【目次】
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<外伝>
第67話 一進一退!!の巻
1.ピンチをしのげ!
―― 夏の甲子園大会。墨高対城田の一回戦は、城田が一点リードのまま、終盤の七回表をむかえていた。
この回の先頭は、城田の三番打者・矢野である。
右打席の矢野は、バットを短めに構え、ホームベース寄りに立つ。
「まずコレよ」
倉橋はサインを出し、ミットをアウトコース低めに構える。マウンド上にて谷口はうなずき、ワインドアップモーションから投球動作を始めた。
アウトコース低めへのカーブ。矢野は、手を出さず。
「ボール!」
アンパイアのコール。くっ、と倉橋は唇を歪める。
(さっきまで外へ逃げるタマには、少々ボール気味でも手を出してくれたんだが……さすがに見きわめるようになってきたか)
二球目。今度はインコースに速球を投じた。しかし矢野は、これを引っ張ってあっさりファールにする。
(今のはわざとファールにしたな。しかもインコースにくると、分かってたようだ)
谷口に返球し、倉橋は思案を巡らせる。
(だが分かっててファールにしたということは、ねらいはアウトコースだ)
三球目はインコースにシュート。矢野は見送り、僅かに外れボール。
続く四球目は、またもインコースに今度はカーブ。矢野はこれも手を出さず、コースいっぱいに決まる。さらに五球目は、インコース高めの速球。矢野はスイングするも、打球は三塁側スタンドに落ち、ファール。ツーエンドツー、イーブンカウント。
ちぇっ、と倉橋はひそかに苦笑いした。
(こいつら……谷口のタマに、だんだん目が慣れてきてやがる。さっきからカンタンには打ち取らせてくれなくなったな)
そして六球目。倉橋は、アウトコースにカーブを要求した。谷口はうなずき、すぐに投球動作へと移る。その指先からボールを放つ。
矢野のバットが回り、ライトへライナー性の打球を弾き返した。
「ら、ライト!」
谷口の声よりも先に、ライト久保が背走し始める。あわや抜けるかと思われたが、久保はフェンス手前でくるっとこちら向きになり、顔の前で捕球する。
ホッ、と谷口は小さく吐息をついた。
「あぶない。今のは、少し高かったな」
倉橋もフウと溜息をつき、マスクを被り直す。
「さすが伝統校。よく喰らいついてくるぜ」
ほどなく次打者の四番沢村が、右打席に入ってくる。
(ランナーなしだが、この四番には一発がある)
警戒心を募らせ、倉橋はホームベース奥に屈み込む。
「コレからいこうか」
サインを出すと、谷口は驚いたように目を見開く。「フォークから?」と言いたげだ。倉橋は渋面でうなずく。
(ほかのボールは、やつらタイミングを合わせてきてる。一番打ちづらいタマからいこう)
「……うむ」
谷口は納得したように、首を縦に振る。そしてワインドアップモーションから、第一球を投じた。
コースは真ん中低め。速球と同じ軌道で、ストンと落ちる。沢村のバットは空を切った。
「ナイスボールよ谷口」
声を掛け、倉橋は返球する。そして初球と同じサインを出す。
(フォークにはまだタイミングが合っちゃいない。今のうちに、さっさと追いこもう)
む、と谷口はうなずく。そして要求通り、再び真ん中低めにフォークを投じた。
「くっ……」
沢村はぐらっと体が泳ぎかける。それでも辛うじてバットのヘッドを残し、はらうようにスイングした。パシッと快音が響く。
「なにっ」
倉橋の眼前で、速いゴロが二塁ベース右を破り、センターへ抜けていく。
(しまった。城田の連中、やはり目が慣れてきてやがる)
渋面の正捕手。一方、エースは「ワンアウト!」と野手陣に声を掛ける。
「久しぶりのランナーだ。一つずつ、かく実にアウトを取っていこう」
オウヨッ、とナイン達は快活に応える。
「……そうだったな」
倉橋はひそかにつぶやく。
「まだ一人出しただけ。これぐらいのピンチは、今まで何度も乗りこえてきたものな」
ワンアウト一塁。ここで五番打者の今井が、左打席に入ってくる。
(左バッターか。シュートが使えるな)
