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<外伝>
第56話 キャプテンに教えられたこと……の巻
1.起死回生の一打!
「完全にやられたと思ったぜ……」
マウンド上。東実のエース佐野は、溜息混じりに言った。
「まさか、突風に助けられるとはな」
一・二塁間付近では、倉田がチームメイト達からもみくちゃにされている。
「よくやった倉田! あの距離から、まさか中継なしで届かせるとは」
「さすがピッチャーだぜ。今のプレーは長年語り継がれるだろうよ」
「ありがとう倉田。おれ、もうダメかと思ったぜ」
未だはしゃぎ続けるチームメイト達を、佐野は「おい!」と一喝する。
「気持ちは分かるが、まだツーアウトだし勝ったわけでもねえ。せっかくの流れを向こうにやりたくなかったら、もう一度集中するんだ!」
チームメイト達は「は、はいっ」と返事して、元の守備位置へ散っていく。それでも残された倉田に、佐野は賛辞を忘れなかった。
「倉田、ありがとうよ。本当に助けられた。今のプレーは、ほんと一生恩に着るぜ」
「い……いえ、こちらこそ」
殊勲の一年生は、深く頭を下げ、ライトの定位置へと戻っていく。
「く、くそうっ」
一塁側ベンチの横壁を、イガラシは外側から思いきり叩いた。普段は滅多に感情を表に出すことのない男が、珍しく、本当に珍しく悔しさを露わにしている。
「くそっ、くそっ、くそっ……」
「おい。もうやめないか、イガラシ!」
その体を、控え捕手の根岸が羽交い絞めにする。
「いまのは誰が見たって、運が悪かったんだ。風がなきゃ、完全にホームランの当たりだった。あの瞬間に突風が吹くなんて、やつらラッキーにもほどがあるぜ」
「……いや、ちがうんだ根岸」
ようやく落ち着いたのか、イガラシは声のトーンを落として言った。
「おれのねらいは変化球だった。まさかストレートを真ん中に投げてくるなんて、思いもしなかった。ほんとは、あれを見逃せばよかったんだ。だから今のは……おれのミスだよ」
あまりにも切なげな発言に、誰も言葉を返すことができない。その時だった。
「おいイガラシ」
一年生の二人が顔を上げると、次打者の丸井が戻ってきている。
「……あのな、そう一人でしょい込むなよ」
いつになく優しげな口調で、丸井は言った。
「横井さんがキャプテンにも言ってたが、うちはみんなで打って、守って勝ってきたチームだ。おまえが打てずに負けたんなら、それはおまえの思い上がりってもんだ。それにおまえ……すっかり忘れてるようだが」
ふいに丸井がニヤッとする。
「あと一つ、アウトカウントは残されてる。おれが最後のバッターになってやるよ」
そう言って、丸井は右打席へと戻っていく。
「イガラシ。丸井の言うとおりだ」
いつの間にか、キャプテン谷口がベンチから出てきていた。
「この試合、もし負けたとしても……おまえ一人のせいじゃない。それに丸井がいま言ったように、アウトはまだ一つ残っている。試合はまだ、終わっちゃいないんだ」
「……はい」
涙をこらえているのか、震え声でイガラシは返事した。
バッターボックスの手前で、丸井は少し待たされた。
眼前のマウンド上。ニ十分ほど前から強くなってきた雨のため、マウンドにはところどころ水が浮いている。そこに砂を撒く作業を行っているようだった。
「へへっ。おれっちらは、アンラッキーだと思ったがよ」
丸井は独り言をつぶやく。
「東実にしてみりゃ、足場が悪くなけりゃ久保のスリーベースはなかったと言いたいかもしんねえし。けっきょく運、不運は、お互いさまってことか」
