【目次】
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第34話 取りもどせ!墨谷ガッツの巻
1.反撃なるか!?
準々決勝第二試合・墨谷と明善の一戦は、波乱の立ち上がりとなった。
一回表。墨高は先発松川のアクシデントもあり、明善の上位打線に三本の長打を浴びるなど、一挙三点を失う。辛うじて四失点目は防いだものの、厳しい序盤戦である。
その裏。反撃したい墨高の攻撃は、一番丸井からの打順だ。
マウンド上。明善の先発天野が、試合前の投球練習を行う。
「スピードは驚くほどじゃないが……」
こちらは三塁側ベンチ。倉橋が、一つ吐息をつく。
「まえのエースと同様、かなりのクセ球だぜ」
うむ、と戸室がうなずく。
「ただ昨年のエースより、ボールじたいは軽そうだな。ミートすりゃ飛びそうだが」
「カンタンに言わないでくださいよ」
先頭打者の丸井がヘルメットを被りながら、不安げに言った。
「あれだけ球種が多いんじゃ、どれに絞ったらいいのか」
「そう心配することはないさ」
谷口は微笑みかけ、端的に助言する。
「ここ数日、片瀬を相手にずっと対さくしたじゃないか」
「え、ああ。前寄りに立って、曲がりきるまえに叩くっていう」
「うむ。それとバットを短く持って、しっかり振り切ることを忘れるな」
「は、はいっ」
返事した丸井の顔に、いつもの気合が戻る。
グラウンド上。練習球のラストを捕球した小室は、すかさず二塁ベース上へ送球した。まるで矢のようなボールの軌道に、スタンドからどよめきが起こる。
「しまっていこうよ!」
呼び掛けると、先輩達は「おうっ」と力強く応える。
しばし小室はうつむき加減になり、小さく溜息をついた。まさか墨二時代の仲間と、こうして戦うことになろうとは……と、胸の内につぶやく。
「小室。ちょっと」
ふと声を掛けられる。顔を上げると、マウンド上で天野が手招きしていた。小室は「はいっ」と駆け寄る。
「さっきのタッチアウト、あまり気に病むんじゃないぞ」
エースは穏やかな口調で言った。
「どんどん先の塁をねらうというのは、うちの戦術の一つだ。おまえはそれを、忠実に実行したにすぎない。あれは向こうが巧かった」
「は、はい。分かってます」
「ならいいんだ」
フフ、と天野は笑みを浮かべる。
「今年の墨谷は強い。なにせ川北の高野を、正面から攻りゃくしたチームだ」
「ええ」
「しょうじき五点以内におさまれば、いい方かもしれん」
弱気とも取れる発言に、小室は思わず目を見上げる。
「はは。カンちがいしないでくれ」
どこか達観したように、天野は話を続けた。
「それくらいの気持ちで、気楽にいこうってことさ。だからおまえも、自信をもってサインを出せ」
自分を気遣ってくれているのだと、小室は気付く。
「ありがとうございます」
「よせやい。礼なら、勝った後に聞かせてくれ」
長身のエースは、高らかに笑った。
小室がポジションに戻ると、すぐさまアンパイアが「バッターラップ」とコールする。そして墨高の一番打者・丸井が右打席へと入ってきた。
「おねがいします」
軽く一礼すると、丸井はぎろっと睨む。
「そういやオメー、あれから連絡もよこさねえで」
「は、ドウモ」
苦笑いして、小室はポリポリと頬を掻く。
そりゃ連絡したかったが、言えるわけねーよ。よりによって墨高を昨年破った、明善に入学したなんて。
「まあいい。つもる話は、後だ」
そう言って、丸井はにやっと笑う。
「いくぞ小室!」
「あ、はいっ」
ほどなく、アンパイアが「プレイ!」と一声発した。
初球。アウトコース低めに、スローカーブが投じられた。丸井は「おっと」と、一瞬面食らう。決まってワンストライク。
「ナイスボール!」
口元に笑みを浮かべ、小室が返球する。マウンド上の天野は、ほとんど無表情だ。
これがミーティングで半田の言ってた、スローカーブか。緩急差で詰まらせようってんだな。ところが、ぎっちょん。
