南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

【野球小説】続・プレイボール<第54話「東実の奇襲戦法(きしゅうせんぽう)!の巻」>――ちばあきお『プレイボール』続編(※リライト版)

 

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【目次】

  

 

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 第54話 東実の奇襲戦法(きしゅうせんぽう)!の巻

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1.東実の足攻

 

 三回裏、ノーアウト一塁。

ライト前ヒットで出塁した東実の五番打者中井は、じりじりと離塁していく。一方、マウンド上の墨高先発・松川は、セットポジションに着く。

「あの中井ってやつ。たしかここまで、盗塁も七個決めてるんだったな」

 ホームベース手前で、キャッチャー倉橋が苦々しげにつぶやく。

「とくにきのうの専修館戦では、点の欲しい場面で二度も成功させてる。けん制の練習は、これまで松川と散々やってきたが……」

 やがて、アンパイアが「プレイ!」と合図した。

 松川はしばしグラブの中でボールを握り、ホームへ投球すると見せかけ、一瞬身を翻し牽制球を投じた。中井は逆を突かれかけたが、それでも余裕を持って左手から帰塁する。

「まずいな」

 中井の動作に、倉橋は顔を歪める。

「あれだけ素早くけん制したつうに。あの中井ってヤロウ、まるであわててねえ」

 傍らの右打席では、六番打者の中尾がバットを寝かせている。

「フン。長打のある中尾だが、まず一点が欲しいのか。いや……東実のやつらが、ここで送りバントなんて素直なテを使ってくるわきゃねえ」

 まずはココよ、と倉橋はサインを出す。松川はうなずき、中尾へ第一球を投じた。

 インコースの速球。その瞬間、一塁走者の中井がスタートを切る。そして中尾は、三塁線とマウンドの中間地点へ緩い打球を転がす。

「くっ……バントエンドランか」

 しかし、サード谷口の反応が速かった。中井が二塁ベースを蹴るのと同時に、谷口は捕球して三塁方向を振り向く。

「へいっ」

 すでにベースカバーに入っていたイガラシが声を上げる。素早い連係プレーに、中井は慌てて二塁ベースへ身を反転させた。

 だが、倉橋はそれどころではなかった。

「……た、谷口ぃ!」

 一旦イガラシへ送球し、立ち上がったキャプテンの所へ、正捕手は駆け寄る。

「お、おまえ。足は?」

「な、なあに……」

 一瞬表情を歪めながらも、谷口は笑みを浮かべ答えた。

「平気さこれぐらい」

 倉橋は、小さく溜息をつく。

「まったく……バッティングで十分踏み込めないほど痛いくせに、ムチャしやがって」

 キャプテン谷口、必死の守備。それでも内野安打となり、ノーアウト一・二塁とピンチが広がる。

 思わず、倉橋は一塁走者の中尾を睨んだ。

「インハイの真っすぐ。一番バントしにくい球種とコースを選んだってのに、あっさり絶妙のコースに転がしやがって。あれで一年生とは」

 あえてタイムは取らず、倉橋はホームベース奥に屈み込む。

「両チーム無得点で無死一・二塁。どうせ、やることなんて決まってら」

 その時だった。

「た、ターイム!」

 一塁側ベンチより、ふいに横井が飛び出してきた。そしてマウンドに駆けてくる。

「おい。みんな、ちょっと集まれ」

 内野陣に声を掛けながらも、倉橋は「なんだっつうんだ」と訝しく思う。

 やがてマウンドに、外野手以外の六人と横井が集まった。倉橋だけでなく、誰もが戸惑いの表情を浮かべている。

「横井。急にどしたい」

 倉橋が尋ねると、横井は「どしたい、じゃねーよ」と苦笑いする。

「えっ?」

「さっきから投球テンポが早くなってるの、気づいてなかったのか。松川がこんなに疲れさせられてるつうのによ」

 正捕手はぎくっとして、真向かいの相棒を見やった。松川は、また肩を上下させている。

「す、すまん松川」

「いえ……こ、これぐらい」

 松川は平静を装おうとしたが、明らかに息切れしている。

「たしかに、ぼくらちょっとウカツでしたね」

