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<外伝>
第68話 甲子園という舞台の巻
1.集中打
パシッ。快音を残し、倉橋の打球はレフト雪村の頭上を襲う。
「れ、レフト!」
城田のキャッチャー沢村が、立ち上がりマスクを脱ぎ捨て、叫ぶ。
「させるかっ」
雪村は懸命に背走し、ダイブした。しかしその数メートル先の芝の上で、ボールは弾み転々としていく。そしてフェンスに当たり跳ね返った。これを見て、三塁ランナー久保はゆっくりとホームベースを踏む。その間、倉橋は悠々と二塁に到達。
タイムリーツーベースヒット。墨高、ついに三対二と逆転に成功する。
「ようし、ついに逆転だ!」
「ナイスバッティングよ倉橋」
「まだまだ。さあ、追加点といこうぜ」
沸き立つ三塁側ベンチとスタンド。対照的に、マウンド上の矢野は唇を歪め、足下の土を蹴り上げる。
(くそっ。カンジンな時に、タマが真ん中に行ってしまうなんて……)
「矢野!」
沢村が怒鳴る。
「切りかえろ。まだ、たって一点リードされただけだ」
「は、はい……」
バッテリー二人の様子を、次打者の谷口はネクストバッターズサークルにして、冷静に観察していた。
(そうとう動揺してるな。ここは一気にたたみかけるチャンスだ)
谷口はバットを手に立ち上がり、ゆっくりと打席へ向かう。
一方、矢野は手にしていたロージンバックを、苛立たしげに足下へ投げ捨てる。沢村はマウンドへ駆け寄り、「落ちつけ矢野」となだめる。
「あと二回もあるんだ。一点差くらい、どうとでもなる」
「は、はい。スミマセン」
それだけ言葉を交わし、沢村はポジションに戻る。そしてアンパイアに「どうも」と一声掛け、ホームベース奥に屈み込んだ。
タイムが解けてからの初球。矢野はボールを引っ掛け、ホームベース手前でショートバウンドさせてしまう。沢村はどうにかミットに収め、ランナーの進塁は許さない。
沢村はそう言って、両肩を回す動作をする。矢野もこれを真似た。その傍らで、谷口はバッテリーの様子をつぶさに観察する。
(だいぶ力んでるな。それなら、つぎはおそらく……)
そして二球目。沢村は屈み込み、サインを出す。
(つぎはコレで、タイミングを外そう。いいな矢野。力を抜いて投げるんだぞ)
矢野はサインにうなずき、投球動作へと移る。そして投じたのは、インコース低めの遅いカーブ。
「む、やはり……」
しかし谷口は、待っていたかのようにこれを強振した。
パシッと快音が響く。打球は、ジャンプしたサード安田の頭上を越え、レフト線の内側に落ちた。
「フェア!」
三塁塁審のコール。打球はそのまま、レフトフェンスへ転がっていく。
「くっ、レフト!」
再び沢村が叫ぶ。レフト雪村が懸命に回り込み、捕球する。だがその間、二塁ランナー倉橋はホームベースを駆け抜けていた。谷口は二塁に到達。
連続タイムリーツーベース。墨高、四対二と城田を突き放す。
「よしっ」
二塁ベース上にて、谷口は小さく右こぶしを突き上げた。
―― ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ!!
