【目次】
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第38話 いざ決戦の時!の巻
<登場人物紹介>
※谷原高校:春の甲子園大会出場校(原作『プレイボール』では「甲子園でかつやくした谷原」と記述されているので、本作は“春の甲子園ベスト4”と設定した)。おそらく作中最強チーム。甲子園大会後の練習試合では、シード校となり勢いに乗る墨高を十九対五と一蹴した。
監督:先の練習試合では、墨高を「底が知れない」と評し、五回途中でレギュラーに総入れ替えする。結果として大差が付き、試合後には「シード権をえたばかりの新生チームだってのに、気の毒なことをしたよ」と述べた。それでも「いずれ頭角をあらわすだろう」と、その潜在能力の高さを認めている。
村井:谷原のエースにして、本格派の左腕投手。墨谷との練習試合では、イガラシの一塁ベースに当たるアンラッキーなヒットにより一点は失ったものの、その後は難なく抑えた。
佐々木:谷原の正捕手にしてキャプテン。落ち着いた言動が印象的である。原作では、練習試合にて谷口からホームランを放つ描写があることから、高い打撃力の持ち主と思われる。
1.バックスタンドにて
東京の空は、この日も快晴である。
ここ神宮球場では、準決勝第一試合が行われていた。対戦カードは、東実と専修館の組み合わせである。内外野のスタンドは、すでに超満員だ。
第二試合をひかえる墨高ナインは、バックネット裏に陣取る。彼らの見つめるグラウンド上では、東実のエース佐野が、まさに圧巻の投球を見せていた。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアが右拳を突き上げた。専修館の打者はガクッとうなだれ、足取り重くベンチへ向かう。対照的に、マウンド上の佐野は不敵な笑みを浮かべる。
「す、スゴイ……」
客席の三列目に座るイガラシが、吐息混じりに言った。
「ウワサには聞いてましたけど。あの佐野が、ここまで成長してたとは」
ほう、と前席の横井が振り向く。
「イガラシがそこまで言うなんて、相当だな。でもおまえ、たしか中学の時は、やつを打ち込んでたそうじゃないか」
「ええ……しかしあの頃とは、格段にちがいますよ」
驚き呆れるナイン達。その眼前で、佐野が躍動する。
右足を踏み込み、グラブを突き出し、左腕を振り下ろす。閃光のような快速球、ブレーキ鋭い変化球。どれも面白いようにコーナーへ決まる。専修館の各打者は、ただただ翻弄されるばかりだ。
「佐野だけじゃないぞ」
後列を振り向き、倉橋が渋い顔で言った。
「強打者こそ少ないが、どいつもこいつも足があるし、小ワザも巧みだ」
「む。それにしても……」
横井が腕組みしつつ、首を傾げる。
「秋にやった時と、ずいぶんメンバーが変わったな。まるで別のチームだぜ」
試合はすでに終盤を迎えていた。初回からスコアボードに「0」が並ぶ専修館。一方、東実は小刻みに得点を重ね、計四点のリードを奪う。
「おいイガラシ」
ふと井口が、傍らの幼馴染に声を掛ける。
「気づいてたかよ、東実のメンツ」
ああ、とイガラシはうなずいた。
「かつて戦った青葉のやつらが、何人もレギュラーに入ってる。まえに加藤さんから聞いたが、そのメンバーが佐野を頼って集結したというウワサは、本当らしいな」
最前列の真ん中の席にて、キャプテン谷口はナイン達の会話を静かに聞いていた。
昨秋から、また一回り成長したな。スピードに加え、緩急をうまく使って、打者のタイミングを外してる。やはり佐野、タダ者じゃない。
ガキッ。今度は鈍い音がした。東実の一塁手が「オーライ」と合図して、ミットで難なく捕球する。
「アウト! スリーアウト、チェンジ」
再びアンパイアのコール。打者が「くそう」と顔を歪める傍らで、佐野を先頭に東実ナインが引き上げていく。
さて、と谷口は一声発した。