 渋い顔で割って入ったのは、イガラシだ。

「松川さんの状態もありますけど、東実は足を使ってスピードよく攻撃を仕かけようとしてます。ぼくら早くアウトが欲しくて、つい向こうのテンポに合わせちゃってました」

「……悪かった、みんな」

 そしてキャプテン谷口が、どこか重い口調で言った。

「キャプテンのおれが、気づいて指示すべきだったんだ。それを……」

「なに言ってんだよ谷口」

 横井が朗らかな表情で言葉を返す。

「こういうのは、みんなでお互いにカバーし合うものだろ。おまえ一人で背負うことじゃねえ。たたでさえ、おまえは足のケガを押して強行出場してるからな」

「倉橋さんにも、同じことが言えますよ」

 少しおどけた口調で、今度は丸井が割って入る。

「は?」

「初回のチャンスで打てなかったこと、どこかで引きずってませんか? あれから、どうもいつもと比べて表情がさえないスよ」

「ばっ……そんなこと」

 ムキになって否定する倉橋をよそに、丸井はふと全員の顔を見渡す。

「ねえみなさん」

 いたずらっぽい笑みを浮かべて言った。

「どこかで聞いたんですが……こういう時は、みんなで空を見上げて、タイミングを合わせて深呼吸するといいらしいスよ」

 フフ、と傍らでイガラシが笑う。

「な、なんだよイガラシ」

「いえ。ただ丸井さん、こーいうことはよく知ってるなと思って」

「むっ……なんだその、こーいうこと『は』つうのは」

「やだなあ。べつに深い意味はありませんよ。」

「テメーが言うと、なんだか気になっちまうんだよ!」

 お馴染みの二人のやり取りに、周囲はプククと吹き出した。

「こら二人とも。もうそのへんにしとけ」

 倉橋が二人をたしなめる。

「それより丸井。空を見上げて、みんなでそろって深呼吸……だったな?」

「ええ。なるべく息を深く吸い込んで」

「ま、ちとムードも変わるかもしれんし。やってみるか」

 正捕手の言葉に、全員が曇天を仰いだ。そして顔に落ちてくる雨を時折手で拭う。

「おれが合図しよう」

 谷口がそう言って、「せーの」と声を掛けた。そのタイミングで、全員が息を深く吸い込み、そして吐き出す。スーハー、スーハーという呼吸の音が、心地よく響く。

 

 

 ほどなくタイムが解け、全員がポジションへ散っていく。

 キャプテン谷口も左足を庇いながら、なるべく早歩きで、サードへと戻る。その時ふと、背後から「おい谷口」と肩を叩かれる。

 振り向くと、横井が微笑みを浮かべ立っていた。谷口は驚いて尋ねる。

「どうしたんだ?」

「谷口。さっきも言ったが、あんまし一人で背負い込むんじゃねえぞ」

「分かってるって。それより……」

 ふいに横井が、真顔になる。

「聞けよ谷口」

「あ、うむ」

「自分が打てないと、このチームは負けると考えてんなら、それは思い上がりだかんな」

「横井……」

 フフ、と同級生はまた微笑む。

「今までだって、おまえ一人で打って、守って勝ってきたわけじゃない。おまえも含め、おれ達全員で力を合わせて勝ち進んできたのが、おれ達の野球じゃないか」

「そのとおりだな。横井、この試合もたのむぞ」

「ああ、どんどんたよりにしちゃってちょうだい」

 おどける横井。谷口は、苦笑いをこらえつつ言った。

「だから……早いとこ、腹痛は治してくれよ」

 キャプテンの突っ込みに、横井は「あっ」とずっこける。

 

2.曲芸スクイズ

 

 三塁側ベンチ。佐野はフンと鼻を鳴らした。

「なんだか盛り上がってるようだが、けっきょくピンチが広がったことに変わりねえぞ」

 眼前では八番打者の鶴川が、ダッグアウト隅のバットケースから、自分のものを一本抜き取る。その背中に、東実監督が「おい鶴川」と声を掛けた。

「はい、なにか?」

 飄々とした声が返ってくる。

「この回大事なのは、まず一点を取ることだ。こういう局面のために、おまえを抜てきした。分かってるな?」

 ええ、とメガネの二年生打者は返事した。

「墨谷もかなりきたえてきてるようですが、こっちはそれを上回る練習を積んできているつもりなので。うまくやって見せますよ」

 気が優しげな外見とは裏腹に、鶴川は豪胆に答える。

「む。たのんだぞ、鶴川」

 東実監督は、頼もしげにうなずいた。

 

