南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

【野球小説】続・プレイボール<第47話「死闘!延長戦の巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

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【目次】

  


 

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<外伝> 

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 第47話 死闘!延長戦の巻

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1.谷原監督の檄

 

 真夏の日差しが、容赦なく照り付ける。

 ここは荒川近くの下町にある、谷口家。建物の中から「バンザーイ!」と、父親の雄叫びが聞こえた。声に驚いたらしく、庭木のスズメが一斉に飛び立つ。

 玄関先にて、父は一升瓶からコップに酒をぐびぐびと注ぎ、一気に飲み干す。傍らには、戸の建てつけ修理に使っていた釘とトンカチが置かれている。

「……ぷはー。やったぜタカ! さすが俺のセガレだ。おまえは立派なオトコだ!!」

「うるさい! このヨッパライめ」

 背後から現れた母が、ゲンコツを喰らわせた。

「テッ。な、なにしやがる」

「近所迷惑だってことが分からないのかい。まったく。こんな真っ昼間から、酒飲んで酔っぱらいやがって。このバカ」

 母は腰に手を当て、目を三角にしている。

「今日は休みなんだし、べつにいいじゃねーかよ。ヒック……お、おめえも少しはよろこんだらどうだい」

 すでに父は赤ら顔である。

「あのタカが……うちのセガレが、殊勲打をかっ飛ばしたんだぞ」

「フン。タカの活やくをよろこぶのはいいけどね」

 溜息混じりに、母は言った。

「玄関の戸、上下が逆さまだよ」

 あ、と父がずっこける。

「まったく……」

 母は呆れ顔で、廊下の奥に引っ込んだ。しかし一人になり、ひそかに涙を拭う。

―― さあ、大変なことになってきました!!

 ラジオの実況が、いかにも興奮を隠しきれないように、まくし立てる。

―― 九回裏ツーアウトまで追いこまれた墨高でしたが、満塁から四番谷口君の走者一掃タイムリーツーベースで、なんと五対五の同点! ここで谷原監督、たまらずタイムを取り、バッテリーを呼びます。

 

 

 神宮球場は、大歓声に包まれていた。そのすべてが墨高を後押しする。

―― ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ!!

「ツーアウト二塁、まだチャンスだ」

「すごいぞ墨高。とうとう、あの谷原も食っちまうか」

「さあいけ島田、一気にサヨナラといこうぜ!」

 一塁側ベンチ手前。谷原監督は腕組みして、村井、佐々木と向かい合う。

「バカモノが!」

 二人を叱り付けた。

「勢いづく相手に、バカ正直に力勝負を挑んでどうする。おまえ達らしくもない」

 眼前で、バッテリー二人は肩を落とす。村井、と監督は呼んだ。

「おまえの気持ちは分かる。おおかたインコースに、自信を失いたくなかったんだろう」

 はっとしたように、村井は目を見上げる。

「それがバカ正直だと言うんだ」

 監督は、なおも厳しい口調で告げた。

「で、ですが監督」

 傍らで、佐々木が助け船を出す。

「ああいうピンチの時、決めダマを自信を持って投げこみたいというのは、ピッチャーとして当然だと思いますが」

「そういう問題ではない!」

 きっぱりと指揮官は答えた。そして、さらに付け加える。

「佐々木。そもそも打たれたのは、おまえの責任だぞ」

「えっ」

「決めダマに自信を持つ。おまえの言うように、投手として大切なことだ。しかしだからといって、ミエミエの状況で投げるのが、いいはずなかろう」

「は、はあ。しかし……」

「あのインコースを投げるなとは言ってない。より効果的に使えるように、組み立てを考えろってことだ。佐々木。そんなことぐらい、おまえなら分かってるはずだぞ」

 的確な指摘に、佐々木は「はい」とうなずく。

「分かっていながら、投手の気負いをコントロールできず判断を誤るようじゃ、キャッチャー失格だぞ」

 正捕手の隣で、村井が「すみません」と頭を下げた。

「佐々木は悪くありません。おれがワガママを言って、押し通したんです」

 やめろ村井、と佐々木はエースの横顔を見やる。

「……まあ、すんだことはしかたない」

 少し口調を穏やかにして、監督は言った。

「こうなれば、なんとしても後をしのいで、延長でもぎ取ることだ。たのむぞ。おまえ達が力を出しさえすれば、おさえられないことはないんだからな」

 指揮官の激励に、二人はようやく背筋を伸ばす。

「さ、いけっ」

 バッテリーは「はい!」と声を揃え、グラウンドへと駆け出した。

 

