【目次】
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第40話 作戦失敗!?の巻
1.不気味な谷原バッテリー
三塁側ベンチ。ダッグアウトの手前で、墨高ナインは円陣を組む。
「さあ。つぎは、われわれのやり返す番だぞ」
やはりキャプテン谷口が音頭を取る。
「これまでの傾向からして、村井はアウトコースの速球か変化球でカウントを取り、最後は得意とするインコースの速球でしとめにくるだろう」
誰もがうなずきつつ、真剣な眼差しで聞いている。
「だから速球は内外角ともファールにして、変化球をねらう。じっくりねばっていれば、いかに全国四強の投手といえども焦れてくるはずだ」
傍らで、横井が「オッケーよ」と応えた。
「スピードに慣れる練習なら、嫌ってほどしてきたもの。きれいに打ち返すのはむずかしくても、バットに当てるくらいなら、どうにかなるさ」
うむ、とキャプテンは頼もしげにうなずく。
「あとはイガラシが、一球でもインコースの速球を打ってくれれば」
戸室が気楽そうに言うのを、倉橋が「おいおい」と窘める。
「そうカンタンに言うなよ。甲子園のバッターでさえ、まともに打てなかったそうじゃないか。いくらイガラシでも」
「なにをおっしゃるんです」
ところが当の本人は、強気に言い放つ。
「まえにも対戦してるので、なんとかして見せますよ。一点取られた直後なんです。早いうちに、やり返しておかないと」
フフと、イガラシは不敵な笑みを浮かべた。
「打たれたことのないタマを打たれれば、谷原のエースといえども動揺するはずです。そこを一気に畳みかけましょう」
「そうだ、その意気だ!」
谷口は右拳を突き上げ、後輩の強気を後押しする。
やがてアンパイアが、こちらに「バッターラップ!」と声を掛けた。イガラシはバットを手に、打席へと向かう。その背中を見送りつつ、墨高ナインはベンチに引っ込む。
バッターボックスの手前で、イガラシは二、三度素振りした。そして白線を跨ぐ。
「ようし!」
小さく気合の声を発し、マウンド上を睨む。その視線の先には、谷原のエース村井が、右手にロージンバックを馴染ませていた。まるで力感のない、飄々とした顔つきである。
「一番バッターだ。打たせていこうよ」
傍らで、キャッチャー佐々木がこれまた、いやにのんびりとした声を発した。
「おうっ」
正捕手に応える谷原野手陣の面々も、妙に朗らかな表情である。
「けっ。どいつもこいつも、すましやがって」
足元を均しつつ、イガラシは舌打ちした。
やがてアンパイアが「プレイ!」とコールした。村井はロージンバックを足元に放り、腰に左手を当てた格好でサインを確認する。
「さあ来いっ」
イガラシは短めにバットを構えた。
ほどなく村井が、投球動作へと移る。ワインドアップモーションから、右足を踏み込み、グラブを突き出し、左腕をしならせる。その指先から、ボールを放つ。
「ストライク!」
アンパイアが右拳を突き上げた。ほう、とイガラシは一つ吐息をつく。
「練習試合の時より、スピードが増してるな。あんときゃセーブしてやがったのか」
二球目。今度は脇腹付近に、ボールが飛び込んでくる。
「うっ」
イガラシは思わず呻いた。そのまま当たるかと思いきや、ホームベース手前から鋭く曲がり、内角低めに構えた佐々木のミットを鳴らす。
「ストライク、ツー!」
アンパイアのコール。あっという間に、追い込まれてしまう。
「な、なんてえ角度で曲がるんだ」
頬を引きつらせ、イガラシは顎の汗を拭う。
「これじゃ甲子園で活やくするはずだぜ」
一方のマウンド上。村井は返球を捕り、フフと微笑を浮かべた。
「のけぞるかと思ったが、腰さえ引かないとは。どうりで八割近く打てるわけだ」
「い、いまのシュートかよ!」
三塁側ベンチには、驚愕の色が広がっていた。数人が腰を浮かせる。
「に……二球とも、すげえタマだな」
横井があんぐりと口を開けた。
