【目次】
【前話へのリンク】
<外伝>
第48話 奇跡を起こせ!の巻
1.仲間達の思い
「く、ううっ」
マウンド上。谷口は横向きに倒れ込んだまま、両手で左足首を押さえていた。さすがに苦悶の表情だ。周囲には、心配したナイン達が集まってきている。
「さっき打球を受けた時だな」
溜息混じりに倉橋が言った。さらに同学年の横井も「隠してたのか」と、呆れ顔になる。
「おまえってやつは。ほんとムチャしやがる」
傍らで、丸井が両膝をつき「きゃ、キャプテン」と泣きそうな声を発した。
「こんな痛みを、ずっとガマンしてたなんて」
倉橋はしばし瞑目し、思案する。そして「しかたあるまい」とつぶやき、一人の男の名前を呼んだ。
「イガラシ」
当人は「はい」と、短く返事した。唐突に呼ばれたにも関わらず、まるで分かっていたふうな表情である。
「ここはもう、おまえに投げてもらうほかない。予定外だがいけるか?」
「もちろんです」
事もなげに、イガラシは応えた。
「ああいうアクシデントはつきものですし。それよりこのピンチをしのいで、つぎこそ決着をつけなきゃ」
「……ま、まて」
口を挟んだのは、キャプテン谷口である。左足を庇いつつ、ゆっくりと立ち上がる。
「おれならだいじょうぶだ」
激痛に顔を歪めながらも、きっぱりと言った。
「われわれの目標は、あくまでも甲子園のはずだぞ。ここでイガラシを登板させれば、たとえ勝っても翌日に疲れを残す」
強い口調に、束の間ナイン達は押し黙る。
「明日も勝って都大会を制するためには、イガラシ。おまえには万全でいてもらわなきゃ困るんだ。おれのことは、どうだっていい」
「ば、バカ言うな」
当人よりも先に、倉橋が反論した。
「こんな足で続投すれば、おまえこそ無事じゃすまんぞ!」
そうですよ、と丸井も同調する。
「キャプテン。いぜん試合中のケガがもとで、指が曲がっちゃって、しばらく野球ができなくなったのをお忘れですか。あんな思い、もう……」
「いいや。それとこれとは、話がべつだ」
なおも谷口は、うなずこうとしない。
「みんなで一所懸命がんばってきて、あと少しで甲子園がねらえるところまで来たんだぞ。それをおれ一人のことで、今さら台無しにはできない」
言葉とは裏腹に、その顔は青ざめている。さらに右足だけで踏んばり、傷めた左足はつま先だけが地面に着く。立っているのもやっとの様子だ。
「た、谷口……」
倉橋と丸井が、痛ましげな顔になる。その時だった。
「まってください」
しばし沈黙していたイガラシが、おもむろに口を開く。そしてポーカーフェイスを谷口へと向けた。
「キャプテン。一つ大事なことを、忘れてませんか」
思わぬ一言に、さしもの谷口も「えっ」と目を丸くする。
「さっき、ぼくらの目標は甲子園だと言いましたよね」
「あ、ああ。そうだが」
「でしたら……甲子園でサードを守るのは、誰なんですか。誰がマウンドに立つんですか」
後輩はそう言って、フフと笑みを浮かべる。
「イガラシの言うとおりだぜ」
同調したのは横井だった。
「あんな大舞台に、谷口なしで立とうなんて、さすがにおっかねえよ」
そして「ぼくもです!」と、丸井が語気を強める。
「ぼくらが甲子園をねらえるまで導いてくれたのは、谷口さんじゃありませんか。ぼくらの晴れ舞台に、ケガで自分だけ出られないなんて、そんなのナシですよ!」
「丸井、みんな……」
頑なだった谷口の表情が、ふっと和らぐ。
「なあ谷口」
ポン、と倉橋が左肩を叩く。
「みんながああ言ってるんだ。いくらキャプテンだからって、ナインの意見を聞かないってのは、いきすぎだぞ」
正捕手は穏やかな口調で言った。
「……分かった」
ようやく谷口はうなずく。
「イガラシ。後はたのんだぞ」
後輩は「まかせといてください!」と、快活に応えた。
