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<外伝>
第61話 新たな目標は!?の巻
1.もう一つの“課題”
「タカ、夕飯だよ!」
母の声に、谷口は「はーい」と返事して、鉛筆を机に置く。それから部屋を出て、茶の間へと向かった。すでに味噌汁の香りが漂ってくる。
「おまたせ」
襖(ふすま)を開けると、すでに両親が揃って座敷に座っていた。父はお猪口を手に、もう晩酌を始めている。
「すいぶん長い時間、部屋にこもってたね」
やや皮肉っぽく、母が言った。
「また野球のことかい?」
「ち、ちがうよ。宿題やってたんだ」
谷口は両手を交差させ、否定した。そして自分も胡坐をかく。
「夏休みの課題だよ。都大会期間中は、ぜんぜん手をつけてなかったからね。部員達にも、この二日間の休みで半分は終わらせておくように言っておいた」
「ハン、ずいぶん甘いキャプテンだねえ。あたしなら、課題も終わらせられないやつは、置いてくよって言うけどさ」
「か、母ちゃん。そりゃムチャだよ……」
おいおい、と赤ら顔の父が割って入る。
「もういいじゃねえかよ、母ちゃん。ほんと分かってねえな。タカ達墨高の野球部が、どれだけエレえことをしたかって。見ろよ、ほら」
父はそう言って、新聞を広げてみせる。そこには『小さな強豪墨谷・初めての甲子園へ』の大見出しが載っていた。
「つい数年前まで弱小だった野球部が、なんと甲子園出場を果たしたんだぞ。その立役者が、うちのセガレだってんだから。いま喜ばなきゃ損だぜ」
フン、と母は鼻息を立てる。
「あたしゃ、どっかの酔っ払いにウンザリしただけだよ」
父は「あらっ」とずっこける。
「……で、明日からまた練習ってんだろ?」
その一言に、てっきり宿題の話をされるかと思い、身構える。
「あ、うん……」
だが思いのほか、母の口調は穏やかだった。
「しっかりおやりなさい」
「えっ」
「あたしゃ今のアンタだけじゃなく、将来のことも心配だから、ついきついことも言ってしまうけどさ。本心じゃ……やっぱり、アンタがああして活やくしてくれるのは、親としてうれしいよ」
「……あ、ありがとう。母ちゃん」
谷口はあやうく、目が潤みそうになる。その時、母の背後で「ヒヒヒ」と、父が妙な笑い声を発した。
「タカ、知ってるか? 母ちゃんのやつ、おめえらが甲子園行きを決めた瞬間、スタンドでボロボロ泣いてたんだぞ。あの姿、おめえにも……イテッ」
饒舌が止まらない父の頭上に、母のゲンコツが振り下ろされる。
「調子に乗るんじゃないよ。まったく、このヨッパライめ」
「……ごめんちゃい」
父は涙目で小さくなった。谷口は思わず吹き出してしまう。
「タカオ。こんなバカほっといて、ほら。さめる前に食べちゃいなさい」
母の言葉に、谷口は「はーい」と返事する。そして「いただきます」と手を合わせてから、大皿に盛られたヒラメに箸を伸ばした。
翌朝。谷口が学校の野球部部室を訪れると、すでにほとんどの部員が来ていた。
「あっ、キャプテン」
「おはようございます」
「おはよう谷口」
チームメイト達が、次々の声を掛けてくる。
「おはよう。みんな、この二日間でしっかり休めたか?」
島田が「ええ、十分です」と答える。
「けどなあ……」
傍らで、同級生の横井が渋い顔になった。
「課題の量には、まいったぜ。五科目十ページくらいずつあったよな」
「あれ、先輩達もでしたか」
一年生の根岸が尋ねる。
「うむ。学校側としては、夏休みにあまり遊ばせないようにっていう魂胆なんだろうが」
答える横井の隣で、戸室が「まったく……」と溜息をつく。
「こちとら練習やら試合やらで、んなヒマねえっつうの。少しは配慮してくれても」
「……ま、グチってもしかたあるまい」
谷口はそう言って、一つ吐息をつく。
「学業こそ、われわれの大事な本分なんだ……と、あの部長は言うだろう」
ヘタな物真似に、部員達はハハと苦笑いを浮かべる。その時だった。
部室のドアがノックされる。ユニフォーム姿になった倉橋が「開いてますよ」と返答すると、カチャリとドアノブを回す音がした。
入ってきた人物に、部員達は皆一様に顔を引きつらせる。
「……ぶ、部長!」
倉橋が声を上げた。ワイシャツとネクタイ姿、つるりとした頭に眼鏡、肩幅の広い体躯の男。野球部部長が、そこに立っていた。
