【目次】
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第37話 変わりゆくチームの巻
1.キャプテンの意地
六回表。二塁送球を終えたキャッチャー倉橋は、一旦「タイム」とアンパイアに合図した。そしてマウンドへと駆け寄る。
「谷口、ちょっと」
そのマウンド上では、この回から登板のキャプテン谷口が、右手にロージンバックを馴染ませていた。
「四番からだが。どうする?」
ちらっと背後を見やる。右バッターボックス横にて、明善の四番打者黒木が、素振りを繰り返す。ビュッビュッと風を切る音が聴こえた。
「ま……きわどいコースを突いていくのが、無難だろうが」
谷口は「いや」と、首を横に振る。
「ここまでを見る限り、明善はミート重視のバッティングだ。たとえ四番でも、イニングの先頭打者となれば、まず出塁することを考えるだろう」
「そういや松川と井口の時も、うまく合わせてたものな」
「うむ。そこでコースというより、ボールの力で打ち取っていこう。もちろん低めに集めるが、ストライク先行で早めに追い込むんだ」
「お、おい谷口」
頬を掻きつつ、倉橋は言った。
「それも、ちとキケンじゃねえか。やつらストライクがくると分かりゃ、なおのこと思い切りよく振ってくるんじゃ」
「分かってるさ」
そう返事して、谷口はさらに声を潜める。
「だからフォークをつかおう」
なるほど、と倉橋はうなずいた。
「たしかにフォークなら、明善もカンタンには手が出せないだろう。しかし全球というわけにもいくまい」
「そこは倉橋にまかせるよ」
フフと、谷口は微笑む。
「いけると思えばフォークを続けてもいいし、ほかのボールを混ぜたっていい」
「け、けどよ谷口」
つい憂う口調になる。
「たしかおまえ、いぜんフォークの投げすぎで肩をいためてたろう」
なーに、と谷口は涼しげに言った。
「あれから鍛錬(たんれん)をつんできてるし、たった四イニングだ。俺の心配なんてしないで、バッターを打ち取ることだけ考えてくれ」
ほう、と倉橋は一つ吐息をつく。
「いつになく大胆だな」
「倉橋。ここは強気でいくんだ」
言葉とは裏腹に、谷口は穏やかな口調で言った。
「いぜん厳しい展開だが、チームの士気は高まってる」
倉橋は「む」と相槌を打つ。
「きのうまで弱気の虫にとりつかれてた連中が、ここにきて思いきりよくプレーするようになってきたものな」
「ああ。さらに勢いをもたらすためにも、ここはチカラで押し切りたい。そうすれば、流れはこっちにくる」
力強く言って、キャプテンは右拳を握り込んだ。
「もういいかね?」
ホームベース手前より、アンパイアが声を掛けてくる。
「あ、はい。今もどります」
倉橋は踵を返し、ひそかに笑みを浮かべた。
「なるほど谷口のやつ、だからあんな提案を。勇気をもって戦うことを、キャプテンみずから示そうってんだな」
そのままポジションに着き、倉橋はマスクを被る。黒木が右打席に入ると、アンパイアはすかさず「プレイ!」とコールした。
初球。打ち合わせ通り、倉橋は真ん中にフォークボールのサインを出す。
谷口はうなずき、すぐにワインドアップモーションから投球動作へと移る。その指先から、ボールを放つ。
ボールはど真ん中の高さから、鋭く沈む。黒木のバットは空を切った。ミットを土に寝かせるようにして、倉橋は捕球する。
「ストライク!」
アンパイアが右拳を突き上げた。傍らで、黒木が「なにっ」と目を剥く。
「さ、つぎもこれよ」
二球目もフォークボール。やはり同じコース、同じ高さからストンと落ちる。
しかし今度は、黒木がチップさせた。打球はバックネット方向へ鈍く転がる。くそう……と、打者はマウンド上を睨む。
「たった二球で当てるとは、さすが明善の四番だぜ。しかし谷口のやつ、どうしてどうして。ちゃんと自分の技りょうも磨いてきてるじゃねえか」
それなら、と倉橋は三球目のサインを出す。真っすぐを要求した。
「こいつをねじ伏せられたら、チームに勢いがつく。さあ谷口、思いきりこい!」