「あのイガラシが、バットを振ることもできねえとは」
傍らで、加藤も「ええ」と同調する。
「うまく合わせられればと思ってましたが。この様子だと、当てるのが精一杯ですね」
「なんだい、オメーら」
後列より、戸室が二人を窘める。
「始まったばかりだっていうのに、そんな弱気でどうするんだよ」
「そ、そんならよ戸室」
横井は渋い顔で言った。
「おまえは打つ自信、あるってのか」
「いや。それは俺も、さっぱり」
あっけらかんと戸室が答える。周囲は「あーあー」と、ずっこけた。
その時、カキと音がした。ベンチ手前に速いゴロが転がってくる。アンパイアが「ファール!」と、両腕を大きく広げる。
「ほう、やるな。イガラシのやつ」
バットを準備しつつ、倉橋が感心げにうなずく。
「たった二球で、あのシュートに当てるとは」
横井は「へっ」と、間の抜けた声を発した。
「あ、当たるの? 村井のシュート」
続く四球目。初球と同じく外角低めの速球を、イガラシはまたもカットした。今度は一塁側へボールが転がる。
「ふん、見たかよ谷原」
ネクストバッターズサークル。丸井がマスコットバットを置き、にやっと笑う。
「どうしてどうして。イガラシのやつ、負けてないじゃねえか」
一方、ベンチの横井と戸室は目を見合わせた。
「これは……ひょっとして、ひょっとするかも」
横井の一言に、戸室は「ああ」と応える。
「まるっきり手も足も出ねえってわけじゃ、なさそうだぞ」
そして加藤が、右手を口の横に当て、叫んだ。
「負けるなイガラシ!」
さらに横井と戸室、他のナイン達も続く。
「そうだイガラシ、思い切りいけっ」
「おまえなら打てる」
「墨高のおそろしさ、村井に思い知らせてやるんだ」
当初は静まり返っていたベンチが、ついに活気づく。その光景に、谷口は「ようし」とつぶやいた。
「わずかだが……ようやくナイン達に、やれるという気持ちが出てきた」
そして視線を、前方の一年生へと移す。
「たのむぞイガラシ。打てなくてもいいとは言ったが、主軸打者のおまえがあっさり凡退したら、ナインの士気にかかわる。少しでも粘って、みんなを勇気づけてくれ」
五球目。大きなカーブが、懐に飛び込んできた。イガラシは一瞬手を出しかけたが、すぐに「おっと」とバットを引く。
「ボール!」
アンパイアのコール。際どい判定に、両チームの応援スタンドとベンチがどよめく。
「あぶねえ。一瞬ストライクかと思ったぜ」
「よく見たな、あいつ」
「手が出なかっただけじゃねえの」
一旦イガラシは打席を外し、数回素振りした。その時ふいに「よく選んだね」と、声が掛けられる。
「は、はあ」
振り向くと、谷原のキャッチャー佐々木が微笑んでいた。
「それに、大したどきょうだ。ツーストライク取られてるのに、今のきわどいコースを見送れるとは」
なーに、と強気の一年生は返事する。
「ボール二個分、外れてたじゃありませんか。きわどいってほどでも」
ニコリともせず言った。佐々木は「あっ」と、ずっこける。
イガラシは打席に戻り、再びバットを短めに構えた。この間、谷原バッテリーはサインを交換し、すぐに村井が投球動作を始める。
六球目、またも外角低めの速球。僅かに外れてイーブン・カウント。
「よく見た。いいぞイガラシ!」
後方より、丸井の掛け声。さらにベンチのナインも声援を送る。
「タイミング合ってる。その調子だっ」
「思いきりいこうぜ」
盛り上がるチームメイト達を尻目に、イガラシは小さく吐息をついた。そして「みょうだな」と、胸の内につぶやく。
「お得意のインコースの速球、なぜ投げてこないんだ」
七球目は、真ん中低めのシュート。イガラシは簡単にカットする。速いゴロが、三塁側ベンチ前を転がっていく。
「決めダマとして、温存してるのか。だとしたらそろそろ……」
そして八球目。またも村井がワインドアップモーションから、右足を踏み込みグラブを突き出す。イガラシはさらにバットの握りを短くし、速球に備えた。
「な、なにっ」
