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第31話 迷うな墨高ナイン!の巻
1.盟友の去就
新聞部訪問の翌日。
この日も授業が終わると、ナイン達はいつものように部室へと集まり、練習の準備を始めた。三日後には、三山高との五回戦が控える。
「よし、いくか」
谷口がユニフォームに着替え、外へ出ようとした時だった。
「……あ、あのキャプテン」
振り向くと、半田が制服姿のまま立っている。なにやら神妙な顔つきだ。
「どうした半田。着替えもしないで」
「あやまりたいことがあるんです」
か細い声で、半田は言った。
「きのう言いそびれちゃったんですけど。じつは……ぼくが偵さつに来てたこと、明善高の人に気づかれちゃって」
ええっ、と数人が声を上げる。
「まさか……メモしてた中身まで、見られちまったとか」
横井が心配そうに問うと、半田は「いいえ」と首を横に振った。
「そういうわけじゃないんですけど、向こうが『墨高の人ですよね?』とあいさつしてきたので……ハイと言っちゃったんです」
なんでぇ、と横井は拍子抜けした顔になる。
「び、びっくりしたなぁ」
「おどかすなよ」
周囲からも安堵の声が漏れた。
「みんなの言うとおり、気に病むことじゃないさ」
キャプテンは微笑みかけたが、すぐに表情を引き締める。
「われわれが研究してることぐらい、向こうも想定ずみだろう。それに……調べられてるのは、こっちも同じだ」
そして「みんなもいいか」と、全員に顔を向けた。
「ここから先は、もう一段高いレベルの戦いになる。とくに準々決勝以降は、上級生にとっても未知のりょう域だ。もちろん半田や新聞部の人達にも手伝ってもらって、情報収集と分析はしっかりやる」
数人がゴクンと唾を飲み込む。
「だが、それでも向こうがウラをかいてきたり、こっちのねらいが通用しなかったりすることも、十分ありうる。それも頭に入れて、いまのうちに腹をくくっておくんだ」
谷口のシビアな発言に、ナイン達は「はいっ」と声を揃えた。
「……それにしても」
倉橋が顎に手を当て、僅かに首を傾げる。
「黙ってりゃいいのに、向こうから話しかけてくるとは。どんなやつだった?」
「ポジションは、キャッチャーの人です。試合に出てたのでおぼえてました」
「ほほう。正捕手自ら、他チームの様子を探りにきたのか」
「はい……あ、でも正捕手ではないみたいです」
そう言って、半田はつぶらな瞳をパチクリさせた。
「背番号が二桁でしたし、彼は一年生だと言ってましたから」
「ふふん。さすが秋の準優勝チーム、余裕あんな」
倉橋は呆れたような笑みを浮かべた。
「かく下相手とはいえ、公式戦で一年生キャッチャーの鳴らしまでするとは」
「い、いえ」
首を横に振り、半田は話を続ける。
「あれから調べてみたのですが、どうも明善は大会直前に、レギュラー捕手が大ケガしちゃったみたいなんです。それで、あの一年生が定着したのだとか」
へぇ……と、周囲から吐息混じりの声が漏れる。
「だとしてもよ」
横井が感心げに言った。
「いくらレギュラーが故障したからって、一年生で代役をつとめるたぁ、よほど期待されてるやつなんだろう」
そうだな、と戸室も同調する。
「さすがは強ごう校。主力が抜けても、代わりはいくらでもいるってか」
「……そ、それでなんですけど」
ふいに半田が、やや声を潜めた。そしてチラッと、部室の奥から用具を引っぱり出そうとしていた、丸井とイガラシを見やる。
「聞けば、彼はキャプテンと同じ……墨谷二中出身だそうです」
この発言に、丸井とイガラシが「ええっ」と声を上げた。同時にナイン達もざわめく。
「お、おいイガラシ」
後輩のユニフォームの袖を引っ張りつつ、丸井は目を丸くした。二人の傍らに、バット籠を抱えた久保も寄ってくる。