沸き立つ三塁側スタンド。その前列に座ってた田所は、フウと小さく吐息をつく。
「れ、先輩」
馴染みの応援団員が、声を掛けてきた。
「あまりよろこばないんスね。うれしくないんスか?」
「バカ、そういうことじゃねーんだよ」
不機嫌そうに、田所は答える。
「そりゃ逆転できたのはうれしいけどよ。今の墨高の力を考えりゃ、これぐらいはやれると思ってたさ。けど、まだ相手の攻撃も二回残ってる。向こうもここにきて、谷口をとらえ始めてるからな。よろこぶのは、試合終了まで取っておこうってわけよ」
「な、なるほど。勉強になります」
応援団員はぺこっと頭を下げてから、ふと田所の手元を見やる。
「……先輩、手汗がすごいスけど」
田所は「あ」と、顔を赤らめた。
眼下のグラウンドでは、右打席にイガラシが入っていくところだった。その直後、沢村は立ち上がり、左打席よりもさらに外側へ移動する。敬遠の合図だ。
「なんでえ。往生際の悪いやつらめ」
不満そうな応援部員。フン、と田所は鼻を鳴らす。
「あちらさんも、それだけ必死なのさ」
そう言って、OBは少し笑んだ。
マウンド上の矢野が、四球目の山なりのボールを放った。
「ボール。テイクワンベース」
アンパイアのコールと同時に、イガラシは右打席の後方にバットを置き、小走りに一塁へと向かう。敬遠四球、ツーアウト一・二塁。
「内野! アウト、近いとこな」
キャッチャー沢村の掛け声に、内野陣は「オウヨ」と快活に応えた。その傍らで、次打者の六番横井がゆっくりと右打席に入る。
(フン。イガラシをさければ、うちの打線はどうにかなると思ったら、大まちがいだぜ)
横井はぺっぺっと唾で両手を湿らせ、短めにバットを構える。
「さあこい!」
初球。矢野は真ん中付近に、あの速いカーブを投じてきた。横井はスイングし、辛うじてチップさせる。
(ほう。勝負どころとあって、またボールのキレが戻ってきたようだぜ)
二球目と三球目は、続けてインコースの速球。横井はいずれも見送り、ツーボール。
(へへっ。さすがに七回ともなると。いくら速くても、ストライクとボールの見分けくらいつくぜ)
ほくそ笑む横井。一方、矢野は僅かに顔を歪める。
四球目は、また速いカーブ。横井はこれをカットする。五球目、六球目も速いカーブ。打者は続けてカットし、打球はいずれも一塁側スタンドに飛び込む。
(さて、どうする。おれはヒットにはできなくても、ファールにしてねばるくらいならわけないぜ。このまま速いカーブをつづけるか。それとも……)
そして七球目。矢野は一転して、アウトコース低めに速球を投じてくる。しかしこれは、横井の読み通りだった。
「きたっ」
横井は左足で踏み込み、強振する。
パシッ。快音を残し、打球は横っ飛びしたファースト今井のミットの下をすり抜け、ライトの白線上を転がっていく。
一塁塁審が「フェア!」とコールする。
ライト井上がフェンスの跳ね返りを捕球するも、すでにスタートを切っていた二塁ランナー谷口、そして一塁ランナーイガラシまでもが、次々にホームベースを踏んでいく。井上は中継のセカンド伊予にボールを返すのが精一杯。横井は二塁に到達。
二点タイムリーツーベースヒット。墨高、六対二とさらに点差を広げる。
「タイム!」
その時、城田ベンチより監督が出てきた。そしてホームベース近くまで駆け寄り、アンパイアに選手交代を告げる。
―― 城田高校、選手の交代とシートの変更をお知らせいたします。ピッチャーの矢野君がレフト。レフトの雪村君に代わりまして、ピッチャーに泉君が入ります。
ウグイス嬢のアナウンスと同時に、矢野がついに降板。足取り重くレフトへと向かう。そしてベンチより、背番号「10」の長身左腕・泉が、マウンドへと駆けてくる。
2.松川登板
パシッ。七番岡村の打球が、センター頭上を襲う。しかし城田センター栗原は懸命に背走すると、フェンス手前でくるっと正面に向き直り、顔の前で捕球した。
ランナー二塁残塁。スリーアウト、チェンジ。岡村は「ああ」と苦笑いする。
「うーむ……」
三塁側スタンド。田所は渋面で、眼下のグラウンドを見つめていた。
(四点リードでのこり二回か。今のうちの投手層を考えれば、この点差なら盤石なはずだが。なんだ、この落ちつかない感じは)
マウンド上では、谷口に代わり松川が投球練習を始めていた。速球、カーブ、シュートと、よく制球された球がキャッチャー倉橋のミットを鳴らす。
規定の投球数を投げ終え、松川はフウと溜息をついた。そこにキャッチャー倉橋が駆け寄ってくる。
「どしたい松川。ちと表情がかてえぞ」
「は、はあ」
「いいタマはきてるんだ。自信もっていこうぜ」
「分かりました」
それだけ言葉をかわし、倉橋はポジションに戻る。
一塁側ベンチ。城田監督は腕組みしつつ、険しい眼差しをグラウンドへ注ぐ。
(あきらめるには早い。四点なら、まだ追いつける)
そう胸の内につぶやく。
(墨谷は甲子園を知らない。のこり二回、そうカンタンに逃げきれるはずがないんだ)
監督はすっと立ち上がり、ベンチのナイン達に檄を飛ばした。
「さあ声を出せ。われわれのねばりの野球を、墨高のやつらに見せつけてやろう!」
城田ナインは、快活に「はいっ」と返事した。
倉橋がマスクを被り屈み込むと、この回先頭の泉が左打席に入ってくる。一方、マウンド上の松川は、右手で額の汗を拭った。
「フウ、やはり暑いな。それに……」
―― ワッセ、ワッセ、ワッセ、ワッセ!
