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<外伝>
第70話 江島の堅守!の巻
1.投手戦
―― 晴天の甲子園球場では、この日の第二試合が始まろうとしていた。二回戦・墨高と江島の一戦である。
すでに試合前の挨拶を終え、今は後攻の江島ナインが、内外野にてボール回しを行う。またマウンドでは、江島のエース橋本が規定の投球練習を始めている。
「しまったあ……」
墨高ナインの陣取る三塁側ベンチでは、スコアラー役の半田が苦い顔をしていた。
「橋本の投球にばかり気を取られて、ついチェックを忘れちゃってました。江島、あんなに守備がいいなんて」
グラウンド上。江島野手陣の内外野のボール回しは、軽快そのものである。
「たしかにさっきのシートノックでも、かなりいい動きをしてました」
イガラシが渋い顔で言った。
「けっしてエースだけのチームじゃないってことですね」
半田は立ち上がり、他のナイン達に「スミマセン」と頭を下げる。
「守備のことも頭に入れておけば、それを想定した練習だってできたのに」
「ま、しかたないさ」
横井が慰めめいたことを言った。
「なにせ前の試合じゃ、むずかしい打球はほとんどなかったからな。それに今さら悔やんでも、しょうがねーよ」
「横井さんの言うとおりだぜ」
言葉を重ねたのは、加藤だった。
「以前も話したが、どっちみち甲子園じゃ、完ぺきな対策はできねえよ。試合を進める中で、ちょっとずつ相手の弱点を見つけていくしかねえんだ」
「……うん、そうだね」
半田はうなずいた。少し表情が和らぐ。
やがて、アンパイアが「バッターラップ」と声を掛けてきた。ネクストバッターズサークルに控えていた丸井が、バットを手に駆け足で打席へと向かう。
丸井が右打席に立ち、バットを構えたタイミングで、アンパイアが「プレイボール!」とコールする。同時に球場内を、試合開始を告げるサイレンが鳴り響いた。
江島のキャッチャー坂田は、長身の堂々たる体躯の捕手である。ホームベース奥に座り、墨高の先頭打者丸井の独特の構えを気に留める。
(バットを斜めに寝かせて、クローズドスタンスたあ、ずいぶん変わったフォームだな。しかし……)
マウンド上の橋本と目を合わせた。
(やはり橋本の対策を取ってきたか。相手をよく研究するチームだというウワサは、本当のようだぞ)
坂田はしばし思案した後、「まずコレよ」とサインを出す。橋本はうなずき、投球動作へと移る。ワインドアップモーションから、アンダースローのフォームで第一球を投じた。
ボールは、打者の膝元に喰い込むシュート。丸井は見送った。アンパイアは「ボール」と判定する。
(まいったな……)
丸井は苦笑いした。
(今のシュート。テレビで見た以上に、鋭く曲がりやがる。こりゃ打っても、ファールか内野ゴロにしかならねえな)
一方、坂田は「ほう」と感心した。
(広陽のバッターは、みんなこのシュートに腰が引けてたが、平然と見送りやがった。さすが予選で谷原を倒したチームのトップバッターなだけある)
二球目は、アウトコースへのスローカーブ。丸井はおっつけるようにライト線へ打ち返した。快音を残し、鋭いライナーが飛ぶ。
しかし、僅かに切れてファール。
「ああ、くそっ」
走り出していた丸井は、残念そうに戻ってくる。
「た、タイム」
坂田はアンパイアに合図し、マウンドに駆け寄った。
「あいつめ。いきなり、おまえのシュートをとらえてきたぞ」
「おちつけ坂田」
諭すように橋本は言った。