初球。倉橋は「まずコレよ」とサインを出し、ミットをアウトコースに構えた。谷口は「む」とうなずき、セットポジションから投球動作を始める。
アウトコース低めから、外へ逃げるシュート。
今井は右足を踏み込み、スイングした。快音が響く。鋭いライナーがレフト線へ飛んだ。しかし左へスライスし、ファール。
痛烈な当たりだったが、倉橋は一人ほくそ笑む。
(あんなボール球を強引に打ちにくるたあ、よほどアウトコースを意識してるようだ。それなら……)
倉橋は「つぎもコレよ」と、同じサインを出す。そしてミットを、さらに外へずらした。
「……なるほど」
谷口は倉橋の意図を汲む。そしてサインにうなずき、二球目を投じる。
初球よりもさらに外寄りのシュート。明らかなボール球だが、今井は追いかけるようにスイングした。今度はバットの先端に当たり、三塁側ベンチ方向へ転がっていく。またもファールとなり、ツーナッシング。
「し、しまった」
今井が苦い顔になる。
マウンド上。谷口はテンポよく、三球目を投じた。初球、二球目とは一転して、インコース低めに沈むカーブ。
「……うっ」
倉橋のミットが鳴る。今井は手が出ず。その傍らで、アンパイアが「ストライク、バッターアウト!」とコールした。
(フン。アウトコースねらいがミエミエなんだよ)
マスクを被り直す倉橋の前で、今井が肩を落としベンチへ引き上げていく。
「つぎは六番か」
今井と入れ替わりに、六番打者の伊予が右打席に立つ。倉橋はホームベース奥に屈み、束の間思案する。
(こいつら。ほんらいは苦手のアウトコースを、あいかわらずねらってやがる。ここは思いきって、インコースを攻めてみるか)
サイン交換の後の初球。谷口は速球を、インコース低めに投じた。
その瞬間、伊予は左足を大きく外へ開き、強振した。パシッと快音が響く。打球はジャンプしたサード岡村の頭上を越え、レフトのライン際で弾んだ。
「ボール、サードだ!」
谷口が叫ぶ。ランナー沢村は二塁ベースを蹴りかけるも、レフト横井が回り込んで捕球し、素早く中継のイガラシへ返す。そしてイガラシが、三塁へ矢のような送球。沢村は「おっと」と、慌てて頭から帰塁した。
(くそっ、ヤマをはられたか……)
倉橋は唇を歪める。
続く七番安田は、インコースのカーブが膝を掠める。死球となり、ツーアウトながら満塁と、城田がチャンスを広げる。
「た、タイム」
倉橋はアンパイアに合図して、内野陣をマウンドに集めた。そして自らもその輪に加わる。
「やつらここにきて、よく喰らいついてくるようになりましたね」
加藤の言葉に、丸井が「感心してる場合かよ」とたしなめる。
「こちとら二回に一点を返したきり、なかなか追加点を取れずにいるんだ。ここで点差を広げられるようなことがあれば、かなり苦しくなるぞ」
そうですね、と岡村がうなずく。
「残り三回。一点差と二点差では、大きくちがってきますから」
「だいじょうぶ。きっと、おさえられますよ」
気楽そうに言ったのは、意外にもイガラシだった。
「なんでそんなことが言えるんだよ」
険しい眼差しを向ける丸井に、イガラシは穏やかな口調で答える。
「やつらのバッティングですよ」
「バッティング?」
「さっきのバッター。ヤマをはるのはいいにしても、フォームをくずしてまで打ちにきてたでしょう」
あっ、と数人が声を上げる。
「今回だけじゃなく、やつら苦手コースを悟られまいとするあまり、きょくたんに足を踏みこんだり開いたり、強引なバッティングが目立ちます」
「そういうことか」
倉橋が首肯した。
「いぜん、谷口も言ってたな。自分のフォームをくずしてまで打ちにくると、あとあと攻めやすくなるって」
ハハ、と谷口は笑い声を上げた。
「なんだか、おれが言おうとしてたことを、みんなに言われちゃったみたいだ」
それで、とイガラシが一転して真剣な眼差しで尋ねてくる。
「守りはどうしましょう? やはり前進守備を敷きますか」
「いや、内野は定位置でいい」
キャプテンはきっぱりと言った。
「その代わり外野を前に来させて、内野との間を狭くしよう」
なるほど、とイガラシはうなずく。
