【目次】
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<外伝>
第72話 試合の流れは!?の巻
1.ツキ
「ボール! テイクワンベース」
七回裏。アンパイアのコールを聞いて、江島(えじま)の九番打者がバットを放り、一塁へと歩き出す。ノーアウト一塁。
「た、タイム」
マウンド上。井口はアンパイアに合図して、足下のロージンバックに手を伸ばす。それを拾い上げ、左手に馴染ませる。パタパタと粉が舞う。
(うーむ。最後のタマは、おさえが利かなかったようだな)
渋面の一年生投手に、キャプテン谷口は三塁ベース手前で、心配げな顔になる。
(足を気にする様子はないから、痛み出したわけじゃないと思うが。あれだけ粘られて、さすがに疲れてきたか……)
その時ショートのポジションより、イガラシがマウンドへと歩み寄っていく。
「どしたい井口。そろそろ限界か?」
ニヤリとして挑発的に問うた。
「ば、バカを言うな!」
井口はロージンバックを放ると、左こぶしを軽く突き上げ言い返す。
「このおれがあれしきの打線に、たった七回でへばるわけねえだろ。今のはちとつまずいただけだ」
「当たり前だよ、こんな荒れた足場じゃ」
「あ……」
イガラシの冷静な突っ込みに、井口はバツの悪そうな顔をして、スパイクでガッガッと足下を固める。その光景に、谷口はくすっと笑う。
(さすが、おさな友達だな。彼の操縦のしかたをよく心得てる)
ほどなくイガラシがポジションに戻った。谷口は「井口」と、今度は自ら声を掛ける。
「後のことは気にするな。この回までのつもりで、思いきっていけ」
「この回までと言わず、完投と言ってくださいよ!」
マウンド上の一年生投手は、鼻息荒くして応える。
「そうだ、その意気だ!」
谷口の激励に、井口の顔から一層気迫がみなぎる。
やがてタイムが解け、江島の一番打者が右打席に立った。アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げる。
打者は最初からバントの構えをした。井口はセットポジション。一塁走者が、じわりじわりとリードを広げていく。
(足を使ってくるのか? ちと探りを入れてみるか)
キャッチャー倉橋はランナーを警戒し、「まずコレよ」とサインを出す。
井口はうなずくと、プレートから足を外し、一塁へゆっくり目の牽制球を放った。ランナーは素早く帰塁する。
「ランナー、もっと出ちゃっていいぞ」
一塁コーチャーの言葉に、ランナーはさっきよりも更に大きくリードを取った。両者の挑発的な言動に、井口はムッとする。
「おい井口。カッカすんなよ」
井口に声を掛けつつ、倉橋は思案した。
(しかし、そうカンタンに走られるほど、こちとら甘かねえぜ。井口、釘を刺してやれ)
キャッチャーのサインに、投手はうなずく。そして今度は、素早く一塁へ牽制球を投じた。
「わっ」
ランナーは完全に逆を突かれ、慌てて身を翻し帰塁しようとする。しかしその伸ばした左手を、ファースト加藤のミットが叩く。
「ふん。ざまあみろ」
井口は得意そうに左こぶしを軽く突き上げた。ランナーは「くそっ」と悔しげに唇を噛む。ところが……
「ボーク! ランナー二塁へ」
一塁塁審が井口を指差し、思わぬコール。ワアッとスタンドからざわめきが起こる。
「なっ。バカな」
呆然とする井口。
「た、タイム!」
すかさず倉橋がアンパイアに告げ、マウンドへと駆け寄る。
「あの塁審、どこ見てやがんだ。おれがボークなんてするわけ……」
「落ちつけ井口。こういうこともある」
顔を上気させ憤る後輩を、正捕手はなだめる。ほどなく他の内野陣も集まってきた。
「今のはちとツイてなかったな。だが」
谷口は、厳しい表情で声を掛ける。