やがて、アンパイアが「バッターラップ!」とコールする。
右打席に入り、丸井はバットを短めに握った。まず出塁しねえと……と思ったが、次の瞬間、別の考えが頭をよぎる。
「といっても……倉橋さんも谷口さんも、今日は本調子じゃねえもんな。とくに谷口さんは、左足首を傷めちゃって」
そうだ、と丸井はあることに思い至る。
「おれがここでアウトになりさえすれば、試合は終わる。キャプテンに……谷口さんに、これ以上あんな苦しい思いをさせずにすむんだ」
アンパイアが今度は「プレイ!」と合図したはずだが、どこか遠くで聞こえた気がした。ぼんやりとした視界の中心で、東実のエース佐野が投球動作を始める。
ズバン。快速球が、外角低めいっぱいに決まった。
「ストライク!」
アンパイアのコールに、三塁側スタンドから拍手が起こる。
「ハハ、そりゃそうか。あちらさんは、あとアウト一つで甲子園だもんな」
二球目。またもアウトコースに、今度は大きなカーブが投じられる。これは僅かに外れ、ワンボール・ワンストライク。
おい、と丸井はまた独り言を言った。
「遠慮しないで、さっさと決めちゃっていいんだぜ」
その時だった。
「どうした丸井、思い切っていけ!」
振り向くとベンチ前列にて、キャプテン谷口が痛みに顔を歪めながらも、懸命に声援を送っていた。
「苦しい時ほど力を出せるのが、おまえの持ち味だろう。そこに突っ立ったまま、黙ってアウトになって帰ってくるなんて、丸井らしくないぞ!!」
谷口の言葉が、すうっと胸に刺さる。
「た、タイム!」
丸井はアンパイアに合図して、一旦打席を外す。そして軽く素振りしてみた。
「谷口さん……苦しい時ほど力を出せるのが、おれだって。あの人おれっちのこと、そんなふうに見ててくれてたのかよ」
不覚にも涙腺が緩む。視界がぼやけ、丸井は慌てて手の甲で目元を拭った。しかし後から後から、涙が溢れ出てくる。もう止まりそうにない。
「そういえば、そうだったな」
胸の内につぶやく。
「今日が、谷口さんと一緒に戦える、最後の試合になるかもしれねえんだ」
結局、涙を完全に拭いきれないまま、丸井は打席に戻る。アンパイアが再び「プレイ!」とコールする。
「……おれは一体、あの人からなにを学んできたんだ」
眼前のマウンド上で、佐野が三球目を投じてくる。フォークボールだった。丸井は体勢を崩しながらも、バットの先に当てる。ファール。
こいつ当てやがった……と、キャッチャー村井が苦い顔をする。
「そうだ。おれは谷口さんから、あきらめないことを学んだんだ!」
心の内で、丸井は叫ぶ。
眼前のマウンド上。佐野は、一度首を振った。そして二度目のサインにうなずき、右足でプレートを踏む。
「おれは今、キャプテンに……谷口さんに、見せてやるんだ」
グリップエンドを握る丸井の両手に、力がこもる。
「谷口さんから学んだ、最後まであきらめないことの大切さを!」
迎えた四球目。佐野は丸井の苦手とする、内角高めに速球を投げ込んできた。しかし丸井は腕を畳み、強振する。
「……な、なんだとぉ!!」
佐野がマウンド上で叫ぶ。打球は、レフト鶴川の頭上を襲った。
「ば、バカなっ」
懸命に背走しながら、鶴川は吐き捨てる。その間、丸井は打球の行方も見ず、一塁ベースを蹴って二塁へ向かった。
「……くっ」
とうとう鶴川の背中がフェンスに付く。
「じょ、冗談じゃねえ。こんなとこで……」
鶴川は左手のグラブを精一杯伸ばした。しかしその数メートル上を、白球は越えていく。
―― ウワアアァ!!
