【目次】
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第39話 データにたよるな!の巻
<登場人物紹介>
宮田:原作中、野手陣では唯一呼称された。ずんぐりむっくりとした体躯の“いかにも力がありそうな”右打者である。練習試合での背番号「7」の描写から、ポジションは左翼手と思われる。
坂元:原作中では未呼称のため、勝手ながら設定させていただいた。背中にバットを倒し、上半身を前傾させる独特な構えの左打者。練習試合では、谷口の膝元のタマを、体勢を崩されながらもライト前へ弾き返した。原作での背番号「3」の描写から、ポジションは一塁手と思われる。
大野:原作では未呼称、ポジションも不明のため、勝手ながらこちらで設定(遊撃手)させていただいた。長身で細い目の右打者。練習試合では、谷口のフォークをあっさり捉え、左越えの長打を放っている。
1.墨高バッテリーのねらい
神宮球場は、いよいよ準決勝第二試合のプレイボールを迎えようとしていた。
「かっ飛ばせー、さーかーもとっ。いけいけ谷原、オー!」
「ワッセ、ワッセ、すーみーやっ!!」
谷原と墨高。両チームの応援合戦にも、いつになく熱がこもる。
「ハハ。こりゃまた、すごい歓声だこと」
スタンドを見渡し、倉橋は目を丸くした。そしてナイン一人一人の表情を伺う。
「……うーむ。ちとカタいな」
谷口、イガラシ、丸井、加藤、戸室、島田、横井。そしてピッチャー井口。ここまでレギュラーとして活躍してきた彼らも、この大観衆に戸惑った様子である。
ムリもねえか、と倉橋は胸の内につぶやく。
こっちは準決勝を戦うのがはじめてな上に、相手は夏の全国優勝を視野に入れてるチームだ。俺だって、こわくないと言えばウソになる……
「さあみんな、強気でいくぞ!」
声を張り上げたのは、やはり谷口だ。
「まず勇気を出すんだ。全員の気持ちを一つにしてぶつければ、必ず勝てる。どんな状況になっても、前を向いていこう。いいなっ」
キャプテンの檄に、墨高ナインは「ハイ!」と力強く応える。心なしか、一人一人の顔に血の気が戻ったようだ。
倉橋は「そうだったな」と、一人つぶやく。
「強気でいかなきゃ、こっちの力を出せないものな。俺達だって、やれることはすべてやってきたんだ。それを信じねえと」
ホームベース手前に立ち、グラウンド上を見渡した。そして掛け声を発す。
「しまっていこぜ!」
「おうよっ」
快活なナインの返事。いつもと変わらぬ仲間達の姿に、倉橋は安堵した。
やがて谷原の一番打者坂元が、左打席に入ってきた。背中にバットを倒し、上半身を前傾させる。かなり独特な構えである。
倉橋はマスクを被り、ホームベース手前に屈む。
「あいかわらず、みょうなかまえだこと」
そう胸の内につぶやきながらも、警戒を募らせる。
ただこれで、七割近く打ってるやつだ。おとといの準々決勝では、厳しいコースを突かれても、いともカンタンに打ち返してた。こいつを出すと、得点圏でクリーンアップに回しちまう。なんとかおさえたいが……
短く吐息をつき、倉橋はマウンド上へ視線を移す。
この日の先発を任された一年生左腕・井口は、口元に笑みを浮かべつつ、左手にロージンバックを馴染ませていた。ふてぶてしいと思えるほど、まさに堂々たる態度である。
「フフ……井口のやつ、いい顔してやがる」
倉橋はうつむき加減になり、しばし思案を巡らせる。
半ちゃんのデータによれば、内角も外角も、低めは苦にしないバッターのようだ。かといって苦手な高めも、ねらい打ちできる技りょうはある。坂元だけじゃなく、他の連中も。ここが谷原の恐ろしいところだが、さてどうなることやら。
ほどなくアンパイアが、右手を高く掲げコールした。
