南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

<雑記帳>敬愛する夏井いつき組長の”あの言葉”に、ほんの少しだけ逆らうことをお許し下さい……

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<はじめに>

 人気テレビ番組『プレバト!!』にて、今やすっかりお茶の間の人気者となった“辛口先生”こと夏井いつき先生。彼女は、結社も流派もない「俳句集団いつき組」の「組長」でもあることから、全国のいつき組組員より、敬愛の念を込めて“組長”と呼ばれている。

 

 恥ずかしながら、私も「いつき組」の組員を名乗らせてもらっている。夏井いつき組長が選者を務める「俳句ポスト」や「俳句生活~よ句もわる句も~」への投句を早三年近く続けてきたし、今は人と会う機会があれば、なるべく自分が俳句をやっているということを伝えるようにしているので、十分その資格はある(と思っているのですが、よろしいでしょうか(笑))。

 

 とはいえ正直に言えば、まだまだ私にとって彼女は“テレビの中の人”という印象が強いし、夏井いつき組長よりも、夏井いつき“先生”と呼ぶ方が、今なおしっくりくる。

 何せ、距離が遠すぎる(苦笑)。ここ沖縄は、気軽に「句会ライブ」へ参加できるような地理的環境にない。おまけに、私自身が組長に名前を憶えてもらえるほど、俳句の実力がない(泣)。堂々と夏井いつき「組長」と呼べるいつき組の方々を、指をくわえて眺めているというのが現状である(笑)。

 

1.夏井いつき組長の功績

 冗談はさておき(笑)、夏井組長がこれまで取り組んでこられた事項というのは、まさに敬服せざるを得ない。結社内の風通しの悪い人間関係等、俳句界における現状に「このままでは俳句が根腐れしていく」との危機感を抱いた組長は、一般の人々が俳句に親しめるよう、句会ライブの取り組みや「俳句甲子園」の企画等、様々な活動を行ってこられた。

 

 組長の言葉を借りれば、“俳句の種蒔き”ということになるのであろう。

 そもそもよく考えれみれば、“俳句”とは平安貴族ら一部の人達のものだった“歌”を、一般庶民も親しめるように改良したものである。

 言うなれば、俳句を“一般庶民の手に取り戻してくれた”――これこそが夏井組長の、俳句界における何よりの功績ではないかと私は思う。

 

 さて、夏井組長は「俳句をアクセサリか何かのように」「(俳句そのものを楽しむのではなく)人に認めてもらうために使っている」人達がいると述べた上で、そういう人達は“俳句から見捨てられる”と述べておられる。

 

 私もまったく賛成である。俳句は本来、「自分が楽しいと思うから」やるものであり、自分の作った句が入選したり、誰かに褒められたりというのは、あくまでも“ついで”だ。

――以上のことを分かった上で。敬愛する夏井いつき組長へ。

 組長のおっしゃる「俳句を何かの道具として使ってはいけない」という言葉に、ほんの少しだけ逆らうことをお許し下さい。

 

2.俳句を「彫刻刀として」使う

 良くも悪くも、私は「俳句が上手い」と自分で思ったことはない。句作を始めて約3年、さすがにヘタッピだとは思わないが、ようやく他人の前で「俳句をやっています」と堂々と言えるレベルになったくらいだろうか。

 

 俳句を作るのは楽しい。ついでに言えば、そりゃ私だって、入選すれば嬉しい(笑)。昨年二月、俳句ポスト兼題「春の夕焼け」にて、初めて“地選”に入り、組長のご好評をいただいた時には、一生の自慢になると思ったほどだ(こうやって簡単に満足してしまうのが、私の悪いクセである(苦笑))。

 

 しかし、そういう個人的な感情とは別にして、「この句で入選したい」と強く願うことはある。そう、私も俳句を道具として使う時がある。もっともアクセサリとしてではなく、“彫刻刀”のような道具として。

 

 すなわち――沖縄を始め、社会問題の句を詠む時である。

 

 世の中には、様々な問題が溢れている。特にこの沖縄は、その歴史的背景や米軍基地問題を始めとして、未だに解決できない多くの事案が残されている。だが、それに関する思いを単に散文で表現してしまうと、私の拙い文章力では、どうしてもイデオロギー色が濃く出てしまいがちである。

 

 例えば、米軍基地は“絶対に”反対。例えば、沖縄は“絶対に”本土の犠牲になっている。……このように主張することが必ずしも悪いとは言えないが、“絶対に”という言葉を使うと、それがイデオロギーとなり、どうしても他者との対決姿勢を押し出してしまう。

 

 だから私は、ある意味で“俳句を道具として”使わせてもらっている。「ナイチャー(本土の人間)はウチナーンチュ(沖縄の人間)の気持ちを分かっていない」と大上段に言うのではなく、ほんの少しでいいから“共感”してもらうために。

 

 元来俳句とは、自分の思いを吐き出して“自己完結”するものではない。その句を他者が読み、そこに何らかの思いを見出してもらって、初めて完結するものだ。

 

 そう。社会問題を抉り、イデオロギーを削り取る道具として、時々は俳句を使うことを、どうかお許しいただければと思う。

 

<終わりに>

 入選しなければ、その句が人目に触れることはない。だから、自分がどうしても伝えたいことがある時は、“あえて”入選を目指したい。入選するためには、やはり一俳人としての技量をそれなりに高めなければならない。そういう思いを抱いて、私は俳句に取り組んできた。

 

 夏井組長は言うまでもないが、「いつき組」の人達も凄い。私が純粋に俳句が上手くなりたい以外の“特別な思い”を持って句作に取り組んでいることを、すでに何人かの方が見抜いておられる。残念ながら、私はまだまだ技術的に未熟で、自分の思いを形にすることがなかなかできずにいるが(苦笑)。

 

 昨年の一年間。私は、地獄のような思いを味わった。しかしその時、組長のおっしゃったように――俳句は確かに“人生の杖”となってくれた。

 今度は、私の元々の思いで俳句を詠みたい。社会の様々な問題を削り取り、イデオロギーを消し去る“彫刻刀”として。

 

 夏井いつき組長、並びに「いつき組」の方々なら、きっと分かってくれると信じている。