 

「さて。ツーアウト二塁か」

 マスクを被り、佐々木はフウと吐息をついた。そしてホームベース手前に屈む。

「エライことになっちまったが、ここはどうあっても止めねば」

 ほどなく次打者の五番島田が、右打席に入ってきた。こちらも他の打者と同様、バットを短く構える。

「プレイ!」

 アンパイアのコールと同時に、佐々木はサインを出す。

「まずはボールでねらいを探ってみるか」

 マウンド上。村井はうなずき、すぐにセットポジションから投球動作を始めた。右足を踏み込みグラブを突き出し、左腕を振り下ろす。

 外角低めの速球。島田のバットが回る。

 カキッ。ライナー性の打球が、一塁線上へ飛ぶ。観客が一瞬「おおっ」と沸きかけた。しかし打球は右へスライスし、一塁側スタンドに飛び込む。ファール。

「ああ、おしい……」

「けど島田のやつ、村井の速球についていってるぞ」

 観客がそんな会話を交わす。

「ふむ。適時打を放ってるだけあって、いい振りしてやがる」

 一方、佐々木は冷静に打者を観察した。

「だがボール球に手を出すということは、打ち気にはやってるな」

 その時、前方から「島田!」と声が飛んだ。

「今のは外れるぞ。もっとボールをよく見るんだ」

 二塁ベース上、墨高のキャプテン谷口である。島田は「は、はいっ」と返事して、その場で数回素振りした。

 なるほど、と佐々木は胸の内につぶやいた。

「こういうムードの時は、えてして舞い上がってしまうものだが。たいしたリーダーだぜ。うちを苦戦させるだけのことはある」

 二球目。今度は、インコース高めの速球。うなりを上げてミットに飛び込む。

「うっ」

 ズバン。島田のバットが空を切る。

「ストライク、ツー!」

 アンパイアが右こぶしを掲げる。盛り上がっていた墨高の三塁側スタンドが、少しおとなしくなる。

「ナイスボールよ村井」

 一声掛け、佐々木は返球した。そしてフフと含み笑いを漏らす。

「これが村井ほんらいのボールだ。いくら落ち着いたからって、そうカンタンに打てると思うなよ」

 そして三球目。つぎはコレよ、と佐々木はサインを出す。村井が「えっ」と目を見開いた。だいじょうぶかと言いたげだ。なーに、と正捕手は微笑む。

「このバッター、速球のことしか考えてねえ。さあ思いきっていこうよ」

 意図を察したのか、エースはうなずいた。そしてまた投球動作へと移る。右手のグラブを突き出し、左腕をしならせる。

 右打席の島田が「なにっ」と声を発した。その眼前で、ボールが速球と同じ軌道からグイーンと曲がる。打者はバットを出せず。

「ストライク、バッターアウト。チェンジ!」

 アンパイアのコールに、墨高の三塁側スタンドから「ああ……」と溜息が漏れる。

「ま、まさか」

 島田は唇を噛み、マウンド上を睨んだ。

「さっきおれに打たれたシュートを、ここで使ってくるとは」

 悔しがる二年生に、引き上げてきた谷口が「ドンマイよ島田」と声を掛ける。

「きゃ、キャプテン」

「チャンスはまた作ればいい。さあ延長だ、しっかり守っていこう」

 先輩の励ましに、島田が力強く「はい!」と返事した。その光景に、佐々木はフフとひそかに笑みを浮かべた。

「敵ながら、ほんといいチームだぜ」

 

 

