南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

【野球小説】続・プレイボール<第45話「痛恨のミス!の巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

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【目次】

  


 

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<外伝> 

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 第45話 痛恨のミス!の巻

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1.エース谷口登板!

 

「やはりピッチャー交代か」

 一塁側ベンチ。村井がバットを準備しつつ、渋い顔になる。その眼前では、すでに谷口がマウンド上で、投球練習を始めていた。

「あの一年坊、うまく宮田と大野がゆさぶってくれて、だいぶボロが出かけてたのに」

 ええ、と辻倉も同調した。

「向こうのキャプテン、判断が早いですね。うちとここまでやり合うのも分かります」

 周囲の数人もうなずき合う。その時「これっ」と、監督がベンチ隅より檄を飛ばす。

「おまえ達、いい気なもんだな。相手をたたえてる場合か」

 耳の痛い言葉に、谷原ナインはうつむき加減になる。

「エースを立ててきたということは、向こうはなんとしても一点差を死守するつもりだろう。であればこそ、ここはどうあっても突き放さなきゃならん」

 指揮官の檄に、ナイン達は「は、はいっ」と気を入れ直す。

 

 

 規定の投球練習を終え、谷口は一度後方に振り向いた。

「ノーアウト一塁だ。しっかりたのむぞ、バック!」

 キャプテンの掛け声に、墨高ナインは「オウッ」と力強く応える。ただ心なしか、その表情は硬い。

 右手にロージンバックを馴染ませつつ、谷口は「うーむ」と首を傾げる。

「どうも雰囲気が重いぞ。やはり終盤……ここからのワンプレーが、勝敗に直結していくことを考えれば、みんながカタくなるのも無理ないか」

 谷口登板に伴い、墨高は選手交代とシート変更を行っていた。まず谷口の抜けたサードには、いつものように岡村が入る。さらにレフトには横井。そしてライトには下がった片瀬に代わり、同じ一年生の久保が守りに着く。

「……ん?」

 ふと谷口の耳に、ガッガッという土を削る音が聴こえてきた。そこへ目を向けると、岡村がスパイクで何度も何度も、三塁ベース付近を踏みつけている。

「どうした岡村」

「あ、はい。その……でこぼこが気になっちゃって」

 思わず「そうか?」と問い返してしまう。岡村が言うほど、土は荒れていない。

「岡村。ちょっとそこで、ジャンプしてみろ」

「は、はぁ」

 やや戸惑いながらも、岡村は言われたとおりに、その場で数回跳ねた。

「どうだ。少しは、体がほぐれたろう」

「えっ、ええ……まあ」

 なおも怪訝げな後輩に、谷口は「いいか岡村」と助言する。

「イレギュラーバウンドを気にするより、まず自分の体を動かせるかどうかが大事なんだ。せめて前にこぼしさえすれば、おまえの反射神経と肩があれば十分間に合う」

「は、はいっ」

 素直な返事に、谷口はひとまず安堵した。

「岡村はちょっと、神経質すぎるところがあるからな。攻守ともにセンスはあるんだし、もっと大胆にプレーしてくれていいものを」

 足下にロージンバックを放り、谷口が前方へ向き直ろうとした時だった。

「……キャプテン」

 振り向くと、丸井が一人立っていた。

「おう、どうした?」

「こんな時に、聞くことじゃありませんけど」

 後輩は、どこか憂うような眼差しである。

「あの……怖くないのですか?」

 思わぬ一言だった。なんだ丸井、と谷口は優しく微笑む。

「心配してくれたのか」

 丸井は「へへ」と照れた顔で、うつむき加減になる。

「す、すみません。余計なことを」

「……そりゃ、まるで怖くないと言えば、ウソになるさ」

 正直に心の内を明かした。えっ、と後輩は目を見開く。

「でもな丸井」

 やや語気を強めて、谷口は告げる。

「みんなに勇気を出せと言ったのは、おれなんだ。人に言ったからには、おれ自身が範(はん)を示さなきゃならん」

「きゃ、キャプテン……」

 決然とした言葉に、丸井は一瞬気圧された格好になる。

「まあ見ててくれ」

 少し口調を柔らかくして、谷口は言った。

「どうにかこの回をしのいで、ウラの反撃につなげるんだ」

「は、はいっ」

 丸井は快活に応え、ポジションへと戻っていく。

 

 

