第85話 猛攻!中陽打線の巻
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1
二回裏。二塁ベース上に右足を乗せつつ、野中は右こぶしを突き上げ、味方の一塁側ベンチへ「どうだ!」と雄叫びを上げる。
「よく打ったぞ野中! さすが四番だぜ!!」
「この回でひっくり返しちまおうぜ!!」
「中陽の恐ろしさを見せてやれ!」
一塁側ベンチに陣取る中陽ナインが、次々に掛け声を飛ばす。さらにアルプススタンドからは、中陽の勢いを後押しするように、応援団の声援が響き渡る。
―― カッセ、カッセ、ちゅーうーよう!! カセカセ中陽カセカセ中陽!!
対照的に、マウンド上の井口は呆然と立ち尽くしていた。
「お、おれのシュートが…あんなカンタンに打たれちまうなんて……」
そして苛立たしげに、マウンドの土をガッガッとスパイクで削る。
「井口! おい井口!!」
自分を呼ぶ声にハッとした。顔を上げると、谷口が檄を飛ばしてくる。
「たった一本打たれただけで、ひるむな! おまえならやり返せるはずだ!!」
(そ、そうだ…)
井口は胸の内につぶやく。
(まだ点を取られたわけじゃない。後続さえおさえりゃ……)
一方、谷口はサードベース横で前傾姿勢を取りつつ、しばし考え込む。
(おかしいぞ。いくら四番とはいえ、井口のシュートを、初打席であんなカンタンに…)
その時、ショートのイガラシが「タイム!」と三塁塁審に合図して、こちらに歩み寄ってきた。
「どうした?」
「キャプテン、どうもヘンですよ」
イガラシはそばに来ると、声をひそめて言った。
「今のバッター、まるでシュートがくると知ってたみたいに…」
「うむ、おれもそう思う。ただその原因が分からない」
うなずいて返答する。
「バッテリーに伝えるのは、原因をはっきりさせてからでないと、余計に混乱させてしまいかねん。今は、われわれだけで突き止めるんだ!」
「は、はい。ですが……」
イガラシはちらっと、マウンド上を見やる。井口は明らかに落ち着かない様子で、ロージンバッグを左手にパタパタと馴染ませている。
「ピッチャーってやつは、とかく自分の得意ダマを打たれると、動揺しちゃいますからね」
イガラシの懸念に、谷口は「ああ」と同調する。
「だが、これはもう井口に乗りこえてもらうしかあるまい。こちらとしては、しっかり守って、彼の勇気を後押ししよう。いいな!」
「分かりました!」
快活に返事して、イガラシはポジションへと戻る。
―― 五番、キャッチャー小山君!
歓声の中、次打者の小山が右打席に入ってくる。「さあこい!」と気合の声を発し、バットを長くして構えた。傍らで、キャッチャー倉橋もホームベース奥に屈み込む。
「プレイ!」
アンパイアが右手を掲げ、試合再開を告げた。
「いくぞ井口!」
倉橋が檄を飛ばすと、井口は「は、はいっ」と表情を引き締める。
(今はバッターどうこうより、やつの自信を取り戻させねえと…)
しばし思案の後、倉橋はサインを出す。
(さ、これからいこうか)
井口は戸惑いの表情を浮かべた。
(しゅ、シュート……)
マウンド上の後輩を励ますように、倉橋は右手でミットをボスンと鳴らす。
(いいからこい! おまえのシュートが、そうやすやすと打たれるわけねえんだ!!)
井口は「む」とうなずき、セットポジションに就くと少し間を置いてから、投球動作へと移る。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。シュッ、と風を切る音。
スピードのあるボールが、真ん中低めに投じられる。それがホームベース手前でぐいっと直角に曲がった。小山はバットを強振する。
打者のバットは空を切った。ズバン、と倉橋のミットが鳴る。
「ストライク!」
アンパイアのコール。ホッ、と倉橋は安堵の吐息をつく。
(これで井口も、自信を取り戻してくれりゃいいが……)
倉橋は「ナイスボールよ!」と声を掛けつつ、返球する。ボールを受けた井口の顔にも、血の気が戻ってきた。
(それ見ろ。マグレがそう何度も続いてたまるかってんだ!)
しかしイガラシは、そんな幼馴染を険しい眼差しで見つめる。
(井口、ここは油断も気負いも禁物だぞ…)
打席では、小山がバットを構え直す。その隣で、倉橋がサインを出す。
(このまま強気でいくぞ!)