「これでカッカして、後に引きずるようじゃ、マウンドを降りてもらうぞ。井口、それでもいいのか」
「うっ……」
キャプテンの言葉に、井口はようやく冷静さを取り戻す。
「しかしノーヒットでランナー二塁たあ、思わぬピンチだな」
倉橋が渋面で言った。谷口は「む」と、うなずく。
「つぎは、かく実に送ってくるだろう。どうする倉橋」
「うむ。できればバントしづらいトコを突いて、三塁で殺したいが。問題は井口のコントロールだな」
井口は「だ、大丈夫スよ」と、ムキになったふうに言った。
「あれしきの打線、軽くひねってやりますよ」
「ほれ。その心がけが、いかんのだ」
倉橋が一年生投手をたしなめる。
「もう終盤。やつらも、おまえのタマに慣れてきてる。どうやら一点がモノをいう試合になりそうだし、ここはより正確なコントロールが必要なんだぞ」
「分かってます!」
なおも強気に、井口は応える。
「この大事な場面で、失投するようなおれじゃありませんよ」
うむ、と谷口はうなずく。
「それだけ言えるなら、まかせて良さそうだ」
後輩の背中をポンとグラブで叩く。
「たのむぞ井口。おまえの一球一球に、われわれの行く末がかかっているんだからな」
キャプテンはそう言って、他の内野陣の顔も見回した。
「みんなも、ここがきっと勝負の分かれ目だ。バックの守りで井口を盛り立ててやろう。いいな!」
オウヨッ、とナイン達は力強く応える。
やがて墨高内野陣は守備位置へと散り、江島の一番打者が右打席に戻る。そしてアンパイアが再び「プレイ!」とコールし、打者はまたチョコン打法の構えをした。
(ほんと、しつこいやつらだぜ……)
キャッチャー倉橋が視界の端で打者を観察しながら、マウンド上の井口へサインを出す。
(まずコレよ)
井口は「うむ」とうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。その指先から投じられたボールは、速球とほぼ同じスピードで、打者の胸元を抉るようにして鋭く変化した。
「うっ」
打者は腰が引けてしまい、見送るだけ。ズバン、と倉橋のミットが鳴る。
「す、すげえシュートだぜ」
倉橋は「ナイスボールよ」と井口に一声掛け、返球する。そしてテンポよく次のサインを出す。
(さ、もういっちょコレよ)
井口はうなずくと、再びセットポジションから投球動作を始める。グラブを突き出し、左足を踏み込み、右腕をしならせる。
「くっ……」
ズバン。またも井口のシュートが直角に曲がり、外角低めに飛び込む。打者は今度も手が出ず。アンパイアが「ストライク、ツー!」とコールする。
「バッター、落ち着くんだ」
その時三塁側ベンチより、橋本が声を上げる。
「なにもきれいに打ち返すことはない。とにかく前に転がして、走者を進めるんだ」
「う、うむ」
打者はうなずき、バットを構え直す。
カウントツーナッシング。三球目、井口はまたもシュートを投じる。ガッ、と音がして、打球は鈍く一塁側ファールグラウンドに転がる。
「あ、当たった」
打者は安堵の笑み。一方、井口は「むっ」と渋面になる。
三球目。打球はガシャンと音を立て、バックネットに当たる。さらに四球目、五球目は三塁側ファールグラウンドに転がる。これで三球続けてカット。
(む。打つというより、当てるだけという振りになってきたな)
倉橋はマスクを脱いで立ち上がり、「外野、前だ」と声を掛ける。レフト横井、センター島田、ライト久保がそれぞれ数歩前進してポジションを取った。
(しかし、なかなかやるな。井口のシュートにここまで喰らいついてくるとは)
マスクを被り直し、倉橋は思案する。
(ここらでタイミングを外してみるか)