「墨二出身で、おまえや久保の同学年といやぁ……」
あった、と半田が手帳を広げつぶやく。
「ええと……名前は、小室君というのだそうです」
数人が「なんだって」と、驚嘆の声を上げた。
「フヒー、あちいぜ」
上半身アンダーシャツ姿の横井が、脱いだユニフォームの上をパタパタさせる。その隣で、戸室が茶碗の冷水をがぶ飲みした。
「こら二人とも」
肩をストレッチしながら、倉橋が注意する。
「たったあれだけのノックで、もしやバテたんじゃあるまい」
「ま、まさか」
横井は慌てたふうに言った。
「ただ日差しが強くってな。世間じゃ、もうすぐ夏休みシーズンだし」
「なにを言ってる。もう夕方近くだし、だいぶ涼しくなってきてるぞ。これから真っ昼間での試合が続くってのに、これじゃ先が思いやられるぜ」
「わ、わーってらい」
幾分ムキになって言うと、横井も水を一口飲み下す。
ナイン達は、校庭の木陰に集まり、しばし休憩を取っていた。すでにランニングと柔軟体操、内外野に別れてのノックと練習メニューを消化している。この後は、フリー打撃に充てる予定だ。
休憩中の話題は、自然と明善の一年生キャッチャーのことになる。
「しかし、びっくりしたな」
タオルで汗を拭きつつ、丸井が言った。
「小室のやつ、てっきりうちに来るものと思ってたのによ。裏切りやがって」
「いえ。もともとは、その予定だったんですけど」
事情を知るイガラシが、若干言いにくそうに答える。
「たんに……試験が、ダメだったんスよ」
横から「なんでぇ」と割り込んだのは、井口だった。昨年の地区予選決勝を戦った縁で、彼もまた小室と面識がある。
「全国優勝チームの正捕手が、入試にすべっちゃうほどポンスケだとは」
「ば、ばかっ」
イガラシは慌てて、幼馴染の脇腹を小突く。
「テッ、なにしやがんだ……あっ」
鈍い後輩を、丸井が背後より「うーっ」と歯をむき出しにして睨む。彼が墨高に編入したのは、中学三年時の試験に落ちたからだ。
「……ど、ドウモ」
井口が気まずそうに一礼する。周囲の何人かが「ププ」と吹き出す。
「ちと運が悪かったんですよ」
溜息混じりに言って、イガラシは話を続けた。
「小室のやつ。試験間近になって、タチの悪い風邪をもらっちゃって」
同窓の久保も「ありゃ気の毒だったな」と相槌を打つ。
「む。かなりガックリきてたので、声もかけづらくて。ぼくと久保に『進学先が決まったら連絡する』と言って、それきりでした」
「しっかし……薄情なやつめ」
丸井が腕組みして言った。
「進路が決まったのなら、俺っちらに連絡の一つもよこすべきだろうに」
「そ……それは、ホラ」
イガラシは苦笑いして、かつてのチームメイトを庇う。
「ぼくらと直接ぶつかりそうな強ごうに進んだもんで、言いづらかったんでしょう」
「……ま、いきさつはどうだっていいが」
おもむろに発言したのは、倉橋だった。
「ケガ人が出たとはいえ、一年生ですぐ、キャッチャーに抜てきされる実力者の持ち主ってことだ。それなりに警戒しとかねーと」
そして「おいイガラシ」と、後輩に尋ねる。
「元チームメイトから見て、どんなプレーヤーだ。その小室ってやつ」
「ううむ、そうですね」
イガラシは束の間考えてから、返答した。
「一言でいえば、けん実でしょうかね。ハデさはないが、攻守ともにやるべきことをきっちりこなせる男です。敵に回るとなりゃ……それは、手ごわいですよ」
当人をよく知る男の言葉に、周囲は静まり返る。
「……みんな。もう、その辺にしておこう」
ふいに谷口が、パンパンと両手を鳴らす。
「よそを考えるのもいいが、まず自分達のやるべきことをやろう。さ、みんな腰を上げるんだ」
キャプテンに促され、ナイン達は「はいっ」と声を揃えた。
2.ナインの心持ち
ほどなくナイン達は、グラウンドのホームベースを囲むように集合した。その中央に、キャプテン谷口が立つ。