井口はうなずき、すぐに二球目の投球動作を始めた。再びセットポジションから、右足で踏み込み、左腕をしならせる。
内角低めの速球。小山は一瞬ピクッと体を動かすも、手は出さず。ズバン、と倉橋のミットが鳴る。
「ボール!」
アンパイアのコール。ちぇっ、と倉橋は軽く舌打ちした。
(さすが中陽のクリーンアップだぜ。ボールには手を出しちゃくれねえか)
他方、小山も「ほう…」と感心して、マウンド上の一年生投手を見つめる。
(よくいるチカラ押しのピッチャーかと思いきや、どうしてどうして。ちゃんとコースを突いてきやがる。こんなやつが埋もれてたとは……)
井口は一度セットポジションに就くも、くるっと回転し二塁へ牽制球を投じた。ベースカバーに入ったショートイガラシがボールを受けるも、その前にランナー野中は足からすたっと戻る。
(いいぞ井口。そうやって間を取るんだ…)
こちらに井口が向き直ってから、倉橋は次のサインを出す。
(おつぎは、ちょっと目線を変えてやるか)
サインを確認し、井口はテンポよく投球動作へと移る。右足で踏み込み、指先からボールを放つ。
外角低めの速球。小山はまたも手を出さず。ズバン、とミットが鳴るだけ。
「ボール! ツーボール、ワンストライク!」
アンパイアがコールの後、両手の指を立ててボールカウントを示す。
「く・・」
倉橋は唇を歪める。
(カンタンに見逃してきやがった。ほんと、いい目してやがる)
だったら、と倉橋は四球目のサインを出した。
(これでいこう)
井口がまた「えっ」と、目を見開く。
(ま、またシュート…)
戸惑いながらも、井口はうなずきセットポジションに就く。そして二塁ランナーを目でギロッと牽制してから、投球動作を始めた。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
スピードのあるボールが、内角低めに投じられた。それが膝元を巻き込むようにして、鋭く直角に曲がる。
「うっ…」
小山は窮屈なスイングになりながらも、かろうじてバットの先端にボールを当てた。ガキ、と鈍い音がして、打球は三塁側ベンチ手前へと転がっていく。
(よし…)
倉橋は口元に笑みを浮かべた。
(やはりシュートにはタイミングが合ってない。このまま押しきれそうだぜ)
一方、井口はマウンド上にて、打者を睨む。
(このやろう、当てやがったな!)
一人いきり立つ後輩に、倉橋は「しょーがねえな」と苦笑いする。
(落ちつけ井口。ほれ、ロージンだ…)
倉橋の手振りの指示に従い、井口は足下のロージンバッグを拾い、左手にパタパタと馴染ませる。
(そろそろいいだろ……)
しあげはこれよ、と倉橋は右手の指でサインを伝える。ところが井口は、首を横に振った。倉橋が「なんでえ?」と、怪訝げな顔になる。
(シュートがダメなら、こいつか?)
サインを変えると、井口が今度はうなずく。
(なるほど、カーブで目先を変えようってことか。井口にしちゃ、いやに慎重だな。さっきねらい打たれたのを気にしてんのか……)
倉橋はミットで、ホームベース手前の土をバンバンと叩いた。
「低く、低くな!」
そう声を掛ける。
(中途半端な高さじゃ、きっと打ち返される。これは見せダマだ。ワンバウンドさせるぐらいの気持ちで、低く投げるんだぞ…)
井口はロージンバッグを足下に放り、セットポジションに就くと、すぐに投球動作を始めた。右足で踏み込み、左腕をしならせる。シュッ、と風を切る音。
内角低めのカーブが、ホームベース手前でショートバウンドした。倉橋はミットを縦にして捕球する。小山は、ピクリとも動かず。
「ボール! スリーボール、ツーストライク!」
アンパイアのコール。フルカウントか、と倉橋は渋面になる。
(ふってくれりゃ、もうけもんだと思ったが。やはりボールには手を出さねえか…)
一方、谷口はサードベース横で前傾姿勢を保ちつつ、相手打者を観察していた。打者はポーカーフェイスのまま、スパイクの裏でさっと足下を均し、バットを構え直す。
(どうも気になる…)
谷口は胸の内につぶやいた。
(バッテリーがうまく攻めているようだが、まるでバッターにあせりが感じられない。いったいなにを考えてるんだ……)
眼前で、倉橋が六球目のサインを出す。そしてミットを外角低めに構える。
(さ。つぎこそ、これよ…)
む、と井口はうなずき、少し間を置いてからセットポジションに就く。そして投球動作を始めた。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
