南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

【野球小説】続・プレイボール<第50話「小雨のプレイボールの巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

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【目次】

  

 

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 第50話 小雨のプレイボールの巻

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第50話 小雨のプレイボール

 

1.一塁側スタンドにて

 

 灰色の雲が、もうすっかり夏空を覆い尽くしていた。

「よっと。くそ、ジメジメしてやがる」

 神宮球場。一塁側スタンドに降り立った田所は、タオルで額の汗を拭った。そして同じ墨高野球部OBの後輩達を探す。

「さて、あいつらは……」

「田所さーん!」

 客席の最前列、バックネット寄りの一角より、メガネの中山が手を振っていた。彼も暑そうに、タオルを首に掛けている。その周囲には、山口、太田、山本といつものメンバーが集まっていた。

 田所が階段を駆け下りると、中山はメガネの湿りを拭いつつ、苦笑いする。

「いやー、蒸し暑いスね」

「む。これじゃ、きのうの炎天下の方が、マシってもんだぜ。ところでよ」

 後輩達の顔を見渡しつつ、田所は言った。

「谷口達、ついさっきまで球場の外でウォーミングアップしてたぞ。誰か、声ぐらいかけてくりゃよかったのによ」

 ひょうきん者の山本が「え、ええ」とバツが悪そうに笑う。

「ぼくらもそうしたかったんスけど……」

「先輩。それはちと、酷スよ」

 山本を代弁するように、長身の山口が答えた。

「やつらの疲れ切った顔を見たら、正直なんて声をかけたらいいか」

 だよな、と中山も同調する。

「ところで先輩」

 話題を変えようとしたのか、太田が尋ねてくる。

「あのスタメン、なにか事情とか聞いてませんか?」

 OB達の視線が、スコアボード右側に掲示されている、墨高のスタメン表に集まる。

「島田、加藤、横井。レギュラーが三人ともいないなんて」

「ああ、それなんだが」

 田所は渋い顔で言った。

「三人とも、きのうの激戦の影響からか、どうも体調が優れないらしい」

「ええっ。それ、かなりやばくないスか!」

 細い目を開き、太田が声を上げる。

「大事な決勝で、しかもあの東実と戦おうってのに。レギュラーを三人も欠くなんて」

「ま、いたしかたないさ」

 山口が溜息混じりに言った。

「谷原のような強敵と、あの炎天下の中、十六回まで戦ったんだ。離脱者が出るのも不思議じゃねーよ。幸い、代わりの者もいるようだし」

 そうだな、と山本も首肯する。

「おれらの頃は選手層が薄くて、一人でもケガ人が出たら大きく戦力ダウンしてたが、今年は控えの奴らもレギュラーと遜色ないって話だぜ。ですよね、田所さん」

 ふいに話を向けられ、田所は「あ、ああ……」と渋い顔で応える。

「なにせこのおれが、一人一人この目で確かめてスカウトしたやつらだからな。今年のチームは、誰か抜けたくらいじゃビクともしねーよ」

「うーむ。そりゃ選手層が厚くなったのは、分かりますけど」

 太田はなおも、不安げに言った。

「元々レギュラーだった戸室はいいとして、岡村のファーストってのはどうなんです?」

「ああ。そこはさほど、問題じゃねーよ」

 努めて、田所は明るく答える。

「なにせやつは、ピッチャー以外どこでも守れるって触れ込みだからな。きのう、学校でちょっと練習してるとこも見たが、ソツなくこなしてたぜ」

 そういや、と山本が口を挟む。

「ライトの久保をセンターに回したのは、なんでだ」

「まぬけ。そんなことも分からないのか」

 太田がからかう口調で言った。

「井口の足じゃ、センターは心もとないだろう。やつは元々鈍足なうえに、きのうの試合で右足をつってるからな」

「だったら、ほかのやつを使えばすむことじゃねーか」

 山本の返答に、太田がぐっと口をつぐむ。

「鈴木とか高橋とか鳥海とか。守るだけなら、いくらでもいるだろう」