 バックスタンド。最前列の席にて、東実の正捕手村野が「おいおい」と声を発した。

「同点で延長だと。この試合、いったいどうなるんだ」

 ええ、と一年生投手の倉田がうなずく。

「力量差からして、谷原のコールド勝ちもあると思ってたのですが。まさか墨谷が、あの土壇場から追いつくなんて」

「む。ただ墨高は、ここからが大変だぞ」

 大柄の村野が、どこか楽しげに言った。

「なにせ谷原の強力打線を相手にしなきゃいけないんだからな。どうにか継投でしのいできたが、あと投げられるのは谷口とイガラシだけだ。二人でいつまでもつか」

「大変なのは、谷原も一緒だろう」

 傍らのエース佐野が、口を挟む。

「谷原は投手層がうすい。はっきり言って、村井が降りたらそれまでさ」

「た、たしかに」

 同調したのは倉田である。

「そういえば村井はここまで無失点でしたが、二番手の野田は何点か取られてますものね」

「うむ。野田の力じゃ、とても墨谷をおさえられないだろう」

 それなら、と村野は目を見開く。

「あいがい墨高にも、チャンスはあるってことか」

 佐野は「いやいや」と、首を横に振った。

「あんがいどころか、十分あるぜ。もうどっちに転んでもおかしくねえよ」

 エースの言葉に、二人は視線をグラウンドへと移す。

 

 

2.延長戦突入!

 

 マウンド上。墨高のキャプテン谷口は、右手にパタパタとロージンバックを馴染ませていた。すでに野手陣は各ポジションへ散り、谷原の打者もバッターボックス手前に控える。

「た、タイム」

 今にもプレイが掛かろうかという時、正捕手倉橋がアンパイアに合図した。そしてこちらへ駆けてくる。

「どうした倉橋」

「いやなに。四イニング目だが、疲れはないかと思ってよ」

 平気さ、と谷口は答える。

「昨年とちがって、それほど多くは投げてきてないし。この日のために調整してきたのは、倉橋も知ってるじゃないか」

「ハハ、そうだったな」

 倉橋は快活に笑い、しかしすぐに表情を引き締める。

「だが油断は禁物だぞ。そろそろ三巡目、向こうさんも目が慣れてくるころだ」

「分かってる。倉橋こそ、しっかりリードをたのむぞ」

「おうよ、まかせとけって」

 しばし言葉を交わし、倉橋は踵を返す。

 ほどなく先頭打者の七番浅井が、左打席に入ってくる。

「七番からだな」

 足下にロージンバックを放り、谷口は自らを鼓舞する。

「ようし、いくぞっ」

 倉橋が屈み込むと同時に、アンパイアが「プレイ!」とコールした。谷口は後方を振り向き、チームメイト達に声を掛ける。

「いくぞバック!」

 キャプテンの檄に、墨高ナインは「オウヨッ」と力強く応えた。

 

 

―― 十回表、谷口の力投は冴えを見せる。緩急を使った投球により、巧みに谷原打線の打ち気を逸らし、みごと三者凡退におさえたのだった。

 しかしその裏。意気上がる墨高ナインの前に、谷原のエース村井が立ちはだかる。どうにか食い下がろうとする墨高各打者を力でねじ伏せ、こちらも出塁を許さない。

 ここから試合は膠着(こうちゃく)していく。

 双方ともランナーは出すものの、谷口と村井両投手の気迫の投球と、バックの堅い守りにより、あと一本が出ず。十一回そして十二回と無得点が続く。

 そして十三回表。谷原の攻撃は、三番大野からである。

 

 