「プレイボール!」
その瞬間。試合開始を告げるサイレンが、球場に鳴り響く。同時にパチパチパチ……と、スタンドの大観衆から拍手が起こる。
顔を上げ、倉橋は第一球のサインを出す。
「たのむぜ井口。序盤戦を乗り切れるかどうかは、おまえの力投にかかってるんだ」
井口がうなずき、すぐに投球動作へと移る。右足を踏み込み、グラブを突き出し、左腕をしならせる。
初球。高めに投じたスピードボールが、内側に鋭く曲がる。
井口の得意球、シュート。坂元は無表情のまま、微動だにせず見送った。ズバン、と倉橋のミットが鳴る。
「ストライク!」
アンパイアのコールに、バックネット裏の観客が「おおっ」とどよめく。
「つぎは、もうちょいここね」
倉橋はミットをさらに内側へずらし、次のサインを出した。井口は「む」と同意して、ワインドアップモーションから二球目を投じる。
またもシュート。インコース高めから、バッターの懐に喰い込む。
「ボール! ワンエンドワン」
倉橋は「ナイスボール」と、井口へ返球した。
よし、二球とも要求どおりだ。井口のやつ、どうやら今日は調子がよさそうだ。これならバッターとの勝負に集中できるぞ。
続く三球目。今度は外角高めに、真っすぐを投じた。コースいっぱいに決まり、ツーストライク・ワンボール。坂元を追い込んだ。
一塁側ベンチ。谷原ナインは、静かに坂元の打席を見守っていた。
四球目。外角へ投じられたスローカーブを、倉橋がミットを上向きにして捕球した。明らかにストライクから外れ、イーブンカウントとなる。
「高さはいいが、もうちょい中だな」
マウンド上の井口へ一声掛け、さっと返球した。
「ほう。あのボウヤ、緩急もつけられるのか」
感心げに言ったのは、谷原の正捕手佐々木である。
「力投型とばかり思ってたが」
「いまのスローカーブ、さほど今大会では投げてませんでしたね」
後列のベンチより、マネージャーが手帳をめくり説明する。
「招待野球の西将戦で使った時は、ちゃんと制球できてなかったはずですが。うちとの試合に向けて調整してきたのでしょう」
ふむ、とエース村井がうなずく。
「あのボウヤ、見るからに鼻っ柱が強そうだが。うち相手じゃ、さすがになりふりかまってられんのだろう」
五球目は、内角高めの真っすぐ。僅かに外れツースリー、フルカウント。
「しかし……ちょっと拍子ぬけだな」
佐々木が小さく首をひねる。
「そうか?」
意外そうに、村井が尋ね返す。
「ここまですべて高め、坂元の苦手コースばかり突いてきてるぞ。一度戦ったからか、よく研究してきてるじゃないか」
「む。ただ向こうのバッテリー、川北との四回戦で、かなり思いきった攻め方をしてたんだ。相手打線を惑わせるために、わざとバッターの得意コースに投げたりしてな」
「その話なら、俺も知ってるさ。しかし偶然じゃないのか」
「もちろん定かじゃないが。相手をよく研究して、しつように弱点をついていくのが、墨谷の戦い方なんだ」
「だったら、なおさら苦手コースを攻めるんじゃないのか」
「いや。うちが招待野球で、そうしてきた広陽に大勝したのを、彼らも見てる」
正捕手の言葉に、村井は「なるほど」とうなずく。
「あの試合は他校のやつらに、いくら研究してもムダだと知らしめるためだったが。墨谷にかんしては、ちいとやぶ蛇だったかもな」
佐々木は「うむ」と、渋い顔で返事した。
「ひょっとしてうち相手にも、川北にやったのと同じことをしてくるんじゃないかと、警戒してたんだが」
バッテリー二人の眼前で、井口が五球目を投じた。今度は外角高めを突いた真っすぐに、初めて坂元のバットが回る。
直後、快音が響いた。鋭いライナーがレフト線を襲う。
「おおっ」
ベンチの数人が立ち上がる。しかし打球はスライスし、ラインの外側に落ちる。惜しくもファール。