「ポテンヒットを防ぐのですね」
「そういうことだ。つぎの八番はパワーはないし、あの打ち方じゃ外野へ大飛球を運ぶのはむずかしい」
倉橋が「ふむ」と顎に手をやり、僅かに笑む。
「だいたい話はまとまったな」
ようし、と谷口が気合を込めて言った。
「いいかみんな。このピンチをなんとしてもしのいで、ウラの反げきにつなげるぞ!」
ナイン達は、快活に「オウヨッ」と声を揃える。
ほどなくタイムが解け、内野陣は守備位置へと戻っていく。その時、ふいに谷口が「加藤、岡村。ちょっと」と二人を呼び止めた。
「は、はい」
「なんでしょう」
加藤と岡村は、怪訝そうに振り返る。
「つぎの打者への初球だが……」
そう谷口が言いかけると、加藤は「ああ」と笑みを浮かべた。
「分かってますよ。奇襲に気をつけろ、でしょう?」
「あ、うむ」
「ここまで見る限り、そういうのが得意そうなチームですからね」
岡村も「ええ」と同調する。
「ぼくも心得てます」
そうか、と谷口は微笑む。
「分かってるならいいんだ。二人とも、しっかりたのむぞ」
岡村は「はい」と返事して、加藤も「まかせといてください」と胸を張る。
一塁側ベンチ。城田監督は渋面で、グラウンド上を見つめていた。
(ひさしぶりのピンチだというのに。墨高のやつら、まるで浮足立つ気配がない。さすが予選で、強豪をつぎつぎ倒してきたチーム勿だけある)
しばし思案した後、監督は自分の左肩と手首に一度ずつ触れ、打席を外していた井上へサインを出す。
(まともに勝負したんじゃ、打ち取られる。ここは揺さぶりをかけてみよう)
井上はヘルメットのつばを摘まみ、「了解」の合図をした。
マウンド上。谷口はロージンバックを拾い、右手に馴染ませる。その間、井上は右打席に戻り、バットを短めに構えた。
「……そろそろいくか」
谷口はロージンバックを足下に放り、セットポジションに着く。そして倉橋のサインにうなずき、投球動作を始めた。
その瞬間、井上はバットを寝かせる。セーフティバント。しかしすでに、サード岡村とファースト加藤がダッシュしていた。
「うっ」
井上は慌ててバットを引く。速球がアウトコース高めいっぱいに決まり、ワンストライク。
(まさか、読まれてたのか?)
一旦打席を外し、井上はマウンド上を睨む。
(くそっ。守備隊形から見て、サードかファーストに捕らせればセーフだと思ったが……)
唇を歪めつつ、井上はベンチの監督を見やる。今度は別のサインが出される。
(……なるほど。たしかにコレなら、つぎこそやつらの意表をつけるな)
胸の内につぶやき、井上は打席に戻った。そしてまたバットを短めに構える。
「さあこい!」
短く気合の声を発した。
マウンド上。谷口は再びセットポジションから、第二球を投じる。今度はインコース低めのカーブ。井上がバットを寝かせ、またも加藤と岡村がダッシュ。
ところが井上は、瞬間的に寝かせたバットを立て、上からボールを叩き付けた。
「しまった、バスターだ!」
打球はワンバウンドして、ジャンプした岡村の頭上を越える。そのままレフトへ抜けていくと思われた。
「よし……えっ」
一塁へ駆け出した井上の視線の先。なんとすでにショートのイガラシがカバーに入り、軽快なステップで捕球した。そして咄嗟の判断で、すでに丸井がベースカバーに入っていた二塁へ素早く送球する。
「くそっ」
一塁ランナー安田はヘッドスライディングするも、その前に丸井のグラブが鳴る。二塁フォースアウト。
「スリーアウト、チェンジ!」
アンパイアのコール。城田応援団の一塁側スタンドから、ああ……と溜息が漏れる。
「ナイスプレーよイガラシ」
好守の後輩に、キャプテンが声を掛ける。
「なーに、これぐらい」
イガラシはポーカーフェイスのまま、事もなげに言った。
「練習で何度もやった形でしたからね」
二人の会話に、井上は一塁ベースの傍らでぐっと右こぶしを握り締める。
「やつらめ。すべて、想定済みだったってわけか」
悔しさを隠しきれない井上の眼前を、ピンチを切り抜けた墨高ナインが足早にベンチへと引き上げていく。
2.ねらいダマをしぼれ!