すり鉢状の甲子園球場。大歓声が、まるで津波のようにグラウンドに押し寄せてくる。
「これが甲子園のマウンドか」
松川はつぶやき、また溜息をつく。
「プレイ!」
アンパイアのコール。キャッチャー倉橋は、束の間思案する。
(松川のやつ、ちとアガってんな。先頭をおさえればちがってくるだろうが。あいにく、このバッターのデータはない。ひとまず無難に、低めを攻めるか)
初球はアウトコース低めの速球。いっぱいに決まり、ワンストライク。泉は手を出さず。
「ナイスボールよ松川」
倉橋はそう言って返球する。
二球目はインコース低めに、カーブを投じた。泉はまたも手を出さず。今度は僅かに外れ、ワンエンドワンとなる。
(ふむ。心配したが、低めに集めるコントロールがあれば、なんとかなりそうだ)
そして三球目。またもインコース低めに、今度は速球を投じた。
ガッと鈍い音。打球はサード正面のゴロ。谷口が軽快なステップで捕球し、余裕を持って一塁送球。ワンアウト。
倉橋はホッと胸を撫で下ろす。
(思ったより、あっさりアウト一つ取れたな。これで少しは松川も落ちつくだろう)
城田の打順はトップに返る。すぐに一番栗原が、左打席に入ってきた。
初球。倉橋はサインを出し、ミットをインコース低めに構える。松川はうなずき、ワインドアップモーションから投球動作を始めた。その指先から、速球が投じられる。
「……あっ」
倉橋は顔を歪めた。ボールが構えたインコースではなく、真ん中寄りに入ってくる。栗原のバットが回った。
パシッ。快音を残し、低いライナーの打球が一・二塁間を破る。ライト前ヒット。
「どうした松川。コースが甘いぞ」
声を掛けると、松川は「スミマセン」と頭を下げた。それからロージンバックを拾い、右手に馴染ませる。その仕草が、どことなく落ちつきなさげだ。
(アイツ、まだ緊張してるのか)
正捕手は、後輩の心理状態を案じた。
(もう指先のマメは治ってるし、調子は悪くないはずなんだが)
やがて、次打者の二番烏丸が、右打席に入ってくる。
(こうなったらバックを信じて、打たせて取るっきゃねーな)
意思を固め、倉橋は他のナイン達へ掛け声を発した。
「いくぞバック!」
墨高ナインは、いつものように「オウッ」と力強く応えた。
烏丸への初球。倉橋は「まずココよ」と、アウトコース低めにミットを構えた。松川はうなずき、投球動作へと移る。
その瞬間。烏丸はバットを寝かせ、ピッチャー前へ緩く転がした。セーフティバント。
「くっ……」
松川は素早くマウンドを駆け下り、グラブで捕球する。しかし右手に持ち替えようとした時、ボールがぽろっとこぼれ落ちた。その間、一塁二塁オールセーフ。内外野のスタンドが、大きく沸き返る。
「し、しまった」
顔を歪める松川。傍らの倉橋も、さすがに「こりゃちとマズイな」と渋面になる。
「タイム!」
その時だった。谷口が三塁塁審に合図し、マウンドに歩み寄る。キャプテンについていくように、他の内野陣も集まってきた。
「す、スミマセン」
謝る松川に、谷口は「いいから」と、穏やかな口調で声を掛けた。
「まず肩の力を抜いて、深呼吸するんだ」
「は、はい」
言われた通り、松川は両手を広げスーハーと深呼吸する。
「どうだ松川」
谷口はもう一度、声を掛ける。
「甲子園のマウンドは、予選とは全然ちがうだろう」
「え、ええ」
松川は深くうなずいた。
「この暑さといい、歓声の響き方といい、予選とはまるで」
そうだろう、と谷口は同調する。
「だから今、おまえがほんらいの力を出せないのは、当たり前なんだ」
そういや、と倉橋が口を挟む。
「谷口も立ち上がり、思うような投球ができなかったものな」
「ああ。その時に、気づくべきだったんだが」
苦笑いしつつ、谷口は話を続けた。