「やあ諸君。甲子園出場、おめでとう。よくがんばったな」
戸室が小さく「ほんとかよ」とつぶやく。
「まずお祝いを言わせてくれ。諸君らの活やくのおかげで、私も鼻が高いよ」
とても祝っているようには思えない、低いトーンの声で言った。案の定、すぐにメガネの奥の双眼が「ただし……」と睨んでくる。
「きみらの本分は、学業だ。そのことを忘れるなよ、谷口」
突然名前を呼ばれ、谷口は緊張しつつ「は、はい」と応える。
「む。それなら……学年共通の課題プリント、もう終わらせたかね?」
部員達は、一斉に「ええっ!」と驚いた声を発した。
「……す、すみません部長」
谷口は数歩前に出て、頭を下げる。
「ぼくの指示で……半分までは終わらせるようにとしか、伝えてないんです」
「なにいっ」
部長の声が甲高くなる。
「まったく。勉強のこととなると、途端に甘くなるキャプテンだな」
「……あ、あのう」
その時、一人の部員がそろりと挙手した。イガラシである。
「ぼく、終わらせましたけど」
イガラシはそう言いつつ、バッグからプリントの冊子を取り出した。
「ひょっとして提出を求められるかもしれないと思って、念のため持ってきてたんです」
「ほほう……」
部長はイガラシから冊子を受け取ると、メガネを掛け直し、数ページめくる。
「そういえばイガラシは、この前の定期テストで学年十位だったな」
冊子を閉じ、部長は谷口の肩をポンと叩く。
「なあんだ、ちゃんと指導してるじゃないか。それならそうと早く言えばいいものを」
は、はあ……と、谷口は額の汗を拭う。
「あの、部長」
イガラシが呼んだ。
「なんだね?」
「ほかのメンバーも、あと数ページで終わりなようです。分からない問題があるようでしたら、ぼくが教えますから」
「……ふむ」
なぜか曖昧な返事をして、部長はじろっと全員を睨む。
「後輩に助けられたな。ま……よかろう」
その返答に、ほぼ全員がホッと胸を撫で下ろす。
「ただし……」
部長はすかさず付け足した。
「遅くとも今週中に提出すること。課題を未提出の者は、甲子園へは連れて行かないからな」
再び「ええっ」と声が上がる。
「言っておくが、これは脅しじゃないぞ」
全員を見回して告げた。
「ベンチ入りメンバーを決めるのは、最終的には部長である私の裁量だからな。諸君、心しておきたまえ」
部長はそう言い残し、イガラシの冊子だけを手に、部室を出ていく。
「……い、イガラシくん」
根岸がわざとらしく、猫なで声で言った。
「ほんとに……勉強、おれらに教えてくれるのかい?」
「しかたないだろう。こんなつまらない理由で、メンバーが欠けることになったら事だからな。ちなみに根岸」
睨む目で、イガラシは尋ねる。
「おまえ……あと何ページ、残ってるんだ?」
「ハハ。あと三十……いや四十ページくらいかな」
根岸の返答に、イガラシは「まったく」と溜息をつく。
「いったいこの二日間の休み、なにやってたんだよ」
谷口は「ゴホン」と、気を取り直すように咳払いした。
「課題は、各自でがんばってもらうとして……今日からいよいよ練習再開だ。もちろん、甲子園へ向けての」
甲子園という言葉に、部員達の表情が引き締まった。
「といっても、組み合わせ抽選が二週間後。それから甲子園初戦まで、最短でも五日間ある。意外に期間はあるんだ。そこで……」
しばし間を置き、考えを述べる。
「この一週間は、基礎を徹底して行う」
倉橋が「それって……」と、口を挟む。
「いつも四月ごろにやるような?」
「そういうことだ」
束の間ざわめきが起こるが、谷口は構わず続けた。
「こういう大会が終わった後、どうしても基本を忘れてしまっていることが、よくあるからな。しかし甲子園でそれを露呈すれば、命取りになる」
さらにキャプテンは「それだけじゃないぞ」と、付け加える。
「始めのランニング、柔軟体操、キャッチボール。一つ一つのメニューを、ていねいにこなしていくんだ」
「は、はいっ」
部員達の返事に、谷口は「もう一つだけ」と、声のトーンを低くして言った。
「都大会優勝は、もう過去のことだ。それよりも、自分達の力で甲子園出場をつかみ取ったことを誇りとして、あの大舞台へ乗りこもう。いいな!」
「オウヨッ」
ようやく墨高ナインは、いつものように快活な声を発した。
2.基本を思い出せ!
―― ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ!
墨高ナインはいつも通り、掛け声を上げつつ荒川沿いをランニングした。その道中、何度も「墨高がんばれよ!」「甲子園でも期待してるぞ」と、声を掛けられた。
「なんだか、すごいことになってるな」
丸井が呆れ顔でつぶやく。
「大会が始める前は、まるで注目なんかされてなかったのによ」
「ま……小さいことは、いいじゃないの」
隣で、鈴木がニヤけて言った。
「これだけ人気だと、フフ……女の子からラブレター、もらっちゃったりして」
「はあ? てめえはその前に、ベンチ入りできるかどうか心配しろ」
「おまえこそ、自分の心配しろよ」
前方より、倉橋が振り向いて言った。
「どうせ課題、半分も終わってねえんだろ。レギュラーが課題未提出でベンチから外されるなんて、笑いごとじゃねえからな」
「は、はい……」
図星だったらしく、丸井はうつむき加減になる。
やがて学校のグラウンドに戻ってくると、いつものように二人ないし三人一組になり、ナイン達はキャッチボールを始めた。
「おい谷口……あれ」
倉橋が声を掛けてくる。谷口が顔を向けると、正捕手はフェンス方向を指差した。気づけばギャラリーが大勢押し寄せている。
「どうする? 練習のジャマにならねえか」
「いや。むしろ、ありがたい」
意外な返答だったのか、倉橋は「えっ」と目を丸くする。
「おれ達を応援してくれているから?」
「それもあるが……いまのうちに、見られることに慣れておくのも必要だろう」
谷口は笑って答えた。
「なにせ甲子園の観衆は、神宮球場以上だって言うからな」
「ああ、そういうことね」
納得したらしく、倉橋は首を縦に振る。
ほどなくキャッチボールが始まった。谷口は倉橋と二十メートル程度の間隔を取り、ナイン達へ「まずこれくらいから始めるんだ」と告げた。その理由も説明する。
「いきなり速いタマを投げたり、遠投する必要はない。一球一球、ボールの回転を確かめながら投げるんだ。ペースはゆっくりでいい」
そして自らもゆっくりとしたフォームで、ボールを投じた。スピードはさほどないものの、縦回転のボールがシュルルルと音を立て、倉橋のミットの収まる。
「ピッチャーもそうだが、野手もシュート回転になってないか、気をつけるんだぞ」
ポイントを説明しつつ、倉橋と互いに投げ合う。
「たとえばバックホームの時、シュート回転のタマは横に逸れて、キャッチャーが捕りにくくなってしまう。中継プレーの時も同様だ」
しばし同じ距離でのキャッチボールを繰り返してから、谷口は全員へ告げた。
「ようし。あとは自分のポジションに合わせて、必要なキャッチボールを考えてやってみろ。内野手は正確なスローイングを、外野手は低い球筋で投げるように意識しろ」
はいっ、とナイン達は声を揃える。
やがてキャッチボールが終わると、ナイン達は休む間もなく、次の練習の準備に取り掛かった。今度は三人一組になり、組ごとに一本ずつバットを持つ。
谷口は倉橋、そして根岸と組んだ。
グラブを左手に嵌め、倉橋にバットを預かる。そして「みんなよく見ておくんだぞ」と、全員へ告げた。それから腰を落とし、ノックに備える。
倉橋は、正面への緩いゴロを打った。谷口は腰を落としたまま、足を数歩動かして捕球し、根岸のグラブへ送球する。
「なんでえ、カンタンそうだな」
井口が拍子抜けしたように言った。聞いていた丸井が「うーっ」と声を上げ、つかつかと歩み寄る。まあまあ、と谷口は笑って後輩を制す。
「ほんとうにカンタンかどうか、やってみれば分かる。ポイントは三つだ。まず腰を落とすこと、つぎに足をしっかり動かすこと、そしてグラブの芯で捕球することだ」
そして「井口」と声を掛ける。
「この練習、入部初日にもしたが……おぼえているか?」
えっ、と井口は戸惑い顔になった。