七回裏開始前。谷口はタイムを取り、ベンチ奥にナイン達と円陣を組む。
「ここまでの打席で、みんなだいたい分かったと思うが」
声をひそめて、谷口は言った。
「向こうはボール先行すると、低めの速球でストライクを取りにくる。またワンエンドワンのカウントだと遅いカーブ、そして追いこむとあの速いカーブを投げてくる傾向がある」
墨高ナインは前屈みになり、黙ってキャプテンの話を聞いている。
「そこで追いこまれるまでは、遅いカーブか低めの速球か、どちらかに絞るんだ。そしてもし追いこまれたら、できるだけ速いカーブはファールにして、ほかのタマがくるのをまつ。いいな!」
ナイン達は「はいっ」と、気合を込めて返事した。
円陣を解いた後、松川が「肩を作ってきます」と、谷口に声を掛けた。
「おう、たのむぞ」
そう返した後、谷口はふいに「松川」と呼び止める。
「は、はい」
「つぎの八回からリリーフの予定だが、だいじょうぶか?」
「え、ええ。もちろんですよ」
松川は微笑んで答えた。
「六回から準備してますし。行けと言われたら、いつでも行けます」
「そうか。ならいいんだ」
「はい、まかせてください」
それだけ言葉を交わし、松川は控え捕手の根岸を伴い、ベンチを出て駆け出す。
投球練習を行うレフト側ファールグラウンドに着くと、松川はフウと溜息をついた。根岸に「どうしたんスか?」と尋ねられる。
「いや……ウワサには聞いてたが、甲子園ってこんなに暑いのかと思ってな」
「ええ。あの剣道着の特訓、やっといてよかったスね」
「あ、うむ。そうだな……」
なぜか松川は、少し浮かない顔で言った。
一方、この回の先頭打者・八番加藤は、バットを手に三塁側ベンチを出た。そして左打席に立ち、バットを構え気合の声を発す。
「ようし、こい!」
ホームベース奥。キャッチャー沢村は「まずコレよ」と矢野にサインを出し、ミットをインコース高めに構える。
マウンド上の矢野は「む」とサインにうなずき、ワインドアップモーションから第一球を投じた。
快速球が、インコース高めに飛び込んでくる。しかし加藤は、悠然と見送った。僅かながら高めに外れ、判定はボール。
加藤はひそかにほくそ笑む。
(フフ。たしかに速いが、予選で戦った佐野や村井ほどのコントロールがあるわけじゃない。それにもう七回、さすがに目が慣れてきたぜ)
二球目はアウトコース低めのカーブ。加藤は一瞬手が出かかるも、寸前でバットを引く。
「ボール、ロー!」
アンパイアのコール。おや、と加藤は目を見開く。
(ワンボールからのカーブは、今までほとんどストライクに入ってきたのに。ひょっとして……やつもここにきて、疲れが出てきたんじゃ)
傍らで、沢村が「いいボールよ矢野」と、少し笑んで返球した。しかし内心で、まいったなとつぶやく。
(今ので凡打にしとめたかったが、きっちり見きわめられたか。下位打線のくせに、いい目してやがる)
そして三球目。矢野は速球をインコース低めに投じた。加藤は「きたっ」と、バットをコンパクトに振り抜く。
パシッ。速いゴロが、一・二塁間を抜けていく。ライト前ヒット、ノーアウト一塁。
「やった!」
「ナイスバッティングよ加藤」
沸き立つ三塁側ベンチとスタンド。他方、沢村は「くっ」と唇を歪める。
続く九番久保は、始めからバントの構えをする。対するマウンド上の矢野は、沢村のサインにうなずき、セットポジションから第一球を投じた。
アウトコース低めの速いカーブ。久保は、ボールがミットに収まる寸前でバットを引く。
「ボール!」
判定に、久保は小さく溜息をついた。
(うーむ……今のタマは、まだキレがあるな。ヘタに当てりゃ、打ち上げちまう)
城田バッテリーがサイン交換を済ませると、久保は再びバットを寝かせる。
二球目。矢野はまたも、アウトコースに速いカーブを投じてきた。久保は、今度はすぐにバットを引く。ボールは僅かに外れ、ノーツーのカウントとなった。