倉橋のサインに井口は「む」とうなずき、一旦プレートを外し一塁へ牽制球を放る真似をしてから、セットポジションに着いた。そして投球動作を始める。
六球目。井口が投じたのはスローカーブだった。
くっ、と打者はつんのめるように体勢を崩してしまう。それでも辛うじて、バットの先端でボールに当てる。
「しまった」
打者はバットを放り走り出す。打球は丸井の守るセカンド真正面へのゴロ。二塁ランナーはスタートを切れず。ところが……
丸井が腰を落とし捕球体制に入った瞬間、打球がイレギュラーし大きくはねた。
「うっ」
ガッ、と鈍い音。打球は丸井の額(ひたい)を直撃し、一塁側ファールグラウンドへと転がっていく。
「く、くそっ」
丸井は一旦顔を上げボールを追いかけようとするが、足がもつれて転倒してしまう。両手で額を押さえ、「ううっ」とうめき声が漏れる。
「丸井!」
谷口が叫んだ。
「しめたっ」
二塁ランナーがスタートを切り、三塁ベースを蹴って本塁へ突っ込んでくる。ファースト加藤、ライト久保がボールを追う。
「まわれまわれ!」
江島の三塁コーチャーが右腕を大きくぐるぐると振り回す。
「ボールバック!」
倉橋が指示の声を飛ばす。ようやく追い付いた加藤が、ボールを拾いすぐさま送球しようとする。しかしその間、ランナーはホームベースへ頭から滑り込んでいた。さらに打者走者は二塁に到達。
ついに試合の均衡が破れる。一対〇、江島が先取点。
うずくまったままの丸井を見て、アンパイアが「た、タイム!」とコールした。そして丸井の所へ駆け寄る。すぐに谷口、倉橋ら内野陣も集まってくる。
「くそっ。せめて前にこぼしていれば……」
丸井は右手で額を押さえながら、唇を歪め悔しがった。指の間から血が滲んでいる。
「今のはしかたないさ、気にするな。それより大丈夫か」
谷口が負傷の後輩を励ます。
「うーむ、これはいかん。出血してる」
アンパイアは顎に手を当て、心配そうに告げた。
「医務室へ行くように。誰か付き添ってやりなさい」
「あ、じゃあおれが」
すでにベンチから出てきていた根岸が、そう言って丸井にタオルを渡す。
「丸井さん、これで傷を押さえて」
「すまねえな」
丸井は根岸に付き添われ、しばし一塁側ベンチの奥に引っ込む。残されたナイン達は、皆険しい表情でマウンドに集まる。
「すまん」
右手にマスクを提げ、倉橋が悔しげに言った。
「スローカーブでタイミングを外すつもりだったんだが」
「ねらい通り打ち取ったじゃないか。ちょっとだけ、運が向こうに味方しただけだ」
谷口に励ましにも、倉橋は「分かっちゃいるが」と渋面で言った。
「こっちはなかなかチャンスを生かせなかったというのに、いやな形で点を取られちまったな」
なーに、と谷口は明るく応える。
「よくツキは平等だと言うだろ? たまたま向こうが先だった。今度はこっちの番さ」
「む、そうありたいが……」
腕組みする倉橋。ナイン達に重苦しい雰囲気が漂う。
「ほら。みんな顔を上げるんだ」
谷口が強い口調で言った。
「つぎは、こっちにツキを呼び込むためにも、この後をしっかり守り切ることだ」
「キャプテンの言うとおりですね」
首肯したのはイガラシだ。
「もう試合は終盤。やつら一点を先取したことで勝ちを意識して、かえって力みが出るかも」
「む! モノは考えようってやつか」
加藤も同調する。
「そういうことだ」
キャプテンは他の内野陣の顔を見回し、右こぶしを軽く突き上げた。
「丸井の闘志に報いるためにも、ここはなんとしても一点で食い止めて、つぎの回の攻撃につなげるんだ。いいな!」
オウッ、とナイン達は応える。
やがて一塁側ベンチより、治療を終え頭に包帯を巻いた丸井がアンパイアに合図し、そしてグラウンドに駆けてきた。負傷を押しての帰還に、甲子園球場全体から大きな拍手が沸き起こる。