ほどなくグループごとに、基礎トレーニングのノックが始められた。うっかり「カンタンだ」と口にした井口は、同組のイガラシに「腰が高いぞ」と指摘される。谷口の意図を知る一年生は、幼馴染に容赦ない。
「足も動いてないし、グラブの芯からも外れてる。どれもできてないじゃねえか。なにが、カンタンだ」
「うっ……」
井口はさすがに黙り込んでしまう。
他のグループも、軒並み苦戦していた。「足を動かせ」「もっと腰を落とすんだ」と、指摘の声が飛び交う。
見かねた谷口は、根岸と代わり他のメンバー達を見て回った。
「どうだ、意外とむずかしいだろう」
口元に笑みを浮かべて言った。
「四月にあれだけやったのに、もうこんなに忘れてる。ということは試合で守る時も、いつの間にか腰が高くなっていたんだ。気づかなかったろう」
は、はいっ……と戸惑うような声が返ってくる。
しばし谷口は見て回る。そして、うーむ……と考え込んだ。「レギュラーの数名を除いて、あとはなかなかスムーズにいかないな」と、胸の内につぶやく。
「みんな、いったんストップだ」
全員へそう声を掛けた。それからグループに戻り、再び左手にグラブを嵌める。
「さっき『腰を落として』と言ったが、これを意識するあまり、動きがぎこちなくなっている者が多い。そこで、もう一つポイントを言う」
谷口は根岸に「たのむ」と言って、ボールをゆっくりと転がしてもらう。足を動かし捕球しようとする際、グラブを地面につけ顔をぐっと近付けた。そしてさっきと同じく、グラブの芯にボールを収める。
「『腰を落とす』でスムーズに動けない者は、いま見せたとおり、グラブを地面につけ、顔をボールに近付けるんだ。その方が、ボールも見やすい」
さらに「それから」と、話を続ける。
「慣れてきたら、少し速く転がしてもらって、シングルハンドや逆シングルでショートバウンドを捕る練習もしてみろ。横井」
いきなり指名され、横井は「えっ、おれ?」と自分の顔を指差す。
「ここで三年間きたえてきたおまえなら、できるはずだ。やってみろ」
「あ、ああ」
横井は同じグループのイガラシに頼み、ショートバウンドを放ってもらう。さすがに動きは身についているようで、横井は自然に顔をぐっと近付け、グラブを地面に落として捕球する。パシッ、と小気味よい音が鳴った。
「こんな感じか?」
「む、さすがだな横井」
全体の前で褒められ、横井は「照れるなもう」と顔を赤らめる。
「いまの横井の動きを頭に入れて、やってみろ」
ナイン達は「はい!」と、ようやく快活に返事した。
谷口はもう一度、見て回る。最初は動きがぎこちなかったメンバーも、何度か繰り返すうちに、段々スムーズになっていく。
「ようし。みんな、その調子だ」
仲間を励まし、谷口は自分のグループに戻った。根岸がすでに息を弾ませている。
「どうした根岸」
「け、けっこうシンドイですね」
苦笑いして、根岸は応える。
「秋から正捕手になろうって男が、そんなことでどうするんだ」
「す、すみません……まだやれます」
「そうだ、その意気だ!」
キャプテンに励まされ、根岸はまた前傾姿勢になる。
「……タイム! みんなもう一度、こっちを見てくれ」
三十分近くが経過した後、谷口は一旦練習を止め、再び全員を注目させる。
「つぎは、左右にふっていく。ただし捕球の時、必ず正面で捕ることを忘れるな」
さっきと同じく、倉橋にノッカーを任せ、今言った動作をやって見せる。
「……あのう」
イガラシが、おもむろに挙手した。
「試合の時は体の横で捕球することもあると思いますけど。今はどうして、正面で捕らなきゃいけないのでしょうか?」
「いい質問だ、イガラシ」
そう返答し、胸の内で「分かってて聞いてるな」とつぶやく。
「たしかに試合の時は、捕球体勢を気にする余裕はない。だが、練習から体の横で捕ることをおぼえてしまうと、足を動かさないクセがついてしまう」
