南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

<雑記帳>私にとっての「努力」と「根性」の違い

【目次】

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<はじめに>

 小説『続・プレイボール』という『プレイボール』の続編なんかを書いていると、時々ツイッター上で「努力とは何か?」「努力って本当に大切なのか?」という議論を、フォロワーの皆さんと交わすことがある。

 

 私の答えはシンプルだと思う――すなわち「自分でやろうと思ってやることが努力」であり、逆に人から言われて無理やりさせられたことは“努力ではない”という考えだ。

 

1.私の“人生最大の親不孝”

 このテーマについて考えている時、私は学生時代の日々について思い出した。比較的マジメに生きてきたと思う私がしでかした、“人生最大の親不孝の日々”である。

 

 高校三年生の時、私は少しメンタルを病んでいた。一応、毎日学校へ通ってはいたのだが(それもマズかったかもしれない)、教室にいるのが苦痛で仕方なかった。

それ故、将来の進路に何の関心も持てず、受験勉強にさえ取りかからず、大学を浪人してしまうハメになった。

 

 それでも優しい私の両親は、こんな私を授業料の高い予備校に通わせてくれた。ほんらいなら何度も頭を下げ、毎日予備校の授業をしっかり受けなければならなかったはずだ。

 

 ところが、私は五月辺りから、その予備校へほとんど以下行かなくなった。

 理由は、自習時間中、その予備校講師に私の英語自習ノートを勝手に覗かれ、「こんなやり方じゃ合格できない」と言われたからである。

 高校時代に授業をろくに聞かなかった私が悪いのだが(苦笑)、予備校の授業を受けても理解できないほど、私の学力は最低だったのだ。だから勉強の仕方は、自分で工夫するしかないと思った。それを否定されたのである――アンタ達の言うことなんか、聞いてられっか、と。後で親が知った時には、さぞかし頭にきただろう。

 

 ただ、あまり怒られはしなかった。なぜなら――合格したからである。

 

 結局英語のセンター試験の点数はあまり伸びなかったが、唯一その予備校で受けていた現代社会で満点近い点数を取り、他の教科は「取れるところで点を搔き集める」作戦で、極端に低い点数は取らなかった。

 

 皮肉にも、私と違い真面目に授業を受けていた浪人生達の方が点数が低く、大学受験を諦めてしまった同級生もいたらしい。あの講師は、何と言い訳したか聞きたいものだ。

 余談だが、後日「合格体験記」を書くように言われたが、用紙だけ受け取り、結局提出しなかった。だってウソを付くことになるから。

 けっして自慢話ではない。私の意固地さ、底意地の悪さが炸裂した、あまり人には言えない学生時代のエピソードである。

 

2.自分で工夫する勉強は“楽しかった”

 

 とはいえ……予備校へは行かず、自分で勉強法を工夫してセンター試験対策に取り組んでいた日々は、さほど苦じゃなかった。かっこつけているようだが、“楽しい”とさえ感じたこともある。

 

 私は――これこそが“本当の努力”だと思うのだ。

 

 人に言われてさせられる努力を、本当は「努力」とは言わない。自分の意思でやるからこそ、やり甲斐があるし、本当の力が身につくと思うのだ(もっとも、これで何かを身に付けようとする時、他者のアドバイスを聞かないという悪癖が身についてしまったが・苦笑)。

 

 人に言われてさせられるのは、ラクなのである(私にとっては苦痛だが)。本当の努力とは、自分の意思で行い、その結果の責任を自分で取ることだ。あの時は、たまたま合格していたが、もし不合格だったとしても、私は人のせいにはしなかったと思う。逆に、ただ先生達の指示通りに勉強して、それで不合格していたら、私は確実にその予備校のせいにしていた気がする(苦笑)。

 

3.人目を気にしてすることを“努力”とは言わない

 さて……非常に残念なことに、今の私は心身を壊しかけている。考えてみれば当然で、昨年度から朝8時前に出勤して夜10時前に帰るという生活を、一年以上も続けていたからだ。年明け前に扁桃腺をやられ、高熱を出したのが予兆だったのだが、それを無視して働き続けた結果、ある日突然、人前で言葉が出なくなった。

 

 しかし、私はこれを“努力”したとは思わない。私の正直なメンタルの動きとしては、とにかく失敗したくなかった。失敗して、周りから無能だと思われるのが怖かった。だから、なるべく失敗しないように時間ばかりを喰った。

 

 その結果、心身を壊すという最大の“失敗”をしでかした(汗)。

 

 ではあの時、受験生の頃のように、楽しさはあったか。はっきり言って、皆無であった。失敗することばかり怖れていたのだから、当然だろう。

 

 人目を気にしてすることを、“努力”とは言わないのだ。よくいって、せいぜい“根性”だろう。根性だけで私は日々の仕事に取り組んでいたが、それだけではもたなかったというわけだ。

 

<終わりに>

 繰り返すが、自分の意思でやることが“努力”である。原作『プレイボール』にしても『キャプテン』にしても、谷口は“自分の意思”で猛練習を自他に課した。そして当初は反発していた他の部員達も、谷口の“努力”に感銘を受け、彼らもまた自分の意思で努力の日々に身をささげるようになった。だから彼らは、苦しくもあったかもしれないが、ある歌詞のように「心も体も爽やか」だったのだろうと思う。

 

 私のように、人目を気にしてやる、あるいは人にさせられるのは、せいぜい“根性”だ。“努力”とは呼ばない。だから私は、「根性至上主義」は否定するが、努力の尊さは否定したくない。