「攻撃を考えてのことじゃねえか」

 おもむろに、元エースの中山が言った。

「井口には一発がある。東実投手陣の力を考えれば、そうそう連打で得点するのは難しいだろうからな」

 けどよ、と山本が首をひねる。

「それって苦肉の策だろう。ライトに回したところで、足が不安なことにそう変わりないじゃねえか」

「しかし松川とイガラシなら、そうそう打たれまい」

 中山が気楽そうに言った。

「二人とも制球力があるし、今大会の東実はさほど打率が高くないからな」

「マヌケ。おめえ気づいてないのか」

 苦い顔で、太田が口を挟む。

「なんだと!」

 中山が言い返しかける前に、太田はスコアボードの右を指差した。

「見ろよ、東実のスタメン表を。やつらもだいぶメンバーを変えてきてるぞ」

「えっ……あ、ほんと」

 眼鏡を上下させ、中山がうなずく。

「ちょっと待てよ」

 山口がジーパンのポケットから新聞記事の切り抜きを取り出し、見比べる。

「一、二、三……な、なにっ。きのうの準決勝から、四人も代えてやがるじゃねえか」

「やつらも、なにかアクシデントがあったのか」

 山本の言葉を、太田が「それはねえだろ」と否定する。

「うちとちがって、きのう東実は一方的に勝ってるからな。佐野のノーヒットノーランのおまけつきでよ」

 その一言に、OB達はしばし黙り込む。

「……あっ、そうか!」

 沈黙を破ったのは、田所だった。素っ頓狂な声に、後輩達は思わず視線を集める。

「ど、どうしたんスか。急に大声出したりして」

 右耳に指を突っ込みながら、中山が尋ねる。

「いやな。どうもきのうから、東実のメンツを見てみょうな気がしてたんだ。そのわけが、今やっと分かったんだよ」

「え、きのうからですか?」

 太田が不思議そうに問う。

「ああ」

 口元に笑みを湛え、田所は答えた。

「もう一度、東実のメンツを見てみなよ。ただし、変わってない方のな」

 先輩の言葉に、後輩達は再度スコアボード右のスタメン表を、しげしげと眺める。

「……え、まさか」

 最初に声を発したのは、中山だった。

「たしか以前戦った……」

 元エースの言葉に、他のメンバーも「あっ」「言われてみれば」と反応する。OB達の視線の先には、「背番号⑪中尾」「背番号⑭中井」の名前があった。

「うむ。当時のレギュラーだった、エース中尾とサード中井の弟だな」

 やはり、と中山が感心げに言った。

「昨年度、応援席にも姿がなかったってことは、二人とも一年生か」

「そうだな」

 田所は首肯した。

「一年生から決勝戦で先発起用されるということは、よほど期待されてるってことだろう」

「……れ、先発といえば」

 ふいに口を挟んだのは、山本だ。

「投手もエースの佐野じゃなく、一年生の倉田が先発とは。この大事な決勝で」

「バカ。おまえ、知らねーのか」

 中山が呆れ顔で言った。

「佐野もそうだが、倉田もここまで全試合無失点なんだぞ。今朝の新聞でも、『東実の誇る二枚看板』って特集されてたつうに」

「だ、だとしてもよ」

 幾分ムッとした顔で、山本が言い返す。

「決勝には甲子園がかかってるんだぞ。そんな大事な試合にエースを先発させないなんて、やはりまだ格下と思われてるんじゃないのか」

「いーや、むしろ逆だろう」

 眉を吊り上げる中山の代わりに、田所が答えた。

「この試合、やつらはもつれると踏んでるんだろう。だからあえてエースを温存して、いざって時にいつでも代えられるようにしたんじゃないのか」

「つ、つまり……東実はうちを、警戒すべき相手と認めてるってことですか」

「そーいうこと」

 田所の返答に、山本は嬉しそうに言った。

「へえ。東実にそこまで思わせるなんて、あいつらやるじゃねーか」

「まったく。調子のいいヤロウだぜ」

 肩をすくめる中山。その傍らで、田所は小さく溜息をつく。

「こいつら、いい気なもんだな」

 そう胸の内につぶやいた。

「谷原を倒すために、谷口達がどれほどの代償を払ったのか、まるで分かっちゃいないんだから」

 祈るように、田所は額の前で両手を組む。

「もう勝ち負けはどうでもいい。頼むから、なんとか無事に試合がすんでくれよ」

 その時だった。田所の手に、額に、膝に、小さな雨粒が落ちてくる。そして次第に、雨音は大きくなっていく。

 

 

2.試合前の墨高ベンチ

 