「バッターラップ!」

 アンパイアの声を聴いて、四番佐々木はゆっくりと右打席に入った。眼前のマウンド上では、墨高のエース谷口が、右手にロージンバックを馴染ませている。

「投球練習を見るかぎり、春先に戦った時よりもスピードが増してるな。大量得点したイメージは、どうも捨ててかかった方がよさそうだぜ」

 足下の土を均しつつ、ちらっと一塁側ベンチを見やる。

「とくにサインは出てないが、ピッチャーの代わりっぱなだ。ちとゆさぶってみるか」

 試合再開が告げられると、佐々木はバットを寝かせた。谷口、そしてキャッチャー倉橋の口が「えっ」と言うふうに動く。

 

 

「よ、四番がバントだと?」

 ホームベース手前。倉橋はマスク越しに、相手打者を見やる。

「ゆさぶりだと思うが、いまの谷原はなりふりかまってないからな」

 まずここよ……と、サインを出す。

「まず外の速球をボールにして、様子を探るとするか」

 マウンド上。谷口は「む」とうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。同時に、佐々木はヒッティングへと切り替えた。投球は倉橋の要求通り、ボール一個分外したアウトコースの速球。

「……な、なにっ」

 次の瞬間、倉橋は驚嘆の声を上げた。佐々木がボール球を強引に引っ張り、ライト線へ打ち返す。一塁手加藤のジャンプも及ばず。

「フェア!」

 一塁塁審のコール。打球は白線の内側に落ち、そのまま転がっていく。ライト久保がどうにか回り込み、外野フェンスの数メートル手前で捕球する。

「へいっ、久保」

 すぐさま二塁手丸井へとボールが渡る。この間、一塁走者の大野は二塁ベースを蹴り、三塁へと向かう。

「こんニャロ!」

 丸井の三塁送球も間に合わず、谷口がホームベース手前でカットした。二人の走者は、それぞれ悠々と塁を陥れている。ツーベースヒット、ワンアウト二・三塁。

「くそっ、やられた」

 マウンド上。谷口は、悔しげに唇を噛む。

「探りを入れるためのボール球を、まさかねらってくるとは」

 

 

「フフ、さすが佐々木」

 一塁側ベンチ。谷原監督は腕組みしつつ、含み笑いを漏らした。

「ピッチャーの代わりっぱなは、初球打ちが効果的だとよく心得てる」

 そしてベンチの全員を見回し、再び檄を飛ばす。

「追加点のお膳立ては、そろったぞ。さあ遠慮はいらん。一気にたたみかけて、さっきの二点を忘れさせてやれ!」

 谷原ナインは「はいっ」と力強く応え、次打者へ声援を送る。

「いけ村井。ねらいダマをしぼって、打ち返せ!」

「墨谷のねばりもここまでだっ」

「あの練習試合のように、つるべ打ちにしてやろうぜ」

 

 

 マウンド上。バッテリーも含め、墨高内野陣は集まっていた。

「へん、調子にのりやがって」

 意気上がる一塁側ベンチに、丸井が鼻を鳴らす。

「たまたま奇襲が、うまくハマっただけのくせによ」

 キャッチャー倉橋が「これ」と、窘める。

「そうやってムキになれば、やつらの思うツボだぞ。こういう時こそ落ち着くんだ」

「は、はぁ……」

 肩を竦める丸井。その傍らで、正捕手はキャプテンと目を見合わせる。

スクイズはないだろうな」

 うむ、と谷口はうなずいた。

「おれも同感だ。向こうは今、点を取られて怒り心頭だろう。このチャンスで一気にたたみかけようとしてくるはず」

 そう言って、手中のボールに力をこめる。

「ここは思いきって勝負したい」

 決然とした言葉に、周囲は「キャプテン!」と声を発した。

「一塁は空いてますよ」

 おずおずと加藤が口を挟む。

「つぎは五番ですし、ムリに勝負しなくても」

 いいや、と谷口は首を横に振った。

「今ただでランナーを与えれば、谷原はますます勢いづく。それよりも、きっちり五番を打ち取って、流れを断ち切るんだ」

「さすがキャプテン!」

 すぐに賛同したのは、やはり丸井である。

「ここでビシッとおさえて、谷原に目にもの見せてやりましょう……って、あり?」

 ところが他のナイン達は、黙り込む。一様に渋面をしていた。ムリもないか……と、谷口は胸の内につぶやく。

「みんな見てたものな。あの時、おれがつるべ打ちされるのを」

 その時だった。

「イケると思うぜ」

 正捕手倉橋が、きっぱりと答える。ナイン達は「えっ」と目を丸くした。

「前回とはちがう。ひじは治ってるし、向こうの苦手コースだって知りつくしてる。今度はじゅうぶん勝負になるさ」

 ええ、とイガラシも同調する。

「かわすだけでは限界がありますし。キャプテンがその気なら、ぼくらも後押しします」

 この言葉に、周囲もうなずく。ようやく内野陣の意思が一つになる。

 

