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<外伝>
第50話 小雨のプレイボールの巻
第50話 小雨のプレイボール
1.一塁側スタンドにて
灰色の雲が、もうすっかり夏空を覆い尽くしていた。
「よっと。くそ、ジメジメしてやがる」
神宮球場。一塁側スタンドに降り立った田所は、タオルで額の汗を拭った。そして同じ墨高野球部OBの後輩達を探す。
「さて、あいつらは……」
「田所さーん!」
客席の最前列、バックネット寄りの一角より、メガネの中山が手を振っていた。彼も暑そうに、タオルを首に掛けている。その周囲には、山口、太田、山本といつものメンバーが集まっていた。
田所が階段を駆け下りると、中山はメガネの湿りを拭いつつ、苦笑いする。
「いやー、蒸し暑いスね」
「む。これじゃ、きのうの炎天下の方が、マシってもんだぜ。ところでよ」
後輩達の顔を見渡しつつ、田所は言った。
「谷口達、ついさっきまで球場の外でウォーミングアップしてたぞ。誰か、声ぐらいかけてくりゃよかったのによ」
ひょうきん者の山本が「え、ええ」とバツが悪そうに笑う。
「ぼくらもそうしたかったんスけど……」
「先輩。それはちと、酷スよ」
山本を代弁するように、長身の山口が答えた。
「やつらの疲れ切った顔を見たら、正直なんて声をかけたらいいか」
だよな、と中山も同調する。
「ところで先輩」
話題を変えようとしたのか、太田が尋ねてくる。
「あのスタメン、なにか事情とか聞いてませんか?」
OB達の視線が、スコアボード右側に掲示されている、墨高のスタメン表に集まる。
「島田、加藤、横井。レギュラーが三人ともいないなんて」
「ああ、それなんだが」
田所は渋い顔で言った。
「三人とも、きのうの激戦の影響からか、どうも体調が優れないらしい」
「ええっ。それ、かなりやばくないスか!」
細い目を開き、太田が声を上げる。
「大事な決勝で、しかもあの東実と戦おうってのに。レギュラーを三人も欠くなんて」
「ま、いたしかたないさ」
山口が溜息混じりに言った。
「谷原のような強敵と、あの炎天下の中、十六回まで戦ったんだ。離脱者が出るのも不思議じゃねーよ。幸い、代わりの者もいるようだし」
そうだな、と山本も首肯する。
「おれらの頃は選手層が薄くて、一人でもケガ人が出たら大きく戦力ダウンしてたが、今年は控えの奴らもレギュラーと遜色ないって話だぜ。ですよね、田所さん」
ふいに話を向けられ、田所は「あ、ああ……」と渋い顔で応える。
「なにせこのおれが、一人一人この目で確かめてスカウトしたやつらだからな。今年のチームは、誰か抜けたくらいじゃビクともしねーよ」
「うーむ。そりゃ選手層が厚くなったのは、分かりますけど」
太田はなおも、不安げに言った。
「元々レギュラーだった戸室はいいとして、岡村のファーストってのはどうなんです?」
「ああ。そこはさほど、問題じゃねーよ」
努めて、田所は明るく答える。
「なにせやつは、ピッチャー以外どこでも守れるって触れ込みだからな。きのう、学校でちょっと練習してるとこも見たが、ソツなくこなしてたぜ」
そういや、と山本が口を挟む。
「ライトの久保をセンターに回したのは、なんでだ」
「まぬけ。そんなことも分からないのか」
太田がからかう口調で言った。
「井口の足じゃ、センターは心もとないだろう。やつは元々鈍足なうえに、きのうの試合で右足をつってるからな」
「だったら、ほかのやつを使えばすむことじゃねーか」
山本の返答に、太田がぐっと口をつぐむ。
「鈴木とか高橋とか鳥海とか。守るだけなら、いくらでもいるだろう」
「攻撃を考えてのことじゃねえか」
おもむろに、元エースの中山が言った。
「井口には一発がある。東実投手陣の力を考えれば、そうそう連打で得点するのは難しいだろうからな」
けどよ、と山本が首をひねる。
「それって苦肉の策だろう。ライトに回したところで、足が不安なことにそう変わりないじゃねえか」