「そろそろ移動して、体をほぐしておこうか」
「はいっ」
ナイン達は快活に応え、各自荷物を手に立ち上がる。
ふいにパシッと、快音が響いた。周囲から「おおっ」と歓声が湧く。東実の打者の放った大飛球が、勢いよくレフトスタンドへ飛び込んだ。
「あちゃー、五点目か」
横井が苦笑いした。
「どうやら決まりだな。それにしても……あの専修館が、ここまでやられるとは」
他のナイン達も「そうだな」「まいったぜ」と、同意してうなずく。
「あの、キャプテン」
谷口の傍らで、半田が心配そうに尋ねてくる。
「よかったのでしょうか。試合前に、佐野のあんな投球を見せたりして」
「なーに、だいじょうぶさ」
キャプテンは、あっさり答える。
「ほら。見てみなよ、みんなの顔を」
「え……あっ」
半田の視線の先。口元を引き締める者、僅かに笑みを浮かべる者。表情こそ違えど、誰一人として、うつむき萎縮する者はいない。
やがて墨高ナインは一列となり、谷口を先頭にスタンドの段を上っていく。
球場出入り口近くに差し掛かり、谷口は「あ」と声を発した。他のナイン達も顔をほころばせる。
電気屋のつなぎ姿のOB田所が、ちょうど階段を上がってきたのだ。
「コンチワッ!」
ナイン達は脱帽し、挨拶する。田所は「おおっ」と微笑み、こちらに駆けてきた。
「やっぱりここだと思ったよ。ゼイゼイ……」
階段を上がり息弾ませる先輩を、谷口は「だいじょうぶですか?」と心配する。
「な、なーに。急に階段をかけ上がったもんでよ」
「もちっと運動した方がいいスよ」
後方でからかう横井を、田所は「うるせー」と睨み付ける。
「しかし、ずいぶん早いですね」
苦笑いしつつ、谷口は言った。
「まだ第一試合も終わってないというのに」
「ああ。オメエらに会うなら、いまぐらいの時間がいいと思ってな。開始直前だと、どうしてもピリピリするだろうし」
「お気づかい、ありがとうございます」
素直に感謝した。元キャプテンは「よせやい」と、顔を赤らめる。
「それより、昨晩はぐっすり眠れたか?」
ええ、と谷口はうなずく。
「おかげさまで。みんな、まずまずの調子です」
「ハハ。そりゃけっこう、けっこう」
おどける田所。しかしその後、言葉が続かない。束の間の沈黙。
「な、なにか?」
怪訝げに谷口が問う。
「……あ、あのよ」
田所はふと、真顔になった。
「はい」
「忘れないでくれ。どんな試合になったとしても、おまえは……オメエらは、俺の誇りだ。悔いなく戦ってきてくれりゃ、それでいいからな」
そう言って、OBはうつむき加減になる。
「なにをおっしゃるんです」
ふいに後方から、言葉が挟まれた。イガラシである。
「少なくとも、あと三試合は来ていただかないと」
「さ、三試合?」
一瞬、田所はきょとんとした。
「準決勝と決勝の二試合は分かるが、もう一試合つうのは……」
それでも、ほどなく「ああっ」と思い至る。
「こ、甲子園か!」
「ええ」
強気な一年生は、事もなげにうなずく。
「ぼくとしては、さらに四試合やるつもりですけど」
「あ、あと四試合って。そりゃ甲子園の決勝じゃねえか」
肩を竦めたのは、三年生の横井だ。
「意気込みは分かるが、まず今日勝たねえと」
へへっ、と田所は笑い声を発した。
「な、なんスか」
「横井。そういうオメエだって、今はっきり口にしたじゃねえか。勝つってよ」
「えっ……あ、そういやぁ」
口を半開きにする横井。その隣で、戸室が「そりゃそうですよ」と胸を張る。
「なにせ俺達、あの谷原に勝つことを目標に、ずっと励んできましたから」
「ほう、なんだい戸室」
吐息混じりに、田所は応える。
「オメエいつになく、頼もしいじゃねえか」
すかさず横井が「ちがいますよ」と、意地悪な笑みを浮かべた。
「こいつ、おととい久々に出られたもんで、機嫌がいいだけス」
「なにいっ。テメ、また人をからかいやがって」