 鈍いゴロが、ライト側ファールグラウンドに転がった。右打席の大野は「くそっ」と、顔を歪める。その光景を見つめる一塁側ベンチは、さらに焦燥感が漂う。

「な、なんで点が取れねえんだよ」

 ベンチ後列にて、宮田が呻いた。

「春先の練習試合じゃ、問題にしなかったのに」

「よせよ宮田」

 傍らで、坂元が窘める。

「あの時とは違うことぐらい、もう分かってるだろう」

 うむ、と村井も同調した。

「スピードも変化球のキレも、増してやがる。そのうえコントロールも正確だ」

 すでにヘルメットを被りダッグアウト手前に出て、この後の打席に備える。

「それだけじゃないぞ」

 ベンチ隅より、マネージャーがスコアを付けつつ割って入る。

「なにせ向こうは、うちのバッターの苦手コースを熟知してる。おまけに時々意表を突いて得意コースにも投げてくるから、なかなか的が絞りづらい。それに……」

 グラウンド上。パシ、と倉橋のミットが鳴る。大野のバットは空を切っていた。アンパイアが「ストライク、ツー!」とコールする。

「あのフォークだな」

 坂元が溜息混じりに言った。

「けっこう落差もあるし、スピードもフォームも速球と区別がつかない」

 一連の光景を、谷原監督は前列のベンチ隅より、険しい眼差しで見つめていた。そしておもむろに「ちがうな」と口を開く。

 えっ、とマネージャーが顔を向けた。彼だけでなくベンチ全員の視線が、指揮官のもとに集まる。

「おまえ達が言うように、向こうが技量の向上やデータ収集に、かなり力を尽くしてきたこともたしかだろう。だがそれ以前に……見ろ、あの谷口の顔を」

 マウンド上。小柄で童顔のエースが、しかし鋭い眼光を放つ。まさに鬼の形相だ。一方、打席の大野は心なしか、気圧された表情である。

「気迫だよ」

 監督の言葉に、谷原ナインは口をつぐむ。

「なんとしても谷原を倒さんとする谷口の気迫に、おまえ達はのまれてるのさ」

 カキ、と鈍い音がした。ショート正面への凡ゴロ。大野は「くっ」と顔を歪め、バットを放り駆け出す。横井が軽快に捌き一塁送球、あっさりワンアウト。

 その時だった。

「タイム!」

 次打者の佐々木がアンパイアに合図して、ネクストバッターズサークルより引き上げてきた。そして「監督」と、指揮官に呼び掛ける。

「このままじゃ、ちょっとラチがあきません」

 うむ、と監督はしばし瞑目した。その間ナイン達も沈黙を守る。

「……しかたあるまい」

 やがて監督は目を見開き、静かな口調で告げる。

「これ以上長引けば、村井の疲労が計り知れないものになる。クリーンアップにつながるこの回、なんとしても得点しなければならん。どんな手段を用いてもな」

 ナイン達は神妙な面持ちで「は、はいっ」と、声を揃えた。

 

 

