
第98話 死闘の結末・・・の巻
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<主な登場人物紹介>
野中:中陽高校野球部エース。威力ある快速球と多彩な変化球を持ち味とする右の本格派投手。バッターとしても四番を務める実力者。今夏で三季連続の甲子園出場。昨夏四強、今春は八強で敗れており、今夏こその全国優勝を目指す。
小山:中陽の正捕手。負けん気の強さと冷静さを併せ持つチームの扇の要。打者としても五番を務める強打者。
中陽監督:中陽高校野球部を率いて過去何度も甲子園の土を踏んできた名監督。智将として知られ、知略で墨高バッテリーを追い詰めていく。
常盤:中陽の三番を務める強打者。右翼手としても好守が光る。
秦野:中陽の控え投手。変則投法で相手打者を幻惑する。
柴田:俊足巧打のトップバッター。中陽不動の遊撃手。
1
「どうだ、見たか!」
三塁ベース上。快打を放った常盤が、左こぶしを高く突き上げた。打者の気迫に呼応するかのように、一塁側ベンチの中陽ナインも口々に雄叫びを上げる。
「ナイスバッティングよ常盤!」
「この試合、まだまだ分からないぜ!!」
さらに内野スタンドの中陽応援団も勢いを増す。
―― カッセ、カッセ、ちゅーうーよう! カッセ、カッセ、ちゅーうーよう!!
他方、谷口はハアハア・・・と肩を上下させ、右手の甲で額の汗を拭う。その姿を、キャッチャー倉橋はホームベース手前に立ち、渋面で見つめる。
(やつはもう、限界なんだろうか……)
その時だった。ふいに谷口へ歩み寄る人物がいた。
「キャプテン」
イガラシである。谷口はハッとして顔を向けた。また倉橋、さらに丸井も意外そうに目を見開く。
「左足のふみこみが弱くなってます」
淡々とした口調でイガラシは告げた。
「土をもっと強くけるようにしなきゃ、ボールに力が乗らないですよ」
「そ…そうか!」
谷口は微笑んで言った。
「どうりで球威がなくなってるわけだ。分かった、やってみるよ!」
快活に応える谷口。イガラシはクールな表情で「ええ」とだけ返事する。
ほどなくイガラシがポジションに戻る。一人残された谷口は、マウンドで左足を踏み込む動作を繰り返す。
「マウンドを…強くける、強くける……」
そうつぶやきながら。
谷口の様子に、倉橋は僅かに笑む。
(イガラシのやつ。なにを言ったか知らんが、谷口の顔に生気が戻ってきたぜ!)
一方、ショートのポジションに就いたイガラシのところに、今度は丸井が駆け寄る。
「イガラシ。おまえ、谷口さんになにを…」
「丸井さん」
問いかけを遮るようにして、イガラシはきっぱりと言った。
「今はキャプテンを信じましょう!」
丸井は戸惑ったように「あ、ああ……」とうなずいた。ふいにイガラシはうつむき加減になり、険しい表情を浮かべる。
(もし谷口さんがここをふんばれなかったら、その時はおれが……)
この時、三塁側ファールグラウンドのブルペンでは、松川が控え捕手の根岸相手に投球練習を始めていた。いつになく引き締まった表情で、松川は速球を投げ込む。ズバン、と根岸のミットが鳴る。
また三塁側ベンチ。カチャリと音がして、奥の扉が開かれる。そして久保が姿を現した。右腕を白い三角巾で吊っている。
「あっ…おい久保」
後列の井口が尋ねてきた。
「どうだったんだよ、ケガの具合は」
「うむ。残念だけど、今大会はもうプレーできないようだ」
苦笑いして久保は答えた。井口は「そ、そうか…」と渋面でうつむき加減になる。
久保は井口の隣に腰掛けた。そこにベンチ隅でスコアを付ける半田も手を止め、声を掛けてくる。
「医務室にいなくていいのかい?」
「ええ」
少し笑んで、久保は返事した。
「最後はここでみんなと見届けようと思いまして」
その一言に、半田も「うん!」微笑んでうなずく。
バックスクリーンのスコアボードには、墨谷の得点が「8」、中陽が「6」とそれぞれ掲示されている。さらに十三回表の枠には、墨谷が奪った得点を示す「2」の数字も刻まれていた。ただその裏、中陽のアウトカウントのランプは、まだ一つも灯されていない。
そしてウグイス嬢のアナウンス。
―― 四番、ピッチャー野中くん!
ネクストバッターズサークル。中陽のエースにして四番打者の野中は静かに立ち上がり、バットを手にゆっくりと打席へ向かう。その背中へ、ベンチに控える次打者の小山が、祈るような眼差しで声を掛ける。
「野中たのむ! なんとかつないでくれ!!」
さらに柴田、小倉……中陽ナインが口々に叫ぶ。
「負けるな野中! 中陽のエースの意地を見せてやれ!!」
「相手はもう限界だぞ! 思いきっていけ!」
しかし後列の中陽監督は、意気上がるナインを尻目に、泰然自若として佇んでいた。その視線の先で、野中が右打席へと入る。
(野中がつなげるかいなかで、勝負は決まる……)
マウンド上。谷口はロージンバッグを右手にパタパタと馴染ませた。白粉が舞う。その眼前で、ポーカーフェイスの野中が、すっとバットを構える。
打者の傍らで、倉橋がまたミットをど真ん中に据えた。
(コースはいい。とにかく…ストライクを取るんだ!)