「しかし松川とイガラシなら、そうそう打たれまい」
中山が気楽そうに言った。
「二人とも制球力があるし、今大会の東実はさほど打率が高くないからな」
「マヌケ。おめえ気づいてないのか」
苦い顔で、太田が口を挟む。
「なんだと!」
中山が言い返しかける前に、太田はスコアボードの右を指差した。
「見ろよ、東実のスタメン表を。やつらもだいぶメンバーを変えてきてるぞ」
「えっ……あ、ほんと」
眼鏡を上下させ、中山がうなずく。
「ちょっと待てよ」
山口がジーパンのポケットから新聞記事の切り抜きを取り出し、見比べる。
「一、二、三……な、なにっ。きのうの準決勝から、四人も代えてやがるじゃねえか」
「やつらも、なにかアクシデントがあったのか」
山本の言葉を、太田が「それはねえだろ」と否定する。
「うちとちがって、きのう東実は一方的に勝ってるからな。佐野のノーヒットノーランのおまけつきでよ」
その一言に、OB達はしばし黙り込む。
「……あっ、そうか!」
沈黙を破ったのは、田所だった。素っ頓狂な声に、後輩達は思わず視線を集める。
「ど、どうしたんスか。急に大声出したりして」
右耳に指を突っ込みながら、中山が尋ねる。
「いやな。どうもきのうから、東実のメンツを見てみょうな気がしてたんだ。そのわけが、今やっと分かったんだよ」
「え、きのうからですか?」
太田が不思議そうに問う。
「ああ」
口元に笑みを湛え、田所は答えた。
「もう一度、東実のメンツを見てみなよ。ただし、変わってない方のな」
先輩の言葉に、後輩達は再度スコアボード右のスタメン表を、しげしげと眺める。
「……え、まさか」
最初に声を発したのは、中山だった。
「たしか以前戦った……」
元エースの言葉に、他のメンバーも「あっ」「言われてみれば」と反応する。OB達の視線の先には、「背番号⑪中尾」「背番号⑭中井」の名前があった。
「うむ。当時のレギュラーだった、エース中尾とサード中井の弟だな」
やはり、と中山が感心げに言った。
「昨年度、応援席にも姿がなかったってことは、二人とも一年生か」
「そうだな」
田所は首肯した。
「一年生から決勝戦で先発起用されるということは、よほど期待されてるってことだろう」
「……れ、先発といえば」
ふいに口を挟んだのは、山本だ。
「投手もエースの佐野じゃなく、一年生の倉田が先発とは。この大事な決勝で」
「バカ。おまえ、知らねーのか」
中山が呆れ顔で言った。
「佐野もそうだが、倉田もここまで全試合無失点なんだぞ。今朝の新聞でも、『東実の誇る二枚看板』って特集されてたつうに」
「だ、だとしてもよ」
幾分ムッとした顔で、山本が言い返す。
「決勝には甲子園がかかってるんだぞ。そんな大事な試合にエースを先発させないなんて、やはりまだ格下と思われてるんじゃないのか」
「いーや、むしろ逆だろう」
眉を吊り上げる中山の代わりに、田所が答えた。
「この試合、やつらはもつれると踏んでるんだろう。だからあえてエースを温存して、いざって時にいつでも代えられるようにしたんじゃないのか」
「つ、つまり……東実はうちを、警戒すべき相手と認めてるってことですか」
「そーいうこと」
田所の返答に、山本は嬉しそうに言った。
「へえ。東実にそこまで思わせるなんて、あいつらやるじゃねーか」
「まったく。調子のいいヤロウだぜ」
肩をすくめる中山。その傍らで、田所は小さく溜息をつく。
「こいつら、いい気なもんだな」
そう胸の内につぶやいた。
「谷原を倒すために、谷口達がどれほどの代償を払ったのか、まるで分かっちゃいないんだから」
祈るように、田所は額の前で両手を組む。
「もう勝ち負けはどうでもいい。頼むから、なんとか無事に試合がすんでくれよ」
その時だった。田所の手に、額に、膝に、小さな雨粒が落ちてくる。そして次第に、雨音は大きくなっていく。
2.試合前の墨高ベンチ
一塁側ベンチ。墨高ナインは、左端の一角に小さな円を作る。その中心にはキャプテン谷口、そして分析担当の半田が立っていた。
「すみません、みなさん」
