【関連リンク】
<はじめに>
私が当ブログで再三批判した『プレイボール2』が完結し、グランドジャンプの『キャプテン2』へと物語が受け継がれた。これに伴い、私はもう同作の批評記事書くことはやめたのだが、未だに過去記事への批判が来る(苦笑)。
まあ、作品への好き嫌いはあるとして、そもそもなぜ原作『キャプテン』『プレイボール』ファンの間で、これほど『プレイボール2』『キャプテン2』(以下『2』)の評価が分かれたのか、今一度考察してみたい。
1.作品テーマの“捉え違い”
結論から言えば、原作の作品テーマの“捉え違い”があったのだと思う。具体的には、『キャプテン』『プレイボール』とは「努力の大切さ」を謳ったものだという“誤解”である。
たしかに同作には、部員達がひたすら厳しい練習に耐えるシーンが、延々と繰り返されている。しかし、だからといって努力を“全肯定”したわけではないのだ。
例えば『キャプテン』の丸井時代の夏合宿では、大量の離脱者を出し、他の部活の部員をして「人間扱いしていない」とまで言わしめる。
さらにイガラシ時代の選抜へ向けての特訓では、練習が過激すぎるあまりケガ人が続出し、結果として出場辞退に追い込まれている。
そして近藤時代である。近藤キャプテンは「乱暴な選手選抜はしたくない」「出場辞退という悲しい思いをさせたくない」と言って、前キャプテン時代までのやり方を否定している。それに対し、牧野ら同級生たちは当初懐疑的だったが、それでも新戦力の一年生達は成長を見せ、とりわけ佐々木(JOY)はレギュラー争いに喰い込むかというほどの潜在能力を見せ付けている。
2.“近藤キャプテン編”を読み飛ばすと、作品テーマが見えにくくなる!!
改めて読者諸氏に問いたい。『キャプテン』『プレイボール』は、確かに“努力を描ききった作品”であることは間違いない。
しかし――だからといって、努力というものを“全肯定”した作品と言えるのか?
私は、違うと思う。もしそうであれば、最後の「近藤キャプテン編」が浮き上がってしまう。努力を“全肯定”したかったのであれば、イガラシキャプテン編の全国大会優勝を以って大団円として良かったはずなのだ。しかしなぜ、あえて前代キャプテンまでのやり方を“否定”するとも取れる近藤キャプテン編を最後に持ってきたのか。
この近藤キャプテン時代は、ちばあきお最後の“自己点検”だったと私は思う。
目標を達成するために努力は不可欠だが、そのために何かを犠牲にしなければならないこともある。かといって努力をしなければ、大きな目標を達成することはできない。
こうして“努力というものの現実”を描くことによって、ちばあきおは我々読者に問いたかったのかもしれない――あなたはどうしたいですか?……と。
が……どうしても谷口・丸井・イガラシ世代の過酷な特訓と、全国優勝の栄光だけが、強く印象に残ってしまう。
こうして『キャプテン』『プレイボール』=“努力・特訓”というイメージだけが残り、それが好きな人と嫌いな人との間で好みが分かれてしまったのではないだろうか。
しかし、ちばあきおはちゃんと我々に問い掛けていたのだ――最後に近藤キャプテン編を描くことによって。だから、近藤キャプテン編を読み飛ばしてしまうと、『キャプテン』『プレイボール』の“本当のテーマ”が見えにくくなってしまう。
そして『2』作者には、『キャプテン』『プレイボール』が“努力偏重主義”の作品だと映ったのだろう。それ故、『2』の所々で原作の特訓を批判・否定するような描写を入れた。そこが原作の「努力重視」が好きだった人(私も含めて)には忌み嫌われ、「努力重視」が嫌いだった人には“よく改善してくれた”と受け取られた……のだろうか。
<終わりに>
だが――ちばあきおは、「努力の大切さ」などという、よくあるテーマを描いたのではない。もっと深い世界観を描いたのだ。そうでなければ、『キャプテン』『プレイボール』が長年名作として読み継がれてきたはずがないではないか。
繰り返すが、ちばあきおは我々読者に問いかけたのだ。“努力というものの現実”を描いたうえで、どの道を選ぶのかということを。
さて、あなたは…‥‥どの道を選びたいですか?
【追記】
このエントリーの執筆を通して、私自身、まだまだ『キャプテン』『プレイボール』の世界観を完全には理解していないということ気づき、大いに反省させられた。
今後も非公式ながら、原作の「続編」を名乗る以上は、より謙虚に、より深く、ちばあきお先生が描きたかったものが何なのか追求していきたい。