「くそう。あと二、三十センチ内側なら」
「しかしあいつ、完全にねらってたな」
そんな声が飛び交う。
「坂元のやつ、気づいたようだ」
フフと笑みを浮かべ、村井が言った。
「苦手コースを突いてくると分かれば、そこをねらい打ちするのは、うちにとってそうムズカシイことじゃない」
「ああ。この調子で投げてくれりゃ、容易(ようい)に攻りゃくできる」
その時だった。
「決めつけるのは、早いぞ」
前列の隅より、ふいに監督が口を挟んでくる。
「まずは無難に攻めて、こっちの出方をうかがっている可能性もある。もしくは相手より、自チームの投手のよさを、ちゃんと引き出そうという発想かもしれん」
「し、しかし監督」
村井がおずおずと尋ねる。
「そこまで考えてたチーム、今までありましたっけ?」
「なにをいまさら」
指揮官は、険しい眼差しで答える。
「墨谷が勝つために、あらゆる知略をめぐらせてくることぐらい、おまえ達もよく知ってるはずだろう」
そして六球目。井口が倉橋のサインにうなずき、すぐに投球動作へと移る。左腕を振り下ろし、指先からボールを放つ。
坂元の口が「なにっ」と言うように動く。快速球が、なんと彼の最も得意とする、インコース低めに投じられた。
完全に意表を突かれ、打者は手が出ない。ボールはそのままミットを鳴らす。
「ストライク、バッターアウト!」
コールと同時に、アンパイアが右拳を突き上げた。バックネット裏の観客から、今度はざわめきが起こる。
「や、やった!」
仕留めた井口より先に、サードの谷口が声を上げた。
「すごいぞ井口。谷原のバッターから、三振を取っちゃうとは」
「倉橋もナイスリードだ。このまま攻めていこうぜ!」
バッテリーを讃える声が、内外野の野手陣に広がっていく。
井口は「へへっ」と、得意げな笑みを浮かべた。一方、キャッチャー倉橋はむしろ表情を険しくさせる。
「まだワンアウトだ。ここからが、大事だぞ!」
マウンド上の一年生投手も含め、束の間緩みかけた味方ナインを引き締める。
「……うむ。やはり」
淡々と、佐々木が言った。視線はグラウンド上を凝視する。
「彼らの反応からして、失投じゃなさそうだ」
やがて「スミマセン」と、坂元が引き上げてくる。その唇が悔しげに歪む。
「てっきり高めがくると思ってたんですが、ウラをかかれました」
「なーに、上出来さ」
監督はそう言って、ふっと表情を和らげる。
「ほとんどすべての球種を投げさせたうえに、向こうのバッテリーの意図を見抜くこともできたのだからな」
ええ、と村井が相槌を打つ。
「やつらはコースを散らして、我々にねらいダマを絞らせないようにしたいわけですね」
監督は「そういうことだ」と首肯する。
「ぎゃくに言えば、必ず得意コースにもくる。それをかく実にねらい打つんだ」
谷原ナインは、力強く「はい!」と返事した。
2.谷原打線の脅威
やれやれ……と、倉橋は深く溜息をついた。
「アウトひとつ取るのに、こんなに神経を使うとは。たまたまウラをかけたから、どうにかしとめられたが……毎回こうはいくまい」
視界の端で、谷原の二番打者宮田がこちらへ駆けてきた。そして右打席の手前で立ち止まり、数回素振りしてから白線を越える。そのずんぐりむっくりとした体躯と迫力あるスイング音に、倉橋は苦笑いした。
「二番バッターには見えねえな。どちらかというと、中軸打者タイプだろう」
しかし……と、すぐに気を引きしめ直す。
「こいつも練習試合じゃ、谷口のタマを軽々と打ち返しやがった。ひとつ間違えば、一発もある。せめて強振させないようにしねえと」
初球。バッテリーは、外角低めのスローカーブを選択した。井口がワインドアップモーションから、第一球を投じる。