谷口は躊躇いもせず、サインにうなずいた。そしてまたもワインドアップモーションから、グラブを突き出し、左足を踏み込み、そして右腕をしならせる。
インコース低めいっぱい。黒木はスイングするも、完全に遅れてしまう。倉橋のミットが、乾いた音を立てる。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアが甲高い声を発した。
ネクストバッターズサークル。次打者の天野は「ううむ」と、唇を歪めた。
「よ……四番が三振だと。しかも直球に、かすりもしないとは」
ほどなく黒木が、首を捻りつつ引き上げてくる。
「スマン天野。せめて塁に、出てやりたかったが」
「やはり速かったか」
「うむ。フォークを警戒しすぎたのはあるが、かなり手元で伸びてくるぞ」
「そのフォークも、だいぶ落差があったようだが」
「ああ……直球とそう変わらないスピードで、ストンとな」
情報交換を済ませ、天野は右打席に入る。そしてバットを短く握った。
「なんとか出塁しなければ。三人で終わると、流れが相手にいってしまう」
初球は、やはりフォークボール。真ん中高めのコースから、鋭く沈んだ。低めいっぱいに決まりワンストライク。
な、なんて落差だ。こりゃ分かってても、そう容易に打てるタマじゃねえぞ。
続く二球目。今度はインコース高めに、直球が投じられる。バットを振り下ろすように、天野はスイングした。しかしガキ、と鈍い音が響く。
「くそっ、振り遅れた……」
三塁頭上への凡フライ。代わったばかりの岡村が「オーライ」と右手を挙げ、難なく捕球した。あっさりツーアウト。
一塁ベースを踏む手前で、天野はベンチへと引き返す。そして次打者の六番小室に、一声掛ける。
「メンボクない。小室、なんとか喰らいつけ」
「は、はいっ」
緊張した面持ちで、一年生捕手はうなずく。
「喰らいつくか……よし、カンタンには終わらせないぞ」
打席に立ち、小室は「こいっ」と気合の声を発した。やはりバットを短く握り、速球とフォークに備える。
ところが初球、谷口は真ん中にカーブを投じてきた。
「ストライク!」
意表を突かれた小室は、手が出ず。
「し、しまった……ほかのボールも頭に入れなきゃ」
一旦打席を外し、数回素振りする。
傍らで、倉橋はひそかに「クス」と笑い声をこぼした。だいぶ入れ込んでるな……と、胸の内につぶやく。
そして二球目。なんと直球が、ど真ん中に飛び込んできた。
「……うっ」
バシッ、と倉橋のミットが鳴る。小室はまたも手が出ず。
「ストライク、ツー!」
アンパイアのコール。小室は「くそうっ」と、顔を歪める。
「今度は真っすぐか。しかし谷口さん、いつの間にこんな速いタマを……」
小さく吐息をつき、小室はバットを構え直す。
「天野さんの言うように、どうにか喰らいついていかないと」
すかさず谷口が、ワインドアップモーションから三球目を投じてきた。
「……な、なにっ」
またしてもカーブ。速球のタイミングで待っていた小室は、大きく体勢を崩す。バットが空を切ると同時に、前へつんのめる。
「ストライク、バッターアウト。チェンジ!」
アンパイアが攻守交代を告げる。小室はただ、呆然とするほかなかった。
六回裏のマウンド上。天野は、キャッチャー小室を呼び寄せる。
「おい小室。打席を悔やんでいるヒマは、ないぞ」
やや肩を落とす後輩に、檄を飛ばす。
「は、はいっ」
「うちは投手層がうすい。どうあっても、あと一……いや二回をしのがねばならん。そのためには、小室。おまえのチカラが必要なんだ」
「……分かってます」
覚悟を決めて、小室はうなずく。
「しっかり守って、墨谷をもっと焦られてやりましょう」
「うむ、その意気だ!」
ほどなく小室がポジションに戻る。天野は「タイム!」と三塁塁審に合図して、ロージンバックを手に取った。しばし考え込む。
「こう毎回ピンチが続いちゃ、さすがに疲れるぜ。かといって黒木は二イニング以上投げたことがないし、控えのやつらじゃ墨谷はおさえられん。やはり俺が踏んばるしかないか」
やがてタイムが解かれ、先頭打者の谷口が右打席に入ってきた。
「向こうも四番からだな」