シュートが外角低めに投じられた。ホームベースの右端から、さらに外へ逃げていく軌道。しかし小山は左足を踏み込み、バットをおっつけるようにして振り抜いた。
パシッ、と快音が響く。地を這うような鋭い打球が、飛び付いたファースト加藤のミットの下をすり抜けていく。
「フェア!」
一塁塁審が、白線の内側を指さしコールした。打球はスライスし、ライトのファールグラウンドを転がっていく。
「ら、ライト!」
倉橋がマスクを脱いで立ち上がり、指示の声を飛ばす。
しかしライト久保がようやくフェンス際でボールを拾い上げた時、ランナー野中はゆっくりとホームベースを踏んでいく。打者走者の小山も一塁ベースを蹴り、二塁へと向かう。
「くそっ」
久保は急いで中継の丸井へボールを返す。
「こんにゃろ!」
送球を受けた丸井が二塁へ投げる構えをした時、小山は「おっと」と素早く帰塁する。
タイムリーツーベースヒット。バックスクリーンのスコアボードの一枠がパタンとめくられ、中陽の得点が「1」と示される。
盛り上がる一塁側ベンチ。
「ナイスバッティングよ小山!」
「また得点圏だ! 一気に同点、逆転といこうぜ!!」
「さあ六番も続け!!」
さらにアルプススタンドの応援団も、中陽の勢いを加速させる。
―― カセカセ中陽カセカセ中陽! かっとばせー、ごーとーう!!
大歓声の中、甲子園球場にウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 六番、ファースト後藤君!
マウンド上。井口は「くそ!」と、悔し紛れにロージンバッグを足下に叩き付ける。
(おれのシュートがねらい打ちされるだと!? どうなってやがんだ…)
さらにホームベース手前では、倉橋が呆然と立ち尽くす。
(ば、ばかな。あれだけ散らしたつうのに……)
一方、サードの谷口は「そ、そうか!」と、小さく声を上げた。
(分かったぞ、中陽のねらいが……)
三塁塁審に「タイム!」と合図して、谷口はマウンドへと向かう。
すぐにキャッチャー倉橋、さらにショートイガラシ、セカンド丸井、ファースト加藤の内野陣も駆け寄ってきた。そしてピッチャー井口を囲むように集まる。
「みんな、すまん……」
倉橋が苦々しい顔で言った。
「井口はしっかり投げてくれたんだが、向こうにうまく打たれちまって…」
「うむ。そのことなんだが……」
やや声をひそめて、谷口は告げる。
「初回、彼らはじっくりボールを見てきたろう?」
む、と倉橋がうなずく。谷口は話を続けた。
「あれはシュートを見るためじゃなく、決めダマとしてシュートを使ってくるかどうかをたしかめるためだったんだ」
その言葉に、倉橋と井口のバッテリー二人は、ハッとして目を見開く。
「どうりで…」
井口が悔しげにつぶやく。
「やつら、あんなカンタンにねらい打ちしてきやがったのか。調子にのりやがって……」
「まあまあ。そういきり立つなよ、井口」
なだめるように言ったのは、丸井だ。
「あちらさんのねらいが分かったことだし。つぎから、同じテをくわないようにすりゃいいじゃねえか」
丸井の隣で、加藤も「そうだよ」と同調する。
「おまえさんは、あの谷原相手に力投した男じゃねえか。この後きっちり、やり返してやりゃいいんだよ!」
井口は「は、はいっ」と返事して、口元を引き締める。
「あの…」
その時、イガラシがどこか浮かない顔で言った。
「どうした?」
倉橋に問い返されると、イガラシは「あ、いえ……」と口をつぐむ。
「なんだよ。気になるじゃねーか」
今度は井口が問うてくる。イガラシは顔を上げ「とにかく」と、話を逸らすように返答した。
「やつらを勢いづかせねえように、なんとしても後続をおさえるんだ」
「おうよ、まかせとけって!」
井口が力強く答えるも、イガラシは「ああ…」とまだ晴れない表情のままだ。
「ま。とにかく、最後まで気を抜いちゃいけねえつうこった」
話をまとめるように、倉橋が言った。
「こっちも配球を変えていくが、それだけでおさえられるほど、甘い相手じゃねえ。たのむぞバック!」
正捕手の檄に、内野陣は「オウッ」と快活に応えた。ところが一人、谷口だけがうつむき加減である。
「キャプテン、どうなさったんです?」
丸井が尋ねた。
「む。ああ、いや…」
谷口までも、どこか歯切れ悪く返事する。丸井がもう一度「キャプテン?」と尋ね、怪訝げな目を向ける。
