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<外伝>
第58話 知略対知略!の巻
1.佐野の知略
―― 一回表。墨高は、いきなりワンアウト一・二塁のチャンスをむかえていた。バッターは、四番の谷口である。
眼前のマウンド上。東実の背番号「1」佐野は、セットポジションから第一球を投じた。
速球が唸りを上げ、キャッチャー村野の構えるミット、内角低めに飛び込んでくる。ズドン、とまるで大砲のような音がした。
谷口は、手が出ない。
「な、なんて威力(いりょく)なんだ」
手の甲で、額の汗を拭う。
「しかも今日で、佐野は三連投だというのに。まるでボールの勢いがおとろえないとは」
二球目。またもセットポジションから、佐野は右足を踏み込み、グラブを突き出し、その左腕をしならせる。
今度はシュートだ。途中まで速球と同じ軌道だったが、ホームベース手前でクイッと鋭く曲がり、外へ逃げていく。
「……くっ」
谷口は負傷の左足で踏み込みバットを強振したが、掠りもせず。村野のミットが、ズバンと小気味よい音を立てる。
「ハハ。シュートもなんてキレだ」
思わず苦笑いしてしまう。
「こんな手元で、しかも速球とほぼ同じスピードで曲がるとは」
だがその時、谷口はあることに気付いた。あれっ、とつぶやきが漏れる。
「……左足、あまり痛くない」
この時ネクストバッターズにて、イガラシが「ようし」と口元に笑みを浮かべた。
「キャプテン……空振りはしたが、ようやく左足を踏み込んでスイングできた」
その眼前で、谷口がバットを構え直す。
一方、佐野はマウンド上で村野のサインにうなずき、「これでトドメだ!」と三球目を投じる。外角低めの速球が、唸りを上げて飛び込んできた。
ガッ、と鈍い音。谷口は、何とこれをカットする。
「な、なにっ」
佐野は一瞬顔を歪めたが、すぐにフフと不敵な笑みになる。
「さすが谷口だ。きのう一日だけで、調子を取りもどしてきたな」
返球を捕り、佐野はしばし間を置いた後、セットポジションから投球動作へと移る。次は内角低めのフォーク。打者の手元でストンと落ちた。
「……えっ」
佐野は目を見開く。この決め球のフォークも、谷口はバットの先端に当てカットした。打球は、三塁側ベンチ方向へ鈍く転がっていく。
「ちぇっ、しつけえな」
舌打ちする佐野。返球を捕り、村野とサインの交換を行うが、今度はなかなか首を縦に振らない。
マズイな、と村野はつぶやく。
「佐野のやつ。ちと、あせってねえか」
それでもようやくサインにうなずき、佐野はプレートを踏んでセットポジションに着く。そして五球目を投じた。
外角低めのカーブ。谷口はぐっと腰を沈め、コンパクトにバットを振った。
パシッと快音を残し、ライナー性の打球が二遊間を襲う。一塁側ベンチ、墨高ナインが「おおっ」と一瞬沸き立つ。
しかし次の瞬間、東実のセカンド三嶋が横っ飛びして、そのグラブの先にボールが引っ掛かる。
「し、しまった……」
丸井が慌てて頭から帰塁しようとするも、その眼前で二塁ベースカバーに入ったショート杉谷へ、送球が投じられる。
「アウト! スリーアウト、チェンジ」
ダブルプレー成立。塁審のコールに、丸井は「くそうっ」と二塁ベースを叩いた。
一回裏。規定の投球練習のラストボールを受けたキャッチャー倉橋は、そのまま二塁へ矢のような送球を投じる。ベースカバーの丸井が中腰で捕球し、「ナイスキャッチャー」と声を掛けてきた。
マスクを被り、倉橋はホームベース奥に屈む。その傍ら、右打席の白線の外側で、先頭打者の杉谷がブンブンとバットを振り回す。
「フン、威(い)かくのつもりか」
倉橋は胸の内につぶやく。