 

 ほどなくタイムが解け、内野陣はポジションへ散っていく。

 谷口はマウンド上にて、指先にロージンバックを馴染ませた。そして足下へ放り、背後のチームメイト達に向き直る。すっと右手を掲げる。

「いくぞバック!」

 すぐに「オウヨ」と、快活な声が返ってくる。

 ところが一人だけ、反応しない者がいた。谷口に代わってサードに入る岡村だ。凸凹が気になるのか、またスパイクで土を均している。

「おい岡村」

 声を掛けると、岡村はようやく気付く。

「……あっ、はい」

「守備のうまいおまえが、なにを気にしてる」

「す、すみません」

「余計なことは考えるな。ほれ、深呼吸してみろ」

 岡村は言われた通り、その場でスーハーと深呼吸する。

「どうだ。少しは落ち着いたか?」

「ええ、なんとか」

 それはよかった、と谷口は穏やかな口調で言った。

 やがてアンパイアが「バッターラップ!」と一声発した。そして次打者の五番村井が、左打席に入ってくる。

「岡村はそれなりに試合経験を積んできてるはずだが。谷原の迫力には、どうしても重圧を感じてしまうのだろうな」

 後輩を思いやりつつ、谷口は腰にグラブを当て前屈みになる。前方で、キャッチャー倉橋が「まずここよ」とサインを出す。

 谷口は「む」とうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。

 

 

2.痛恨のミス!

 

 ズバン。谷口の投じた速球が、キャッチャーの構えるアウトコース低めいっぱいに飛び込んできた。

「ストライク!」

 アンパイアのコール。左打席の村井は、思わず「おいおい」と目を見開く。

「速いじゃねえか。春先に戦った時とは、まるでちがうぞ」

 間髪入れず、第二球が投じられた。今度はインコース高めの速球。

「……くっ」

 村井のバットが回る。しかしボールの下を叩き、打球は後方のバックネットへ。ガシャンと音が鳴る。

「ふ、振り遅れた? 思ったより手元で伸びてきてるのか」

 唇を噛み、マウンド上を睨む。眼前では、墨高のエース谷口が、ポーカーフェイスで次のサインを待つ。

「あんときゃ本調子じゃなかったのか。もしくは……うちに負けたのを機に、力をつけてきたのか。フフ、そうこなくちゃ」

 含み笑いを漏らし、村井は短くバットを握り直す。

 一方のマウンド上。谷口はしばし間を取り、そして三球目の投球動作を始めた。左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を思い切りしならせる。

「きたっ」

 初球と同じアウトコース低め。村井は躊躇わず、バットを振り出す。ところがホームベース手前で、ボールはすうっと沈んだ。

「フォークだと!」

 ガッ。ボールの上っ面を叩いた打球が、鈍くサード正面へ転がる。

「し、しまった……」

 バットを放り、駆け出す村井。ランナーは二人とも動けない。

 

 

「よし、打ち取った」

 倉橋は小さく右拳を握る。その眼前で、谷口は「サード!」と指示。すでに岡村が軽やかなステップで、緩いゴロをグラブに収めるかに見えた。

「……えっ」

 次の瞬間、正捕手は言葉を失う。同時に、内外野のスタンドから「ああっ」と大きなざわめきが漏れた。

 岡村のグラブから、ボールがこぼれ落ちた。

「くそっ」

 岡村は慌ててボールを拾い直し、体を一塁方向へ向ける。

 咄嗟に、倉橋は「投げるな!」と叫ぶ。だがすでに、岡村の指先からボールは放たれていた。一塁手加藤が、左手のミットを掲げジャンプする。その遥か頭上。

 ドンッ。ボールは一塁側スタンド下のフェンスに当たり、そのままライトのファールグラウンドまで転がっていく。

「回れ回れ!」

 谷原の三塁コーチャーが、大きく右腕を回す。まず三塁走者の大野が生還。さらに二塁走者の佐々木も三塁ベースを蹴り、ホームへと突っ込む。

「……へいっ」

 ベースカバーに入っていた右翼手久保が、ボールを拾うや否や直接バックホームする。しかし時すでに遅く、佐々木は左足からホームに滑り込んでいた。

 スコアボードの枠がめくれ、谷原の得点が「5」と差し替えられる。サード悪送球、二対五。再び三点差。

 沸き上がる谷原の一塁側ベンチと応援スタンド。一方、墨高の三塁側ベンチと応援スタンドは、静まり返る。

 グラウンド上。致命的な失策を犯した岡村は、三本間で呆然と立ち尽くしていた。

 正捕手倉橋は、ミットの左手を腰に当て、唇を噛む。両手で頭を抱える丸井。うつむく加藤。険しい眼差しのイガラシ。

「……タイム。みんな集まるんだ」

 沈黙を破ったのは、やはりキャプテン谷口である。その声に突き動かされるかのように、墨高内野陣は重い足取りながら、マウンドへと集まってくる。

 

