南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

<考察>ちばあきお『キャプテン』『プレイボール』が”不朽の名作”である所以 ー私の『キャプテン』『プレイボール』論ー

 

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<はじめに>

 

 本ブログにて、ちばあきお『プレイボール』の続編小説を書き始めてから、早くも一年と三ヶ月(リライト前も含めると二年)が経過した。

 

 当初は、グランドジャンプ連載『プレイボール2』(以下「2」)を受け入れられない人へ向けて書いたものだった。

 

 しかし今では、ありがたいことに「2」を好きな方の中にも、私の続編小説を読んで下さっている方がいる。またその縁で、「2」を巡るお互いの解釈について、意見を交わす機会も増えた。

 

 残念ながら(?)、違う見解を聞いたからといって、私がそうそう自分の解釈を変えることはないのだが、改めて『プレイボール』『キャプテン』という作品について、考えさせられることも多々あった。

 

 そうして考えた事項の中で、ひょっとして原作ファンの中にも“誤解”されている方が、案外多いのではないかと思うことを見つけた。今回はそれについて取り上げたい。

 

 

1.『キャプテン』『プレイボール』は、努力の大切さを言いたいの“ではない”!?

 

 以前のエントリーでも書いたが、私が最も腑に落ちた『キャプテン』『プレイボール』の根本テーマは、文庫版『キャプテン』第1巻における、酒見賢一氏の“努力というものを描ききった作品”というものである。

 

 ただ――ここからがややこしいのだが、同作はいわゆるメッセージ的に“努力の大切さ”をうたった作品では、ない。

 

 原作を読んでいただければ分かると思うが、画面ではひたすら、野球部員達の練習光景が繰り返し描かれている。

 

 登場人物同士で交わされる言葉も「もういっちょ」「もっと右だ」「さあこい」「よしきた」等、場面に付随する“具体的なもの”ばかりだ。

 

 例えば谷口やイガラシといった主人公たちが、部員達を一堂に集め“努力の大切さ”を滔々と説く場面などは見られない。ミーティングは描かれるが、あくまでも練習メニューや試合における作戦等、あくまでも(繰り返しになるが)具体的な内容である。

  

 ここまで読んで、疑問に思われた方もいらっしゃるかもしれない。

 

 原作では、それこそ懸命に努力する谷口や丸井の姿が描かれ、そこから“努力の大切さ”を学んだという読者は、たくさんいらっしゃるに違いない。

 

 だがそれは、少なくとも谷口達が「努力は大切」と言ったからではないはずだ。登場人物達のひたむきな姿に、なるほど努力は大切なのだと、読者“自ら”感じ取った――少々ややこしいが、ここが大事なポイントだと私は思う。

 

 そう。正確には『キャプテン』『プレイボール』は、読んだ人に努力は大切だと”感じさせる”作品と言えるのである。

 

 

2.「最善を尽くす」というキーワードと“近藤主将編”の意義

 

 私が「必ずしも努力の大切さをうたったものではない」と主張するぶ根拠は、どの歴代キャプテンも、必ず周囲との軋轢を生んでいるからである。

 

 まず谷口は、青葉戦を前にして過酷な特訓をチームメイトに課し、一時は複数の部員が結託して抗議しようとまで思い立つほどだった。

 

 さらに丸井は、谷口から引き継いだ体制に固執したり、入部してきた近藤と激しく衝突したりして、部員達から“キャプテン不適格”を突き付けられる。

 

 そして全国優勝という最高の結果を出したイガラシにしても、やはり過酷な練習がもとで負傷者を出し、春の選抜辞退に追い込まれている。

 

 これは正しい、正しくないの問題ではない。どんなやり方でも、その過程でネガティブな要素というものは出てくる。これを克服する、もしくは乗りこえていくことが“チーム作り”なのだ。

 

 普通の野球漫画であれば、イガラシ主将時に全国優勝して、物語は締めだ。

 ところが、ちばあきおはそうしなかった。もう一度、作品世界を問い直すかのように、近藤主将編を描き始めたのである。

 

 もし“努力の大切さ”がテーマだとすれば、この近藤主将編が浮き上がってしまう(実際、この近藤編を嫌う原作ファンも少なくないと聞く)。

 