コースいっぱいに決まり、ワンストライク。宮田は、ピクリとも動かない。
「まるで反応しなかったが……ねらいダマと、ちがってたのか」
訝しく思いながらも、倉橋は二球目のサインを出す。
同じ外角低めに、今度は速球。ズバンと、ミットが迫力ある音を立てる。これも決まってツーストライク。宮田はまたも、反応せず。
「苦手の外角低めだから、手を出さなかったのか。嫌がっているのなら、このまま……いやまて。決めつけると、痛い目にあう」
しばしの逡巡の後、倉橋はまたも外角低めへ、ボールになる速球のサインを出した。
「もし外角低めをねらってるのなら、つぎは打ちにくるはずだ」
井口はサインにうなずき、三球目を投じる。要求通り外角低め、僅かにストライクから外れる速球。
果たして、宮田はこれをカットした。鈍い打球が一塁側ベンチへ転がる。
「やはり嫌がってるな」
倉橋はそう判断し、すぐに次のサインを出す。決め球は外角低めのシュート。
「真っすぐはカットできても、シュートはそうもいくまい。さあこい井口。おまえのチカラを見せつけてやれ!」
こく、と井口はうなずく。そしてグラブを頭上に掲げ、ワインドアップモーションから四球目を投じた。投球は外角低めのボールゾーンから、ホームベースを巻き込むように鋭く変化する。
直後、パシッと快音が響いた。ジャンプした一塁手加藤の遥か頭上を、鋭いライナーが破る。そしてライト線と転々とした。
「く、くそうっ」
懸命に走るライト横井を嘲笑うかのように、打球はさらに右へ切れていく。その間、打者走者の宮田は二塁ベースを蹴り、三塁へ向かう
「へい!」
中継の丸井が、横井からの送球を受ける。しかしすでに、宮田はスライディングもせず、悠々と三塁を陥れていた。スリーベースヒット、ワンアウト三塁。
「……や、やられた」
マスク片手に、倉橋は立ち尽くす。マウンド上では、井口が「チキショウ」と唇を噛む。
「切りかえろバッテリー!」
すかさず、キャプテン谷口が声を掛ける。
「いまのはバッターがうまかったんだ。こういうこともある、気にするな」
「お、オウ」
そう返事しながらも、倉橋はひそかに溜息をつく。
「けどよ谷口。こういうのが続けば、初回で試合が決まっちまうぞ」
ほどなく次打者が、右打席に入ってくる。その背中に「大野!」と、谷原の監督が呼び掛ける。
「向こうにできるのは、せいぜいタマを散らすことぐらいだ。ねらいを絞って打ち返せ」
「はい!」
倉橋は思わず、相手ベンチを睨む。
「くそっ、聞こえよがしに」
マスクを被り、ホームベース手前に屈み込む。
「そうカンタンに、ねらい打ちされてたまるかってんだ」
初球。内角低めの速球が、コースいっぱいに決まる。二球目は、アウトコース低めのスローカーブ。これは外れ、ワンエンドワン。大野は、いずれも反応せず。
「あっさり見逃しやがって。こいつ、なにねらってやがる」
苛立つ倉橋。その姿に「まずいな」と、キャプテン谷口はつぶやく。
「相手のウラをかくことばかり、バッテリーの意識がいってる。これでは谷原の思うツボだ」
キャプテンの心配をよそに、倉橋は三球目のサインを出す。マウンド上の井口が「えっ」と目を見開いた。
「内角高めスか? それはこのバッターの、得意コースじゃ」
マウンド上の一年生に、倉橋は深くうなずいて見せる。
「慎重に二球外した後、いきなり得意コースにくるとは思うまい。さあこい井口」
井口はまだ戸惑いの表情を浮かべながらも、頭上にグラブを掲げた。そして打者の胸元へ喰い込ませるように、内角高めの速球を投じる。
果たして、大野は躊躇いなくフルスイングした。
「な、なんだと!」
マスクを脱ぎ、倉橋は呆然とした。彼の視線の先で、弾丸のような打球があっという間に、レフトフェンスを直撃する。