「たった二球投げただけじゃないか。やつはまだ、こっちの手の内を見抜いたわけじゃない。それにこの前は、うまくいきすぎたんだ。甲子園に出てくるチームのバッターなら、あれぐらいはフツウだろう」
「……うむ。それもそうだな」
「まあ、そう心配するなって」
橋本は僅かに笑む。
「あの一番をうまく打ち取って、おれを攻りゃくするのがカンタンじゃないってこと、墨谷のやつらに思い知らせてやろう」
坂田は「よしきた」と応えて、ポジションへと戻る。
「フン。なにを打ち合わせたか知らんが、かならず打ち返してやる」
丸井はぺっぺっと唾で両手を湿らせ、バットを構えた。
「さあこい!」
三球目。橋下はアウトコースに、今度は速いカーブを投じる。
「わっと」
球速差に丸井は振り遅れてしまい、打球はバックネット方向へ飛ぶ。ファール。
四球目はインコース低めにスローカーブ。丸井は「うっ」と体を泳がされながらも、何とか引っぱってファールにする。打球は三塁側ベンチ前を転がっていく。
「ちぇっ、変化球だけで緩急をつけられるとは」
そして五球目。橋本はまたもワインドアップモーションから、投球動作を始めた。ボールは高めの速球。丸井のバットが回る。
「……あ」
バシッ。坂田のミットが鳴った。空振り三振。
「くそうっ」
丸井は右こぶしを握り締め、ベンチへと引き上げていく。
続く二番島田は、左打席に立った。そしてバットは丸井と同じ構えをする。
(この二番はスイッチヒッターだったな。しかしこいつも、さっきの一番と同じ打法か)
坂田は思案の後、サインを出す。
初球はインコース低めの速いカーブ。島田は手を出さず。コースいっぱいに決まり、ワンストライク。打者は思わずマウンド上を睨む。
(変化球でコーナーを自在に突けるたあ、やはり並の投手じゃないな。丸井さんが三振したのもうなずけるぜ)
続く三球目は、アウトコース低めの速球。島田は十分引き付けてから、弾き返す。速いゴロが一・二塁間を襲う。
「よしっ……ああ」
三塁側ベンチは一瞬沸きかけたが、江島のセカンドが跳び付いてグラブの先で補球し、膝立ちで一塁へ送球。島田は頭から滑り込むが、間一髪アウト。
「くっ、ねらいどおりだったのに」
悔しがりつつベンチに戻ってきた島田に、他のナイン達は「おしいおしい」「今の打ち方だぞ」と声を掛ける。
「フウ。あぶねえ」
坂田は額の汗を拭い、マスクを被り直す。
ネクストバッターズサークル。谷口は屈んで、打順を待ちつつ「マズイな」とつぶやく。
(ここをあっさり三者凡退に終わったら、ナインの士気にかかわる)
そして「倉橋!」と、打席へ向かう次打者に声を掛けた。
「たのむ。特訓の成果を証明するためにも、なんとか一本打ってくれ」
倉橋は「よしきた」と返事して、右打席に立つ。こちらも一、二番と同じ打法だ。
打者がバットを構えると、眼前のマウンド上で、橋本がすぐに投球動作を始めた。インコース高めの速球を投じてくる。
「……おっと」
倉橋は手を出しかけるが、寸前でバットを引いた。判定はボール。
(あやうくボール球に手を出しちまうところだった。しかしあのピッチャー。こんなにきわどいコースを突いてくるなんて)
二球目はアウトコースにスローカーブ。低めいっぱいに決まり、ワンエンドワン。
(このスローカーブ、ただ遅いだけじゃないな)
思わず倉橋は苦笑いした。
(大きく曲がるうえに、コントロールも自在とは。無造作に打ちにいけば、広陽の二の舞になっちまう)
続く三球目。今度は真ん中低めに、半速球が投じられた。それがすうっと沈む。ドロップボールである。
しかし倉橋は、これを掬い上げるように打ち返した。ライナー性の打球が、センターの芝の上で弾む。センター前ヒット、ツーアウト一塁。
「へへっ、ざんねんだったな」