 

「フヒー、あぶねえ」

 一塁側ベンチ。大野が苦笑いしながら、それでも足取り軽く引き上げてきた。傍らで、佐々木も「ほんと助かったぜ」と同調する。

「村井は完全に打ち取られたが、まさかあそこでミスしてくれるとは」

 ベンチ隅にて、監督は厳しい表情を残しつつも、小さく「よし」とうなずいた。

「ちとラッキーだが、この二点は大きい。ぎゃくに墨谷にはこたえたろう」

 そうつぶやき、ベンチのナイン達へ檄を飛ばす。

「さあ遠慮はいらん。向こうは点を取った後、すぐに突き放されて、かなり動揺しているはず。この機に、たたみかけるんだ!」

 谷原ナインは「はいっ」と、力強く応える。そして次打者への声援。

「つづけよ岡部。墨谷に息つくヒマを与えるな」

「いっそこの回で、勝負を決めてしまえ!」

 

 

 マウンド上。まだ呆然とする岡村に、倉橋が「ほらしっかりしろ」と声を掛けた。

「……あ、ああっ。すみません!」

 岡村はその場に両膝をつき、肩を震わせる。

「せっかく打ち取ったのに。ぼくのせいで、ぼくのせいで……」

「おまえだけのせいじゃない」

 横に屈み込み、谷口はなだめる口調で言った。

「そのまえに長打を許して、ピンチを広げてしまったのは、おれだ。おまえ一人のせいで、点を取られたわけじゃない」

 しかし岡村は収まらず、とうとう涙がこぼれ落ちる。

「ぼくの……ぼくの、せいで……」

「バカヤロウ!」

 ふいに怒鳴り声を上げたのは、丸井だった。岡村のユニフォームの胸倉をつかみ、力任せに引っ張り上げる。

「や、やめろ丸井」

「丸井さん!」

 谷口とイガラシが制止するも、聞く耳を持たず。一年生を容赦なく叱り付ける。

「てめえ。まだ試合は続いてるってのに、泣き言ぬかすんじゃねえ。ゲームセットの後で、好きなだけ悔やみやがれ!」

「こら丸井、おまえも落ち着けって」

 間に入った倉橋が、ぐいっと二人を引き剝がす。そして「どうする?」と、谷口に視線を合わせてくる。

「しかたない。こんな動揺したままじゃ、谷原につけこまれる」

 そう言って、谷口は「イガラシ」ともう一人の一年生に顔を向けた。

「悪いがサードに入ってくれ」

「は、はいっ」

「ショートには横井。それと岡村、おまえはレフトに回るんだ」

 ようやく立ち上がった岡村は、しかし「そんな……」と首を横に振る。

「ぼくにはもう、試合に出る資格なんかありません。ぼくを下げてください」

「岡村!」

 ふいに谷口が、強い口調になった。その迫力に、言われた本人だけでなく、周囲も思わず背筋を伸ばす。

「逃げるんじゃない。いまのミスで、チームに迷惑をかけたと思うのなら、この後のプレーで取り返してみせることだ。いいなっ」

 キャプテンの檄に、岡村は「はい……」と素直に応える。

「む。がんばるんだぞ、岡村」

 一転して穏やかな目で、谷口はポンと後輩の肩を叩いた。

 

 

 三塁側スタンド。立ち上がっていた田所は、ぐらっと崩れ落ちるように座り込む。

「……た、田所さん」

 後輩の中山が声を掛けようとする。それを山口が「いいから」と制し、数回首を横に振る。

「今はそっとしといてあげようぜ。そうとう、ショックだったろうからな」

「あ、ああ……」

 中山はうなずくしかない。明朗な山口も、フウ……と重い溜息を漏らす。傍らの太田、山本も、皆一様に引きつった表情だ。

 そして田所は、一人唇を噛み締める。

「なんてこった」

 自然とつぶやきが漏れた。

「ここまで必死に守って、点差を縮めてきたってのに。あんなミスで試合が決まっちまうのか。神様ってやつは、少しくらいあいつらの味方をしてくれても、いいじゃねーかよ」

 くそったれ、と傍らのベンチを叩く。

 

 

