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第32話 重圧に負けるな!の巻
1.明善の特徴と対策
月曜日。この翌日より、学校は夏休みに入る。チャイムとともに下校していく生徒達の足取りが、いつになく軽やかである。
もっとも、二日後の準々決勝をひかえる墨高ナインに、浮ついた気分はない。グラウンドでは、いつもどおり練習が始められる。
ところがその中に、キャプテン谷口ら数名の姿がなかった……
野球部の部室には、キャプテン谷口、倉橋、そして半田が残る。四人は長机を囲み、それぞれ椅子に腰掛けていた。机上には、資料の紙が数枚置かれている。
「……やはりそうか」
倉橋が、小さくかぶりを振った。
「おかしいと思ってたよ。それまでの二戦、あの明善にしちゃ、攻撃がオーソドックスすぎるように感じたからな。やはり、足を使ってくるのか」
ええ、と半田がうなずく。
「ぼくも自分が見た試合と、きのう新聞部の人がつけてくれたスコアを見比べて、びっくりしました。明らかに盗塁やエンドランが増えてたので」
机上の資料は、明善高の過去三戦のスコアと、それらを半田が比較して見つけ出した相違と注意点のメモである。
「しかし、あやうく引っかかるところだった」
実感を込めて、谷口は言った。
「きっと二戦目までは、力の差がある相手だったから、手の内を隠してたんだろう」
もしくは……と、倉橋が苦笑いする。
「単純に打った方が、今までの相手には効果的だったからか」
「うむ、それもありうる。なにせ狡かつなチームだ」
谷口も自ずと険しい顔つきになる。
「昨年も……初めて八強に進んだわれわれを見くびらず、しっかり研究して、最後までスキを見せなかった」
「そう考えりゃ、先に大島工とぶつかってくれたのは、ラッキーだったな。いかに明善でも、シード校クラスの相手に、出し惜しみする余裕はなかったか」
倉橋が一つ吐息をつく。半田が「でも......」と、目を見上げる。
「キャプテンが、新聞部に協力を頼んでなかったらと思うと、ゾッとします。明善はうちと別会場で、同じ時間のゲームでしたから。偵さつには行けなかったですし」
「うむ。彼らが手伝ってくれて、助かったよ」
谷口は素直に認めた。
「……そうなると、谷口」
腕組みしつつ、倉橋が問うてくる。
「ここ数日は、バッティングに時間を多く割いてたが、少し守備練習を増やした方がよくないか。なにを仕かけられても、慌てず対応できるようにしとかねえと」
同感だ、とキャプテンはうなずく。
「向こうは打力もありそうだし。このうえ守備をかき回されちゃ、話にならないからな」
一通り話をまとめ、三人は外へ出てスパイクに履き替えた。すでに他のナイン達は、円になりストレッチを始めている。その時「ところでよ」と、倉橋が言った。
「きのう午後を休みにした分、少しは連中、ふっきれてくれてりゃいいんだが」
そうだな、と谷口は首肯する。
「もう迷ったり、恐れたりしてる場合じゃないんだ」
自分に言い聞かせるよう、つぶやいた。そしてグラウンドへ駆け出す。
「……スマンスマン、遅くなってしまって」
三人は急いで、ナイン達の輪に加わる。横井が「おう」と応えた。
「打ち合わせは、もういいのか?」
「うむ。その内容を、これから伝えるつもりだ」
さっそく「みんな聞いてくれ」と、全員に向き直る。
「いま三人で話したんだが、明善は昨年と同じく、やはり足をせっきょく的に使ってくるチームのようだ。そこで引っかき回されないよう、今日は守備練習を長くしようと思うが」
おや、と対口は思った。ナイン達の反応が薄い。皆うなずきつつ話を聞いてくれているものの、誰もが黙したままだ。
「……みんな、どうした?」
尋ねてみる。
「なにか意見があったら、言ってくれよ」
キャプテンの一言を受け、横井が「どうだ?」と他のメンバーに投げかける。
「あのう……」
口を開いたのは丸井だった。
「ずっと先輩が言うのを、まってるのですが」
「へっ、そうだったの」
横井が間の抜けた声を発した。
「わりー、気いつかってくれてたのか。それじゃ俺から。ええと……なんの話だっけ」
頭をかく三年生に、周囲はプククと吹き出す。
「で、ですから……」
加藤が苦笑い混じりに言った。
「明善対さくとして、今日は守備練習の時間を長くしようと」
「あ、そーいうことね。いいんでないの」
軽い口調に、ナイン達は「あーあー」とずっこける。