 三回裏。ノーアウト一・二塁、東実の攻撃で試合が再開された。

迎える東実の打者は、七番山井である。バットを短く握り、左打席に入る。インコースを封じたいのか、前打者の中尾と同じくホームベース寄りに立つ。

「フン。しょうこりもなく……」

 倉橋は「かまわずココよ」と、松川にインコースの速球のサインを出した。

 指先を傷めている松川だが、この試合さほどコントロールを乱していない。むしろその球威で、相手打者を圧倒し始めていた。

 その松川は、一球だけ牽制球を二塁走者へ放ったものの、すぐにバッター勝負へと切り替える。セットポジションに着くと、クイックモーションで第一球を投じた。

 山井のバットが回る。ガッと鈍い音を残し、小フライがセカンド後方へ上がった。

「せ、セカン!」

 倉橋が叫ぶ。完全に力負けした打球だが、山井が振り抜いた分、ポテンヒットとなりそうなコースへ飛ぶ。

「くわっ」

 しかし次の瞬間、セカンド丸井がダイブした。二塁塁審が確認へ走る。そしてボールは、丸井のグラブの先に引っかかっていた。

「あ……アウト、アウト!」

 好プレーに、塁審は思わず二度コールした。墨高ナインと応援団の陣取る一塁側から歓声が上がる。

「ナイスプレーよ丸井」

「よく捕ったぞ!」

 丸井は照れくさそうにしながら、起き上がる。

「へへっ、どうだい」

その時だった。

「丸井、サードだ!」

 キャプテン谷口の声に、丸井はハッとして振り向く。なんと二塁に一旦帰塁していた中井が、タッチアップからスタートを切っていた。

「くそうっ」

 丸井は慌てて三塁へ送球するも、ボールは高く外れてしまう。

 送球を捕った谷口は、三塁塁審にタイムと合図してから、マウンド上の松川にボールを渡す。思わず「なんて足だよ」と、つぶやいていた。

「たしかに丸井の体勢はよくなかったが、それでもフェアグラウンドで捕球したんだぞ。まさかタッチアップをねらってくるとは」

 ファインプレーを帳消しにされた丸井は、バシッとグラブを足下へ叩き付け、悔しがる。

「くそったれ! おれがちゃんと見てりゃ」

「丸井さん。気持ちは分かりますが、切りかえましょう」

 傍らで、イガラシが冷静に言った。しかし丸井はますます激高する。

「うるせえっ。ほっといてくれ」

「ダメですよ、そんなにアタマに血をのぼらせちゃ」

声を荒げることなく、イガラシは話を続けた。

「あんな奇襲を仕かけてきたチームです。つぎまた、なにをしてくるか分かりません。丸井さんがそんなんじゃ、ぼくらいいように付け込まれてしまいますよ」

「うっ……」

 後輩の説得に、丸井はようやく落ち着きを取り戻す。

「そうだった。やつらああいう攻め方ができるメンバーを、この決勝のために、わざわざ入れ替えてきたんだったな」

 倉橋が合図して、墨高バッテリーと内野陣は、再びマウンド上に集まった。ナイン達の背後、ネクストバッターズサークルにて、次打者の鶴川が素振りを始める。

「これまた、ずいぶん細っこいのが出てきたな」

 倉橋の感想に、イガラシが「ええ」と言葉を付け足す。

「あのスイングじゃ、とても松川さんの重いタマを打ち返せるようには見えません。となると、やつらの作戦は……」

 スクイズ、と他のメンバーは声を揃える。

「その可能性は高いと、ぼくも思いますが」

 イガラシが、小さく首を捻る。そして三塁走者の中井に顎をしゃくった。

「ランナーがかなりの駿足ですからね。もちろん可能性は小さいですが、一塁ランナーをわざと飛び出させて、その間にホームスチールをねらってくることも」

 なるほど、と岡村がうなずく。

「一塁ランナーを深追いすれば、あのランナーの足からして、一気にホームを突かれてしまいそうだな」

「そういうことだ。岡村、とくに注意しなきゃいけないのは、おまえだぞ」

 厳しい目で、イガラシは釘を刺す。

「アタマでは分かっていても、ついつい目の前のアウトが欲しくなって、深追いしてしまうケースは多いからな。そこんとこ、しっかりたのむぜ」

「ああ、まかせろ」

 力強く、岡村は返事した。

「……まあ、いずれにしても」

 キャプテン谷口が、話に割って入る。

「向こうのねらいを探るために……倉橋、松川。始めの一、二球はウエストしてくれ」

「む、分かったよ」

 倉橋はうなずく。

「谷口も、三塁ランナーがあやしい動きをしないか、よく見ておいてくれ」

「ああ。何かわかったら、すぐにサインを送るよ」

 こうして、マウンド上の話し合いは終わった。そしてナイン達は、再びポジションへと散っていく。

 その中で、一人浮かない表情を浮かべている者がいた。ショートのイガラシである。

