【目次】
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<外伝>
第52話 松川の気迫!の巻
<登場人物紹介>
中井:小説オリジナルキャラクター。1年生。2年前の地方予選及び甲子園大会にて、サードとして活躍した中井の弟である。細身な体躯のわりにパワーがあり、打順では五番を任されるほどの力量の持ち主。
中尾:小説オリジナルキャラクター。1年生。兄は2年前の地方予選及び甲子園大会にて、主戦投手として活躍した。兄譲りの恵まれた体躯が魅力。メインのポジションはファーストだが、本人の希望は投手。ただし、今年は佐野、倉田の二枚看板に阻まれ、公式戦では未だに登板を許されていない。
竹下:小説オリジナルキャラクター。3年生。長身ではあるが、比較的細身の体躯である。堅実な守備と駿足巧打が光る。
三嶋:小説オリジナルキャラクター。3年生。小柄ながら、堅実な守備と駿足巧打が光る。
1.マウンド上の逡巡
神宮球場は、未だ雨がしとしとと降り続けている。
一回裏、ワンアウト二塁。ツーベースヒットで出塁した三嶋が、二塁ベールより一歩、二歩と離塁していく。
そして左打席には、東実の主戦投手にして三番打者・佐野が、短めにバットを構える。
「こいつバッターとしても、五割近く打ってるんだったな」
墨高のキャッチャー倉橋は、ホームベース奥に屈み込んだ。そしてマスクを被り直しつつ、思案を巡らせる。
「だが……今までのデータがある分、前の二人よりは攻めやすいぞ。たしかコイツは、インコースが苦手だったな」
横目で佐野の顔を見やる。ポーカーフェイスというより、口元に笑みを湛えている。
「フン。相変わらず、余裕しゃくしゃくってツラしやがって」
倉橋は、手振りでサード谷口とファースト岡村へ、数歩前進するよう指示した。
「いちおう、セーフティバントも警戒しとかねーと」
その頭上に「フフ」と佐野の声が降ってくる。
「そんな控えめな前身守備でいいのかな」
なんとでも言え、と倉橋は胸の内で言い返す。そして「まずここよ」とマウンド上の松川へサインを出した。
松川は「む」とうなずき、セットポジションから第一球を投じる。
内角高めの真っすぐ、ストライクゾーンから僅かに外したボール球。投球と同時に、佐野はセーフティバントの構えをした。谷口と岡村が同時にダッシュ。松川もマウンドを駆け下りる。
しかし、佐野は当たる寸前でバットを引いた。ボールはそのままミットに収まる。
「くっ……こいつも、揺さぶってくる気か」
松川に返球する。すると佐野が、今度は始めからバントの構えをした。
「なんだ送ってくるのか。いや……こいつが、普通にバントするわけねえ」
倉橋は「ちと誘ってみるか」と、外角高めにミットを構える。
「つぎはここよ」
マウンド上の投手はうなずく。そして投球動作を始めると同時に、倉橋はさらにミットを外側へずらす。佐野はやはり、ヒッティングの構えに切り替えた。
パシッ。鋭いライナー性の打球が、ライト線を襲う。
「ら、ライト!」
谷口の声よりも先に、井口がポール際へ向かって走り出す。しかし打球は、急激にスライスして白線の外側のフェンスに当たる。ファール。
セカンドの丸井が「あぶねえ」と、顔を引きつらせて言った。
「フウ。一瞬、ヒヤッとしたぜ」
倉橋は胸の内につぶやき、苦笑いする。
「しかしボール球に手を出してくれて、助かった」
傍らで、佐野が「あーあ」とわざとらしい溜息をつく。
「得意コースだってんで、つい打っちまった」
そう言って、またもバントの構えをする。
「へっ。強がっちゃって」
倉橋はマスクを被り直し、ゆっくりと屈み込む。
「つぎはコレよ」
サインにうなずくと、松川はすぐに投球動作を始めた。ほぼ同時に、佐野はまたもヒッティングの構えに切り替える。
鋭いシュートが、打者の膝元を巻き込むように飛び込んできた。
佐野が一瞬、腰を引かせる。ボールはそのまま、倉橋の構える内角低めいっぱいに決まった。アンパイアが右こぶしを掲げ「ストライク、ツー!」とコールする。