「む。俺なにか、ヘンなこと言ったか」
いやべつに、と谷口は首を横に振った。
「みんなはどう思う?」
改めて問いかけると、ナイン達はようやく話し出す。
「まったく賛成です」
やはり口火を切ったのは、イガラシだ。
「力で押してくるチームより、むしろ嫌な感じがします。ピッチャーが打たれるだけなら、あきらめはつきますけど。かき回されて守備まで崩れたら、チームとして立て直しが効かなくなってしまいます」
たしかにな、と丸井が同意する。
「とくに今大会、うちはほぼノーエラーできてる。こういう時、ひとたび崩れちまうと、案外ズルズルいってしまいがちだもの」
発言すると、丸井は開脚し上体を前へと傾ける。隣の倉橋が「前屈なら手伝うぜ」と、思いきり背中を押す。グエエとうめき声が漏れた。
井口も珍しく、生真面目な表情で言った。
「やるならけん制とか、細かいプレーも確認しときたいス。そういうので、ランナーのスタートを遅らせられるんで」
「ほう、分かってるじゃないか」
うなずきつつ、谷口は言った。
「もちろん、けん制のタイミングも確認する。先発予定の松川だけじゃなく、ピッチャー陣は全員させるから、そのつもりだな」
後輩は「はい」と、思いのほか素直に返事した。
こうしてナイン達は、しばし意見を交わす。その様子に、谷口は「うーむ」と小さく溜息をつく。微かな違和感を感じ取っていた。
発言はいいんだが……みんなどうも、表情がカタいな。
2.チーム状態
キャッチボールの後、練習メニューの順番が入れ替わる。シートノックより先に、バッティング練習が始められた。
この日は井口がマウンドに上がり、キャッチャーは谷口が務める。正捕手の倉橋は、松川の調整に付き合うため、ブルペンに移動していた。また昨日までと同様、打席に立つ者以外は素振りかトスバッティング、球拾いのいずれかに別れる。
「うっ」
右打席の横井が、うめくような声を発した。バシッと谷口のミットが鳴る。
「……ボール!」
コールした後、谷口は「ナイス選球」と一声掛けた。
「アウトコール低めのきわどいコースだったが、ちゃんと見きわめられたじゃないか」
「ま、この練習は一月近く続けてるし」
横井は苦笑い混じりに言った。
「けど……やはり三メートルも近づくと、まるで弾丸みたいだ。今日は真っすぐだけと分かってるが、これに変化球も混ぜられたら」
「なーに。まだ日はあるし、焦ることはないさ」
明るく言って、再びミットを構える。
ガッ、と鈍い打球音がした。キャッチャー後方へ、フライが上がる。谷口はマスクを脱いで数メートル下がり、捕球した。
「くそう、ど真ん中だったのに。まだ振り遅れてやがる」
横井が悔しげに唇を噛む。
「へえ。やはりだんだん、目が慣れてきてるじゃないか」
「む……けど、やっぱり打てなくちゃ」
幾分ムキになる相手に、谷口は「それなら」と助言する。
「もっと肩の力を抜くんだ。そんなにリキんでちゃ、打てるものも打てなくなるぞ」
あっ、と横井は口を半開きにした。
それから数球。バットには当たるものの、結局捉えた打球は一つもなし。最後のボールも鈍いゴロとなり、井口が難なく捕球する。
「ダメかぁ……」
横井はかぶりを振りつつ、グラブを抱えて球拾いへと向かう。
「……ううむ、どうしたものか」
マスクを被り直しながら、谷口はひそかにつぶやいた。
経験豊富な横井が、練習でリキんでしまうとは。彼に限らず、今日はどうも力の入りすぎている者が多い。やはり半日の休養くらいじゃ、切りかえは難しかったか。
「おねがいしますっ」
ほどなくイガラシが、打席に入ってくる。
「うむ。ストライク十球、すべて真っすぐだ。もちろんボールも混ぜていく」
後輩は「ええ」とうなずき、マウンド上を見やる。
「直球だけってのは、歯応えなさそうですが」
そう事もなげに言った。井口が、露骨にムッとする。
「言ってくれるでねぇの。しかし打つ前から、あまり大口をたたくのはどうかな」
「おまえこそ、へらず口はおさえてからにしろ」
「なっ。こんにゃろ、いい加減に」
さすがに「こ、これ」と二人をたしなめる。それでも闘志満々の一年生達を、谷口は頼もしく思った。
初球。井口の速球が、ど真ん中に飛び込んでくる。
イガラシは待ってましたとばかりに、躊躇なくバットを振り抜いた。直後、ライナー性の打球がセンター方向へ飛んでいく。
「いったぞ外野!」