やがて谷口が投球動作を始めた。今度はセットポジションから、左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕をしならせる。
次の瞬間。ボールの迫力に、野中は「う…」と僅かに身をよじる。
ズバン! 快速球が外角低めに決まった。
「ストライク!」
アンパイアのコール。倉橋が驚いて目を見開く。
「な…ナイスボールよ!」
一声掛けて返球すると、ボールを受けた谷口が「倉橋!」と呼ぶ。
「おれのことは気にするな。今までどおり、おまえが最善だと思うリードをしてくれ!」
エースの言葉に、正捕手は嬉しげに「分かった!」と返事する。
(そんじゃ、今のをつづけるんだ)
倉橋は右手の指でサインを出す。
谷口は「む」とうなずき、二球目の投球動作へと移る。またもセットポジションから、力強く左足を踏み込み、右腕を振り下ろす。
またも外角低めの快速球。野中はスイングした。
ガキッ。鈍い音がして、打球は一塁側ファールグラウンドに転がっていく。
「ま…まさか、ふり遅れちまうなんて……」
野中は驚いた顔でつぶやいた後、フフ…と笑みを浮かべた。
「そうこなくっちゃ!」
一方、セカンドの丸井は口を半開きにして、背番号「1」の背中を見つめる。
(な…なんて人だよ!)
さらに三塁側内野スタンド。客席に座っていた学ラン姿の応援部員の一人が、すっくと立ち上がる。そして眼下のグラウンドへ叫ぶ。
「がんばれ谷口!!」
他方、一塁側内野スタンドの中陽応援団からは、野中を後押しする大声援が響く。
―― かっとばせー、かっとばせ、のーなーか! のーなーか!!
ホームベース奥にて、倉橋が次のサインを伝える。
(さあさあ、バッターが押されているうちに…)
谷口は「よしきた…」とうなずき、すぐに投球動作へと移る。ワインドアップモーションから、左足を踏み込み、右手の指先からボールを放つ。シュッ、と風を切る音。
スピードのあるボールが内角低めに投じられた。それがホームベース手前でストンと落ちる。野中はすくい上げるようにスイングした。
カーン! 快音を残し、大飛球がレフトポール際を襲う。
谷口が「ああ・・」と顔を歪めた。倉橋がバッとマスクを脱ぎ、立ち上がる。一塁側ベンチの中陽ナインが、一斉に「おおっ」と身を乗り出しかける。背走してきたレフト戸室が、フェンスに背中を付け打球を見送る。
しかし打球はポール際でスライスし、三塁側アルプススタンドに飛び込む。
「ファール!」
三塁塁審がコールと同時に、両手を大きく広げた。球場全体から「おお・・」とどよめきが聞かれる。
打席の外で、野中は「なんでえ」と苦笑いした。
「ちと引っかけたぶん、ポール際で切れちまったのか…」
打者を横目に、倉橋は険しい表情で、マスクを被り直す。
(あぶねえ。またフォークをねらうたあ、油断もスキもねえぜ)
またマウンド上。谷口は「やるな」と僅かに笑む。
「さすが中陽の四番だ!」
倉橋はホームベース奥に屈み、四球目のサインを出す。
(速球に目が慣れてきたようだし、緩急を使っていこう)
む…と谷口はうなずいた後、谷口はボールを両手でギュッギュッと握る。十分に間を取ってから、セットポジションに就く。そして投球動作を始めた。スパイクの左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
外角のカーブ。野中は一瞬スイングしかけるも、すぐに「おっと」とバットを引く。スパン、と倉橋のミットが鳴る。
「ボール、ロー!」
アンパイアがコールと同時に、右腕を斜め下へ提げる。
三塁側の墨高応援席から「ああ・・」と溜息混じりの声が聞かれた。応援部員が思わず両手で頭を抱える。
「くそ、入ってねえのかよ!」
ざわめく周囲をよそに、倉橋は冷静な表情で次のサインを伝える。
(こいつで誘ってみるか)
谷口は「む」とうなずき、今度はすぐにセットポジションに就く。それから投球動作を始めると同時に、倉橋はすっとミットを内角高めに移動させた。
そして谷口が投球する。内角高めの速球。打席の野中は微動だにせず。ズバン、と倉橋のミットの音。
「ボール!」
アンパイアのコール。倉橋が「く…」と唇を歪める。
(こいつ、まるで反応しやがらねえ)
打席の野中は挑発的な笑みを浮かべた。
(つりダマに手を出すほど、おれは甘かねえぜ!)
打者は一旦打席を外し、一度素振りした。ビュッ、と鋭いスイング音。この時、三塁ランナーの常盤は、打者に祈るような眼差しを向ける。
(たのむぞ野中。おまえが出塁さえすりゃ、じゅうぶん逆転の芽はあるんだ!)