「ちょっといいかね」
その時、また別の声が降ってくる。
ナイン達が振り向くと、アンパイアが険しい顔つきで立っていた。そのまま谷口のところに、すっと歩み寄る。
「谷口君、足を見せなさい」
「えっ。は、はい……」
有無を言わせない口調である。谷口はその場で屈むと、左足のスパイクを脱ぎ、かかとまでソックスをずらす。やはり足首の付近が、赤く腫れ上がっている。
「ははあ、これは打ぼくだな。さすがにピッチャーは難しいだろうが」
アンパイアはしゃがみ込んで、自分の顎に手を当てた。
「骨折ではないようだし。応急処置をすれば、ほかのポジションならどうにか出られそうだ」
ええっ、と谷口は声を発した。その顔がぱっと明るくなる。他のナイン達も互いに顔を見合わせ、それぞれ笑みを浮かべた。
「ほんとうですか」
「うむ。ただし医務室に行って、きちんと手当てしてもらうこと。いいね?」
「ありがとうございます!」
谷口が会釈すると、アンパイアは「なーに」と苦笑いした。
「君のことだ。どうせ何かと理由をつけて、ムリにでも出続けるつもりだったんだろう」
アンパイアの指摘に、小柄なキャプテンは「あ」とずっこける。
「たしかにな」
傍らで、倉橋が溜息混じりに言った。
「こちとらそれで、何度ハラハラさせられたことか」
まったくだ、と横井もうなずく。
同級生二人の突っ込みに、ナイン達は「ぷっ」と吹き出す。そしてハハハハと朗らかに笑った。谷口はますます顔を赤らめる。
三塁側スタンド。思わぬアクシデントに、観客達は騒然としていた。
「おい、見ろよ」
墨高野球部OBの中山が、眼下のグラウンドを指差す。ちょうど谷口がマウンドを降りていくところだった。そのままベンチに引っ込む。
「谷口のやつ、どうもダメらしいぜ」
「ああ。さっき打球を受けた時だな」
長身の山口が、腕組みして言った。
「さ、さっきって……」
太田が細い目を開け、頬を引きつらせる。
「あれから三回近く投げてるぞ。谷口のやつ、ずっとガマンして……」
うむ、と山口がうなずく。
「相変わらずムチャしやがる」
後輩達の会話をよそに、一学年上の田所は、前列でうつむいていた。そしてふいに、空いた隣の席を「チキショウ」と殴りつける。
「なんで谷口が、誰よりも一所懸命がんばってきた男が、あんな目にあわなきゃいけねーんだよ。くそったれが!」
ほどなくマウンドにて、イガラシが投球練習を始めた。一球、二球と威力あるボールが、キャッチャー倉橋のミットを鳴らす。
しかしサードは無人のままである。
「ピッチャーはイガラシが代わるとして、サードはどうするんだ」
後列で、山本が憂うように言った。中山も「む」とうなずく。
「岡村は一度ヘマしちまったし。かといって松川を、今さら引っぱり出すのもな」
その時である。ふいに周囲が、ざわめき出した。
「えっ、なんだ」
「どうしたっていうんだい」
田所と中山らOB達は、グラウンド上へ視線を戻す。
ベンチより、再び谷口が姿を現したのである。束の間アンパイアと言葉を交わし、グラウンドへと駆け出す。
「……これは、ひょっとして」
まず反応したのは、田所だった。その眼下で、なんと谷口はサードのポジションに着いたのである。
「帰ってきやがった」
思わずつぶやきが漏れた。田所の目には、涙が浮かぶ。
「な、なんてえ男だよ」
2.イガラシ再登板
ネクストバッターズサークル。佐々木はちらっと味方ベンチを振り返り、監督に「どうします?」と目で合図した。
一塁側ベンチ。監督はすかさず、サインを送る。
「打て!」
佐々木は満足げにうなずき、そしてゆっくりとバッターボックスへ向かう。
「こうなれば真っ向勝負だ」
腕組みしつつ、監督は胸の内につぶやく。
「佐々木。谷原の四番の意地、見せてこい!」
