南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

【野球小説】ちばあきお原作「キャプテン」<外伝> ~孤高のエース、原点へ【後編】~

【目次】

 

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(※イラスト提供:1月の野球好き様より)

<主な登場人物紹介>

青葉部長:青葉の大勢いる野球部員達を、日々厳しく鍛え上げている。勝負に対してはシビアだが、意外な情の厚さを見せることもある。

 

尾崎:青葉学院野球部OB。陸王高のエースとして、甲子園で活躍。母校が墨谷二中との再試合が決まった後、投打の強化のために駆け付けた。

 

 

1.野球という景色

 谷口タカオが転校して、一ヶ月が過ぎた。夕食後、佐野はこの日も寮の外で、他のピッチャー陣とともにシャドウピッチングを行う。

 この頃妙に静かだなと思った。そしてすぐに、それはあの男がいないからだと気付く。

 谷口の“音”。不器用ながらも懸命にボールを追い、バットを振る――その音がもう、聞こえない。このことに寂しさも懐かしさも感じないけれど、何かが欠落したような感覚があることは確かだ。

(あの人も、たしかに青葉学院野球部の一員だったんだ……)

 佐野はそう実感せずにはいられなかった。

 

 

 月日はさらに過ぎていく。

 迎えた春の選抜大会。佐野は二年生ながら背番号「1」を背負い、初戦から全試合、先発のマウンドに立った。

 佐野は、ただの一点も与えなかった。許したヒットは、大会通じて僅かに数本だった。そして青葉は、やはり圧倒的な力を見せつけ、大会を制した。

 優勝に貢献できたという安堵感はあった。しかし、それだけだった。

 どの打者と対戦しても、仕留めるのはまるで赤子の手を捻るようだった。たまにテキサスヒットを打たれることはあっても、ベストに近いタマを投げれば、打ち返される気はしなかった。

 

 だから、歯ごたえはまるで得られなかった。

 

「おい佐野」

 ある日の夕食後。この日も寮の外でシャドウピッチングを行う佐野に、バッテリーを組む村野が話しかけてきた。

「おまえ、だいじょうぶか」

「なにが?」

「このところ、めっきり口数が減って、なんだか殻に閉じこもってるように見えるぞ。ほかのやつらも、心配してた」

 そうだな、と佐野は答える。

「エースの重圧に押しつぶされそうだと言ったら、納得してくれるか」

「んなわけないだろ」

 あっさり言われる。

「全試合無失点のピッチャーが。おれはむしろ……おまえが退屈してるように見える」

「ふーん、そうか……」

(さすが正捕手。よく分かってるじゃないか)

 そう感心したけれど、おくびにも出さない。

「そうか、じゃねえよ」

 村野は苦笑いした。

「そんなに退屈なら、あの人……名前なんだっけ。あのヘタな先輩みたいに、おまえも転校するか?」

「ばーか。なんでそんな、メンドウなことしなきゃいけないんだよ」

 軽口を叩き合いながらも、内心の虚無感は広がっていく。

(おれは二年生にして、名門青葉のエース。しかも選抜大会の優勝投手だぜ。入学前に欲しかったものは、ほとんど手に入れてきたじゃないか。何を不満に思うことがある?)

 そう自問自答することさえも、馬鹿らしく思える。分かっている。

 佐野は飢えていた。勝つか負けるか分からない、痺れるような戦いを。自分と対等に渡り合える打者、チームと巡り合えることを。

 佐野の中で、野球という景色が色を失っていく。いつしか灰色の世界で、自分一人だけボールを投げているような、そんな感覚になっていた。

 

 

 さらに月日が流れ、やがて佐野にとって二度目となる、夏の選手権地区大会が始まった。

 すでに一軍レギュラーとなっていた佐野は、ベンチ入りはしながらも登板せず、二軍の投手に助言するコーチのような役割を請け負った。

 もっとも、佐野が助言してもしなくても、二軍の投手陣は他校の打線をまるで相手にせず、簡単に封じていく。

「こりゃテキトーに投げても、おさえられそうだな」

 ある時、投手の一人がイニングを三者凡退に抑えて帰ってきた後、そんな発言をした。明らかな慢心が伝わってきたので、佐野はすぐに叱り付ける。

「バカヤロウ。そんな気でいたら、いつか痛い目にあうぞ。コースも甘い。地区予選ではおさえられても、全国大会じゃこうはいかんからな」

「は、はい。すみません……」

 その投手は恐縮して、頭を下げる。佐野はひそかに溜息をついた。

(まあ、こいつの気持ちも分からなくはねえけどな。ここまで歯応えがないんじゃ……)