再びマウンド上。谷口はまたロージンバッグを拾い、パタパタと右手に馴染ませる。ハアハア・・・とまた息が上がり始めている。
(やはり、そうカンタンには打ち取らせちゃくれないか…)
やがて野中が右打席に戻り、バットを構え直した。その傍らで、倉橋は思案する。
(中陽の四番だけあって、さすがの選球眼だ。それなら……)
谷口と目を合わせ、倉橋はサインを伝える。エースは意外そうな顔をするも、すぐに意図を察した。
(なるほど、バッターを迷わせようってことか……)
足下へロージンバッグを放り、谷口はセットポジションに就く。それから投球動作へと移る。グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
外角のカーブ。くくっと鋭く曲がるも、僅かに外へ外れた。野中は悠然と見送る。
「ボール!」
アンパイアがコールの後、両手の指を立ててボールカウントを示す。
「スリーボール、ツーストライク!」
倉橋がまた一声掛けて返球する。
「おしいおしい、ナイスボールよ」
谷口はポーカーフェイスで返球を受けた。一方、野中は怪訝げに首を傾げる。
(今のはボールでもいいつもりで投げたようだな。慎重に配球しようってことか)
後方のバックスクリーン。そのスコアボードのボールカウントのランプが、五つともすべて灯る。
野中は打席に戻り、チラッと後方を見やった。ネクストバッターズサ―クルでは、次打者の小山が傍らにバットを置き、片膝立ちで控える。
(走者を返すより、まずは出塁せねば……)
そう自分に言い聞かせ、野中はバットを構え直す。
打者の隣で、倉橋はひそかにつぶやいた。
「さて、そろそろいくか!」
そして六球目のサインを出す。谷口は「む」とうなずき、またセットポジションに就く。
―― かっとばせー、かっとばせー、のーなーか! のーなーか!!
なおも一塁側内野スタンドの中陽応援団の懸命な応援が続く。他方、バックネット裏や外野スタンドの一般客は、固唾を飲んでグラウンド上の光景を見つめている。
球場が緊迫感に包まれる中、谷口は投球動作を始めた。左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕をしならせる。
内角低めの快速球。
野中が「あ…」と小さく声を発した。コースいっぱいのボールに手が出ず。ズバン、と倉橋のミットが鳴る。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアがコールと同時に、右こぶしを高く突き上げた。その瞬間、野中は呆然として立ち尽くす。
「し、しまった……」
三塁側内野スタンドの墨高応援席が、ワアッと沸き立つ。対照的に、一塁側内野スタンドの中陽応援席は、水を打ったように静まり返る。
倉橋は立ち上がり、谷口に声を掛けた。
「よく投げたぞ谷口!」
谷口は微笑んでうなずく。そして後方の味方ナインへ振り向き、人差し指を立てて掛け声を発した。
「ワンアウト!」
キャプテンの掛け声に、ナインも応える。
「ナイスピーよ谷口!」
「あと二つ、しっかりいこうぜ!!」
声を上げるライト横井、レフト戸室。しかしセカンド丸井は、一人浮かない顔で谷口の横顔を見つめていた。そして両手を組み、祈るようにつぶやく。
「神様、お願いします。谷口さんをお守りください!」
さらにショートのイガラシは、うつむき加減で険しい表情を浮かべている。
「……」
他方、三振を喫した野中は、うなだれて足取り重くベンチへと引き上げる。
(やられた。四球が頭にチラついて、きわどいタマに手が出なかった……)
しかしその背中に、次打者の小山が「野中!」と強い口調で呼んだ。
野中はようやく顔を上げ、力なく返事する。
「小山…」
「まだアウト一つ取られただけだ。あきらめるな!」
二人の頭上に、ウグイス嬢のアナウンスが降ってくる。
―― 五番、キャッチャー小山くん!
小山は右打席に入り、眼前の相手投手を睨みバットを構えた。
(野中見てろ! 今度はおれ達が、おまえを助ける番だ!!)
一方、倉橋はマスクを被り直し、冷静に打者を観察する。
(だいぶ入れこんでるようだな…)
そして谷口と目を合わせ、右手の指でサインを出す。
(こいつの打ち気を利用してやろう)
谷口はうなずき、セットポジションに就く。少しボールを長く持ってから、プレートを外し三塁へゆっくりと牽制球を投じた。常盤はさっと足から帰塁する。
小山は一旦バットを下ろし、首を傾げる。
(スクイズでも警戒してるのか? 一点をおしむのなら、まだまだつけ入るスキがありそうだぜ!)
打者の思惑をよそに、谷口はサードの岡村から返球を受けると、再びボールを両手でギュッギュッと握る。そのマイペースな動作に、小山はますます苛立ちを募らせる。
(じらしやがって。さっさと投げろい!)
一塁側ベンチ。後列で腕組みする中陽監督は、表情を険しくする。
(まずい。小山のやつ、向こうのバッテリーのペースにはまってしまっている……)
苛立つ打者の傍らで、倉橋がようやく初球のサインを出す。
(こいつでどうだ?)