「な、なんでもない」
苦笑いして返答し、谷口はマウンド上の全員を見回す。
「倉橋の言うとおりだ」
キャプテンは声を明るくして言った。
「これだけの強敵相手に、バッテリーは立ち向かってくれてる。二人だけじゃなく、みんなでチカラを合わせて、このピンチを切り抜けるんだ! いいな!!」
右こぶしを突き上げ、谷口は檄を飛ばす。他のナインは「オウヨッ」と、力強く声を揃えた。
そして内野陣とキャッチャー倉橋は、再びそれぞれのポジションへと散っていく。
谷口もサードのポジションに就く。その時、イガラシが歩み寄り「キャプテン」と、声を掛けてきた。
「どうした?」
「さっき倉橋さんも言ってたんですけど。中陽ほどの相手が、ちょっと配球を変えたくらいで、おとなしくなってくれるとは思えません」
む、と谷口は相槌を打つ。イガラシは話を続けた。
「なにせ百戦錬磨のチームですからね。こっちが向こうの策に気づいたと見るや、すぐさまねらいダマを変えるぐらい、やつらにとっちゃ朝飯前かと……」
へえ、と谷口は胸の内につぶやく。
(やはり気づいてたのか。察しのいい男だ…)
イガラシが「キャプテン?」と、怪訝そうに首を傾げる。
「おれも同感だ」
谷口は、短く返答した。
「でしたら、バッテリーにそう伝えた方がいいんじゃ…」
「おまえの言いたいことは分かる。しかし、どう伝えるんだ?」
「そ、それは……」
イガラシが珍しく口をつぐむ。
「おまえも分かってるだろう」
渋面になり、谷口は言った。
「相手がこの後どうしてくるか、今はまだ読めない。向こうがねらいダマを変えてくるかもしれないとバッテリーに伝えたところで、二人を混乱させるだけだ」
たしかに、とイガラシはうなずく。
「イガラシ。おまえもそう思ったから、さっきなにも言わなかったんだろう?」
「はい」
「だったら、ここはバッテリーにまかせるしかない」
谷口はそう言って、ポンと後輩の左肩を叩く。
「試合はまだ序盤じゃないか。ここで井口が打たれても、後で取り返せばいい。なにがあっても、最後に勝つのはわれわれだ。この気持ちを忘れるな!」
「は、はいっ」
イガラシは背筋を伸ばして返事した。
その時、二人の背後で三塁塁審が「ゴホン」と、咳払いする。
「まだかね?」
「あ、はい。もうけっこうです」
谷口は苦笑いして返答した。そして他のナインに声を掛ける。
「ノーアウト二塁だ! しっかり守っていこうよ!!」
ナイン達は「オウッ」と応えた。
イガラシはショートのポジションに戻り、前傾姿勢を取るキャプテンの背中をちらっと見やる。
(ここで井口が打たれても、か……)
2
一塁側ベンチ。
「さあ、ねらっていけよ後藤!」
「流れはこっちだ! 思いきっていこうぜ!!」
「ここらで中陽のおそろしさを見せてやれ!」
活気づく中陽ナインの眼前で、背番号「3」の後藤が右打席へと入っていく。そしてちらっと、味方ベンチを見やった。
ベンチ後列にて、中陽監督が右手で帽子のつばを摘まみ、サインを出す。後藤もヘルメットのつばを摘まみ、こくっとうなずいた。
サイン交換を済ませ、監督は腕組みして、グラウンド上へ厳しい眼差しを向ける。
(どうやらウチのねらいを見抜いたようだな。だがもう遅い。すでにおまえ達は、後手を踏んでいる。墨谷め覚悟しろ!)
監督の視線の先で、アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げた。
右打席に立った後藤は、バットを長くして構える。がっしりとした体格、長い手足。
(やれやれ。とても六番バッターの雰囲気じゃねえな……)
ホームベース奥にて、倉橋は屈んで打者を横目に観察した。
(手が長いぶん、内角はちときゅうくつそうだし…)
まずこれよ、と倉橋は右手の指でサインを出し、ミットを内角高めに構える。
マウンド上。井口は「む」とうなずき、セットポジションに就く。そして二塁ランナーをちらっと一瞥(いちべつ)してから、投球動作を始めた。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
内角高めの速球。打者はピクリとも動かず。ズバン、と倉橋のミットが鳴る。
「ストライク!」
アンパイアが右手を突き上げコールした。倉橋は「うーむ」と、しばし思案する。
(打つ気がなかったようだが、またツーストライクの後のシュートをねらってるのかな?)