丸井はバットを構え直し、胸の内につぶやく。
あいにく緩急を使った投球には、こちとら井口や片瀬を相手に、さんざん練習を積んできたんだ。これぐらいで俺っちらをおさえられると思ったら、大まちがいだぜ。
二球目は、真ん中低めへの真っすぐ。
丸井は「きたっ」と、バットをはらうように振る。ところが天野のボールは、ホームベース付近で内側に喰い込んできた。
ガキッ。鈍い音がして、打球はバックネット方向へ転がる。ありゃっ、と丸井は声を発した。そして三塁側ベンチを見やる。
「丸井、もっとまえだ」
ベンチより、キャプテン谷口が助言する。
マウンド上。天野は「ほう」と、短く吐息をつく。なるほど、曲がりぱなを叩こうってんだな……と、すぐに察した。
一方、丸井はバットを短く握り直してから、打席に戻る。
三球目は、アウトコース低めの真っすぐ。そしてこれも、丸井の手元でさらに外へ逃げていく。辛うじてバットの先に当て、カットした。
あ、あぶねえ。けっこう鋭く曲がるな。おまけに外へ逃げるのか、それとも内にくるのか、フォームじゃわからないぞ。半田の話じゃ、ほかにドロップもあるみたいだし。ちゃんとポイントで打たないと、カンタンに詰まらされちまう。
そして四球目、今度はアウトコース低めの真っすぐ。咄嗟に「落ちてくる」と予測した丸井は、掬い上げるようにスイングする。
パシッ、と小気味よい音がした。速いゴロが二塁ベース左を襲う。
「し、ショート!」
小室が叫ぶより早く、明善の遊撃手が飛び付いた。しかしそのグラブの先を、打球はすり抜ける。センター前ヒット。
「よく打ったぞ丸井」
「ナイスバッティング!」
味方ベンチからの声援に、丸井は「へへっ」と軽く右拳を突き上げる。
ちと引っかけちまったが、しっかり振り抜けた分、二遊間を抜いてくれたぜ。これで少しは、先輩の面目を保てたってわけだ。
2.明善のワナ
マスクを被り直しつつ、小室は一人つぶやく。
「あの落ちるタマを、とっさに……丸井さんもうでを上げたな」
その背中に「やあ」と、朗らかな声。
「え……あっ、お久しぶりです」
墨高の二番打者・島田だ。彼もまた墨谷二中出身で、丸井と同学年。小室にとっては、一期上の先輩となる。
「いろいろあったそうだが、元気そうでよかったぜ」
「は、はい。ご心配かけました」
言葉を交わして、島田は打席に入ると、一転して厳しい表情になる。
初球。小室はインコース高めに、シュートのサインを出した。天野はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。
投球と同時に、島田はバントの構えをした。明善の一塁手と三塁手の二人がダッシュする。ボールはインコースの、さらに内側へ喰い込む。
しかし島田は、あっさりマウンドと三塁線の中間へ転がした。
二塁は間に合わないと判断し、小室は「ファースト!」と指示を出す。天野がボールを拾い、すかさず一塁へ送球した。間一髪アウト。
くそっ、と思わず唇を歪めた。
「バントしづらくさせたつもりが、あんなカンタンに」
すぐに次打者の三番倉橋が、右打席に入ってくる。そして「ナイスバッティング」と声を掛けてきた。
「えっ。あ、ドウモ」
戸惑いながら、小室は返事する。
「失投だったとはいえ、うまく打ち返したな。さすが一年生で、明善のレギュラーを射止めただけのことはある」
フフ、と相手捕手は笑みを浮かべた。どうやらだいぶ研究されてるらしいな……と、小室は胸の内につぶやく。
マスクを被り、ホームベース手前に屈みつつ思案した。
そういや倉橋って人は、たしか外のボールに泳いでしまうクセがあるんだっけな。それならスローカーブが有効だろう。
初球。小室はアウトコース低めに、スローカーブを要求する。天野がサインにうなずき、すぐに投球動作を始めた。倉橋のバットが回る。