「しかしたしかに、当たったら飛びそうだな。ほんと丸太のような腕してやがる。ガタイもいいし……ま、アイツはそれでひるむような男じゃねえが」
マウンド上。打者とは対照的に、この日初先発となるイガラシは、静かだった。スパイクで足下を均した後、ロージンバックを拾い上げ、右手を馴染ませている。
「あの落ち着き。ほんと、大した男だぜ」
小柄な一年生の堂々とした姿を、上級生は感心げに見つめる。
「バッターラップ!」
アンパイアのコールを聞き、杉谷は右打席に入ってきた。そしてグリップエンドのギリギリまで、バットを長々と握る。
「ろこつな長打ねらいだな」
倉橋は苦笑いした。
「しかし、いいのかね。トップバッターが、相手投手の特ちょうもロクに知らないうちから、そんな気でいて」
ほどなく、アンパイアが「プレイ!」と合図した。
倉橋は「まずコレよ」と、サインを出す。イガラシはうなずくと、ロージンバックを放り、すぐに投球動作を始めた。ワインドアップモーションから、第一球を投じる。
「……えっ」
杉谷は面食らった。スピードを殺したボールが、さらにホームベース手前ですうっと沈む。打者はまったくタイミングが合わず、空振りした後、ぐらりと体勢を崩しその場に尻もちをつく。
一、三塁側両方のスタントから、「プッ、なんだ今のスイングは」「アハハハ」と笑い声が漏れる。
「こら杉谷!」
三塁側ベンチより、東実監督が立ち上がり檄を飛ばす。
「このバカモノ。もう少し、ボールをよく見ないか!」
「す、スミマセン」
杉谷は一礼して、今度はやや短めにバットを握り直す。
「ひょっとして演技かとも思ったが」
マスクを被りつつ、倉橋は打者の様子を観察する。
「この様子じゃ、どうやらちがうみてえだな」
屈み込み、やれやれ……と溜息混じりにつぶやく。
「これじゃきのう、決勝でスタメンから外されるわけだぜ」
そして「つぎはコレよ」と、マウンド上へサインを送る。イガラシはうなずき、テンポよく二球目を投じた。
「……わっ」
肩を巻き込むようなボールの軌道に、杉谷は身を屈める。
「き、気をつけ……」
「ストライク!」
「な、なんだとっ」
アンパイアの判定に、杉谷は驚嘆の声を上げた。
「とすると……いまのは、カーブか」
ほう、と倉橋は一つ吐息をつく。
「球種は分かったあたり、さすが東実のバッターだぜ。ただこれじゃ、バットにかすりもしないだろうがな」
三球目。変化球を続けたそれまでから一転して、イガラシは内角高めに速球を投じた。意表を突かれた杉谷は、手が出ない。
「ストライク、バッターアウト!」
コールを聞いて、打者はガックリと肩を落としベンチへと引き上げていく。
「まったく。あれじゃ、なにしに出てきたんじゃ」
溜息をつく倉橋。その時である。
「倉橋さん、ちょっと」
ふいにイガラシが、マウンド上から呼ぶ。
「お、おう」
言われた通り、倉橋はマウンドへと駆け寄る。
「どうしたイガラシ」
「おぼえてます? 倉橋さん」
妙にのんびりとした口調で、イガラシは言った。
「春先に、和歌山の箕輪ってチームと練習試合をした時のことを」
「む……おお、たしか昨春の甲子園優勝校だったな」
倉橋は戸惑い顔で、頬をポリポリと掻く。
「そういやあのチームも、おまえに球数を投げさせようと、かなり粘っこい野球を仕かけてきたんだったな」
「ええ。それで、こっちもわざとノーサインで投げたりして、いろいろ対策しましたよね」
「そうだったな。おまえたしか、わざと甘いコースに投げたりして。あんときゃ、かなりヒヤヒヤ……」
そこまで言って、倉橋はハッとする。
「おまえ……まさか、あの時と同じことを?」
「まあ、そういうことスね」
事もなげに、一年生投手は答えた。
「おいおい。おまえ、分かってるのか」