「ノーアウト一・二塁、しかも四番だったな」
マウンド上。イガラシは右手にロージンバックを馴染ませつつ、ちらっと三塁方向を見やる。負傷の谷口が、ほぼベース真横にポジションを取る。
「なるべくサードには打たせたくないが、それは向こうも察してるだろう」
倉橋とサインを交換し、足下にロージンバックを放る。やがて谷原の四番打者佐々木が、ゆっくりと右打席に入ってきた。それを見届け、イガラシはセットポジションに着く。
ほどなく、アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げた。
佐々木の懐に、快速球が飛び込んできた。ズバンと倉橋のミットが鳴る。
「ボール!」
アンパイアのコール。ほう、と打者は小さく吐息をついた。
「思いきって内角を突いてくるとは、さすがに強気のイガラシだ」
だが、と胸の内につぶやく。
「これは見せ球だろう。やつとて、手負いのサードには打たせたくないはず。とすれば……ねらいは外角を打たせることだ」
眼前のマウンド上。イガラシはさほど間を置かず、投球動作を始めた。セットポジションから左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
投球は読み通り、アウトコース低め。佐々木は左足を踏み込みスイングした。
「やはり……えっ」
しかしボールは、ホームベース手前でシュートする。
「……うっ」
カキッ。体勢を崩しかけながらも、佐々木はおっつけるように打ち返した。痛烈なゴロが、二遊間を襲う。
「くわっ」
次の瞬間、二塁手の丸井が横っ飛びした。二塁ベース横で、ショートバウンドの打球をグラブに収める。この時、すでに遊撃手の横井はベースカバーに入っている。
「へいっ」
丸井は素早いフィールディングで、二塁ベース上へトス。これを受け、横井も間髪入れず一塁へ転送。パン、と一塁手加藤のミットが鳴る。
「あ、アウトー!」
一塁塁審がコールと同時に、右こぶしを高く掲げた。一瞬にしてダブルプレーが成立。ツーアウト三塁。
「くそっ、やられた」
ヘッドスライディングしていた佐々木は、悔しまぎれに一塁ベースを叩く。一方、マウンド上のイガラシは「あぶなかった」と苦笑いした。
「さすが谷原の四番だぜ。シュートは予想してなかったはずだが、とっさに反応して二遊間へ打ち返すとは。セカンドが丸井さんでたすかった」
その丸井は、二塁ベース奥でパタパタとユニフォームの土をはらう。
「ナイスセカン!」
イガラシが声を掛けると、丸井は「てやんでえ」と睨んでくる。
「あれくらいどうってことねえよ。それより、ツーアウトだからって気をぬくな。まだランナーが三塁にいるんだぞ」
「分かってますよ。まったく、素直じゃないんだから」
クスと笑い、イガラシは足下のロージンバックを拾う。
佐々木はヘルメットを抱え、肩を落とし引き上げる。そこに「ドンマイよ佐々木」と、次打者の村井が声を掛けた。
「あ……村井、スマン」
「気にするなって。今のは向こうの守備が、うまかったんだ」
わるかった、ともう一度頭を下げる。村井は「よせやい」と苦笑いした。
「引きずるなんておまえらしくもない。それより、ランナーが三塁に残ったんだ。あとはおれが返してやるさ」
「あ、ああ。たのむ」
しばし言葉を交わし、村井は打席へと向かう。その背中を、佐々木は憂うような眼差しで見つめる。
「やれやれ……」
左打席に入り、村井は胸の内につぶやいた。
「さすがに足腰が重いぜ。こんなに投げたのは、なにせ初めてだからな」
スパイクで足下を均し、バットを短めに握る。
「なんとしても、ここで一点取らなきゃ」
眼前のマウンド上。ポーカーフェイスのイガラシが、右手にロージンバックを馴染ませていた。あいつめ……と、村井は苦笑いする。