「おいイガラシ」

 二遊間コンビを組む丸井が、気遣って声をかける。

「なんだか表情がさえんな。気になることでもあるのか」

「あ……いえ。ぼくもつい、良くない想像をして、自分でイライラしちゃってて」

 珍しく戸惑ったような口調で、イガラシは苦笑いする。

「へえ、めずらしいもんだ。それで……どんな想像をしたんだよ」

「アハハ。まさか、と思いますけど」

 そう言って、ふいにイガラシは三塁側ベンチを睨む。

「いまぼくらが話したこと。東実の連中、とっくにお見通しだったりして……とか」

「はあ? んなバカな」

 丸井も苦笑いを浮かべた。

「超能力者じゃあるまいし。いくら東実でも、おれっちらが考えたことを、どんぴしゃ当てちまうことなんざ」

「それはさすがに無理でしょうね」

 さらりとイガラシは言った。その態度に、丸井は戸惑う。

「む、ちょっと待て。その無理なことをやってくるかもしれねえって、おまえは悩んでるんじゃないのか?」

「ちがますよ」

 険しい表情のまま、イガラシは答える。

「じゃ、なんだってんだよ」

「予想して当てることはできなくても……事前に推測して、それに対応するすべを身に付けておくというのは、難しいですけど不可能じゃありませんよ」

 後輩の言葉に、丸井は一瞬ゾクッと寒気を覚えた。

 

 すでに迎える打者の鶴川は、左打席に入っていた。バットを短めに握る。ほどなくアンパイアが、右手を掲げ「プレイ!」とコールする。

 ホームページ奥に屈む倉橋は、右手の指で「外すんだぞ」とサインを送った。松川はうなずき、セットポジションから第一球を投じた。

 次の瞬間。三塁ランナー中井がスタートを切る。しかし松川は、すでに鶴川が立つ反対側の右打席へ、高くウエストボールを投じていた。

 よしっ、と倉橋が胸の内に叫ぶ。その時だった。

「……な、なにぃっ!」

 思いがけない光景に、倉橋は一瞬目を疑う。鶴川は通常のバントではなく、片手でバットのグリップエンドを握り、高く伸ばした。

 コンッ。外したはずのボールが、三塁線を転がっていく。

「くそうっ」

 慌ててダッシュした谷口と松川だったが、さすがに間に合わず。

 ボールを拾い上げた谷口は、判断を切り替えてファーストへ送球。間一髪アウト。しかし倉橋の眼前で、中井がヘッドスライディングをし、左手でホームベースをはらうようにタッチする。

 東実、スクイズ成功。見事に一点を先取した。

 

 

3.倉田のクセ

 

 パシッ。ライト方向へ、鋭いライナー性の打球が打ち返される。

「ら、ライト!」

 キャッチャー倉橋が、ミットの左手を掲げて叫ぶ。

 しかしあらかじめ深めに守っていた井口が、十数メートルほどバックしたものの、くるっと反転して思いのほか難なく捕球した。スリーアウト、チェンジ。

 それでも手痛い失点を喫した墨高ナインは、足取り重くベンチへ引き上げていく。

「まったく……やつは、曲芸師かよ」

 丸井が半分冗談めかして、それでも苛立ちを目元にたっぷりと滲ませて言った。

「片手でスクイズを決めやがるなんて。それより、もちっと素振りでもして、打つ方をきたえりゃいいのによ」

「まあまあ。そこが東実の、選手層の厚さってやつでしょうよ」

 達観した口ぶりで、イガラシが先輩をなだめる。

「試合前にも話したじゃありませんか。うち相手には、力でねじ伏せるより、ああいう小ワザを使った方が効果的だと判断しての、先発起用だったんじゃありませんか」

「なんだとイガラシ。きさま、敵をほめてどうすんだよ」

「べつにほめてなんかいませんよ。事実を言っただけじゃありませんか」

 喧嘩してる二人は、元気がある分まだ良いと言えた。他のナイン達は、明らかに表情が冴えない。誰もが、ここで喫した一点の重みを理解している。

「しっかし、あんな形で一点を取られちゃうとはなぁ」

 戸室がボソッとつぶやく。

「こちとら二回もチャンスを逃して、嫌なムードだったつうのによ」

「ばかっ、シー!」

 傍らで、横井が窘める。

「え、あっ……」

 同級生の言葉に、戸室は思わず口をつぐんでいた。二人の視線の先では、まさにここまで得点機に二度討ち取られている谷口が、無言でグラブを直している。

 この時だった。

「ちょっとみなさん! いい加減、しみったれた顔はやめましょうよ」

 井口だった。この回先頭打者の彼は、すでにバットを左手に握っている。

「みなさん。昨年のおれら江田川が、いま投げてる倉田のいた青葉をコテンパンにしたこと、忘れちゃいませんか。たかが一点スよ。このおれが、一発スタンドにぶちこめばいいんでしょう」