思案の後、倉橋は「もういっちょ、ここよ」と二球目のサインを出す。井口はうなずき、すぐに投球動作へと移る。
またも内角高めの速球。やはり後藤は手を出さず。
「ストライク、ツー!」
アンパイアのコール。なんでえ、と倉橋は渋面になる。
(あっさりツーナッシングまでこぎつけたが、問題はこの後……)
倉橋はふと、サードを守る谷口に視線を向ける。どこか浮かない表情だ。
(谷口のやつ。さっきから、ずっとあんな顔してんな。理由はおそらく…)
ちらっと一塁側ベンチを見やる。その後列にて、中陽監督はじっと腕組みしたまま、動かない。
(こっちの動きを見て、連中がねらいダマを変えるかもしれねえっつうことだろう。なにやらイガラシと話してたのも、きっとその件だ)
そして再び、倉橋はマウンドへと視線を戻す。井口は一旦プレートを外し、二塁へ牽制球を投げる真似をした。ランナー小山はすかさず足から帰塁する。
(ただ、もし向こうがねらいダマを変えてきたとしても、今のところ打つテがねえ。だから二人とも、おれと井口にはなにも言わねえんだろうが……)
倉橋は「さ、これよ」とサインを出し、ミットを内角低めに構える。
(なるほど、カーブか…)
井口はうなずき、すぐに投球動作を始めた。右足で強く踏み込み、左腕をしならせる。
ほぼ真ん中に投じられたボールが、ホームベース手前でくくっと鋭く曲がる。後藤は肘をたたみ、バットをすくい上げるようにして強振した。パシッ、と快音が響く。
痛烈なライナーがレフト線を襲う。井口は「うっ」と、顔をしかめた。レフト横井が斜めに背走する。
打球はレフト線の内側で弾み、そのままワンバウンドで外野フェンスに当たり跳ね返る。
「フェア!」
三塁塁審が、白線の内側を指さしコールした。オオッ、と甲子園球場が沸き返る。
「くっ・・」
横井がようやく打球を拾う。中継のイガラシが「ヘイ!」と両手を掲げ合図した。横井は素早く返球する。
しかしその間、二塁ランナー小山が「これで同点ね!」と小さく右こぶしを突き上げながら、小走りにホームベースを踏んでいく。さらに打者走者の後藤も二塁ベースに右足から滑り込む。
タイムリーツーベースヒット。バックスクリーンのスコアボードの一枠がまためくられ、中陽の得点が「2」と表示される。
ホームベース手前にて、倉橋はマスクを手に立ち尽くす。そして一塁側ベンチを睨む。
(や、やられた…)
正捕手の視線の先では、同点のホームを踏んだ小山を、中陽ナインが出迎える。
「ナイスバッティングよ小山! 後藤もよく打ったぞ!」
「もはや流れはこっちだ! 一気にたたみかけようぜ!!」
「さあ、おつぎは逆転といこうよ!」
盛り上がる中陽ナインとは対照的に、マウンド上では井口が呆然としていた。
(ば、ばかな。ねらいをはずしてやったはずなのに……)
すかさず谷口が「井口!」と、声を掛ける。
「ひるむなよ! 今のはヤマをはられただけだ、あまり気にするな!!」
「は、はあ…」
谷口の懸命な励ましにも、井口は明らかに上の空だ。その姿に、谷口は唇を歪める。
(くそっ。こうなると分かっていながら……)
セカンドの丸井が「ちとまずいな」と、顔を引きつらせた。うむ、ファーストの加藤が同調し、額の汗を拭う。
「あちらさん、いよいよ勢いづいてきたぜ」
ショートのイガラシは、無言でマウンド上の井口を見つめる。さらに外野陣の横井、島田、久保の三人は、一様に心配そうな表情を浮かべる。
グラウンド上の墨高ナインを、重苦しい空気が包み込む。そこに一塁側アルプススタンドから、中陽応援団の大声援が容赦なく降り注ぐ。
―― カセカセちゅうようカセカセちゅうよう! かっとばせー、つーつーい!!
「みんな、顔を上げるんだ!」
重苦しい雰囲気を振り払おうと、キャプテン谷口が叫ぶ。
「この回をしのげば、また流れがくる! バッテリーだけじゃなく、全員でアウトをもぎ取っていこう!!」
ナイン達はハッとして「オ、オウッ」と応える。
(いかんな。リードするおれが、こんなこっちゃ…)
倉橋はマスクを被り直し、ホームベース奥に屈み込む。
(なんとしても、やつらをおさえる方法を見つけ出さねば……)
ほどなくウグイス嬢のアナウンスが流れてくる。
―― 七番、サード筒井君!