天野はつぶやき、キャッチャーのサインを待つ。
初球。小室のサインは、アウトコース低めの速いカーブ。天野はうなずき、ワインドアップモーションから投球動作へと移る。
指先からボールを離した瞬間、天野は「しまった」と目を瞑り掛けた。ボールが高い。谷口はおっつけるようにバットを出す。
パシッ。鋭いライナーが、ライト線を襲う。
「ら、ライト!」
小室が叫ぶ。墨高の三塁側ベンチとスタンドが、一瞬「おおっ」と湧きかける。しかしボールは、白線の数十センチ外側に落ちた。
「ファール!」
三塁塁審が、両腕を大きく広げた。
「ああっ、惜しい」
「流し打った分、ちと切れちまったか」
相手ベンチから、溜息混じりの声が漏れる。
「……フウ、あぶなかった」
マウンド上。天野は苦笑いして、額の汗を拭った。
「くそう。さっきから、ボールが浮いちまう。やつらそれを分かって、ねらい打ちしてきたな。いま、どうにか制球できるタマといえば……」
二球目。天野はまたもアウトコース低めに、今度はスローカーブを投じた。ほぼねらった通りのコースと高さ。しかし谷口は、手を出さず。
「ボール!」
アンパイアのコール。まいったな……と、天野はひそかに溜息をつく。
「さすが四番、いい目をしてやがるぜ。といってストライクを取りにいけば、まえの打席にように、ねらい打ちされかねん。どうしたものか……むっ」
眼前で、キャッチャー小室がサインを出す。
「内角低めのシュート。いいねらいではあるが」
天野は首を横に振った。
「スマン小室。いまの俺のコントロールじゃ、甘く入りかねん。おまけにシュートのキレも悪く……って、オイオイ」
しかし小室は、またも同じサインを出した。
「聞かん坊だな。いまはムリだと……む、まてよ」
天野はふと、あることを思い返す。
「そういや三、四番に打たれてもいいと言ったのは、俺だったか。なるほど……たとえ本調子じゃなくとも、気持ちまで逃げちゃいかんな」
フフ、と笑い声がこぼれた。
「情けないぜ。後輩にはエラそうに言っておいて、自分が弱気になっちゃうとは。分かったよ小室、エースの意地を見せてやる」
天野はサインにうなずき、すぐに投球動作を始めた。グラブを突き出し、左足を踏み込み、思い切り右腕をしならせる。
シューッと風を切る音がした。狙い通り、内角低めのコース。
「よし……あっ」
次の瞬間、パシッと快音が響いた。谷口は軽くバットを放り、駆け出す。
「れっレフト!」
谷口の放った打球は、レフトスタンドへ一直線に伸びていく。そのまま中段の客席へと飛び込んだ。
「や、やったぞ」
一塁へ駆け出していた谷口は、ぐっと軽く右拳を握り込むと、そのまま小走りにダイヤモンドを一周した。彼がホームベースを踏むのと同時に、スコアボードの一枠がめくれ「2」と差し替えられる。
「……くっ、やられた」
腰に手を当て、天野は炎天を仰いだ。
2.つるべ打ち
ネクストバッターズサークル。湧き立つ三塁側スタンドを横目に、イガラシはゆっくりと立ち上がる。そこへ追撃の一発を放った谷口が、小走りに引き上げてきた。
「見事な一打でしたね」
声を掛けると、キャプテンは「たまたまさ」と照れた顔で言った。
「それよりイガラシ。この回、まだ取れるぞ」
すぐに表情を引き締め、こう付け加える。
「ええ。向こうのピッチャー、ちと弱気になってましたからね」
そうだ、と谷口は首肯した。
「さっき首を振ったのは、おそらく内角へ投げ込む自信がなかったんでしょう」
「うむ。点差はあるのに、彼らは逃げに回った。これはチャンスだ」
二人の視界の端で、またも天野と黒木がポジションを入れ替える。
「……そうですね」
力強く、後輩はうなずいた。
「ぼくもこれ以上、やつらの策にハマるのはおもしろくありませんから。なんとか打開して見せますよ」
「そうだ、その意気だ!」
イガラシは「まかせてください」と応え、打席へと向かう。
三塁側スタンドは、まだホームランの余韻にざわめいている。
「す、すげえ当たりだったな」
長身の山口が、感嘆の声を発した。
「さすが谷口だぜ」
太田は深くうなずく。
「ここぞという場面で、やってくれる男だ」