 長いタイムの後、墨高ナインは守備位置へと戻る。

 失策の岡村がサードからレフトへ、空いたサードにはイガラシ、さらにレフトを守っていた横井がショートへ。実に三ポジションが入れ替わっていた。

「ワンアウト二塁。つぎは、当たっている六番か」

 マウンド上。右打席に岡部が入るのを見やりつつ、谷口はちらっと背後を振り向く。サードのイガラシ、ショートの横井は定位置にて前傾姿勢となり、いつでも打球に反応できる構えである。一方、岡村はレフトで所在なさげだ。

「いくぞ岡村!」

 再び檄を飛ばす。岡村は、ようやく「あっ」と反応した。

 谷口は小さく溜息をつき、前方の倉橋と岡部に向き直る。そして胸に手を当て「ノーサインだ」と合図した。む、と正捕手がうなずく。

「なんとしてもレフトへ打たせないようにしなきゃ」

 そうつぶやき、谷口はセットポジションに着く。

「きっと谷原はつけこもうとするはず。あの様子じゃ、またポカをしかねない」

 初球。外角低めの速球が、コースいっぱいに決まる。岡部は微動だにせず。

「まったく反応しない。それなら、つぎは……」

 続く二球目は、内角へシュート。岡部のバットが回る。

 パシッ、と快音が響く。レフト線上への大飛球。岡村は数歩後ずさりした後、ようやく背走する。しばし躊躇した分、スタートが遅れてしまう。

「ばか、バックだ!」

 倉橋が怒鳴った。打球は岡村の頭上を越え、しかし左へ僅かに切れていく。三塁塁審が「ファール!」と、両腕をスタンド側へ振る。

「内角を打ちにきたということは、やはりレフトをねらってるのか」

 だったら、と谷口は思案を巡らせる。

 そして三球目。アウトコースへ、今度はスローカーブを投じた。緩急差に、しかし岡部の下半身は揺るがない。

「し、しまった。読まれた……」

 おっつけるような岡部のスイング。バシッと小気味よい音がした。ライナー性の打球が、右中間へ飛ぶ。ぐんぐん伸びていく。

「ライト!」

 倉橋の声よりも先に、この回代わったばかりの右翼手久保が、駆け出していた。走る、まだ走る。とうとうフェンス際まで達した瞬間、久保は地面を蹴り高くジャンプした。

「……くっ」

 精一杯伸ばしたグラブの先に、ボールが引っ掛かる。勢い余り、久保はフェンスに体の側面を打ち付けた。ドサッと、そのまま土の上に転がる。

「く、久保!」

 中継の丸井が慌てて走り寄る。久保は何とか上半身を起こし、グラブを高く掲げる。その中にボールは収まっていた。しかし額から、血が流れ落ちる。

「あ……アウト!」

 二塁塁審のコール。その間、二塁走者の村井はタッチアップから三塁へと向かう。さらに久保が負傷したと見るや、三塁ベースも蹴りホームへと突っ込む。

「丸井さん!」

 久保は辛うじて立ち上がると、懸命に投げ返す。それをワンバンドで捕球し、丸井はすかさずバックホームした。

「このっ、させるか!」

 ノーバウンドのストライク返球。本塁上のクロスプレー。滑り込んだ村井の右手を、倉橋のミットがはらう。

 キャッチャーと走者の傍らで、アンパイアが右拳を高く突き上げた。

「アウト! スリーアウト、チェンジ」

 球場内は、一瞬の静寂とどよめき。そして、大きな拍手に包まれる。

「や、やったぜ……」

 グラウンド上。スリーアウト目を見届けた久保は、やがてその場に膝をつく。左手で頭を押さえ「うっ」と呻くような声が漏れた。

「おい久保。だいじょうぶか!」

 改めて丸井が駆け寄る。その後に、二人の係員が担架を持って続く。

 

 

 一塁側ベンチ。谷原監督は、小さくかぶりを振る。

「……す、すみません」

 ほどなく、タッチアウトになった佐々木が引き上げてきた。

「フェンスにぶつかったので、送球は間に合わないと思ったのですが」

「しかたあるまい」

 渋い顔で、監督は言った。

「あの状況じゃ、誰だってホームをねらうさ」

「ええ。しかし墨谷の闘志には、正直たまげました」

 佐々木は苦笑いを浮かべる。

「致命的なミスで、追加点を取られた後です。ふつうなら意気消沈するはずですが」

「うむ。三点あるとはいえ、まだまだ気は抜けないということだ」

 たのむぞ佐々木、と監督は語気を強める。

「残り三イニング。村井やみんなを、うまくリードしてやってくれ。この試合をモノにできるかどうかは、おまえの采配いかんにかかっているのだからな」

「はいっ。まかせてください!」

 キャプテンは力強く応えた。

 