「フフ、ストライクのシュートに腰が引けるとは。どうやら内角が苦手だというのは、ほんとらしいぞ」
口元に笑みを浮かべる倉橋の隣で、佐野が僅かに唇を歪める。それでも再びバントの構えをした。正捕手は「気にするな」と、手振りで内野陣に合図する。
「つぎもコレよ」
続けて同じサインを出す。松川はテンポよく、四球目を投じた。佐野はやはりヒッティングに切り替える。しかし今度はさらに低く、打者の膝下を抉るようにシュートが飛び込んできた。
「……くっ」
ガッ。鈍い音がして、打球はファースト岡村の正面に転がる。
「へいっ」
岡村が数歩前進して捕球した時、すでに松川がベースカバーに入っていた。
この間、二塁走者の三嶋はスタートを切りかけたが、岡村が目で牽制すると慌てて引き返す。それを見て、一塁手は素早く松川へ送球した。
「アウト!」
ランナー動けず、ツーアウト二塁へと変わる。
佐野は一塁ベースを駆け抜けていたが、ほどなく小走りに引き返してきた。打者の横顔に、セカンドの丸井が「へへっ、ざまみろい」とつぶやく。
だが次の瞬間、佐野はなぜか口元に笑みを浮かべたのだ。
「え……」
丸井はぎょっとして、思わずその背中を追う。
「なんなんだ。いまの、イヤな笑みは」
やがて次打者の四番村野が、右打席に入ってきた。すでに屈み込んでいた倉橋は、一旦谷口と目を見合わせ、「歩かせるぞ」と一塁方向を指差す。
谷口が首肯するのを確認してから、倉橋は立ち上がり、左打席のさらに外側へ移る。
「松川、敬遠だ」
マウンド上。松川はうなずき、山なりのボールを四球放る。
「ボール、フォア。テイクワンベース!」
村野は無言でバットを置き、一塁へと向かう。
「これで守りやすくなった。それに村野は、打率五割を超えてるからな」
その時だった。視界の端に、ファースト岡村の姿が映り込む。一塁ベース横で前傾姿勢を取りつつも、苦しげに顔を歪めている。
「あ、しまった」
倉橋は慌てて、アンパイアに「タイム!」と合図した。そして、内野陣へマウンドに集まるよう指示する。
「おれとしたことが……」
唇を噛み、自分も内野陣の輪に加わった。
五人の集まったマウンド上。岡村と松川、そして谷口の三人が、ハァハァと息を荒げ、肩を上下させている。
「す、スマン」
倉橋は頭を掻きつつ、三人に謝った。
「向こうのバント戦法で、おまえ達が散々走らされてるの、すっかり頭から抜けてたよ」
「な、なあに。これぐらい」
顎に手の甲を当てつつ、谷口が気丈に言った。
「そんな、気にしないでください」
岡村は恐縮したように応える。
「ぼ……ぼくも、平気ですよ」
強がるふうに言ったのは、松川だ。
「そんなことより、さっさとこの回……終わらせましょう」
言葉とは裏腹に、二年生投手は呼吸が整わない。
「いいから。三人とも、少し休んでろ」
正捕手はそう言って、他の二人に顔を向けた。
「丸井、イガラシ。ここまでの東実の攻撃、どう見る?」
イガラシが「そうですね」と、まず返答する。
「やつらまちがいなく、キャプテンと松川さんをつぶしにきてると思います」
えっ、と丸井が目を見開く。
「松川は分かるが。キャプテンもって、どういうことだ?」
「向こうのバッター、わざわざバントの構えをしてたでしょう」
「あ、ああ」
「バントの構えをされたら、ピッチャーとサード、ファーストはダッシュしなきゃいけないじゃないスか」
苦々しげに、イガラシは言った。
「岡村でさえ、こんなに疲れさせられてるんです。足をケガしてるキャプテンは、なおさら……」
「な、なにぃっ」
丸井はぎろっとした目を、相手ベンチへ向ける。
「手負いの松川をファールでつぶそうってだけでも、きたねえと思ってたが。キャプテンまでもとは。やつら名門校のくせに、卑怯な手を使いやがって!」
「お……落ちつけ丸井」
当の谷口が、まだ息を弾ませつつ後輩を諭す。
「東実はそれだけ、われわれを警戒してるってことだ。冷静にプレーしないと、それこそ向こうの思うつぼだぞ」
「そ、そりゃ分かってますが……」
まだ悔しげな丸井。その横から、岡村が「あ、あの」と口を挟む。