谷口の声を聴くまでもなく、外野にいた数人が背走する。しかしボールは、そのままグラウンド奥の塀にぶち当たった。
「……せ、センターオーバー」
ぼう然と、井口は吐息をつく。
「バカめ。ど真ん中なんかに、投げるからだ」
またもイガラシが、挑発的に言った。
「いぜんも言ったろう。おまえのタマは、こちとら見慣れてんだ。そもそも力勝負しか、能がないのじゃあるまい」
「うぐっ。き、きさま言わせておけば……」
ほう、と谷口は感心した。
なんだかんだイガラシは、井口の良さを伸ばそうとしてくれてるな。井口の方も、フテくされるでもなく、堂々とやり合ってる。こうして二人とも刺激し合って、互いに伸びてくれれば、チームにとっても大きい。
「……なぁ二人とも」
とはいえ軽く突っ込んでおく。
「兄弟ゲンカは、そのくらいにしないか」
「そ、そんなキャプテン」
イガラシが珍しく、頬を赤らめた。
「兄弟だなんて……からかわないでくださいよ」
いつになく可愛らしい反応だ。マウンド上では、井口が「プッ」と吹き出す。
打席に戻ると、イガラシはまた射貫くような眼差しになる。井口も真剣な顔に戻り、すぐさま投球動作を始めた。
ワインドアップモーションから、続けてストライクの真っすぐ。ただし今度は、インコース高めの際どいコースである。
ガッ。鈍い音を立て、ボールは後方のネットに当たった。
「……くっ」
痺れたらしく、イガラシは左手を二、三度振る。
「どしたいイガラシ。振り遅れてるぞ」
すかさず井口がやり返す。
「ふん、やればできるじゃねーか。もっとも……」
口元に笑みを浮かべ、イガラシはすぐにバットを構える。
「こんな近くじゃ、コースに決めて当然だがな。さ、どんどん投げろ」
「けっ。この頃かわいげのなさに、磨きがかかってきやがった」
愚痴りながらも、井口は全力投球を続けた。さしものイガラシも、なかなか前には飛ばせない。それでもすべてバットに当て、食い下がる。
「ようし、つぎがラストだ」
谷口が一声掛けると、後輩二人は「はいっ」と声を揃える。
ラストボールは、二球目と同じインコース高めの真っすぐ。イガラシは咄嗟に肘を畳み、コンパクトに振り抜いた。
パシッと快音が鳴る。まるで閃光のような打球が、ほんの二、三秒後にはまたも外野の塀を直撃していた。
「……くぅ、やられた」
マウンド上。井口はがっくりと、片膝をつく。
「そこまで。つぎのバッター!」
こうしてバッティング練習が進められていく。イガラシに続き、加藤や島田らレギュラー陣が次々と立つ。しかし、なかなか快音が聴かれない。
「もっと力を抜くんだ。手首をしっかり返せ」
つい苦言が増えてしまう。イガラシの後続が、どうもピリッとしない。さっきから同じことばかり言ってるな、と谷口は苦笑いした。
「みなさん、いったいどうしたんです?」
とうとう井口が首を傾げる。
「まえにやった時は、けっこう捉えてたのに。もう感覚を忘れちまったんスか」
井口、と呼び掛ける。
「は、はい」
「次戦だが、ひょっとして途中出場があるかもしれん。難しい試合になるだろうし、おまえの打力をアテにしたい場面が、きっと出てくる。準備しておいてくれ」
「分かりましたっ」
張り切る後輩を横目に、谷口はフウと吐息をつく。
守備に不安のある井口は、なるべく投手とバッターに専念させたいが。この様子じゃ、そうも言ってられないからな。ほかの者が復調してくれればいいが……
「……おねがいします」
そして一年生の久保が、右打席に入ってくる。こちらも表情が硬い。
「久保。ちょっと深呼吸して、力を抜くんだ」
「あ、はい」
言われた通り、久保は二、三度深呼吸した。それからバットを短く構える。
一球目。井口は、ほぼど真ん中に投じてきた。久保はスイングするが、掠りもせず。バシッと谷口のミットが鳴る。
「しまった……」
一旦打席を外し、数回素振りしてみる。どうやらスイングがしっくりこないらしく、おかしいな……と首を傾げる。
「前にポイントがずれてきてるぞ」
谷口は努めて、簡潔に助言した。
「振り遅れていいぐらいのつもりで、もっと引きつけろ」
「わ、分かりました」
二球目も、ほぼ同じコース。今度は辛うじて当てたものの、ボールは真後ろへ飛ぶ。
「さっきよりタイミングは合ってきてる。あとは、もう少し力を抜くんだ」
「はいっ」
続く三球目は、アウトコース低め。これは僅かに外れる。久保はきちんと見極めた。