半田が小さく頭を下げる。
「向こうのスタメン変更に気を取られて、相手ピッチャーのことを話すのをすっかり忘れちゃってました」
「なーに、いいってことよ」
気楽そうに言ったのは、戸室だった。
「東実の投手陣のことなら、これまでも散々ミーティングを重ねてきたじゃねーか。谷原の対策と同時並行だったが、ちゃんと頭に入ってるよ」
「ほほう。たのもしいな、戸室」
正捕手倉橋が、からかうように言う。
「じゃあまず、今日の先発倉田を攻りゃくするポイントを言ってみろよ」
「えっ……あ、ああ」
一転して顔を引きつらせ、戸室は答える。
「倉田は左投げのサイドスローだから、ボールの軌道が対角線に入ってくること……だったっけ」
「うむ。それで、どうやって打つんだよ」
「ええっと……どうやるんだっけ?」
案の定の返答に、ナイン達は「あーあー」とずっこける。
「まったく。こんなことだろうと思ったぜ」
呆れ顔で、倉橋は言った。
「倉田の持ち球は、おもに真っすぐとカーブ、シュートそしてチェンジアップだ。とくに厄介なのが、右打者へのインコース。際どいコースに飛びこんでくるから、かなり打ちにくいはずだぞ」
「そのとおりです」
正捕手の前で、半田が深くうなずく。
「ですから、右打者はアウトコースの真っすぐか、インコースのやや甘く入ったカーブをねらった方がいいでしょう。ただし、真っすぐはスピードがあるので、目が慣れるまでカーブに絞った方がいいかもしれません」
「む。あと倉田は、時折チェンジアップも混ぜてくるんだったな」
キャプテン谷口が、確認するように口を挟む。
「はい。ただきのう片瀬君とビデオをチェックしたところ、見逃せば七割以上ボールです。ほとんど真ん中低めに投げてくるので、比較的見きわめはしやすいと思います」
そうか、と谷口は目を見開いた。
「片瀬も協力してくれたのか」
「あ、はい」
片瀬は照れた顔になる。
「ぼくはきのう足を痛めちゃって、当分投げられそうにないので」
「助かるよ片瀬。ありがとう」
「いえ、そんな。分析のほとんどは、半田さんがやってくださったので」
恐縮する片瀬。その声に、雨音が重なる。
「あーあ。とうとう降り出しちまったか」
丸井がのんびりとした口調で言った。
「どうせなら、このまま中止になっちゃえばいいのに」
「まったくだぜ」
傍らで、戸室も同調した。
「そしたら、きのうの疲れも取れるし、体調不良のやつらだって回復するのによ」
そのとおりだな、と谷口は胸の内につぶやく。しかし彼らの思いとは逆に、雨雲は神宮球場の上空に小さく広がっているだけだった。
「残念ですが、こりゃ通り雨のようですね」
イガラシが冷静に言った。
その時だった。ベンチ奥のドアが開き、横井と島田が慌て気味に入ってくる。
「わりぃ、遅くなっちまって」
「スミマセン。ご心配かけました」
谷口が「おお」と、すぐに振り向いた。
「試合には出られそうか? 念のため、先発から外したが」
「ハイ、問題ありません!」
快活に応える島田。横井も同様に「もちろんさ」と返事した。
「そ、そうか……よかった」
言葉とは裏腹に、谷口は憂う目になり、さらに尋ねる。
「加藤はどうした?」
「ああ……そ、それがな」
うつむき加減で、横井が答えた。
「やつは病院へ運ばれた。さっき丸井が言ったとおり、だいぶ熱が高くてな。四十度近くもあるってんで、ちゃんと診てもらった方がいいんだと」
「よっ、四十度!」
数人のナインが声を上げる。
「な、なーに。だいじょうぶさ」
横井は、周囲を宥めるように言った。
「疲労からくる熱らしいから、一日しっかり休めば、明日までには回復するってよ」
「うーむ、明日かあ……」
溜息をついたのは、丸井だった。
「今日勝たなきゃ、もう試合は」
「だったら、勝ちましょう」
傍らで、イガラシが珍しく穏やかな口調で言った。
「ぜったい勝って、加藤さんも甲子園の舞台に立たせてあげましょうよ」
「お、オウ!」
丸井は真剣な目で応える。
「しかし、すまんな谷口」
苦笑いしつつ、横井が言った。