丸井はセカンドのポジションに着くと、一際大きな声を上げた。
「さあさあ、しまっていこうよ!」
その姿に、谷口は苦笑いを浮かべる。
「丸井。傷は大丈夫か?」
「ぜんぜん平気っスよ」
丸井はひょうきんに応える。
「こんなもん。つばつけとけば、治りますって!」
谷口はくすっと笑いがこぼれた。
ほどなく、アンパイアが「プレイ!」と試合再開を告げた。一点を先取した江島が、なおノーアウト二塁のチャンス。そして二番打者が左打席に入る。やはりチョコン打法だ。
(やれやれ、あの広陽がやられるわけだ。どいつもこいつも、よく喰らいついてくるぜ)
ホームベース手前に屈み、倉橋は苦笑いを浮かべる。
(さあて。どう攻めるかな)
しばし思案の後、正捕手はサインを出し、内角高めにミットを構えた。
(まずはコイツでおどかしてやれ)
井口はうなずき、セットポジションから投球動作へと移る。しかしその指先からボールが投じられた瞬間、倉橋は「うっ」と顔をしかめた。
(あ、甘い……)
内角高めを狙った速球が、真ん中に入ってしまう。打者のバットが回る。パシッと快音が響いた。ライナー性の打球が、左中間の芝の上で弾む。
「まわれまわれ!」
江島の三塁コーチャーが、またも右腕をぐるぐると振り回す。打球はワンバウンドでレフト横井が捕球し、すぐさま中継のイガラシへ返した。だがその間、二塁ランナーはホームベースを駆け抜けていた。打者走者は一塁ストップ。
二対〇。江島があっさりと追加点を奪う。
(くっ。そこまで球威は落ちていないが、やはり甘く入ると打ち返されるか)
倉橋の眼前で、井口はロージンバックに左手を馴染ませている。
「よく打ったぞ田村!」
三塁側ベンチでは、エース橋本が打者に声を掛ける。その周囲では、江島ナインが喜びを露わにしていた。
「一点取れりゃ御の字だと思ってたのに、まさか二点も入るとは」
「どうやら、このまま勝てそうだぜ」
「ようし。三番も、思いきっていけよ」
そんな中、坂田だけが険しい表情だ。
「ばかやろう。きさまら、浮ついてんじゃねえ」
江島キャプテンの一言に、ナインの面々は口をつぐむ。
「今まで散々ピンチをしのいで、やっとここまで来たのを忘れたか。少しでも油断したら、簡単にひっくり返されちまうぞ。今こそ気を引きしめるんだ!」
は、はい……と江島ナインは戸惑ったふうに応える。
(ふん。調子に乗っていられるのも、今のうちだけだぜ)
倉橋はマスクを被り直し、再びホームベース手前で屈み込んだ。そして「まずココよ」とミットを外角低めに構え、サインを出す。
井口はサインにうなずき、セットポジションから投球動作を始めた。しかしボールを指先から放った瞬間、顔を歪める。
「しまった」
またしてもコースが真ん中に入ってしまう。打者のバットが回る。
パシッ。ライナー性の打球が三塁線を襲う。サード谷口がジャンプするが届かず。しかし僅かにレフト線の外側に弾み、ファールとなった。
(まずい。井口のやつ、疲れからか微妙なコントールが効かなくなってやがる)
倉橋が顔をしかめた時だった。
「タイム!」
谷口がアンパイアに合図して、井口の所へ歩み寄る。倉橋もマスクを脱ぎ、二人のいるマウンドへと駆け寄った。
2.谷口の読み
「井口。ここまで、よく投げてくれたな」
開口一番、キャプテンは一年生投手を労った。
「あとは任せて、ベンチからみんなを盛り立ててくれ」
「そ、そんな」
井口は不服そうに言った。
「おれはまだ投げられます」
「井口、自分でも分かってるだろう。さっきからコースに決まらなくなっていることを」
谷口は厳しい表情で告げた。うっ、と井口は口をつぐむ。
「気持ちは分かるが、これ以上点を取られると、ナインの士気に関わる」
そう言うと、今度は表情を柔らかくして、話を続けた。