(へへ。いくらキレがあっても、さすがに終盤ともなれば、ストライクとボールの区別くらいはつくぜ。そしてボール先行になったということは……)
一旦打席を外し、ベンチを振り向くと、谷口が手振りでサインを出していた。久保はヘルメットのつばを摘まみ、「了解」と合図する。
「矢野、つぎはコレよ」
マウンド上。こちらもキャッチャー沢村とサインを交換し、セットポジションから投球動作へと移る。
「ゴー!」
谷口が叫ぶ。その瞬間、一塁ランナー加藤がスタートした。
矢野が投じたのは、アウトコースへの遅いカーブ。久保はこれをおっつけるようにして、ショートが二塁ベースカバーに入り広く空いた三遊間へ、ゴロを弾き返した。打球はそのままレフトへ転がっていく。
「ボール、サード!」
沢村が立ち上がり、指示を飛ばす。しかしレフト雪村がシングルハンドで捕球し、中継のショート烏丸へ返した時、すでにランナー加藤は三塁に右足から滑り込んでいた。
ヒットエンドラン成功。ノーアウト一・三塁。
「よしっ」
三塁側ベンチにて、谷口が右こぶしを握る。
「これで逆転への足がかりができたわけだ」
一方、沢村は険しい表情で、腰に右手を当てる。
(くそっ。さっきの八番といい、今の九番といい、まるではかったように打ち返しやがって。まさか、墨高のやつら……)
その時だった。
「タイム!」
城田監督がベンチを出て、アンパイアに合図した。そして矢野と沢村のバッテリーを呼び寄せる。
「どうも、よくないあんばいだな」
一塁側ベンチ手前。城田監督は、腕組みしつつ渋面で言った。
「ええ、そうですね」
矢野が苦い顔で返事する。
「下位打線にチャンスを作らせてしまって」
「それだけじゃない」
傍らで、沢村が小さくかぶりを振る。
「墨高のやつら。こっちがボール先行した時、低めの速球か遅いカーブのどちらかでストライクを取りにきてること、おそらく見破ってるぞ」
えっ、と矢野は目を見開いた。監督は「そのようだな」とうなずく。
「予選じゃ多少球威が落ちても、きちんとコースを突けば打たれなかったが。さすがに全国レベルともなると、そうはいかんらしい」
「どうしましょう、監督」
沢村が目を見上げ、尋ねる。
「このままだとストライクを取りにきたタマをねらい打ちされます。かといって、投球の組み立てを変えてしまうと、四球のおそれが」
うーむ、と監督はしばし思案する。それから口を開いた。
「こうなったらコースは気にせず、速いカーブと高めの速球を多投して、ボールの力で打ち取っていくことだ」
えっ、しかし……と沢村は異を唱える。
「この二つはたしかに威力はありますが、ストライクになるかは五分五分です。ただでさえ僅差の終盤に、ランナーをためてしまっては」
「低めの速球や遅いカーブを使うなとは言ってない」
渋面のまま、監督は答えた。
「ようはボール先行した時ばかり投げるから、ねらい打たれるんだろう。だったら、そのパターンを変えればいいじゃないか」
「な、なるほど」
沢村はようやく理解した。
「つまり速いカウントやストライク先行した時にも投げて、やつらにねらいダマをしぼらせないようにするというわけですね」
「うむ。そういうことだ」
「で、ですが監督」
今度は矢野が口を挟む。
「組み立てを変えたところで、やつらまた低めの速球や遅いカーブをねらってくるんじゃ」
「たしかにその可能性はある」
指揮官はあっさり認めた。
「しかしさっきのように、いつ投げてくるかまで読まれるよりは、ずっとマシさ。急にきたねらいダマなら、力んで打ちそんじることもあるからな。それと沢村」
「は、はい」
「この終盤のピンチ。もう四球を気にするより、矢野のいちばんのタマを引き出すようにリードするんだ」
沢村は、ハッとしたように顔を上げる。
「矢野、おまえもだ」
監督はさらに、一年生投手にも言葉を投げかけた。
「おまえは一年生とはいえ、うちのエースとして認められた男なんだ。エースならこういう時こそ、自分のタマを信じて投げないでどうする」