 こうして青葉は、二軍ながら圧倒的な強さを見せつけ、当然のように決勝進出を決めた。

 

 決勝戦の相手は、墨谷二中という新鋭の学校だった。

 

2.再会

 決勝の相手が分かった時、佐野は僅かながら戸惑いを覚えた。

(墨谷二中だと? てっきり、あの倉橋のいる隅田中だと思ったのに)

 今年の隅田中は、地区隋一の捕手として名高い倉橋が率いる好チームとして、前評判が高かった。青葉に対抗できる唯一のチームとも言われていた。

 それが準決勝、青葉が勝った後の第二試合で、延長戦の末に敗れたという。

 偵察は寄越していなかった。すでに倉橋のことは、それ以前の試合でチェック済みだったし、元より地区予選レベルで偵察などしないのが慣例だった。

 決勝戦の前夜。佐野は新聞記事から、改めて墨谷二中の勝ち上がりをチェックしてみる。

(ほう……二回戦で、あの金成中を倒したのか。それに初戦の江田川戦も、あの井口とかいう評判の高い左投手を攻略したんだな)

 新聞を元に戻し、一つ吐息をつく。

(ちとウカツだったな。金成中を破った時点で、マークすべきだったかもしれん。有望な一年生が入部したのかもしれんな。それでも、さすがにうちの二軍の投手を脅かすことはないだろうが……)

 僅かに緊張を覚える。青葉に入学して以来、久しぶりの感覚だった。

 

 

 決勝当日。ベンチ内で、二軍の選手達がざわめいている。

「おい、なんのさわぎだ!?」

 佐野は苛立ちを込めて言った。

「昨年まで青葉にいたやつが、試合に出るっていうんですよ」

 選手の一人が答える。佐野は「えっ」と、小さく声を上げた。

「しかも今やキャプテンだってさ」

「うちにいた時は、あんなにヘタッピだったのに、分からんもんだな」

(まさか、それって……)

 おい、と佐野は尋ねる。

「その墨谷のキャプテン……ひょっとして、谷口って人じゃないか?」

「ああ、そうですよ」

 別の選手が答える。

「けど佐野さん。あんなやつのこと、よくおぼえてましたね」

 その時である。ベンチ奥より「なんだ今の言い草は!」と、部長が怒鳴った。

「かりにも、これから戦うチームのキャプテンだぞ。それを“あんなやつ”とは、墨谷をナメているのか。そんなんじゃ、今に痛い目にあうぞ!」

「は、はい……」

 選手達は恐縮したものの、まるで危機感は感じられない態度である。

(こりゃ案外、部長の言ったとおりになるんじゃないか)

 佐野は予感した。果たして、それは的中することになる。

 

 

 初回。二点を先制した青葉だったが、その裏、墨谷の三番イガラシのバントヒット、さらに四番谷口のタイムリーツーベースヒットで一点を返す。今大会、初めて青葉は失点を喫したのである。

 以降は打ち合いとなり、三回には四対五と逆転を許す。その後は、追いついては突き放されるシーソーゲームとなり、七回を終わって六対七。一点リードを許すという予想外の展開となった。

 

 

「あのイガラシってやつ、なかなかやるな」

「む。うちに来ても、十分レギュラー争いに加われるんじゃないか」

 二軍選手達の多くは、どうやら墨谷の三番打者を務める一年生・イガラシに関心を向けているようだった。

 しかし佐野は、かつてのチームメイト……いや、そう呼ぶには遠い距離感だった男の一挙手一投足から、目を離せなくなっていた。

(やはり……というか、想像以上の変わりようだな)

 簡単なゴロも取れず、毎日のようにコーチから叱られ、チームメイトから笑われていた頃の気弱そうな姿は、もうなかった。そこにいたのは、今まさに自分達を苦しめる強敵・墨谷の中心選手として、攻守に渡りチームを牽引する、キャプテン谷口だった。

(それにしても、あの人がここまでやるとは……)

 何より佐野を驚かせたのは、谷口がプレーだけでなく、リーダーとしても力を発揮していることだった。あのイガラシという生意気そうな一年生でさえ、谷口に対しては、一定の敬意を以って接しているように見えた。

「なんてことだ……」

 つぶやきが漏れる。

「おれ達は、あの人の本当の力を、なにも分かっちゃいなかったんだ!」

 八回表。青葉は快打を連発するも、墨谷の好守に阻まれる。ベンチの後列にて、佐野が「やれやれ……」と溜息をついた、その時だった。

「佐野」

 ふいに部長から呼ばれる。戸惑いで「はあ」と曖昧な返事をしてしまう。

「このウラから、おまえ投げろ」

「はい」

 ま、そうなるよな……と胸の内につぶやく。

(このまま全国大会の切符を取り逃すようなことがあれば、コトだからな)