 大柄な一年生はそう言い残し、小走りに打席へと向かう。

「なんだよアイツ。好き放題に言いやがって」

 唇を尖らせる丸井を、谷口が「まあそう言うな」となだめる。

「井口なりに、沈みかけているチームを盛り上げようとしてくれてるんだ。おれらも、やつの心意気に応えてやろうじゃないか!」

 そう言って右こぶしを突き上げる谷口。一方、丸井は「は、はあ」と溜息をつく。

「……あ、あのう。みなさん」

 この時、おもむろに囁き声を発した者がいた。半田である。

「いま……その場から動かないで、ぼくの方を見ずに話を聞いてくださいね」

 謎めいた言い方に、全員が押し黙る。それから、半田はポツリと言った。

「相手ピッチャー倉田くんの、プレートから見て右足の踏み込み方に注目して、見てもらえませんか?」

 

 

 四回表。この回先頭の井口は、一人後悔の言葉を口にした。

「ちとデカイ口、叩きすぎたかな」

 右手にロージンバックを馴染ませ、それを後続の岡村に手渡し、マウンド上の倉田の投球練習を凝視する。

「昨年はあの倉田を打ちくずしたとはいえ、今のやつは、そん時とまるでレベルがちがってるからなあ」

 その倉田は、真っすぐばかり七球放る。すぐにアンパイアが「バッターラップ!」と合図した。井口は二、三度首を横に振り、左打席へと入っていく。

「しかし半田さんが言ってたこと、ほんとうなのか。真っすぐの時と変化球の時とで、踏みこむ足の角度が変わるってよ」

 初球。倉田の右足は、プレートからやや斜めに置かれた。投じられたボールは、カーブである。井口はこれを見逃し、ワンナッシング。

「む……たしかに、いまのは斜めだった。つぎ、もし速球がくればハッキリするが」

 そして二球目。倉田の右足は、プレートに垂直に置かれる。果たしてボールは、インコース高めの真っすぐだった。

「わっ」

 井口は一瞬戸惑いながらも、左腕を畳んでボールを打ち返した。パシッと快音が響く。

「ら、ライト!」

 東実キャッチャーの村野が叫ぶ。高さは十分だったが、打球はライトのポール際で切れてファールとなった。

「ふぅ……ちと高かったな。しかし、さすがのパワーだぜ」

 村野の暢気な一言に、井口は内心ほくそ笑む。そして背後の一塁側ベンチを振り向き、左手の親指と人差し指で、OK(オッケー)のサインを出した。

 三球目はカーブ、四球目はシュートが投じられる。カーブは僅かに外れ、シュートはインコース低めぎりぎりに決まった。これでイーブンカウント。

「ボール気味でもいい。こい、速球!」

 短めにバットを握りながらも、井口は強気で相手投手を睨む。一方、東実のキャッチャー村野は「打ち気にはやってるな」と判断した。

「バットこそ短く持ってるが、スイングが大きい。明らかに長打をねらってやがる。とすれば、ボール球にでも手を出すはず」

 迎えた五球目。村野は速球のサインを出し、アウトコース高めのボールゾーンにミットを構えた。

「これで決めるぞ、倉田!」

 すぐに倉田がセットポジションから、投球動作を始める。右足は、やはりプレートの垂直に置かれた。

「き、きたっ」

 速球だけを待ってた井口は、躊躇なくフルスイングした。

 パシッと、小気味よい音が響いた。打球は弾丸ライナーで左中間を切り裂き、外野スタンドへ一直線に伸びていく。しかしフェンスには僅かに届かず、上段の金網に当たった。

「くそう、ホームランだと思ったのに……」

 井口は二塁ベースを回ってから立ち止まり、一旦引き返す。ツーベースヒット。

 