さすがに驚いた顔で、正捕手は問う。
「あんときゃ練習試合だったが、今日は公式戦。それも甲子園のかかった決勝なんだぞ」
「ええ。それがなにか?」
不思議そうに、イガラシは尋ね返す。
「な、なにかっておめえ……」
「こういう時のために、ああやって練習試合でいろいろと試しておくものでしょう」
「まあ、そりゃそうだがよ」
「それにキャプテンも言ってたでしょう。まずは、向こうのねらいを探ろうと」
「あ、うむ」
「だったら……今が、その時じゃありませんか」
なんだか楽しげに、イガラシは微笑む。
「せっかくレギュラー復帰させたバッターが、あっけなく三振に倒れたんです。この後どう手を打つべきか、さすがの東実も迷うんじゃありませんか」
イガラシの指摘通り、東実の三塁側ベンチでは、監督と二、三番のバッターが、それぞれ渋い表情で何事か話している。
「な、なるほどね……」
とうとう倉橋は、納得せざるを得なくなった。それでも「しかしカンタンに言いやがる」と、愚痴をこぼさずにはいられなかったが。
「まあまあ。そう心配しないで下さいよ」
後輩はいたずらっぽく笑う。
「べつに、わざと点をやるわけじゃありませんから。ただ倉橋さんには……ちょいとばかし、ぼくの芝居につき合ってもらいたいんスよ」
「芝居だと?」
「ええ。いま細かく説明するのは、ちょっとむずかしいですが」
イガラシが、今度は不敵な笑みを浮かべる。
「まあ見ててください。やつらが今なにを考えているのか、丸分かりにしてやりますよ」
倉橋は「分かったよ」とうなずき、ポジションに戻った。そしてマスクを被り、屈み込む。顔を上げると、マウンド上でイガラシが、胸元に左手を当てていた。
「む、ノーサインか」
倉橋はうなずき、ミットを真ん中付近に構える。
傍らでは次打者の竹下が、すでに左打席に入っていた。細身ながら長身の打者だ。バットを短めに握り、背中でやや寝かせて構える。
「こいつ……たしかきのうは、一番バッターだったな」
初球。イガラシはワインドアップモーションから、内角低めに速球を投じた。決まってワンストライク。竹下は、手を出さず。
なんでえ、と倉橋はひそかに安堵する。
「イガラシも、タダで打たせるつもりはないようだな」
だが二球目。イガラシはまたも速球を、今度は打ちやすい真ん中高めに投じてきた。しかもスピードは、さっきより遅い。
「ばっ……言ったそばから」
しかしボールは、打者の手元でクイッと鋭く内へ切れていく。シュート。倉橋は「おっと」と、ミットを左へずらし捕球する。
竹下は、まあも手を出さず。これでツーナッシング。
「まったく。心臓に悪いったら、ありゃしない」
正捕手は、一人苦笑いした。
「これがただの速球で、もしねらわれていたらセンターオーバーだったぞ」
それにしても……と、隣の竹下をちらっと見やる。
「二球とも手を出してこねえとは。先発を入れ替えても、作戦はきのうと同じ、じっくり見ていこうってことなのか」
三球目。イガラシは速球を、今度は外角低めに投じてきた。竹下はぴくっとバットを出しかけたが、こらえる。僅かに外れてボール。
「さすが一、二番をまかされるバッターだぜ。いい選球眼だな」
続く四球目。イガラシはまたも外角低めの速球を投じた。竹下はようやくバットを出し、これをカットする。
「ファールにしてきたか……」
倉橋は訝しげに、打者を観察する。
「いまのボール。こいつの力量なら、ヒットにできそうなものだが」
この後、イガラシはカーブを二球続けた。いずれも大きく変化したが、どちらも僅かに外れツー・スリーとなる。
「うーむ、手を出さないか……」
思案を巡らせつつ、倉橋はまたも真ん中付近にミットを構える。