 

 

 試合後のバスは、気まずい空気に包まれていた。

 青葉学院は十一対十という乱打戦の末、辛くも墨谷二中を下した。しかし、その内容はこれまで他校を圧倒してきた彼らにとって、いささか不甲斐ないものと言えた。

 八回、さらに一点を追加され、二点ビハインドで迎えた九回表。青葉はルール違反ぎりぎりの五人以上の選手交代を行い、全員を一軍メンバーに代え、一挙五点の猛攻で一時は三点リードを奪う。

 だがその裏、墨谷の猛追を許し一点差に迫られる。最後は本塁上のクロスプレーでイガラシを刺し、どうにかゲームセットとなる。

 試合後、大会関係者がひそひそ声で話すのを、佐野は聞いていた。五人以上の交代をごり押ししたことは、後々物議をかもすことになるだろう。ヘタすりゃ、優勝旗返還という事態にもなりかねない、と……

 誰もが押し黙る中、佐野は一人、大声で笑いたいのをこらえていた。

 佐野自身も打ち込まれ、公式戦で初の自責点を喫す。それでも、なぜか気分はそう悪くなかった。

(そうだ。おれはずっと、待ってたんだ)

 両手のこぶしを握り、ゆっくりと息を吐き出す。

(勝つか負けるか分からない、シビれる相手との戦いを。墨谷二中……いや、谷口さん。まさかアンタが、それをおれに与えてくれるとはな)

 ゲームセットの瞬間、佐野は頭上を仰いだ。青々とした空が、そこにあった。さらに足下には、黒褐色の土の色。そして芝の鮮やかな緑。ホームベースの白。その手前に転がる、白球の百八つあると言われる縫い目の紅色。

 佐野の中で、野球という景色が、色を取り戻した。

 

 

3.湧き出てくる思い

 青葉学院が全国優勝を決めた数日後。引退したはずの三年生も含め、百名を優に超える全野球部員が寮の食堂に呼び出された。

 全員が集合してしばらくすると、部長がやや青ざめた顔色で、前に出る。

「……諸君らに、詫びなければならないことがある」

 部長はこう切り出し、苦い伝達事項を話し始めた。地区大会決勝で五人以上の選手交代が問題となったこと。優勝旗返還をしない代わりに、今から三十日後、墨谷二中と再試合を行わなければならなくなったこと。

「ワシはよかれと思って……強いチームが全国大会に出るべきだと思って、あのような采配を実行した」

 やや掠れながらも、何か強い意思を感じさせる口調だった。

「諸君らはその期待に応え、墨谷を下し、全国大会の優勝旗を獲ってきてくれた。だが……結果として諸君らに、迷惑をかけることになってしまった。これはワシの責任だ。ほんとうに申し訳ない」

 そう言って、深く頭を下げる。

「なにをおっしゃるんです!」

 佐野は思わず、声を上げた。

「部長は勝つために、ベストな采配をなさったんじゃありませんか。周囲からの批判を覚悟のうえで。責任なら……あの時不甲斐ない戦いをしてしまった、ぼくらにもあります」

 そして語気を強め、さらに付け加える。

「再試合? おもしろいじゃありませんか。今度こそ墨谷を、二度と立ち直れないくらい、コテンパンにたたきのめしてやりましょうよ!」

 周囲から「そうですよ」「今度こそ力の差を見せつけてやりましょう」と、次々に同調する声が聞かれる。

 部長はふっと表情を緩め、「ありがとう」ともう一度頭を下げた。

 

 

 再試合が決まった後の部長の熱の入れようは、凄まじかった。野手陣に自らノックを行うばかりか、陸王高のエースとして甲子園で鳴らした尾崎、ジャイアンツにドラフト一位指名された荒巻ら、名だたるOB勢を招集。

 青葉学院の総力を挙げ、墨谷二中を叩きのめそうという構えである。

 