「やったぜ井口! 有言実行の男」

「初めての長打だ。このまま同点、逆転と持っていくぜ!!」

 沸き立つ一塁側ベンチの墨高ナイン。その中で、キャプテン谷口が「なるほど」と冷静にうなずいた。

「速球を投げる時、倉田はプレートに右足を垂直に踏み込むというわけか」

 ええ、と半田が答える。

「一方で変化球を投げる時は、踏み込み足が斜めになります」

「うむ。そうそうクセなんて見つけられないと思っていたが、探せばあるものだな」

 傍らで、戸室が「でかした半田!」と割って入る。

「あ、ドウモ……」

「これで攻略の糸口が見つかったんだ。今まで散々ネチネチやってくれたのを、倍にしてお返ししてやろう!」

 戸室の言葉に、多くのナイン達が「オウヨッ」と応える。

「ようし、みんな!」

 今度は横井が声を張り上げる。

「つぎの岡村を、全員で盛り上げるぞ」

 

 岡村はロージンバックを手に馴染ませてから、右打席に入った。その背中を、ベンチのチームメイト達が後押しする。

「さあ、思いきりいけ!」

「ねらいダマをよくしぼって、打ち返せ」

「男になれ岡村!!」

 しかし当の岡村は、ひそかに苦笑いしていた。

「井口のやつ、足を傷めてるのを隠してるからな。シングルヒット一本で返すのは難しいが、おれのパワーじゃ、長打はカンタンじゃないぞ」

 岡村が思案する間、倉田が胸回り牽制で、井口の二塁ベースへボールを投じる。やはり井口は、さほどリードを取れていない。

 その時、ふいに「岡村!」と呼ぶ者があった。振り返ると、キャプテン谷口がこちらを勇気づけるように、微笑んでいる。

「ミート打法でいいんだ。自分のバッティングで、井口を返してやれ!」

 そう言うと、手振りでサインを出す。

「……なるほど、そこか」

 岡村は首肯した。

 

 初球。岡村は内角のカーブを引っぱった。

 強い打球が、三塁線の左に逸れてファール。二球目は、インコースの速球を見送る。これは僅かに外れボール。さらに三球目は、インコースへのシュートをおっつける。これはライト線の右へ切れ、やはりファール。

「なんでえ。思いのほか、カンタンに追い込めたな」

 キャッチャー村野は、拍子抜けしていた。

「もっと粘ってくるやつだと思ってたが。ただ打ち方を見ていると、どうもセンター返しをねらっているようだな」

 四球目。東実バッテリーは、インコースに速球を投じた。

 岡村はこれもなぜか、思いきり引っぱる。痛烈な打球だったが、レフト線の左へ切れ、これもファールとなる。

「フン。こいつ、内角はストライクとボールの見分けがつかんらしいな」

 そして五球目。村野は「最後はココよ」と、外角高めの速球を指示した。そしてボールゾーンにミットを構える。

「センターへ打ちたいのなら、ここはどうしても手が出るだろう」

 ほどなく倉田が、セットポジションから投球動作へと移る。だがその瞬間、岡村は外へ左足を踏み込み、強引に引っぱった。

「……な、なにいっ」

 村野が驚嘆の声を上げる。

「よし、ねらいどおり!」

 走りながら、岡村は思わず叫んだ。打球はライト線に落ち、さらに切れてファールグラウンドに転がる。長打コースである。

 井口は全力疾走せず、最後は小走りにホームベースを踏んだ。一方、二塁ベースへ滑り込んだ岡村は、小さく右こぶしを突き上げる。

 先制された直後の同点劇。一塁側ベンチとスタンドは、大いに沸き立った。

 

4.佐野の判断

 あっという間に追いつかれ、一様に顔を歪める東実ナイン。そんな中、冷静な表情を崩さずにいる者がいた。

 今はライトを守る、エース佐野である。

「こりゃ、くさいぞ」

 そう独り言をつぶやく。

「さっきの井口は、アウトコースの速球を待っていたかのように、フルスイングした。そして今の岡村も、途中変化球をわざとファールにした後、やはりアウトコースの速球をねらい打ち。二人とも、まるで速球がくると分かっていたようだ」