ところが投じられたのは、遅いボールである。
「くそう!」
イガラシの上体が揺らぐ。それでも辛うじて下半身を残し、はらうようにしてバットを振り抜いた。パシッと快音が響く。
「ショート!」
キャッチャー佐々木が叫ぶ。
痛烈なライナーが、二塁ベース左を襲う。しかし谷原の遊撃手大野が、横っ飛びした。そのグラブの先に、ボールは収まる。
捕球を確認した二塁塁審が、右拳を高く突き上げた。
「アウト!」
すでに一塁へ走り出していたイガラシは、立ち止まり唇を噛む。
「ここでチェンジアップかよ。まさか最後まで、投げてこないとは」
ベンチへ引き上げる途中、次打者の丸井に「おしかったな」と声を掛けられる。
「え。ええ……」
「向こうの守備にはばまれたが、いきなり谷原のエースをとらえるとは。おそれいったぜ」
「はあ……それは、どうも」
なんだい、と丸井は鼻白む。
「気のない返事しやがって。人がせっかく、ほめてやってるのに」
「……あの、丸井さん」
「なんだよっ」
イガラシは真顔のまま、先輩の足元を指差す。
「スパイクの紐がほどけてますよ」
あっ、と丸井は顔を赤らめる。その場にしゃがみ、慌てて靴紐を結ぶ。
マウンド上。谷原バッテリーは、小声で打ち合わせる。
「ちと手こずったな」
佐々木の一言に、村井は「む」とうなずく。
「大したボウヤだ。体勢をくずしたのに、それでも打ち返してくるとは」
「しかし……おまえさんも、ガンコだな」
フフと、正捕手が笑う。
「インコースの速球を使えば、もっと早く打ち取れたろうに」
「いや、そうはいかん」
エースはきっぱりと言った。
「あの練習試合から、三月(みつき)近く間があったんだ。内角を打ち返す練習くらい、積んできてるだろう。それでなくても、相手を研究するのに長けたチームだからな」
「ずいぶん警戒するんだな」
佐々木が意外そうな目になる。
「あんときゃ甲子園から帰ってきたばかりで、まだ力をおさえてたじゃないか。ちょっと対さくしたくらいじゃ、おまえの本気のタマは打てんだろう」
「む。俺もそうカンタンに、打たれるとは思えんが」
渋い顔で、村井は答える。
「終盤にやつらの目が慣れてきたら、少々手こずるだろう」
「なに。さっさと大差をつけて、リリーフに後をまかせれば」
「そうなればいいが……もつれた場合は、あの野田じゃ心もとないだろう」
たしかに、と佐々木は苦笑いする。
「やつがもう少し、マシになってくれりゃな」
「うむ。それに、明日の決勝もある」
村井はそう言って、ふとホームベース奥へ視線を向けた。バックスタンドには、先ほど試合を終えたばかりの東実ナインが、エース佐野を囲むようにして陣取る。
「あの佐野と、投げ合うことになるんだ。おそらく一点を争う試合だろう。今日はどうあっても、余力を残して終わらなきゃならん」
ふむ、と正捕手は顎に手を当てた。
「あまり速球を連投すると、体力を使っちまうからな」
やがてタイムが解け、佐々木がポジションへと戻る。マウンドに一人残された村井は、フフと笑みを浮かべた。
「切り札は、後に取っておかないとね」
三塁側ベンチ。帰ってきたイガラシに、谷口は「おしかったな」と声を掛ける。
「いえ……すみません」
どこか腑に落ちないような顔で、後輩は答えた。
「もう少しねばって、あのインコースの速球を投げさせたかったんですけど」
「なに。八球も投げさせたんだ、十分さ。それにしても」
キャプテンも訝しむ目になる。
「まさか一球も使ってこないとは」
「ひょっとして……ねらわれてるのをカンづいて、さけたんじゃ」
「いや、それはないと思う」
きっぱりと谷口は言った。
「もし気づいてたとしても、それで自分達の武器を封じるようなことはしないだろう」
イガラシも「ええ」と首肯する。
「力量では向こうが上ですし。こっちがなにか仕かけたからって、動じるようなチームじゃありませんよね」
でも……と、後輩は首を捻る。
「それなら、なぜ今までと投球パターンを変えたんだろう」