 やがてタイムが解け、佐々木が右打席に入ってくる。

「つぎは四番か」

 マスクを被り直し、倉橋は胸の内につぶやく。

「しかしこのタイミングで、なにを打ち合わせしてやがったんだ。やつらも思うように点が取れないもんで、しびれを切らしてきたのだろうが……」

 ホームベースのやや後方に屈み、マウンド上を見やる。エース谷口は引きしまった表情で、右手にロージンバックを馴染ませつつ、こちらのサインを待つ。

「めんどうだな」

 倉橋はポリポリと頬を掻いた。

「一発はこわいが、といって安易に歩かせるのも危険だ。こいつら足も使える。七回にはそれで点を取られちゃったし」

 束の間考えた後、倉橋は「まずコレよ」と一球目のサインを出す。谷口はうなずき、ワインドアップモーションから投球動作を始める。

 その瞬間、佐々木はバットを寝かせた。

「なに、バントだと!?」

 倉橋は目を見開いた。さらに三塁手イガラシと一塁手加藤、そして投手谷口が一斉にダッシュする。

 しかしボールが当たる寸前で、佐々木はバットを引いた。フォークがインコース低めに決まりワンストライク。

「フウ。やれやれ、助かったぜ」

 溜息混じりに、倉橋はつぶやく。

「強い打球にそなえて、内外野とも深めに守らせてたからな」

 手振りで「もう少し前だ」と指示。イガラシと加藤が数歩前進する。

「ただ、みょうだな」

 なおも胸の内に疑念が残る。

「やつら四番にバントヒットをねらわせるためだけに、わざわざ話しこんだとも思えん」

 訝しく思いながらも、倉橋は二球目のサインを出す。

「コレでちと、ねらいを探ってみよう」

 谷口は「む」と首を縦に振り、すぐさま投球動作へと移る。

 アウトコース低めのカーブ。佐々木はまたも、バットを寝かせた。再びイガラシ、加藤そして谷口の三人がダッシュする。

 果たして佐々木は、やはりバットを引いた。投球は低めに外れボール。

「……そういうことか」

 あることに思い至り、倉橋はマウンド上の谷口と目を見合わせる。

「た、タイム」

 アンパイアに合図して、マウンドへと駆け寄った。

「どうもやつらのねらいは、おまえの体力をけずることらしいぞ」

 正捕手の言葉に、エースは「おれも同感だ」と応える。

「片瀬に使ったのと同じテだな。しかしあの谷原が、こうもなりふり構わずくるとは」

「ああ。ただねらいが読めた以上、やつらの思いどおりにはさせねえよ」

 倉橋はそう言って、軽く右こぶしを突き上げる。谷口も「うむ」と同調した。

「彼らがあせっているのなら、むしろつけこむチャンスだ。なんとしてもこの回をしのいで、流れを呼びこもう」

「おうよ」

 それだけ言葉を交わし、倉橋は踵を返す。

 ほどなく、アンパイアが試合再開を告げた。すでに佐々木は右打席に立つ。倉橋はサインを出しかけたが、途中で指を引っ込める。

「おいおい……」

 苦笑いする倉橋の傍ら。佐々木が今度は、始めからバントの構えをしたのである。

「谷原の四番ともあろう者が、ちまちま小ワザとは。ご苦労なこった」

 倉橋は聞こえよがしに言った。

「だがそれで出塁できたとして、後続バッターで返せるかな」

 一方、佐々木は「なんとでも言え」と、横目で相手捕手を睨む。

「もう決勝も甲子園も、どうだっていい。なんとしてもこの試合に勝つ!」

 マウンド上。谷口がワインドアップモーションから、投球動作へと移る。左足で踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。

 直球の軌道から、ホームベース手前ですうっと沈んだ。決め球のフォークボール

「くっ」

 佐々木は上体を泳がせながらも、辛うじてグリップエンドを残し、はらうようにバットをスイングする。バシッ。低いライナーが、ピッチャーの足下へ打ち返された。

 直後、ガッと鈍い音が響く。

「……あっ」

 束の間、倉橋は声を失った。

 打球が谷口の踏み込んだ左足首に直撃し、ファースト方向へ転々する。一塁手の加藤が拾い上げるも、すでに佐々木はベースを駆け抜けていた。

 ピッチャー強襲ヒット、ワンアウト一塁。

「くそ……うっ」

 谷口はさすがに顔をしかめ、その場にうずくまる。

 すかさずアンパイアが「タイム!」と両手を掲げ、マウンドに駆け寄る。さらに内野陣も集まってきた。

「た、谷口。だいじょうぶか!」

 倉橋が声を掛ける。

「きゃ……キャプテン」

 さらに丸井も震え声で言った。後方から、アンパイアも「だいじょうぶかねキミ」と尋ねる。他のナイン達も心配そうに見つめている。

 やがて谷口が、頭を上げた。

「……だ、だいじょうぶです」

 まだ顔をしかめつつも、口元には笑みが浮かぶ。

「おい谷口。ほんとかよ」

 なおも心配げな倉橋に、谷口は「平気さ」と微笑む。

「見てのとおり、ほれ」

 立ち上がり、屈伸して見せた。さらに数回ジャンプ。いつもの滑らかな動きである。まったく……と、正捕手はようやく安堵の吐息をつく。

「人をおどかしやがって」

 周囲からも「やれやれ」「よかった」と声が聞かれた。

 

 

 一塁側ベンチ。谷原監督は変わらず、険しい眼差しをグラウンド上へ注ぐ。その視線の先では、墨高のエース谷口が投球練習を行っていた。

「……ふむ。見たところ、さっきと変わりないようだが」

 速球、さらに変化球が、制球よくキャッチャー倉橋のミットを鳴らす。

「しかし、あれだけ直撃したんだ。少なからず影響は出てくるはず」

 すでに内野陣は各ポジションに散っていた。そして次打者の五番村井が、ゆっくりと右打席へ入っていく。

 