バシッ。低いライナーが、あっという間に三遊間を破る。レフト前ヒット。
「ストップ、ストップ!」
墨高の三塁コーチャー岡村が、両手を広げランナーを制止した。その間、明善の左翼手のバックホームが、ワンバウンドで小室のミットに吸い込まれる。
「あ、あぶねぇ」
「速い当たりだったのが、幸いしたな」
明善内野陣の数人が、溜息混じりに言った。
「くそっ、ちとショージキにいきすぎた」
小室は軽く唇を噛む。
「ここまで一人も、マトモに打ち取れないとは」
ワンアウト一・三塁のピンチ。小室はタイムを取り、マウンドへと駆け寄る。
「スミマセン、ねらわれてしまって」
謝ると、エースは「なーに」と鷹揚に応える。
「俺もスローカーブで引っかけさせようと思ったが、向こうが一枚上だったようだ」
「ええ。それより、ピンチで四番に回っちゃいましたが」
ちらっと後方を見やる。ネクストバッターズサークルにて、墨高の四番谷口が素振りを繰り返していた。小兵ながら、振りは鋭い。ビュッ、ビュッ、と風を切る音がする。
天野は「む」とうなずき、そして静かに告げた。
「こうなったら……あの策(さく)を、使ってみよう」
えっ、と小室は声を発した。
「初回から、いきなりですか」
「うむ。ここで一本出たら、彼らはかさにかかってくる。そうなれば止めるのは困難だ」
「ですが……もし失敗したら、ますます墨谷を調子づかせてしまうんじゃ」
「その時はその時だ」
穏やかな口調で、天野は言った。そして「いいか小室」と話を続ける。
「力が拮抗(きっこう)した勝負で、必ず成功する策など存在しない。時には思いきったバクチを打つことも必要なんだ」
「それは分かってますが……」
「なに、そう心配はいらないさ」
エースがふと、鋭い眼差しになる。
「相手のピッチャーは、明らかに本調子じゃない。しかも向こうは……どういう意図か知らないが、しばらく続投させるようだ。つまり、まだまだ点は取れる」
「な、なるほど」
小室はようやく納得した。そして「やるしかない」と、腹を決める。
やがてタイムが解かれた。そして墨高の四番谷口が、右打席に立つ。
「プレイ!」
アンパイアのコール。その直後、キャッチャー小室は立ち上がり、ミットを大きく外して構える。明らかな敬遠の合図だ。
「なんだよ。小室のやつ、みみっちいテを使いやがって」
三塁側ベンチ。中学時代の先輩加藤が、呆れ顔で言った。その傍らで、横井が打席へ向かう準備をしながら、フフ……とほくそ笑む。
「しかし敵さんも、浅はかなことよ。四番を歩かせたって、後続はここまで打率七割を超えてる、イガラシだというのに」
当のイガラシは、ネクストバッターズサークルにて片膝立ちになり、静かに佇む。
「おーいイガラシ」
その背中に、横井は呼び掛ける。
「まえのバッターが歩かされたからって、力むなよ。おまえを侮ったこと、やつらに後悔させてやれっ」
こちらに顔を向け、イガラシは「はあ」と気のない返事をした。あらっ、と横井はずっこける。
「ばかだな横井」
ベンチの隅から、戸室がからかうように言った。
「敬遠くらいで、イガラシが力むわけないだろう。おまえとはちがうんだ」
「な、なにいっ」
ムキになる横井。その時「ちょっとみなさん!」と、半田が後列より声を発した。
「わっ。ど……どしたい半田」
左胸を押さえつつ、横井は問い返す。
「み、見てください。あのファーストの人を」
そう言って、半田はグラウンド上を指さした。
「ファーストが、どうし……えっ」
振り向いた横井は、すぐに目を見開く。
「なんなんだ」
「どういうつもりだよ、明善のやつら」
他のナイン達も、口々に驚いた声を発した。
彼らの視線の先。明善の一塁手黒木が、左手に投手用グラブを嵌めていたのだ。彼からファーストミットを受け取った控え選手が、一旦ベンチへと引き上げていく。