「まあまてよ、イガラシ」
谷口はなだめるように言った。
「今あれこれ考えても、仕方あるまい。もっと情報を集めるんだ。後続打者への投球を見れば、なにか分かるかもしれん」
「は、はい……」
浮かない顔のまま、イガラシは顔をグラウンドへと向ける。視線の先では、二番打者の丸井が右打席に入るところだった。
「さあこいっ」
右打席に入り、丸井は気合の声を発した。そしてバットを短く構える。
「なに打ち合わせしたか知らんが。それで手も足も出ねえほど、こちとら甘くないぜ」
眼前のマウンド上。谷原のエース村井が、左手にロージンバックを馴染ませていた。やがてそれを足元に放ると、少し前屈みになりサインを確認する。そしてグラブを掲げ、ワインドアップモーションから第一球を放つ。
快速球が唸りを上げ、外角低めいっぱいに飛び込んでくる。
「……うっ」
呻くような声が漏れた。ズバンと、佐々木のミットが鳴る。
「は、はええっ。練習試合とは、まるで迫力がちがうぜ」
続く二球目も同じボール、同じコース。丸井はこれも見送り、あっという間にツーナッシングと追い込まれる。
「フフ、どったの」
佐々木が返球しつつ、挑発的に言った。
「ただ見てるだけじゃ、バットにも当たらないよ」
ぎろっと、丸井は相手捕手を睨んだ。胸の内に「うるせー」とつぶやく。
「こっちの作戦を、敵にどうこう言われる筋合いはないっつうの。しかし……あのスピードは、ねらったところでそう打てたものじゃねえな」
そして三球目。速球に備え、丸井はさらにバットを短く持つ。
ところが投じられたのは、シュートだった。外角から鋭く変化したものの、真ん中に入ってくる。思わず目を見開いた。
「れっ。あ、甘い」
丸井は左足を踏み込み、バットを振り抜いた。カキッと、小気味よい音が響く。痛烈な当たりが三塁方向へ飛ぶ。
「よしっ……ああ」
一瞬、ベンチの墨高ナインは喜びかけるも、すぐに溜息が漏れる。
あらかじめ深めに守っていた谷原の三塁手が、ほぼ正面でショートバウンドを難なく捕球した。そのまま一塁へ矢のような送球。丸井のヘッドスライディングも及ばず、あっさりツーアウト。
「ちぇっ。あいつ、いいトコに守ってたな」
一つ舌打ちして、丸井はベンチへと引き上げる。それでもチームメイト達は「ナイスバッティング」「おしかったな」と、彼を讃えた。
「い、いえ……そんな。出塁できなかったことに、変わりありませんし」
照れた顔で、謙遜する丸井。横井が「ぜいたく言うなよ」と、後輩の肩を叩く。
「とらえた当たりが、立て続けに二本だぜ。けっこう幸先いいんじゃねーの」
ええ、と二年生の加藤がうなずく。
「もっと手も足も出ないんじゃないかと。この感じだと、そろそろ初ヒットも」
ナイン達の視線の先では、三番打者の倉橋が右打席に入る。マウンド上の村井は、すぐに投球動作を始めた。
初球。真ん中へ、大きな縦のカーブ。倉橋は躊躇いなくバットを振り抜いた。おおっ、とベンチの墨高ナインは立ち上がる。
センター頭上を、大飛球が襲う。背走する谷原の中堅手。そして、とうとう背中をフェンスにつけた。しかしグラブを目一杯伸ばすと、そこにボールが収まる。
スリーアウト。結局、この回は三者凡退に終わる。
「ナイスセンター!」
「いい流れだ。これを攻撃に、つなげていこうぜ」
グラウンド上。谷原ナインは互いに声を掛け合いながら、駆け足で引き上げていく。
一方、三塁側ベンチ。墨高ナインの雰囲気も明るい。打席から戻ってきた倉橋を「おしいおしい」「もうひと伸びだったな」と励ます。
「あ、ああ……けどよ」
渋い顔で、倉橋は言った。
「やつらの守備範囲の広さには、たまげたぜ。いまの当たりだって、あのセンター、まだ余裕があったからな」
上級生達の会話を、無言で聞いている者がいた。イガラシである。ベンチの隅で、左手にグラブを嵌めつつ、しばし考え込む。
「なんだこの、いやーな感じは」
そう胸の内につぶやく。