一塁ベース上で、倉橋は含み笑いを漏らす。
「こちとら落ちるタマなら、うちのエースで練習ずみなんでね」
一方、坂田はマスクを脱ぎ、腰に右手を当て小さくかぶりを振る。
(引っかけて内野ゴロに打ち取るつもりが、いともカンタンに打ち返してくれたな。こりゃ気を引きしめてかからないと、痛い目にあうぞ)
ほどなく次打者の谷口が、右打席に入ってくる。四番の彼もまた、他の打者と同じ構えだ。
「なんでえ、四番までチョコン打法か」
坂田は聞こえるように嫌味を言ったが、相手打者はまるで意に介さない。
(これぐらいで動じるような男じゃ、キャプテンはつとまらんか)
苦笑いして、坂田はホームベース奥に屈む。そして「まずコレね」とサインを出した。
マウンド上。橋本はうなずくと、今度はセットポジションから投球動作を始める。初球は、インコース低めの速いカーブ。
「いまだっ」
谷口は躊躇うことなく強振した。パシッと快音が響く。大飛球がレフト頭上を襲う。
「れ、レフト!」
坂田の指示の声よりも早く、江島のレフトが背走を始めていた。そして外野フェンスの数メートル手前でダイブする。三塁塁審が、打球の確認に走る。
「……あ、アウト!」
塁審のコールに、内外野のスタンドからは落胆と安堵の入り混じった声が漏れる。
「くそっ、あと少しだったのに」
谷口は悔しげな顔で、ベンチへと引き上げる。
(しかし半田の言ったとおり、あれほど守備がいいとは。この様子じゃ、おいそれと得点させてもらえないな)
そう胸の内につぶやいた。
一回裏。守る墨高のマウンドには、一年生左腕の井口が上がる。ほどなくキャッチャー倉橋相手に、規定の投球練習を始めた。
スピードある速球とシュートに加え、打者のタイミングを外すスローカーブ。どれもキレよくコーナーに決まる。
「な、なんてボールだよ」
江島ナインの陣取る一塁側ベンチから、ざわめきが漏れた。
「シュートなんて、ほぼ直角に曲がりやがったぞ。あんなタマ、どうやって打ちゃいいんだ」
「うむ。あれで一年生とは思えんな」
相手ベンチの会話を聞いて、倉橋はクスと笑い声をこぼす。
(ずいぶん弱気だな。ま、このまえの試合を見たかぎりじゃ、さほど打力はなさそうだし)
そして「井口」と、マウンド上の一年生に声を掛けた。
「今日はどんどん攻めていこうよ」
はいっ、と井口は力強く返事する。
やがて、江島の先頭打者が右打席に入ってきた。ガツガツと足下を均し、バットを短めに構える。井口の投球を見たせいか、緊張気味の表情だ。
倉橋は「まずコレよ」と、サインを出す。
初球。井口はワインドアップモーションから、投球動作へと移る。そして得意のシュートを投じた。
ボールは打者の膝元を巻き込むようにして、ストライクゾーンを通過。打者は手が出ず。
「ストライク!」
アンパイアのコール。打者は「は、はやい」と顔を歪める。
二球目もインコース低めのシュート。打者はまたも手が出ず。これも決まってツーストライクとなる。
「あれ、どったの」
井口が挑発的に言った。
「ただ見てるだけじゃ、当たらないよ」
打者はムッとした顔をする。
そして三球目。井口はまたも、ワインドアップモーションから投球動作を始めた。今度はインコース高めの速球。打者はバットを出したが、空を切る。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアのコールに、打者はうなだれる。
(やはり打力は低いようだな)
倉橋は、そう胸の内につぶやく。
すぐに次の二番打者が、左打席に入ってきた。井口の速球に合わせるためか、バットをかなり短く持っている。それを見て、倉橋はサインを出す。