 一塁側ベンチ。墨高ナインは、左端の一角に小さな円を作る。その中心にはキャプテン谷口、そして分析担当の半田が立っていた。

「すみません、みなさん」

 半田が小さく頭を下げる。

「向こうのスタメン変更に気を取られて、相手ピッチャーのことを話すのをすっかり忘れちゃってました」

「なーに、いいってことよ」

 気楽そうに言ったのは、戸室だった。

「東実の投手陣のことなら、これまでも散々ミーティングを重ねてきたじゃねーか。谷原の対策と同時並行だったが、ちゃんと頭に入ってるよ」

「ほほう。たのもしいな、戸室」

 正捕手倉橋が、からかうように言う。

「じゃあまず、今日の先発倉田を攻りゃくするポイントを言ってみろよ」

「えっ……あ、ああ」

 一転して顔を引きつらせ、戸室は答える。

「倉田は左投げのサイドスローだから、ボールの軌道が対角線に入ってくること……だったっけ」

「うむ。それで、どうやって打つんだよ」

「ええっと……どうやるんだっけ?」

 案の定の返答に、ナイン達は「あーあー」とずっこける。

「まったく。こんなことだろうと思ったぜ」

 呆れ顔で、倉橋は言った。

「倉田の持ち球は、おもに真っすぐとカーブ、シュートそしてチェンジアップだ。とくに厄介なのが、右打者へのインコース。際どいコースに飛びこんでくるから、かなり打ちにくいはずだぞ」

「そのとおりです」

 正捕手の前で、半田が深くうなずく。

「ですから、右打者はアウトコースの真っすぐか、インコースのやや甘く入ったカーブをねらった方がいいでしょう。ただし、真っすぐはスピードがあるので、目が慣れるまでカーブに絞った方がいいかもしれません」

「む。あと倉田は、時折チェンジアップも混ぜてくるんだったな」

 キャプテン谷口が、確認するように口を挟む。

「はい。ただきのう片瀬君とビデオをチェックしたところ、見逃せば七割以上ボールです。ほとんど真ん中低めに投げてくるので、比較的見きわめはしやすいと思います」

 そうか、と谷口は目を見開いた。

「片瀬も協力してくれたのか」

「あ、はい」

 片瀬は照れた顔になる。

「ぼくはきのう足を痛めちゃって、当分投げられそうにないので」

「助かるよ片瀬。ありがとう」

「いえ、そんな。分析のほとんどは、半田さんがやってくださったので」

 恐縮する片瀬。その声に、雨音が重なる。

「あーあ。とうとう降り出しちまったか」

 丸井がのんびりとした口調で言った。

「どうせなら、このまま中止になっちゃえばいいのに」

「まったくだぜ」

 傍らで、戸室も同調した。

「そしたら、きのうの疲れも取れるし、体調不良のやつらだって回復するのによ」

 そのとおりだな、と谷口は胸の内につぶやく。しかし彼らの思いとは逆に、雨雲は神宮球場の上空に小さく広がっているだけだった。

「残念ですが、こりゃ通り雨のようですね」

 イガラシが冷静に言った。

 その時だった。ベンチ奥のドアが開き、横井と島田が慌て気味に入ってくる。

「わりぃ、遅くなっちまって」

「スミマセン。ご心配かけました」

 谷口が「おお」と、すぐに振り向いた。

「試合には出られそうか? 念のため、先発から外したが」

「ハイ、問題ありません!」

 快活に応える島田。横井も同様に「もちろんさ」と返事した。

「そ、そうか……よかった」

 言葉とは裏腹に、谷口は憂う目になり、さらに尋ねる。

「加藤はどうした?」

「ああ……そ、それがな」

 うつむき加減で、横井が答えた。

「やつは病院へ運ばれた。さっき丸井が言ったとおり、だいぶ熱が高くてな。四十度近くもあるってんで、ちゃんと診てもらった方がいいんだと」

「よっ、四十度!」

 数人のナインが声を上げる。

「な、なーに。だいじょうぶさ」

 横井は、周囲を宥めるように言った。

疲労からくる熱らしいから、一日しっかり休めば、明日までには回復するってよ」

「うーむ、明日かあ……」

 溜息をついたのは、丸井だった。

「今日勝たなきゃ、もう試合は」

「だったら、勝ちましょう」

 傍らで、イガラシが珍しく穏やかな口調で言った。

「ぜったい勝って、加藤さんも甲子園の舞台に立たせてあげましょうよ」

「お、オウ!」

 丸井は真剣な目で応える。

「しかし、すまんな谷口」

 苦笑いしつつ、横井が言った。

「おれらが体調不良のせいで、大事な決勝戦だっつうのに、レギュラーをそろえられなくなっちまってよ」

「気にするなって」

 口元に微笑みを湛え、キャプテンは答えた。

「こんな時のために、選手層を厚くしてきたんじゃないか。それに、おまえ達をムリに先発させて、けっきょく後で交代させるよりは、ベンチに控えてもらっていた方がいい」

「と、言いますと?」

 島田の問いに、谷口は空を指差す。

「この天候だ。雨がきそうなことを考えると、なんらかのアクシデントが起こらないとも限らん。そうなった時、交代出場するのが経験の浅い一年生では、ちと心もとないからな」