「たしかに二球ともむずかしいタマだが、コースはきわどかったし、それに追い込まれてるというのによ」
迎えた七球目。イガラシは内角低めに速球を投じたが、「ボール!」とアンパイアの判定のコールを聞く。竹下は打席の外にバットを置き、一塁へ小走りに向かう。
「おいおい。四球になっちまったが、これでよかったのか?」
マウンド上のイガラシと、倉橋は目を見合わせる。返球を受けた一年生は、ほとんど表情を表さない。まるで鉄仮面だ。
そして次打者は、三番佐野である。
「やつか……」
吐息混じりに、倉橋はつぶやく。
「きのうホームランを打たれてるし。ピッチャーとはいえ、気をしめてかからんとな」
ところが、イガラシは右手をひらひらと上下させ「立ってください」と、合図した。
「な、なんだって!?」
さすがに正捕手は驚く。
「要注意バッターなのは分かるが、初回から敬遠かよ」
まあ約束だからな、と倉橋は腰を上げた。すると佐野は、あからさまに顔を歪める。
「あれ?」
倉橋は訝しく思った。
「いま、ろこつに嫌な顔したな。初回で打たせてもらえないのが、そんなに困ることだってのかよ」
右打席のさらに外側に立ち、山なりのボールを四球受ける。敬遠四球、ワンアウト一・二塁。ピンチが広がってしまう。
佐野は無言でバットを放り、一塁へと駆け出した。しかし、その時「ちぇっ」と舌打ちが聞こえる。倉橋はますます訝しんだ。
「かたちの上では、チャンスが広がったというのに。佐野のやつ、なにをそんなにイラついてんだ」
2.イガラシの知略
ワンアウト一・二塁。ピンチを背負ったイガラシだが、マウンド上でこっそり含み笑いを浮かべる。
「さあて。おぜん立ては、そろえてやったぜ」
イガラシの視線の先には、東実の四番村野が右打席に立つ。右打席でバットをやや短めに握り、やや緊張した面持ちをこちらに向けている。さらにその奥の三塁側ベンチには、東実監督の険しい顔。
「どうする四番?」
右手にロージンバックを馴染ませながら、イガラシは思案を巡らせる。
「先発の数人を戻したということは、向こうは普段の積極的な打撃を取り戻したかったんだろう。ところが先頭バッターが、あっけなく三振しちまったことで、いきなり計算がくるっちまったんだ」
イガラシは一旦プレートを外し、胸回りで二塁へ牽制球を投じた。走者の竹下は、後続のバッティングに期待してかさほど離塁せず。すぐに帰塁する。
「つぎの二番は、一番バッターが三振するのを見て、消極的になってた。打ち気だった佐野は歩かせた。問題は四番の村野、アンタだ」
「アンタしだいで、今日の東実の戦い方が決まる。その重圧に耐えられるかな」
初球。イガラシは何と、真ん中高めに速球を投じた。
村野は、手を出さない。ズバンと倉橋とミットが鳴る。「ストライク!」とアンパイアのコール。しまったというふうに、打者の口が動く。
やっぱりな……と、イガラシは胸の内につぶやいた。
「手を出せなかったか。そりゃ目の前で、一・二番がまるでボールに対応できてなかったからな。しかし……これで、こっちの思うツボだ」
眼前で、倉橋が「おいおい」と文句を言いつつ、返球してくる。
「四番相手に、ちょっと大胆すぎやしねえか」
思わずクスッと笑う。
「スミマセン。ちょっとワケがあったので」
そう返答すると、正捕手は「あきれたやつだ」と苦笑いした。
二球目。カーブが村野の肩を巻き込むようにして、内角低めいっぱいに決まる。打者はまたも手が出ず。これでツーナッシング。
「おい村野!」
たまらず三塁側ベンチより、東実監督が檄を飛ばす。
「もっと積極的にいかんか。おまえは、うちの四番なんだぞ」
村野は「は、ハイ!」と応えるが、明らかに余裕がない。