選球眼はいいんだがな。打ちにいこうとすると、この頃どうもリキんでしまう。ほんらいは、しなかやなスイングのできる男なんだが。む……まてよ。
ふと思い至り、問うてみる。
「久保。高校と中学の野球は、やはりちがうか」
「え……ええ、そりゃだいぶ」
戸惑いつつ、相手は答える。
「どこがちがうんだ?」
「そうですね、いろいろありますが……やはり変化球です」
どうして、と谷口は尋ね返す。
「青葉の佐野や、全国大会で当たった投手も、かなりキレのある変化球を放ってたろう。俺もテレビで見たが、おまえはちゃんと対応してたじゃないか」
「そうなんですけど……やはりスピードと球種の数が、だいぶちがってて」
久保は苦笑いした。
「中学の頃のように、なかなかフルスイングできないんですよ」
なるほど、と腑に落ちる。
そういえば俺も……川北の小野田さんや、専修館の百瀬さんの変化球には、だいぶ手を焼いたものな。久保は器用なだけに、よく見て合わせようと、つい慎重になりすぎてしまうのかもしれん。
「久保。さっきも言ったが、空振りしていいんだ。ストライクは三球ある」
マスクを被り直し、谷口はさらに付け加えた。
「よく見て合わせようとするのは、もちろん大事だが、フォームを崩してまでやるものじゃない。まずは自分の形で振ることだ」
「は、はいっ」
久保も打席に戻り、再びバットを構える。四球目はサード方向へフライを打ち上げたが、続く五球目は速いゴロを弾き返す。そして六球目、やっとライナーが外野へ飛ぶ。
「む。いいぞ、その調子だ」
キャプテンは、ようやく目を細めた。
3.シートノック
バッティング練習の後、ナイン達はすぐにシートノックの準備を始めた。一年生数人がベースを並べ、他の者はトンボ掛けに回る。
やはりおかしいぞ、と谷口は胸の内につぶやく。
いつもと比べ、明らかに覇気がない。普段は快活な横井や加藤さえ、うつむき加減で押し黙っていた。
「……あ、あのぅ。みなさーん」
さすがに堪りかねたのか、丸井が周囲に呼び掛ける。
「試合まで、あと二日しかありませんし。もちっと元気出していきましょうよ!」
「そ、そうだよな」
応えたのは、三年生の横井だった。
「スマン丸井。こういうのは上級生が、率先してやらなきゃいけなかったものを」
「それはいいんスけど。ひょっとして、緊張してるんです?」
まあな、と苦笑い混じりに答える。
「経験豊富なおまえには、ちと理解できないかもしれんがよ。なにせ俺達、ハッキリ甲子園を目標に定めたことなんて、いままでなかったからな」
「え、ええ」
「昨年と同じ、準々決勝までたどり着いたはいいが……この先が見えなくてよ」
「なるほど。ま、気持ちは分からなくもありませんがね」
共感を示しつつも、丸井は言った。
「しかしそんなの、いままでと同じでしょう。一戦必勝でいいじゃありませんか」
「カンタンに言ってくれるな」
横井が小さくかぶりを振る。
「忘れたのか。八強以上ともなれば……相手のレベルが上がるだけじゃなく、こっちも研究されるんだ。格下だからと、相手が油断することもないだろうし」
「こら横井」
近くにいた戸室が、同級生をたしなめる。
「盛り上げるのは上級生の役目とか言ったくせに。けっきょく暗くして、どーすんだよ」
横井は「うるせー」とムキになる。
「俺はな、現実の話をしてんだよ」
まぁまぁ二人とも、と丸井が取りなす。
「モノは考えようです。そこまでベストエイトの厳しさが分かってるんですから、ちゃんと準備を怠りさえしなきゃ、いい試合ができると思いますがね」
ははっ、と戸室が笑う。
「よほど丸井の方が、ちゃんと分かってるぜ」
「たしかに……って戸室、俺への当てつけか?」
二人がまた睨み合う。丸井は「あちゃー」と、頭を掻いた。
ナイン達を遠巻きに眺めながら、谷口はホームベース付近を均す。そして「やはり、そういうことか……」と、ひそかに溜息をつく。
横井の言ったように、うちはここから勝ち進んだことがないんだ。みんなが重圧を感じてしまうのも、ムリはないが……力を出せずに終わるのだけは避けたい。なにかもう一つ、手を打つべきだろうか。
そうして谷口が思案している時だった。
「キャプテン!」
ふいに呼ばれる。顔を上げると、一年生の根岸が駆け寄ってきた。
「なんだい根岸。倉橋と松川に、休憩を取るよう伝言してきてくれたのか?」
「ええ……そう伝えたんですけど、様子がヘンなんです」
谷口は「分かった」とうなずき、ブルペンへと向かう。