「わ、分かりました」
意思の固まった二人に、監督はさらに檄を飛ばす。
「逃げに回れば、向こうはさらに勢いを増す。ここは逃げずに、おまえ達のありったけの力で、墨谷をねじ伏せてくるんだ。いいな!」
バッテリー二人は、「はいっ」と声を揃えた。
三塁側スタンド。田所は腕組みしつつ、「うーむ」と唇を結ぶ。
「なんとかなると思っているうちに、七回まできちまったな。今までも、再三チャンスは作ってきたんだが」
そして拝むように、両手を合わせる。
「たのむぞおまえ達。どうにかこのチャンスをモノにして、記念すべき墨高野球部の甲子園初勝利を、おれに見せてくれ」
眼下のグラウンドでは、ネクストバッターズサークルにて、次打者の丸井がマスコットバットをブンブンと振り回す。
やがてタイムが解け、沢村と矢野はそれぞれのポジションへと戻る。
「バッターラップ!」
アンパイアのコールと同時に、墨高の一番打者丸井が右打席に入ってきた。
(こいつをねじ伏せて、向こうの勢いを断つんだ)
そう胸の内につぶやき、沢村はサインを出す。
(まずコレで、いっちょおどかしてやるか)
マウンド上。矢野はサインにうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。その指先から、ボールを放つ。
インコース高めに、速球が飛び込んできた。丸井はピクリとも動かず、悠然と見送る。
「ボール!」
やれやれ……と、沢村は小さくかぶりを振る。
(のけぞるどころか、目が座ってら。さすが谷原を倒したチームのトップバッターだぜ。だが、今までと同じようにいくと思うなよ!)
二球目。今度はアウトコース低めに、あの速いカーブを投じた。丸井は手が出ない。ストライクゾーンいっぱいに決まり、ワンストライク。えっ、と打者は面食らう。
(今まで追いこむまで投げてこなかったのに。ここにきて、やつら組み立てを変えたのか)
丸井の様子に、沢村はフフとほくそ笑む。
(向こうがこっちの組み立てを読んでたこと、ぎゃくに利用させてもらうぜ)
続く三球目も、同じくアウトコース低めに速いカーブ。丸井は空振りし、あっという間にツーストライクと追い込まれる。
「た、タイム!」
丸井は一旦打席を外し、味方ベンチを見やる。
(キャプテン。どうすれば……)
「バッター勝負に徹してきたか」
三塁側ベンチ。相手バッテリーの張りつめた表情から、谷口はそう察した。
「どうやらこっちが組み立てを読んでいること、あちらさんにバレちまったようだな」
ヘルメットを被りながら、倉橋が憂う目で言った。
「マズイぞ谷口。もしこの回、無得点に終わるようなことがあれば……」
いや、と谷口はきっぱりと答える。
「これはむしろ、チャンスだ」
ベンチの後列より、横井が「どういうことだよ」と問うてくる。
「ランナーが二人もいるのに、向こうはバッターを打ち取ることしか考えていない。ということは、いくらでも揺さぶるスキがあるってことだ」
「ほ、ほんとかよ」
なおも訝しげな目を向ける倉橋に、谷口は「まあ見ててくれ」と僅かに笑んだ。そして打席を外し、こちらに視線を向ける丸井に、手振りでサインを伝える。
「……な、なにっ」
サインの内容に、倉橋は驚いて目を丸くする。
「そりゃちと、キケンじゃないのか」
「丸井ならだいじょうぶだ。これぐらいの鍛錬(たんれん)は、積んできてるからな」
当の丸井は、一瞬目を見開くも、すぐにヘルメットのつばを摘まみ「了解」と合図した。
丸井が打席に戻ると、沢村はすぐに次のサインを出す。
(やはり速いカーブには、まるで合ってない。ここは一気にカタをつけるぞ)
迎えた四球目。矢野はまたもセットポジションから、投球動作を始めた。
その瞬間。三塁ランナー加藤がスタートし、丸井はバットを寝かせる。そして手元で鋭く曲がるカーブに飛びつくようにして、ボールを一塁線に転がした。
(なにっ、スリーバントスクイズだと!?)