「しかし……まだ五点差だぞ」
渋い顔で言ったのは、中山である。
「ランナーがいたらなあ」
なんだよ、と山口が突っ込む。
「さっきから水を差すことばかり言いやがって。いまのは反撃の狼煙(のろし)とすりゃ、それでいいじゃねえか」
「うるせえな。俺だって、それを望んでるけどよ」
山本が「たしかに」と、汗を拭う。
「つぎのイガラシが、ここまで明善の守備にふうじられてるからな。やつらまた、ワンポイントを立てて」
「……やい、てめえら」
野太い声で、田所が割って入る。右手の拳骨を突き上げた。
「さっきと同じこと、言われてえのか」
「い、いえっそんな。めっそうもございません」
山本は慌てて、首を横に振る。他のメンバーも「しっかり応援します」と同調した。
「ならいいんだ」
そう言うと、田所はふいに両手を合わせ、お祈りのポーズになる。
「……神様、あいつらに力をお与えください。アーメン」
後輩達は「あーあー」と、ずっこけた。
眼前のマウンド上。ワンポイント・リリーフの黒木が、右手にロージンバックを馴染ませていた。その周囲では、明善内野陣がボール回しを行う。
マスクを被り、小室はひそかに溜息をつく。
「まさかスタンドに運ばれてしまうとは。俺が、余計なことしなければ……」
「小室!」
ふいに呼ばれる。振り向くと、一塁に着いたエース天野だった。
「自信をもってリードするんだ。いまは、おまえが要(かなめ)なんだぞ」
そ、そうだ……と我に返る。
「ノーアウトです。しっかり守っていきましょう!」
迷いを振り払うように、小室は掛け声を発した。先輩達から「オウッ」と、いつものように力強い声が返ってくる。
そして右打席に、イガラシが立つ。すぐにアンパイアが「プレイ!」とコールした。小室は束の間、思案を巡らせる。
ランナーがいなければ、イガラシは内寄りのタマを思いきり振ってくる。しかしアウトコースでも、甘く入ればとっさに打ち返すこともできる。谷口さんもそうだが、イガラシも敵に回すと、これほど怖いバッターだとは。さて、今回はどうしようか……
初球。小室はアウトコース低めに、カーブのサインを出した。
やはりセカンドへ打たせよう。黒木さんの大きなカーブは、いくらイガラシでも外野の頭を越せまい。低い当たりなら、中町さんがかく実に捕ってくれる。
黒木はサインにうなずき、すぐに投球動作を始めた。小室の要求通り、カーブが大きな弧を描き、アウトコース低めいっぱいに飛び込んでくる。
ところが、イガラシはこれを見逃した。
「ストライク!」
なに、と小室はひそかにつぶやく。
強気のイガラシのこと、てっきり初球からねらってくると思ったが……なるほど。まえの打席と、同じテツは踏まないってか。
「だったら、これはどうだ」
続く二球目は、インコース高めの直球。ストライクぎりぎりに飛び込んでくる。しかしイガラシは、またも手を出さず。
「また? イガラシのやつ、なにを考えてやがる」
三球目と四球目は、いずれも僅かに外す。やはりイガラシは見送る。
「あいかわらず目のいいヤロウだ。しかし……ひょっとして四球をねらってるのか」
さらに五球目も、イガラシは手を出さず。外れてスリーボール。
「やはり、どうにかして出塁しようってんだな。だがコントロールのいい黒木さんから、そうカンタンに四球はもらえないぜ」
そして六球目。バッテリーは初球と同じ、外角低めのカーブを選択した。これはストライクに入ってくる。
次の瞬間、イガラシは水平にバットを寝かせた。
「な、なんだと!」
驚く小室。すぐさま一塁手と三塁手が、鋭くダッシュしてくる。しかし、イガラシはそれを嘲笑うかのように、バットを押し出す動きをした。
コンッ。ふわっとした打球が、前進してきた一塁手天野の頭上を越える。そのままライン際を転々とした。
「くそうっ」
カバーした黒木がボールを拾い上げた時、イガラシは悠々と一塁ベースを駆け抜けていた。鮮やかなプッシュバントが決まる。
「……や、やられた」
小室は唇を歪めた。
「イガラシめ、最初からねらってたったのか」
その時「切りかえろ小室」と、天野に声を掛けられる。