谷口はうなずき、今度はすぐに投球動作へと移る。セットポジションから左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
スピードのあるボールが内角低めに投じられた。小山はスイングする。
ところがボールは、ホームベース手前でストンと落ちた。打者のバットはあえなく空を切る。
「ふぉ…フォークかよ!」
小山は「タイム」とアンパイアに伝え、一旦打席を外した。その場で一度素振りした後、束の間うつむき加減になる。
(落ちつけ。このままじゃ、相手の思うツボだ。もっとボールをよく見ねえと…)
それから「どうも」とアンパイアに合図して、打席に戻りバットを構え直す。
(とにかく後続につなぐんだ! このまま終わるわけにはいかねえ)
打者の隣で、倉橋は冷静に次のサインを伝える。
(対角線に揺さぶっていこう)
む…と谷口はうなずき、またセットポジションから投球動作を始めた。左足を踏み込み、その右手の指先からボールを放つ。
外角高めの速球。小山はまたもスイングする。
カキッ。乾いた音を残し、大飛球がセンターへ打ち返された。一塁側ベンチの中陽ナインが「やった!」と身を乗り出そうとする。センター島田が一直線に背走し、やがて背中がフェンスに付いてしまう。
しかし打球は伸びず。島田が数歩前進して、顔の前で捕球した。それを見て、三塁ランナー常盤がタッチアップする。島田はすかさず中継のイガラシに返球するも、ボールを受けたイガラシはバックホームせず。常盤は右足からホームに滑り込む。
スコアボードの一枠がめくられ、中陽の得点が「7」と掲示された。しかし塁上のランナーがいなくなり、スコアボードのアウトカウントのランプが二つとも灯る。
打った小山は一塁ベース手前で、がっくりと膝に両手をつく。
「くそっ、球威に負けちまった……」
ネクストバッターズサークル。次打者の後藤がバットを担ぐようにしたまま、呆然とつぶやく。
「つ、ツーアウト……」
一塁側ベンチ。小山、柴田、小倉、秦野……中陽ナインは一様に険しい表情で、口をつぐむ。そして野中が、切なげな目でうなだれる打者を見つめる。
(小山のやつ、気負いすぎたか…)
エースは上空を仰ぎ、ぽつりと言った。
「いよいよだな……」
一方、ベンチ後列。中陽監督は腕組みしたまま、しばし目をつぶる。
(最後まであきらめないんだったな……)
やがて目を見開き、監督は意を決したようにすっくと立ち上がる。そして前列に歩み出た。中陽ナインはハッとして、一斉に指揮官へと顔を向ける。
2
グラウンド上。墨高ナインは、互いに声を掛け合う。
「キャプテン、打たせていきましょう!」
セカンド丸井が両手をメガホンのようにして叫ぶ。その後方で、ライト横井も声を張り上げる。
「あとアウト一つ。しっかり守っていこうよ!」
一方、マウンドの谷口はロージンバッグを手に、ハアハア・・・と息を弾ませていた。
(こ…今度こそ、しっかり三つ目のアウトも奪うんだ!)
疲労を隠せない背番号「1」の背中を、ショートのイガラシが複雑な表情で見つめる。
(カンタンに終わらせてくれるほど、甘くはあるまい……)
そしてウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 六番、ファースト後藤くん!
後藤は引きつった顔で、小走りに打席へと向かう。そこに一塁側ベンチより中陽監督が呼びかける。
「後藤!」
打者が振り向くと、監督は指示を伝えた。
「こういう時こそムキになるな! もう一度、ピッチャーを揺さぶれ!」
相手監督の言葉に、倉橋は「く…」と唇を歪める。
(谷口が疲れてるつうのに、余計なことを……)
マウンド上、谷口は右手にロージンバッグをパタパタと馴染ませている。
やがて後藤が右打席に入ってきた。そしてバットを短くして握る。打者を横目に、倉橋は束の間思案する。
(ツーアウトランナーなしで、そうそう策もあるまい!)
倉橋は顔を上げ、右手の指でサインを伝える。
(パワーヒッターだし、慎重に外の低めよ…)
谷口は「む」とうなずき、ロージンバッグを足下へ放った。そしてプレートに足を掛け、ワインドアップモーションから投球動作を始める。
次の瞬間、後藤がバットを寝かせた。倉橋は「なに!?」と目を見開く。サード岡村、ファースト加藤、さらにピッチャー谷口がダッシュする。
外角低めの速球。後藤は、さっとバットを引いた。ズバン、と倉橋のミットが鳴る。
「ストライク!」
アンパイアのコール。
ホームベース手前で、谷口は膝に両手をつき、表情を険しくする。倉橋は「そういうことか…」と、一塁側ベンチの相手指揮官を睨む。
(あの監督、谷口をさらに疲れさせる気だな!)