 

 三塁側ベンチ。墨高ナインは、誰もが落ち着きなさげである。

「だいじょうぶかな、久保のやつ」

 横井が溜息混じりに言った。

「けっこう激しくぶつかったからな」

 ええ、と傍らのイガラシがうなずく。

「脳震とうを起こしてたら、交代させるしかありませんね」

「む。いちおう高橋と松本に、急ぎウォーミングアップさせてはいるが」

 横井の視線の先。レフト側ファールグラウンドにて、高橋と松本がおっかなびっくりといった様子で、キャッチボールを続けている。

「さあみんな。そろそろ気持ちを、切りかえるんだ」

 キャプテン谷口が、朗らかに一声発した。

「前の回から、村井は隠していた力を出し始めた。すぐにとらえるのは難しいにしても、しつこく喰らいついていけば、かならずスキを見つけられるはずだ」

 倉橋も「ああ」と、同調する。

「こちとら村井が、インコース主体に投げてくると想定してたからな。もともと備えてたことを、やっと実行できると考えりゃ」

 その時だった。カチャリとベンチ奥のドアが開き、久保が姿を現す。額に白い包帯を巻かれている。

「く、久保!」

 丸井の声を合図に、ナイン達は一斉に駆け寄る。

「すみません。心配かけちゃって」

 苦笑いを浮かべ、久保は頭を下げる。

「試合出場に問題ないそうです」

 その一言に、周囲は「おおっ」と沸き立つ。

「まったくヒヤヒヤさせやがって」

「途中出場のやつがケガしちまったら、わりに合わねーぞ」

 ナインの輪の後方で、失策の岡村はひそかに溜息をつく。その背中を、ポンと叩く者がいた。丸井である。

「ま、丸井さん……」

 マウンド上で叱責した時と打って変わり、穏やかな目をしていた。

「おい岡村。まえの試合で交代させられた久保が、あれだけのプレーをして見せたんだ。同じことが、おまえにできないはずねーよ」

「は、はいっ」

 先輩の励ましに、一年生はピンと背筋を伸ばす。

 

 

3.谷原エース・村井の底力

 