 なるほど、と横井はうなずく。

「最後はおれらが頼りってことね」

「そういうことだ。だからいつ出番がきてもいいよう、しっかり準備しといてくれ」

「おう、まかせとけって」

 横井はポンと、自分の胸を叩く。

「またうまいこと言っちゃって」

 谷口の背後で、倉橋が笑って言った。

「いや、そうじゃない」

 振り向いた谷口は、一転して真剣な表情である。

「この試合、なにか……なにかが起こりそうな気がしてならないんだ」

 思わぬ返答に、正捕手は「む、そうか」と言ったきり口をつぐむ。

「ようしっ」

 ふいに快活な声を発したのは、丸井だった。その左手にはグラブが嵌められている。

「そんじゃ、東実をやっつけるために、まずシートノックといきましょうか。なんたって決勝ですからね、いつも以上にはりきっていきましょう!」

「……あ、あの丸井さん」

 イガラシが苦笑いしつつ、ツッコミを入れる。

「気合が入ってるとこ、悪いんスけど」

「なんだよ。おれっちは、いつも気合十分だいっ」

「今日、うちは先攻なんで。シートノックは東実の後ですよ」

 あらっ、と丸井はずっこけた。ベンチから、ぷぷっと笑い声が漏れる。

「……さてと」

 おもむろに、正捕手倉橋がやや大きな声を発した。すでに捕手用プロテクターを身につけている。

「おれは松川の投球練習につき合ってくるから。おめーら、東実の様子をよく見といてくれ。言うまでもないが、とくに二人のピッチャーをな」

 そして「行こうか松川」と、この日の先発投手に声を掛ける。

「はい!」

 快活に返事すると、松川はグラブを手に、雨の中を一塁側ブルペンへと駆けていった。

「ほう。松川のやつ、気合入ってんな」

 正捕手は満足げにうなずき、自らもグラウンドへと飛び出していく。

「なんだい、二人とも」

 不思議そうにつぶやいたのは、鈴木だった。

「せめて、もうちょい雨が弱まってからにすりゃいいのに」

「バカめ」

 すかさず丸井がツッコミを入れる。

「まだ降ってるからこそ、やるんじゃねーか。試合が始まる時までに、雨がやむとはかぎらねえだろ」

「あ、なるほど。雨の中で投げることもありうるってことか。おまえアタマいいな」

 のんびりとした口調で、鈴木は応えた。丸井はすかさず怒鳴り返す。

「てめーが考えたらずなんだよ!」

 その時、ズバンとミットを鳴らす音がした。

 ナイン達は、その方向に視線を向ける。一塁側ブルペンに、松川が気合の表情で立っていた。そして倉橋からの返球を捕ると、すぐに投球動作へと移る。

 ズバァン。その迫力ある音に、客席からどよめきと歓声が起こる。

「いいぞ松川。ナイスボール」

「その調子で、東実なんざねじふせろ!」

 おいおい……と、横井が驚いた目で言った。

「松川のやつ。いつの間に、あんな速いタマ投げるようになったんだ」

 む、と戸室も同調する。

「それにあいつ、この頃いやに頼もしくなってねえか」

「ああ、そうだな」

 割り込むように応えたのは、キャプテン谷口だ。そして後方に向き直り、今度はナイン全員へ掛け声を発した。

「彼の気迫を、みんなで後押ししようじゃないか。いいな!」

「はいっ!」

 いつものように、墨高ナインは快活に返事した。

 

 

3.脅威の東実投手陣

 

 やがて、東実ナインがグラウンドに姿を現す。駆け足で各ポジションへと散り、シートノックの準備を始めた。

「へいっ、サード」

 ほどなくノッカーの声とともに、速いゴロがまずサードへ飛ぶ。それからショート、セカンド、ファースト、外野へと、シートノックがテンポよく進んでいく。名門校らしく、誰もが俊敏な動きである。