ほどなく谷口はマウンドに戻り、スパイクで足下をガッガッと固める。エースの姿を見つめ、倉橋は渋面になる。
(ダッシュすんなと言いてえとこだが、それを聞き入れるやつじゃねえからな……)
谷口と目を合わせ、次のサインを出す。
(どうやら前に飛ばす気はなさそうだし。さっさと追いこんじまおうぜ)
む…と谷口はうなずき、またワインドアップモーションから投球動作へと移る。その瞬間、後藤が再びバットを寝かせた。すかさず岡村、加藤、谷口がダッシュする。
初球と同じく外角低めの速球。後藤はやはりバットを引く。ズバン、とミットの音。
「ストライク、ツー!」
アンパイアのコールに、三塁側内野スタンドの墨高応援席が「おおっ」とどよめく。
「ついに追いこんだぜ!」
「む。今度こそ、しとめて欲しいものだな!」
学ラン姿の応援部員の二人が、そんな会話を交わす。周囲の観客達も、期待の眼差しを眼下のグラウンドへと注ぐ。
そのグラウンド上。谷口はハアハア・・・と息を弾ませつつ、マウンドへと戻る。
「た…谷口、ムリすんな!」
倉橋が声を掛けてきた。谷口は「ああ」とだけ返事して、またロージンバッグを拾い上げる。パタパタと右手に馴染ませつつ、胸の内につぶやく。
(負けるものか。あと一歩というところまできてるんだ!)
その背中に、セカンド丸井が「キャプテン!」と呼びかけた。
「バックがついてるんです! 打たせてください!!」
さらにショートのイガラシも声を掛けてくる。
「相手は追いつめられてます。思いきっていきましょう!」
後輩達の掛け声に、キャプテンは僅かに表情を和らげる。
(おれを支えてくれたナインのためにも…あとアウト一つ、なんとしてもつかみ取るんだ!)
谷口の視線の先。打席の後藤が、今度は最初からバットを寝かせて構えた。傍らで、倉橋は首を傾げる。
(ツーストライクで、もう見逃すこともあるまい。念のため……)
倉橋はサード岡村、ファースト加藤に両手のジェスチャーで指示を伝えた。岡村と加藤がじりじりと前進してくる。
さらに倉橋は、谷口へ三球目のサインを出す。
(向こうの揺さぶりなんざ気にすんな。反対に、こっちが揺さぶってやれ!)
谷口はうなずき、両手でボールをギュッギュッと握る。しばし間合いを取ってから、投球動作を始める。
その瞬間、後藤はさっとバットを立ててヒッティングの構えをした。倉橋は「やはり…」とつぶやく。前進していた岡村と加藤が、素早くバックする。谷口が右腕を振り下ろす。
外角のカーブ。後藤は「う…」と体勢を崩しかけるも、辛うじてバットの先端にボールを当てた。ガッと音がして、打球は一塁側ファールグラウンドへ転がっていく。
「ナイスボールよ谷口!」
倉橋は一声掛けて返球した後、すかさず次のサインを伝える。
(さあさあ、バッターのタイミングが合わないうちに)
なるほど…と谷口はうなずく。
打席の後藤は、さっきと同じくバットを寝かせて構える。それを見て、谷口が今度はすぐに投球動作へと移る。
次の瞬間、後藤はまたもさっとバットを立てた。前進守備の岡村と加藤が、再び素早くバックする。
内角高めの速球。後藤は「おっと」と一瞬スイングしかけるも、どうにかバットを止める。ズバン、と倉橋のミットが鳴る。
「ボール、ハイ!」
アンパイアのコールと同時に、球場の観客から「おお・・」と安堵のような溜息混じりの声が聞かれた。スコアボードのボールのランプが一つ灯る。
一塁側ベンチ。前列に立つ中陽監督は、冷静な眼差しで打者を見つめる。
(いいぞ後藤。じっくりねばって、谷口をガス欠にさせてやれ!)
しかし周囲のナインは、なおも一様にこわばった表情で口をつぐんでいる。
「おまえ達、このまま終わっていいのか?」
監督の問いかけに、ナインはハッとして顔を上げた。小山が「い、いえ…」とだけ返事する。
この時、谷口が五球目を投じた。
外角低めの速球。後藤は悠然と見送る。
「ボール!」
アンパイアがコールの後、両手の指を二本ずつ立ててボールカウントを示す。
「ツーボール、ツーストライク!」
谷口は「く…」と顔を歪め、胸の内につぶやく。
(またコントロールが利かなくなってきた。早く打ち取らなきゃ……)
渋面でロージンバッグを拾い、右手にパタパタと馴染ませつつ、しばし間合いを取る。
他方、一塁側ベンチにて、中陽監督は言葉を続けた。
「勝負は時の運だ。どんなに手を尽くしても、及ばないことだってある」
中陽ナインは神妙な顔で、指揮官の話に聞き入る。
「だが…アウトはまだ一つ残っているのに、もうあきらめムードでいてどうする。それでやるだけやったと、胸をはって言えるのか?!」
再びマウンド上。谷口がワインドアップモーションから、六球目の投球動作を始めた。
打席の後藤は、またもバントの構えからヒッティングに切り替える。岡村と加藤がさっと身を翻す。
谷口の投球。外角低めのスピードボールが、ストンと落ちる。後藤はバットをはらうようにしてスイングした。
カキッ。痛烈なゴロが一塁線を襲う。一塁側内野スタンドの中陽応援席が「おおっ」と沸きかける。ファースト加藤が横っ飛びするも、打球がそのミットを弾く。
「ファール!」
一塁塁審がコールと同時に、両腕を水平に広げた。内外野スタンドの観衆から、今度は「ああ・・」と大きな溜息が聞かれる。
打席の外で、後藤はフフ…と笑みを浮かべた。
(ねばったかいあって、ボールがよく見えるようになってきたぜ!)