球場内を、割れんばかりの歓声が包み込んだ。墨高ツーアウトランナーナシから、二番丸井の同点ソロホームラン。ついに二対二と追い付いたのである。
ホームベースを踏んで帰ってきた丸井を、墨高ナインは手荒い祝福で出迎える。
「このヤロウ、なにが『おれが最後のバッターになってやる』だ。一番オイシイとこを持っていきやがって」
「みんなで打ってって、この大ウソつきめ! 一人で打って、カッコつけやがってよ!!」
「……ちょ、ちょっとみなさん!!」
どうにかチームメイト達の手を払いのけて、丸井は少し気取った口調で言った。
「なにをカンちがいしてるか知りませんが、まだ同点なんスよ。これで向こうが、逆に息を吹き返してくるかもしれませんし。気を引きしめないと」
歓喜の輪から少し離れた場所で、井口が「おいイガラシ」と、傍らの幼馴染に尋ねる。
「おまえの先輩、結構いいこと言うじゃねえか」
「……おいおい。結構いいことって、失礼だぞ。まあ、ありゃ口だけだろうがな」
フフ、とイガラシは笑い声を漏らす。
「鼻の辺りがひくひくしてる。あれは絶対、笑いをこらえてるに決まってるじゃねーか」
「おまえの方が、よっぽど失礼じゃねーかよ」
井口がじとっとした目を向けてくる。
当の丸井は、澄まし顔でバットをダッグアウト隅のケースに戻し、口笛を吹きつつベンチに腰掛ける。
そこへやって来たのは、谷口だった。丸井は慌てて立ち上がる。
「きゃ、キャプテン!」
「ありがとう丸井」
谷口は礼を言うと、両手を差し出し握手を求めた。丸井は強く握り返す。
「へへっ。なーに、あれぐらい」
照れているのか、強がりを言った。
「それより、早いトコあんにゃろを打ちくずして、試合を決めなくちゃ」
「分かってるさ。でもそのまえに……おまえの一打は、チームを救ってくれたんだ。そのことを誇りに思ってほしい」
「きゃ、キャプテン……」
こらえていた涙が、ついにどっと溢れ出す。
「キャプテンこそ、足を傷めながらがんばって。それに比べりゃ、おれの一打くらい……ううっ」
「お、おいおい泣くなよ。まだ試合中だと言ったの、おまえじゃないか」
谷口の差し出した両手にしがみつき、泣きじゃくる丸井。その背中を、キャプテンは優しく撫でる。
―― この回、後続の倉橋は倒れスリーアウト。墨高は、勝ち越すことはできなかった。そのウラ。東実の攻撃は、一番竹下からである。
2.イガラシの快投
左打席に入った一番打者の竹下は、セーフティバントを仕かける。だがイガラシの速く正確なカーブの前に、掠りもせず。
「ストライク!」
アンパイアのコール。竹下は一瞬険しい目をした後、しばし考え込んだ。そして次は、バットを立てて構える。
よし、と倉橋はひそかに右こぶしを握りしめた。
「早くもセーフティバントをあきらめさせたぞ。これで谷口と岡村を走らせずにすむ」
一方、竹下は胸の内に「くそったれ」と毒づいた。
「さっきの松川といい、イガラシといい。バントじゃ当てられないほど、球威とキレがあるとは。ファーストとサード……とくにサードの谷口をダウンさせりゃ、もっとラクに試合が運べたつうのによ」
二球目。バットを立てた竹下を嘲笑うように、イガラシは速球を外角低めに投じる。
「こんのっ」
ズバン。倉橋のミットが、小気味よい音を鳴らす。竹下は空振りした。
「は、はええ……」
思わずつぶやきが漏れる。
「あのイガラシってやつ。てっきり変化球とコントロールだけと思ったら。結構ストレートも速いじゃねえか。ひょっとして……うちの佐野と、そう変わらんじゃ」
三球目。イガラシはまたしても速球を、今度はインコース高めに投げ込んだ。竹下はスイングするも、チップさせるのがやっと。
「ストライク、バッターアウト!」
アンパイアのコールに、竹下はガクッとうなだれる。
次打者の三嶋もキャッチャーフライに倒れ、ツーアウト。そして迎えるは、東実のエースにして三番打者の佐野である。
左打席に入り、佐野はイガラシを睨んだ。
「ここはなんとしても打たねーと。さっきは天候に救われたが、こいつがリリーフ登板してから、流れを向こうに持っていかれてるからな」
初球。外角低めに、力を抜いたようなシュートが投じられる。ストライクギリギリのコースだったので、佐野はおっつけるように打ち返した。