「これからフリー打撃を始める。ただそのまえに、みんな自分のフォームをいま一度チェックしてもらいたい」
谷口はこう切り出した。
「そこで素振りとトスバッティングをこなしてから、打席に入ってもらう。加藤がきのう指摘してくれたように、タイプの異なるピッチャーを相手にするうちに、フォームを崩してしまわないようにな」
丸井が「なるほど」と二、三度うなずく。
「基本を大事にするってことですね」
「うむ。それと、ただ順番を待つより、この方がずっと時間を有効に使えるからな」
ナイン達は「はいっ」と返事して、各自バットを手に取る。そして三塁線の外側で一列に並び、素振りを始めた。また外野のフェンス際では、この後フリー打撃で投げる予定の井口と片瀬が、先にトスバッティングを交替ずつ行う。
谷口がマウンドへ向かうと、数人が「えっ」と戸惑う顔になる。
「れ……キャプテンも、投げるんですか」
素振りの手を止め、加藤が質問した。
「ああ。片瀬はケガ上がりだし、時間をかけてウォーミングアップさせてやりたい」
それに……と、キャプテンはふいに険しい眼差しになる。
「どうもみんなの様子を見ていると、つぎに当たる三山のことが、すっかりアタマから飛んでいるようだ。足もとをすくわれないよう、まず自分の形をしっかりさせないと」
は、はい……と加藤がうつむき加減になる。他のメンバーも、やや気まずそうに素振りを再開した。
「よう谷口」
捕手用プロテクターを装着した倉橋が、こちらに来て一声掛ける。
「用意できたぞ。連中を相手するまえに、少し投げておくか」
「む、さっそく始めよう」
「しかし……いつになく、けわしいね」
怪訝そうに、正捕手は言った。
「なにか気がかりなことがあるのか?」
まあね、と谷口は肩を竦める。
「さっきも話したが、ここから先は未知のりょう域だ。五回戦、準々決勝……と進むにつれて、いろいろなことが起こりうる」
「けど、もう昨年のような息切れはしないだろ。まだ二試合を戦っただけなんだし」
「体力の心配はしてないさ」
キャプテンはあっさり答えた。
「ずっと走り込みや筋トレで鍛えてきたし、なにより今年は選手層が厚い。もしケガ人が出たとしても、誰かが補えるさ。問題は……」
やや声を潜めて告げる。
「この短期間のうちに、全国クラスの相手と連戦しなきゃいけない状況だ」
なるほど……と、倉橋がうなずく。
「やつらの気力が、もつかどうかってことか」
「うむ。すでに……みんなの心持ちが、安定しているとは言いがたい」
谷口はチラッと、素振りするナイン達を見やる。
「城東に勝った後は、すぎるほど神経質だったのに、いまじゃもう三山に勝った気でいる」
苦笑いして、さらに話を続ける。
「ここまでの二戦、ちょっと理想的に運べすぎたからな。順調な時ほど、なにかの拍子に大きく崩れがちだ。もし立ち上がりに、出鼻をくじかれでもしたら」
「ふむ、いろいろ考えてるのね」
倉橋はそう言って、ポンと谷口の肩を叩く。
「分かった。俺も気づいたことがあったら、すぐに報告する。その代わり、おまえもキャプテンだからって思いつめてないで、ちゃんと話してくれよ」
正捕手の言葉に、キャプテンはようやく笑みを浮かべた。
「そう言ってくれて、助かるよ。ありがとう倉橋」
やがてトス打撃を終えた片瀬が、右打席に入ってくる。実直な一年生は、ヘルメットを脱ぎ「お願いします」と一礼した。その後方では、井口が二本のマスコットバットを軽々と振り回す。
「一打席目は、すべて直球だ。もちろんコースは散らすが、しっかり振り切るんだぞ」
そう告げると、片瀬は「わかりましたっ」と返事して、ヘルメットを被り直した。
相手がバットを構えて、谷口はすぐに投球を始めた。予告した通り、内外角と高低、偏りなくコースを投げ分けていく。