「おれらが体調不良のせいで、大事な決勝戦だっつうのに、レギュラーをそろえられなくなっちまってよ」
「気にするなって」
口元に微笑みを湛え、キャプテンは答えた。
「こんな時のために、選手層を厚くしてきたんじゃないか。それに、おまえ達をムリに先発させて、けっきょく後で交代させるよりは、ベンチに控えてもらっていた方がいい」
「と、言いますと?」
島田の問いに、谷口は空を指差す。
「この天候だ。雨がきそうなことを考えると、なんらかのアクシデントが起こらないとも限らん。そうなった時、交代出場するのが経験の浅い一年生では、ちと心もとないからな」
なるほど、と横井はうなずく。
「最後はおれらが頼りってことね」
「そういうことだ。だからいつ出番がきてもいいよう、しっかり準備しといてくれ」
「おう、まかせとけって」
横井はポンと、自分の胸を叩く。
「またうまいこと言っちゃって」
谷口の背後で、倉橋が笑って言った。
「いや、そうじゃない」
振り向いた谷口は、一転して真剣な表情である。
「この試合、なにか……なにかが起こりそうな気がしてならないんだ」
思わぬ返答に、正捕手は「む、そうか」と言ったきり口をつぐむ。
「ようしっ」
ふいに快活な声を発したのは、丸井だった。その左手にはグラブが嵌められている。
「そんじゃ、東実をやっつけるために、まずシートノックといきましょうか。なんたって決勝ですからね、いつも以上にはりきっていきましょう!」
「……あ、あの丸井さん」
イガラシが苦笑いしつつ、ツッコミを入れる。
「気合が入ってるとこ、悪いんスけど」
「なんだよ。おれっちは、いつも気合十分だいっ」
「今日、うちは先攻なんで。シートノックは東実の後ですよ」
あらっ、と丸井はずっこけた。ベンチから、ぷぷっと笑い声が漏れる。
「……さてと」
おもむろに、正捕手倉橋がやや大きな声を発した。すでに捕手用プロテクターを身につけている。
「おれは松川の投球練習につき合ってくるから。おめーら、東実の様子をよく見といてくれ。言うまでもないが、とくに二人のピッチャーをな」
そして「行こうか松川」と、この日の先発投手に声を掛ける。
「はい!」
快活に返事すると、松川はグラブを手に、雨の中を一塁側ブルペンへと駆けていった。
「ほう。松川のやつ、気合入ってんな」
正捕手は満足げにうなずき、自らもグラウンドへと飛び出していく。
「なんだい、二人とも」
不思議そうにつぶやいたのは、鈴木だった。
「せめて、もうちょい雨が弱まってからにすりゃいいのに」
「バカめ」
すかさず丸井がツッコミを入れる。
「まだ降ってるからこそ、やるんじゃねーか。試合が始まる時までに、雨がやむとはかぎらねえだろ」
「あ、なるほど。雨の中で投げることもありうるってことか。おまえアタマいいな」
のんびりとした口調で、鈴木は応えた。丸井はすかさず怒鳴り返す。
「てめーが考えたらずなんだよ!」
その時、ズバンとミットを鳴らす音がした。
ナイン達は、その方向に視線を向ける。一塁側ブルペンに、松川が気合の表情で立っていた。そして倉橋からの返球を捕ると、すぐに投球動作へと移る。
ズバァン。その迫力ある音に、客席からどよめきと歓声が起こる。
「いいぞ松川。ナイスボール」
「その調子で、東実なんざねじふせろ!」
おいおい……と、横井が驚いた目で言った。
「松川のやつ。いつの間に、あんな速いタマ投げるようになったんだ」
む、と戸室も同調する。
「それにあいつ、この頃いやに頼もしくなってねえか」
「ああ、そうだな」
割り込むように応えたのは、キャプテン谷口だ。そして後方に向き直り、今度はナイン全員へ掛け声を発した。
「彼の気迫を、みんなで後押ししようじゃないか。いいな!」
「はいっ!」
いつものように、墨高ナインは快活に返事した。
3.脅威の東実投手陣
やがて、東実ナインがグラウンドに姿を現す。駆け足で各ポジションへと散り、シートノックの準備を始めた。
「へいっ、サード」