ほどなくエース天野が、四球目のボール球を投じる。アンパイアが「ボールフォア」とコールし、一塁を指さした。谷口はそっとバットを置き、歩き出す。
そして黒木が、マウンドに上がった。
一方、天野は黒木にボールを手渡すと、彼と入れ替わりファーストに着く。こちらが拍子抜けするほど、飄々とした表情だ。
「まだ点を取られたわけでもねえのに、ここで代えてくるなんて」
横井が溜息混じりに言った。
ネクストバッターズサークル。イガラシは、黒木の投球練習を凝視した。
大柄な体躯から投げ込まれる、明らかに重い球質のボール。それがズドン、ズドンと、キャッチャー小室のミットを鳴らす。さらに縦の大きなカーブ。
「あの速球は、無造作に打ちにいくと詰まらされそうだ。しかし……ほんとに二種類だけらしいな。ねらい球を絞りさえすれば、とらえるのは難しくなさそうだが」
ほどなく、アンパイアが「バッターラップ」と声を掛ける。
イガラシは右打席に入り、バットの握りを短くして構えた。そして前方を見渡し、相手の守備隊形をさっと確認する。
やはり中間守備、ダブルプレーねらいってことか。谷口さんを歩かせたのは、四番を警戒したというより、満塁にして守りやすくするためだろう。しかし……そちらの思いどおりにいくほど、俺も甘くないぜ。
初球。黒木は、真っすぐをアウトコース低めに投じてきた。これは僅かに外れる。
続く二球目は、またも真っすぐを今度はインコース低めへ。ボール気味だったが、イガラシは引っぱりわざとファールにした。速いゴロが、三塁側ベンチに飛び込む。味方の数人が「うわ」「ひゃっ」と声を発した。
イガラシは、そっと左手を握り込む。痺れを感じた。
ううむ……思った以上に、重いタマだぜ。打ち返せないこともないが、堅守で鳴らす相手だ。ゴロで内野手の間を破るのは難しい。やはり、ねらいはカーブだな。
二塁ベース上。倉橋は「ん?」と、僅かに首を傾げた。その視線は、明善の一年生キャッチャー小室へ向けられている。
オイオイ。あの一年坊、構えからどこへ投げさせるのか丸分かりだぞ。最近はどのチームも、二塁ランナーに見られるのを防ぐために、サインが決まってからミットを動かしてるというのに。
訝しく思いながらも、倉橋はひそかに右手をくいっとをひねる。イガラシへ「つぎは外角」というサインだ。後輩はすぐにうなずく。
三球目。アウトコース低めの速球を、イガラシは見送る。続く四球目も、同じコースに同じ球種。これは決まり、ツーストライク・ツーボール。イーブンカウントとなる。
「いいボールだぞ黒木!」
「バッテリー、思いきりいけっ」
明善内野陣が快活な声を発した。それを横目に、倉橋は小さく溜息をつく。
掛け声もいいが……コースがばれてること、野手陣の誰も気づかないとは。みょうなトコで雑なんだな、明善のやつら。
迎えた五球目。小室は、アウトコース低めにミットを構える。倉橋はこれも当然、イガラシへサインを送った。そろそろカーブがくるかも、と胸の内につぶやく。
果たして、黒木はカーブを投じてくる。
イガラシは「やはり」と、迷いなくバットを振り抜いた。パシッと快音が響く。鋭いライナーが、二遊間を襲う。墨高の三塁側ベンチが、一瞬「おおっ」と湧く。しめた……と、倉橋はスタートを切りかけた。
ところが、次の瞬間。明善の二塁手中町が、左腕を目一杯伸ばし横っ飛びした。そのグラブの先に、ボールが収まる。
「なっ、なんだと」
倉橋は慌てて、二塁へ引き返す。しかしすでに、ベースカバーの遊撃手が、中町からのトスを捕球していた。
「……あ、アウト。スリーアウトチェンジ!」
二塁塁審の声が、むやみに響く。
「くそっ、やられた」
バチッと、倉橋が悔しげに二塁ベースを叩いた。同時に「ああ……」と、三塁側ベンチそしてスタンドから、大きな溜息が漏れる。
「ちぇっ、ついてねーな」
三塁ランナーの丸井が、舌打ちしつつ引き上げていく。
「おかしいぞ……」