「フフ。やはり、ただの控えじゃないってことか」

 満足げにつぶやいたのは、イガラシだった。

「そうこなくっちゃ」

 一方、倉橋を除く三年生が真っ先に視線を向けたのは、東実の一塁手三塁手だった。

「もういっちょ、サード!」

「よしきたっ」

 東実の三塁手中井は、速いゴロを軽快なフットワークで難なくグラブに収め、一塁手へ矢のような送球を放る。パシッ、とファーストミットが小気味よい音を立てる。

「サード、いい送球よ!」

 一塁手中尾は、快活な声を発した。やや細身の中井と比べ、こちらは東実ナインの中でも一際大きな体格である。

「フン。二人とも、顔までアニキそっくりだな」

 横井の言葉に、丸井が「そういえば」と反応する。

「一昨年、先輩達が戦った東実のエースとサードの弟が、今のチームにいるんでしたっけ」

 ああ、と横井がうなずく。

「中井はアニキと同じくサード。中尾の方は、アニキとちがってファーストを守ってるな」

「そのことなんですが」

 ベンチ後方で、半田が資料のファイルを開き、説明を付け加える。

「新聞部の人が調べてくれた情報によると、中尾君はピッチャーとファーストを兼任しているみたいです。ただ今大会は、例の二人が良すぎるので、もっぱらファーストだけのようですが」