そして三球目。イガラシは真ん中低めに、落ちるシュートを投じた。村野はようやくスイングしたが、力みもあったのかピッチャー正面の緩いゴロ。
「まかせろ!」
イガラシがマウンドを駆け下りて捕球し、後方を振り向いた時、すでに丸井が二塁ベースカバーに入っていた。こちらに「へいっ」と合図する。
「丸井さん!」
流れるような動作で二塁へ送球すると、これを受けた丸井は素早く一塁へ転送。スパァンと、ファースト加藤のミットが小気味よい音を立てる。打者の村野と走者の佐野は、いずれの次の塁へ辿り着けず。「1-4-3」のダブルプレーが成立。
「アウト! スリーアウト、チェンジ」
一塁塁審が高らかにコールした。
ベンチに引き上げつつ、佐野は「マズイぞ」とつぶやいた。
「初回からイガラシを打ちくずして、試合の主導権をにぎるはずが、ぎゃくにこっちがダメージを喰っちまった。くそっ、イガラシめ。まさか……わざと竹下さんとおれを歩かせてまで、村野をつぶしてくるとは」
その村野が「スマン佐野」と、駆け寄ってくる。
「杉谷さんと竹下さんへの変化球を見てたら、とても積極的になんてできなくてよ。しかし、つぎこそやつを……」
「村野。できもしねえことを、ぬかすんじゃねえ」
あえて冷たく、佐野は言った。
「さ、佐野」
「きさまも分かってるはずだぜ。いまのイガラシは、そうカンタンに打てる投手じゃねえってこと。あれじゃ他のバッターだって、当てるのがやっとだ」
正捕手は黙り込む。エースは、さらに話を続けた。
「中学の時は、まだファールで粘って、体力をけずる戦法を取ってたがな。今じゃあのころより、数段成長しやがった。とくにあのカーブとチェンジアップの精度は、甲子園レベルでもそう見かけないんじゃねえか」
だからよ、と少し表情を緩める。
「厳しい戦いになるってことを、まず覚悟するんだ。おれ達が覚悟を決めりゃ、ほかの連中も引きしまる。そうして粘り強く戦ってりゃ、いつかチャンスはくるさ」
佐野はそう言って、グラブでポンと相方の背中を叩く。
「いいか村野。おれは正直、やつらを抑えるだけで手一杯だ。勝つためには、おまえの力がどうしても必要なんだよ」
「わ、分かった。やってやるよ!」
東実バッテリーはようやく、お互いに笑顔を見せ合う。
一塁側ベンチの奥にて、墨高ナインはキャプテン谷口を中心に、円陣を組んでいた。
「ええと……まずは倉橋、イガラシ。よくやってくれた」
谷口はまず、バッテリーを素直に讃える。
「とくにイガラシは、勇気をもって投げてくれたな。おかげで、向こうの作戦にくさびを打ち込むことができた」
「なーに、これからスよ」
いつものように醒めた声が返ってくる。
「たしかに向こうは少しばかり慌てたでしょうが、こっちも佐野におさえこまれると、元の木阿弥(もとのもくあみ)ってやつです。必ずつぎの手を打ってきますよ。その前に、佐野を攻りゃくする糸口をつかまないと」
分かってる、と谷口は応えた。
「作戦としては、きのうと同じ。球数を一球でも多く投げさせて、佐野を疲れさせること。それができれば、さっき話した半田のデータが使える」
ただし……と、キャプテンは付け加えた。
「向こうのバッテリーも、バカじゃない。こっちの作戦を察せば、それを防ぐための手を打ってくるだろう。だから、かく乱のために……みんな一巡目は好きに打て」
声には出さないが、多くの者が「えっ」というふうに口が動く。
「初球からねらってもいいし、ファールでねばってもいい。一巡目の様子を見て、二巡目以降どうするか決めよう。ただ……ひょっとしたら」
さらに谷口は、思わぬことを口にした。
「案外、今でも佐野を打てるかもしれないぞ」
なるほど……と、丸井が口を挟む。
「今日は再試合でみんなも目が慣れてきてるし、ぎゃくに佐野は疲れてきてる。だから必要以上に、やつを恐れなくていいってことですよね」