「けっきょくインコースの速球は、やつら一球も投げてこなかった。おまけにヒット性の当たりが続いたってのに、あの様子じゃちっとも慌ててない」
この時、丸井が「ん?」と訝しむ視線を向けたが、イガラシは気付かない。すでに他のレギュラー陣は、グラウンドへと移動し始めている。
そういや、とイガラシはさらに思案を続けた。
「今日勝てば、明日はあの佐野がいる東実とぶつかるんだったな。谷原にしてみりゃ投手戦が予想される試合に、あまり疲れを残したくないはずだ。となると」
その時、ふいに「イガラシ」と声を掛けられた。はっとして顔を上げると、キャプテン谷口が怪訝そうに見つめている。
「どうしたんだ、一人で考えこんじゃって。みんなもうグラウンドに出ているぞ」
「あ、スミマセン」
イガラシは苦笑いして、急いでダッグアウトを出る。それでも白線を跨ぎ、ポジションに着く手前で「キャプテン」と切り出す。
「向こうのバッテリーのねらいは、たぶん……」
「まて、イガラシ」
谷口は囁くような声で、後輩を制した。
「その話はあとだ。いま攻撃のことを考えてちゃ、守備でポカしないとも限らんからな」
「ええ、それは分かってますが」
「あせるなよイガラシ。おまえらしくもない」
そう言って、ふとキャプテンは微笑む。
「かならず糸口は見つかる。今はとにかく、できることに徹するんだ」
「は、はい。分かりました」
イガラシはうなずき、そのままショートのポジションに着く。
「なるほど。谷口さん、なにか考えがあるんだな」
そう胸の内につぶやき、興味深げに背番号「1」の背中を見つめた。
2.谷口の気づき
二回表。谷原の攻撃は、六番サードの岡部から始まる。
「バッターラップ!」
アンパイアのコールを聞き、岡部はゆっくりと右打席に入ってきた。長身、がっしりとした体躯の右打者。明らかに長距離ヒッタータイプである。
「さっきファインプレーしたやつだな。これまた、丸太みたいな腕しやがって」
ホームベース手前。倉橋はマスクを被りつつ、苦笑いした。
「春までは五番を打ってたんだっけな。データでは、たしか低めが苦手つうことだが……」
しばしの思案の後、倉橋はサインを出した。
「井口の調子は上向いてる。こいつの苦手コースにシュートを投げこめば、もしねらわれても、そうたやすくは打たれまい」
マウンド上。井口はうなずき、すぐに投球動作へと移る。ワインドアップモーションから、外角低めへシュートを投じた。
「よし。サインどおり……うっ」
マスク越しの眼前。岡部は思い切り踏み込み、バットを振り抜いた。
「れ、レフト!」
パシッと快音が響く。井口が唇を歪め、倉橋はマスクを脱ぎ捨てる。二人の視線の先で、ライナー性の打球が左中間を切り裂いていく。
「くっ」
追い掛ける中堅手島田、左翼手戸室を嘲笑うかのように、打球はワンバウンドしてフェンスまで到達した。
「へい!」
中継のイガラシが、大きく両手を掲げる。ようやく追い付いた島田が、捕るとすかさず返球した。この間、二塁をオーバーランしていた岡部は「おっと」とすかさず帰塁。
ツーベースヒット。ノーアウト二塁、またも得点機を迎える。
「な、なんてこった」
腰に手を当て、倉橋は二塁ベース上を睨む。
「きっちり苦手コースに、井口のいちばんのタマを投げこんだってのに」
渋面の倉橋。さらに井口も、バシッと悔しげにグラブを叩く。
「くそっ。どいつもこいつも俺のシュートを、はかったように打ち返しやがる」
やがて七番打者の細見が、左打席に入ってきた。こちらは長身ながら、やや華奢な体躯である。すぐに「プレイ!」とアンパイアのコール。
マウンド上の井口が、額の汗を拭う。一方、倉橋はマスクを被り直し、屈み込む。
「名前のとおり体はほそいが、こいつも四割近く打ってるんだったな」
苦悩するバッテリーを、キャプテン谷口が「ううむ」と心配そうに見つめる。
「おそろしい打線だ。井口の球威をもってしても、あんなカンタンにとらえられてしまうのか。やはりもう一つくらい、封じるための手がかりを見つけなければ」