「ぼくとキャプテンが、あらかじめ前に守るのはどうでしょう。そしたら、せめてセーフティバントは防げますし」
バカいえ、と丸井は反論した。
「ファーストとサードがあまり前に出すぎたら、向こうがヒッティングに切りかえた時、少しまちがえば内野ゴロでも外野へ抜けてしまうぞ」
「分かってます。ですからその分、イガラシと丸井さんには、それぞれ三塁ベースと一塁ベース寄りに守ってもらうんです」
「だがそれだと、今度は二遊間がガラ空きになる」
二人の議論に、イガラシが「それなら」と割って入る。
「センターを二塁ベース近くで守らせればいいんですよ。つまり、内野手を五人にするんです」
「しかしなあ……」
なおも丸井は納得しない。
「もし外野に大飛球を打たれたら、ヘタすりゃランニングホームランになっちまう」
「ええ。その危険があることは、分かってますよ」
イガラシはあっさり認める。
「ですがキャプテンの足の負担を減らして、なおかつこの回の失点を防ぎたいのなら、そういう方法もあるってことです」
「うーむ……悪くない作戦とは、思うんだが」
渋い顔で、倉橋が言った。
「初回から、そういう奇策を使うのもなあ」
「しかし昨日の試合とは、一点の重みがちがいますよ」
イガラシが言葉を返す。
「向こうはかなり、ぼく達のことを研究してきてるようですし。何より主戦級の投手が二人もいるんです。このままむざむざと、やつらの策にはまってしまうわけには」
「それはそうだが……」
正捕手の一言に、しばし他の四人は黙り込む。
「……あのう」
おもむろに声を発したのは、松川だった。
「ここは、おれに任せてください」
他の四人は顔を上げ、二年生投手の眼(まなこ)を見つめる。
「相手にバントの構えをさせなければ、いいわけですよね」
倉橋が「あ、ああ……」とうなずく。
「だったらおれが全力投球して、バントやバスターではバットに当てられないと、向こうに思い知らせてやりますよ」
「おいおい松川」
丸井が苦笑いして、諭すように言った。
「自分がなにを言ってるのか、分かってんのか。相手は東実だぞ。そりゃおまえのタマに力があるのは認めるが、いくらなんでも当てさせないってのは」
「それでもやるんだ」
強い口調に、丸井は思わず口をつぐむ。
「もちろん必ずうまくいく保障はないさ。けど、このままムザムザと、向こうの策にはまるわけにはいかないだろう」
「で、でも松川さん」
憂うように尋ねたのは、イガラシだ。
「あまり初回からとばしちゃ、指先のマメが」
「なあに。心配するなって」
そう言って、松川はフフと微笑む。
「おれだって、ダテに長いことピッチャーをやっちゃいない。それに試合は今日限りなんだ。マメの一つや二つ、どうってことないさ」
「……な、なあ松川」
倉橋が目を丸くして、吐息混じりに言った。
「おまえこの頃、ほんと変わったよな」
「えっ、そうですか?」
いつもの朴訥な口調に戻り、松川は応える。
正捕手の傍らで、キャプテン谷口がクスッと笑う。そして二年生投手と目を見合わせ、今度は真剣な表情で口を開く。
「分かった。ここは、おまえに任せる」
丸井とイガラシが、同時に「キャプテン!」と声を上げた。それを制するように、谷口は話を続ける。
「しかし、また粘られるようなら、さっきイガラシ達が言ったシフトを敷く。おまえはマメの一つや二つと言ったが、それでコントロールを乱しておさえられるほど、東実は甘い相手じゃないからな」
「は、はい」
松川は、神妙な面持ちでうなずいた。
ほどなくタイムが解け、内野陣はそれぞれのポジションへと戻っていく。しかし谷口は、もう一度マウンドへと駆け寄り、再び松川に声を掛ける。
「おまえの心意気は、ピッチャーとしてりっぱだと思う」
ロージンバックを握ったまま、松川は背筋を伸ばした。
「しかし自分だけで何とかしようと、気負うんじゃないぞ。忘れるな。おまえの周りには、みんながいる」
微笑みを浮かべ、キャプテンはさらに付け加える。
「いいな。けっして、おまえひとりじゃないんだぞ」
松川は「はいっ」と、力強く応えた。
2.松川力投!!