「予選とちがって、われわれは城田だけじゃなく、甲子園という舞台とも戦わなくちゃいけないんだ」
「キャプテン。おれはいったいどうすれば」
松川の問いかけに、谷口は渋い顔で答える。
「これはもう慣れるしかない」
「えっ、ですが」
憂う目で、松川は言った。
「おれが慣れる前に、向こうをいきおいづかせてしまったら、元も子もないじゃありませんか。たとえば……イガラシに、リリーフさせるとか」
「ダメですよ、松川さん」
イガラシはきっぱりと答える。
「おれのタマは軽いせいか、ヘタすりゃホームランのおそれがあります。それより、松川さんの重いタマの方が、一発のキケンは少ないと思います」
「それだけじゃないぞ」
谷口が、やや口調を厳しくして言った。
「われわれの目標は、あくまでも優勝だと言ったはずだ。ただこの試合に勝てばいいわけじゃない。最後まで勝ち抜くためには、松川。おまえがほんらいの力を出すことが、どうしても不可欠なんだ」
キャプテンの言葉に、松川はやや戸惑いながら「はい」と応えた。
やがてタイムが解ける。キャッチャー倉橋と内野陣は「ワンアウトだ」「しっかり守っていこうよ」と互いに声を掛け合いながら、それぞれのポジションへと戻る。
他方、一塁側ベンチ。城田監督はフンと鼻を鳴らす。
(ちょっと話し合ったくらいで、一度傾いた流れはそうそう変わるまい)
そして、ネクストバッターズサークルに控える次打者の矢野へ、檄を飛ばす。
「矢野、臆することはない。ねらいダマをしぼって、思いきりいくんだ」
「は、はいっ」
矢野は「ようし」と気合の声を発し、右打席へと入っていく。
「プレイ!」
アンパイアのコールが、試合再開を告げた。
マウンド上。松川はセットポジションから、第一球を投じる。しかしアウトコースをねらった速球は、高めに大きく外れた。
「松川、まだ力んでるぞ」
倉橋の声掛けに、松川は「は、はい」と戸惑ったふうに応える。
二球目。今度はホームベース手前で、ショートバウンドしてしまう。キャッチャー倉橋が前に弾いたため、二人のランナーはスタートを切りかける。しかし倉橋は、すぐにボールを拾い直した。ランナー二人は素早く帰塁する。
「うーむ、どうもいかんな」
倉橋はしばし思案した後、ミットを真ん中低めに構えた。
「松川、細かいコントロールはいい。とにかく低めに投げるんだ」
松川はうなずき、三球目も速球を投じた。
「……うっ」
倉橋が顔を歪めた。ボールは真ん中高めに入ってしまう。矢野は「しめたっ」と、バットをフルスイングした。
パシッ。打球はあっという間にセンター島田の頭上を越えて、ダイレクトでフェンスを直撃。跳ね返って芝の上を転々とする。ワアッと、内外野のスタンドが沸き返る。
「くそっ」
島田はようやくボールを拾い、中継の丸井へ返球する。しかしその間、ランナーの栗原と沢村が次々に生還。打った矢野はスライディングもせず、悠々と二塁を陥れる。
二点タイムリーツーベースヒット。城田、六対四と二点差に詰め寄る。
ここでキャプテン谷口が、再び「タイム!」と三塁塁審に合図し、バッテリーと内野陣をマウンドに集める。
「す、スミマセン……」
また頭を下げる松川に、谷口は「やめろ」と、あえて厳しい口調で言った。
「ちょっと打たれたくらいで下を向くようじゃ、ピッチャーはつとまらんぞ」
「で、ですがキャプテン」
横から丸井が、苦笑いしつつ口を挟む。
「今日の松川は、ほんらいの調子じゃありません。もう代えてやった方が」
いいや、とキャプテンは首を横に振る。そして再び、松川に顔を向けた。
「調子が悪いわけじゃない。まだ、甲子園の雰囲気に慣れていないだけ。松川、おまえなら十分やれるはずだ」
そう言って、谷口はふと表情を穏やかにする。