「きっと足をつかってくる。集中しないと、かき回されるぞ」
「は、はいっ」
短く返事して、小室はマスクを被り直す。そして傍らのアンパイアに「た、タイム!」と合図した。
そして明善は、またも天野と黒木がポジションを入れ替える。
マウンド上。天野はキャッチャー小室へ向かい、軽めに一球、二球と投球した。フウ……と、つい溜息が漏れる。
「おい天野」
ふいに二塁手の中町が、こちらに歩み寄ってきた。
「だいじょうぶか。なんだか疲れてるようだが」
「な、なーに。少し呼吸を整えただけだよ」
「まだ五点ある。そろそろ、黒木に代わってもらったら」
小柄な二塁手は、労わるように言った。天野は「バカいえ」と苦笑いする。
「やつは真っすぐとカーブしかないうえに、長いイニングは投げられない。こんなに早く代わったら、何点取られるか分からねえぞ」
「そ、それはそうだが」
「心配するなって」
快活に応える。
「このイニングくらい、なんとかするさ。それより守りはたのむぞ」
「あ、ああ。まかせろ」
中町はそう返事して、セカンドのポジションへと戻る。
やがてタイムが解かれる。後続の六番打者、横井が右打席に入ってきた。すぐにバットを寝かせる。
バントか、と小室はつぶやいた。
「ここから下位打線なもんで、ランナーを進めて一点でも返そうってことか。しかし……あの谷口さんが、そう素直なテでくるかな」
アンパイアが「プレイ!」とコールした。同時に、イガラシが離塁する。一歩、二歩、三歩……大きくリードを取った。
「このっ!」
天野が素早く牽制球を送る。しかしイガラシは、難なく帰塁した。そしてまた、涼しげな顔でリードを取る。
「ちぇっ。うちがクイックを鍛えてるのは、とうにお見通しか」
わざと聞こえよがしに、小室は言った。イガラシはまるで表情を変えない。
「フン、すました顔しやがって。走る気満々なくせに」
小室はアウトコース高めに、直球のサインを出した。
「バントの構えで揺さぶるつもりだろうが。あいにく俺も、そんなに甘くないぜ」
果たして――天野が投球動作を始めると同時に、イガラシはスタートを切った。
「やはり……えっ」
その瞬間、横井が思わぬ動きを見せる。バントから一転して、ヒッティングの構え。二塁手がベースカバーに入り、がら空きになった一・二塁間へ叩き付ける。
「バスターだと!」
速いゴロが、ライトへ抜けていく。イガラシは二塁ベースを蹴り、さらに加速する。右翼手は懸命にダッシュして捕球するも、中継の中町へ返すのが精一杯。
三塁を陥れたイガラシは、振り向いて一声発した。
「横井さん、ナイスバッティング」
「おう。イガラシこそ、ナイス走塁」
「どっちがベースカバーに入るか、よく見てましたね」
「なーに、さんざん練習でやってきたからな」
二人の会話に、小室は愕然とした。
「やられた……始めからこれを、ねらってたのか」
次打者は、一年生の七番岡村である。その初球が、ワンバウンドになった。小室はどうにか体で止めたものの、ボールが手に付かない。
「よしっ」
一塁ランナーの横井は、すかさずスタートした。そして二塁ベースへ頭から滑り込む。
「……し、しまった」
小室の送球は左に逸れ、難なくセーフ。これでノーアウト二・三塁となる。
「ナイススチールよ、横井!」
「これでチャンスが広がった」
味方ベンチからの声援に、横井は「へへっ」と軽く右拳を突き上げる。
対照的に、明善内野陣の面々は、呆然としていた。タイムを取りマウンドに集まったものの、キャッチャー小室を始め、誰もが棒立ちである。ただ一人、二塁手中町だけが「みんな落ち着け!」と声を張り上げる。
「あらら。明善ともあろうチームが、こんなに動揺しちゃって」
二塁ベース上で、横井はひそかにつぶやいた。
「なんだか点を取るのが気の毒になってくるぜ」
その時だった。ベンチの谷口より、サインが出される。
「ほう、スクイズか。岡村は小ワザがうまいし、いい作戦だな」
ふいに谷口が、こちらへ視線を向けた。そしてなぜか同じサインを出す。横井は「なんでえ」と、思わず苦笑いする。