一塁ベース手前で、イガラシはひそかにつぶやいた。その眼前で、ピンチを切り抜けた明善ナインが、一斉に駆け出す。
向こうの守備が巧かったといえば、それまでだが……どうも気持ち悪いぜ。二塁ランナーが打者にコースを教えるのは、俺も中学の時によく使ってたテだ。小室も当然、知ってるはず。ましてや、かつての仲間がたくさんいるというのに。
ベンチへと戻りながら、一人溜息をつく。
俺の知る限り、あの小室はちと融通(ゆうずう)の利かないところはあるものの、けっして愚かな男じゃない。あんな丸分かりなサイン交換なんて、するはずが……
「やあイガラシ」
ふいに声を掛けられ、はっとした。
「えっ……や、やあ」
振り向くと、その小室が立っている。
「さっきはスマンな。あいさつも、ろくにできなくて」
かつての盟友は、苦笑い混じりを浮かべた。
「なーに、そりゃお互いさまだ。一点を争う場面だったからな」
数ヶ月ぶりの再会に、二人は握手を交わす。
「しかし危なかったぜ」
汗を拭いつつ、小室は吐息混じりに言った。
「コースいっぱいのカーブを、さからわずに打ち返すとは。さすがだよ」
「む、そっちこそ」
イガラシはじろっと、相手を軽く睨む。
「まんまとハカりやがったな」
「な、なんのことだ」
小室の目が、僅かながら泳ぐ。やれやれ……と、イガラシは胸の内につぶやいた。
あいかわらず、ウソのつけない男だぜ。みょうなタイミングでの投手交代といい、明善がなにか策をこうじてきたのは、どうやらまちがいなさそうだ。
3.重圧との戦い
二回表。指の負傷で制球の定まらない松川は、またも連打を浴びピンチを招く。
どうにかツーアウトまでこぎつけたものの、ランナー満塁。迎えるは明善の三番打者・板倉である。
カッ。三塁側スタンドに、ファールボールが飛び込む。
「……くそっ、もう三球続けてだ」
三塁ベースより数メートル手前。キャプテン谷口は、唇を噛んだ。
「いまのもねらえば、ヒットにできたはず。松川を疲れさせるために……このバッター、わざとファールに」
マウンド上。松川は微かながら、肩を上下させていた。噴き出した汗が顎を伝い、ぽたぽたと落ちる。明らかに苦しげだ。
「いいぞ松川!」
それでもうつむかない後輩を、谷口は懸命に励ます。
「とにかく低めに集めるんだ。あとはバックを信じて、腕をしっかり振れ」
フフ、と板倉が不敵に笑う。
「低めだけで、俺達に通じるかな」
すかさず「バカヤロウ」と声が飛ぶ。ネクストバッターズサークルに控える、次打者のエース天野だ。険しい眼差しをチームメイトへ向ける。
「誰が挑発しろと言ったんだ。手負いとはいえ、きさまの力量でカンタンに打てる相手ではないぞ。気を緩めるなっ」
「す、スミマセン」
一礼して、板倉はバットの握りを短くした。
「なるほど。向こうのエースも、大したリーダーだ」
谷口は、ひそかにつぶやく。
どうりで夏、秋と続けて決勝まで進むわけだ。さすが明善。三点リードくらいじゃ、まるでスキを見せない。
その時だった。
「負けるな松川、俺っちらがついてる」
セカンドの丸井が、掛け声を発した。さらに「そうだ、バックを信じろ」と、ファースト加藤が続く。
「このバッターは低めが苦手です!」
イガラシの挑発めいた一声。板倉は「なにいっ」と、逆に顔を歪めた。
「打たせろ松川。ホームラン以外は、なんとかしてやる」
「気持ちで向かっていけ」
レフト横井が、センター島田が、ナイン達の声が重なっていく。
谷口は、キャッチャー倉橋と目を見合わせた。そして互いに微笑む。これなら十分ばん回できるぞ……と、キャプテンは右拳を握り込んだ。
「ツーボール、ツーストライク」
アンパイアが両手の二本指を立て、ボールカウントをコールした。キャッチャー倉橋のサインに、松川がうなずく。そして投球動作へと移る。
アウトコースの速球が、高めに浮いてしまう。板倉は「き、きたっ」とばかりに、バットを差し出す。