「思い出せ。予選では川北や東実相手に、堂々たる投球をやってのけたじゃないか。指のマメがつぶれても、ぎりぎりまでマウンドを守ろうとしたろう。そんなおまえが、この局面を乗りこえられないはずがない。それに」
谷口はポンと、後輩の左肩を叩いた。
「おまえに孤独な投球はさせない。忘れるな。おまえには、バックがついてる。だから松川。おまえも勇気を出すんだ!」
松川の顔に、ようやく血の気が戻る。二年生投手は周囲を見回し、そして「はいっ」と力強く返事した。
試合再開後。城田の四番沢村が、右打席に入ってきた。
(さあて、どうしたものか)
キャッチャー倉橋は渋面になる。
(ほんらいならコースをていねいに突いていきたいとこだが、今の松川にはちとむずかしいな。やはり、低めに集めるしかないか)
倉橋は意思を固め、ミットで手前の土をトントンと叩く。
「松川。バウンドさせてもいいくらいの気持ちで、とにかく低めに投げるんだ」
傍らで、沢村がフフと含み笑いを漏らす。
「それで後ろに逸らしてくれたら、もうけものだがな」
倉橋は「なんとでも言え」と胸の内につぶやき、沢村を無視する。
初球。松川は倉橋の構える真ん中低めに、速球を投じてきた。沢村のバットが回る。直後、バキッとバットの折れる音がした。
「セカン!」
打球は、セカンド丸井の後方へふらふらっと上がる。丸井は懸命に背走し、ジャンプするが僅かに届かず。打球は芝の上で弾み、カバーに入っていた島田がすぐに捕球する。
この間、二塁ランナー矢野は三塁へ進塁。ワンアウト一・三塁となる。
沢村は一塁ベース上にて、左手を強く数回振った。そして一塁コーチャーに、「つまったのが幸いしたぜ」と苦笑いする。それから数歩離塁して、渋い顔になる。
(このおれが、打った瞬間、手がしびれるとは。なんて重いタマなんだ。これがやつほんらいの調子だとしたら……)
そして左打席に入ろうとする次打者の今井に、声を掛ける。
「今井、気をつけろ。やつのタマ、けっこう球威あるぞ」
「む、分かった」
今井はそう返事して、打席でバットを短めに構える。
(ヒットにはされたが……)
一方、倉橋は僅かに笑んだ。
(やっと松川ほんらいのボールがきはじめた。これなら、なんとかいけそうだぞ)
初球。松川は、今度はアウトコース低めに速球を投じた。今井のバットが回る。パシッ、と快音が響いた。痛烈なゴロが、三遊間を襲う。
しかし、サード谷口が飛び付き、ショートバウンドで捕球した。そのまま二塁へ素早く送球する。
「あらよっと」
谷口の送球を受けたセカンド丸井は、二塁ベースを踏みすぐさま一塁へ転送する。これをファースト加藤が右手のミットを伸ばし捕球した。今井はヘッドスライディングするも、間に合わず。
五―四―三のダブルプレー完成。スリーアウト、チェンジ。
「ナイスプレーよ谷口!」
「松川もよく投げたぞ」
墨高ナインは互いを称えつつ、足早にベンチへと引き上げていく。一方、今井は「くそっ」と左手で一塁ベースを叩いた。
3.最終回
―― 八回裏、墨高の攻撃は無得点に終わる。
試合は墨高が六対四と二点リードのまま、九回の攻防を残すのみとなった。そして九回表のマウンドには、前の回に続いて松川が上がる。
一塁側ベンチ手前。城田ナインは、監督を中心に円陣を組む。
「おまえ達、分かってるな」
囁くように、監督は告げる。
「あの松川は、まだ甲子園の雰囲気に慣れてない。甘いタマがきたら、逃さずねらい打て。それでやつは攻りゃくできる」
ナイン達は、神妙な顔でうなずく。
「墨谷はねばりの野球と言われてるらしいが、甲子園でも同じことができるとはかぎらん」
監督はさらに話を続けた。
「それにねばり強さなら、うちだって負けちゃいない。われわれの野球を、最後までつらぬこう。いいな!」