谷口は「あと二球たのむ」と、倉橋に告げる。正捕手は言われたとおり、緩いゴロながら左右へ打ち分けた。いずれも谷口は、正面に回り込んで捕球する。
「いいかみんな。この練習は、なにも守備のためのものじゃない。足腰を強くすることは、バッティングや体力強化など、すべてにつながっていく。だから基本は大事なんだ」
はいっ、とナイン達は返事して、また各グループでノックを再開した。
三年生の横井は、一年生の松本、平山とグループを組んでいた。今は横井がノッカーを務め、平山がキャッチャー役、そして松本がノックを受けている。
「つぎ、いくぞ」
カッ。左へ打ったゴロに、松本は横っ飛びして捕球した。それから片膝立ちで、平山へ送球する。
「ナイス松本!」
平山の褒め言葉を、横井は「いいやダメだ」と打ち消した。
「松本。これぐらいのゴロに飛びついてるようじゃ、もっと速い打球に反応できなくなるぞ。ちゃんと正面に回りこまなきゃ」
そう言って、横井は一人の部員を指差す。そこにはセカンドのレギュラーを務める丸井の姿があった。
「丸井の動き、よく見てろ」
三人の視線の先で、ノッカーが左右に打ち分けるゴロを、丸井はいずれも正面で捕球していた。涼しげな顔で、呼吸一つ乱さない。
「す、すごい。全部正面で……」
「しかも、あんなカンタンそうにさばくなんて」
一年生二人は、驚嘆の声を発した。
「分かったろう、松本。おまえがレギュラーになれないワケが」
厳しい口調で告げた後、横井はふっと穏やかな顔になる。
「しかし松本、平山。おまえ達の脚力なら、きっとできるはずだ。平山、おまえも根岸に正捕手をさらわれたままでいいのか?」
「は、はい。がんばります」
「ようし、その意気だ!」
横井は後輩二人を励まし、ノックを続ける。
3.谷口の不安
「ようし、十分間休憩! その後はシートノックだ」
谷口がそう告げると、他のナイン達は多くが一様に、安堵の顔をした。
「フヒー、やっと休める」
「こんなキツイとは思わなかったぜ」
一方、イガラシと根岸、高橋、鳥海ら四人の一年生は、巻き尺とベースを持ってきて、慣れた手付きで並べていく。谷口が作業に加わろうとした時には、すでにダイヤモンドが完成していた。
「す、すまんな。たすかるよ」
一声掛けると、イガラシが「なーに、これぐらい」と事もなげに言った。
「あまり先輩を働かせるのも、悪いですから」
それから他の三人と共にベンチへ走り、水筒の蓋を開け水を飲み下す。
その時だった。休憩に入るタイミングを待っていたかのように、校舎側の野球部部室の陰から、二人の人物がこちらに駆け寄ってきた。
「……あっ、ドウモ」
二人とも馴染みのある顔だった。毎朝新聞の記者清水と、カメラマンの二人組である。
「急に押しかけてすまないね。ちょっと話を聞かせてもらえるかい?」
清水はジャケットのポケットから手帳を取り出し、すぐに話を聞く構えだ。
「こら、水くらい飲ませてやれ。気が利かんやつめ」
隣でカメラマンが、清水を叱り付ける
「そ……それは悪かった。いいよ、水分補給してから、ゆっくり」
「はあ、すみません」
谷口も水筒のミスを一口、二口と飲み下し、それから記者のところへ戻る。
「おまたせしました。えっと……いつ、来られたのですか?」
ハハ、と清水は照れた顔になる。
「じつは一時間ほど前から、そこの部室の陰で見させてもらってたよ」
「今日は基礎練習ばかりで、あまり見せられるようなモノじゃなかったかと」
謙そんする谷口に、清水は「とんでもない!」と首を大きく横に振った。
「基本に立ち返った、いい練習じゃないか。甲子園へ行くからって、浮ついて試合形式のハデな練習をするかと思いきや、さすが地に足がついてるチームだと思ったよ」
「あ、ありがとうございます」
「ところで二週間後には組み合わせ抽選だが、対戦したいチームはあるかい?」
えっ、と谷口は戸惑う声を上げた。
「バカだなあ、おまえは」
後方で、カメラマンがまた突っ込む。