「ツーアウトだ、しまっていこうよ!」
キャッチャー倉橋の掛け声に、墨高ナインは「オウッ」と快活に応える
「……さてと」
マスクを被り、ホームベース奥に屈み込んだ倉橋の傍ら。東実の五番打者・中井が、右打席に入ってきた。
「こいつか。東実で以前サードとして鳴らした、あの中井の弟ってやつは」
当人はポーカーフェイスのまま、足下の土をスパイクで均している。
「ぱっと見、細く見えたが……よく見ると全身筋肉で引きしまってやがる。こりゃアニキに匹敵する逸材かもしんねえな」
ほどなくアンパイアが「プレイ!」と、試合再開を告げる。それと同時に、中井はやはりバントの構えをした。
「フン。こいつも、バントで揺さぶろうってのか」
たしか低めが苦手だったな……と、倉橋はミットを内角低めに構えた。そして「まずコレよ」とサインを出す。マウンド上、松川はすぐにうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。
一球目、松川は内角低めへ速球を投じた。同時にファースト岡村、サード谷口がダッシュする。さらに松川もマウンドを駆け下りる。それを見て、中井は他の打者と同様、ヒッティングの構えに切り替える。
ズバァンと、ミットが迫力ある音を立てた。
「くっ……」
中井が唇を歪める。なるほど、と倉橋は胸の内につぶやいた。
「松川のタマが思ったより速かったんで、途中でヒッティングに切り替えたんじゃ、タイミングが合わなかったようだな」
それでも打者は、再びバットを寝かせる。
「フン。しょうこりもなく……」
二球目。倉橋は「つぎもコレよ」と、同じサインを出す。松川は要求通り、またも内角低めへ速球を投じた。
中井は、今度はタイミングを早めてヒッティングに切り替える。その分、三人はダッシュせずに済んだ。
バシッ。速いゴロが、三塁線を縫うように飛ぶ。しかし三塁ベース手前で左へ切れた。ファールボール。
倉橋はフウと吐息をつき、「さすがだな」とつぶやく。
「あの中井の弟なだけあって、鋭い振りをしやがる。だが今の構えの変え方じゃ、ただのヒッティングとそう変わりゃしないぜ」
その時、三塁側ベンチより「中井!」と檄が飛ぶ。声の主は、東実の監督だ。
「もっと構え方を工夫しろ。今のじゃバスターだと、相手に教えてるようなものだぞ」
「は、はいっ」
一年生打者は返事すると、今度は始めからバットを立てて構えた。
「ほう。つぎは、フツウに打ってくるのか。いや東実のことだ。そう見せかけて、セーフティバントをねらってくることも」
倉橋はそう判断し、マウンド上の投手へ「つぎはココよ」とサインを出す。
松川はうなずいたものの、すぐには投球せずロージンバックを拾い上げ、右手に馴染ませる。そして足下へ放ると、体をくるっと回転させ二塁へゆっくりと牽制球を送る。
「うまいぞ松川。そうやって、バッターをじらしてやれ」
正捕手は感心げに目を細めた。一方、右打席の中井は、苛立たしそうにガンガンと足下の土を踏み潰す。
やがて、松川はようやくセットポジションに着くと、すぐに投球動作を始めた。左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を強くしならせる。
先ほどよりも威力を増した速球が、今度は内角高めに飛び込んでくる。
中井は一旦バットを寝かせたが、またすぐに立て、強振した。だがバットを寝かせる動作の分、振り遅れる。バキッ、とバットの折れる音がした。
打球は、レフトへ力なく上がる。戸室が「オーライ!」と一声掛け、ほぼ定位置で捕球した。スリーアウト、チェンジ。
ああ……と、三塁側ベンチから溜息が漏れる。
「フウ。どうにか、最初のヤマを越えられたか」
倉橋は小声で独り言を言って、ベンチへと向かう仲間達の輪に加わる。
「ええと……今のはレフトフライ、と……」
一塁側ベンチでは、鈴木がスコアブックを付けるのに悪戦苦闘していた。
「こうかな」
「鈴木さん、そのしるしだとヒットの意味になりますよ」
隣に一年生の高橋が座り、書き方を教えている。
「あ……そうだったな」
後輩の指摘に、鈴木は慌てて消しゴムで消し、訂正する。その様子に、倉橋が「ほう」と感心げに目を細める。
「高橋。おまえもスコアブック書けたんだな」
「えっ、ええ。ぼくと鳥海がいた金成中では、データ収集に力を入れてましたから」
正捕手の傍らで、谷口が「そうだったな」と微笑む。