 ここで、もう一つのキーワードが浮かび上がってくる――それは「最善を尽くす」ということ。

 

 振り返ってみれば、歴代キャプテンは各々ちがう命題に対し、それぞれの最善を尽くしてチーム作りを進めていた――谷口は「打倒青葉」。丸井は「全国大会で勝ち抜けるチームを作る」。イガラシは「悲願の全国優勝」。

 

 そしてこれは、近藤も同じである。

 

 では近藤に与えられた命題とは、何だったのか。すなわち「前年度優勝校のプレッシャーを乗りこえること」だ。必ずしも“勝つこと”では、ない。

 

 聡明なイガラシのことだ。次のキャプテンが大きな重圧を背負うこと。さらには後輩達の面子から、その重圧とマトモに立ち向かえる者はいないと、すぐに判断しただろう。

 

 どうしても後輩達を勝たせたいのなら、かなりの困難を承知の上で、別の者をキャプテンに指名したかもしれない。

 

 もっともイガラシの現実主義的な性格からして、“自分達の栄光を後輩達にも”とは思わないだろう。最低限、迷惑のかからない人事配置だけして、あとは好きなように……というのが一番近い気がする。

 

 あるいは……近藤をキャプテンにしても、ある程度チームは回るだろうと、イガラシは考えたかもしれない。牧野や曽根はキャプテンこそ向いてないものの、“補佐役”としては適任である。さらに一学年下には、小学校でキャプテン経験のある慎二もいる。サポート体制は十分だろうと。

 

 いずれにせよ、イガラシが優先的に考えたのは、墨二野球部が「前年度優勝校のプレッシャーを乗りこえる」のにふさわしい人材は誰か、という点だ。それが近藤だったというわけである。

 

 ここで再び、「最善を尽くす」ということがキーワードとなる。

 

 繰り返すが、近藤世代の命題は「何が何でも勝つこと」ではない。したがって、前世代までの課題――猛練習による離脱者続出を何とかしようという話になったのは、当然の流れと言える。

 

 また練習でさほど追い込むことがなくなった分、ゆとりのある選手強化・チーム強化を図ることができるようになった。

 

 以前までのやり方では、まず脚力がない時点でふるい落とされていたが、近藤式選抜では「足は遅いがパワーはある」「体力はないが素質に光るものがある」といったタイプの選手にもチャンスが出てくるのだ。

 

 そうして発掘された代表格が、JOYこと佐々木君である。

 

 JOYは入部初日、なんとユニフォームを持ってこず。代わりの服装もてきとーで、上着を裏返して着る有様だった。以前のチームなら、間違いなく入部さえ認めてもらえなかったろう。それが一躍選抜デビューを果たし、強打の富戸中学相手に堂々たるピッチングを披露して見せた。

 彼こそ“近藤式”だからこそ、見出された才能と言える。

 

 

3.ちばあきお『キャプテン』『プレイボール』が“名作”である所以

 

 やや話が逸れてしまったので、ここらでまとめに入る。

 

 原作『キャプテン』『プレイボール』は、主人公とその周囲の登場人物達が、それぞれに与えられた命題を解決するため、良い悪いは別として、どのように最善を尽くしていくのか(“努力”と言い換えることもできよう)を、淡々と描いた作品である。

 だからそれを見て、どう感じるかは、読者である私達に委ねられている。

 

 努力偏重だとか、現実はそんなに甘くないだとか見る向きもあろう。

 

 しかし私も含め多くの人が、谷口や丸井、イガラシそして近藤のひたむきな姿に胸を打たれ、何かに一心で打ち込むことの尊さ、努力することの大切さを学び、今なお人生の糧としてきたことは、紛れもない事実である。作者ちばあきおは、登場人物達に「努力は大切だ」などと語らせていないのにも関わらず、勝手に。

 

 優れた文学作品というものは、そういうものなのかもしれない。言葉や表現自体は一見すると平板だが、しかし気が付くと多くの人がその作品世界に引き込まれ、何らかの価値を見出してしまう

 

 そうした性質があるからこそ、ちばあきお『キャプテン』『プレイボール』は“不朽の名作”なのだと、私は結論付けることとしたい。

 

 

 【関連リンク】

stand16.hatenablog.com