おおっ、と周囲から感嘆の声が漏れる。
「む。そのとおりだ、丸井」
横井が「ハハ」と笑い声を上げた。
「やつを二度も打ってる丸井が言うと、説得力があるぜ」
「そうでしょう、そうでしょう」
おどけて丸井が返事する。
「あまりやつを怒らせて、ぶつけられないように気をつけろよ」
横井の突っ込みに、丸井は「あら」とずっこけた。周囲からプククと、吹き出す声が聞かれる。
「……丸井だけじゃない」
緩んだ空気を引きしめるように、谷口が力強い口調で言った。
「今大会の厳しかった一試合一試合を通じて、ここにいる全員が成長してきている。それは今日も同じだ。これまでの最高の力を、東実にぶつけてやるんだ。いいな!」
キャプテンの檄に、ナイン達も「オウヨッ」と快活に応えた。
―― 二回表、墨高の攻撃。
この回の先頭打者は五番イガラシだったが、敬遠で歩かされる。ノーアウト一塁となり、打順は六番の横井に回った。
一塁ベースより、イガラシは徐々に距離を空けていく。
眼前では、東実のエース佐野がセットポジションに着き、前方の打者へ顔を向ける。同時に片目で、こちらの動きも観察している。イガラシがもう一歩離塁しようとした瞬間、素早く牽制球が投じられた。
「……おっと」
イガラシは逆を突かれかけたが、どうにか左手から帰塁する。
「くっ。これじゃ、リードするのも一苦労だぜ」
一塁走者は苦笑いした。一方、マウンド上の投手も呆れ笑いを浮かべる。
「まったく……なんてえ、反射神経してやがんだ」
ファースト中尾から返球を受けた佐野は、ボールを長く持つ。じりじりとした間。それでもイガラシは、再び離塁していく。
しかし次の瞬間、佐野がまたも素早く牽制球を投じてきた。一瞬、客席がざわめく。
「……セーフ!」
あぶねえ、とイガラシは思わずつぶやく。左手の指先が、辛うじてベースに触れていた。
「フン。どうせ牽制で刺せるとは、思ってねえけどよ」
マウンド上の佐野は、溜息混じりに言った。そして再び、顔を打者のいるホームベース方向へと向ける。
眼前の右打席では、横井がバントの構えをしていた。そして佐野は、セットポジションから、ようやく投球動作を始める。
内角高めの速球。その威力に、横井はバントを仕損じた。三塁方向への小フライとなり、サード中井がダイブする。だがその数メートル先に、打球は落ちた。ファール。
キャッチャー村野が「フフ」と、ほくそ笑む。
「このコースと威力(りょく)じゃ、送るのもカンタンじゃないだろう」
しかし横井は、再びバントの構えをした。
「ほほう、なかなか果敢(かかん)だねえ」
二球目。佐野はまたも速球を、今度は外角低めに投じてくる。
「な、なにっ」
次の瞬間、横井はバットを立てた。
「ヒッティングだと!?」
パシッ。速いゴロが一・二塁間を襲う。
「……あっ」
抜けるかと思われたが、セカンド三嶋が横っ飛びし、グラブの先で弾く。そして片膝を立て、一塁へ送球する。横井は懸命に一塁ベースを駆け抜けるも、塁審は「アウト!」とコールした。しかしその間、イガラシは二塁に到達。
「くっ、抜けたと思ったのに」
横井は一度空を仰いだが、その後フッと口元に笑みを浮かべる。
「けど……思ったより、ちゃんと上から叩けたぞ。速球だけなら、おれにも打てそうだ」
続く七番岡村も、始めからバントの構えで打席に入る。
「……ストライク、ツー!」
しかし今度は、あっという間に追い込まれた。二球目はバントでカーブを空振りしてしまう。しまった……と、岡村は唇を噛む。
「と、とにかく当てないと……」
岡村はバットをグリップの上端ぎりぎりまで、短く握る。