 ほどなく佐野は意を決し、タイムを取ってマウンドへと向かった。

「す、スミマセン佐野さん」

 マウンドでは、倉田が頭を下げてくる。

「せっかくのリードを守れなくて」

「いや、倉田のせいじゃねーよ」

 正捕手の村野が、一年生を庇って言った。

「おれの組み立てが、ちと分かりやすすぎた。二度もアウトコースをねらい打ちに……」

「よしてくれ」

 佐野は二人の言葉を制した。

「べつにおれは、二人を責めに来たわけじゃない。それより……おまえ達、まだ気づいてないようだな」

 思わぬ一言に、バッテリーは戸惑いながら顔を見合わせる。

「き、気づいてないって?」

 村野の質問に、佐野は倉田をちらっと見やり、きっぱりと答えた。

「倉田。おまえのクセ、墨谷に見破られてるぞ」

 二人は「えっ!」と声を揃える。

「いったい何の……」

 血相を変える倉田をなだめるように、その背中を佐野はポンと叩いた。

「もちろん、そこまで細かいことじゃないさ。でなければ、倉田はここまでの試合で、もっと点を取られているはずだ。しかし少なくとも……おまえが速球を投げるのか、変化球を投げるのかは、墨高には分かるようだぜ」

 淡々としたエースの言葉に、二人は黙り込む。

「……どうする、佐野?」

 しばしの沈黙の後、佐野は正捕手と目を見合わせ、険しい顔で言った。

「ここは、おれが投げよう」

 

「危ないところだった」

 一塁側ベンチ。東実監督は腕組みしつつ、溜息混じりに言った。

「まさか全試合無失点の倉田が、球種のクセを読まれていたとは。佐野がそれに気付かなければ、この回何点取られてたか分からんぞ」

 東実は、一部シートを変更していた。さっきまで佐野が守っていたライトに、倉田が替わって入る。

「少し早めの交代だが、仕方あるまい」

 監督は独り言のようにつぶやいた。その表情に、エース登板という安堵感は、まるで見られない。

「もともと試合がもつれることも考えて、佐野の先発を回避したんだ。この試合、また倉田に投げてもらうこともありうる」

 そう言って、ベンチの控え選手達へ声を掛ける。

「おまえ達も気づいたことがあれば、遠慮なく言ってくれ。なぜ倉田が、あんなきれいに速球をねらい打たれたのか」

 控え選手達は、声を揃え「はい!」と返事した。

 

 マウンド上、すでに佐野は、規定の投球練習を終え、左手にロージンバックを馴染ませていた。そしてほどなく、墨高の次打者、七番松川が右打席に入ってくる。

 ノーアウト二塁。松川はすぐに、送りバントの構えをした。

「フフ……なんとしてでも、ランナーをホームに返したいわけね」

 まるで他人事のように、佐野はつぶやく。

 一球目。インコース低めに、シュートが飛び込んできた。打者の膝を巻き込むように、鋭く変化する。その軌道に付いていけず、松川は空振りした。

「うっ……」

 ランナーの岡村は、慌てて二塁ベースへ頭から飛び込む。シュートを捕球した村野は、矢のような送球を投じた。ベースカバーのセカンド三嶋が、捕ると同時にタッチへ行く。

「……セーフ!」

 二塁塁審のコールに、岡村はホッと安堵の吐息をつく。

 佐野にボールが返ると、松川は再び送りバントの構えをした。フフ、と相手エースは含み笑いを漏らす。

「一度失敗したくらいじゃ、やめないってか。そうこなくっちゃ」

 そして二球目。今度は速いカーブが、アウトコース低めに投じられた。松川は、今度は辛うじてバットに当てたものの、ピッチャー正面への小フライとなってしまう。

「まかせろ!」

 佐野は素早くマウンドを駆け下り、ダイブした。そのグラブに、ボールがしっかりと握られている。

「しまった……」

 ランナーの岡村は、またも急いでベースへ頭から飛び込んだものの、今度は間に合わず。

「アウト!」

 塁審のコールに、岡村は「チクショウ!」と左手で土を殴りつけた。そして一塁側スタンドとベンチからは「ああ……」と溜息が漏れる。

 ようやく岡村が起き上がり、ベンチへ駆け出すと、ダッグアウト手前で松川が待っていた。

「す、スマン岡村。転がすこともできないで」

「いえ……そ、そんな」

 引きつった顔で、一年生は応える。

「あんなすごいボール、誰だって当てるのがやっとでしょうよ」

 その佐野は、グラウンド上でさらに躍動する。八番打者戸室に、やはりカーブとシュートを立て続けに投げ込み、あっという間にツーナッシングと追い込む。

「くそっ。昨秋戦った時より、さらにレベルアップしてやがる」

 胸の内につぶやく戸室。二球ともバットを出したものの、掠りもせず。

 そして三球目。佐野はまたもセットポジションから、投球動作へと移る。右足を踏み込み、グラブを突き出し、左腕をしならせる。

 なんと、ど真ん中の速球。戸室は手が出ず。

「ストライク、バッターアウト!」

 アンパイアのコールが、むやみに甲高く聞こえた。

 