「谷原のクリーンアップに対する一年生が、あんな涼しい顔しやがって」
やがてロージンバックを放り、イガラシはセットポジションに着く。打者を焦らすようにしばし間を取り、そして投球動作へと移る。
「……うっ」
速いカーブが、膝元に飛び込んできた。打者は手が出ず。
「ストライク!」
アンパイアのコール。くそっ、と村井はつぶやく。
「この落差とスピードで、正確にコースを突いてくるとは」
二球目もインコース低めのカーブ。村井はどうにかチップさせる。
「しまった。今のは、見逃せばボールだ」
イガラシは返球を受けると、すぐさま投球動作を始めた。
「く……」
三球目は真ん中低めに、チェンジアップ。村井は緩急差に上体を泳がせながらも、辛うじてバットの先端に当てる。打球は鈍く三塁側ベンチへ転がっていく。
「いかんな。当てるのが、やっとだぜ」
フウと息を吐き、バットをさらに短く握り直す。
「とにかくミートしねえと」
村井の気を逸らせるように、イガラシは三塁へゆっくりと牽制球を放る。
「いいぞイガラシ」
三塁手の谷口が、微笑んで返球した。
「急ぐ必要はない。じっくりいこう」
フン、と村井は鼻息を荒くする。
「こっちの気を削ごうたって、そうはいかねえぞ」
イガラシはセットポジションに着き、またしばし間を取る。そして再び投球動作を始めた。左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
「なにっ」
一転して快速球が、アウトコース高めに飛び込んできた。意表を突かれた村井は、こらえきれずバットを出してしまう。
「しまった……」
ガッ。三塁側ベンチ方向へ、ふらふらっと小フライが飛んでいく。
マウンド上。イガラシは「ファールか」とつぶやき、足下のロージンバックへ手を伸ばしかけた。その時、ワアッと周囲が沸き立つ。
「なんだ? あっ……」
顔を上げたイガラシの視線の先で、負傷の谷口が打球目掛けてダッシュしている。
「だ、ダメだキャプテン!」
思わず叫んでいた。そこに倉橋と丸井の声も重なる。
「やめろ谷口!」
「キャプテン!!」
周囲の制止も聞かず、谷口はベンチへ覆い被さるように飛び込んだ。ドンという音。慌てて三塁塁審が駆け寄る。
ベンチの井口と戸室が、顔を引きつらせる。
「きゃ、キャプテン……」
「谷口!」
その眼前で、谷口が倒れ込んだまま、すっと左手のグラブを掲げた。そこにボールが収まっている。
「あ……アウト! スリーアウト、チェンジ!!」
塁審のコールに、球場内がさらに沸き立つ。
「おい谷口。しっかりしろ」
「だ、だいじょうぶスか」
戸室と井口の呼びかけに、谷口は「だいじょうぶだ」と笑って答えた。そして二人に体を支えられながらも、ゆっくりと起き上がった。
マウンド上。やれやれ、とイガラシは苦笑いする。
「まったく……ムチャするんだから」
キャプテンの無事に安堵した墨高ナインは、足取り軽くベンチへと引き上げていく。
「どうやら、だいじょうぶみてえだな」
三塁側スタンド。田所は、ホッと胸を撫で下ろした。眼下のベンチ手前では、谷口がナイン達に囲まれ、笑顔を見せている。
「しかしほんと、あいつらよくやってますよね」
傍らで、中山が感慨深げに言った。
「谷口なら、ひょっとして……と思ったが」
後列の山口も「む」と同調する。
「まさかほんとうに、あの谷原をここまで追いつめるとは」
OB達は、揃ってスコアボードを眺めた。十六回表、谷原にとっては九イニング連続の「0」が並ぶ。
「ここまできたらよ」
田所が腕組みしつつ、中山らの顔を見回す。
「なんとか、勝たせてやりてえよな」
後輩達はうなずく。その時だった。
―― フレー、フレー、たーにーぐーち! ガンバレガンバレたーにーぐーち!!