三球目もカーブ。しかし懐に飛び込んでくる軌道のボールを、岡村は辛うじてバットに当てた。打球は鈍く三塁側ベンチ方向へ転がっていく。
「あ、当たった!」
表情を明るくする岡村。その背中に、村野が「きみ初々しくていいね」と皮肉る。
「当たっただけで、そんなに喜ぶなんて」
しかしそこから、岡村は佐野が投じたすべての球種に喰らいついていく。速球、シュート、カーブ、チェンジアップ。
「こんにゃろ。意外にしつけえな!」
青筋を立てる村野。一方、岡村は口元で微笑む。
「なんだ……当てるくらいなら、おれにもできないことはないぞ!」
そこから、さらに三球粘る。さすがに「マズイ」と、村野はうつむき加減になる。
「下位打線相手に、あまり球数を使っちゃ……むっ」
ふと顔を上げると、佐野がサインを出していた。
「……しかたねえか」
村野は了承し、ミットを低く構える。そしてもう何球目か。佐野が投じたのは、フォークボールだった。岡村のバットは、さすがに空を切る。
「や、やられた。なんて落差のフォークなんだ」
そうつぶやき、打席を後にする。それでも岡村は、満足げな笑みを浮かべた。
「でも……全部で十球以上投げさせた。向こうのバッテリーも、いやだったはず」
岡村が思った通り、村野は苛立っていた。ベンチへ引き上げていく一年生打者の背中に、「ちぇっ」と舌打ちする。
「どうせマトモには打ち返せねえくせに。ちまちま粘りやがって!」
その時「村野!」と怒鳴られる。正面に顔を向けると、佐野が大きくかぶりを振った。落ち着け、と言わんばかりである。
「そ、そうだったな。キャッチャーのおれは、なにがあっても落ち着いてねえと」
その時、一塁側ベンチとスタントから、一際大きな歓声が上がった。迎える打者は、この日復帰の八番加藤である。
「加藤、思いきりいけよ」
「おまえの力、見せつけてやれ!」
当人も「おうよ」と応える。
「やつのタマなら、中学の時に嫌ってほど見てるからな。どうにかなるだろ」
なにいっ、と村野は思わず目を剥いた。
「フン……病み上がりのやつに、なにができる!」
初球。東実バッテリーは、またも内角高めの速球を選択した。ミットを構え、村野は胸の内につぶやく。
「このコースが一番速いからな。佐野、まず脅かしてやれ」
佐野はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。そして投じられたボール。ところが、加藤はこれにヤマを張っていた。
「へへっ。くると思ったぜ」
右足を踏み込み、バットを強振する。パシッと快音が響く。一塁側ベンチが、再び「おおっ」と沸き立つ。
「ら、ライト!」
打球は鋭いライナーで、ライト頭上を襲う。竹下が懸命に背走する。下がる。まだ下がる……そしてフェンスに背中が付く寸前、竹下はジャンプした。
「あっ……」
二塁ベースを回りかけたところで、加藤は足を止める。ジャンプした竹下のグラブの先に、ボールは収まっていた。
「アウト! スリーアウト、チェンジ」
二塁塁審のコールを聞いて、加藤は「やれやれ」と首を振る。
「さすが東実だ。そうカンタンに、点はくれそうにねーな」
3.作戦実行の時
―― つづく二回裏。東実の攻撃は、器用なパワーヒッター・五番の小堀からだった。
イガラシは、強い当たりのファールを連発されたものの、最後は打者の意表を突いて速球を内角高めに投じ、見事センターフライに打ち取ったのである。
その後、死球での出塁は許したものの、七番中尾、八番熊井を何と連続三振に仕留め、こちらも無失点でしのいだのであった。
ここから、試合は投手戦の様相を呈していく。佐野とイガラシの力投が続き、三回そして四回と、両チームとも「0」が続く。
しかし、その内容なまったく異なっていた。