「いぜん金成中と対戦した時は、データ野球にだいぶ手を焼かされたもの」
ベンチ隅より、半田が「高橋君」と声を掛けた。
「後はぼくが教えるから。きみ、三塁コーチャーだろう?」
「あ、はい。じゃあお願いします」
なんでえ……と、倉橋が呆れ顔になる。
「さっき勇んで言ったのに、おめえ書き方知らなかったのかよ」
「も、もうだいじょうぶっス」
鈴木は頭を掻きつつ苦笑いした。
ほどなく、墨高ナインは鈴木と半田をベンチに残し、キャプテン谷口を中心にダッグアウト手前で円陣を組む。
「松川、倉橋。苦しい立ち上がりだったが、よくしのいでくれたな」
キャプテンは開口一番、バッテリーを労う。そしてもう一人にも声を掛けた。
「岡村も初めてのファーストで、向こうの揺さぶりに動じることなく、無難にこなしてくれたな。これからも、今の調子でたのむぞ」
「あ、はい……それより」
岡村は恐縮した表情で応える。
「キャプテンの方こそ、足を痛めてるのに」
谷口は穏やかな目でかぶりを振り、心配する後輩を制する。そして視線を全員へ向けた。
「さあ、つぎは攻撃に移ったんだぞ。みんなアタマを切り替えろよ」
一転して険しい眼差しになる。
「東実バッテリーの配球からして、向こうはわれわれ一人一人の特徴……特に苦手とするコース、球種を調べつくしている可能性が高い。今までこっちが格上のチーム相手にやっていたことを、あの東実がそっくりやり返してきたんだ。これは厳しい戦いになるぞ」
しかし……と、キャプテンはやや声のトーンを落とす。
「あの谷原がそうだったように、相手が弱点を突いてきたからといって、必ずしもこっちがダメージを受けるとは限らない。むしろ向こうの意図が明らかな分、かえってねらいダマが絞りやすくなる。いいか」
さらに声を潜めて、谷口は言った。
「みんなそれぞれ、自分の得意コースと苦手コースは分かるだろう。そのどちらかにねらいを絞って、思いきり振っていくんだ。こっちが動じなければ、ぎゃくに向こうが焦ってくる。まず自信を持っていこう。われわれは、あの谷原を倒した墨高なんだ!」
キャプテンの言葉に、墨高ナインは「オウッ」と快活に応える。
3.東実の挑発
二回表、墨高の攻撃。先頭打者は、この日五番に入った井口からである。
井口はバットを手に、左打席の白線の手前で立ち止まった。眼前のマウンドでは、倉田がロージンバックに左手を馴染ませている。
「へへっ、しばらくだな」
マウンド上へ、井口は左手を掲げ合図する。しかし倉田は、こちらをチラッと一瞥はしたが、すぐに視線を逸らす。
「なんでえ。あのヤロウ、無視しやがって」
さすがに、井口はムッとした顔になる。
「おお。そういや二人は、顔見知りだったか」
その背後から、東実の正捕手村野が話しかけてきた。
「なんでも昨年の地方大会では、倉田達が手も足も出なかったようだな。さすが井口君だ。てっきりきみらの江田川が、そのまま全国大会へ駒を進めると思ったのによ」
慇懃無礼な物言いに、ますます井口は苛立つ。
「フン、嫌味だけはお上手なことで」
胸の内につぶやき、ゆっくりと左打席に入る。そしてスパイクで足下を均す。
「今回も返り討ちにして、その減らず口をふさいでやるぜ」
やがてアンパイアが、右手を掲げ「プレイ!」とコールした。
「さあ、きやがれ!」
バットを構え、井口は倉田を睨む。
マウンド上。倉田はロージンバックを放り、ワインドアップモーションから投球動作へと移る。その初球。
「おっと」
倉田の指先から投じられたボールは、井口の背中を通り抜け、そのままバックネットに当たる。ガシャンと音がした。
「なんだ、すっぽ抜けか? いや……それにしちゃ、威力あったな」
キャッチャー村野と、マウンド上の倉田を交互に見やる。
「ま、まさかこいつら。わざと」
井口の疑念をよそに、倉田はアンパイアから替えのボールを受け取ると、すぐさま二球目の投球動作を始めた。
「……わっ」
今度は顔付近に、速球が投じられる。井口は咄嗟に身を屈めた。バシッと、村野のミットが鳴る。
「た、タイム」
アンパイアに合図し、井口は一旦打席を外した。
「野郎、きたねえマネしやがって!」
バットを地面に叩き付け、怒鳴る。
「こちとら同じピッチャーなんだ。すっぽ抜けかどうかぐらい、見分けがつかないとでも思ってんのか!!」
「き、きみ。落ち着きなさい」
慌ててアンパイアが制止した。その傍らで、キャッチャー村野が「あーあ」とわざとらしい溜息をつく。