田所は「バカやめろ」と、慌てて制止した。ポカンとするナイン達。その傍らを、数人の観客が「ぷっ」「クスクス」と笑いながら通り過ぎていく。
「まったく……こんな時にじゃれ合うとは」
半ば呆れながらも、田所は頼もしげに後輩達を見やる。
「なんだかんだ余裕じゃねえか」
その時である。キャプテン谷口が、ふいに「みんないいか」とナインへ声を掛けた。そして少し照れた顔で、OBと目を見合わせる。
「……あの、田所さん」
「な、なんだよ。あらたまっちゃって」
「いろいろなご支援、ほんとうにありがとうございました。今日も……いえ、これからも応援よろしくお願いします!」
後輩達は、再び脱帽して声を揃える。
「アリガトウゴザイマシタッ」
「ば、ばかっ」
田所はわざとらしく、不機嫌な声を発した。
「んなこたぁ、試合後に言うもんだ。ちと早すぎるぜ」
「は、はぁ。スミマセン」
生真面目なキャプテンは、苦笑いする。
「あれ、田所さん」
ふと倉橋が、目を丸くした。
「目にゴミでも入りましたか?」
「え……そっ、そーなんだよ」
田所は慌てて、潤み始めていた目元をこする。
「今日は風が強くってなぁ。いやー、まいったまいった」
「先輩、何を言ってるんスか。風なんてちっとも……」
とぼける横井を「バカヤロー」と怒鳴り付ける。
「野暮なんだよ、テメーは。この期に及んで……ううっ」
田所はそう言って、また涙を拭った。
やがて墨高ナインは、一旦球場の外へ出ていく。その背中に、鋭い眼差しを向ける一団があった。
バックスタンド上段に陣取る、谷原ナインの面々である。
「なんだい。もう移動するのか」
エース村井が、フフと笑みを浮かべた。
「しかし、ずいぶん落ち着いてるな。初めての準決勝だってのに」
傍らで、キャプテンの佐々木が「うむ」とうなずく。
「それにいぜん戦った時は、いかにも小粒なチームだったが、心なしか大きく見える」
「たしかに勢いはありますね」
眼鏡のマネージャーが、手元のノートをめくりながら言った。
「打率や防御率がそこまで飛び抜けてるわけじゃないのですが、やはりここ一番での集中力は侮れません。なにせ準々決勝では、あの明善相手に七点差をひっくり返して、堂々と勝ち上がりましたから」
それにしても……と、佐々木は一つ吐息をつく。
「ほんの三ヶ月たらずで、ここまで成長するとは」
村井が「うむ」と同意する。
「ひと月前の招待野球で、俺達が負けた西将に食い下がった時は、さすがにたまげたぜ。ウワサじゃ、ほかの甲子園に出たチームを、いくつか倒したって話もあるし」
エースの言葉に、キャプテンは「そうらしいな」とうなずいた。
「聞いた時は信じられなかったが、こうして四強まで勝ち上がってきた。もはや別のチームだと思った方がよさそうだ」
ええ、とマネージャーも首肯する。
「なにせ川北や明善でさえ、あえなく墨谷に沈められたんです。なんとも底知れぬチームだと、いぜん監督が話してたとおりに」
「バカいえ」
佐々木の右隣にて、ウインドブレーカー姿の男が渋面になった。
角刈りの頭に太い眉のいかつい出で立ち。長身揃いの選手達と比べても見劣りしない、堂々たる体躯。彼こそ谷原高校野球部監督、その人である。
「ワシだって、こんな短期間で頭角を現してくるとは、さすがに想像してなかったさ。これは執念のなせる業(わざ)だろう」
だからこそ……と、監督は付け加える。
「われわれは堂々と迎え撃とう。墨谷が死にものぐるいで向かってくるのなら、それを上回る気迫でぶつかるんだ。いいなっ」
指揮官の檄に、谷原ナインは力強く「はい!」と応えた。
球場の外は、多くの人でごった返していた。
「大人一枚、子供二枚たのみます」
「ハイヨ」
「三塁側スタンドはこちらです。どうぞ順番に、ゆっくりお並びください」
「かき氷いかがですかー!」
チケットを求める観客。球場入口へ案内する係員。出店の売り子。様々な声が飛び交い、入り混じる。炎天である。