パシッ。レフト線へ鋭いライナー性の打球が飛ぶが、左へ切れてファール。
「なんだい、いまのタマは」
続く二球目。今度は内角低めに、同じくハーフスピードのシュート。佐野はこれを引っぱり、わざとファールにした。これでツーナッシング。
「こいつなに考えてやがる。おれ相手に、あんな中途半端なタマを投げやがって」
やがて、佐野はあることを思い出し、ハッとした。
「そういやこいつ……よく知らない相手にいまのタマを投げて、苦手なコースやクセを探ることがあるって」
まんまと嵌められた格好の佐野は、顔をさらに上気させる。
「や、ヤロウ!このおれを試しやがったのか、ふざけやがって」
憤る佐野をよそに、イガラシはキャッチャー倉橋とサインを交換し、ワインドアップモーションから投球動作を始めた。
「イガラシめ。今度はんぱなタマを投げやがったら、またスタンドへ叩き込んでやる!」
三球目。果たしてイガラシが投じたのは、チェンジアップだった。スピードを殺されたボールが、打者の手元でさらにすうっと沈む。
「……くっ」
佐野は体勢を泳がされながらも、どうにかタマに喰らいつこうとしたが、結局掠ることもできず。傍らで、アンパイアのコールを聞く。
「バッターアウト。スリーアウト、チェンジ!」
その場に膝をつき、佐野は「やられた……」とほぞを噛んだ。
―― こうして試合は九回を終え、二対二の同点のまま、墨高にとっては二試合連続の延長戦へと突入したのである。
そして、ここからは墨高のイガラシ、東実の佐野がそれぞれ力を発揮し、試合は投手戦の様相を呈していった。
イガラシは、東実打者陣の予想以上にスピードのある速球と多彩な変化球を駆使し、十回、十一回、十二回とパーフェクトにおさえる。一方の佐野も、持ち味の快速球と切れ味鋭い変化球を武器に、やはり十回、十一回、十二回と墨高にチャンスらしいチャンスを作らせず。雨中の決勝戦は、次第に膠着していく。
3.思わぬピンチ
十三回表。墨高はツーアウトながら、一・二塁のチャンスを迎えていた。右打席には、三番打者の倉橋が立つ。
マウンド上で、佐野は額の汗を拭う。
「く……やはりボールがすべって、思うように投げられない」
セットポジションに着き、佐野はシュートを投じる。倉橋はこれを狙っていたのか、左足を踏み込んで打ち返した。
「よし!」
倉橋は走りながら、右こぶしを突き上げる。打球は低いライナーで三遊間を破り、レフト前へ抜けた。しかし当たりが速すぎて、二塁走者は帰れず。二死満塁と変わる。
それでも倉橋は、やれやれ……と安堵の表情を浮かべた。
「これで少しは、三番の面目を保てたってもんだぜ」
そしてほどなく、次打者の四番谷口が右打席に入ってくる。こちらは左足を若干引きずり、顔色もやや青ざめている。
「谷口はここまで、ノーヒットにおさえてはいるが……」
佐野はそうつぶやき、憂う顔になる。
「チャンスの時こそ、集中力を発揮してくる男だからな」
その初球。佐野は、いきなりフォークボールを投じた。
「き、きたっ」
だが、谷口は体勢を崩されることなく、速いゴロをピッチャーの足下へ打ち返す。
「し、しまった……」
一瞬抜けたと思われたが、東実のセカンド三嶋が横っ飛びで捕球し、起き上がってすかさず二塁ベースカバーの竹下へ送球する。
「アウト! スリーアウト、チェンジ」
三者残塁。墨高、またも得点ならず。しかし一塁走者の倉橋は、すぐに谷口へ駆け寄り「ナイスバッティング」と声を掛けた。
えっ、と谷口は意外そうな顔をする。
「いやあ。いまのフォーク、よく体勢をくずされずに打ち返したと思ってよ」
「ああ、それは……たまたまヤマをはってたんだ」
正捕手の言葉に、谷口は苦笑いした。
「そうでもしないと、いまのおれの状態じゃ、マトモに打ち返せないし」
けど……と、谷口は声を潜めて、話を付け加える。
「佐野のやつ。前の回辺りから、早いカウントでのフォークが増えてきたな」
「言われてみりゃ、そうだな。これって……」
「やはり雨の影響があるんだろう」
あっさりと、谷口は言った。
「この回のチャンスも、イガラシは敬遠気味だったが、丸井の四球は際どいコースをことごとく見きわめられてからだったしな」
「と、いうことは……佐野といえども、思うようにコントロールができてないと?」