マウンド上。井口がサインにうなずき、すぐに投球動作を始めた。他の野手陣は、それぞれ前屈みの姿勢となり、打球に備える。
初球は、インコースに構えていた倉橋のミットの、さらに内へ外れた。あわや死球というボールに、細見は「おっと」と仰け反る。
「力んでるぞ井口。肩をほぐすんだ」
倉橋の指示に、井口はぐるんと両肩を回した。そしてロージンバックを拾う。
「そうだ。力を抜いて……えっ」
ふいに打席の細身が、アンパイアに「タイム」と告げた。
「急にどうしたっていうんだ」
思わず、ショートのイガラシと目を見合わせる。
「サインの確認ですかね?」
「そうかもしれんが、みょうなタイミングだな」
後輩と短く交わし、谷口は相手ベンチを見やる。
特に変わった動きはない。細見もベンチを振り向くことなく、ただスパイクで足下を均すだけである。
「なんでえ。ちがうのか」
まだ訝しむ顔で、イガラシがつぶやく。
「こんな時に、じらし戦法もあるまいし」
「ああ。もしくは、チャンスに落ちつこうとしたのか」
やがてアンパイアが、再び「プレイ!」とコールする。
谷口の眼前で、細見がバットを構える。そして井口の投球。インコースを狙った速球が、またも内側へ外れてしまう。
「ダメだよ。いくら速くても、こんなはっきりボールと分かるタマじゃ」
先輩の檄に、井口は「す、すみません」と軽く頭を下げた。その間、細見はまたスパイクで足元を均す。
なるほど……と、谷口は一つのことに思い当たる。
「踏みこんだ時、土がへこむのが気になるのか。しかしずいぶん念入りだな。このバッター、それほど神経質そうには見えないが」
再開後の初球となる、三球目。倉橋のサインに、谷口はその意図を読み取った。
「外角にスローカーブか。バッターの苦手コース、さらに緩急で打ち取ろうってんだな」
井口がセットポジションから、サイン通りのボールを投じる。
さすがに意表を突かれたらしく、細見はやや体勢を崩した。それでも芯に捉え、サード谷口の頭上へ打ち返す。
「……くっ」
打球は、ジャンプした谷口のグラブの先を破る。しかしレフト線上でスライスし、ファールとなった。墨高ナインは、一様に胸を撫で下ろす。
返球を受け、井口はすぐさまセットポジションに着いた。そして倉橋のサインに、無言でうなずく。
「……あれ?」
二塁ランナーを横目に、谷口はつぶやいた。眼前の左打席では、細見が数回素振りしただけで、バットを構える。足下はそのままだ。
「今度は直さないのか。毎回じゃないということは、ひょっとして……」
この時ふと、脳裏に閃くものがあった。
「あの動きは、ねらいダマとなにか関係してるんじゃ」
やがて井口が、四球目を投じた。外角スローカーブの次は、一転して内角に喰い込むシュート。しかし細見は、これを「まってました」と言わんばかりに強振する。
パシッと快音が鳴った。打球はあっという間に、ライト横井の頭上を越えていく。
「まわれまわれ!」
谷原の三塁コーチャーが、勢いよく右腕を回す。
「し、しまった……」
マスクを放り、倉橋がまたも唇を歪めた。
打球はワンバウンドでフェンスに当たり、跳ね返る。横井は急いで拾うも、中継の丸井に返すのが精一杯。
この間、岡部が打球の行方を確認しながら、ゆっくりとホームベースを踏む。打った細見はスライディングもせず、悠々と二塁を陥れていた。
タイムリーツーベースヒット。スコアボードの二枠がパタンとめくれ、二回表に「1」、得点合計に「2」と記される。
「た、タイム!」
アンパイアに断ってから、谷口はマウンドへ駆け寄った。
「どうした井口。まだ力んでるぞ」
キャプテンの檄に、大柄な一年生は「は、はぁ」と渋い顔になる。
「……す、すまん」
やがて倉橋も、こちらに駆けてきた。
「目先を変えてみたんだが、ぎゃくにヤマをはられちまったらしい」
「あれだけの打線だもの、しかたないさ」