バックスタンドから移動してきた墨高ナインは、球場の三塁側選手出入り口近くに集まっていた。二つのベンチに荷物を並べ、各自ストレッチや素振りを行う。
キャプテン谷口は、ベンチ手前で仲間達を見守りつつ、開脚して前屈運動に取り組んでいた。そこへ「よう」と、倉橋が歩み寄ってくる。
「今日はどいつもこいつも、みょうに落ち着いてやがんな」
立ち上がり、谷口は「ああ」と返事した。
「やはり準々決勝を突破したことで、みんな一皮むけたんだろう」
「む……ただ相手を考えれば、もう少し緊張してよさそうな気もするが」
「なーに。カタくなって力が出せないよりは、ずっといいさ」
それもそうだな、と倉橋は微笑んだ。
「投手陣の方はどうだ?」
第一の懸案事項を尋ねてみる。
「きのうの練習では、とくに不調の者はいなかったが」
「そこは心配いらねーよ」
谷口の質問に、相手は力強くうなずいた。
「けさも学校で、根岸と一緒に受けたが、井口も片瀬もいいボール投げてたぞ。とくに井口は、もう明善戦のようなヘマはすまいと、だいぶ気合入ってたし」
「うむ。井口の方は、俺もだいじょうぶだと思う。問題は片瀬だ。これまで試合経験が少ない分、いきなりの準決勝で力を出せるかどうか」
「たしかにそこは未知数だが……」
ふいに倉橋が、フフと笑みを浮かべた。
「けさの様子を見る限り、なんだかワクワクしてる感じだったぞ」
「わ、ワクワクしてる?」
「ああ。なにせやつは、長らくケガの苦しみに耐えてきた男だ。相手がどうこうより、とにかく試合に出られることが、うれしくてたまらないんだろう」
その片瀬は、控え捕手の根岸とペアを組み、入念に柔軟運動を繰り返していた。端正な顔立ちに、時折笑みが浮かぶ。倉橋の言うように、見るからに楽しげだ。
なるほど、と谷口は応えた。
「それなら継投は、予定どおりいけそうだ」
「む。もし井口と片瀬が早い回でつかまっても、イガラシがいる」
「ああ……しかし相手は谷原だ。思わぬ展開があるかもしれん」
「分かってるさ」
正捕手はそう言って、口元を引き締める。
「その場合は、臨機応変にいこう。ま……どんな試合になっても、最後まで食い下がっていこうぜ」
その時である。小道の方から「いたいた!」と、耳馴染みの声が聴こえた。
「え……あっ」
顔を向け、谷口は目を丸くした。なんと両親が連れ立って来ている。
「と、父ちゃん。それに母ちゃんまで」
倉橋に「ちょっと」と断り、谷口は急いで駆け寄った。
「あー、よかった。間に合った」
木陰で父に付き添われ、母が息を弾ませる。
「どうしたの。試合が始まるまで、あと一時間近くもあるってのに」
「ハァハァ……おまえが早く出かけたものだから、渡しそびれちまったんだよ」
母は「ハイこれ」と、持っていた紙袋を差し出した。受け取るとズッシリ重い。
「さっき八百屋で買ったスイカだよ。すぐ食べられるように、切ってタッパーに入れてあるから、お友達にも分けておやり」
「わざわざ持ってきてくれたのかい」
戸惑いながらも、谷口は「ありがとう」と感謝を伝えた。母はフフと微笑む。
「今日は、大事な試合なんだろ。しっかりおやり」
「う、うん。分かった」
言葉少なに、それでも力強く応える。
「……か、母ちゃん」
ふいに父が、間の抜けた声を発した。懐に風呂敷包みを抱える。
「なんだい」
「せがれの晴れ舞台だ、序盤だけでも見ていこうよ」
両手を組み、なぜかニヤニヤしている。
「カッコいいこと言って、これはなんだい?」
母はぐいっと風呂敷をつかみ、取り上げる。
「あっ……ち、ちょっと」
広げると、中から一升瓶が出てきた。
「やっぱり。どうせ、こんなことだろうと思ったよ」
「ちょっとぐらい、いいじゃないの。ね?」
「ダメに決まってるだろう。今日は玄関の立て付けを直すって、ずっとまえから約束してたじゃないのさ。野球はラジオで、きけるだろう」
「なんだい、ケチくせー女だな!」
父が舌打ちする。母はぎろっと睨んだ。