「そう思う。だから、つぎの回辺りまでチャンスが続くだろう。そのためにも、このウラをしっかり守り抜かなければ」
「オッケー、分かってるよ」
二人は言葉を交わし、それぞれの守備位置へ散っていく。
十三回裏。東実の攻撃は、六番中尾からである。
パシッ。快音を残し、打球はレフトポール目がけて飛んでいく。だが途中で失速し、三塁側奥のスタンドに落ちる。ファール。
カウントは、これでツーエンドツーとなった。
「中尾のやつ。なんだかさっきから、ファールばかり打たされてるみたい」
同級生の中井が、渋い顔になる。
「ミートすりゃ飛ぶと思うんだが」
「それをさせないのが、あのイガラシのピッチングなんだ」
ベンチの後列で、倉田が溜息混じりに言った。それと同時に、今度はガッと鈍い音が鳴る。ショートフライ。中尾が「くそっ」と、バットを放り走り出した。
「……ようし」
決意を固めたように声を発したのは、監督である。
「中尾もどれ。ここは、代打でいこう」
そう言って、ベンチ奥より「小堀(こぼり)」と、一人の選手を呼んだ。中尾と同程度の恵まれた体躯の打者が、監督の前に立つ。
「は、はいっ」
「見てのとおり、うちの打線が完全にほんろうされている。おまえの打力で、このムードを変えてくれ」
「分かりました」
小堀と呼ばれた打者は、自らアンパイアに交代を告げると、すぐ打席へ向かった。
「さ、佐野さん」
ベンチ横のブルペンにて、倉田が不思議そうに尋ねる。
「中尾も小堀さんも、同じようなパワーヒッタータイプに思えるのですが」
「ミート力だよ」
佐野はあっさり答えた。
「たしかに中尾もパワーはあるが、やや確実性に欠けるからな。もっとも守備は小堀さんより上だから、レギュラーとして起用されてるが」
「なるほど。今大会は、守備重視でいくと監督言ってましたものね」
「む。しかしもう、そうも言ってられなくなってきたようだが」
二人の投手は、大柄な上級生の打席を見守る。
「……そうだ、思い出した」
ホームベース奥にて、倉橋は胸の内につぶやく。
「このバッター、秋季大会決勝の終盤に、代打で出てきたやつだ。たしかナリのわりに、かなり器用なバッターだったよな」
初球。倉橋は「コレからいこうか」とサインを出した。イガラシが「えっ」というふうに、口を動かす。
「いきなり落ちるシュートからですか?」
そんなふうに思っている様子だ。
「そうだイガラシ。こいつは、なかなか器用なバッターだからな。中途半端なタマを投げると、ヘタすりゃスタンドまで運ばれちまうからな」
一瞬戸惑ったイガラシも、すぐに納得したようだ。
「ま、おれのタマは軽いせいか、ホームランの危険があるからな。たしかに慎重に攻めた方が良さそうだぜ」
ほどなく、イガラシはワインドアップモーションから投球動作を始めた。そして外角低めをねらい落ちるシュートを投じる。
バシッ。快音を残し、打球はセンター前で弾んだ。ワンアウト一塁。
「くそっ、カンタンに打ちやがった」
倉橋は唇を噛む。そして上空を仰いだ。
「審判!」
倉橋はアンパイアに声を掛ける。
「雨が強くなってきましたが、中断はないのですか?」
いや、とアンパイアは首を横に振る。
「これぐらいの雨では、中断することはできないのだよ」
「そ、そんな……」
その時、マウンド上より「倉橋さん」と、イガラシが呼んだ。
「どうした?」
倉橋が問うと、イガラシは「それはこっちのセリフですよ」と尋ね返す。
「雨のことですか?」
「そうだが」
「なーに、これぐらいは平気ですよ。ぼくら雨の中でも、散々練習はやってきたじゃありませんか。ぼく自身も、雨の中で中学選手権の決勝を戦ったことがありますし」
「分かってるさ。しかし……手負いの者がいるとなると、話が変わってくるだろう?」
あっ、とイガラシは小さく声を上げた。そして囁くように尋ねる。
「もしかして、谷口さんの……」
正捕手は、無言でうなずく。
ワンアウト一塁。左打席に、七番山井が入る。倉橋は「小ワザが得意なやつだったな」と、胸の内につぶやく。
「この状況じゃパワーヒッターより、よほど小ワザの巧い打者の方が厄介だぜ」
さらに一塁にも代走が送られた。大島という、小柄だが駿足だと、前日のミーティングで半田から注意があった選手である。