「あれぐらいでカッカきちゃって。図体はデカイが、まだまだ青いねえ」
挑発的な物言いに、井口は「なにいっ」と青筋を立てる。
「こ、これっ」
アンパイアは村野にも注意を与える。
「きみも口をつつしみたまえ」
「あ、どうも。すみません」
相手捕手は素直に頭を下げる。一方、井口はまだ収まらない。
「けっ。どうせマトモじゃ打たれるもんで、人を挑発してんだろ」
続く三球目、今度は井口の肘付近に投じられる。
「てめえ、しょうこりもなく……」
「ストライク!」
「……へっ、なんで?」
アンパイアの判定に、井口は目を丸くする。
「ハハ。今のはカーブだよ」
村野がまたも挑発するように言った。
「どうした井口。青葉を破った江田川の元エースが、ストライクとボールの区別もつかねえのかよ」
何も言い返せず、井口はぐっと左こぶしを握り込む。
一塁側ベンチ。墨高ナインは、一様にハラハラした面持ちで、井口の打席を見守る。
「あいつ、なにカッカしてんだ」
丸井が呆れ顔で言った。
「相手がコントロールを乱してるなら、むしろつけ込むチャンスじゃねえか」
「いや……あれは、意図的ですよ」
隣でイガラシが、異を唱える。
「なに、意図的だと?」
「ええ。すっぽ抜けにしちゃ、二球とも威力があったでしょう」
「ま、まさか。やつら井口を怒らせるために」
「でしょうね。あの倉田は、昨年の地方大会で井口達の江田川にやられてますから」
マズイな……と、イガラシは唇を噛む。
「井口のやつ。向こうの挑発に乗って、アタマに血がのぼってやがる」
ふと隣で、丸井が席を立つ。
「おい井口! 向こうの安っぽい挑発にのるんじゃねえぞ! 東実も東実だ。おめえら名門校のくせに、しみったれた野球すんじゃねえ!」
イガラシは苦笑いして、「ちょっと丸井さん」と先輩をどうにかなだめる。
「ダメですよ、そういう野次は」
その時ベンチ隅にて、スコアブックを付けていた鈴木が鉛筆を置き、おもむろに叫ぶ。
「ば、バカヤロー!」
妙な声のトーンに、丸井とイガラシは「あらっ」と同時にずっこけた。
四球目。倉田の投球が、今度は井口の足下でショートバウントした。それが足首の辺りを掠める。
アンパイアが、自分の足首を数回叩く仕草をした。そして一塁ベースを指差す。
「デッドボール! テイクワンベース」
井口は後方にバットを放り、マウンド上の倉田を睨む。
「フン。けっきょく、マトモに勝負できねえでやんの」
そう言い捨て、一塁へと歩き出す。
井口が一塁ベースを踏むと同時に、次打者の六番岡村が右打席へと入ってきた。そして二人は、ベンチの谷口のサインを確認する。
「む、やはり送りバントか」
倉田がセットポジションに着くと、岡村は早くもバントの構えをした。
「……イテッ」
ベースから離塁しつつ、井口はそっと右足首をさする。
「きのう足をつってから、まだ痛みが消えねえな。早くスタートを切らねえと、二塁でフォースアウトになっちまう」
その瞬間――マウンド上の倉田が斜めに右足を踏み込んだかと思うと、素早く一塁に牽制球を投じてきた。
「えっ……」
バシッ、とファースト中尾のミットが鳴った。井口は帰塁すらできず、その場に突っ立ったまま、成す術なく脇腹をタッチされる。
「アウトォ!」
一塁塁審が、右こぶしを高く突き上げた。呆然とする井口。
「おいおい。まさか、この程度のけん制に引っかかるとはな」
一年生ながら大柄な体躯の中尾が、井口を嘲笑う。
「倉田のけん制が早いの、初回の攻撃で見てなかったのかよ。おまえ見かけのわりに、ボンヤリちゃんだな」
「き、きさまら。どこまで人のことを……」
井口が怒りに我を忘れ、中尾に飛び掛かろうとした、その時である。
「やめろ井口!」
「ぐっ……」
不意に背後から羽交い絞めにされる。振り向くと、イガラシがそこにいた。
「イテテ。なにしやがんだ」
「いいから、こっちに来い!」
そのまま引きずられるように、井口は一塁側ベンチ奥へと連れ込まれる。
「い、痛いって。分かってから手をはなしてくれ」
イガラシはようやく手を離したが、代わりに井口の尻を蹴り上げる。
「テッ……」
「さっさと目がさませ、このバカ野郎め!!」
いつになく険しい目で、イガラシは怒鳴りつけた。
「なんだよ。挑発してきたのは、向こうなんだぞ」
「その挑発にまんまと乗せられたのは、きさまじゃねえか。なんだあのザマは」
うぐっ、と井口は口をつぐむ。
「井口。少し冷静になって、考えてみろ」
声のトーンを落とし、イガラシは話を続けた。