「そりゃワルうござんしたねっ。アンタが玄関を直す直す言って、半年もほったらかしにしてたのがいけないんじゃないのさ」
「な、なんだとっ」
「なにを!?」
谷口は「ちょっと二人とも」と苦笑いする。後方では、ナイン達が口をポカンと開けていた。周囲では、蝉がひっきりなしに鳴く。
その時、球場からどっと人が溢れてきた。どうやら第一試合が終わったらしい。
「……ちぇっ、仕方ねーな」
父は溜息をつき、フッと笑みを浮かべる。
「じゃあなタカ。父ちゃん、ラジオの前で応援してっから」
「う、うん。ありがとう」
二人は踵を返し、球場近くのバス停へと向かう。谷口はしばし両親を見送り、それからナイン達の輪の中に戻った。
2.グラウンドへと
「……あっ、キャプテン!」
人波から飛び出したのは、半田だった。彼だけは制服姿のまま、ノートを手にこちらへ駆けてくる。
「いま終わりました」
「ご苦労さん。試合は、あのまま?」
「はい。佐野がなんと、ノーヒットノーランを達成したそうです」
半田の一言に、ナイン達がざわめく。
「の、ノーヒット……」
「そういやあ、ほとんど外野にも飛ばされてなかったものな」
「あの専修館が……けっきょく最後まで、佐野に手も足も出なかったか」
やがて球場から、東実ナインが出てくる。監督を先頭に、悠々と通路を進んでいく。そして列の最後尾に、エース佐野の姿があった。
その佐野が、ふいにこちらへ顔を向ける。谷口と束の間、目を見合わせる格好になった。他のナイン達は、佐野を睨む。
小さなエースは、一瞬笑みを浮かべたように見えたが、すぐに視線を逸らせた。そして通路の奥へと消えていく。
「半田。東実の分析は、進んでるな?」
谷口が尋ねると、半田は「ええ」と応える。
「新聞部の人達も手伝ってくれてるので、だいぶ細かくまとめられてますよ」
「たすかるよ。今日帰ったら、すぐに明日の東実戦へ向けてミーティングするから、準備しておいてくれ」
「……えっ」
つぶらな瞳をパチクリさせ、半田は戸惑った顔になる。
「どうした?」
「キャプテン、明日って……」
野球部員にしては華奢な肩を、谷口はポンと叩く。
「半田。今日の試合、勝つんだ」
その迫力に、半田は気を付けして「は、ハイ」と返事した。
「墨高のみなさーん!」
ほどなく白いポロシャツ姿の球場係員が、こちらに右手を振り合図する。
「お待たせしました。どうぞ三塁側のロッカー室へ」
谷口はすぐに「みんないくぞ!」と一声発した。
「オウヨッ」
ナイン達は各自荷物を取り、一列に並ぶ。
ところが一人、周囲の様子に気付かず、数メートル先の人のいない木陰で素振りを続ける者がいた。準々決勝で途中交代させられた、一年生の久保である。
「お、おい久保」
谷口が声を掛けると、久保はハッとして手を止めた。
「これからロッカー室へ移動するぞ。急いで準備しろ」
「あっ……す、スミマセン」
久保は慌てて、荷物のあるベンチへ走る。その背中に、谷口はもう一言付け加えた。
「力みのない、いいスイングしてたな」
えっ、と長身の一年生はこちらに振り向く。
「大事な場面で、必ず出番がやってくる。しっかり備えておくんだぞ」
「……はい」
キャプテンの一言に、久保は口元を引き締めた。
三塁側ロッカー室。谷口はナイン達に、母の差し入れのスイカを振る舞った。
「このスイカ、甘いな。かなり上質のやつだ」
横井が満足げに言った。傍らで、戸室が「む」とうなずく。
「それに、よく冷えてる。これならいくらでも食えるぜ」
食べるというより、がっつくナイン達。三個のタッパーに分けられていたスイカが、ほんの数分で残り四、五切れになった。
「おいオメーら、種をその辺に飛ばすなよ。ちゃんとゴミ袋に入れろ」
倉橋が渋面になり、注意する。
「誰がそんな、もったいないことするかい」
へへっ、と横井が妙な笑みを浮かべた。
「持ち帰って、後でウチの庭に植えるんだよ」
「小学生かキサマは」