そして一塁側ベンチより、監督が帽子のつばを摘まみサインを出す。
(いいだろう。いけ後藤!)
後藤はうなずいて打席に入り直し、バットを短くして構える。その背中に、ベンチの野中がついに掛け声を発した。
「臆するな後藤! おれ達がついてる!」
さらに小山、常盤……中陽ナインが快活に声を上げる。
「タイミングは合ってるぞ。思いきっていけ!」
「今こそ中陽の底力を見せてやれ!!」
後藤そして中陽ナインを後押しするように、一塁側内野スタンドの応援団の声援にも熱がこもる。
―― かっとばせー、かっとばせー、ごーとーう! ごーとーう!!
他方、ホームベース奥にて、倉橋もマウンドの谷口へサインを伝える。
(速球に目が慣れてきたようだし、また緩急を使っていこう)
谷口は「む」とうなずき、すぐに投球動作へと移る。ワインドアップモーションから、左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
外角のカーブ。後藤は鋭くスイングした。
パシッ。痛烈なライナーが二遊間を破り、センター島田の前で弾んだ。一塁側内野スタンドがワアッと沸き立つ。
打った後藤は一塁ベースを回りかけたところで引き返し、ベース上で高く右こぶしを突き上げる。
「やったぞ、みんな!」
意地の一打に、ベンチの野中と小山が叫ぶ。
「ナイスバッティングよ後藤!」
「勝負はまだ分からないぜ!!」
中陽応援団の声援が、さらに勢いを増す。
―― カッセ、カッセ、ちゅーうーよう! カッセ、カッセ、ちゅーうーよう!!
一方、倉橋はホームベース手前に立ち、渋面でマスクを被り直す。
(ボールは悪くなかったんだが、うまく打たれたな……)
そしてマウンド上。谷口は「まずいな」と険しい表情になる。
(今の一打で、向こうの士気が高まってきたぞ…)
ここでベンチの中陽監督が、メガホン越しに声を発した。
「後藤、帰ってこい!」
それから後列に座る小柄な控え選手へ声を掛ける。
「安永。代走だ、いけ!」
「は、はいっ」
安永と呼ばれた背番号「15」の選手が、ヘルメットを被り後藤と入れ替わるようにして、グラウンドへ飛び出していく。
なおも監督はベンチ前列に立ち、僅かに笑みを浮かべた。
(さて。ようやく、監督の出番がきたというものだな!)
そしてウグイス嬢のアナウンスが響く。
―― 七番、サード筒井くん!
細身の筒井は右打席に入り、バットを長くして構えた。傍らで、倉橋は横目に打者を観察する。
(もしや長打ねらいか? いや…代走を出してきたつうことは、機動力を使ってくるかもしれん……)
さらに倉橋は、チラッと一塁ランナーの安永を見やる。安永はこちらを睨みつつ、じりじりとベースから離れていく。
倉橋はマウンドの谷口と目を合わせ、右手の指でサインを出す。
(くぎ刺してやれ!)
谷口はうなずき、セットポジションに就く。少し長くボールを持った後、身を反転させ一塁へ牽制球を投じた。安永は、素早く手から帰塁する。
ファースト加藤が「ナイス牽制!」と声を掛け、返球してきた。ボールを受けた谷口が正面に向き直ると、倉橋がさっきと同じサインを伝えてくる。
(もういっちょ)
谷口はうなずき、再びセットポジションに就く。そしてまた一塁へ牽制球。しかし安永は、手から余裕を持って帰塁した。その反応に、谷口は渋面になる。
(代走をまかされるだけあって、すばしっこいランナーだ…)
安永は立ち上がると、挑発的な笑みを浮かべる。
「それしきの牽制で、おれをくぎづけにできると思ってるのか!」
倉橋はうつむき加減になり、束の間思案する。
(もちっと警戒してえとこだが…あまり気にしすぎると、投球に影響しちまう。谷口はもう限界に近いんだし……)
その谷口は、すでにマウンドでハアハア・・・と肩を上下させている。倉橋は谷口と目を合わせ、サインを出す。
(握りを長くしてるし、打ちづらいインコースを突いていこうよ)
む…と谷口はうなずく。
この時、一塁側ベンチの中陽監督も胸に左手を当て、打者にサインを伝えていた。
(今のバッテリーにランナーを気にする余裕はない。いけ筒井、安永!)