初球。井口が投じたのは、スローカーブだった。
「うっ」
打者は完全にタイミングを外されてしまう。ガキ、と鈍い音を残し、打球はサード頭上への凡フライ。谷口が「オーライ」と周囲を制してから、難なく顔の前で補球した。
倉橋に返球した後、谷口はナイン達へ声を掛ける。
「ツーアウト!」
ナイン達は「ナイスピーよ井口」「このまま攻めていこうぜ」と、マウンド上の一年生を盛り立てる。
続く三番打者も左打席に立った。その初球、井口はインコース高めに速球を投じる。打者はスイングするが、掠ることもできず。
(く……かすりもしないとは)
二球目は、アウトコース低めのシュート。打者は手が出ず、あっという間にツーストライク目を取られる。
(こう速くちゃ、直球かシュートかの区別もつかねえよ)
つい胸の内で、泣き言をつぶやく。
そして三球目。井口はアウトコース低めに、速いカーブを投じた。ボールはコースいっぱいに決まる。打者は手が出ず。
(しゅ、シュートとスローカーブだけじゃなかったのかよ)
打者は数回かぶりを振り、ベンチへと引き上げた。スリーアウト、チェンジ。
「へっ。やはり大したことねえな」
肩で風を切るようにして、井口がマウンドを降りていく。
「おい井口」
その背中に声を掛けたのは、イガラシだった。
「かなり調子よさそうじゃねえか」
まあな、と井口は得意げに答えた。
「相手打線も弱いし。ちっとも打たれる気しねえよ」
「そうか。しかし最後まで集中を切らすなよ。今日はヘタすりゃ、一点勝負になるかもしんねえからな」
「なーに。今の調子じゃ、一点あれば十分……」
「その一点が取れなくて、広陽は最後の最後にポカをしちまったろう」
「……おい、イガラシ」
さすがに井口は不機嫌になる。
「おれまでポカをするって言いてえのか」
「まあまあ、悪く思うなよ」
イガラシは僅かに笑んだ。
「そうならないように、細心の注意をしろってこった。たのんだぜ」
そう言って、幼馴染は踵を返す。
「なんだあいつ」
井口は不思議そうにつぶやいた。
2.ねらいダマをしぼれ!
二回表の攻撃前。谷口はタイムを取り、三塁側ベンチ手前にてナイン達に円陣を組ませた。
「みんな。今は自分のバッティングだけに集中するんだ。相手守備のことは、そこまで考えなくていい」
開口一番、谷口はそう告げる。
「どんなに守備がよくたって、ぜんぶの打球をとれるわけじゃない。まずは特訓してきた打ち方で、かく実に芯でとらえることを心がけるんだ」
「おれも同感だぜ」
倉橋が言葉を重ねる。
「さすがに広陽を完封しただけあって、あの橋本はかなりの投手だ。きっちり打ち返すことを意識しないと、やられるぞ」
ごくん、と唾を飲む音がした。倉橋は話を続ける。
「さいわい、江島にうちの投手陣から何点も取るほどの打力はない。一点でも先取すれば、やつらはあせるはずだ」
「倉橋の言うとおり、この試合は先取点が大事だと思う」
谷口はそう言って、さらに付け加える。
「それから一つ一つのプレーを大切にしよう。こっちから自滅することがないようにな」
キャプテンの言葉に、ナイン達は「はいっ」と声を揃えた。
やがてイガラシが右打席に入り、アンパイアが「プレイ」と二回表の開始を告げる。
(こいつか。予選で七割近く打っていたというバッターは)
キャッチャー坂田は警戒心を抱く。
(ナリからして、さほどパワーはないだろうが、足は速そうだ。回の先頭だし、ここは慎重にいかなきゃな)
イガラシも、初回の四人と同じ構えをする。
(なんだ。この五番もチョコン打法か)
坂田は苦笑いする。そして思案の後、サインを出す。