筒井と呼ばれた長身ながら細身の打者は、右打席の手前で立ち止まり、ちらっと一塁側ベンチを見やった。すると監督がベンチ後列より、再び帽子のつばを摘まみサインを出す。
(おまえはカウント関係なく、シュートをねらい打て!)
サインを理解した筒井は、ヘルメットのつばを摘まみ「分かりました」という意を伝える。それから右打席に入り、一人ほくそ笑む。
(ウチの監督、よくもまあつぎからつぎへと、いじわるい策を考えつくもんだぜ。フフ…)
他の打者と同様、筒井もバットを長くして構える。その立ち姿に、マウンド上の井口は露骨にムッとした顔になった。
(このやろう。どう見てもパワーのなさそうな体のくせに、長距離打者みてえなかまえをするたあ。いい気になりやがって……)
すかさず倉橋が、マスク越しに声を掛ける。
「こら井口、カッカすんじゃねえ!」
あ…と、井口は我に返った。そして気持ちを落ち着かせるように、スパイクで足下をガッガッと削る。倉橋は「さて」と、渋面で思案した。
(こうなったら、やつの強みで勝負していくっきゃねえか……)
倉橋は一度ボスンとミットを叩き、右手の指でサインを出す。
(さ、これでいこうよ)
マウンド上にて、井口は目を見開く。
(しょ、初球からシュート…)
倉橋は真ん中低めにミットを構え、「こい井口!」と掛け声を発した。
(シュートがおまえさんの勝負ダマなんだ。ここは出し惜しみせず使っていくぞ!)
うむ、と井口はうなずき、しばし間をおいてから投球動作へと移る。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
スピードのあるボールが真ん中低めから、ぐいっと外へ曲がる。しかし筒井は、バットをおっつけるようにしてスイングした。パシッ、と快音が響く。
鋭いライナー性の打球が、今度は右中間を襲う。
「ま、また…」
井口は投げ終えた姿勢のまま、顔を引きつらせる。
「くっ・・」
倉橋はバッとマスクを脱ぎ、立ち上がる。
打球は右中間を深々と破り、外野の芝の上を跳ねながらフェンスまで到達した。オオッ、と一塁側アルプススタントが、またも沸き立つ。
センター島田、ライト久保が懸命に追う。だがその間、二塁ランナー後藤がゆっくりとホームベースを踏んでいく。
「ボール、サードだ!」
サードの谷口が、三塁ベース手前から叫ぶ。その眼前で、打った筒井は二塁ベースを蹴り、さらに加速して三塁へと向かう。
ようやく久保が打球を拾い、中継の丸井へ返球した。ボールを受けた丸井はすかさず三塁へ投げる構えをするも、谷口が「よせ!」と制止する。
スコアボードの一枠がさらにめくられ、中陽の得点が「3」と表示された。
マウンド上。井口は膝に両手をつく格好で、呆然とする。
「いったい、どうすりゃいいんだ……」
さらにホームベース手前にて、倉橋が「まずい…」と顔を歪める。
(どうやら後手をふんじまったな。こうなっちまうと、なかなか抜け出せねえぞ……)
打者走者筒井の立つ三塁ベース横で、キャプテン谷口は考え込む。
(いかん。バッテリー、混乱してしまってる。なにか打つテはないものか…)
一方、一塁側ベンチ奥にて、中陽監督はフフと笑みを浮かべた。
「墨谷め。かんぜんに、こっちの術中にはまったな」
そして周囲の選手達へ声を掛ける。
「さあ、おまえ達。遠慮はいらん。この回、取れるだけ取ってこい!」
中陽ナインは「はいっ」と、快活に返事した。
再びグラウンド上。倉橋はマスクを被り直し、フウと溜息をつく。そしてホームベース奥に屈む。
(とにもかくにも、やつらの勢いを止めねば。しかしどうしたら……)
苦悩する倉橋をよそに、ウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 八番、レフト田中君!