 

 ホームベース奥にて、倉橋はしばし考え込む。

「谷口のやつ。ほんとに、何ともないんだろうな」

 眼前では、その谷口がパタパタと右手にロージンバックを馴染ませていた。なかなかサインが出されないことを訝るのか、僅かに首を傾げる。

「投球練習の感じじゃ、いつもと変わらなかったが」

 正捕手の逡巡をよそに、アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げた。左打席の村井は、短めにバットを構える。

「五番も揺さぶってくるだろう。ちと心苦しいが、ここはもう谷口に踏んばってもらうほかあるまい」

 やがて谷口が、セットポジションから投球動作を始めた。それと同時に、やはり村井はバットを寝かせる。すかさずイガラシと加藤、そして谷口がダッシュ

 投球はインコース高めの速球。村井は寸前でバットを引く。

「ストライク!」

 アンパイアのコール。倉橋は「くっ」と顔を歪める。

「やはり谷口を消耗させる気か。いくら点が取れないからって、あからさますぎるぜ。王者なら王者らしく、堂々と向かってこいってんだ」

 二球目は、アウトコース低めの速球。村井はまたもバットを引いた。

「ボール、ロー!」

 ホームベースの数メートル手前まで駆けてきていた谷口は、ポーカーフェイスのまま無言で返球を捕る。

「それにしても、ほんと大した男だぜ」

 胸の内に、倉橋はつぶやいた。

「あれだけ揺さぶられても、淡々と投げ続けられるとは。おまけにもう七イニング目だというのに、ボールの切れもコントロールも落ちやしねえんだから」

 当人はマウンドに戻ると、すぐさまセットポジションに着く。

「これ、そう急くなって。ロージンだ」

 正捕手の手振りの指示に、エースは足下のロージンバックを拾い上げる。

「バント処理は内野にまかせろと言いてえが、なにせ妥協を知らない男だからな」

 苦笑いしつつ、倉橋は次のサインを出す。

「……ボール! スリーボール、ツーストライク」

 インコース低めのカーブが、僅かに外れる。これでフルカウント。

「ちぇっ。分かっちゃいたが、いい目をしてやがる」

 フウと吐息をつき、右手の小指を一塁方向へ向けた。

「けん制球だ」

 えっ、と谷口は一瞬戸惑う顔になった。

一塁走者の佐々木は、さほどベースから離れていない。走る気配はなし。それでも谷口は、すぐに倉橋の意図に気付く。

「……なるほど、そういうことか」

 足をプレートから外し、ゆっくりと一塁へ牽制球を放る。加藤から返球を受け、再びセットポジションに着く。数秒の間を取り、またも一塁へ牽制球。

「これでいいんだ」

 倉橋は小さくうなずいた。

「分かりやすく休ませちゃ、あちらさんに気づかれるからな」

 マウンド上を見やり、谷口に目で合図する。

「さて。そろそろいこうか」

 相手は「む」と応えた。そしてセットポジションに着き、今度こそ投球動作を始める。

 その瞬間、一塁走者の佐々木がスタートした。アウトコース高めの速球。村井はバットを出すも、振り遅れ「うっ」と顔をしかめる。

 パシッ。打球がふらふらっと、ショート後方へ飛んだ。

「し、ショート!」

 谷口の声よりも先に、遊撃手横井が背走。そして飛び付く。

「……くっ」

 しかしボールは、横井のグラブを掠め芝の上に落ちる。前進してきた左翼手岡村が拾うも、すでに走者の佐々木は二塁ベースを蹴り、そして三塁へ頭から滑り込んだ。

 ヒットエンドラン成功、ワンアウト一・三塁。

「よく打ったぜ村井!」

「佐々木もナイスランだ。さあ、点を取るお膳立てはそろったぞ」

 長らく静まり返っていた谷原ベンチが、久しぶりに活気づく。

 