戸室の突っ込みに、横井は「うるせー」と言い返す。試合前にしては緊張感のない上級生のやり取りに、下級生達は苦笑いするほかない。
「一年生も遠慮しないで食べるんだぞ」
気を遣いがちな一年生に声を掛けたのは、鈴木だった。岡村と根岸が「ありがとうございます」と礼を述べる。
「バーカ、よく言うぜ鈴木」
ところが丸井に突っ込まれる。
「一人で七個も八個も食ってから、言うセリフじゃねーだろ」
「あっ……」
「きさまは少し遠慮しろ。この食いしん坊め」
バツの悪そうに、鈴木がうつむく。
「みんな、たっぷり食べられたか?」
やがてキャプテン谷口が、ナイン達へ声を掛けた。
「はーい!」
「おかげさまで満腹でーす」
数人の間の抜けた返事に、谷口は「よかった」とうなずく。しかし次の瞬間、表情と口調を一変させた。
「それじゃあ……これから、今日の作戦を確認する」
途端、室内が緊張感に包まれる。
「まず攻撃面だが、先に打順を発表しよう。普段とちがってるから、間違えないように、ちゃんと覚えてくれ」
「はいっ」
しばし間を置いた後、谷口は話を続けた。
「まず一番……ショート、イガラシ。二番セカンド丸井、三番キャッチャー倉橋。四番サードは俺。そして五番は、センター島田」
前もって伝えていたため、変更にも誰もが驚くことなく、静かに聞いている。
「あとは、ほぼいつも通り。六番ライト横井、七番ピッチャー井口。八番ファースト加藤、九番レフト戸室。以上のオーダーだ」
ふぅ、と周囲から溜息が漏れた。
「つぎに作戦だが……イガラシは村井が最も得意とする、インコースの速球をねらい打て。一度でも仕留められれば、少なからず相手バッテリーは動揺するはずだ」
「まかせてください!」
強気な一年生は、事もなげに言った。
「うむ、アテにしてるぞ。そして他の者は、このインコースの速球は捨てて、変化球をねらう。といっても……村井は大小のカーブ、シュート、チェンジアップと球種は多彩だ。どれに絞るかは、実際に見て決めよう」
傍らで「それが賢明だな」と、倉橋も同調する。
「もちろん、容易に攻りゃくできるとは思わない。なにせ甲子園で活やくした投手だ」
やや声を潜めて、谷口は言った。
「打ち返すのが難しくても、ねばって一球でも多く投げさせる。そうしてジワジワ攻めていけば、どこかで突破口を見つけ出せるはずだ」
「……あの、キャプテン」
おずおずと挙手したのは、島田だった。
「谷原が先発投手を変えてくるってことは、考えられませんか」
そうだな、と加藤が相槌を打つ。
「あちらさんもうちも、今日勝てば明日は連戦になる」
「む。まえに戦った時は、あの野田ってのが投げてたし。谷原ならほかの投手だって」
島田の発言に、丸井が「気にすることはねえよ」と鼻息を荒くした。
「ちとタマは重いが、スピードも変化球のキレも、大したことなかったろう」
ああ、と戸室も同調する。
「じっさい、そんときゃ五回途中でノックアウトできたし」
チームメイト達のやり取りに、谷口はしばし思案を巡らせた。
島田の言うように、連投を避けたいのなら、エース村井ではなく野田を先発させるのも一手だ。しかし谷原は、ここまで全試合コールド勝ち。さほど労力は使ってないはず。
ふと黙り込んだキャプテンを、ナイン達は訝しげに眺める。
なにより練習試合でさえ、谷原はおしみなくレギュラーを出してきた。そんなチームが、一度ノックアウトされた投手を、大事な準決勝で先発させるだろうか。
「……キャプテン、キャプテン?」
丸井の呼び掛けに、谷口は「えっ」と我に返る。
「どうかされましたか」
「いや……スマン。とにかくだ」
キャプテンは口元を引き締め、話を続ける。
「あまり都合のいいことは、考えずにおこう。どっちみち、やるべきことは同じだろう。相手がなにをしてきても、ねばり強く食い下がり、わずかなチャンスにかける。その意思を、チーム全員で持ち続けることだ」
その時だった。コンコンと、部屋の扉がノックされた。