「へいっ」
ショートのイガラシが中継に走り、右手を挙げて合図する。ようやくボールを拾ったレフト戸室が、素早く返球した。
「サード!」
ボールを受けたイガラシは、すかさず矢のような送球を三塁へ投じた。
谷原の三塁コーチャーが、二塁を回り掛けていた大野に「ストップ、ストップ!」と合図する。送球を受けた谷口が牽制するも、打者走者は難なく二塁ベースに帰る。
この間、三塁ランナーの宮田は楽々と生還した。タイムリーツーベースヒット。谷原が早くも先取点を奪う。
一塁側ベンチ。待望の一点に、谷原ナインは沸き立つ。
「よく打ったぞ宮田、大野!」
「墨谷もどうかしてるぜ。大野の得意コースに、まんまと投げてくるとは」
「このまま一気に、たたみかけるぞ」
ナインの傍らで、しかし監督は静かに佇んでいた。なおも鋭い視線をグラウンドへと向け続ける。
「先制できたことよりも、この後の向こうの出方が問題だ。得意コースも苦手コースも打たれたことで、いしゅくして逃げに回ってくれれば、ラクな試合になるが……」
その時だった。
「タイム!」
墨高のサード谷口が、三塁塁審に合図した。そしてチームメイト達へ呼び掛ける。
「みんな集まるんだ」
キャプテンの声に、墨高内野陣はマウンドへ駆け寄った。
3.試される心
マウンドに集まった、墨高バッテリーと内野陣の面々。井口、倉橋、イガラシ、丸井、加藤そして谷口。いきなりの失点に、誰もが表情は硬い。
「なあ井口」
まず口を開いたのは、やはりキャプテン谷口だ。
「いまのは明らかに、力んでたぞ。あんな棒球じゃ打たれるに決まってる」
井口がハッとしたように、目を見開く。
「倉橋も倉橋だ。いつもなら体の力を抜くように、ジェスチャーで指示するじゃないか。それを忘れるなんて、おまえらしくもない」
「す、スマン」
バツが悪そうに、正捕手はうつむき加減になる。
「ま……気持ちは、分かりますがね」
丸井が苦笑いしつつ、フォローを入れた。
「あんな打線を相手にすれば、誰だって平常心じゃいられませんよ」
む、と加藤がうなずく。
「三番の打球なんて、ほとんど見えなかったものな。やはりおそろしい打線だ」
「……しかし、正直まいったぜ」
珍しく倉橋が、弱音を漏らす。
「得意コースも苦手コースも、両方ああも見事にねらい打たれたんじゃ、一体どこに投げたらいいのか分からねえよ」
「なにを言うんだ倉橋」
やや語気を強めて、谷口は言った。
「初回はおさえることよりも、うちが苦手コース一辺倒の投球はしないと、谷原に思い知らせることが大事なんだ。いままで何度も話し合って、決めた作戦じゃないか」
「そ、そりゃ分かってるけどよ」
倉橋はポリポリと、頬を掻く
「このまま打ち込まれたら、何点取られるか分からねえぞ」
「……もし、そうなったら」
ふいに谷口が、声のトーンを落とす。
「どうするんだ?」
思わぬ問いかけに、倉橋は「えっ」と声を詰まらせる。
「みんなはどうだ」
さらに谷口は、他の面々へも話を向けた。
「ここで大差をつけられたら、さっさとあきらめるのか」
誰もが「あっ」と息を呑む。
「試合前にも言ったが、どのみち苦戦はさけられない。それでも勇気を持って、最後まであきらめずに戦えるのか。いままさに、試されている場面だぞ」
重みのある一言に、しばしナイン達は押し黙った。
「……キャプテンに賛成です」
沈黙を破ったのは、イガラシである。
「こっちが逃げに回れば、向こうはますます勢いづいてきます。だったら……多少の危険はあっても、より確率の高いやり方を選ぶべきですよ」
それに、と強気な一年生は付け加える。
「井口。あんなカンタンに打たれるのも、ちと芸がねえよな」
幼馴染の挑発的な言い方に、井口は「なにいっ」と目を剥く。