 

3.続く死闘……

 

「た、タイム!」

 倉橋はアンパイアに合図して、すぐさまマウンドへと駆け寄る。

「ねらいは外したが、ちとアンラッキーだったな」

 一声掛けると、谷口は「ああ」と険しい顔で応えた。

「振り遅れても、しぶとく喰らいついてきた。あれじゃ五番をまかされるわけだ」

「それより三塁まで進まれちゃったな。どうする?」

 正捕手の問いかけに、エースは「歩かせよう」と即答した。

「打順は下位だし、足を使ってくる可能性が高い。それを防ぐためにも」

「同感だ。揺さぶってもムダだと、やつらに思い知らせてやらなきゃ」

 しばし言葉を交わし、倉橋はポジションに帰る。

 次打者の六番岡部が右打席に入り、アンパイアがタイムを解くと同時に、正捕手は立ち上がった。そのミット目掛け、谷口が山なりのボールを四回放る。

 敬遠四球、ワンアウト満塁。

 

 

 一塁側ベンチ。谷原ナインは、左打席の七番浅井へ声援を送る。

「浅井、思いきりいけ」

「今度こそ谷口を打ちくずしてやろうぜ!」

 ベンチ隅にて、マネージャーも「ようし」と右こぶしを突き上げた。

「やっと流れがきたぞ。このチャンスで、一気に……」

 しかしその傍らで、監督が「うーむ」と首を捻る。

「か、監督。どうかされたのですか?」

 マネージャーが尋ねると、監督は小さくかぶりを振った。そして口を開く。

「見ろ。あのエース谷口を、そして墨高のやつらを」

「は、はぁ」

「谷口をはじめ、連中いやに冷静だろう」

 二人の視線の先。その谷口が、ロージンバックに右手を馴染ませている。また周囲では、内野陣が互いに声を掛け合う。

「満塁、近いトコだぞ」

「正面のゴロはすべてバックホームだ」

 さらに外野陣も加勢する。

「バッテリー、思いきっていこうよ」

「おれ達がついてるぞ!」

 眼前の光景に、マネージャーは「な、なんてやつらだ」と目を丸くした。

「この期に及んで、誰も浮き足立たないとは」

 マウンド上。谷口が左足を上げ、投球動作へと移る。

 ズバン。アウトコース低めの速球に、浅井は手が出ず。続く二球目は、真ん中低めのフォークボール。打者は強振するも空を切る。あっさりツーストライク。

「ダメだ、あれじゃ」

 監督は溜息混じりに言った。

「浅井のやつ、まるでタイミングが合ってない」

 かといって……と、背後の控え選手達を見やる。誰もが引きつった表情だ。

「代打を出そうにも、控えのやつらじゃ心もとない。レギュラーでさえ打ちあぐねてるもんで、どいつもこいつも萎縮(いしゅく)してしまってる」

 やがて指揮官は、意を決したようにサインを送る。その傍らで、マネージャーが「えっ」と声を発した。

「す、スクイズですか」

「うむ。ちとキケンだが、しかたあるまい」

 渋い表情で、監督は答える。

「このまま手をこまねいているよりはマシさ」

 そして胸の内につぶやく。

「あれだけ揺さぶったんだ。さっき打球を受けた影響が、そろそろ出てくるはず」

 迎えた三球目。谷口が左膝を上げると同時に、三塁走者の佐々木がスタートを切った。さらに左打席の浅井がバットを寝かせる。

 インコース低めのカーブ。浅井は辛うじて、バットの先端に当てた。

 打球はピッチャー正面への小フライ。それがホームベースの数メートル手前でワンバウンドした。一塁側ベンチとスタントが、一瞬「おおっ」と沸きかける。

 しかし谷口のダッシュは、鋭い。

「倉橋!」

 マウンドを駆け下りた勢いのまま、転がった打球をグラブトスした。倉橋が捕球すると同時に、佐々木が本塁へ頭から滑り込む。

「……あ、アウト!」

 アンパイアの判定よりも先に、倉橋は一塁へ素早く転送した。ボールがあっという間に打者走者を追い抜く。

「アウト! スリーアウト、チェンジ」

 今度は一塁塁審のコール。墨高ナインが、一斉にベンチへと駆け出す。

ああ……と落胆の声が、一塁側ベンチとスタンドの谷原応援席より聞かれた。一方、三塁側スタンドからは拍手が沸き起こる。

「ま、またやられた……」

 溜息混じりに、監督はつぶやいた。

 