どこからか、応援団らしき野太い声の声援が聞こえてきた。田所は「えっ」と顔を上げ、手前に立っていた学ラン姿の応援部員に尋ねる。
「おい。いまの声援、おめーらの指示かい?」
「え、いいえ。ぼくらじゃ……」
OB達は、思わず球場内を見回す。そして意外な声援の主を見つけ出し、全員が「あっ」と声を発した。
―― フレッ、フレッ、すーみーこーう! ガンバレガンバレたーにーぐーち!!
なんと、それは一塁側。谷原応援団だったのである。
「み、見てくださいよ田所さん」
中山がおっかなびっくりという表情で言った。
「向こうの応援団の連中。敵であるウチに、声援を送ってますよ」
「ああ。谷原のやつら、イキなことしてくれるじゃねえか」
ふと目頭が熱くなり、田所は手の甲で拭う。
―― フレー、フレー、やーはーら!!
相手応援団からの思わぬ声援に、今度は墨高応援団が応える。
―― フレッフレッ、やはら! いいぞ、いいぞ、やーはーら!!
両校の敵味方を越えた応援に、周囲の観客達からは自然と拍手が沸き起こった。激闘で緊迫感に包まれていた球場内を、束の間温かな空気が流れる。
3.谷口の助言、そして……
三塁側ベンチ。前列の隅に腰掛けた谷口の周りに、自然とナインの輪ができる。
「よし。もういいぞ、谷口」
横井が一声掛ける。
「ああ……う」
立ち上がろうとして、顔をしかめる谷口。倉橋が「おまえはすわってろ」と制す。
「す、スマンな」
キャプテンは苦笑いして、集まったチームメイト達を見回した。そしていつもの真剣な眼差しになる。
「みんな。ここまで、ほんとうによく戦ってくれた」
穏やかな口調で、語り出した。
「われわれの百パーセント、いやそれ以上の力が出せていると思う。しかし谷原は強い。こっちが全力を出しきっても、そうたやすく倒れてはくれない。勝つためには、ここからさらに力を……ほんの数パーセントでも多く出すことが必要だ」
一つ吐息をつき、谷口はさらに話を続ける。
「われわれの目標である甲子園出場をかなえるため、もうひと踏んばりしよう。そして、なんとしても倒すんだ。あの谷原を!!」
キャプテンの檄に、墨高ナインは「オウヨッ」と雄叫びを上げた。
ホームベース奥にて、谷原の正捕手佐々木は屈み込む。
「村井、軽くでいいんだぞ」
マウンド上のエースに声を掛け、ミットを構えた。すぐに相手はワインドアップモーションから、投球動作へと移る。
「……おっと」
ボールが上ずり、佐々木はミットを被せるように捕球した。
「わ、わりい佐々木」
村井が苦笑いする。
「ちと力んじまった」
「だから軽くでいいと、言ってるだろう」
相棒を窘めつつ、佐々木はひそかに溜息をついた。あいつ……とつぶやく。
「いまのは力んだというより、足で踏んばれなかった感じだな。初回から出ずっぱりなんだし、ムリもねえか。もっと早く決着をつけてやりたかったが」
やがて、アンパイアが「バッターラップ!」と声を発した。そして先頭打者の九番久保が、ネクストバッターズサークルより駆けてくる。
打席の白線の手前で、久保は一旦ヘルメットを脱ぐ。そして包帯を巻いた額に右手を当てた。フウ、と短く吐息をつく。
「どうにか出血は、止まったようだ」
ちらっと後方を見やる。すでにネクストバッターズサークルには、次打者のイガラシが入っていた。小柄に似合わず、軽々とマスコットバットを振り回す。
「つぎのイガラシは当たってる。なんとしても塁に出て、チャンスを作るぞ」
久保は右打席に入り、バットを短めに構えた。
すぐにアンパイアが「プレイ!」とコールする。そしてマウンド上。谷原エース村井が、ワインドアップモーションから投球動作へと移る。