「おまえなら、ねらわれてもタマの力で勝ると期待されての、先発だったはずだ。それが通じないのなら、ここで引っ込んでもらうしかないと思うが」
「こ、こんニャロ。言わせておけば」
井口は右拳を握り、鼻息を荒くした。
「ねらいたきゃ、ねらえばいい。それで打たれるほど、俺のボールは甘くないぜ!」
「フン。やっと、その気になったか」
仏頂面のイガラシが、微かに口元を緩める。
「よく言った。その意気だ、井口」
谷口は微笑みを浮かべ、井口の背中をポンと叩いた。そして周囲を見回す。
「あとはバックが、どれだけ助けてやれるかだ。バッテリーの勇気を、みんなで後押ししよう。いいなっ」
「オウ!」
沈みかけていた墨高ナインに、ようやく快活さが戻ってきた。
三塁側スタンド。詰めかけた応援団と観客は、静まり返っていた。その前方に、田所ら墨高野球部OBの面々が陣取る。
「な……なんだよ、この打線」
中山が顎の汗を拭いつつ、呻くように言った。
「井口の速球が、あんなカンタンに打ち込まれるとは」
傍らで、山口が首を捻る。
「なんでえ。やつは今日も、不調なのか」
太田が「バカいえ」と突っ込む。
「こんな大事な試合で、谷口が不調のピッチャーを起用するわけねえだろ。ありゃ向こうの打撃が、完全に上回ってんだ」
「オイオイ。なにをそんな、うろたえてんだよ」
冷静に言ったのは、長身の山本である。
「この谷原は、全国四強のチームだぜ。うちに限らずどこが相手だろうと、似たような試合になるんじゃねえか」
「なんだとっ」
ムキになったふうに、太田が言い返す。
「OBとして、いくらなんでも冷たすぎやしねえか」
「俺だって応援してるさ。でもヘンに期待を持てば、後で気落ちするだけだぜ」
「だから、それが応援する者の態度かって言ってるんだよ」
「しつこいぞキサマ」
言い争う山本と太田。その時「やかましい!」と、田所が一喝した。
「後輩達がピンチだってのに、つまらない話してんじゃねえっ」
「ヒッ、ごめんなしゃい」
「もう言いませんっ」
気圧された二人は、なぜか抱き合う格好になる。
「まったくてめーらは……」
青筋を立てつつ、田所は前方へ視線を戻す。
眼下のグラウンドでは、ちょうど墨高のタイムが解かれるところだった。谷口ら内野陣が、再びポジションへ散っていく。
田所は祈るように、両手の拳を握った。
「たのむ。ここはなんとか、切り抜けてくれ」
墨高内野陣が、再び守備位置に着く。倉橋もキャッチャーズボックスに戻り、マスクを被り直した。
すぐに谷原の四番佐々木が、右打席に入ってくる。
倉橋は一旦屈み込んだが、アンパイアが試合再開を告げると、再び立ち上がる。そして井口へ、ちょんと一塁方向を指差す。
「ま、そうくるだろうな」
フフと佐々木が笑みを浮かべる。一方、井口は無言でうなずき、指示通りに山なりのボールを四球投じた。敬遠四球、一死一・二塁。
「さあて。この後が、問題だぞ」
吐息混じりに、倉橋はつぶやいた。
佐々木が一塁ベースに着いたところで、次打者の五番村井が、ゆっくりと左打席に入ってきた。柔らかな動作で、バットを構える。
「春までは九番だったが、好調ということで打順を上げてきたのか。こいつはコースというより、変化球にめっぽう強いってことだが」
初球は、内角高めの速球。コースいっぱいに決まり、ワンストライク。村井は微動だにせず、悠然と見送る。
「まるで打つ気のない、見逃し方だな。やはり変化球をねらってるのか」
二球目も速球。今度は、外角低めいっぱい。村井はまたも手を出さず。これでツーストライク、あっさり追い込んだ。
倉橋はちらっと、打席の村井を見やる。その横顔は、ほとんど無表情だ。
「くっ……なに考えてるのか、さっぱり分からねえ。ちと様子を見るか」