 ネクストバッターズサークル。イガラシは、指先にロージンバックを馴染ませながら、眼前に広がるグラウンドを凝視していた。

「上位にまわるこの回で、なんとか一点でも返したいが……」

 すでに先頭打者の久保が、右打席に立つ。そしてマウンド上では、谷原のエース村井がワインドアップモーションから、投球動作へと移る。

 ズバン。快速球が、インコース高めに決まった。久保は手が出ず。アンパイアが「ストライク!」と右手を高く突き上げる。

 ちぇっ、とイガラシは舌打ちした。

「さすが谷原のエースだぜ。やつにベストな投球をされちゃ、出塁するのもラクじゃねーな」

 続く二球目。村井がまたもワインドアップモーションから、今度はカーブを投じる。

 その瞬間、イガラシは「えっ」と目を見開いた。村井のカーブは鋭く変化したものの、コースには決まらず。久保のユニフォームの袖を掠める。

「デッドボール、テイクワンベース!」

 アンパイアがコールして、一塁ベースを指さす。同時に、三塁側スタンドとベンチが「おおっ」とどよめく。

「バカ。これで三度目だぞ」

 佐々木がマスクを脱ぎ、怒鳴る。

「せっかく点を取った後に、余計なランナーを出しやがって」

「す、スマン」

 苦笑いする村井。なるほど、とイガラシは胸の内につぶやく。

「やはりカーブの制球は落ち着かないようだな。いつもの投球に戻したところで、一度おかしくなったものを修正するのは、カンタンじゃないのか」

 よしっ、と気合を込めて打席へ向かう。一方、思わぬチャンスを得た墨高の三塁側ベンチは、俄かに活気づく。

「まだツキはあるぞ」

「いけイガラシ、なんとしてもチャンスを広げるんだっ」

 横井と戸室の掛け声に、他のナイン達も続く。

「おまえなら打てる。ひるむなイガラシ」

「狙いダマをしぼって、逃さず引っぱたけ!」

 イガラシは右打席に入り、スパイクで足下を均した。そしてバットをグリップエンドぎりぎりまで、短く握る。

「さあこい!」

 眼前のマウンド上。村井がセットポジションから、第一球を投じてきた。膝元への大きなカーブ。コースいっぱいに決まり、ワンストライク。

「けっ、大胆なやつめ。今しがたミスしたカーブを、また投げてくるとは」

 続く二球目。またもインコース低めに、今度はシュート。鋭く膝元を抉るように飛び込んできた。これも決まり、あっさりツーストライク。

 一旦打席を外し、イガラシは軽く素振りした。その傍らで、佐々木が「こいつ……」と睨み付ける。

「村井の変化球に、まばたき一つしねえ。ほんとかわいげのないボウヤだぜ」

 イガラシは打席に戻り、またバットを短く握る。村井は佐々木のサインを確認すると、すぐさま三球目の投球動作を始めた。

 真ん中低めのチェンジアップ。速球ねらいの相手打者に、スピードを殺したボール。しかしイガラシの上半身は、揺るがない。佐々木は「なにっ」と目を見開く。

 パシッ。低いライナーが、村井の足下をすり抜け二塁ベース上を破る。センター前ヒット、ノーアウト一・二塁。

 一塁ベースを回りかけたイガラシは、フンと鼻を鳴らす。

「引っかけてくると思ったぜ。初回と同じテが、そう何度も通じると思うなよ」

 

 

 マウンド上。村井は渋面になり、左手でロージンバックを弄ぶ。その眼前で、佐々木がマスクを脱ぎ立ち上がる。

「た、タイム!」

 アンパイアに合図して、こちらに駆けてきた。

「すまん村井。ウラをかいたつもりが、読まれちまった」

 謝る正捕手に、エースは笑って「気にするな」と応える。

「しかしあのボウヤ、大したセンスだな。うちでも十分レギュラーを争えるぜ」

「おいおい、感心してる場合かよ。ピンチで中軸に回るってのに」

 佐々木は口調を荒げて言った。

「ここで一点でも返されたら、また流れが変わりかねんぞ」

「わ、分かってるって」

 相棒をなだめ、村井はフフと含み笑いを漏らす。

「モノは考えようさ」

「どういうこったい、そりゃ」

「墨谷が追いつくには、今のチャンスで得点するしかない。ぎゃくに言えば……ここをおさえりゃ、うちの勝ちはカタイってわけよ」

「む。たしかにここで点を取れなきゃ、そうとうガクッとくるだろう」

 佐々木がうなずくと、村井はトンと自分の胸を叩く。

「ここはおれにまかせろ。中軸を打ち取って、やつらを意気消沈させてやるぜ」

 だったら、と正捕手は軽く睨む。

「もうぶつけるのはナシだぜ」

 エースは「あっ」と苦笑いした。

 ほどなくタイムが解け、佐々木はポジションに戻る。マスクを被って屈み、胸の内に「大したもんだ」とつぶやく。

「思わぬ苦戦を強いられながらも、ああして動じる素振りも見せないとは。フフ……谷原のエースは、こうでなくちゃ」

 

 

「丸井、思いきっていけよ!」

 ネクストバッターズサークルにて、倉橋はそう声援を送りつつ、味方ベンチを見やる。キャプテン谷口が、帽子のつばを摘まみサインを出す。

送りバントか。点を取られた直後だし、ここは手がたく行くべきだろうな」

 倉橋の眼前で、村井がセットポジションから投球動作へと移る。その初球、アウトコース寄りの真っすぐを、丸井は一塁線とマウンドの中間地点に緩く転がした。

「うまいっ」

 思わず膝を打つ。ランナーがそれぞれ進塁し、ワンアウト二・三塁

 やがて丸井が引き上げてくる。倉橋は「ナイスバントよ」と声を掛けた。ところが、当の本人はなぜか浮かない顔である。

「どうした?」

「いまのタマ、みょうに力がなかったんスよ。コースも甘かったですし」

「村井も疲れが出てきたのか」

 丸井は「だといいんスけど」と苦笑いする。

「それにしちゃタイムもかけないですし。ひょっとして……わざとバントさせたんじゃ」

 なんだって、と倉橋は目を見開く。

 マウンド上。谷原のエース村井は、涼しげな顔である。その周囲では、定位置の内野陣が「ここからクリーンアップよ」「しっかり守っていこうぜ」と、声を掛け合う。

「ちぇっ。とてもピンチとは思えない雰囲気だな」

 倉橋は右打席に入り、バットを短く握る。

「あの速球に、振り遅れないようにしねーと」

 その初球。村井が投じたのは、チェンジアップだった。緩いボールがすうっと沈む。

「うっ」

 タイミングを外され、倉橋のバットは空を切る。

「くそっ。こっちの考えを、見透かされたか」

 続く二球目は、膝元にカーブ。コースいっぱいに決まり、ツーストライク。あっという間に追い込まれる。

 なるほど、と倉橋は苦笑いした。

「こういう時のために、力を残してたんだな」

 そして三球目。村井がセットポジションから、右足を踏み込みグラブを突き出し、左腕をしならせる。

 快速球がうなりを上げて、インコース高めに飛び込んできた。

「く……」

 ガッと鈍い音がした。キャッチャー佐々木の頭上に、高々とフライが上がる。

「し、しまった!」

 バットを放り駆け出す倉橋。その視界の端で、佐々木が「オーライ」と顔の前で難なく捕球した。これでツーアウト。

 