ほどなくノッカーの声とともに、速いゴロがまずサードへ飛ぶ。それからショート、セカンド、ファースト、外野へと、シートノックがテンポよく進んでいく。名門校らしく、誰もが俊敏な動きである。
「フフ。やはり、ただの控えじゃないってことか」
満足げにつぶやいたのは、イガラシだった。
「そうこなくっちゃ」
一方、倉橋を除く三年生が真っ先に視線を向けたのは、東実の一塁手と三塁手だった。
「もういっちょ、サード!」
「よしきたっ」
東実の三塁手中井は、速いゴロを軽快なフットワークで難なくグラブに収め、一塁手へ矢のような送球を放る。パシッ、とファーストミットが小気味よい音を立てる。
「サード、いい送球よ!」
一塁手中尾は、快活な声を発した。やや細身の中井と比べ、こちらは東実ナインの中でも一際大きな体格である。
「フン。二人とも、顔までアニキそっくりだな」
横井の言葉に、丸井が「そういえば」と反応する。
「一昨年、先輩達が戦った東実のエースとサードの弟が、今のチームにいるんでしたっけ」
ああ、と横井がうなずく。
「中井はアニキと同じくサード。中尾の方は、アニキとちがってファーストを守ってるな」
「そのことなんですが」
ベンチ後方で、半田が資料のファイルを開き、説明を付け加える。
「新聞部の人が調べてくれた情報によると、中尾君はピッチャーとファーストを兼任しているみたいです。ただ今大会は、例の二人が良すぎるので、もっぱらファーストだけのようですが」
「そりゃファーストに回してでも、使いたくなるでしょうね」
渋い顔で、イガラシが言った。
「なにせ今大会ホームラン二本、打率も五割近く打ってるんでしょう」
その時、戸室がベンチ手前で「おっ」と声を発した。
「ようやくお出ましのようだな」
戸室の一言に、墨高ナインの視線は、一斉に三塁側へと向けられた。
彼らの視線の先。三塁側ベンチより、東実のエース佐野、さらに今日先発予定の倉田が、それぞれ捕手を伴いブルペンへと向かう。
ほどなく二人の捕手が定位置に座り、奥側の佐野と手前側の倉田が並び立つ格好となった。そしてまず、倉田がサイドスローのフォームから、第一球を投じる。
スパン。キャッチャーミットが、小気味よい音を鳴らした。
「なーんだ」
拍子抜けしたように、丸井がつぶやく。
「スピードは、思ったほどじゃねえな。ミーティングじゃ、力量は佐野に匹敵するって話だったが」
「そりゃそうでしょ」
傍らで、井口が応える。
「こちとら、谷原の村井や川北の高野と戦ってきてるんスよ。向こうがどうこうより、おれ達がスピードに目が慣れてきてるんじゃありませんか」
「む、それもそうだ」
「しかしおどろいたな」
独り言のように、井口が言った。
「倉田のやつ、いつの間にフォームを変えやがったんだ」
あら、と丸井がずっこける。
「な、なんスか」
「こら井口。倉田のフォームについては、ミーティングで何度も話してたろうが。てめえちゃんと聞いてなかったのかよ」
「は、はあ」
井口はバツの悪そうに頭を掻く。
「なにせやつとは、中学ん時に対戦ずみなもんで」
「ったく」
後輩をひと睨みして、丸井は前方へと視線を移した。
ナイン達の眼前で、佐野と倉田の投球練習が続けられていく。倉田は先発だからか、早いテンポで速球、大小のカーブ、シュート、チェンジアップと投げ込む。
「半田が言ってたとおり、変化球のキレは鋭いな。とくに小さく曲がる速いカーブは、目が慣れるまで当てるのがやっとかも」
一方、佐野は倉田と対照的に、ゆっくりとしたテンポで力を抜いた球を投じていく。
「ちぇっ。佐野のやつ、今日はリリーフだからって、のんびりしやがって」
「というより、なるべく力を温存してるんだろ」
背後より、横井が口を挟む。
「試合がもつれることも考えて、あまりウォーミングアップの段階から、飛ばさないようにしてるんじゃないか」
「な、なるほど。そうとも考えられますね」
丸井は素直にうなずく。
「それによ……」
やや頬を引きつらせ、横井は話を付け足す。
「やつの力量なら、きのうイヤってほど見せつけられたんだ。もう十分だろ」