続く三球目。倉橋は内角低めに、ボールになる速球のサインを出した。
「ほんとに変化球を待っているのか、そう見せかけて速球を誘っているのか。これでたしかめてやる」
サインにうなずき、井口はセットポジションから三球目を投じた。その瞬間、村井のバットが回る。直後、鋭いライナーが三塁線を襲う。
「さ、サード!」
倉橋は立ち上がり、叫んだ。打球はジャンプした谷口のグラブを、あっという間に越えていく。井口が「しまった」と唇を歪める。
「ふぁ、ファール!」
三塁塁審のコール。白線の数センチ左側に、打球は弾んだ。内外野のスタンドから、落胆と安堵の混じった溜息が漏れる。
「……あ、あぶねえ」
さすがに肝を冷やし、倉橋は顔を引きつらせた。
「ボールにしといてよかったぜ。しかしあれで、速球が苦手なやつのスイングかね」
それでも「だったら」と、すぐにサインを決める。
「ヒヤリとしたが……速球ねらいだと分かれば、こっちのもんだぜ」
五球目は外角低めに、いよいよ決め球シュートを要求した。井口はうなずき、しばし間を置いてから投球動作へと移る。
次の瞬間、またも快音が響いた。
「なにいっ」
思わず、倉橋は声を上げた。鋭い当たりが、今度はライト線を襲う。だがこれはスライスし、またも白線の外側に落ちる。
「シュートまで打たれるとは。そりゃ研究はしただろうが……初めての打席で、あんなはかったように」
しばし悩んだ後、倉橋は六球目のサインを出す。真ん中にスローカーブ。
「こうなりゃ緩急をつけて、少しでもタイミングをずらさねえと」
ところが井口は、初めて首を横に振った。
「えっ。それなら」
次は速球のサイン。しかし、これにもうなずかない。
「おいおい。ひょっとして……」
まさかと思いつつ、再びシュートのサインを出した。
「これか?」
井口は、やっと首を縦に振る。
「なに考えてんだ。いましがた、あわやという当たりをされたばかりだろう」
その時だった。ふいに前方から声が掛けられる。
「迷うなバッテリー!」
ハッとして顔を上げる。声の主は、やはりキャプテン谷口だ。膝を曲げた前傾姿勢のまま、こちらに小さく右拳を突き出す。
「井口、倉橋。思いきっていくんだ!」
倉橋は視線を移し、また井口と目を見合わせた。マウンド上の一年生左腕は、いつになく真剣な面持ちである。
なるほど……と、倉橋は胸の内につぶやいた。
「一度打たれたからって、つぎも同じだとはかぎらねえ。いまは大量点をおそれるより、やつらの思うようにはさせないと、しっかり見せつけることが大事なんだ」
サインを出し直し、外角低めにミットを構える。
「ここはひとつ、井口の気迫を後押してやらなきゃ」
井口はうなずき、再びセットポジションについた。ほどなく右足を踏み込み、グラブを突き出し、左腕をしならせる。
その指先から放たれたボールは、ほぼ速球と変わらないスピードから、ホームベース手前で直角に曲がった。直後、村井のバットが回る。
カキッ。痛烈なゴロが、三塁線を襲う。
次の瞬間、サード谷口が横っ飛びした。そしてグラブの先にボールが収まる。内外野のスタンドから「おおっ」と歓声が沸く。
「へいっ、ファースト!」
谷口はすかさず立ち上がると、自ら三塁ベースを踏み、素早いフィールディングで一塁へ転送した。矢のような送球が、ファースト加藤のミットを強く鳴らす。村井のヘッドスライディングも及ばず。
「アウト! スリーアウト、チェンジ」
一塁塁審のコールと同時に、墨高ナインは一斉にベンチへと駆け出す。
三塁側スタンド。田所は、思わず息を呑んだ。
「す、すげえ。ほんとに切り抜けちゃったよ」
傍らでは、中山ら後輩達が雄叫びを上げる。
「谷口、おまえは男だっ」
「見たか谷原! これぞ墨高魂よ」
「さあ反撃開始といこうか!」