打者の筒井、ランナーの安永は、揃って首を縦に振る。
やがて谷口がセットポジションに就き、投球動作へと移る。それと同時に、ランナー安永がスタートした。セカンド丸井が「走った!」と叫ぶ。ショートのイガラシが二塁ベースカバーに入る。
ところが谷口がボールを放つ寸前、筒井はすっとバットの握りを短くした。そして内角の速球を打ち返す。
カキッ。叩きつけたゴロが、がら空きになった三遊間を抜けていく。倉橋が「なんだと?」と顔を歪める。
レフト戸室が急いで前進し、捕球するや否や中継のサード岡村へ返球した。三塁ベースカバーには谷口が入る。しかしその間、ランナー安永は二塁ベースを蹴り、さらに加速して三塁へ向かう。
「くそっ」
中継の岡村が谷口へ送球するも、安永は悠々と右足から三塁に滑り込んだ。ボールを受けた谷口は、タッチにいけず。
一塁側内野スタンドの中陽応援団が、ワアッと大きく沸き立つ。最前列に立つ学ランにタスキ姿の応援部員の二人が、互いに目を合わせ言葉を交わす。
「お…おい。これ、ひょっとして……」
「うむ。どうやら、まだ逆転の芽はありそうだぜ!」
さらにバックネット裏の一般客から、ざわめきが起こる。
「表の二点で決まりやと思うとったが…こら、最後まで分からへんで」
「せや。中陽にも、名門の意地つうもんがある」
初老の観客のそんな会話が聞こえてくる。
また三塁ベース上。谷口は険しい表情を浮かべ、右手で頬の汗を拭う。
(しまった。早く試合を終わらせたい心のスキを突かれたか……)
他方、一塁側ベンチ。中陽監督が僅かに笑む。
(筒井、安永、よくやってくれた。これで逆転のチャンスが整ったぞ)
しかし指揮官は、すぐに渋面になる。
(ただ…監督にやれることは、ここまでだ!)
グラウンド上。キャッチャー倉橋が、アンパイアに「タイム!」と合図して、マウンドへ向かう。さらに内野陣も駆け寄ってくる。
やがて谷口を囲むようにして、キャッチャー倉橋、内野陣の岡村、イガラシ、丸井、加藤の四人がマウンドに立つ。
「す、すまん…」
まず口を開いたのは谷口だ。
「ヒットエンドランは予想できたのに、まんまとやられてしまった。どうもアウトを焦りすぎたようだ」
倉橋が「谷口…」と怪訝そうに言った。
「んなことより、おまえ……」
その後が出てこない。黙り込んだ倉橋の傍らで、丸井が心配そうに谷口を見つめる。さらに岡村と加藤もいたたまれない表情である。四人の眼前で、谷口はすでにハアハア・・・と苦しげだ。
「そう難しい話じゃありませんよ」
思わぬ一言を発したのは、イガラシだった。丸井が目を見開いて「イガラシ!」と反応する。
「もうツーアウトですし、向こうの策はここまでです。盗塁で二三塁にされたとしても…どっちみち最後のアウトさえ奪えば、ゲームセットなんですから」
「おまえなあ」
丸井が怒ったような顔で口を挟む。
「そのアウト一つだって、カンタンなことじゃ…」
「丸井さん」
イガラシは僅かに顔を伏せつつも、きっぱりとした口調で告げた。
「やるのがカンタンだなんて言ってません。そう…ここでアウトを取れなきゃ、すなわちぼくらの負けです」
覚悟を迫るような発言に、丸井は「イガラシ…」と気圧された顔になる。
「キャプテンだけじゃない」
さらにイガラシは話を続けた。
「ぼくら全員が、ここはハラをくくる時です!」
この言葉に、他の四人は口をつぐむ。しばし観衆の大声援だけが聞こえてくる。
―― カッセ、カッセ、ちゅーうーよう! カッセ、カッセ、ちゅーうーよう!!
やがて沈黙を破ったのは、倉橋だった。
「谷口」
正捕手の呼びかけに、キャプテンは顔を上げる。
「おれはおまえを信じる」
覚悟の定まった眼差しで、倉橋は思いを伝える。
「だからおまえも、バックを…ナインを信じるんだ!」
倉橋の言葉に、谷口は力強くうなずいた。
「む。分かった!」
ほどなく内野陣とキャッチャー倉橋はポジションへと散っていく。マウンドに一人残された谷口は、足下のロージンバッグを拾い、右手にパタパタと馴染ませる。白粉が舞う。
谷口は気迫みなぎる表情で、胸の内につぶやく。
(そうだ。なんとしても、最後のアウトをもぎ取ってやるんだ!)
ここでウグイス嬢のアナウンスが流れてくる。
―― 八番、レフト田中くん!
小兵の田中が右打席に入り、バットを短くして握る。
打者の傍らで、倉橋は「外野!」とレフト戸室、センター島田、ライト横井の三人へ手振りで指示を伝えた。三人はそれぞれ前進し、バックホーム体制を取る。
外野陣のポジションを確認した後、倉橋はマスクを被り直し、改めて打者へ警戒感を募らせる。
(ナリはちいせえが、油断ならないバッターだ。ホームランの後も二安打を許してる。ここは歩かせるのも手だが……)
倉橋はチラッと一塁側ベンチを見やる。
視線の先で、中陽の大柄な控え選手がヘルメットを被り、ダッグアウトの前で素振りを始めていた。ビュッ、ビュッと風を切る音。またベンチ前列にて、中陽監督が険しい眼差しをこちらに向けている。
(ダメだ…)
相手ベンチの光景に、倉橋はかぶりを振る。
(つぎはまちがいなく代打を使ってくる。満塁で押し出しを気にして投球すりゃ、きっとコントロールが甘くなって痛打されちまう。やはり…こいつを打ち取るしかねえ!)