レフト線の外側。土にプレートを埋め込んだだけの簡素なブルペンでは、倉橋と松川が何ごとか話し込んでいる。
「どうしたんだ、二人とも」
「おう谷口。ちょうどよかった」
こちらに顔を向け、倉橋は苦笑いを浮かべた。
「松川がどうも、自分の投球に納得いかないそうだ」
傍らで、その松川が渋い顔になっている。
「そうなのか?」
「ええ。どうもフォームが、しっくりきてないような」
後輩の返答に「そりゃそうだよ」と、倉橋が呆れて言った。
「疲れて足が上がらなくなってるんだ。なにせ今日だけで、もう二百球以上も投げてるからな。しかもこのところ、毎日そんな具合だし」
「む、それはやりすぎだな」
谷口がそう言うと、松川はバツの悪そうに下を向く。
「ボールじたいはどうだ?」
「まったく問題ないよ」
正捕手は即答した。
「もっともピッチャーにしか分からない感覚というのがあるから、俺もつき合ってはみたが。松川、そろそろいいんじゃねぇか?」
「は、はぁ……」
後輩は曖昧な返事になる。
「いいか松川」
相手と向き合い、谷口は諭すように言った。
「調整というのは、なにも肩をあたためるばかりだけじゃない。はやる気持ちをおさえて、本番には落ち着いて臨めるように、心を整えることも含まれるんだ。あせりに身をまかせてしまうようじゃ、意味がないぞ」
少し口調を明るくして、さらに付け加える。
「おまえはすでに、西将と川北の強打を封じたんだ。なにも恐れることはない」
「……分かりました」
松川は短く返事した。こわばっていた表情が、幾らかほぐれる。
しばし休憩の後、予定していたシートノックが始められた。
いつものようにキャプテン谷口が、ノックバットを振るう。またブルペンにいた倉橋と松川も、それぞれポジションに着く。
「まず内野は一塁へ、外野はホームへ投げる。ただし外野は、打球によって中継に返すか、直接バックホームするか判断しろ。それとしっかり足を動かせ。いいなっ」
谷口の掛け声に、ナイン達は「はいっ」と応えた。
「ようし。では、サード!」
こうしてポジションごとに打ち分けていく。ナイン達はいつもと変わらず、軽快なフィールディングを見せた。
「……つぎ、ライトっ」
谷口は一塁線寄りに、速いゴロを放った。心配していた久保だったが、素早く回り込み捕球すると、本塁へワンバウンドのストライク返球。
「ナイスライト!」
中継の丸井が、一声掛ける。久保は照れるのか「はい」とだけ返事した。
「動きはよさそうだな」
傍らで、倉橋が満足げに言った。
「これなら明後日も、ベストコンディションでのぞめそうだ」
「うむ。少なくとも昨年のように、体力で負けることはないだろう」
やがて基本のノックが終わり、いよいよ実戦練習へと移る。
「まずはワンアウト一・三塁からだ」
こう告げて、谷口は「高橋」と駿足の一年生呼んだ。
「スマンが松本は一塁、高橋は三塁ランナーをたのむ」
キャプテンの指示に、二人は「はいっ」「わかりました」とそれぞれベースに入る。
「では……始めるぞ」
一球目はスクイズを想定し、三塁線へ緩く転がした。迷いなく高橋がスタートを切る。サードにつく岡村はダッシュし、本塁へグラブトス。
しかしタイミングが遅れ、高橋は悠々セーフとなる。
「岡村、ホームへ無造作に投げるんじゃない」
すかさず谷口は指摘した。
「今のはうまく投げても、セーフのタイミングだと分かるだろ」
「あ、はい」
「ランナーが一塁にいることを忘れるな。明善は、少しでもスキを見つけたら、どんどんつぎの塁をねらってくるぞ。ほれ、三塁を見てみろ」
「え……あっ」
岡村は「しまった」とつぶやく。ランナーの高橋は、一気に三塁を陥れていた。
「バントエンドランだ」
キャプテンの隣で、倉橋が補足する。
「内野は耳かっぽじいて聞くんだぞ。相手がただのスクイズじゃなく、バントエンドランをかけてきた場合、もし送球がそれれば……二点入っちまうぞ」
はいっ、と内野陣は声を揃えた。
「それじゃあ、もう一度いくぞ」
谷口は再び、三塁線へ緩く転がす。岡村は鋭いダッシュを見せたが、やはりホームは間に合わない。
「セカンっ」
ふいに岡村が、振り向きざまに二塁へ送球した。すると飛び出していた高橋が、慌てて頭から還る。その手先を、丸井のグラブが叩く。
岡村が「よしっ」と、右こぶしを軽く突き上げる。
「ナイスプレーよ、岡村!」
好判断の一年生を、今度は讃える。