「え、ええ……そうスね」
会話の最中、二人は脳裏に同じ映像を思い浮かべていた。強豪の専修館をノーヒットノーランに封じ込めた、佐野の圧倒的な投球を。
「やっぱり佐野が出てくる前に、先発の倉田から点を取って、あとは逃げ切るってのが定石でしょうか。ね、キャプテン」
丸井はベンチ左隅に立っている、キャプテン谷口に声を掛けた。
「……きゃ、キャプテン?」
なぜか谷口は返事をしない。よく見ると、その顔は引きつっている。丸井は「おいイガラシ」と、後列で立っている後輩を呼んだ。
「キャプテンどうし……えっ、イガラシ?」
ところが谷口と同じく、イガラシも顔を引きつらせていた。
「イガラシ。おまえも気づいてたか」
おもむろに谷口はベンチ内を向き、イガラシに声を掛ける。
「ええ……二人のタマを受けているキャッチャー。さっきから、ピクリともミットを動かしてませんね」
「うむ。佐野も倉田も、キャッチャーが構えたところに寸分たがわず投げ込んでる」
二人の会話に、他のナイン達は「なんだって!」と驚いた声を発した。
4.イガラシの気遣い
やがて規定の時間となり、東実ナインは一旦ベンチへと引っ込む。そしていよいよ、墨高のシートノックの番となった。
「ようし、始めるぞ!」
キャプテン谷口の掛け声を皮切りに、他のナインも快活な声を上げる。
「へいへいっ」
「ノッカー、遠慮なくこい!」
この時、さっきまでブルペンにいた倉橋と松川も、ポジションに着いていた。倉橋はいつものホームベース奥に、そして松川はマウンドに立つ。
倉橋の傍ら。ノッカーの高橋が何かを逡巡するかのように、うつむき加減で立っていた。球出し役の鳥海が「おい、どうした」と声を掛ける。
「あ、うむ」
高橋はうなずくと、まず「へい、サード」と声を上げ、三遊間へ速いゴロを放つ。谷口は「よしきた!」と、いつものように軽快な動きでボールを捌き、一塁へ送球した。
「ちょっと高橋」
声を潜めて、鳥海が言った。
「もうちょい、とりやすい打球にしろよ。キャプテン足を痛めてんだぞ」
「む、おれもそう思ったんだが……」
一年生二人の会話に、倉橋が「これでいいんだ」と口を挟む。
「倉橋さん」
二人は同時に返事した。
「鳥海の気持ちも分かるが、ヘンにぬるい球を打つと、向こうに谷口が万全じゃないと気づかれちまう。だから高橋、いつもどおりで頼む」
「わ、分かりました」
高橋は返事すると、鳥海からボールを受け取り、再びバットを構える。この間、倉橋は胸の内につぶやいた。
「まあ、やつらのことだ。谷口のケガのことなんざ、こっちが隠しても、とうにチェックしてるだろうが」
先刻から降り始めた雨は、早くもその勢いが弱まり始めていた。やはり通り雨らしい。
「つぎ、ショート!」
正捕手の隣で、高橋が叫ぶ。
「オウ!」
返事したイガラシの正面で、叩き付けたボールが高く弾む。遊撃手は素早くダッシュし、難なくグラブに収めた。そのまま送球姿勢へと入る。
「あっ」
思わず倉橋は、小さく声を発した。いつもなら一塁手の捕りやすい肩口付近へ送球するイガラシのボールが、ライト方向へ高く逸れたのだ。
「……おっと」
しかしこの日初めて一塁手を務める岡村が、左腕を長く伸ばし辛うじてファーストミットに収める。
「な、ナイスキャッチよ岡村!」
そう叫んだ倉橋だったが、内心ドキッとしていた。
「ま……まさか。イガラシまで、どこか痛めてるんじゃあるまいな」
同様に思ったのは、倉橋だけじゃないらしい。谷口と丸井も顔を引きつらせ、ショートの方向へ視線を向けていた。しかし当の本人は「わりぃ岡村」と言ったきり、ポーカーフェイスのまま足元の土を均している。
三人が憂う間にも、シートノックはテンポ良く進んでいった。
「へい、サード!」
高橋に声を掛けられ、谷口はハッとしたように、腰を落としグラブを構え直す。
「さ……さあ、こいっ」
バントを想定した緩いゴロが転がってきた。谷口は鋭くダッシュし、軽快なフィールディングから一塁へ矢のような送球を投じた。
「つぎ、ショート!」