片瀬はバットの握りを短くし、コンパクトに振り抜いた。長打性の当たりこそないものの、確実にどのコースも捉え、低いライナーを打ち返す。
予定の十球を終えたところで、谷口は尋ねた。
「片瀬。始めからバットを短く持ったが、なにか意図があったのか」
「あ、はい。なにせこの体格ですから、長打は捨てた方がいいんじゃないかと」
「む、そうやって自分でくふうするのは大事なことだ」
感心しながらも、一つアドバイスを付け加える。
「ただ片瀬。いまのうちから、これはできないと決めてしまうことはないぞ。おまえの場合、中学のブランクがあるせいか、まだ体力が不足している。しっかり鍛錬していけば、もっとできることは増えていくはずだ」
「はいっ、ありがとうございます」
礼儀正しい片瀬らしく、深く一礼する。
「じゃあ一旦、球拾いに回ってくれ。これはウォーミングアップも兼ねてるから、しっかり足を動かすんだぞ」
「分かりました」
「うむ。さ、つぎは井口の番だ」
そう告げると、井口は「よしきたっ」と気合を入れる。
こうしてフリー打撃が進められていった。終わった者は、一巡するまで球拾いに回り、打球を追いかける。カキッカキッと、小気味よい打球音がグラウンドに響く。
「スピードはそう落としてないんだが……」
マウンド上にて、谷口は一人つぶやいた。さすがに直球だと分かれば、レギュラーと控えの別なしに、誰もが難なく打ち返してくる。
やがて、あと二、三人を残すのみとなった。つぎはカーブとスローボールを打たせようか、と考え始める。
「……お願いします」
その時、打席に入ってきた者の顔に、谷口は「おや?」と思った。ライトのレギュラーを務める一年生・久保である。
「久保、どうかしたのか?」
様子が気になり、尋ねてみた。
「ほかのレギュラーは、とっくに終えているぞ。控えの根岸や高橋もさっき打ったのに」
「はい、スミマセン。ちょっとフォームを確認したくて」
「む……まぁ順番は決まってないし、べつにかまわないが」
考えすぎてないだろうな、と心配になる。
投球を始めると、久保もコースの別なく捉えてきた。しかし他のレギュラー陣と比べ、打球に迫力がない。
「もっと腰を入れろ。それと、しっかり手首を返すんだ」
「は、はいっ」
助言したものの、さして改善が見られない。ラスト二球となったところで、そうだ……と思い付き、相手に告げる。
「つぎは真ん中高めに投げるからな」
「えっ?」
「いちばん打ちやすいコースだ。思いきり、振り抜いてみろ」
「わ、分かりました」
戸惑いながらも、久保はうなずく。
谷口は振りかぶると、予告した通り、直球を真ん中高めに投じた。ところが、久保はこれを打ち損じてしまう。ガシャッと、打球がバックネットに当たる。
「どうした、リキんでるぞ」
すかさず指摘する。
「振り回せとは言ってない。いつも素振りでやっているように、力を抜いてフォロースルーまで形を作ってみろ」
「あ……はいっ」
相手がバットを構えてから、谷口は投球動作へと移る。
さっきと同じ、真ん中高めの直球。パシッと快音が鳴る。センター方向へと、ライナー性の打球が飛び、土の上で弾む。
ううむ、と谷口は首を傾げた。
いまのもリキんでた。ヒット性の当たりだが、春先にはカンタンに外野の頭を越してたのに。やはり久保、調子が落ちてきてる。
「……あの、キャプテン?」
久保が怪訝そうな目を向ける。
「な、なんでもない」
あえて何も答えず、他のメンバーと同じく球拾いに回す。
ちょっと根が深いかもしれないな。もし考えすぎているのなら、いま言っても追いつめてしまうだけだ。しばらく様子を見てやらなきゃ。
籠のボールを一つ拾い、谷口は次の投球に備えた。
校舎の大時計が、六時を差す。
全体練習を終えたナイン達は、部室横の水飲み場に集まっていた。各々ユニフォームを洗ったり、水浴びをしたりと、束の間のリラックスした時間である。