「ランナー心理をうまく突いたな。もしアウトにできなくても、つぎから相手は慎重になるはずだ。今の岡村のプレー、みんなも頭に入れておくんだぞ」
キャプテンの掛け声に、ナイン達は「おうよっ」と応えた。
しばらくノックを続けた後、谷口はバットを置く。そして自らサードに入り、三塁ランナーを高橋から岡村に交代。いっぽう高橋はレフト、さらに松川をマウンドへ向かわせる。
「松川、少し肩をあたためてくれ。じっさいに投げてもらう」
「分かりました」
松川が倉橋相手に投げ始めると、谷口は他のナインに向き直る。
「つぎは同じく一・三塁で、ホームスチールの対さくをする。もちろん試合展開によってランナーを殺すのか、それとも点をやりたくないのかで、守り方が変わってくる」
ええ、とイガラシがうなずく。
「迷いなく動けるように、どうするのか確認しなきゃいけませんね」
「うむ。試合ではタイムを取って、しっかり意思統一を図ろう」
ほどなく、松川が「終わりました」と告げる。
「ようし……まずは点をやらない想定で、始めよう。松川、いつでもいいぞ」
「はいっ」
セットポジションにつくと、松川は一塁へ牽制球を投じた。
「おっと」
ランナーの松本が飛び出し、一・二塁間に挟まれる。松本がのらりくらりと逃げている間、三塁ランナーの高橋は、じわじわリードを広げていく。
「へいっ」
ふいに丸井が、三塁へ投じた。すでに谷口がベースカバーに入っている。岡村は「うわっ」と、身をひるがえす。
バシッと、谷口のグラブが鳴った。岡村は還りきれず、タッチアウトとなる。
「ナイス丸井。いまのが、お手本のプレーだ」
ありがとうございますっ、と丸井は一礼する。
「む。いま丸井がやったように、点をやりたくない時の挟殺プレーは、しっかり三塁ランナーの動きを注視しておくんだ」
そうですね、とファースト加藤が相槌を打つ。
「ぎゃくに点をやっていい時は、もし三塁ランナーがスタートしても、かまわず一塁ランナーを殺せばいいと」
「うむ、そういうことだ」
谷口は首肯した。
「……し、しかしキャプテン」
ファーストに加藤と交替で入る井口が、おずおずと発言する。
「ホームスチールは偽装で、相手がじつは二・三塁にしたいだけってことも」
「ほう、さすがだな井口」
不遜に思われがちな後輩を、谷口は素直に褒めた。
「昨年の地区決勝で、イガラシ達を苦しめただけのことはある」
「ど、ドウモ」
褒められるとは思わなかったらしく、井口は戸惑った顔になる。
「そういう、とっさの判断が必要な時は、なるべく俺か倉橋が指示する」
返答してから、さらに付け加える。
「また状況によっては、むしろ二・三塁にした方が、好都合だったりする。たとえばクリーンアップを迎えた時は、塁を埋めるという選択もあるからな」
「な、なるほど」
具体的な説明に、さしもの井口も納得したようだ。
「それじゃあ……つぎは、ランナーが走った時だ」
谷口はそう告げて、三塁ランナーの岡村に指示する。
「岡村。倉橋が二塁へ送球すると同時に、スタートを切ってくれ」
「分かりました」
再び松川が、セットポジションから投球する。まず一塁ランナーの松本がスタートし、キャッチャー倉橋が二塁へ送球した。すぐに、岡村がホームへ突進する。
「キャッチャー!」
二塁ベースカバーのイガラシが、送球をカットしバックホームした。本塁上のクロスプレーとなり、岡村またもタッチアウト。
「ひょえぇっ。岡村のやつ、なんつう足だ」
丸井が目を見開く。
「あんなすばやくバックホームしても、ぎりぎりかよ」
ええ、とイガラシも同意する。
「明善に同じくらい駿足のランナーがいれば、ちょっとでも遅れたら、カンタンに点をやってしまいますね」
「そういうことだ」
谷口は深く首肯した。
「みんなも分かってきたろう。かき回されないためには、少しでも判断を早くすることだ。自然に体が動くようになるまで、この練習まだまだ続けるぞ。いいなっ」
ナイン達は「はいっ」と、いつものように声を揃える。
4.父の助言
夕方六時。二時間を超えるシートノックを終えたナイン達は、一日の仕上げとしてベースランニングに取り組む。
「最後だからって、雑な走り方するんじゃないぞっ」
列の先頭で息を弾ませながら、谷口は他のメンバーに檄を飛ばした。
「とくに一塁から二塁へ向かう時は、一塁ベース手前で軽く外にふくらむんだ。引っかかってしまう者はよく見ておけ!」
そう言って、自らも走り出す。