ひときわ小柄な打者が、右打席に入ってきた。こちらはバットを短くして握る。
(中陽のバッターにしちゃ、めずらしくコンパクト打法か)
倉橋は横目で打者を観察した。
(ただこいつも、五割近く打ってるつう話だったな。ほんとやんなるぜ。一番から九番まで、油断ならないバッターをそろえやがって…)
視線をマウンド上へと移す。井口がまだ落ち着きなさげに、スパイクで足下をガッガッと固めている。
(井口のやつ、さすがに動揺しちまってるな。いい加減ケリをつけねえと……)
思案の後、倉橋は右手の指でサインを出し、ミットを外角低めに構える。
(ひとまず、こいつで様子を見よう)
井口は「う、うむ」とうなずく。
倉橋はちらっと、三塁ランナーの筒井に目をやった。筒井は前傾姿勢を取り、じりじりとリードを長くしてホームベースをうかがう。
(ほんらいはスクイズも警戒したいところだが。こうなったいじょう、まずアウトを取ることを優先せねば……)
ほどなく、井口が投球動作を始めた。その瞬間、田中がバットを寝かせる。サード谷口、ファースト加藤が同時にダッシュした。三塁ランナー筒井はスタートする。
井口の投球。速球が、外角に大きくはずれた。田中はバットを引く。
「とっ」
倉橋はミットの左手を伸ばし捕球した。さらにボールを握り直し、三塁送球の構えを取る。ランナーは素早く両手で帰塁する。
(くそっ、ぬけめなく揺さぶってきやがる)
サードの谷口と目を合わせる。谷口は首を横に振った。だろうな…と、倉橋は胸の内につぶやく。
(ここでスクイズはねえ。やつらとしちゃ、うちに一息つかせることなく、たたみかけたいだろうからな…)
視線をマウンド上へと戻し、倉橋は二球目のサインを出す。そして再びミットを外角低めに構える。
(さあ、今度はストライクを取っていこうよ)
む、と井口はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
「おっと」
投球がホームベース手前でショートバウンドした。
咄嗟に倉橋は膝立ちの姿勢になり、体でボールを前に弾く。すぐさまボールを拾い上げ、再び三塁送球の構えをした。飛び出しかけていた三塁ランナーは急いで足から帰塁し、「ちぇっ」と小さく舌打ちする。
(ま、まさか……)
倉橋はハッとして、マスクを脱ぎ「タイム!」とアンパイアに合図した。そしてマウンドへと駆け寄る。
「おい井口」
声をひそめて、仏頂面の一年生投手に尋ねる。
「ひょっとして、右足が痛むのか?」
「あ、いえ。それはないスよ」
井口は苦笑いして、首を横に振る。
「ちと中に入りそうな気がして、つい…」
うーむ、と倉橋は渋面になる。
(ここ最近、足をかばう様子はなかったし。だいじょうぶとは思うが…)
正捕手の眼前で、井口はまた所在なげにスパイクで足下をガッガッと固める。
(もう一手、なくはないが……)
あることを考えつき、倉橋は口を開く。
「井口。こっから、スローカーブもおりこんでいこう」
えっ、と井口は目を見開く。
「あれはきのうの練習で、あまりコントロールがつかないもんで、つぎは投げないでおこうって話だったんじゃ」
「うむ。しかし、これだけ連打を許してるいじょう、なにもテを打たないわけにもいかんだろう。緩急をつけるだけでも、やつらのタイミングをはずせるかもしれん」
「そ、それはそうスが…」
「心配すんな」
ポン、と後輩の右肩を叩く。
「もし打たれても、ナインには、おれのせいだと言ってやるさ」
「な、なにをおっしゃるんです!」
井口がムキになったふうに言った。
「投げるいじょうは、ぜったいにおさえるつもりで投げますよ!」
そう言って小さく左こぶしを突き上げる。
「そうよ、その意気よ!」
倉橋は励ました。
そうして倉橋はポジションに戻り、マスクを被り直し屈み込む。そして「さっそくいこうよ」と、右手の指でサインを出し、ミットを内角低めに構える。
(す、スローカーブ…)
井口は戸惑った顔をしつつも、サインにうなずく。
右打席にて、田中は最初からバットを寝かして構えた。打者の様子を、倉橋は横目で観察する。
(また揺さぶろうってんだろうが、そうはいかんぞ)
やがて井口が、セットポジションから投球動作へと移る。右足で踏み込み、左手の指先からボールを放つ。その瞬間、田中がさっとヒッティングの構えに切り替える。
スピードを殺したボールが、ほぼ真ん中に投じられた。そこから斜めにくくっと曲がる。