「あのまま相手に殴りかかって、退場にでもなったとしたら、どうなってたと思う。ただでさえ、こっちはレギュラーを欠いた苦しい布陣なんだぞ」
「そ、それは分かってるけどよ」
「分かってるなら、黙って聞け!」
幼馴染の言い訳を遮るように、また強い口調で言った。
「なんで向こうが、おまえを挑発してきたか、分かってるか」
「えっ。そ、それは」
「やつらはそれだけ、おまえのことを警戒してるんだよ」
「……な、なんだって」
井口の表情が、やっと和らぐ。
「そうだったのか」
「当然だろう。とくにいま投げてる倉田にとっちゃ、昨年完敗した仇敵(きゅうてき)なんだ。おまえに本来の力を出されちゃマズイと、やつは痛いほど分かってるのさ」
それによ……と、ふいにイガラシは囁き声になる。
「この分じゃ、おれは今日の試合、マトモに勝負してもらえない。丸井さんがチャンスを広げてくれたとしても、やつらはうちの三四番、倉橋さんと谷口さんを抑えるすべを知ってる。とくに谷口さんは、きのうのケガで本来のバッティングができない」
「あ、ああ……」
「だからな井口。今日の打線の要(かなめ)は、おまえなんだ。おまえが東実の投手陣を打たねえと、うちに勝ち目はねえ」
幼馴染の説得に、井口は「分かったよ」と返事する。
「見てろイガラシ。つぎの打席では、やつのタマをスタンドにたたきこんでやる」
「そうだ、その意気だ!」
イガラシはそう言って、微笑んだ。
「ところでイガラシ」
ふと井口が、可笑しそうな顔になる。
「なんだよ?」
「おまえ……いつの間にか、背え伸びたな」
あっ、とイガラシはずっこけた。
4.ギリギリの勝負
ベンチ前列。後輩二人のやり取りを眺めつつ、谷口はホウと安堵の吐息をつく。
「よかった。イガラシが井口を、うまくなだめてくれたようだ」
「ハハ、さすが幼馴染」
傍らで、倉橋が朗らかに笑う。
「しかし助かったよ。こちとら、やつをなだめる余裕はなかったしな」
倉橋の隣で、松川がタオルを頭に掛けたまま、肩を上下させている。ハァハァ……と、苦しげな吐息も聞こえる
「おい松川、平気かよ」
「あ……はい。なんとか」
斜めに顔を上げ、松川は短く答えた。しかしすぐにうつむき、また息を荒げる。
「まあ、ムリもないさ」
谷口が、溜息混じりに言った。
「初回だけで、七十球近く投げさせられたるものな」
む、と倉橋はうなずく。
「最後は全力投球して、どうにか切り抜けてくれたが。いつまで保つか」
ガッ。グラウンド上で、鈍い音がした。サード中井が一塁側スタンドの前まで追いかけるも、ボールはフェンスに当たる。ファールボール。
マウンド上では、倉田がロージンバックを左手に馴染ませている。その姿に、谷口はつい顔を歪めてしまう。
「なんて正確なコントロールなんだ。球威や変化球のキレもさることながら、あのコントロールが加われば、どうやって攻りゃくすればいいのか」
カキ、とまたも鈍い打球音。ショート三嶋の正面に、今度は凡ゴロが転がる。
「ああ……」
ベンチのナイン達から、溜息が漏れた。
三嶋はゴロを難なくグラブに収めると、流れるようなフィールディングで一塁送球。まるで矢のようなスピードと正確さである。ファースト中尾のミットが鳴る。
ワンアウト。次打者の戸室が、バットを短く握り、険しい顔で前方を凝視する。その視線の先では、マウンド上の倉田が涼しげな表情で、キャッチャー村野とサインを交換する。
カウントは、すでにツーストライク・ノーボール。倉田はほどなく、ワインドアップモーションから三球目を投じた。
ボールは大きな弧を描き、戸室の膝元、インコース低めいっぱいに決まる。
「ストライク、バッターアウト。チェンジ!」
アンパイアのコール。バットを振ることさえできなかった戸室は、うなだれた。そして苦い顔でベンチに帰ってくると、ダッグアウト端のケースにバットを戻し、「くそっ」と唇を歪める。
「てっきり、おれの苦手なアウトコースにくると踏んでたのに。すっかりウラをかかれちまった」
ベンチ後列にて、キャプテン谷口は「なるほど」と胸の内につぶやく。
「われわれの苦手コースを調べ上げるだけじゃなく、バッターの力量に応じて投球の組み立てを変えてるようだな。これじゃ、ますます的を絞るのがむずかしくなる……」
「し、しっかし……」
横井が苦い顔で言った。
「も、もうチェンジかよ」
その言葉が、ナイン達の思いを代弁しているようだった。皆どこか重い足取りでそれぞれのポジションへと散っていく。