驚く沢村の眼前で、加藤が右足からホームに滑り込む。ダッシュしてきたファースト今井が打球を処理し、素早くベースカバーの矢野へ送球する。丸井は間一髪アウト。
スクイズ成功。墨高、二対二の同点に追い付く。なおもワンアウト二塁のチャンス。
「ナイスバントよ丸井」
「加藤もいいスタートだったぞ」
「よし、この勢いで逆転だ!」
沸き立つ三塁側ベンチとスタンド。一方、沢村は「くっ」と歯噛みする。
(しまった。バッターを打ち取ることだけ考えて、スクイズなんて頭にもなかった……)
沢村の動揺をよそに、すぐさま試合は再開される。
(落ちつけ、まだ同点になっただけだ。ここをしのげば、必ず勝ちこせる)
どうにか気を鎮めようとする沢村。その傍らで、次打者の島田が右打席に入る。
(こいつはスイッチヒッターだったな。この日はずっと左でノーヒットだったから、ここにきて右に変えてきたのか。しかし、それだけで打てるものか)
初球。沢村は「まずコレよ」とサインを出し、ミットをインコースに構えた。矢野の投球は、インコース低めの遅いカーブ。
次の瞬間、二塁ランナーの久保がスタートした。
「なんだとっ」
島田は空振りし、前へつんのめる。明らかに意図的である。完全に意表を突かれたことと、打者の体に邪魔されたことで、沢村は三塁へ送球すらできず。
「くそっ、好き放題しやが……」
「切りかえろ沢村!」
冷静さを失いかける正捕手に、サード安田が声を掛ける。
「どっちみちヒットを許せば一点だ。もうランナーは気にせず、バッターを打ち取ることに専念しろ!」
そうだ、とファーストの今井も言葉を重ねる。
「つぎ向こうがなにか仕かけてきたら、おれ達がなんとかしてやる。安田の言うとおり、おまえはバッターに集中するんだ」
フッと、僅かに沢村の表情が緩む。
「オウヨ。みんな、たのんだぜ」
沢村はナイン達に声を掛け、マスクを被り屈み込む。
ワンアウト三塁で試合再開。城田の内野陣は、沢村の指示で前進守備を敷いた。打席の外にて、島田が「む」と渋い顔になる。
「ここまで警戒されちゃ、ちとスクイズはむずかしな。打って返さねば」
島田は再び右打席に入り、バットを構えた。
「さあこい!」
マウンド上の矢野は、沢村のサインにうなずくと、すぐに三球目を投じてきた。
インコース高めの速球。島田は手が出ず。コースいっぱいに決まり、早くもツーストライクとなる。
ちぇっ、と島田は軽く舌打ちした。
「バッターとの勝負に専念すると、さすがに球威がちがうぜ」
三球目は、アウトコース低めにあの速いカーブ。島田は辛うじてチップさせる。四球目はまたインコース高めの速球。これは僅かに外れる。五球目は一転して、真ん中低めに遅いカーブ。これも際どく外れ、カウントはツーエンドツー。
(フフ。さすがに勝負どころとあって、いいタマ投げてきやがるぜ)
島田はバットを短く握り直す。
一方、矢野はセットポジションから、テンポよく六球目の投球動作を始めた。そしてその指先から、ボールを放つ。
「……あっ」
スピードを抑えたボールが、アウトコース低めに飛び込んできた。完全に意表を突かれた島田は、バットを出せず。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアのコールに、三塁側ベンチとスタンドから「ああ……」と大きな溜息が漏れる。
ネクストバッターズサークル。次打者の倉橋は、ゆっくりと立ち上がる。
「……ツーアウトか」
やがて、三振に倒れたばかりの島田が引き上げてくる。「スミマセン」と頭を下げた。
「せっかくのチャンスに、ランナーを返せなくて」
なあに、と倉橋は笑って答える。
「まだアウトカウントは一つ残されてるじゃないか。それに、やつらはおまえを打ち取るのに、かなり力を使った。その影響が、きっと出てくる」
後輩の左肩に、倉橋はポンと右手を置いた。
「見てろ島田。おまえのねばりをムダにはしない」
そう言い置き、倉橋は右打席へと入っていく。
(どうにかツーアウトまでこぎつけたか……)
バットを構えた倉橋の傍らで、城田のキャッチャー沢村は思案を巡らせる。
(パワーのある打者だが、ここは矢野の底力に賭ける。こいつも力でねじ伏せるぞ)
そう決意し、サインを出す。
初球。矢野はまたもアウトコース低めに、あの速いカーブを投じた。ところが沢村の眼前で、ボールはふわっとした軌道で飛び込んでくる。明らかな抜け球だ。
「しまった、曲がらない……」
倉橋のバットが回る。そしてパシッと快音が響いた。
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