに投じてきた。
「な、なんだとっ」
意表を突かれ、高野は手が出ない。ズバンと小気味よい音。コースいっぱいにきまり、ワンストライク。
こいつ……構わずインコースにきやがった。川北の五番相手に、いい度胸してんな。しかし、いつまで続けられるか。
二球目は、インコース狙いに切り替える。ところがイガラシの投球は、高野の左肩付近に飛び込んできた。わっ、と咄嗟に身をよじる。
「……ストライク、ツー!」
アンパイアのコール。高野は、思わず息を呑んだ。
い、いまのはカーブか。なんて鋭い曲がり方してんだ。おまけに制球して、インコース低めいっぱいに決めてくるとは。こいつ、ほんとに一年坊なのか。
「た、タイム」
一旦打席を外し、束の間思案する。
どうやら、こっちのねらいを見透かしてやがる。顔のとおり、いけ好かないヤロウだぜ。こうなったら……もう駆け引きはやめだ。どれでも合わせるつもりで待たないと。
打席に戻り、高野はベースから数センチメートルほど下がる。
そして三球目。イガラシは振りかぶると、左足を踏み込みグラブを突き出し、右腕を思いきりしならせる。
投球は、ねらっていたアウトコース。しかし……そのボールが、こない。さらにホームベース手前で、すうっと沈んだ。イガラシの決め球、チェンジアップ。
「……し、しまった」
予想外の軌道に、たまらず高野のバットは空を切る。
「ストライク、バッターアウト。ゲームセット!」
アンパイアのコールが、むやみに甲高く響く。その瞬間、三塁側スタンドに陣取る墨高応援団が、大きく湧いた。
試合後――両軍の挨拶が済み、ベンチへ引き上げようとした谷口は、ふいに背中をポンと叩かれる。
「……あっ、ドウモ」
振り向くと、そこに田淵が立っていた。思いのほか晴れやかな表情だ。
「いやぁ参った。あの練習試合から一年半、墨谷はほんとうに強くなったな」
「は、はぁ」
谷口が戸惑っていると、隣に倉橋が並ぶ。中学時代の先輩に「お久しぶりです」と一礼した。田淵は僅かにうなずく。
「む。今日はおまえ達の知略に、まんまとしてやられたよ」
「いえいえ、そんな」
やや恐縮したふうに、倉橋は答える。
「われわれも田淵さんの采配に、最後まで苦しめられました」
「オイオイ。よく言うぜ」
田淵は苦笑いして、ちょんと肘で小突く真似をした。
「けっきょく、こっちの策をすべてはね返しちまったくせによ」
そう言って、ふと穏やかに微笑む。
「悔しいが、完敗だった。倉橋、谷口。こうなったら……本気で目指せよ、甲子園!」
二人は「はいっ」と声を揃えて返事した。そして田淵と一人ずつ握手を交わす。
墨谷と川北の四回戦は、こうして幕を閉じた。
白熱の攻防戦は、終わってみれば三対一。墨高が完勝ともいえる試合内容で、強ごう川北を下し、五回戦へ堂々とコマを進めたのである。
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