「……れ?」
初球は、真ん中へのシュート。久保はこれを見送った。
「ストライク!」
へんだな、と胸の内につぶやく。
「このシュートは内か外か、もっと際どいコースに決まってたはずだが。なるほど……あの村井も、ここに来て疲れが出てきたのか」
手のひらをペッと、唾で湿らせる。
「ようし。それなら高めにきたタマを、逃さず打ち返そう」
二球目は、インコース低めのチェンジアップ。
「ボール、ロー!」
際どく外れるも、久保はしっかりと見極めた。
「うむ。やはり微妙なコントロールが、もう利かなくなってきてるぞ」
傍らで、佐々木が「ちぇっ」と渋い顔になる。
「この九番、けっこういい目してやがる。かといって歩かせると……ランナーを置いてイガラシに回しちまうし」
しゃーない、と佐々木は次のサインを出す。
「このさいバックを信じて、低めを打たせるか」
続く三球目。村井の投じたカーブは、しかしインコースの高めに入る。
うっ、と佐々木は目を瞑りかけた。久保は「しめた!」と強振する。しかしミートできず、打球はバックネット方向へ飛ぶ。カシャンという音。
「たすかったぜ……」
佐々木が安堵の吐息をついた。一方、久保は「くそうっ」と唇を噛む。
「失投だったのに、打ちそんじちまった」
後方から「久保!」と、イガラシが檄を飛ばす。
「力が入ってるぞ。タマは浮いてきてるし、合わせりゃいいんだ」
その時である。
「タイム!」
三塁側ベンチより、すっと谷口が歩み出てきた。
「久保。こっちに来るんだ」
「は、はいっ」
言われた通り、久保はベンチに駆け寄る。この間、アンパイアが「タイム!」と合図の声を発した。そしてイガラシは、口元にフフと笑みを浮かべる。
「ボールはよく見えてるじゃないか」
ベンチ手前にて、谷口は穏やかな口調で言った。
「ただイガラシの言うように、ちょっと力が入ってる。どうも後ろにつなごうという意識が強すぎるようだ」
「は、はあ……」
久保は戸惑ったふうに返事する。
「それなら久保」
声のトーンを落とし、キャプテンは指示を伝えた。
「いっそ何も考えず、バットを思いきり振ってみたらどうだ?」
後輩は「えっ」と目を丸くする。
「きゃ、キャプテン。何を」
「カン違いするなよ」
谷口は苦笑いして、話を続けた。
「振り回せと言いたいわけじゃない。ただ知ってのとおり、向こうは百戦錬磨のチームだ。こっちが策を立てれば、すぐに対抗してくるだろう」
「な、なるほど」
「それなら、いっそのこと何も考えないというのも、一つのテだ」
たしかに……と、久保はようやく腑に落ちた顔になる。
「久保。ちょっとバットを振ってみろ」
「は、はい」
久保はその場で一度素振りした。
「こうですか?」
「ああ。悪くないが、もっとバットを放り投げるように振ってみろ」
「えっ。は、はい……こうかな」
思わぬ助言に戸惑いながらも、久保は素振りを繰り返す。ビュッ、ビュッと風を切る音が、大歓声の中でも小気味よく聴こえた。
一方のマウンド上。村井は「やれやれ」と、苦笑いを浮かべる。
「いまさら、バッティングのコーチとはな」
左手のロージンバックを放り、スパイクで足下を均す。
「……よし、いいだろう」
谷口はそう言って、ふと真顔になる。
「さっきも言ったが……谷原を倒すには、ここからさらに数パーセントの力を上乗せしなきゃならん」
「ぼ、ぼくにできますかね」
まだ不安げな一年生へ、キャプテンは事もなげに言った。
「できるさ」
微笑みを浮かべ、さらに付け加える。
「久保。ケガをおそれず、あの大飛球に飛び込んだおまえなら、できないはずがない」