「初出場チームの子に、他地区のことなんか聞いても、答えようがないだろう」
「いや。例えば春先に練習試合したっていう箕輪(みのわ)とか、招待野球で対戦した春の甲子園優勝校、西将学園なんか気になるんじゃないかい」
「え……とすると、二校とも夏の出場を決めたのですか?」
「なんだ、知らなかったのかね」
清水は苦笑いする。
「二校とも、圧倒的な強さで地区大会を制したよ。とくに西将は、レベルの高い大阪大会で、まったく他を寄せつけなかったらしい」
「あの……今は正直、よそのことを考えてる余裕はありません」
困惑顔で、谷口は答えた。
「ぼくらは正直、できる限りの準備をしていくことしか」
「む……まあ墨高は今回が初出場だし、それが現実的だろうね」
最後は、清水も納得してうなずく。
やがて休憩時間が明け、ナイン達はグラブを手に各ポジションへと散っていく。一方、谷口だけがバットを手にする。
「ほう、シートノックが始まるようだな」
清水の一言に、カメラマンは「む」と相槌を打つ。二人の眼前で、谷口は全員を見渡し、ポイントを説明し始めた。
「さっきも言ったが、今日のポイントは基本の動きを思い出すことだ。このシートノックでは、とくに足をしっかり動かすことを意識してみろ」
そう言って、「いくぞ!」とまずサード方向へゴロを打つ。
守る岡村の正面へ、打球は規則的にバウンドして飛んだ。岡村は言われたとおり足を動かし、捕球して一塁へ送球する。
「つぎ、ショート!」
キャプテンの掛け声に、イガラシが応えた。
イガラシに対しても、谷口は正面へ規則的なバウンドの打球を放つ。イガラシは軽快なステップを踏み、流れるような動きで一塁へ送球した。
続いて同じショートの横井、セカンドの丸井と松本、ファーストの加藤、根岸……と、ポジション順にテンポよくノックが進んでいく。
「……お、おい」
清水の傍らで、カメラマンが首を傾げる。
「やけにカンタンな打球が多くないか」
「そうか?」
「だってこれから、甲子園へ行こうってんだろう。それならもっと、強い打球に慣れておく必要があるんじゃないのかい」
ハァ……と、清水はわざとらしく溜息をつく。
「これだからシロートは」
「な、なにっ」
カメラマンは額に青筋を立てた。清水はチッチッと、顔の前で人さし指を振る。
「墨谷の準決勝、決勝の試合を見なかったのか? 強い打球にも、彼らは怯む様子もなく、ちゃんと処理してたろう」
「た、たしかに……」
渋い顔をしながらも、カメラマンはうなずく。
「墨谷はもう、そういう練習はすんでるのさ。だから大会が終わって今一度、基本を思い出そうというのが、谷口キャプテンのねらいなのさ。優秀な記者なら、これぐらい……」
「そりゃさっき、ぜんぶ谷口が言ってたことじゃないか」
的確なツッコミに、清水は「あ」とずっこける。
「しかし……」
カメラマンが、声を明るくして言った。
「これだけ分かってるキャプテンのもとなら、墨谷は甲子園でも、けっこういい線いくんじゃないの」
「……いや、それはびみょうだな」
清水は、やや重い口調で応える。
「なにせ甲子園では、墨谷の得意技が一つ、制限されてしまうし」
しばしカメラマンは考え込む仕草をしたが、やがて「あっ」と声を発した。
「データ集めか」
そのとおり、と清水は首肯した。
「へいへい、しっかりいこーぜ!」
掛け声を続ける倉橋の傍らで、ノッカーの谷口は次第に口数が減っていく。
「……お、おい谷口」
その声にハッとして、目を見開く。
「どしたい。さっきからしかめっ面で、黙りこくっちゃってよ」
「あ、ああ……タイム!」
谷口は全体に声を掛け、一年生の高橋と鳥海に「ちょっと代わってくれ」と頼んでから、倉橋を「ちょっと」とバックネット裏に呼び出す。
「急にどうしたんだ」
心配そうに、正捕手は尋ねてくる。
「なあ倉橋。今度の甲子園だが……どこに目標を置けばいいと思う?」