「そりゃファーストに回してでも、使いたくなるでしょうね」

 渋い顔で、イガラシが言った。

「なにせ今大会ホームラン二本、打率も五割近く打ってるんでしょう」

 その時、戸室がベンチ手前で「おっ」と声を発した。

「ようやくお出ましのようだな」

 戸室の一言に、墨高ナインの視線は、一斉に三塁側へと向けられた。

 彼らの視線の先。三塁側ベンチより、東実のエース佐野、さらに今日先発予定の倉田が、それぞれ捕手を伴いブルペンへと向かう。

 ほどなく二人の捕手が定位置に座り、奥側の佐野と手前側の倉田が並び立つ格好となった。そしてまず、倉田がサイドスローのフォームから、第一球を投じる。

 スパン。キャッチャーミットが、小気味よい音を鳴らした。

「なーんだ」

 拍子抜けしたように、丸井がつぶやく。

「スピードは、思ったほどじゃねえな。ミーティングじゃ、力量は佐野に匹敵するって話だったが」

「そりゃそうでしょ」

 傍らで、井口が応える。

「こちとら、谷原の村井や川北の高野と戦ってきてるんスよ。向こうがどうこうより、おれ達がスピードに目が慣れてきてるんじゃありませんか」

「む、それもそうだ」

「しかしおどろいたな」

 独り言のように、井口が言った。

「倉田のやつ、いつの間にフォームを変えやがったんだ」

 あら、と丸井がずっこける。

「な、なんスか」

「こら井口。倉田のフォームについては、ミーティングで何度も話してたろうが。てめえちゃんと聞いてなかったのかよ」

「は、はあ」

 井口はバツの悪そうに頭を掻く。

「なにせやつとは、中学ん時に対戦ずみなもんで」

「ったく」

 後輩をひと睨みして、丸井は前方へと視線を移した。

 ナイン達の眼前で、佐野と倉田の投球練習が続けられていく。倉田は先発だからか、早いテンポで速球、大小のカーブ、シュート、チェンジアップと投げ込む。

「半田が言ってたとおり、変化球のキレは鋭いな。とくに小さく曲がる速いカーブは、目が慣れるまで当てるのがやっとかも」

 一方、佐野は倉田と対照的に、ゆっくりとしたテンポで力を抜いた球を投じていく。

「ちぇっ。佐野のやつ、今日はリリーフだからって、のんびりしやがって」

「というより、なるべく力を温存してるんだろ」

 背後より、横井が口を挟む。

「試合がもつれることも考えて、あまりウォーミングアップの段階から、飛ばさないようにしてるんじゃないか」

「な、なるほど。そうとも考えられますね」

 丸井は素直にうなずく。

「それによ……」

 やや頬を引きつらせ、横井は話を付け足す。

「やつの力量なら、きのうイヤってほど見せつけられたんだ。もう十分だろ」

「え、ええ……そうスね」

 会話の最中、二人は脳裏に同じ映像を思い浮かべていた。強豪の専修館をノーヒットノーランに封じ込めた、佐野の圧倒的な投球を。

「やっぱり佐野が出てくる前に、先発の倉田から点を取って、あとは逃げ切るってのが定石でしょうか。ね、キャプテン」

 丸井はベンチ左隅に立っている、キャプテン谷口に声を掛けた。

「……きゃ、キャプテン?」

 なぜか谷口は返事をしない。よく見ると、その顔は引きつっている。丸井は「おいイガラシ」と、後列で立っている後輩を呼んだ。

「キャプテンどうし……えっ、イガラシ?」

 ところが谷口と同じく、イガラシも顔を引きつらせていた。

「イガラシ。おまえも気づいてたか」

 おもむろに谷口はベンチ内を向き、イガラシに声を掛ける。

「ええ……二人のタマを受けているキャッチャー。さっきから、ピクリともミットを動かしてませんね」

「うむ。佐野も倉田も、キャッチャーが構えたところに寸分たがわず投げ込んでる」

 二人の会話に、他のナイン達は「なんだって!」と驚いた声を発した。

 

 

4.イガラシの気遣い

 

 やがて規定の時間となり、東実ナインは一旦ベンチへと引っ込む。そしていよいよ、墨高のシートノックの番となった。

「ようし、始めるぞ!」

 キャプテン谷口の掛け声を皮切りに、他のナインも快活な声を上げる。

「へいへいっ」

「ノッカー、遠慮なくこい!」

 この時、さっきまでブルペンにいた倉橋と松川も、ポジションに着いていた。倉橋はいつものホームベース奥に、そして松川はマウンドに立つ。

 倉橋の傍ら。ノッカーの高橋が何かを逡巡するかのように、うつむき加減で立っていた。球出し役の鳥海が「おい、どうした」と声を掛ける。

「あ、うむ」

 高橋はうなずくと、まず「へい、サード」と声を上げ、三遊間へ速いゴロを放つ。谷口は「よしきた!」と、いつものように軽快な動きでボールを捌き、一塁へ送球した。

「ちょっと高橋」

 声を潜めて、鳥海が言った。

「もうちょい、とりやすい打球にしろよ。キャプテン足を痛めてんだぞ」

「む、おれもそう思ったんだが……」

 一年生二人の会話に、倉橋が「これでいいんだ」と口を挟む。

「倉橋さん」

 二人は同時に返事した。

「鳥海の気持ちも分かるが、ヘンにぬるい球を打つと、向こうに谷口が万全じゃないと気づかれちまう。だから高橋、いつもどおりで頼む」

「わ、分かりました」

 高橋は返事すると、鳥海からボールを受け取り、再びバットを構える。この間、倉橋は胸の内につぶやいた。

「まあ、やつらのことだ。谷口のケガのことなんざ、こっちが隠しても、とうにチェックしてるだろうが」

 先刻から降り始めた雨は、早くもその勢いが弱まり始めていた。やはり通り雨らしい。

「つぎ、ショート!」

 正捕手の隣で、高橋が叫ぶ。

「オウ!」

 返事したイガラシの正面で、叩き付けたボールが高く弾む。遊撃手は素早くダッシュし、難なくグラブに収めた。そのまま送球姿勢へと入る。

「あっ」

 思わず倉橋は、小さく声を発した。いつもなら一塁手の捕りやすい肩口付近へ送球するイガラシのボールが、ライト方向へ高く逸れたのだ。

「……おっと」

 しかしこの日初めて一塁手を務める岡村が、左腕を長く伸ばし辛うじてファーストミットに収める。

「な、ナイスキャッチよ岡村!」

 そう叫んだ倉橋だったが、内心ドキッとしていた。

「ま……まさか。イガラシまで、どこか痛めてるんじゃあるまいな」

 同様に思ったのは、倉橋だけじゃないらしい。谷口と丸井も顔を引きつらせ、ショートの方向へ視線を向けていた。しかし当の本人は「わりぃ岡村」と言ったきり、ポーカーフェイスのまま足元の土を均している。

 三人が憂う間にも、シートノックはテンポ良く進んでいった。

「へい、サード!」

 高橋に声を掛けられ、谷口はハッとしたように、腰を落としグラブを構え直す。

「さ……さあ、こいっ」

 バントを想定した緩いゴロが転がってきた。谷口は鋭くダッシュし、軽快なフィールディングから一塁へ矢のような送球を投じた。

「つぎ、ショート!」

 再びイガラシの番が回ってきた。

 高橋は二塁ベース左へ速い打球を放つ。しかし遊撃手は、まるで打球方向を予測していたかのように回り込むと、左手を少し伸ばしただけで難なく捕球する。そして送球の体勢へ。