「わざわざ、もう一度やらなくても……いやまてよ。もしやこれって」
やがれタイムが解かれ、明善内野陣がポジションへ散っていく。
「アウトを一つずつ取っていこうよ」
「まだ五点ある。弱気になるなっ」
フフ、と横井は含み笑いを漏らす。
「言うことはりっぱだが、どいつもこいつも顔が引きつってら」
ほどなく天野が、セットポジションから二球目を投じた。
アウトコース低めの直球。右打席の岡村は、これを巧みにマウンドと一塁線の中間地点へ転がす。天野はこれを捕球すると、ホームは見ずに一塁へ送球した。その間、三塁ランナーのイガラシが生還する。
「ゴーッ」
三塁側ベンチより、谷口の声が響く。それを聞くまでもなく、横井は三塁ベースを蹴り、ホームへ突進した。
「ボールバック!」
二塁手中町が叫ぶ。捕球した黒木は「なにいっ」と、慌ててバックホームした。それが高く逸れてしまう。目いっぱい伸ばした小室のミットを掠める。
またも頭から滑り込んだ横井の左手が、ホームベースの一角をはらう。
「セーフ!」
アンパイアの甲高いコールとともに、三塁側スタンドが湧き上がった。この時、スコアボートの一枠がまた、パタンとめくれる。そして墨高の得点が「4」と記された。
「ハハ、まいった」
キャッチャー倉橋が、半ば呆れたように言った。
「ほんとうにツーランスクイズを、決めちゃうとは」
ああ、と谷口はうなずく。
「向こうの守備陣が、だいぶ動揺してたからな。それでも成功すれば、しめたものと思ってたが……岡村と横井がうまくやってくれたよ」
その時、ちょうど横井と岡村が戻ってきた。
「横井、ナイスランだ。それに岡村も、ナイスバント」
声を掛けると、二人は照れた顔になる。
「へへっ、どうだい」
「ありがとうございます」
「で……でもよ、谷口」
ふと横井が渋い顔になる。
「一瞬ドキッとしたぜ。浮足立ってたとはいえ、守備のいい明善相手に」
「だからこそだ」
きっぱりと、谷口は答えた。
「相手の長所を破れば、一気に流れを引き寄せることができる。毎回というわけにはいかないが……時には、こうした戦法も必要なんだ」
横井が「な、なるほど」と感心げにうなずく。傍らで、倉橋は僅かに首をひねる。まだ腑に落ちないことがあった。
リクツは分かる。しかし今日のやつは、どうもあえてキケンをおかしているようだ。俺の知る限り、谷口という男は、そういうバクチ打ちのようなマネはしないはずだが……
やがて倉橋は、あることに思い至る。
「……そ、そうかっ」
思わずつぶやいていた。
「谷口のやつ。この試合をとおして、試してるんだな。俺達に……あの谷原を倒せるだけの力りょうが、身についているのかを」
その時、パシッと快音が響く。八番打者加藤の打球が、ライト線を破った。フェンス手前でワンバウンドして、跳ね返る。
「おおっ」
ベンチの墨高ナインは、総立ちになる。
ようやく右翼手がボールに追い付き、中継の二塁手中町へ送球する。この間、加藤は悠々と二塁へ達していた。ツーベースヒット、ワンアウト二塁。
マウンド上。明善内野陣は、エース天野を囲むようにして集まっていた。
「お、おい天野。だいじょうぶか」
中町が心配そうに声を掛けてくる。
束の間、天野は目を瞑った。すでに息が上がり、肩を上下させている。もはや誰の目にも、限界は明らかである。
「……悔しいが、ここまでだな」
目を見開き、一塁手の黒木へ告げる。
「スマン黒木。後は、まかせたぞ」
ああ、と黒木は深くうなずいた。
「ここまでやってくれりゃ、十分だ。あとはなんとか逃げ切ってみせる」
明善ナインは、口々にエースを讃える。
「ナイスピッチング」
「よく粘ったぞ」
メンバーの輪の中で、小室は一人うつむいていた。その肩を、天野がポンと叩く。
「ありがとう小室」
「……えっ。あ、天野さん」
どう応えていいのか分からず、小室は唇を結んだ。
墨高のいきおいを止めようと、必死に抵抗する明善ナイン。しかし彼らには、一つ大きな誤算(ごさん)があった。
それは墨高が、さらに強力なチームへと、今まさに変ぼうしつつあったことである。
3.決着の時