田所は「まったく……」と、呆れて溜息をつく。
「ゲンキンなやつらめ。ついさっきまで、あきらめてたというのに」
ふと、握っていた両手を開いてみた。汗でぐっしょり濡れている。
「しっかし……すごい緊張感だこと。たった一回でこれじゃ、見てるこっちがまいっちまいそうだぜ」
その時「田所先輩」と、声を掛けられた。顔を上げると、馴染みの応援部員が、いつもの学ラン姿で立っている。
「やっぱり来てたんですね」
「あ、当たり前だろ。かわいい後輩の晴れ舞台だってのに、来ないでどうするよ」
「ハハ。らしいですね」
束の間微笑んだが、すぐに表情を引き締める。
「つぎはうちの攻撃です。どうか一緒に、ご声援を」
「よしきた!」
快く、田所は応えた。
「やれやれ……」
倉橋はマスクを脱ぎ、ホームベース奥で安堵の吐息をつく。
「三、四点は覚悟してたが、どうにか最少失点におさまってくれたぜ」
その時「どうしたんだ」と声を掛けられる。顔を上げると、そこに谷口が立っていた。隣に井口も並んでいる。
「倉橋、チェンジだぞ」
「あ、ああ。分かってる」
行こうか、と三人でベンチへ向かう。
「ナイスプレー。たすかったよ」
そう伝えると、キャプテンは「なーに」と微笑んだ。
「倉橋こそ、よくリードしてくれた。井口もそれにこたえて、あのピンチの状況で、ひるまず投げられたな。二人とも、ナイスガッツだ」
「へへっ、ドウモ」
顔をほころばせる一年生の傍らで、倉橋は「いやいや」と首を横に振る。
「結果的に一点ですんだが、少しまちがえりゃ大量失点してたぜ。これで最後までもつかね」
「うむ、それだけの打線だもの。しかし……あの様子だと、それなりに効いたようだぞ」
倉橋は「えっ」と、視線を移した。
一塁側ベンチ。これから守備に着こうとする谷原ナインの表情には、明らかに戸惑いの色が浮かぶ。
「どういうこったい。やつら一点をうばったというのに、どいつもこいつもキツネにつままれたような顔しやがって」
「やはり予想外だったんだろう。少なくとも……」
声を潜めて、キャプテンは答える。
「いままでと同じようにはいなかいと、彼らに思わせることはできたはずだ」
「む。だが、それで黙ってるやつらじゃあるまい」
倉橋の言葉に、谷口は「ああ」とうなずいた。そしてふいに眼差しを鋭くさせる。
「……谷口?」
「これは、まえにも話したが」
そう前置きして、キャプテンは重い口調で告げた。
「もし井口やほかの投手でおさえられないようなら、いつでも俺が代わる。だから倉橋も、思いきってリードしてくれ」
「え、ああ……」
「アテにしてるぞ」
ポンと背中を叩き、谷口はダッグアウトへ降りていく。なんだい、と倉橋はつぶやいた。
「たのもしいかぎりだが、みょうに思いつめた顔しやが……そっそうか」
倉橋はハッとして、背番号「1」の横顔を見やる。
「谷口のやつ。もし負けた時は、その責を一人で背負う気だな」
一塁側ベンチ。村井が帰ってくると、すでに仲間達はダッグアウトを出ていこうとするところだった。
「村井さん、おしかったですね」
眼鏡のマネージャーが、こちらへ投手用グラブを手に歩み寄る。
「向こうのファインプレーに阻まれはしましたが、井口のシュートをうまくとらえたじゃありませんか」
「……いや」
苦笑い混じりに、村井は答える。
「思ったよりも差し込まれた。あのボウヤ、投げるごとに球威が増してきやがる」
「しかし、初回でこれだけとらえられたのですから。うちの打線をもってすれば、攻りゃくするのは時間の問題でしょう」
「む、そうありたいが……」
グラブを受け取り、村井はゆっくりとマウンドへ歩き出した。
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