意を決した倉橋はホームベース奥に屈み、右手の指でサインを出す。
(問題は谷口の力がどれくらい残っているかだ。この一球でたしかめよう)
マウンド上。谷口はうなずき、セットポジションに就いた。そして投球動作へと移る。
次の瞬間、一塁ランナー筒井がスタートした。
谷口の投球。外角低めの速球を、田中はわざと空振りした。ズバン、とミットの音。倉橋は送球せず、筒井は二塁に楽々と右足から滑り込む。
二盗成功に、一塁側内野スタンドがワアッと沸き立つ。さらにベンチの中陽ナインも、身を乗り出して声を上げる。
「二三塁になったぞ。これで一打逆転だ!」
常盤がそう言って小さく右こぶしを突き上げた。隣の小山は、両手をメガホンのようにして叫ぶ。
「田中! 遠慮するこたあねえ、思いきっていけ!!」
しかし前列の隅に立つエース野中は、一人複雑な表情を浮かべる。
(あのバッテリー、バッター勝負に徹するつもりか…)
打席の田中は、「あいつ…」とマウンド上の相手エースを睨む。
(とっくに限界のはずだが、まだあんな力のあるタマを投げられるのかよ!)
一方、倉橋は「よし!」と右こぶしを握り込む。
(これだけ球威がありゃ、じゅうぶんだぜ!)
倉橋は「ナイスボールよ!」と一声掛け、谷口に返球した。そしてまたミットを外角低めに構える。
(さあさあ、バッターの目が慣れないうちに…)
む…と谷口はうなずき、すぐにセットポジションから投球動作を始める。左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。
またも外角低めの速球。田中はスイングした。
パシッ。痛烈なライナーが一塁線を襲う。ファースト加藤がジャンプするも及ばず。倉橋はバッとマスクを脱ぎ、「う…」と顔を歪める。
しかし打球はスライスして、ライト線の外側に落ちた。
「ファール、ファール!」
一塁塁審が二度コールした後、両手を水平に広げる。内外野スタンドから「おお・・・」と大きなどよめきが起こる。
走り出していた田中は、立ち止まり「ちぇっ」と舌打ちする。
「とらえたつもりが、ちとふり遅れちまったか……」
田中は打席に入り直し、アンパイアに「タイム」と合図してから、スパイクでガッガッと足下を均す。
打者の傍らで、倉橋はマスクを被り直し、屈んでしばし思案する。
(もう速球にタイミングを合わせてきたか。かといってカーブやフォークは、軽くミートするだけで外野へ運ばれちまう。どうすりゃ…)
この時、倉橋はあることを思いつく。
(そうだ、もう一手あるじゃねえか!)
すかさずマウンドの谷口と目を合わせ、三球目のサインを伝える。
(内角のシュートでつまらせよう)
谷口は「なるほど…」とうなずき、ボールを両手でギュッギュと握り、十分に間を取る。
ほどなく田中が「どうも」とアンパイアに告げ、右打席に戻る。それからバットをまた短くして構えた。
グラウンド上。サード岡村、ショートイガラシ、セカンド丸井……墨高野手陣は一様に厳しい表情で、前傾姿勢を取る。
マウンドの谷口は、一度後方を振り向き、掛け声を発した。
「いくぞバック!」
キャプテンの掛け声に、墨高ナインは快活に「オウヨッ!!」と応える。
そして谷口がセットポジションに就き、投球動作を始めた。力強く左足を踏み込み、グラブを突き出し、右腕を振り下ろす。シュッ、と風を切る音。
スピードボールが内角に投じられた。
田中は肘を畳んでスイングする。しかしホームベース手前で、ボールはくくっと曲がりさらに内へ喰い込んできた。「う…」と田中は顔を歪める。
カキッ。快音を残し、速いゴロが三遊間を襲う。
谷口は「あっ」と目を見開く。そのまま打球がレフトへ抜けていくかに見えたその刹那、ショートのイガラシが横っ飛びし、なんとグラブに捕球した。
イガラシは素早く起き上がり、片膝立ちで一塁へ矢のような送球を投じる。
「つ…つっこめー!!」
中陽の一塁コーチャーが叫ぶ。その眼前で、田中がベースへ頭から滑り込む。バシッ、と加藤のミットが鳴る。砂塵が舞った。間一髪のタイミング。
甲子園球場に、束の間の静寂が訪れる。
送球を受けた加藤、滑り込んだ田中、守る墨高ナイン、攻める中陽ナイン、さらに内外野スタンドの観衆……そのすべての視線が、一塁塁審に集まる。
「あ…アウト! ゲームセット!!」
一塁塁審がコールと同時に、右こぶしを高く突き上げる。
―― ウワアアッ!!
その瞬間、甲子園球場は割れるような大歓声に包まれた。
ー第99話へ続くー
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