そして「さ、いけ」と背中を押す。
「分かりました」
久保はうなずき、打席へと戻る。
「フフ、なんだか不思議だ」
一つ深呼吸して、胸の内につぶやく。
「あの人に言われると、やれそうな気になってくるんだから。ま、なんにしても……」
すっとバットを構え、マウンド上の相手エースを睨む。
「前回交代させたおれを、またこうして使ってくれてるんだ。今こそ期待に応えなきゃ」
やがて、アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げる。
久保の傍らで、佐々木が「低く」とジェスチャーで伝えた。分かってるよ、と村井はマウンド上でうなずく。
そして――村井はすぐさま、投球動作を始めた。
「いくぞ佐々木!」
「こいっ、村井!!」
ワインドアップモーションから、力強く右足を踏み込み、グラブを突き出し、その左腕をしならせる。
アウトコース低めの速球。束の間、佐々木は安堵しかける。
「よし、いいコース……えっ」
次の瞬間。久保は無心で、バットを振り抜いた。
パシッ。快音を残し、打球はライト上空へ舞い上がる。
ネクストバッターズサークル。イガラシは「あっ……」と、声を発した。思わず素振りに使っていたマスコットバットを落としてしまう。
三塁側ベンチ。キャプテン谷口が、正捕手倉橋が、丸井が、横井が戸室が……墨高ナイン全員が、ダッグアウトから身を乗り出す。
そして三塁側スタンド。田所と中山らOB達は、ガタっと立ち上がり、無言で打球の行方を追う。束の間、周囲の歓声さえも聞こえなくなる。
「……くそうっ」
右翼手の辻倉は、全速力で背走するも、とうとう外野フェンスに背中が付いてしまう。打球はまだ、落ちてこない。
「さ、させるか!」
懸命に左手のグラブを伸ばす。だがその数メートル上を、白球は越えていく。そして観客のひしめくスタンドに吸い込まれ、見えなくなった。
静寂に包まれる神宮球場。その刹那、一塁塁審がぐるぐると右腕を回す。
―― ウワアアアッ!!
グラウンド上へ、まるで地鳴りのような大歓声が押し寄せる。
「あ、あのヤロウ。やりやがったぜ!」
丸井の雄叫びと同時に、墨高ナインは一斉にグラウンドへ飛び出した。そして、おっかなびっくりとダイヤモンドを一周してきた久保を、全員で出迎える。
「やい久保!」
ホームベースを踏むのを見届け、丸井はまるで怒ったように言った。
「てめえ自分が何をしでかしたか、分かってるのか」
「は、はあ」
気のない返事に、小柄な二年生は「あら」とずっこける。
「なんでえ、そのまぬけな返事は」
「だ、だって。あまりに歓声がすごくて、ぼくも何が起きたのか……」
「ほほう」
丸井の隣で、倉橋がいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それなら……たった今、分からせてやる」
正捕手の言葉を合図に、ナイン達は殊勲の一年生に飛び掛かる。そして次々と手荒な祝福を浴びせた。その肩や背中をバシバシと叩く。
「よく打ってくれたな久保!」
「こいつめ。大会が終わったら、胴上げしてやらねーとな」
「ありがとう久保。まさか谷原に勝てるなんて、ほんと夢のようだぜ!!」
墨高ナインは互いに抱き合い、涙を流し、勝利の喜びを爆発させた。
数分後。墨高と谷原の両チームは、互いにホームベースを挟んで向かい合い、アンパイアのもとに整列していた。
「墨谷と谷原の準決勝は……」
アンパイアが右手を掲げ、歯切れよい口調で告げる。
「六対五をもって、墨谷の勝ち。一堂……礼!」
―― アリガトウシタッ!!