「うひー、生き返るぜ」
上半身裸の横井が、蛇口から水を被りつつ、頭を揺らす。隣で水を飲んでいた戸室が「わっ」と、顔をしかめる。
「こんにゃろ、ひとの顔にかかるじゃねーか」
「おっとスマン。このぐらいじゃ、足りないよな」
横井はにやっとした。そして今度は、両手ですくった水を、相手の顔にかける。
「わっぷ……や、やったなコイツ」
手の甲で顔を拭うと、戸室も同じことをやり返した。しばし互いに水を掛け合う。周囲では、後輩達がポカンと口を開けている。
「ハハ。先輩達、元気なことで」
一年生の根岸が愉快そうに笑い、空いた蛇口をひねって両手を差し出す。そして「ううっ」と顔をしかめた。手のひらの豆が潰れ、血が滲んでいる。
「……うわっ、こりゃ痛そうだな」
覗き込んだ丸井が、顔をしかめる。
「え、ええ。なにせ短時間で、主力級のピッチャーを三人も相手にしましたから」
「ま……たしかに、ありゃ苦労したぜ」
戸室が苦笑いした。
「サイドスローの片瀬を相手した後は、本格派の井口だからな。おまけに二人とも、だいぶ変化球がキレてたし」
「先輩、なにをおっしゃるんです」
後方で膝をストレッチしていた片瀬が、むくっと顔を上げる。
「はじめこそ苦労されてましたけど、みなさんすぐに対応してきたじゃありませんか。曲がりっぱなをねらわれたのは……正直まいりました」
「おう。ピッチャーに言われると、なんだか照れるぜ」
にやける横井。すかさず「調子にのるなよ」と、戸室が突っ込む。
「今日はストライクだけと決まってたんだ。試合じゃもっと散らされたり、苦手コースを突かれたりするんだぞ」
「うるせーな。おまえに言われなくても、分かってるよ」
「どうだか」
「な、なんだとっ」
またじゃれ合い始める二人を、周囲は呆れ顔で眺める。
集団から少し離れて、キャプテン谷口は花壇の端に座っていた。グラブを磨きつつ一人静かに佇む。
やがて一つの足音が近付いてくる。顔を上げると、倉橋だった。
「よう、どしたい一人で」
「ここでナインの様子を見てる。どうも、さえない者がいるし」
なるほど、と正捕手はうなずく。
「そういやフリー打げきの時も、みょうに表情のかたいやつが、何人かいたな。考えすぎてるというか。ま、テキトーにやるよりはずっとマシだが」
「みんなのこと、しっかり見ててくれたのか」
「そりゃバッターのことは、すぐ間近で見るポジションだからな。嫌でも分かるさ」
谷口は「助かるよ」と礼を言った。
「なーに。とりわけ気になるのが……久保だな」
ああ、とうなずく。
「さっき聞いてみたら、ボールをよく見ようとして、泳いだり振り遅れたりしてしまうらしい。あまり考えすぎるなと伝えたが」
「ふむ。久保のやつ、たしか中学選手権をとった墨二の三番打者だったろう」
腕組みしつつ、倉橋が不思議そうに言った。
「これだけ経験豊富なやつでも、ああなってしまうのか」
「ま、さすがに中学野球とはレベルがちがうからな」
苦笑い混じりに答える。
「しかし打撃センスは、イガラシや井口に匹敵する男だ。復調してもらわなきゃ困るが」
「む。ひょっとして……あの小室ってやつと対戦しそうなもんで、意識してるとか」
谷口は「まさか」と、首を横に振った。
「ただ一年生でレギュラーに選ばれたことで、気負いがあるのかもしれん」
「……それで、どうする?」
ふと倉橋が声を潜め、問うてくる。
「メンバーを入れ替えるか?」
「いや……あと一試合、様子を見よう」
きっぱりと答える。
「少し不調だからとレギュラーから外せば、久保はもちろん、他のメンバーも萎縮してしまう。それはチームの士気に影響する」
うむ、と倉橋も同意した。
「ただでさえ、心の浮きしずみが激しいからな」
気づけば、すっかり辺りが薄暗くなってきていた。水飲み場のナイン達は、各々ストレッチしたり、一旦部室に戻り個人練習の準備を始めたりしている。