「しょげるなよ井口。その分、次戦以降に活やくしてもらうつもりだからな」
「わ、分かりました」
井口は悔しさを滲ませつつも、納得してマウンドを降りていく。
墨高はここでシート変更を行った。サードの谷口がピッチャーとしてマウンドに上がり、ガッガッと足下の土を固める。また谷口の抜けたサードには、一年生の岡村が入った。
「しかし、今の二点目は痛いな」
苦い顔の倉橋に、谷口は「いや」と微笑みかける。
「見ろよ倉橋。相手ベンチを」
「えっ」
言われるまま、倉橋は三塁側の江島ベンチを見やった。どこか浮(うわ)ついた雰囲気のナイン達を、四番打者の坂田がまだネクストバッターズサークルへも行かず、「もう一度気を引きしめるんだ」とたしなめている。
「なんだい。向こうのキャッチャー、妙にけわしいな」
倉橋は囁き声で言った。
「待望の追加点を取ったというのに」
「喜びすぎてるのさ」
谷口の一言に、倉橋ははっとする。
「なるほど。そういや……点を取るまではじっくりボールを見てくる感じだったのに、さっきといい今のバッターといい、初球から簡単に手を出してきたな」
「うむ。井口のコントロールが甘くなってきたこともあるが、彼らは望外の二点目が入ったことで、浮ついて攻撃が雑になってきている」
正捕手の目を見上げ、キャプテンはきっぱりと言った。
「これは流れを変えるチャンスだ」
キャッチャー倉橋が踵を返すと同時に、谷口は足下のロージンバックを拾い、パタパタと右手に馴染ませる。
(いよいよエースのお出ましか)
ネクストバッターズサークルにて、江島の三番打者はマウンド上を観察する。その眼前で、ほどなく谷口が投球練習を始めた。その右腕から投じられる速球が、キャッチャーがミットを構えたコースに寸分違わず吸い込まれていく。
(コントロールは良さそうだが、あの井口てのと比べると、ずいぶん見劣りするな。あれでよく谷原をおさえたもんだ)
「おい。油断するなよ!」
ベンチから、キャプテン坂田が檄を飛ばす。
「やつは何種類もの変化球を使い分けるって話だ。どれでも合わせる気でいくと、やられちまうぞ」
「わ、分かってるって」
やがて、アンパイアが「バッターラップ!」と声を掛けてきた。三番打者は小走りに左打席へと入る。
(はて。坂田のやつ、なんであんなにけわしいんだ。こちとら二点も取って、いいムードだっていうのによ)
ノーアウト一塁から試合再開。打者は変わらずチョコン打法の構えをした。その傍らで、墨高のキャッチャー倉橋が「コレよ」とサインを出す。む、と谷口がうなずく。
初球。ボールは、ほぼど真ん中のコースに飛び込んできた。
「しめたっ」
打者のバットが回る。しかし捉えたと思った瞬間、ボールはすうっと沈む。
ガッと鈍い音がした。ピッチャー正面のゴロ。谷口がワンバウンドで捕球し、素早く二塁ベースカバーに入ったイガラシへ送球する。
「あ……」
送球を受けたイガラシは、すかさずファースト加藤へ転送した。一-六-三のダブルプレー。江島は一瞬にして走者を失う。
「バカが。だから油断するなと言ったろう」
次打者の四番坂田が、ネクストバッターズサークルで怒鳴った。
「す、すまん。フォークがあるのは知ってたんだが」
「知っててあのザマかよ。それでよく、三番がつとまったもんだ」
三番打者はぐうの音も出ず、肩をすくめてベンチへと戻る。
(あいつめ、初球から無造作に打ちやがって)
坂田はその場で数回素振りして、ゆっくりと右打席に入る。そしてやはりチョコン打法の構えをした。
(ほかのやつらも、二点取っただけで浮つきやがって。こちとら何度もピンチをしのいで、あと二回も向こうの攻撃が残ってるというのに)
初球。谷口は外角低めに速球を投じてきた。坂田は手を出さず。ストライク、とアンパイアがコールする。