「くそっ。アウト一つ取っているとはいえ、なかなかメンドウな状況だぜ」
初球。イガラシが投球動作を始めると同時に、山井はバットを寝かせた。セーフティバント。投球はカーブだったが、巧く三塁線に転がす。
「まかせろ!」
谷口が鋭くダッシュし、素早く捕球した。そのまま流れるようなフィールディングで、二塁ベースカバーのイガラシへ送球するかに思われた。
「へいっ。あ……」
ズシャッ。谷口が、グラウンド上で横転した。
これを見て、走者の大島が「しめた!」と、二塁ベースを蹴りさらに加速する。谷口はすぐに立ち上がったものの、間に合わず。ワンアウト一・三塁。
「……た、谷口さん」
セカンドの丸井が、痛ましげな声を発した。
「フン。ようやく、ボロを出したか」
東実監督は、ニコリともせず言った。そしてナイン達に顔を向ける。
「分かってるな、おまえ達。一点取ればうちの勝ちだ。その一点、死にものぐるいで取りにいくぞ!」
監督の檄に、東実ナインは「ハイ!!」と力強く応える。
マウンド上。墨高バッテリーと内野陣は、タイムを取り輪を作っていた。その輪の中に、レフトより松川が駆けてくる。
「……ううっ」
輪の中心で、谷口が呻き声を漏らす。患部がかなり腫れ上がっているようで、それがストッキング越しにも分かるほどだった。
「松川。こんな場面ですまんが、たのむ」
「え、ええ」
戸惑いながらも、松川はうなずく。
「……な、なあみんな」
ふと谷口が、苦しげに言った。
「おれに遠慮しないで、ベンチに下げてくれていいんだぞ」
痛々しい発言に、他のメンバーはうつむき加減になる。
「……いや、それはダメだ」
きっぱりと答えたのは、正捕手の倉橋だった。
「なんでだ?」
谷口は食い下がる。
「手負いのおれより守れるやつは、他にもたくさんいるじゃないか」
「それでもだ、谷口!」
どこか悲しげな顔で、倉橋は答える。そしてフッと、口元に笑みを浮かべた。
「考えてみろ谷口。この状況で、打球を外野へ運ばれたら、ほぼおれ達の負けだ。だったら……おまえに最後まで、このグラウンドにいて欲しい」
そう言って、今度は他のナイン達へ話を向ける。
「みんなも聞いてくれ。このチームを、墨高野球部をここまで強くしたのは、紛れもなく谷口だ。これはおれのワガママだが……最後の瞬間ぐらい、谷口にはグラウンドにいて欲しいんだ」
悲壮感の漂う言葉に、誰も逆らえるはずもなく、ほとんどのメンバーが無言でうなずく。
「……なーに、心配いりませんよ」
ただ一人、強い口調で発言した者がいた。
「要するに、この場面をおさえればいいだけでしょう?」
やはりイガラシである。
「最後の場面を見届けるために、キャプテンをレフトに置くんじゃありませんよ」
そう言って、小柄な一年生は微笑む。
「われわれがピンチを脱して、再び試合の流れを取りもどすところを、キャプテンに見てもらうんです。ちがいますか?」
一年生投手の強気な発言に、この場の全員が顔を上げる。
次打者の八番鶴川は敬遠し、ワンアウト満塁となる。
山なりのボールを四球受けた後、倉橋はマウンドへ駆け寄った。するとイガラシが、開口一番こう発言する。
「まちがいなくスクイズでしょうね」
倉橋も「む」と、うなずく。
「おれも同感だ。倉田はさほど打力はないが、小ワザは巧みだ。ここで確実に点を取ろうと思うのなら、スクイズが確実だろう」
「ええ、問題は……」
ちらっと相手ベンチを見やり、イガラシは言った。
「何球目にやってくるか、ですが」
「おまえはどう思う?」
正捕手の質問に、イガラシは即答した。
「ぼくなら初球です」
「ずいぶん自信満々に答えるな」
半ば呆れながらも、倉橋は「どうしてそう思う?」と、その根拠を問う。
「ポジションを入れ替えたからですよ」
あっさりと、イガラシは答えた。
「ただでさえ守備位置を入れ替えた直後は、不安なものです。それも守りの要である、谷口さんのポジションを変えたばかりですからね。ぼくが東実側なら、今仕かけます」
倉橋は「なるほどね」と首肯した。
「そこまで考えてるなら、言うことはないが……どうやって外す?」
険しい表情で、正捕手は問うた。