谷口はすっくと立ち上がり、両手のこぶしに力を込める。
とにかく……つぎの三山戦、なるべくよい形で突破したい。そうすれば、またチームに勢いをつけることができるはずだ。
3.五回戦、そして……
むかえた日曜日。三たび荒川球場にて、墨高ナインはベストエイト入りをかけ、三山高との五回戦にのぞんだ。
四回戦に続きシード校同士の対決となったが、すでに川北を退け、さらに新聞部の協力を得て情報収集も万全だった墨高にとって、三山はもはや敵ではなかった。
試合は序盤から、墨高打線が力を発揮。着々と得点を重ね、リードを広げていく。
投げては先発の井口が、六回をヒット一本におさえる快投。七回には負傷の癒えた片瀬、八回にはエース谷口と継投する。三人ともピンチらしいピンチを招くことなく、見事に相手打線を零封した。
終わってみれば八回コールド、十対〇の完勝。投打ともに三山を圧倒した墨高が、なんなく二年連続の準々決勝進出を果たしたのだった。
試合後。ナイン達は一旦制服に着替え、球場を出た。キャプテン谷口を先頭として列を作り、歩いてバス停へと向かう。
「ん……おい、墨谷ナインだっ」
球場前で散らばっていた観客の一人が、ふいに声を上げた。すると近くのまた二、三名が、こちらを振り向く。
「ほ、ほんとだっ」
「さっき見たかよ。たった二十人余りで、あの三山をコテンパンにしちまったぜ」
「うむ。昨夏の健闘も感動したが、今年は層が厚くなって、ますます強くなったよな」
そんな会話が聴こえてくる。
「……えっ、なんだなんだ」
谷口のすぐ背後で、倉橋が戸惑った顔になる。他のメンバーも「どういうこったい」「な、なにしてんだ」と口々にささやく。
いつの間にか、列の両側を大勢の観客が取り囲んでいた。
「ガンバレよ、墨谷! 名門校なんかに負けるなっ」
「今年こそ甲子園だっ」
掛け声の後、たくさんの拍手が贈られる。とめどなく鳴り響く。
「お、俺達……エライことになっちったぜ」
独り言のような横井の言葉に、数人がうなずいた。
「……おおっ、来たか」
バス停に着くと、OBの田所が出迎えてくれた。さらに日曜日ということもあってか、三月に卒業した中山、山口、山本、太田の面々も勢揃いしている。倉橋が「ずいぶんにぎやかだな」と、さすがに目を丸くした。
谷口は制帽を脱ぎ、一礼する。
「先輩方、応援ありがとうございました!」
ナイン達も「アリガトウゴザイマシタッ」とキャプテンに習う。
む、と田所はうなずき、他の四人と拍手した。そして手を止め、一歩前に出る。すでに目元を潤ませている。
「二年連続のベストエイト、おめでとう。オメーらは、俺達の誇りだ……ううっ」
最後は涙声になり、両手で顔を覆う。
「あーあ、もう田所さんたら」
昨年までのエース中山が呆れながらも、ハンカチを差し出す。
「ようっ、久しぶりだな」
傍らで、長身の山口がおどけて言った。
「悪かったな。なかなか見にこられなくてよ」
すまなそうに苦笑いしたのは、山本だった。
「ずっと新聞でチェックはしてたが、なかなか都合がつかなくてな。ようやく休日の試合ってんで、みんなと連絡し合ったんだ」
太田が「そうそう」とうなずく。
「なにせ仕事が忙しくってな。もうちょいヒマ人なら、初戦から来られたんだが」
こ、これっ……と、中山が太田の脇腹を小突く。
「む、なんだよ中山……あっ」
太田が顔を向けると、涙を拭いた田所がぎろっと睨んでいる。相変わらずの他愛ないやり取りに、現役メンバー達は「プクク」と吹き出す。
バスを待つ間、しばしOB達と談笑する流れになった。
「谷口、ちょっと」
ふと田所が、ひそやかに声を掛けてくる。
「はい。なんでしょう」
「この後……ちと、つき合ってくんねえか」
「え、と言いますと?」
「へへっ。これ見てくれや」
そう言って、田所はスラックスのポケットから茶封筒を取り出した。上を開けると、数枚の一万円札がのぞく。