橋本はサインにうなずき、ワインドアップモーションからアンダーハンドのフォームで第一球を投じた。アウトコースへの速いカーブ。
パシッ。快音を残し、打球はライトポール際へ飛ぶ。おおっ、と三塁側ベンチとスタンドが沸きかける。しかし僅かに切れてファール。
「ちぇ。もうちょい左だったらなあ」
イガラシは渋い顔で、小さくかぶりを振る。一方、坂田は目を丸くした。
(どうやらパワーはないって考えは、捨てた方がよさそうだな)
二球目はインコース高め、三球目はアウトコース低めに速球を投じた。いずれもきわどいコースだったが、きっちり見極められツーボール。
(さすが、いい目してやがる)
坂田は感心するほかなかった。
そして四球目。橋本が投じたのは、インコースへのシュートだった。打者の懐に喰い込む軌道。イガラシのバットが回る。
パシッ。イガラシは肘を畳み、二遊間へ低いライナーを打ち返す。
「や、やった!」
またも沸きかける三塁側ベンチ。抜けるかと一瞬思われたが、江島のショートが横っ飛びし、グラブの先で好捕する。ショートライナー、ワンアウト。ああ……と、三塁側ベンチから落胆の声が聞かれる。
一方、一塁側ベンチとスタンドは沸き立つ。
「ナイスプレーよショート!」
「抜ければ長打の当たりを、よく止めてくれたぜ」
マウンド上の橋本は、安堵した。
(あぶねえ。こいつ、いい反応しやがるぜ)
一方、イガラシは「くそっ」と、悔しげにベンチへ引き上げていく。
(うーむ。まだ序盤だというのに、いい当たりが続いてるな)
坂田は渋い顔で、胸の内につぶやいた。
(ここらで、ちょっとしめていかねえと。打力からして、うちは先に点を取られると、かなり苦しくなるからな)
ほどなく、次打者の横井が右打席に入ってくる。そして、あの構えをした。なるほど、と坂田はつぶやく。
(この構えは、やはり橋本の変化球に対応するためか。やつらなりに考えたんだろうが……それでやられるほど、うちは甘くねーぞ)
坂田がサインを出し、橋本はすぐに投球動作を始めた。初球はインコースのシュート。打者の膝元を巻き込むように、鋭く曲がる。
カキ。ミートし損ねた打球が、三塁側ベンチ前を転がっていく。
(くっ……こんな手元で曲がるなんて)
横井は唇を歪める。
(イガラシのやつ、よくライナーで打ち返せたな)
二球目は、アウトコースのスローカーブ。横井は手が出ず。コースいっぱいに決まり、ツーストライクとなる。
(ほんときわどいコースに投げてきやがる。しかし、カンタンに追いこまれちまったな)
そして三球目。橋本は、インコースに速球を投じてきた。
「うっ」
明らかなボール球に、横井は手を出してしまう。打球はレフト正面への凡フライ。江島のレフトはほぼ定位置から動かず、難なく顔の前で捕球する。あっさりツーアウト。
「やられた。ボール球を打たされちまった……」
うなだれる横井。ベンチへと引き上げる途中で、次打者の井口とすれ違う。
「スマン井口。おまえの前に、ランナーを出してやれねえで」
なあに、と快活な声が返ってくる。
「気になさらず。おれが一本、放りこんできてやりますんで」
「あ、そう」
そうとうな自信だな、と横井は半ば呆れた。
井口は左打席に立ち、やはり他の打者と同じ構えをする。マウンド上を睨み「さあこい!」と、気合の声を発した。
(ずいぶん、いせいのいいバッターだな)
マウンド上。橋本は苦笑いしつつも、警戒心を募らせる。
(だがナリからして、パワーはありそうだ。芯でとらえられたら、オーバーフェンスもされかねないぞ)
キャッチャー坂田のサインに、橋本は三回首を振った。どうしても慎重になってしまう。
(……じゃあ、コレか?)