質問を返され、倉橋は戸惑った顔をした。
「どこに? そうだなあ……まず初戦突破といったあたりが、無難じゃねえか」
「対戦相手がどうなるかも分からないのに?」
ハハァン……と、倉橋はうなずきつつ言った。
「なるほど。初戦から、いきなり優勝候補クラスが来るかもしれんのが、甲子園だものな。それでおまえ、ナイン達に目標を示せずに、悶々としてたわけだ」
「そうなんだよ」
苦笑いして、谷口は返答する。
「なあに。今週末には、組み合わせ抽選だ。対戦相手が分かりゃ、自然と目標ってやつも見えてくんじゃねえか」
気楽そうに答える倉橋。しかし谷口は「うーむ……」と、渋い顔になる。
「力量が分かる相手ならな」
その一言に、倉橋は「あっ」と小さく声を上げる。谷口は話を続けた。
「いぜん戦ったことのある、西将や箕輪なら、だいたいイメージもできる。しかしそれ以外のチームについては、分からないことだらけだ。しかも……」
谷口はちらっと、背後のグラウンドを見やる。視線の先には、選手兼マネージャーとして、これまで対戦相手のデータ収集と分析をほぼ一手に引き受けてきた、半田の姿があった。
「対戦相手が分かったとしても、同じ地区のチームでない限り、ほとんど情報が得られないと思う。これまで半田が相手を分析してくれたが、今回はその材料さえ手に入らないかもしれない。つまり……昨年の明善戦と、似たような状況になってしまうんだ」
たしかにな、と倉橋は首肯する。
「しかも今までは、谷原を倒して甲子園という目標があったからこそ、チームは一致団結できた。それがなくなった今、どこまで士気を保てるか」
「ああ……相手の情報以上に、じつはそのことが気になってな」
そう言って、谷口は小さく溜息をついた。
やがて正午を過ぎ、昼休み時間となった。墨高ナインは、いつものようにグラウンド端の木陰に弁当を広げ、昼食を取る。
「ごちそうさま……あっ」
谷口が弁当を食べ終わるのを見計らったように、清水記者とカメラマンが近寄ってきた。
「今日はありがとう。いい練習を見せてもらった」
そう言って、清水は右手を差し出す。谷口はその手を握り返した。
「ど、どういたしまして」
「『墨高、甲子園へ着々と準備』と書かせてもらうよ」
「そ……そんな。まだ始めたばかりですから」
照れるキャプテンを、清水は「まあた謙そんしちゃって」とからかう。
「……あ、あの」
谷口は生真面目な表情に戻り、清水に尋ねる。
「甲子園出場校の色んなデータ、記者の方は持っているのですか?」
「ん? ああ、それなりにね」
「でしたら……一部でかまわないので、見せていただけないでしょうか」
清水は一瞬、カメラマンと目を見合わせ、それからこちらに向き直る。
「すまないが、それはできないよ」
苦笑いしつつ答えた。
「われわれメディアのスタンスとしては、どの出場校にも公平に、だからね。いくら地元の代表校だからって、他校のデータを見せるのは、ちょっとムリだな」
「……そうですよね。すみません」
谷口は頭を下げる。清水は「いやいや」と、首を横に振った。
「気持ちは分かるさ。墨高のキャプテンとしては、甲子園で勝つための材料が、少しでも欲しいと思うのは当然だもの」
「は、はい……」
「まあ各出場校の地方大会のスコアくらいなら、教えてあげられるけど」
「ほんとうですか?」
思わず声を上げた。
「それはたすかります」
「いや、ほんとうにスコアだけだし。あまり期待しないでくれよ」
そう言って、清水はバッグから、一冊の小さなメモ帳を取り出した。
「これに全出場校の、地方大会全試合のイニングスコアがのっている。そうだな……組み合わせ抽選の後、また取材に来させてもらうから、それまで貸してあげるよ」
「ありがとうございます」
記者の厚意に、谷口はもう一度頭を下げた。
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