「八強入りの祝いに、今年こそ、オメーらにうな丼をおごってやろうと思ってよ。昨年はけっきょく、叶わなかったからな。これ、中山達と出し合ったんだ」
「あ、ありがとうございます。気持ちはうれしいんですけど」
先輩達の心意気に感謝しながらも、谷口は首を横に振った。
「昨年に並んだだけですし、まだ祝うのは早いですよ」
「そうカタくとらえるなよ。なに、栄養会のつもりで思ってくれりゃ」
「は、はぁ……しかし」
ふむ、と田所は訝しげな顔になる。
「なんでぇ、ずいぶんかたくなじゃねーか。もしや……なにかあったのか」
どこまでも親身になってくれる先輩に、谷口は事情を話すことにした。
「ええ、じつは……」
田所は二、三質問を挟んだだけで、後はひたすら傾聴に徹した。
「……と、いうワケなんです」
「なるほどねぇ。ここへ来て、やつらの気持ちにバラつきが出てきてるのか」
「はい。つぎの試合までに、どうにか一つにまとめなきゃと思いまして。ここからより強い相手とぶつかるのに、いまの状態では、すぐにボロが出てしまいそうで」
「ううむ。ハタから見りゃ、川北戦といい今日といい、なんの不安もないように思えたがな。やはり外からは分からない部分もあるのか」
よし、と田所はうなずく。
「そういうことなら、ここでうな丼ってわけにゃいかねーな。お祝いなんてムードにしちゃ、これで満足ってやつも、出てきちまうだろうし」
「ええ、スミマセン」
谷口は頭を下げた。
「せっかくの先輩方のご厚意を」
「よ、よせやい。おまえはチームを預かるキャプテンだ。当然のことを言ったまでよ」
「いえ……ありがとうございます」
「うむ。しかし、まいったなぁ」
腕組みして、田所は渋い顔になる。
「中山達には、この後時間を空けておくように、まえから頼んでたんだ。だいぶヒマができちゃうし、どうしたものか」
「あ……先輩、それなら」
谷口は微笑んで、ささやくように言った。
「ぜひとも行きたい場所があるんです」
それからおよそ三十分後。墨高ナインは、荒川近くの定食屋に移動していた。すでに全員席に座り、冷水で喉を潤している。
「……ち、ちょっと田所さん」
中山が現役ナインの目を気にしつつ、ひそひそ声で問うてくる。
「うな丼はどうなったんです? ここ、昨年も来た店じゃありませんか」
「ま、いいじゃねぇか」
苦笑いしながら、田所は説明した。
「谷口のやつが、そこにしてくれって言うんだもの」
「しかし、せっかく費用まで集めたってのに」
「それはホラ、連中の今後に使ってもらえばいいじゃねぇか。この先も勝ち進むとなれば、カネはいくらでも入り用なんだし」
不服げな中山を、横から山口が「いいじゃねぇか」となだめる。
「田所さんの言うように、あいつらの役に立てればよ。それに……なつかしいぜ」
うむ、と山本も感慨深げにうなずく。
「この店にくると、現役時代がきのうのことのように思い出されるな」
ひそかに会話を聞きながら、谷口は「ありがとう田所さん」と、胸の内につぶやいた。
やがて注文したカツ丼が運ばれてくる。ナイン達はさっそく割り箸を手に取り、ぱかっと丼の蓋を開けた。熱い湯気が食欲をそそる。冷めないうちに、と各々すぐに食べ始めた。
「おおっ、味がぜんぜん変わってねぇな」
「うまい! これなら何杯でも、いけそうだぜ」
現役メンバーは、満足げに舌鼓を打つ。
「それじゃ俺も、いただきます」
谷口も割り箸を手に、カツをひと切れ頬ばる。出汁のきいた卵と豚肉の味が、口の中に広がった。
ふと隣を見ると、イガラシが一口食べただけで、なぜか丼を凝視している。
「どうしたイガラシ。食欲ないのか?」
尋ねると、後輩は「あっいえ」と照れた顔になった。
「どんな出汁を使っているのか、気になって……これはカツオですね」