カキ。詰まり気味の打球が、ちょうどショートとレフトの中間地点に飛ぶ。
「……くっ」
懸命にショートのイガラシが背走するも、届きそうにない。その時「まかせろイガラシ!」と、レフト横井が叫ぶ。
すかさずイガラシは、身をひるがえす。その視界の端で、横井が飛び付いた。グラブの先っぽに、いまにも地面に落ちそうだったボールが引っ掛かる。
「あ……アウト!」
駆けてきた三塁塁審が、右拳を高く掲げた。
「スリーアウト、チェンジ」
チームを救うファインプレーに、三塁側スタンドが湧き上がる。
「横井さん、ナイスプレー!」
イガラシが珍しく、白い歯を見せる。横井は「へへっ」と得意げに笑い、ユニフォームの土をはらった。
一塁側ベンチ。捕手用プロテクターを装着しつつ、小室は「ううむ」と首をひねる。
早い回で勝負を決めたいと思ってたが、そう甘くはないな。やはり谷口さんの率いるチーム、しぶといぜ……
「上々の立ち上がりだな」
傍らで、エース天野が穏やかな口調で言った。
「よくをいえば追加点も取りたかったが、まずまずだ。序盤でリードを奪い、主導権をにぎることができたし、なにより策が当たった」
ええ、と小室はうなずく。
「しかし安心はできません。イガラシは、頭のいいやつですから」
「もちろんだ」
エースはふと、険しい顔になる。
「昨年の戦いぶりからも、彼らは追い詰められるほど、力を出してくるチームと見てまちがいない。必ず対抗してくるはずだ」
分かってます、と小室は答えた。
「だからこそ、こっちは墨谷を上回る気迫でぶつかってやりますよ」
頼もしい後輩に、天野は目を細める。
「うむ。その意気だぞ、小室」
三塁側ベンチ。墨高ナインは、二回裏の攻撃に備える。
「……おい。さっきの、あれって」
「うむ、まちがいない」
バットを磨きつつ、一年生の高橋と鳥嶋が、目を見合わせる。そこへ「ちょっといいか」と、キャプテン谷口が声を掛けてきた。
「は、はい」
「なんでしょう」
二人とも直立不動の姿勢になる。
「高橋と鳥嶋は、たしか金成中の出身だったな」
「え、ええ」
「いぜん戦った時、打球方向をことごとく読まれて苦戦したことがあったが、あれはどうやって調べたんだ」
「ああ、それはですね……」
高橋が手振りを交えつつ説明した。
「練習のフリーバッティングや試合での打席から、コースや球種、ランナーの有無によって、打球がどこに飛ぶかをまとめていくんです」
「ほ、ほう。そこまでやっていたのか」
あまりの細かさに、さしもの谷口も驚く。
「しかし、そう読みどおりにいくものなのか。たとえば同じ真ん中なら、引っぱることも流すこともあるだろうに」
「もちろんです」
横から、鳥嶋が補足した。
「ですから金成では、コントロールのいい投手をエースにして、必ずコースを投げ分けていました。引っぱりか流しか、相手にはっきり絞らせるように」
そして「とくに」と付け加える。
「頭のいいバッターほど、コースに逆らわない打ち方をしてくるので、かえって読みやすいんです」
鳥嶋の言葉に、全員の視線がイガラシへと集中する。
「なるほど、たしかにイガラシなら……」
ベンチの隅で捕手用プロテクターを外しつつ、倉橋が目を丸くして言った。
「さっきのようにランナーが得点圏にいる時は、重い速球よりもカーブをねらって、さからわず二遊間へ打ち返すのがかく実だと判断するだろう」
うむ、と谷口は相槌を打つ。
「イガラシの判断力と技じゅつの高さを、ぎゃくに利用されてしまったのだな」
「し、しかしですねえ」
やや不服げに、丸井が言った。
「四番のキャプテンや倉橋さんならともかく、どうしてイガラシなんです?」
「……ああ、それなら」
ベンチ後列より、半田が手帳をめくりつつ答える。
「いままで、うちが三得点以上した回をさっと調べてみたんだけど……そのほとんどにイガラシ君が関わっているんだよ」