「む…」
田中はピクッと体を動かすも、バットは振らず。
「ストライク!」
アンパイアのコール。倉橋は「ナイスボールよ!」と井口に声を掛け、返球した。
(コースは甘かったが、ちゃんと低めに決まった。これなら…)
一方、一塁側ベンチ。中陽監督は腕組みしつつ、相変わらず厳しい視線をグラウンド上へと注ぐ。
(ここでコントロールの不安定なスローカーブを使ってくるとは。さしものやつらも、もはやワラにもすがる思いなんだろう)
そしてメガホン越しに「田中!」と、指示の声を飛ばす。
「しょせん目くらましだ。まどわされるんじゃないぞ!」
田中はヘルメットのつばを摘まみ「は、はい!」と返事した。そして今度は、バットを短くして最初からヒッティングの構えを取る。傍らで、倉橋は「さて」と思案した。
(同じタマを続けると、やつらまたねらい打ちしてくるからな…)
そして右手の指で「つぎはコレよ」と、サインを出す。
(なーるほど。遅いタマを見せた後は、速いタマでってことね)
井口はうなずき、すぐにセットポジションから投球動作へと移る。右足で踏み込み、左腕を振り下ろす。
外角低めの速球。倉橋は「た、高い…」と顔を歪めた。田中はバットをおっつけるようにしてスイングする。パシッ、と快音が響く。
大飛球がライトポール際を襲う。久保はしばし背走するも、ほどなく背中がフェンスに付いてしまう。
しかし打球は、ポール際で外側にスライスした。
「ふぁ、ファール!」
一塁塁審が、両手を大きくアルプススタンド側へ掲げる。ああ…と、スタンドの観衆の安堵と落胆の入り混じった声が響く。
「どしたい井口。らくにらくに!」
倉橋はそう言って、両肩を回すジェスチャーをした。井口は「は、はい」と返事して、そのジェスチャーを真似る。
(さっきから、どうもりきみが取れねえな…)
再びホームベース奥に屈み、ちらっと打者に目をやる。田中は一旦打席を外し、一度素振りした。ビュッ、と風を切る音。
(あのナリで、パワーあんな。いくらコントロールミスとはいえ、井口の速球をあそこまで運ぶとは……)
倉橋は警戒を強めつつ、五球目のサインを出す。
(決めダマはこいつでいこう)
(む、スローカーブね…)
井口はうなずき、セットポジションに就いた。三塁ランナー筒井が、またじりじりとリードを伸ばしていく。そして、井口が投球する。
「ああ…」
投球の瞬間、倉橋は目を見開いた。スローカーブが高めに浮いてしまう。田中はためらいなく強振した。カキッ、と快音が響く。
大飛球が、今度はレフト頭上を襲う。
「れ、レフト!」
倉橋の指示の声よりも先に、レフト横井は背走し始めた。しかしやがて立ち止まり、成すすべなく打球の行方を見送る。白球はそのまま、観客のひしめくレフトスタンドに飛び込む。
三塁塁審が、大きく右こぶしをぐるぐると回した。ワアッ、と内外野スタンドが沸き立つ。とりわけ中陽応援団の一塁側アルプススタンドは盛り上がる。
「やったぜ、ホームランだ!」
「これが中陽の底ヂカラよ!!」
「三点差もありゃ、野中ならもう十分さ!」
そんな言葉が飛び交う。眼下のグラウンドでは、二人がカチャカチャとスパイクを鳴らし、ダイヤモンドを進んでいく。やがてランナーの筒井、さらに打った田中が続けてホームベースを踏む。
一方、墨高の三塁側アルプススタンドとベンチは、静まり返る。応援団の誰もが、呆然とバックスクリーンのスコアボードを眺める。彼らの視線の先で、スコアボードの一枠がめくれ、中陽の得点が「5」と表示される。
応援団と同じく、三塁側ベンチの控え選手達の面々も、声を失っていた。
半田はスコアブックを付ける手を止め、頭を抱える。鈴木は口を半開きにして、視線を宙に泳がせる。片瀬、高橋ら一年生は、いたたまれない表情でうつむいてしまう。ただ一人、三年生の戸室が声を張り上げる。
「みんな顔を上げろ! どしたい、試合はまだ終わってねーぞ!!」
他方、マウンド上。井口は血の気が引いた顔で、「しまった…」とつぶやく。ホームベース手前では、倉橋が唇を歪める。
(今のはおれのせいだ。こうなると分かっていながら……)
バッテリー二人を心配そうに見つめる丸井。悔しげにうつむくイガラシ。そして渋面のキャプテン谷口。
大量失点に棒立ちになる墨高ナインの頭上を、真夏の日差しが容赦なく照りつける。
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