再びイガラシの番が回ってきた。
高橋は二塁ベース左へ速い打球を放つ。しかし遊撃手は、まるで打球方向を予測していたかのように回り込むと、左手を少し伸ばしただけで難なく捕球する。そして送球の体勢へ。
「……えっ」
今度は谷口が声を上げた。イガラシの送球が、今度は一塁ベース手前でショートバウンドした。しかしこれも、岡村が上手くバウンドを合わせ捕球する。
倉橋はさっとサード方向へ駆け寄り、谷口に耳打ちした。
「どうしたんだイガラシのやつ」
「うーむ、分からんな」
キャプテンは僅かに首を傾げる。
「きのうの試合後と、今朝の様子じゃ、とくに変わったところは見当たらなかったし」
「ああ。だが今日、あいつはリリーフの予定なんだぞ。もし肩や肘でも故障してたら……」
その時「倉橋さん」と、高橋が声を掛けてきた。傍らで、アンパイアもこちらに腕時計を示し指で叩いている。どうやら間もなく規定の時間となるらしい。
「スマン。また後でな」
急いでポジションに戻り、倉橋はホームベースを前に屈み込む。
「ラスト、キャッチャー!」
カッと小気味よい音がした。高橋の放ったキャッチャーフライが、ちょうどホームベースとバックネットの中間地点に上がる。
「オーライ」
倉橋は小走りに落下地点へ行き、難なく顔の前で捕球した。その瞬間、一塁側スタンドから歓声と拍手が沸き起こる。
「いいぞ墨高」
「きのうの勢いで、今日は東実を食っちまえ」
「期待してるぞ。初めての甲子園を!」
―― パチパチパチパチパチパチ……
しかし倉橋は、応援に応えるどころではなかった。すぐさま「イガラシ!」と一年生遊撃手を呼びつけた。隣に、谷口も駆けてくる。
「はい?」
イガラシは怪訝そうな顔で、それでも走り寄ってきた。
「なんでしょうか」
「おいイガラシ」
まず谷口が尋ねる。
「さっきの送球はなんだ」
「えっ……ああ、アレですか」
なぜか遊撃手は苦笑いした。
「笑いごとじゃねーよ」
今度は倉橋が、睨む目で問い詰める。
「いつも正確な送球のおまえが、らしくもねえ。まさか……故障を隠してる、なんてこたあ」
「ちがいますよ」
苦笑いを浮かべたまま、イガラシはきっぱりと答えた。
「あれは、岡村を試したんです」
「へっ?」
思わぬ返答に、倉橋は目が点になる。
「だってほら、岡村は今日初めてファーストを守るでしょう。練習じゃ問題なかったと言っても、試合じゃどうなるか分からないじゃありませんか」
「なるほど、そういうことか」
谷口は感心げにうなずいた。
「ええ。しかもこの天気じゃ、グラウンドが荒れて、打球や送球が予想外のはね方をしたりするのでね。今のうちに、やつがどれくらい動けるのか見ておきたかったんですよ」
「こ、このヤロウ。ただでさえ体調不良者が続出だってのに、まぎらわしいことしやがって」
悪態をつきながらも、倉橋は安堵の表情になる。
「すみません。キャプテンか倉橋さんに、一言相談したかったんスけど」
軽く頭を下げ、イガラシは話を続けた。
「ポジションに着いた時、初めて気づいたので。ヒマがなかったんですよ」
そして「あっ」と、イガラシはバックネット方向を指差す。三人の視線の先で、四人の審判団が、金属製の扉を開けようとしている。
「あまりしゃべってる時間はなさそうですね。急ぎましょう」
そう言って、一人だけさっさとベンチへ駆けていく。
「……まったく。あいつは、緊張ってものを知らないのか」
倉橋はそう言って、苦笑いした。
「一年生が初めての決勝戦で、他人(ひと)を試す余裕があるとは」
「フフ。たのもしいじゃないか」
谷口は愉快そうに笑い、そして倉橋の背中を叩く。
「さ、おれ達も並ぼうぜ」
「ああ。そうだったな」
一塁側ベンチ前では、すでに列ができている。二人は急いでその中に加わった。
5.東実のキャッチャー・村野
やがて審判団が、グラウンドに入ってきた。そしてアンパイアが右手を掲げ、高らかに掛け声を上げる。
「両チーム、集合!」
アンパイアの掛け声と同時に、キャプテン谷口は仲間達に呼び掛けた。
「よし、いくぞ!」