ええっ、とナイン達は声を発した。半田は「だからきっと」と、さらに続ける。
「明善としては、キャプテンや倉橋さんに打たれるのは仕方ないとして、イガラシ君にまでやられて大量失点するのを防ぎたいんじゃないかと」
その時だった。数人が「ああっ」と驚く声を漏らす。
眼前のグラウンド上。さっき降板したはずの明善エース天野が、再びマウンドに立ったのである。初回と変わらぬオーバーハンドのフォームで、一球、二球……と投球練習を行う。
「なんでえ。あの変則ピッチャー、下がったわけじゃなかったのか」
丸井が苦々しげに言った。そして横目で、イガラシを見やる。
「てえことは……あの黒木って人は、イガラシ専門のワンポイントかよ」
こりゃたまげた、と横井が陽気に言った。
「さすがイガラシ。あの明善に、そこまで警戒されるとは」
「……いいえ」
グラブを磨きつつ、イガラシはぶっきらぼうに返事する。
「どっちにしたって、向こうにまんまとハメられたことに変わりないですし。ちっとも面白くないですね」
それでも「フフ」と、挑戦的な笑みを浮かべた。
「しかし、やつらのねらいは分かったので。つぎは打ち破ってみせますよ」
「む、その意気だ」
キャプテンの激励に、イガラシは「ええ」とうなずく。
やがて天野が投球練習を終え、キャッチャー小室が二塁へ送球する。そしてアンパイアが「バッターラップ!」と声を掛けた。
墨高の先頭打者は、六番横井である。
「さあこいっ」
右打席の前寄りに立ち、短めにバットを握る。
「ようし。引きつけて、曲がりっぱなを叩くんだったな」
その初球、天野はスローカーブを投じてきた。横井は「わっ」と意表を突かれる。これは手が出ず、決まってワンストライク。
くそっ、カーブは考えてなかった。しかし……なんてえ落差だ。
「横井!」
すかさずベンチより、谷口の声が飛ぶ。
「迷うな。どちらかに的を絞って、振り切るんだっ」
的を絞れって……むっ、そうだ。
二球目、またもスローカーブ。横井はやや上体を泳がせながら、バットの先端でカットした。今度はキャッチャー小室が渋い顔になる。
そういや、練習で散々やってきたな。ファールにしちまえばいいんだ。
そして三球目、アウトコース低めの速球。さらに外へ逃げていく。横井は「きたっ」と、左足を踏み込んでスイングした。
速いゴロが、一・二塁間へ飛ぶ。一瞬「おおっ」と三塁側ベンチが湧きかけるも、駿足の二塁手中町が回り込み、正面で捕球した。そして一塁へ送球。
「アウト!」
一塁塁審のコールに、横井が「ちーっ」と腰に手を当てる。その背中に、小室はひそかに吐息をつく。
なんとか打ち取ったが、迷いなく振り抜いてきたな。そのまえのカーブも、あっさりカットされた。カンタンにいくと危ないぞ。
続く七番松川も、短くバットを握る。左拳から突き出たグリップの先に、小室は「むっ」と目を留めた。そこが僅かながら、血に染まっている。
こりゃ豆がつぶれたんだ。うち相手に、よくこんな手負いで投げさせたもんだ。いくら谷口さんでも……ちと分からねえな。
初球、小室はインコースへ速いシュートを要求する。これではバットを振り抜けまい、と判断した。天野がサインにうなずき、投球動作へと移る。
ところが次の瞬間、松川はバットを寝かせた。
「なにっ、セーフティバントだと」
コンッ。小室の眼前で、鈍いゴロが三塁線に転がる。明善の三塁手が素早くフィールディングで一塁送球したが、間に合わない。一塁手の黒木が捕球した時、松川はすでにベースを駆け抜けていた。一塁塁審が「セーフ!」とコールする。
「うまいぞ松川、完全にウラをかいたな」
「ナイスガッツよ!」
今度こそ三塁側ベンチが湧く。
「くそう。いろいろと、やってくれるぜ」
小室は唇をぐっと噛み締めた。やはり下位も油断できねえな、と胸の内につぶやく。
「よう、しばらくだな」
そこへ、また旧知の者が話しかけてくる。
「あ……お久しぶりです、加藤さん」