(うむ)
ようやくサインが決まり、橋本は一球目を投じた。インコース低めのスローカーブ。決まってワンストライク。井口はピクリとも動かず。
(まるで反応しないということは、速球を待ってるのかな)
坂田は思案し、次のサインを出す。
二球目もスローカーブ。今度はアウトコース低めに投じた。井口はまたも手を出さず。ボールはコースいっぱいに決まり、ツーストライク。
(また手を出さないか。なら、これはどうだ)
坂田のサインに、橋本はうなずいた。そしてワインドアップモーションから投球動作へと移る。投じたのは、アウトコース高めの速球。
あっ、と坂本は思わず声を上げた。傍らで、井口のバットが回る。
パシッ。火を噴くような打球が、あっという間にレフトフェンス上部を直撃した。井口は一塁ベースを蹴り、二塁にスライディングもせず到達する。
「ああ、くそっ。あとこんくらい」
二塁ベース上。井口は親指と人差し指を広げ、悔しがる。
「た、タイム」
坂田はアンパイアに合図し、マウンドへと駆け寄った。
「スマン坂田」
橋本が謝ってくる。
「ボール球を打たせるつもりが、ちと中に入っちまった」
「ま、すんだことはしかたないさ」
渋い顔で、坂田は言った。
「フェンスオーバーされなくてよかった。それより、つぎのバッターをかく実におさえよう。下位打線で点を取られることがないようにな」
エースは「よしきた」と応える。
坂田がポジションに戻ると、墨工の八番打者加藤が左打席に入ってきた。こちらもやはり、他の打者と同じ構えだ。
橋本はロージンバックを拾い、右手に馴染ませつつ、間合いを取った。
(まずコレよ)
坂田のサインに「む」とうなずき、橋本はロージンバックを足下へ放る。
そして橋本はセットポジションから、一球目を投じた。アウトコース低めのシュート。加藤はバットを放るようにスイングしたが、空振りしてしまう。
「く……このシュート、けっこうキレてるじゃねえか」
唇を歪める加藤。その時ベンチより、キャプテン谷口が指示の声を飛ばす。
「加藤、ねらいダマをしぼるんだ!」
「は、はいっ」
キャプテンの言うとおりだな、と加藤は胸の内につぶやく。
(どれでも合わせようという気でいたら、なかなかミートするのはむずかしいぞ)
二球目は、アウトコース低めのスローカーブ。これは手を出さず。僅かに外れボール。三球目も同じコース、同じボールを続けられた。今度はコースいっぱいに決まり、ツーエンドワン。
(ヤレヤレ。ねらいダマをしぼるたって、おいこまれちゃなあ)
加藤は苦笑いした。
そして三球目。橋本はまたもセットポジションから、アウトコース低めに今度は速いカーブを投じてきた。左打者の加藤には中に入ってくる起動。
加藤はおっつけるようにして、カーブを打ち返した。
「うまいっ」
ベンチの谷口が声を上げる。打球は三遊間を破り、レフト前へ抜けていく。スタートを切っていた井口が三塁ベースを蹴り、一気にホームへと向かう。
ところが、江島のレフトはシングルハンドで捕球すると、そのままバックホームした。なんとノーバウンドのストライク返球。
本塁上で、滑り込んできた井口とクロスプレーになる。
「……あ、アウト!」
アンパイアのコールに、三塁側ベンチとスタンドから「ああ」と落胆の声が漏れる。
「く……やるな」
谷口は悔しがりつつも、感心してつぶやいた。
(あんな正確なバックホームで刺すとは。しかし、今のチャンスで得点できなかったのは、正直痛いな。このままズルズルいかなきゃいいが)
それでも他のナイン達には、明るく声を掛ける。
「へいっ、切りかえていこうよ」
ナイン達は「は、はい」と返事した。
一方、江島バッテリーは苦い顔で、ベンチへと引き上げていく。
「あぶなかったな」
坂田の一言に、橋本は「うむ」とうなずく。
「まさか下位打線に、二本も打たれるとは」
「しかたあるまい。なにせ、あの谷原を破ったチームだからな」
苦笑いしつつ、坂田は言った。
「だが、モノは考えようさ」
橋本は「なにが?」と尋ねる。
「こうして何度もピンチをしのいでいると、墨高もあせりが出てくるかもしれん。早く得点しなきゃと思えば思うほど、力んでしまうからな」
坂田の言葉に、橋本は「なるほど。それなら」と僅かに笑む。
「つぎの打順はおれからだ。やつらを少しでもあせらせるように、この回、ちょっとしかけてみるよ」
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