「オウヨッ」
快活な返事と同時に、墨高ナインは走り出す。
ほぼ同時に、東実ナインも三塁側ベンチから駆け寄ってきた。ほどなく両チームとも素早く整列し、ホームベースを挟んで互いに向かい合う格好となる。
この時ふと、谷口は佐野と目が合う。相手エースは「やあ」とでも言いたげに小さく左手を上げ、いつもの不敵な笑みを浮かべた。
「しかし、みょうなめぐり合わせだな」
胸の内に、谷口はつぶやく。
「中学の時から何度も戦ってきた佐野と、この決勝でまた相まみえることになろうとは」
アンパイアが、再び右手を掲げる。
「これより東実対墨谷の決勝戦を行う。試合は、墨谷先行にて開始する。一同、礼!」
「オネガイシマス!」
挨拶が終わると同時に、東実ナインは素早く守備位置へと散っていく。一方、墨高ナインは先頭打者のイガラシを残し、一旦ベンチに引っ込んだ。
神宮球場の上空。すぐやむかに思われた雨は、まだしぶとく降り続いている。
ネクストバッターズサークル。マスコットバットで数回素振りするイガラシのヘルメットを、両腕を、ユニフォームを少しずつ湿らせていく。
「なんだか、やな感じだぜ」
一旦マスコットバットを置き、先頭打者はひそかにつぶやいた。
「それでなくても、おれ達のことをよく知ってる相手と戦うのは、やりにくいつうに」
イガラシ、そして墨高ナインの眼前では、東実先発の倉田が試合前の投球練習を行っていた。すべて速球。規定の七球とも、キャッチャーのミットを僅かにも動かすことなく、まるで吸い込まれるように収まった。
「バッターラップ!」
アンパイアの呼ぶ声。イガラシはバットを手に、ゆっくりとバッターボックスへ向かう。
「早めに得点して、こっちが試合の主導権を握るためにも、まずおれが出塁しなきゃ」
そう胸の内につぶやき、バッターボックスの白線を踏み越えた。そして足元を数回均し、バットを短めに構える。
「やあ久しぶり」
ふいに声を掛けられ、イガラシは「れ」とずっこけそうになる。
「あら、忘れちゃったかい」
声の主は、東実のキャッチャーだった。肩幅の広い、恵まれた大きな体格。それと不釣り合いな、妙に愛嬌のある容姿。
「そんなワケないでしょう」
感情を消した口調で、イガラシは答えた。
「佐野さんもですが、二年生で東実のレギュラー捕手を奪うなんて、さすが青葉の元キャッチャーですね。村野さん」
「ハハ。おぼえていてくれて、うれしいよ。しかし高校でも変わらない活やくぶりだね」
「それはドウモ」
わざと素っ気なく答える。そしてさらに付け加えた。
「んなことより……あまりしゃべると、試合開始が遅れますよ」
イガラシに同調するかのように、アンパイアは村野に顔を向け、コホンと咳払いする。
「あ、どうもスミマセン」
村野は一礼して、マスクを被りホームベース奥に屈み込んだ。フン、とイガラシは鼻を鳴らし、相手捕手の横顔を睨む。
「こっちの集中を削ごうってつもりなんだろうか、そんな手に乗るか」
しばしの間。そして――アンパイアが、右手を高く掲げる。
「プレイボール!」
掛け声と同時に、試合開始を告げるサイレンが鳴り響いた。
「さてと。どう攻めたものかな」
マウンド上に視線を移し、イガラシは思案した。一方、相手投手は前屈みの姿勢で、キャッチャーのサインを確認する。
「コントロールのいいピッチャーだから、そう甘い球はこないだろうが。まずはじっくり見て、もしカウントが悪くなったら、ストライクを取りにきた球を……」
その時である。
「な、なにっ」
イガラシは思わず、小さく声を上げた。
ふいに村野がマスクを脱いで足元に置き、立ち上がる。そして左バッターボックスの、さらに外側に立ち、顔のやや上でミットを構えた。
球場内からざわめきが起こる。それを気にも留めない表情で、倉田は村野のミット目がけ、山なりのボールを放り始めた。
さしものイガラシも唖然とする。
「い、いきなり敬遠だと……」
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