5.エースの一振り

 

―― 圧倒的な投球を見せつけた佐野。しかし墨高の先発松川も、相手投手の存在感に怯むことなく、ねばり強い投球を続けていた。

 四回裏は、東実の一番竹下、二番三嶋に対しそれぞれ十球近くずつ投げさせられたものの、どうにかクリーンアップにつながる上位打線を凡打にしとめたのだった。

 ツーアウトランナーなし。だがここで迎えるは、先ほどリリーフ登板で圧倒的な投球を披露し、試合の流れを変えた東実のエース・佐野である。

 

 ハァ……と、倉橋は珍しく重い溜息をついた。

「まったく。ツーアウトを取ったからって、息も抜けやしねえ」

 倉橋の傍らで、東実のエースにして三番打者の佐野が、ゆっくりと左打席に入ってきた。そしてごく自然な仕草で、足下の土を均す。

「だが……こいつには、弱点もある」

そう胸の内につぶやく。

「こいつの勢いにのまれず、弱点を確実に突いていけば、必ず打ち取れる」

初球。倉橋は「まずココよ」と、外角低めにミットを構えた。松川はワインドアップモーションから、カーブを投じる。

「……あっ」

 倉橋は小さく声を上げた。同時に、佐野のバットが回る。

 バシッ。速いゴロが、一塁線を這うように抜けている。横っ飛びした岡村のミットも間に合わず、その脇の下を抜けていく。

「ファール、ファール!」

 一塁塁審が、ファールグラウンド方向へ大きく体を傾け、両手を挙げる。

「ホッ。少し切れていたようだな」

 マスクを脱ぎ、立ち上がっていた倉橋は、松川に「少し高かったぞ」と指摘してから屈み込む。それから少し遅れて、佐野も打席に入り直す。

 二球目。倉橋は「つぎはココよ」と、インコース低めにミットを構えた。松川はそこへ速球を投じる。

 佐野は空振りした。バシッ、と倉橋のミットが鳴る。

「ようし追い込んだ。やはり内角低めには、目が付いていかないらしいな」

 倉橋はそう確信し、再び同じインコース低めにミットを構えた。ただし球種は変える。

「さあ、コレで仕上げよ」

 正捕手のサインに松川はうなずく。しかしすぐには投球せず、ロージンバックを拾い上げ、右手に馴染ませる。

「うまいぞ松川」

 倉橋は胸の内につぶやく。

「そうやって間を取るんだ。相手の集中も削げるし、うまく休むこともできる」

 マウンド上。松川はロージンバックを足下に放ると、再びワインドアップから投球動作を始めた。グラブを突き出し、右手の指先から、今度はカーブを放つ。

 ところが――佐野の両眼は、今度はしっかりとボールの軌道を捉えた。さらに足腰も揺るがず。まるで掬い上げるようにして、松川のカーブをジャストミートする。

「……な、なんだとっ」

 倉橋は立ち上がり、その場にマスクを脱ぎ捨てた。

 松川は呆然として、打球の行方を眺める。

 他のナイン達は棒立ちになっていた。キャプテン谷口だけが「レフト!」と、大声を上げる。その声を聞く前に、戸室はスタンド方向へ駆け出していた。

十数メートル、数十メートル、戸室は背走する。

しかしとうとう、背中がフェンスに付いてしまった。それでも懸命に左手のグラブを伸ばしたものの、その遥か上を打球は越えていく。

 ソロホームラン。東実が再び、二対一と勝ち越す。

 

「な、なんで……」

 さしものイガラシも、呆然としていた。

「佐野のやつ。データ上じゃ、インコースは苦手だって」

 その佐野が二塁ベースを回ろうとする時、イガラシと目が合う。殊勲の一発を放ったエースは、なぜかニヤリと笑った。

 まさかコイツ……と、イガラシは相手エースを睨む。

 

「墨高のやつら、驚いたろう」

 ダイヤモンドを一周しながら、佐野は独り言をつぶやく。

「おれが内角低めを苦手つうのが、ニセの情報だとはな。もっとも……それをこの場面で使うことになろうとは、予想してなかったが。やはり手強いチームだぜ」

 フフと不敵な笑みを浮かべ、佐野はホームベースを踏んだ。

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