励ますように言って、谷口は「それより……」と声を潜める。
「あのバッター、念入りに足もとをならしてたな」
む、と正捕手がうなずく。
「かなり強く踏み込んだのか、土がえぐれてたんだ」
「さすが谷原のバッターっスね」
傍らで、井口が暢気そうに言った。
「上半身だけじゃなく、足腰もしっかりしてる証拠スよ」
「こら井口。感心してる場合か」
倉橋に突っ込まれ、井口は「ど、どうも」と頬を掻く。
「まったく……しかし、それがどうかしたのか?」
こちらに顔を向け、正捕手が問うてくる。
「足もとをならすなんて、どのバッターでもやることだろう」
「うむ。そう思って、おれも最初は気にとめてなかったんだが……」
谷口はそう言って、ちらっと後方に控える次打者を見やる。そしてまた目線を戻し、話を続けた。
「どうも毎回じゃないようだし、なにかワケがあるんじゃないかと」
なにっ、と倉橋は見開く。
「ああ。いまの細見というバッター、だいぶ念入りにならしてたのに、四球目の時はそのままバットをかまえたんだ」
「そうだったのか。くそ、もっと早く気づいてりゃ」
歯噛みする正捕手を、キャプテンは「しかたないさ」となだめる。
「ヒット性の当たりをされた直後だったもの。とにかく、これで手がかりが増えた」
「む。毎回じゃないってことは、土がえぐれる時とえぐれない時がある。つまり……びみょうに打ち方を変えてるってことか」
「そういうことになるな」
谷口の相槌に、倉橋は「ひょっとして……」と囁く。
「ねらいダマによって、変えてるんじゃ」
「うむ、おれもそう思う」
満足げに、谷口は首肯した。
「あとは……なにをねらっているのか、もう少し分かればいいんだが」
「オッケー。そんなら、ちとさぐってみる」
倉橋がフフと笑い声を漏らす。
「たのむ。サードからじゃ、あまり細かい動きまでは見えないからな」
「よしきた!」
ミットを軽く叩き、倉橋がポジションへと帰っていく。残された一年生投手に、谷口は「井口もしっかりな」と一声掛けた。
「は、はぁ」
やはり打たれた動揺があるのか、井口はうつむき加減になる。
「試合前の気合はどうしたんだ。井口、おれはアテにしてるんだぞ。この局面を切り抜けるには、おまえの一球一球にかかってるんだ。いいなっ」
キャプテンの激励に、後輩は顔を上げる。
「わ……分かりました」
一人になったマウンドで、井口はひそかに気合を込めた。
「おれの一球一球にかかってる……か。ようし!」
タイムが解かれると同時に、谷原の八番打者辻倉が左打席に入ってきた。同じ左の細見とは違い、がっしりとした体躯である。
「七番と同じ左バッターなのは、好都合だぜ。いろいろ比べられる」
マスクを被り、倉橋は胸の内につぶやく。
「この辻倉ってやつは、まだ一年生だったな。さすが名門。逸材には事欠かないようで、うらやましいこった」
その辻倉も、打席に入るなりスパイクで足下を均した。
「また土がえぐれてたのか。つうことは……さっき強く踏みこんで、打ったんだな」
しばし考えた後、倉橋は一球目のサインを出す。
「こいつもインコースが得意だったな。それならボールにして、様子を見よう」
初球。インコース低めの速球を、辻倉は強振した。
大飛球がライトのポール際へ伸びていく。おおっ、とスタンドの観客がどよめいた。しかし僅かに切れ、ファール。
「……フウ、あぶねえ」
思わず、安堵の吐息が漏れる。
「うまく肘をたたんで、はじき返しやがったな。こんなバッターが八番とは」
それでもすかさず、辻倉の足下を見やる。やはり土がえぐれており、打者はまた急いで均した。
「インコースを打つ時は、強く踏みこむクセがあるのかな」
たしかめてみるか……と、倉橋は初球と同じサインを出す。井口は一瞬驚いた目をしたが、すぐにうなずいて投球動作を始めた。
「……うっ」
辻倉はねらいダマを変えていたのか、今度は迷ったようなスイングになる。それでもバットに当て、速いゴロが三塁側へ転がる。
「こら辻倉!」