 

「まさか……」

 次打者として控えていた谷口は、思わず唇を噛む。

「あの倉橋が、わずか三球で打ち取られるなんて」

 ほどなく、その倉橋が引き上げてきた。スマンと頭を下げられる。

「高めのボール球に、うっかり手を出しちまって」

「な、なーに。あれはしかたないさ」

 谷口は数回首を横に振った。

「すごいタマだったもの。この試合で、一番速かったんじゃないか」

 む、と倉橋が渋面になる。

インコースの速球を封じてたのは、こういう場面のために力を蓄えてたんだろう」

「ああ。疲れが出てくるなんてのは、ちょっと期待できなさそうだ」

 情報交換の後、谷口はネクストバッターズサークルを出た。そしてアンパイアに「どうも」と会釈してから、右打席に入る。

「ここは球種をしぼらず、好球必打でいくべきだな」

 眼前のマウンド上。村井はロージンバックを足下に放り、すぐに投球動作を始めた。初球は、内角へのシュート。膝を巻き込むようにストライクゾーンへ飛び込んでくる。

 谷口は、これを強振した。

 バシッと小気味よい音。速いゴロが、三遊間を襲う。墨高の三塁側ベンチとスタンドが「おおっ」と沸きかけた、次の瞬間。

「くわっ!」

 谷原の遊撃手大野が、横っ飛びで捕球した。そのまま片膝立ちになり、一塁へ矢のような送球。くっ……と、谷口はベースへ頭から飛び込んだ。間一髪のタイミング。

「……あ、アウト! チェンジ」

 一塁塁審のコール。球場内を、落胆と安堵の入り混じった声が包み込む。

「ナイスショート!」

「たすかったぜ。これで試合の流れは、うちに傾くだろう」

「この勢いで追加点といこうよ」

 谷原ナインは声を掛け合いながら、足取り軽くベンチへと駆けていく。

「く、くそっ」

 谷口は思わず、右手で一塁ベースを叩いた。

「せっかくみんなが、つないでくれたってのに……」

 その時である。

「ほら、しょげてるヒマはねーぞ!」

 顔を上げると、ベンチで横井が周囲に声を掛けていた。

「まだイニングは残ってるんだ。もう一度チャンスを作って、その時こそモノにすればいいじゃねーか」

 おうよ、と傍らの戸室も加勢する。

「昨年だって、こんな状況から何度もひっくり返してきたんだ。いま下を向いてちゃ、野球の神様からソッポを向かれちまうぞ」

 二人の掛け声に、丸井が「よしきた」と快活に応える。

「いまこそ不屈の墨谷ダマシイを、見せてやりましょう!」

 そして加藤、島田、久保……他のナイン達も、自然と同調していく。

「まずはこの八回。しっかり守っていきましょう!」

「む。これ以上、谷原を調子づかせてたまるかってんだ」

「そうカンタンにへこたれる墨谷じゃないってこと、やつらに思い知らせてやらなきゃ」

 思わぬベンチの光景に、谷口は目を細めた。

「横井、戸室、丸井……みんな。ありがとう」

 ふとその背中を、ポンと叩かれる。振り向くとイガラシが立っていた。小脇にヘルメットを抱え、口元に笑みを浮かべる。

「キャプテン。あと一打席、必ず回ってきます」

「あ、ああ。そうだな」

 谷口はうなずき、後輩と並んでベンチへ走り出した。

 

 

 一塁側ベンチ。佐々木はグラウンド上の光景に、やれやれ……と苦笑いした。眼前では、墨高ナインが駆け足で守備位置へと散っていく。

「気落ちするかと思いきや、まだ闘志を失わないのか。敵ながら大したチームだぜ」

 

 

―― つづく八回。墨高はまたもピンチを迎えたものの、エース谷口の気迫のピッチングと、バックの好守備により、見事無失点で切り抜けたのである。

 いっぽう谷原のエース村井も、その底力をまざまざと見せつける。うなりを上げる快速球と、切れ味鋭い変化球がさえ、食い下がる墨高打線を三者凡退に封じた。

 そして試合は、いよいよ九回の攻防を残すのみとなったのである。

 

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