「ははっ。キャプテンたら、体力あること」
加藤が半ば呆れ顔で言った。その背後で、島田が「む」とうなずく。
「ああいう姿を見せられたら、俺達もがんばらにゃって気になるよな」
それから十数分後。ようやくラストの一本を走り終え、その日のメニューはすべて消化された。ナイン達は「ひー終わった」「もうダメ……」と、その場に寝転がったり座り込んだりしてしまう。
体育座りの姿勢で、谷口はしばし呼吸を整える。
「……さて、グラウンド整備しなくちゃ」
そして立ち上がり、他の数人とグラウンド脇の用具置き場へ向かう。籠のトンボを一つ取り、グラウンドへ戻ろうとした時、ふいに「谷口さん」と声を掛けられた。
「え……や、やぁ」
振り向くと、新聞部の眼鏡の男子生徒が立っていた。首にカメラをぶら提げている。
「すみません。練習風景、ちょっと撮らせていただきましたので」
「それでわざわざ……あ、どうぞこっちに」
男子生徒を近くのベンチに案内し、二人で座る。
「またどこかの取材に? たしか明後日まで、試合はないはずだけど」
「ええ。今日はベストエイトに残ってるチームの、練習を見てきました」
へぇっ、と思わず声を上げた。
「だいぶ力を入れてるんだね。それで、どこの練習を?」
「東実と専修館、ほか何校かです。あ……申し訳ない、明善はちょっと遠くて」
「かまわないさ。明善については、十分すぎるほど情報をもらってるし……それと」
苦笑い混じりに、谷口は言った。
「そろそろ敬語はやめてくれないか。君とは、同級生だったろう」
「ハハ。じゃあ、そうさせてもらうよ」
相手は朗らかに笑う。
「で……ほかのチームは、どんな様子だったかい?」
「む。どこもかなり、ピリピリした雰囲気だったな」
そうなのか、と思わず尋ね返す。意外に感じたのだ。
「こっちも驚いたよ。監督やキャプテンがずっと怒鳴ってたり。甲子園をねらうチームは、もっと余裕綽々なのかと思ってたから」
「なるほど……いくら名門校でも、重圧とは無縁でないってことか」
応えてから、谷口はふと気付く。
名門校の選手でも、重圧を感じてしまうんだ。うちのナイン達がそうなってしまうのも当然だな。ここまで来たのも、なにせ初めてなんだし。
二人の眼前。疲れているはずのナイン達は、いつものように用具を運び出し、ほどなく個人練習を始めた。
「……がんばるなぁ、野球部」
傍らで、男子生徒がしみじみつぶやく。谷口は「ああ」と相槌を打った。
その日――ようやく谷口が帰宅の途についたのは、夜八時を回る頃だった。
「ただいまぁ」
玄関の戸を開くと、カレーの匂いが漂ってくる。すぐに正面の襖が開き、両親が「おかえり」と顔を出した。
「今日も遅かったね。また野球かい?」
母が僅かながら、眉を顰める。谷口は「え、まぁ……」と言葉を濁した。先日の定期テストで成績を下げ、小言を喰らったばかりだ。
「おうタカオ、いま帰ったのか」
テレビの手前で、じんべえ姿の父が晩酌を始めていた。
「ただいま父ちゃん。悪いね、遅くなっちゃって」
「なーに、つぎの試合が近いんだろ。せがれが元気にがんばってりゃ、こちとらそれでいいのよ……あ、カァちゃん。熱燗もう一杯」
「はぁ? しょーがないねぇ」
ブツブツ言いながらも、母が徳利を盆に乗せる。谷口はプッと吹き出した。
食卓には、ご飯の入った大皿とカレー鍋。中央には、レタスサラダと切られたスイカ。なかなか豪勢である。
母は立ち上がると、こちらを見やる。
「見てのとおり、もう夕飯のしたくはできてるから。制服を着替えておいで」
思いのほか穏やかな口調に、谷口は安堵した。
「分かったよ」
一旦自室へ行き、部屋着に着替えてから座敷の居間へと戻る。
「おまたせ」
食卓の前に座ると、母がカレーをよそってくれた。
「さ、熱いうちにおあがり」
「ああ。いただきまーす」
スプーンで掬い、一口頬張る。
「どうだい、味の方は」
「む、おいしいよ。けど母ちゃん……どうしたの。なにかのお祝いかい?」
「なにって、明日から夏休みだからね。ひとまずご苦労さんってことじゃないの」
「そ、そう」
元気づけようとしてくれたのかな、胸の内につぶやく。何だか悪い気がした。
食事の最中も、頭に浮かぶのは野球のことばかりだった。明日の練習メニュー、次戦の選手起用、戦術。なによりチーム状態。ついあれこれ考えてしまう。
「……タカ。おいタカ!」
何度も呼ばれていることに気付き、はっとする。顔を上げると、父が訝しげな目を向けていた。その隣で、母は溜息をつく。