 青葉学院野球部専用グラウンド。駆け付けたOBらが見守る中、佐野は村野相手に投球練習をしていた。

「おかしいな……」

 おい村野、と相方を呼ぶ。

「おれのカーブ、どこかおかしくないか?」

「えっ? いいや……落差もキレも、特に問題ないと思うが」

「……そうか」

 違和感を消せないまま、佐野はカーブの投球を続ける。

「まった!」

 その時、ふいに横から声を掛けられる。OBの尾崎が、腕組みして立っていた。

「どうした佐野、力んでるぞ」

 思わぬ指摘だった。えっ、おれが……と口をついて出そうになる。

「左腕で力いっぱい投げるんじゃなく、ムチのようにしならせることをイメージしてみろ」

 尾崎はそう言って、自らの投球フォームを見せる。

「こんな感じだ」

「あ、はい……こうですか?」

「うーむ、まだ力んでる。もう一度」

「はい……」

 そうして小一時間程度、みっちり指導を受けた。

「ありがとうございました」

 指導の終わりに、佐野は脱帽して深く会釈する。

「なーに。部長には、墨谷を完封でおさえさせてみせると、約束しちゃったからな」

 尾崎はそう言って、片目を瞑った。

「それにしても……ウワサの佐野が緊張するとは。おまえも人の子だったってわけか」

 朗らかな口調で、甲子園のエースは話を続ける。

「まあムリもない。われわれ偉大なOBに見られながらだと、なかなか普段どおりにはいかなかったろう」

「……いえ、そういうわけじゃないんですけど」

 これ、と尾崎は軽く佐野の脇腹を小突く。

「少しは先輩を立てんか」

「あ、すみません」

 苦笑いして、軽く頭を下げる。

「ハハ、冗談だよ」

 尾崎は声を上げて笑った。

「しかし佐野。あまり大試合だからって、力むことはないぞ。おまえの力を出しさえすれば、どうってことないからな」

 大試合だから緊張している。本当にそうだろうか、と佐野は自問自答した。

(すでに全国大会で、大舞台は経験してる。なのにどうしてこうも、力が入っちまうんだ)

 まさか……と、つぶやきが漏れる。

(おれは、おびえてるのか? 墨谷二中に、谷口に、打たれることを……)

 迷いを吹っ切るように、もう一度「村野!」と相方を呼ぶ。

「あと百球、投げ込みいくぞ!」

 村野も「よしきた」と、快く応える。その傍らで、フフと尾崎が微笑んだ。

「その意気だ、佐野。青葉のエースはこうでなくちゃ」

 佐野はしばしスパイクで足下を均してから、投球動作へと移る。右足を踏み込み、グラブを突き出し、左腕を鞭のようにしならせる。

 ズドン。快速球が唸りを上げ、村野のミットを突き刺した。

 

―― そして迎えた、墨谷二中との再試合。全国大会・事実上の決勝戦

 

「なあんだ。想像より、大したことねーな」

「うむ、もっとやると思ったんだが」

 周囲のレギュラー陣は、拍子抜けしたように言葉を交わす。

 試合は二回表を終え、青葉はすでに八点のリードを奪っていた。大舞台慣れしている青葉に対し、墨谷二中は緊張からミスを連発。ここまですでに七つの失策を記録している。

(さあ、いつまで楽勝ムードでいられるのやら……)

 しかし佐野は、警戒心を募らせる一方だった。

 記録上ヒットは出ているものの、完璧に捉えた当たりは数本だけである。墨谷側にミスが出なければ、もっと緊迫した展開になっているはずだったのだ。

(谷口さんだな。あの人、きっとレギュラーの練習をベンチで見ている時にでも、各打者の苦手コースを見抜いてたんだろう)

 二回裏。墨谷の先頭打者は、その谷口からだった。

 谷口はマスコットバットを数回振った後、ゆっくりと右打席に入ってきた。そしてバットを短めに構える。

 かつて同じ釜の飯を食った元チームメイトと、今は敵同士として対峙し合う。

「いきますよ、谷口さん!」

 ワインドアップモーションから、佐野は第一球を投じた。

 初球は内角高めの速球。ボールが風を切り裂き、キャッチャー村野のミットへ飛び込んでいく。谷口のバットは、空を切った。

 空振りを奪ったものの、佐野の頬は引きつる。

(な、なんて鋭い振りなんだ。一月前の試合から、また一段と成長してやがる!)

 続く二球目。今度は内角低めに、カーブを投じる。OB尾崎に「これは中学生には打てない」と言わしめた、落差の大きなカーブ。

 谷口のバットが回る。またも空振りするかに見えたが、打者はこのカーブをチップさせた。

(ほう……このボールに、触るとは)

 そして三球目。村野とサインを交換し、佐野はうなずく。

 しばしの間合い。それから佐野は、またもワインドアップモーションから、投球動作へと移る。右足を踏み込み、グラブを突き出し、左手の指先からボールを放つ。

 

 次の瞬間。佐野は、頭上を仰いだ。そこには晩夏の鮮やかな、それでいて今にも泣き出しそうな青空が広がっていた。

 

              (完)

 

<前話へのリンク>

stand16.hatenablog.com