グラウンド上。またも明善が、ポジションを入れ替えている。一塁手が天野、そしてマウンドには、さっきまでワンポイント・リリーフだった黒木が上がる。
その黒木は、軽めに一球、二球……と投球練習を行う。直球、さらにカーブ。
「は、はええっ」
次打者の戸室は、ネクストバッターズサークルにて苦笑いした。
「スピードだけじゃなく、コントロールもよさそうだ。イガラシのやつ……アウトになったとはいえ、よく打ち返したな」
ほどなく、アンパイアが「バッターラップ」と声を掛けてくる。
戸室は右打席に立ち、スパイクで足元を均す。一つ深呼吸して「とにかくミートすることだな」と、バットを短く握った。
初球。外角へ投じられた速球が、ワンバウンドする。キャッチャー小室が体の前にこぼし、ランナーは進塁できず。
それでも「あれ?」と、戸室は思った。
「なんでえ、緊張してるのか。ま……考えてみりゃ、目の前でエースがつるべ打ちされたんだ。腕が縮むのも、ムリはねえか」
ようし、と気合を入れ直す。
「それにこれぐらいのスピードなら、いままでの対戦で見慣れてるしな。高めにきたら十分打ち返せるぞ」
二球目。ねらっていた、アウトコース高めの直球。戸室は躊躇うことなく、バットをおっつけるように振り切った。パシッと快音が響く。
「おおっ」
三塁側ベンチより、墨高ナインの数人が身を乗り出す。ライナー性の打球が、ジャンプした一塁手天野のミットを掠める。そしてライト線の内側に落ちた。
「や、やった!」
一塁へ走りながら、戸室は軽く右拳を突き上げる。その視界の端で、すでにスタートを切っていたランナー加藤が、素早くホームへ滑り込んだ。
ライト前タイムリーヒット。墨高はとうとう、二点差にまで詰め寄る。
この回、墨高の反撃は四点にとどまった。明善が辛くもリードを保ち、試合は終盤へと移っていくのである。
しかしもはや、両者の勢いの差は明らかだった。
続く七回表。突き放したい明善のまえに、墨高のエース谷口が立ちはだかる。昨年よりも増した球威と、多彩な変化球を織り交ぜた投球で、つけ入る隙を与えず。難なく三者凡退におさえたのである。
その裏。なんとか守り切ろうと、意気込む明善ナインだったが……
倉橋の放ったライナー性の打球が、右中間を破る。墨高応援団の三塁側スタンドが、またも大きく湧いた。
「ボール、サード!」
キャッチャー小室の掛け声も虚しく、倉橋は楽々と三塁を陥れる。
マウンド上。リリーフ登板の黒木が、膝に両手をつく。周囲では、内野陣がただ呆然と立ち尽くしていた。マズイぞ……と、小室は唇を歪める。
「黒木さん、腕が縮こまってる。あれじゃダメだ」
小室の懸念は当たった。続く四番谷口に、あっさり三遊間を破られる。三塁ランナーの倉橋が、眼前でホームを駆け抜けた。
スコア六対七。とうとう、一点差となる。
「く、くそう。どうすりゃいいんだ」
腰に手を当て、ついうつむき加減になる。
「ほとんど作戦どおりに、試合を進めてたってのに。ここまで追いつめられるとは」
その時だった。
「どしたい小室。下を向くんじゃねえ」
ハッとして顔を上げる。そこには、イガラシが立っていた。
「い、イガラシ……」
「苦しい時こそチームを鼓舞するのが、キャッチャーのつとめだろう。それともあきらめたのか。まだ逆転されたわけでもねえのに」
「……そ、そんなワケあるかっ」
思わず怒鳴り返す。
「イガラシ見てろ。最後に勝つのは、俺達だ!」
フフ、とイガラシは笑みを浮かべた。
「そうこなくっちゃ」
小室は屈み込むと、すぐにサインを出す。外角低めのカーブ。
「カーブの制球は悪くない。二遊間へ打たせば、うちの守りならアウトにできる」
眼前で、黒木がうなずく。そして投球動作を始めた。小室がミットを構える、外角低めいっぱいのコース。
よし、いいボール……えっ。
パシッ、と乾いた音がした。イガラシの打球は、名手中町にジャンプする暇(いとま)さえ与えず、右中間へぐんぐん伸びていく。
「外野バックだっ」
「ライト……いや、センター!」
中町と天野が、同時に叫ぶ。しかしその数秒後……白球は、深い右中間スタンドの中段へと吸い込まれていった。