 

 マウンド上。谷口はフウと、ひそかに溜息をついた。

「やれやれ、どうにかもってくれたか」

 さっき打球を受けた左足首を見やる。

「だいぶ腫れてきてるが、なんとか隠しとおさないと。ナインの士気にかかわる」

 そして他のナインに続き、ベンチへ向かいかけた時だった。

「おーい」

 ふいに声を掛けられる。顔を上げると、三塁線上に佐々木が立っていた。

「さっきはすまなかったな。だいじょうぶか?」

 心配そうに尋ねてくる。

「え……ああ、もちろん平気さ」

 咄嗟に嘘をついた。

「当たった時は痛かったけど、すぐに引いたよ」

「そ、そうか。よかった」

 相手のキャプテンは、心底安堵したふうである。

「なーに。もしケガしたとしても、君らが気にすることはない」

 谷口は穏やかに言った。

「そもそも野球にケガはつきものだし」

「うむ。しかし手負いのやつに勝っても、ちと後味が悪いからな。万全の相手を倒してこそ、胸をはれるってわけさ」

 力強く佐々木は答える。

「な、なるほどね……」

 谷口もさすがに、苦笑いするほかなかった。

 

 

―― さらに試合は進んだ。

 回を追うごとに、谷口と村井の両投手とも、疲労の色が濃くなっていく。しかし二人のすさまじい気迫と、それに応えんとするバックの再三の好守に、双方とも得点できず。

 むかえた十六回表。守る墨高のマウンドには、なおもエース谷口が立つ。

 

 

 バシッ。二番打者宮田の打球が、快音とともに遊撃手横井の右を破る。センター前ヒット、ノーアウト一塁。

「くそっ。少し浮いてしまったか」

 マウンド上。谷口は右こぶしを握り、ハアと息を吐く。その肩は上下している。

「ま、まずい……」

 エースの姿に、倉橋は唇を歪めた。

「谷口のやつ、明らかに疲れてやがる」

 ムリもないか……と、胸の内につぶやく。

「あの強力打線相手に、ほぼ一試合分近く投げてきたんだし」

 そして次打者の三番大野が、右打席に入ってきた。

「よりによって、ここからクリーンアップか。ちとキツイな。ま……谷原の場合、そもそもラクな打順なんてねえけどよ」

 やはり大野もバットを寝かせた。またかよ、と正捕手は頬を引きつらせる。

「あくまでもバントで揺さぶろうってか。いい加減、しつこいぜ。ここまで投手を疲れさせりゃ十分だろう」

 マスクを被り直し、倉橋はサインを出す。

「こうなりゃ、ていねいにコースを突いていくしかねーな」

 眼前で、谷口は「む」とサインにうなずき、投球動作へと移る。セットポジションから左膝を上げ、グラブを突き出す。

 次の瞬間、谷口の体がぐらっと揺れた。あっ、と倉橋は声を漏らす。

 ドスン。すっぽ抜けた投球が、大野の脇腹に当たる。打者はよけようとして、そのまま尻もちをついた。

「デッドボール! テイクワンベース」

 アンパイアが一塁ベースを指差す。

「おー、イテテ」

 大野は苦笑いしつつ、起き上がり一塁へと駆け出す。

「す、すまん……しかしなんだ。いまのフォームのくずし方は」

 打者に一言詫び、倉橋は再びマウンドへと視線を戻す。そして絶句した。

「く……うっ」

 正捕手の眼前。立ち上がりかけた谷口が、バランスを崩し転倒した。両手で左足首を押さえ、そのまま起き上がれず。

 左手のマスクを落とし、倉橋は叫んだ。

「た、谷口!!」

 

 

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