墨高の八番打者加藤が、左打席に入ってきた。彼も墨二時代のチームメイトであり、小室の一期先輩である。
「うむ。なつかしい話でもしてえトコだが、あいにくそんな余裕はなさそうだ。感傷は捨てて、全力でいくぞ」
「はいっ、もちろんです」
加藤はうなずくと、すぐに険しい顔つきとなる。
バッテリーは、速球を三つ続けた。初球は際どく外れボール、二球目はカットされる。三球目も見極められたが、加藤はアウトコースに踏み込んできた。
反応からして、速球に絞っているようだし……ここは揺さぶってみるか。
四球目は、外角にスローカーブ。加藤の上体が泳ぎかける。しめた……と、小室は一瞬思った。しかし、相手打者の足腰は崩れない。
パシッ。低いライナー性の当たりが、三遊間を破る。レフト前ヒット。
「ば、ばかな……読みを外したってのに」
目を見開く小室。その時、加藤と一塁ベースコーチャーの会話が聴こえてくる。
「ナイスバッティングです」
「む、ねらいとはちがってたけどよ。遅いタマを混ぜられても、とっさに打ち返す練習をしといて、よかったぜ」
そうか……と、小室は合点する。
やはり谷口さんの率いるチームだ。俺や天野さんのことを調べたうえで、対さくしてきたのだな。こうして緩急をつけてくることは、元よりお見通しってことか……
「ひるむな小室」
ふいに呼ばれ、はっとした。マウンド上より、天野が檄を飛ばしてくる。
「カンタンな相手じゃないと、分かってたろう」
「あ、天野さん……」
「リードしてるのはこっちだ。強気で攻めるぞ、いいな!」
「は、はいっ」
ワンアウト一・二塁。迎える打者はこちらも小室の同級生、九番久保である。中学時代と同じく、右打席に入ってきた。
「……や、やあ」
気まずく思いながらも、声を掛けてみる。すると「え……ああ」と、なんだか戸惑うような声が返ってきた。
「久しぶりだな」
「うむ。いきなり明善でレギュラー捕手だなんて、やるじゃないか小室」
「お、おう。まあな」
返答してくれたものの、明らかに上の空だ。なんだコイツ、緊張してんのか……と胸の内につぶやく。
その久保がバットを構えた。小室は「おや?」と、また違和感を覚える。
久保のやつ、だいぶ肩にチカラ入ってんな。中学の頃は、もっと力みのない構えをしてたってのに。イガラシとちがって、高校野球にうまく順応しきれてないようだ。
初球。小室はど真ん中の速球、それも変化しない球を要求した。さしもの天野も「えっ」と目を見開く。正気かよ、とでも言いたげに。
だいじょうぶですよ、天野さん。いまの久保は、ほんらいのバッティングができる状態じゃありません。きっと力んで、引っかけるはずです。
ようやく天野はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。
要求通り、ど真ん中の速球。小室のバットが回る。直後、ガキッと鈍い音がした。果たして、打球はピッチャー正面のゴロ。
「し、しまった」
久保が顔を歪める。その視線の端で、天野は「へいセカン!」と二塁へ送球した。ベースカバーの中町が捕球し、すかさず一塁へ転送する。
「……あ、アウト! スリーアウト、チェンジ」
一塁塁審のコールと同時に、久保は両手を膝につく。
「おおっ」
明善応援団の一塁側スタンドから、歓声が湧き上がった。対照的に、三塁側スタンドとベンチから「ああ……」と、大きな溜息が漏れる。
「すまねえな、久保。だがこれは勝負なんだ」
小室は一人つぶやき、チームメイト達とともにベンチへと引き上げた。
三塁側ベンチ。谷口は「ううむ」と、小さくかぶりを振る。
久保、やはり迷いが残ってたか。なんとか立ち直ってほしかったが。重圧に負けて、ほんらいのバッティングができないようでは、この先ちょっと厳しいぞ……
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