両軍ナインは、互いに握手を交わし健闘を称え合う。それから双方の応援団が陣取る内野スタンド下へ移動し、挨拶を済ませる。
一塁側ベンチ前。うつむくエース村井の背中を、佐々木がポンと叩く。
「……おい村井、佐々木」
そこへつかつかと歩み寄ってきたのは、監督である。二人は思わず背筋を伸ばす。
「す、すみませんでした」
唇を噛んだまま、村井は頭を下げる。
「期待に応えられず……」
「なにを言ってる」
野太い声。しかし穏やかな表情で、監督は言った。
「おまえ達は、じゅうぶん力を出しきった。これだけの戦いを見せてくれたのだから、何も言うことはないさ。よくがんばったな」
指揮官の言葉に、村井はかえって悔しさが込み上げたらしく、涙が溢れる。
三塁側スタンド。田所は前列に座ったまま、呆けた目をしていた。
「こ、これは夢か?」
時折自分の顔をつまみ、ぎゅうと引っ張る。
「イテテッ。やっぱり、夢じゃねえんだな」
傍らで、中山達が万歳三唱を繰り返す。
「バンザーイ、バンザーイ……って、あり?」
中山がふと、眼下のグラウンドへ視線を移した。そしてあることに気付く。
「た、田所さん! みんなもちょっと」
呼びかけに、他のOB達も静かになる。
「どしたい中山」
山口が尋ねてくる。中山は「あ、あれって」と、グラウンドを指差した。
「む……ええっ」
驚いたらしく、山口は素っ頓狂な声を発した。他のOB達も「なんでえ」「どういうつもりだよ」と、目を丸くする。
三塁側スタンドの下には、なんと谷原ナインが整列していた。
「うぬ。やつら、御礼参りのつもりか!」
鼻息荒く腕まくりした田所を、中山が「シーッ」と人差し指を立て制止する。
「墨高応援団のみなさん!」
真ん中に並んでいたキャプテン佐々木が、朗らかな声で言った。
「負けたのは悔しいですが、みなさんと戦えたことを誇りに思います。墨高は、ほんとうに素晴らしいチームです。ぜひとも、ぼくらの分まで勝ち進んでください!!」
思わぬ光景に、観客の多くは戸惑う。それでも、ほどなく温かな拍手が、谷原ナインへと贈られる。
フウと吐息をつく佐々木。その背中を、指でチョンチョンとつつく者がいた。
「……あ、あのう」
振り向いた佐々木は、思わず「おお」と頬が緩む。そこに立っていたのは、墨高のキャプテン谷口である。
「よかったら、ぼくらも一緒に」
谷口の話の意図を、佐々木はすぐに汲む。
「む……ああ。もちろんさ」
やがて谷原と墨高の両軍ナインが、一列となりバックネット裏に整列した。さらに誰が言い出すでもなく、球場の観客達は総立ちになる。
「観客のみなさん!」
今度は、谷口が声を張り上げた。
「今日はあつい中、応援ありがとうございました!」
両軍ナインは脱帽し、声を揃える。
「アリガトウシタッ!!」
もう一度、球場内からは大きな拍手が沸き起こる。いつまでもいつまでも、鳴り止むことはなかった。
―― かくして、墨高は全国屈指の強豪・谷原を破り、初の決勝進出を果たした。
墨高の快進撃は、大きな反響を呼んだ。「甲子園4強の谷原敗れる」の報とともに、“小さな強豪”墨谷の名前が、その日の茶の間の話題をさらったのである。
しかし、あいにくなことが一つあった。言うまでもなく……
彼らには、もう一試合が残されていたのである。
<次話へのリンク>
※感想掲示板
【各話へのリンク】