「……えっ」

 今度は谷口が声を上げた。イガラシの送球が、今度は一塁ベース手前でショートバウンドした。しかしこれも、岡村が上手くバウンドを合わせ捕球する。

 倉橋はさっとサード方向へ駆け寄り、谷口に耳打ちした。

「どうしたんだイガラシのやつ」

「うーむ、分からんな」

 キャプテンは僅かに首を傾げる。

「きのうの試合後と、今朝の様子じゃ、とくに変わったところは見当たらなかったし」

「ああ。だが今日、あいつはリリーフの予定なんだぞ。もし肩や肘でも故障してたら……」

 その時「倉橋さん」と、高橋が声を掛けてきた。傍らで、アンパイアもこちらに腕時計を示し指で叩いている。どうやら間もなく規定の時間となるらしい。

「スマン。また後でな」

 急いでポジションに戻り、倉橋はホームベースを前に屈み込む。

「ラスト、キャッチャー!」

 カッと小気味よい音がした。高橋の放ったキャッチャーフライが、ちょうどホームベースとバックネットの中間地点に上がる。

「オーライ」

 倉橋は小走りに落下地点へ行き、難なく顔の前で捕球した。その瞬間、一塁側スタンドから歓声と拍手が沸き起こる。

「いいぞ墨高」

「きのうの勢いで、今日は東実を食っちまえ」

「期待してるぞ。初めての甲子園を!」

―― パチパチパチパチパチパチ……

 しかし倉橋は、応援に応えるどころではなかった。すぐさま「イガラシ!」と一年生遊撃手を呼びつけた。隣に、谷口も駆けてくる。

「はい?」

 イガラシは怪訝そうな顔で、それでも走り寄ってきた。

「なんでしょうか」

「おいイガラシ」

 まず谷口が尋ねる。

「さっきの送球はなんだ」

「えっ……ああ、アレですか」

 なぜか遊撃手は苦笑いした。

「笑いごとじゃねーよ」

 今度は倉橋が、睨む目で問い詰める。

「いつも正確な送球のおまえが、らしくもねえ。まさか……故障を隠してる、なんてこたあ」

「ちがいますよ」

 苦笑いを浮かべたまま、イガラシはきっぱりと答えた。

「あれは、岡村を試したんです」

「へっ?」

 思わぬ返答に、倉橋は目が点になる。

「だってほら、岡村は今日初めてファーストを守るでしょう。練習じゃ問題なかったと言っても、試合じゃどうなるか分からないじゃありませんか」

「なるほど、そういうことか」

 谷口は感心げにうなずいた。

「ええ。しかもこの天気じゃ、グラウンドが荒れて、打球や送球が予想外のはね方をしたりするのでね。今のうちに、やつがどれくらい動けるのか見ておきたかったんですよ」

「こ、このヤロウ。ただでさえ体調不良者が続出だってのに、まぎらわしいことしやがって」

 悪態をつきながらも、倉橋は安堵の表情になる。

「すみません。キャプテンか倉橋さんに、一言相談したかったんスけど」

 軽く頭を下げ、イガラシは話を続けた。

「ポジションに着いた時、初めて気づいたので。ヒマがなかったんですよ」

 そして「あっ」と、イガラシはバックネット方向を指差す。三人の視線の先で、四人の審判団が、金属製の扉を開けようとしている。

「あまりしゃべってる時間はなさそうですね。急ぎましょう」

 そう言って、一人だけさっさとベンチへ駆けていく。

「……まったく。あいつは、緊張ってものを知らないのか」

 倉橋はそう言って、苦笑いした。

「一年生が初めての決勝戦で、他人(ひと)を試す余裕があるとは」

「フフ。たのもしいじゃないか」

 谷口は愉快そうに笑い、そして倉橋の背中を叩く。

「さ、おれ達も並ぼうぜ」

「ああ。そうだったな」

 一塁側ベンチ前では、すでに列ができている。二人は急いでその中に加わった。

 

 

5.東実のキャッチャー・村野

 

