小学生の頃、ある塾に二年ほど通っていたことがある。
そこの先生は韓国出身の女性の方で、とても聡明であり、そして親切な方だった。夏休みにバーベキューをごちそうになったのが、一番の思い出だ。
だから私は、韓国の“人”が基本的には情が厚く、私的には付き合える方達だということは知っている。
しかし、それでも韓国という“国”は好きになれない。いくら不幸な歴史があったとしても、すでに結ばれた国際条約を破り、またスポーツの場面等であまりにも傍若無人すぎる態度には、眉をひそめざるを得ない。
これは「公」と「私」の問題である。
同じように、私は以前、父親が県内の米軍基地で働いている子ども達と、仕事で接したことがある。皆素直で、元気いっぱいの、日本人と変わらず愛すべき子ども達だった。
だから6月23日「沖縄慰霊の日」に、沖縄戦のことをどのように伝えるか苦労した。たぶん“昔戦争があって、日本人もアメリカ人も互いに傷つけあった”と当たり障りのないように言うのが精一杯だった気がする。
また、アルバイトでコンビニに勤めていた時には、海兵隊と思しき青年と何度か会話したことがある。とても気さくな青年で、私がヘタな英語で「Have a nice day!」と声を掛けると、「You,too!」と返してくれた。
さっきの韓国の方と同様に、アメリカの方とも私的には仲良くなれるだろう。
だがアメリカという“国”に対しては、「艦砲射撃を容赦なく打ち込んだ」ことや「重剣とブルドーザー」で住民の土地を奪い取ったという歴史を知ってしまっている。
だから、アメリカという“国”を好きになることはできない。もちろん某国のように、今でも恨みの態度を取り続けるのではなく、「過去にそういう歴史があった」ということを忘れるべきではないと思う。
そういえば以前、実際に辺野古基地建設の事業に当たっている親戚の方と、正月に酒を酌み交わしながら議論を交わしたことがある。
私はその方の立場を知りながら、あえて理想論をぶつけてみた――そもそも我が国の領土に“外国の軍隊”があること自体おかしくないですか、と。
意外にも、その方は私の意見を否定しなかった。僅かな苦悩を滲ませつつ、こう答えて下さった。
――そりゃそうさ。基地なんて、ないほうがいいに決まってるだろ。でもよ、しょーがないだろう?
この「しょーがない」で納得したままにしておくのか、それとも何とか覆せるように努めるのかが、私達の世代にかかっているのだろう。
沖縄の米軍基地問題だけでなく、この「しょーがない」と言われる問題は、日本社会だけを見渡してみても、いくつもいくつも転がっている。
実に気の遠くなる作業だが……この「しょーがない」を一つ一つ覆していくことこそ、“歴史を変えていく”ということになるのだろう。