「どうぞ、開いてますよ」
谷口が返事すると、さっきの係員が「失礼します」と入ってくる。
「グラウンド整備が終わりました。さ、どうぞベンチへ」
「ありがとうございます」
礼を述べて、谷口はナイン達を振り向いた。
「ようし。行くぞ、みんな」
「ハイ!」
キャプテンの合図に、墨高ナインはさっと立ち上がる。
すぐにロッカー室を出て一列になり、係員に従って通路を進む。そして突き当たりの扉から、三塁側ベンチへと入る。
扉を開けた瞬間、スタンドの歓声がどっと流れ込んできた。
「な、なんだこりゃ」
すぐに横井と戸室がダッグアウトを出て、内外野のスタンドを見上げる。さらに数人が後を追った。そして皆一様に、目を丸くする。
スタンドの客席は、ほぼすべて埋まっていた。
「ま……満員じゃねーか」
戸室が溜息混じりにつぶやく。
「うむ。さすがに準決勝ともなれば、いままでと全然ちがうな」
傍らで、横井が呆れたような笑みを浮かべた。まさに大声援である。
「ワッセ、ワッセ、すーみーこうっ。ワセッワセッ墨高、ワセワセ墨高!」
「カッセ、カッセ、やーはーらっ。カッセ、カッセ、谷原!」
その時、アンパイアがこちらに駆けてきた。
「墨高のキャプテンは、いますか?」
谷口は「はい」と、右手を挙げて返事する。
「オーダー表の交換を行いますから、用紙を持ってバックネット前に来てください」
「分かりました」
半田から用紙を受け取り、谷口はすぐにバックネット前へと走り出した。すると相手ベンチからも、二人の人物が駆けてきた。
「……あっ」
谷口は思わず、唾を飲み込む。
「やあ、久しぶりだね」
握手を求めてきたのは、谷原高校野球部の監督であった。その隣で、キャプテン佐々木が微笑みを浮かべる。
「は、はい。よろしくお願いします」
握手を交わし、互いのオーダー表を交換した。相手の先発メンバーを読み取り、谷口は胸の内に「やはり」とつぶやく。
オーダー表には、予想通り「ピッチャー村井」と記されていた。
数分後、グラウンド上では試合前のシートノックが始まる。先に登場したのは、後攻の墨高ナインだ。
「へいっ、サード!」
控えの一年生高橋が、ノックバットを振るう。サードの谷口は「さあ来いっ」と快活に応え、高く弾んだゴロを軽快にさばく。そして素早く一塁送球。
「ナイスサード! つぎ、ショートっ」
こうしてシートノックが続く。内外野の誰もが、軽快な動きで打球を処理する。その光景を、谷原ナインは一塁側ベンチにて、じっくり眺めていた。
「やはり、いぜん戦った時とはちがうな」
エース村井は、感心げに言った。
「まえは小兵の印象だったのに、いまやすっかり洗練されたな」
うむ、とキャプテン佐々木がうなずく。
「勢いなのか自信なのか分からないが、なんというか風格が出てきた。もはやほかの強豪と比べても見劣りしないほどだ」
やがて彼らの視線は、三塁側ブルペンへと移る。二人の投手が並び、それぞれ控え捕手を相手に投げていた。
「手前のやつが、井口だな」
村井が鋭い眼差しを向ける。
「ふてぶてしいツラだこと。あれでまだ、一年生なんだろ」
む、と佐々木がうなずく。
「しかしあのスピードには、ちと手こずりそうだ。とくにやつのシュートは、直角に曲がるってウワサだ」
「ま……あれぐらいの投手は、全国大会へ行けばゴロゴロしてるが」
含み笑いを浮かべ、村井は「そういや」と声を潜める。
「井口の隣で投げてる、あのサイドスローは誰だ」
ああ、とマネージャーが手元のメモ帳を広げた。
「片瀬ですね。五回戦で一イニングだけ、登板してます」
「うちとの練習試合でも出てこなかったが、やつも一年生なのか」
「ええ……聞くところによれば、かつてリトルリーグで活やくしたようです」
傍らで、佐々木が「ひょっとして」とつぶやく。
「我々にぶつけるため、切り札として温存してたのか」
「ハハ、まさか」
村井は苦笑いした。