 やがて審判団が、グラウンドに入ってきた。そしてアンパイアが右手を掲げ、高らかに掛け声を上げる。

「両チーム、集合!」

 アンパイアの掛け声と同時に、キャプテン谷口は仲間達に呼び掛けた。

「よし、いくぞ!」

「オウヨッ」

 快活な返事と同時に、墨高ナインは走り出す。

 ほぼ同時に、東実ナインも三塁側ベンチから駆け寄ってきた。ほどなく両チームとも素早く整列し、ホームベースを挟んで互いに向かい合う格好となる。

 この時ふと、谷口は佐野と目が合う。相手エースは「やあ」とでも言いたげに小さく左手を上げ、いつもの不敵な笑みを浮かべた。

「しかし、みょうなめぐり合わせだな」

 胸の内に、谷口はつぶやく。

「中学の時から何度も戦ってきた佐野と、この決勝でまた相まみえることになろうとは」

 アンパイアが、再び右手を掲げる。

「これより東実対墨谷の決勝戦を行う。試合は、墨谷先行にて開始する。一同、礼!」

「オネガイシマス!」

 挨拶が終わると同時に、東実ナインは素早く守備位置へと散っていく。一方、墨高ナインは先頭打者のイガラシを残し、一旦ベンチに引っ込んだ。

 神宮球場の上空。すぐやむかに思われた雨は、まだしぶとく降り続いている。

 ネクストバッターズサークル。マスコットバットで数回素振りするイガラシのヘルメットを、両腕を、ユニフォームを少しずつ湿らせていく。

「なんだか、やな感じだぜ」

 一旦マスコットバットを置き、先頭打者はひそかにつぶやいた。

「それでなくても、おれ達のことをよく知ってる相手と戦うのは、やりにくいつうに」

 イガラシ、そして墨高ナインの眼前では、東実先発の倉田が試合前の投球練習を行っていた。すべて速球。規定の七球とも、キャッチャーのミットを僅かにも動かすことなく、まるで吸い込まれるように収まった。

「バッターラップ!」

 アンパイアの呼ぶ声。イガラシはバットを手に、ゆっくりとバッターボックスへ向かう。

「早めに得点して、こっちが試合の主導権を握るためにも、まずおれが出塁しなきゃ」

 そう胸の内につぶやき、バッターボックスの白線を踏み越えた。そして足元を数回均し、バットを短めに構える。

「やあ久しぶり」

 ふいに声を掛けられ、イガラシは「れ」とずっこけそうになる。

「あら、忘れちゃったかい」

 声の主は、東実のキャッチャーだった。肩幅の広い、恵まれた大きな体格。それと不釣り合いな、妙に愛嬌のある容姿。

「そんなワケないでしょう」

 感情を消した口調で、イガラシは答えた。

「佐野さんもですが、二年生で東実のレギュラー捕手を奪うなんて、さすが青葉の元キャッチャーですね。村野さん」

「ハハ。おぼえていてくれて、うれしいよ。しかし高校でも変わらない活やくぶりだね」

「それはドウモ」

 わざと素っ気なく答える。そしてさらに付け加えた。

「んなことより……あまりしゃべると、試合開始が遅れますよ」

 イガラシに同調するかのように、アンパイアは村野に顔を向け、コホンと咳払いする。

「あ、どうもスミマセン」

 村野は一礼して、マスクを被りホームベース奥に屈み込んだ。フン、とイガラシは鼻を鳴らし、相手捕手の横顔を睨む。

「こっちの集中を削ごうってつもりなんだろうか、そんな手に乗るか」

 しばしの間。そして――アンパイアが、右手を高く掲げる。

「プレイボール!」

 掛け声と同時に、試合開始を告げるサイレンが鳴り響いた。

「さてと。どう攻めたものかな」

 マウンド上に視線を移し、イガラシは思案した。一方、相手投手は前屈みの姿勢で、キャッチャーのサインを確認する。

「コントロールのいいピッチャーだから、そう甘い球はこないだろうが。まずはじっくり見て、もしカウントが悪くなったら、ストライクを取りにきた球を……」

 その時である。

「な、なにっ」

 イガラシは思わず、小さく声を上げた。

 ふいに村野がマスクを脱いで足元に置き、立ち上がる。そして左バッターボックスの、さらに外側に立ち、顔のやや上でミットを構えた。

 球場内からざわめきが起こる。それを気にも留めない表情で、倉田は村野のミット目がけ、山なりのボールを放り始めた。

 さしものイガラシも唖然とする。

「い、いきなり敬遠だと……」

 

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