「おまえも見たろう。やつらウエストしても、片手一本でバットに当てる技術を身に付けてる。それを外さなきゃ、分かってても点を取られることに変わりないぞ」
「それはですね……」
なぜかイガラシが、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「倉橋さん次第ですよ」
「な、なに?」
思わぬ一言に、倉橋は聞き返す。
「どういうことだい」
しかしイガラシは、答えない。代わりに「そろそろ時間ですよ」と、後方のアンパイアを見やる。若干苛々していたのか、コホンと咳払いした。
「まあ……ぼくにできることは、うまくやりますから。あとは倉橋さん、たのみましたよ」
「あ、うむ」
倉橋は仕方なく、踵を返しポジションに戻る。
4.まさかの“結末”
やがてアンパイアが「プレイ!」とコールした。そして倉田は、分かりやすくバントの構えをする。
一方、イガラシは普段と顔色も変えることなく、セットポジションに着いた。
「……ひとまず外すか」
ウエストボールのサインを出すと、イガラシは意外にもうなずいた。逆に倉橋は「おいおい」と、呆れ顔になる。
「フツウのウエストボールじゃ、さっきやつらにスクイズを決められたんだぞ。おまえ、分かってんのかよ」
しかしサイン交換が成立した以上、もう覆すことはできない。倉橋は覚悟を決め、ホームベース奥で中腰になった。
やがてイガラシが、セットポジションから投球動作を始めた。その瞬間、やはり倉田がバットを一本の手に持ち替える。
「……し、しまった」
イガラシのボールは、外角低めのボールコースに投じられた。ウエストボールどころか、これではただのボール球である。
「もらった!」
ボールを倉田がバットに当てようとした、その瞬間である。イガラシのボールが、シュートしながら鋭く沈んだ。
「な、なにっ」
倉田はその鋭い変化に空振りする。投球をショートバウンドで拾い上げた倉橋は、飛び出した三塁ランナー大島を三本間に追いつめていく。そしてベースカバーの松川に送球し、タッチアウトを奪った。
倉橋は「まったく」と、涼しげな顔の一年生を、軽く睨んだ。
「おれにまかせるって、そういうことかよ」
これでツーアウト。あとは通常通り、バッターと勝負するだけだった。ストレートとカーブで、ツーエンドワンと追い込む。そして最後は、チェンジアップ。倉田のバットが空を切る。
「ストライクバッターアウト、チェンジ!!」
―― ウワアアァ!!
再び球場内が、大歓声に包まれた。
―― 両チームとも好プレーを連発させ、盛り上がる決勝戦。延長十三回という死闘を戦いながら、試合はますます熱を帯びていくようだった。
だがこの後、試合は両チームの思惑とは関係のない所で、思わぬ結末を迎えることとなったのである。
十四回表。守る東実のマウンドには、やはり佐野が立つ。そして前の回までと同様、一球、二球……とフォームを確かめるように、力を抜いた投球練習を行う。
その刹那だった。
カッ。上空に閃光が走ったかと思うと、激しい雷鳴がゴロゴロと轟いた。球場のすぐ近くである。
「選手は一旦、ベンチに戻りなさい!」
審判団が慌てた様子で、東実ナインに声を掛ける。そしてグラウンド上に誰もいなくなったのを確認してから、自分達も屋根の下に集まり、何やら協議を始めた。
―― それから、およそ三十分が過ぎる。
やがてアンパイアが、マイクを手に雨中の中姿を現す。そして、アナウンスを始めた。
―― えーっ、このように悪天候であることから、選手の皆さん、応援団と観客の皆さんには、大変な苦労をかけたと思います。
しかしご覧の通り素晴らしい熱戦で、止めてしまうのは非常に惜しまれるのですが、雷鳴まで鳴り出したとあっては、皆さんの安全を保証することができません。
そこで本日の試合は――雷雨のため十三回を以って降雨コールド、二対二の引き分けとし、明日の正午より再試合を行うこととして決定いたしました。
この「引き分け再試合」という状況に、球場内はしばしざわめきが収まらなかった。
それは両チームの選手達も同様で、唐突に試合を打ち切られた落ち着かない気分のまま、審判団や係員に促され、ようやくグラウンドを後にしたのである。
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