「こら、下を向くんじゃない!」
キャプテン谷口が、グラブを左手に嵌めつつ、声を張り上げる。
「たった二イニング終わっただけじゃないか。元より、カンタンに打てる相手じゃないと分かってたろう。打席ごとに一喜一憂せずできることを確実にやっていくんだ。いいな!」
ナイン達は「は、はいっ」と、返事だけは快活な声を発した。そして各々のポジションへと向かう。
自分以外のレギュラー陣の背中を見送りながら、谷口はフフと、自嘲的な笑いを漏らした。
「おれも人のことを言えた義理じゃないがな」
そう独り言をつぶやく。
「初回のチャンスにおれが打っていれば、今ごろ流れはちがっていたはずだが……」
二回裏。左打席では、東実の六番打者・中尾がバントの構えをしている。
「けっ、しょうこりもなく。また揺さぶってくる気か」
それにしても……と、倉橋はひそかに含み笑いを漏らす。
「さっきの中井といい、この中尾といい、兄弟そろって同じ学校とは。よほど東実がお気に入りなんだな」
アンパイアの「プレイ!」のコールを聞くと、倉橋はファースト岡村とサード谷口へ、二、三メートルほど前進するようジェスチャーで伝える。
「あーあ。これじゃ、転がしただけで一塁セーフだぜ」
中尾が挑発的に言った。倉橋はわざと「そうだな」とうなずく。
「オタクがそれなりに走れりゃな」
大柄な体躯の中尾は、明らかにムッとした顔をした。ヘン、と倉橋は鼻を鳴らす。
「このガキ。言われっぱなしですむと思うなよ」
初球。倉橋は、インコースの真っすぐを要求した。ワインドアップモーションから投じられた松川のボールは、サイン通りのコースに飛び込んでくる。
やはり中尾は、松川が投じると同時にヒッティングの構えに切り替えた。しかし間に合わず、空振りしてしまう。
「く……思ったより、手元で伸びてやがんな」
中尾はそう胸の内につぶやくと、バットを短く握り直し、縦にして構える。
「フフ、ようし」
傍らで、倉橋はひそかにほくそ笑んだ。
「これでサードとファーストの負担だけは、減らせるってわけだ」
二球目。松川は、またもインコースに速球を投じた。中尾のバットが回る。今度はパシッと鋭い音がした。
捉えたかに思われた打球だったが、レフトポールの数メートル手前で失速し、そのまま内野スタンドへと落ちていく。ファール。
「ちぇっ、まだボールの下かよ」
中尾は一旦打席を外し、数回軽く素振りした。大柄な体躯らしく、軽いスイングでもビュッ、ビュッと風を切る音がする。
「うーむ……」
一年生打者の姿に、倉橋は渋い顔になる。
「バントを諦めさせたのはいいが。かえって、これで当てやすくなっちまったかもな」
倉橋の懸念は当たった。松川はその後、速球、カーブ、シュートをそれぞれコースを変えながら三球ずつ投じたが、中尾に際どいボールは見逃され、ストライクに入ってきたタマはカットされてしまう。カウントはツー・スリーとなった。
「くそう、つぎが十一球目か」
しゃあねえ……と、倉橋はミットを外角低めに構える。
「コレを見逃されちゃ、向こうが上だと認めるしかねえな」
松川はサインにうなずき、投球動作を始めた。小さく曲がる速いカーブが、中尾の膝付近からさらに沈む。打者のバットが空を切る。
「よし!」
マウンド上で、松川が小さく右こぶしを突き上げる。
倉橋はショートバウンドした変化球を、ミットに収めていた。すぐさま拾い直し、中尾の腰にタッチする。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアのコール。三振を喫した中尾は、しかしほとんど表情を変えることなく、ベンチへと引き上げていく。その背中に、倉橋はフウと溜息をついた。
「また粘られちまった。松川のやつ、いまは気迫でどうにかしてるが……いつまで保つか」
ライトのポジションにて、佐野は一人含み笑いを漏らす。
「倉田、村野……ほかの連中も。わりぃなぁ」
ひそかに独り言をつぶやく。
「いやな役割をさせちまってよ。しかし連中の気を削がないことには、うちに勝ち目はないからな。力押しでいけば、きのうの谷原の二の舞だ」
その時、ポトポトと冷たいものが、佐野の顔を濡らす。
「雨がまた強くなってきやがったな……」
佐野は再び前傾姿勢となり、ホームベース付近の光景を見つめた。
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