「やだよぉ、この子は。急に黙り込んだりしちゃって」
「あ、ゴメン」
「どうせまた、野球のこと考えてたんだろうけど」
完全に図星である。ハハ、と苦笑いした。
「けどタカ。そうやって思いつめるのは、体に毒だぞ」
そう言って、父はガハハと笑い声を立てる。
「父ちゃんを見ろ。悩むことなんてまるでねぇから、このとおり丈夫だろ」
「……アンタはもちっと悩んで、オツムをよくした方がいいんでないの」
父がぎろっと睨むのを、母は軽くあしらう。
「まったく。けど……この人が言うのも、一理あるね」
正座し直して、母は一つ吐息をつく。
「いまさら親に悩みなんて、と思うかもしれんけど。そうやって思いつめるくらいなら、たまには話したらどうだい」
「……うむ、それもそうだね」
黙ってたら余計に心配かけちゃいそうだし……と、打ち明けることにした。
「じつは、その……」
こちらが一通り話し終えると、父は「ふむふむ」と考え込む顔になる。
「要するに、みんなが強敵と戦う重圧で、ガチガチになってるってことか」
「そうなんだ。ハタから見れば、十分チカラをつけてきてるし、もっと自信を持ってほしいのだけれど」
父はこちらに向き直ると、少し笑みを浮かべた。
「オメーの参考になるか、分からねぇけどよ……」
こう切り出し、話し始める。
「知ってのとおり、父ちゃんは大工だ。いまじゃ若いやつらを従えて、現場の責任者なんてのを任されてる。オメーらの野球でいうキャプテンだな。そんで……年季が入ってくると、だんだん責任の重さも増してくる。こうなると、やはりビビッてしまうやつもいるわけよ」
へぇ……と、谷口は興味深く聞いた。
「それで父ちゃんは、もしビビッてしまう人がいたら、どうするんだい?」
「なーんもしねぇ、ほっとく」
あっさり父は答える。
「ほ、ほっとくって……」
「ハハ。こう言うと、父ちゃんが冷てぇように聞こえるかもしれんがな」
そう言って、父は少し真顔になる。
「上の者からすりゃ……仕事を任せるってことは、ソイツができる力量があると見て、任せるってこった。できないやつにゃ、始めからさせやしねぇ。あとはもう、ソイツが自信を持つのを待つしかねぇんだな」
「そ、それじゃ。上の者にできることは……なにもないってことかい?」
いーや、と父は首を横に振る。
「もちろん、やるべきことはあるぞ。なにも言わない代わりに、しっかり仕事してる姿を見せるのよ。ほら、よく『背中で語る』って言うだろ? アレさ」
「な、なるほど。背中で語る……かぁ」
谷口は、父の言葉を反すうしてみる。
「おうよ。父ちゃん野球のことは、よく知らねぇが。ベストエイトまできてるってことは、もう十分な力量はあるつうこった」
そう言って、父はまた微笑む。
「いまオメーにできることは、仲間を信じて見守ること。それにキャプテンとして恥ずかしくないプレーをやり続けること。この二つに尽きるんでねぇか」
「……わかったよ」
深くうなずき、谷口は父と目を見合わせる。
「ありがとう、父ちゃん」
「よ、よせやい。俺はただ、思ったことを言ったまでだ」
父は照れた顔で、お猪口を口に運ぶ。
「……ま、あたしゃムズカシイことは、よく分からないけどさ」
欠伸を一つして、母もフフと笑みを浮かべた。
「母ちゃんならこう言うね。よく食べて、よく寝ること。そうすりゃ頭もすっきりして、よい知恵も浮かんでくるってもんだ。ほれ」
母はそう言って、カレー鍋の蓋を開ける。
「おかわりはたくさんあるよ。大試合が近いってんなら、しっかり栄養をつけなきゃ」
「ああ。母ちゃんも、ありがとう」
谷口が二杯目のカレーをよそっていると、父が「コホン」と一つ咳払いした。そして、すっくと立ち上がる。
「ええ、それでは……タカオと墨高野球部の必勝を祈願してぇ。電線音頭ぉ!」
あー、と谷口はずっこける。
「は。電線に、スンズメが三羽とま、とま……」
ふいに父が静かになった。谷口がふと横を見ると、母が目を三角にしている。
「こんのヨッパライめ、いい加減にしな! 近所迷惑ってことが分からないのかいっ」
「……ご、ごめんちゃい」
両親のいつもの掛け合いに、谷口はクスと笑った。
二日後――いよいよ墨高ナインは、明善との準々決勝に臨むこととなったのである。
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