墨高は毎回ランナーを出したものの、佐野の懸命な投球とバックの好守備の前に、すんでのところで得点を食い止められていた。一方、東実はイガラシの多彩な球種と打者の意表を突く投球の前に、三回からはランナーを出すことすらできず。
試合はかく実に、墨高が押し気味に進めるようになりつつあった。
五回表の攻撃前。またも墨高ナインは、谷口を中心としてベンチ奥に円陣を作る。
「みんな、佐野のタマはどうだ?」
「正直……打てると思うぜ」
まず答えたのは、横井だった。
「もちろんすげえと思うタマはあるけどよ。やっぱりきのうから見てるせいか、おれ達も目が慣れてきてるんじゃねえか」
「おれも賛成です」
加藤も同調した。
「さっきの打席は、速球にヤマをはってたんで、ミートできたのもあるんスけど。あんなきれいに打てるとは思わなかったので。やっぱり三連投で、佐野のやつ、少しずつですが疲れが出てきてるんじゃないでしょうか」
ここで、しばしの沈黙。
「……あ、あのう」
ふいに丸井が、周囲におずおずと尋ねる
「この回の先頭バッターって、どなたでしたっけ?」
「ああ……それは、おれだよ」
答えたのは、キャプテン谷口である。
背後から、半田が声を掛ける。
「例の情報、お伝えしましょうか?」
その言葉に、谷口は深くうなずいた。
「ああ、たのむ」
やがて先頭打者の谷口と、次打者のイガラシがベンチを出ていく。
残るナイン達は、半田がノートに大きく書いたメモを、不思議そうにしげしげと眺めたり、幾度も唱えて暗記しようとしている。
「しっかし、探せばあるもんだな」
横井が感心げに言った。
「組み立てパターンのクセなんてよ。体のクセがあることは知ってたが、こういう所にも出るなんて、思いもしなかったぜ」
「こら横井」
たしなめるように言ったのは、正捕手倉橋である。
「感心ばかりしてないで、きさまもおぼえろ。谷口とイガラシのつぎは、おまえだぞ」
「わ、分かってるよ。ええと……」
半田はノートのページを開いて、味方には見えるように、しかし相手には見えないようにベンチに置く。そこには、次のように書かれていた。
・ランナーなしまたは一塁、カウント1-1 →内角低め速球
・ランナー得点圏、初球 →内角速球(高め、低めどちらも)
・ランナー得点圏、カウント1-1 →カーブ
・ランナー得点圏、ツーストライク →フォーク
一方の三塁側ベンチ。東実監督は「うーむ」と渋い顔で、守備位置へ散っていくナイン達を見つめている。
「ワシがまちがっていたというのか」
ポツリとつぶやきが漏れた。
「きのうは作戦が功を奏し、墨谷をあと一歩まで追いつめたが、土壇場で勝ちを逃がした。しかし二日連続の延長で、やつらは疲れている。ここで普段どおりの野球をやれば、イガラシを打ちくずせると思ったが……」
そんな指揮官の様子を伺っていた者がいた。マウンド上のエース佐野である。
「まさか監督、作戦を変える気じゃないだろうな」
胸の内につぶやき、横目でちらっと見やる。
「作戦はまちがってない。墨高のやつらだって疲れてるんだし、うちが普段どおり思いきり振ってくるのは、向こうも嫌なはずだ」
規定の投球練習のラストボールを放り、一人フウと溜息をつく。
「だがほかの連中……杉谷さんと村野がカンタンにしとめられるのを見て、すっかりビビっちまってる。今、きのうと同じ作戦にもどせば、なおさら相手を大きく見てしまうことになりかねんぞ」
ほどなく、眼前でこの回の先頭打者谷口が、右打席に入ってくる。
「四番からか……」
ロージンバックを拾い、ひそかにつぶやいた。
「おれがあの谷口を打ち取り、うちに試合の流れを戻してやる!!」
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