その瞬間。三塁側スタンドとベンチが、割れんばかりの歓声に包まれる。殊勲の一発を放った当人は、しかしニコリともせず、淡々とダイヤモンドを一周していく。そして谷口に続き、ゆっくりとホームベースを踏む。
ツーランホームラン。スコア八対七、ついに墨高がリードを奪う。
「まいったよイガラシ」
小室は苦笑いを浮かべた。
「いまのタマをあそこまで運ばれちゃ、お手上げだぜ」
もはや明善に、墨高の勢いを止めることはできなかった。
七回はなんとか後続をおさえたものの、とうとう八回に力尽きる。打者一巡の猛攻で、いっきょに六点を許してしまったのである。
むかえた九回。気落ちした明善は、あっという間にツーアウトを奪われ……
ズバン。倉橋のミットが、小気味よい音を鳴らした。傍らで、打者のバットが力なく空を切る。
「ストライク、バッターアウト。ゲームセット!」
アンパイアのコールと同時に、内外野のスタンドが湧き上がった。キャプテン谷口は、静かな微笑みを浮かべ、マウンドを駆け下りる。
数秒後。両チームのナインはホームベースを挟み、向かい合って整列した。そしてアンパイアが、右手を高く掲げる。
「墨谷対明善の準々決勝は、十四対七をもって墨谷の勝ち。礼!」
「アリガトウシタッ」
その瞬間。両チームの応援スタンドから、選手達へ大きな拍手が贈られた。
「……おいイガラシ、久保!」
踵を返しかけた元チームメイトの二人を、小室は呼び止める。
「や、やあ」
「ご苦労さん」
思いのほか快く、二人は駆け寄ってきた。そして互いに握手を交わす。
「二人ともがんばれよ。こうなったら、必ず甲子園へ行ってくれ」
「もちろんさ」
イガラシが力強く応える。隣で、久保もうなずいた。
三塁側スタンド。田所始め墨高野球部OBの面々は、半ば放心していた。
「ま……まさか、ほんとうに逆転しちまうとは」
中山が喜ぶというより、驚いた顔になる。
「七、八回の攻撃なんて、すさまじかったよな。相手が気の毒にさえ思えたぜ」
ああ、と太田が同調する。
「おまけに谷口が登板してからは、たしか二塁も踏ませてねえんじゃねえか」
山口も「む」と、汗を拭いつつうなずく。
「最後はまるでスキがなかった。五回戦までと、べつのチームになったようだぜ」
「だから言ったろう」
田所が振り向き、得意げに言った。
「やつらが力をだしゃ、これぐらいはできるさ」
そんなこと言って……と、山本が突っ込む。
「な、なんだよ山本」
「点差が開くまで、しばらく試合を見られなかったじゃありませんか」
「う、うるせえっ」
その時、眼下のグラウンドから「先輩方!」と呼ぶ声がした。田所達が振り向くと、キャプテン谷口を中心として、墨高ナインが一列に並んでいる。
「今日は暑い中、応援ありがとうございました!」
キャプテンの掛け声と同時に、ナイン達は脱帽し、揃って一礼する。
「アリガトウシタッ」
田所らOBは、拍手で返す。
「よくやったぞみんな」
「つぎも応援にくるから、がんばれよ!」
中山と山口が、重ねて声援を送る。その隣で、山本が「つぎこそウナ丼おごってやるからな」と、暢気そうに言った。
「あんニャロ。また、しょーもないことを……」
田所が拳骨を握りかけた時、ふいに太田が「ちょっと先輩」と袖口をつつく。
「なんだよ。てめえも、ウナギの話か」
「ち、ちがいますって。ほら……見てくださいよ、あいつらの顔」
「顔がどうした?」
「初めてのベスト4だというのに……なんつうか、みょうに淡々としてませんか」
えっ……と思い、改めて後輩達を見やった。
そして気付く。笑っている者、ほとんど表情を変えない者。個々の違いはあるが、皆一様にあっけらかんとしていた。
「なんでえあいつら。まるで……勝ったのが、当たり前みてえに」
こうして墨高は、大逆転の末、都大会のベスト4へ堂々と名乗りを上げたのだった。
その後――谷原と東実も、続々と準々決勝を突破。いよいよ二日後の準決勝にて、墨高ナインは谷原との決戦をむかえるのである。
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