「ほほう。そういえばイガラシの家は、中華ソバ屋だったな」
「ええ、メニューの参考になるかと」
斜め前の席で、丸井が「けっ」と眉をしかめた。
「こんな時までリクツこねやがって。さっさと食わんか」
丸井さんこそ、とイガラシは冷静に言い返す。
「もちっと、よく噛まないと」
「む、なにを……んんっ」
言われたそばから喉につかえてしまい、丸井はトントンと自分の胸を叩く。隣の加藤が、慌ててコップの水を差し出した。
「ほら、言わんこっちゃない」
イガラシはクスと笑い、箸を進める。
食事を続けながら、谷口はナイン達を観察していた。五つのテーブルから、それぞれの会話が聴こえてくる。
「なんだかカンタンに、八強まで来ちゃったぜ」
「だが……次戦から、こうはいかないだろう」
「しょーじき、うちが本気で四強以上をねらうなんて、まるで現実味がないんだよな」
もう満足しかけている者、必要以上に気負う者、どこか地に足がついていない者。実に様々である。
マズイな、と谷口は思った。
なにせうちは、初めてシード入りしたんだ。気持ちがすぐつぎに向かわないのも、ムリはない。しかし、人によって温度差があるのは、よくない傾向だぞ。少しまちがえば、チームの士気が保てなくなってしまう。
谷口の真向かいには、倉橋が座っていた。一旦席を立って傍へ行き、他の者に聴かれぬよう「ちょっといいか」とささやく。
「うむ、なんだい」
相手が顔を向けると、耳元であることを告げた。
「……えっ」
やはり倉橋は、驚いた顔になる。
「べつに反対はしないが、いいのか?」
「うむ。みんなの気持ちを固めるために、こういう方法も必要だと思うんだ」
わかった、と正捕手は返事した。
谷口は自分の席に戻らず、そのまま店内の中央へ移動した。そしてパンパン、と両手を打ち鳴らす。
「食べながらでいい。みんな、ちょっと話を聞いてくれ」
キャプテンの呼びかけに、全員が話を止めて体を向ける。
「まずは今日の試合、お疲れさま。そして二、三年生はおぼえているだろう。この店は昨年、うちが四回戦突破を果たした後、そこにいらっしゃるOBのみなさんと来たことを」
OBの五人も、うなずきつつ聞いている。
「あれから一年。われわれは……昨年とならび、八強入りを果たした」
この言葉に、山口が「いよっ」と掛け声を発し、拍手が沸き起こる。それが収まってから、谷口は話を続けた。
「今日ここに来たのは……二、三年生には、昨年の感がいを思い出してもらうためだ。そして新たに加わった一年生とともに、いま一度考えてほしい」
しばし間を置き、そして告げる。
「ここで満足するのか。それとも、まだまだ先へ進んでいくのか」
重みのある言葉に、この場にいる誰もが表情を引き締める。
「……そこで、だ」
やや声を柔らかくして、谷口はさらに付け加える。
「今日はこの場で、解散とする」
ナイン達は「ええっ」と、戸惑いの声を上げた。
同日。秋の準優勝校・明善は、こちらも実力校の大島工業と対戦した。
接戦の下馬評だったが、フタを開けてみれば一方的な展開となり、明善がなんと七対〇の大勝をおさめる。この結果、準々決勝にて墨高と明善の組み合わせが決まった。
いっぽう――墨高と都大会優勝を争う強ごう校も、順調に勝ち進んでいた。
優勝候補の筆頭・谷原は、打線がすさまじい破壊力を見せつける。なんと三試合連続の二けた得点、すべてコールド勝ちである。
また今大会はノーシードからの巻き返しをねらう東実も、安定した戦いぶり。打力こそ谷原におとるものの、佐野と倉田の二枚看板が活やくし、ここまで五試合をすべて完封。うち二試合はノーヒットノーランと、こちらもまったく他校をよせつけず。
こうして白熱の東京都大会は、いよいよ佳境へと差しかかっていくのだった。
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