指揮官の檄に、ナイン達は「はいっ」と力強く返事した。
九回表。先頭打者の六番伊予が、ゆっくりと右打席に入る。
マウンド上。松川はロージンバックを足下に放り、ワインドアップモーションから第一球を投じた。
その瞬間、伊予はバットを寝かせ、ボールを三塁線に緩く転がした。セーフティバント。
「くっ……」
松川がマウンドを駆け下りて右手でボールを拾い、一塁送球。伊予は一塁ベースに頭から滑り込んだ。間一髪のタイミング。
「セーフ!」
一塁塁審のコールに、内外野のスタンドが沸き立つ。
「切りかえろよ松川」
すかさずキャッチャー倉橋が声を掛ける。
「二点あるんだ。ランナーは気にせず、一人ずつ打ち取っていこう」
松川は「はいっ」と、ポーカーフェイスで返事する。
次打者の七番安田は、右打席に入ると、始めからバントの構えをした。そして「さあこい!」と、気合の声を発す。
(これはおそらくバスターだな)
倉橋はそう察し、手振りで内野陣に「前にこなくていいぞ」と合図する。
初球。倉橋の予想通り、安田はバントから一転して、ヒッティングに切り替えた。そして上から叩き付ける。
「や、やはり」
打球は、ピッチャー松川の頭上へ高く弾んだ。
「投げるな!」
サード谷口が叫ぶ。松川が落ちてきたボールを捕球した時、すでに安田は一塁ベースを駆け抜けていた。オールセーフ。ノーアウト一・二塁とピンチが広がってしまう。
谷口はタイムを取り、マウンドへと駆け寄った。しかしその表情は、思いのほか穏やかである。
「いいボールだったぞ」
意外な一言に、松川は「えっ」と目を丸くする。
「向こうとしては、内野を抜いて一・三塁にしたかったんだろうが、おまえの球威がそれをさせなかったんだ。見ろよ」
二人が一塁ベース上の安田に視線を向けると、左手を繰り返し振っている。明らかに痺れている様子だ。
「当たりはアンラッキーだったが、マトモに勝負すれば、今のボールなら十分打ち取れる」
そう言って、谷口は右こぶしを小さく突き上げる。
「さ、自信を持っていけ」
「分かりました!」
キャプテンの激励に、松川は微笑んで応えた。
一塁側ベンチ。城田監督は険しい表情で、グラウンド上の戦況を見つめていた。
「どうもアテが外れたな……」
そう独り言をつぶやく。
(今の投球を見るかぎり、あのピッチャー、だんだん調子を取り戻しつつある。おまけにピンチが広がっても、動揺するそぶりすら見せないとは)
しばし思案の後、監督は次打者の井上に手振りでサインを出した。
(一気に逆転といきたかったが、ヘタに打たせるとダブルプレーのキケンがある。まず同点にしなきゃ、話にならんからな)
ネクストバッターズサークル。井上はヘルメットのつばを摘まみ、「了解」と合図する。
やがて試合が再開された。
左打席の井上は、安田と同じく始めからバントの構えをした。松川は構わず、ストライクコースに速球を投じる。
コンッ。バントの打球が、三塁線に転がった。サード谷口が軽快なステップで捕球し、一塁送球。アウトにはなったものの、二・三塁。一打同点の状況となる。
「くそっ。まさか、こんなピンチになるとは」
三塁側スタンド。田所は、唇を歪める。
「甲子園には魔物がいるというが、なにも今出てこなくなっていいじゃねーかよ」
そうつぶやき、祈るように両手を組む。
「ああ神様、仏様。なんとか魔物をおとなしくさせて、どうかあいつらを勝たせてやってください。おれの今年の運を使ってくれてかまいませんから」
田所だけでなく、ピンチを迎えた三塁側スタンドには、張り詰めた空気が漂う。
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