「いくらサイドハンドで目先を変えられるからって、その程度じゃ俺達には通じないことくらい、やつらにも分かるだろう」
「それもそうですね」
メモ帳を閉じ、マネージャーはうなずく。
「おおかた来年へ向けて、一年生に経験をつませようってとこでしょう」
「なにを言うか」
ベンチ奥より野太い声を発したのは、監督である。
「はじめから負けることを考えるようなチームなら、ここまで勝ち上がれまい。やつらのことだ、なにか意図があるに決まってる」
「あ、はい」
戸惑いつつ佐々木は返事した。いつになくけわしいね……と、胸の内につぶやく。
「いまの墨谷は、もはやラクに勝てる相手じゃないぞ」
腕組みして、指揮官はさらに付け加える。
「だから村井を先発させた。この試合、もつれればもつれるほど、向こうのペースになる。それを防ぐには、けっしてスキを見せないことだ。いいな!」
谷原ナインは、力強く「はいっ」と応えた。
ほどなく墨高ナインと入れ替わり、今度は谷原ナインがシートノックを始めた。
「へいっ、レフト」
「オーライ」
「つぎはサード!」
ノッカーは、監督自ら務める。大柄な谷原の選手達が、俊敏に動き回る。鋭いノックの打球、そして矢のような送球が、グラウンド上を飛び交う。
「ハハ。やはりうまいな」
横井が言った。もはや笑うしかないといったふうだ。
「川北や明善もすごいと思ったが、谷原はなんつうか……格がちがうぜ」
「ええ、そうですね」
同調したのは、イガラシである。
「甲子園で活やくした自信でしょうか。余裕があるように見えます」
「む。やつらを揺さぶるのは、ちょっと容易じゃなさそうだ」
うなずく横井。その傍らで、戸室が「あーあ」と溜息をつく。
「野田が先発なら、もうちょい気はラクだったのに」
彼らの視線の先。一塁側ブルペンでは、谷原のエース村井が投球練習を行っていた。長身のオーバーハンドが繰り出す、威力ある速球。そして切れ味鋭い変化球。
「……いや、かえって好都合だ」
キャプテン谷口が、ふと微笑む。
「早い回から出てもらった方が、こっちも目を慣れさせられる」
「なるほど!」
ベンチ後方で、丸井がポンと手を打つ。
「先のことまで考えるなんて、さすがキャプテン」
「ま……モノは考えようって、よく言うけどよ」
対照的に、なおも横井は渋面のままだ。
「もちろん厳しい展開はさけられまい」
穏やかな口調で、谷口は答えた。
「しかし我々は、いままでだって何度も、苦しい状況からひっくり返してきたじゃないか。そうだろう横井」
思わぬ一言に、横井が「あっ」と息を呑む。他のナイン達は、互いに目を見合わせた。なぜか自然と笑みが浮かぶ。
やがて彼らの視線は、小柄なキャプテンへと集まっていく。
三年生の倉橋、横井、戸室。二年生の丸井、島田、加藤、半田、鈴木。そしてイガラシ、井口、久保、岡村、根岸、片瀬、高橋、鳥海ら一年生。二十名の真っすぐな眼差しを、谷口は温かな目で受け止める。
「我々はきっと……いや、必ず勝てる。あの谷原にだって」
静かながら熱量あるキャプテンの言葉に、ナインは雄叫びを上げた。
「オウ!!」
そして――バックネット下の扉が開き、ついに四人の審判団が姿を現す。アンパイアが一歩前に出て、右手を高く掲げる。
「両チーム、集合!」
合図と同時に、一塁側ベンチより谷原ナイン。三塁側ベンチより墨高ナインが、それぞれグラウンドへと駆け出す。
「そらっ」
「よし、いくぞ!」
すぐさまホームベースを挟み、両軍ナインが整列する。
「これより墨谷対谷原の準決勝を行う。試合は、谷原先攻にて開始する。一堂、礼!」
「オネガイシマス!」
挨拶の後、素早く守備位置へ散っていく墨高ナイン。一方の谷原ナインは、先頭打者を除いてベンチに引き上げ、初回の攻撃に備える。
墨谷対谷原。後の語り草となる死闘が、今まさに幕を開けようとしていた……
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