すかさず谷原の一塁側ベンチより、佐々木の檄が飛んだ。
「二球ともボール球だぞ。打つタマも選べねえで、レギュラーがつとまると思うなよっ」
「す、すみません……」
辻倉はぺこっと頭を下げ、数回素振りしてから打席に戻る。
この間、倉橋は再び土の状態をチェックした。そして「おや?」と気付く。
「どういうこった。初球とコースも球種も同じだってのに、今度はえぐれてないぞ」
思案しかけたが、アンパイアに「いいかね?」と声を掛けられてしまう。
「あ、すみません」
仕方なく、倉橋はマスクを被り直し、ホームベース奥に屈み込む。
「しかし……あちらさんも、ちゃんとアタマを働かせてるぜ」
胸の内につぶやき、フウと吐息をつく。
「もし外角に投げてたら、まんまとねらい打ちされてたな。たしかにホームラン性の当たりをされた後、めったに同じタマを続けることはないが……むっ。まてよ」
この時、倉橋はあることに思い至った。
「……そうか。ひょっとして、やつらは内か外かじゃなく、得意コースか苦手コースかで打ち方を変えてるんじゃ」
ようし……と決意を固め、井口へサインを出す。
「こいつの苦手は、外角低めだったな」
迎えた三球目。倉橋がミットを構えた外角低めに、井口は速球を投じた。辻倉のバットが回り、カキッと小気味よい音が響く。
「……くっ」
鋭いライナーが、精一杯ジャンプしたイガラシの遥か頭上を破る。そしてレフト戸室の数メートル前でワンバウンドした。
レフト前ヒット。当たりが速すぎたため、二塁ランナーは帰れず。それでもノーアウト一・三塁とピンチが広がる。
「よーし、それでいいんだ」
快打の後輩を、佐々木が今度は讃えた。
「ナイスバッティングよ。辻倉、いまの打ち方を忘れるな」
辻倉は、少し照れた顔で「どうも」と応える。
倉橋はすかさず、相手打者のいなくなった左打席を見やった。土の上には、微かにスパイクの跡が残されているだけである。
「土はえぐれていない。やはり、そういうことか」
そしてアンパイアに、この回二度目のタイムを告げた。さらに内野陣へ、集合するようにとジェスチャーを送る。
「みんな集まれ!」
こうしてマウンド上に、墨高バッテリーと内野陣が集まった。
マウンド上。まず口を開いたのは、墨高のキャプテン谷口である。
「なにかつかんだようだな」
ああ、と倉橋は応えた。
「やつら得意コースか苦手コースかによって、打ち方を変えてたんだ」
周囲から「おおっ」と声が漏れる。
「得意コースを打つ時は、足を強く踏みこむ。いっぽう苦手コースをねらう時は、軸足に少し体重を残して、あまり強くは踏みこまないようだ」
「す、すごいじゃないスか倉橋さん」
丸井がパチンと両手を鳴らす。
「ここまではっきりしたクセがあるのなら、あとはそれを逆手にとって」
「うむ。たしかに、よく見抜けたと思うが……」
正捕手を讃えながらも、キャプテンは渋面を浮かべた。
「問題は……どうやってサインを出すか、ですよね」
先輩を代弁するように、イガラシが口を挟む。
「このクセは、バッターが打撃動作を始めた後に現れるものですから。それを待ってコースのサインを出したんじゃ、とても間に合わないスよ」
「イガラシの言うとおりだ」
渋面のまま、谷口は言った。
「おれもクセには気づいてたんだが、それをどうやって井口に伝えるか、いい方法が思いつかなくてな」
「ああ、そっかあ」
露骨に丸井が頭を抱える。ええ、とイガラシも同意した。
「相手のねらいが分かるのは、もう投げ終える頃ですから。ぼくらが後ろから叫んで伝えるわけにもいかないですし」
数人が「ううむ」と腕組みし、頭を抱える。
「……あ、あのう」
その時だった。井口がおずおずと、話に割って入る。
「ちと、おれに考えがあるんスけど」
意を決したような発言に、その場の全員が目を見開く。
「な、なんだって!」
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