なんでえ、と坂田はつぶやいた。
(練習より数段速いな。しかも正確に際どいコースを突いてきやがる。これじゃ、あの谷原もおさえられるわけだぜ)
二球目。谷口はまたも外角低めに速球を投じた。ズバン、と倉橋のミットが鳴る。決まってツーストライク。
(ちぇっ。こっちがじっくり見ていく気なこと、見抜いてやがるな)
坂田は一旦打席を外し、フウと息を吐いた。そして打席へと戻る。
(なんとしても出塁せねば)
バットを構え、眼前の投手を見据える。
(おれまで簡単に打ち取られたら、流れが向こうに行っちまう)
三球目。谷口は外角に、今度はカーブを投じてきた。
「くっ……」
坂田は体勢を崩しながらも、辛うじてバットのヘッドを残しボールに喰らい付く。パシッ、と快音が響いた。速いゴロが二塁ベース左を襲う。
抜けると思われた、次の瞬間。セカンド丸井が横っ飛びで捕球した。そしてすかさず膝立ちになり、一塁へ送球する。
坂田は一塁にヘッドスライディング。砂塵が舞う。
「あ、アウト!」
一塁塁審のコール。負傷をモノともしない丸井の気迫溢れるプレーに、球場全体からワアッと歓声が上がる。
「ナイスプレーよ丸井!」
谷口は軽く右こぶしを突き上げ、他のナイン達と足早にベンチへと引き上げていく。坂田は「くそっ」とベースを叩き、悔しさを露わにした。
一塁側ベンチ横。墨高ナインは、キャプテン谷口を中心に円陣を組む。
「いいかみんな。この回、必ず流れが来る」
開口一番、谷口はそう告げた。
「江島は得点したことで勝ちを意識して、ほんらいのプレーを忘れてるぞ」
横井が「む!」と同調する。
「そういや、さっきまではボールをじっくり見てくる印象だったのに、二点目が入ってから急に早打ちになってきたものな」
傍らで、倉橋が「ああ」とうなずいた。
「ねらいを変えたのだとしても、さっきの三番のバッティングは無造作すぎる」
それに、とイガラシがちらっと相手ベンチを見やる。
「向こうのキャッチャーだけが、妙にカリカリきてる様子ですからね。あちらさん、明らかに意思統一がされてませんよ」
「そういうことだ」
右こぶしを握り、谷口は周囲を見回して言った。
「彼らは望外の二点を得たことで、かえって浮足立ってる。つけ込むなら今だ!」
オウヨッ、とナイン達は力強く応える。
八回表。守備位置に散った江島ナインに、キャッチャー坂田が声を掛ける。
「やい、てめえら。二点取ったくらいで浮かれるなよ」
一人険しい表情だ。
「ねばりに定評がある墨谷が相手だ。少しでもスキを見せたら、あっという間にひっくり返されちまうぞ」
オウッ、とナイン達は快活に応える。しかしそれぞれの表情や仕草は、明らかに浮ついて落ち着きなさげだ。坂田は危機感を募らせる。
「まったく。ほんとに分かってるのかね」
その時「おい坂田」と、橋本が呼んだ。坂田はマウンドへと駆け寄る。
「なんだ?」
「そうカリカリするなって」
エースはなだめるように言った。
「二点あるんだし、もちっと気楽にいこうぜ」
「おめーも分かってねえのかよ」
正捕手は苛立ちを露わにする。
「もし一点でも返せば、向こうは勢いづいてくるぞ。まして相手は、こういう展開を何度もひっくり返してる、墨谷じゃねえか」
「まあまあ。おまえの気持ちも分かるがよ」
苦笑いしつつ、橋本は話を続けた。
「ぎゃくに言えば、この回をきっちり〇点でしのぎさえすれば、うちの勝つ確率がだいぶ高くなるってことじゃねえか」
「そりゃモノは考えようだがよ」
まだ渋面の坂田に、橋本がフフと笑いかける。
「なあ坂田。ここは一つ、おれを信じてくれよ」
「おまえを?」
「そうだ。ねばりが墨谷の持ち味だってことも分かるが、今までこういう状況を何度もしのいできたのがおれだってことも、忘れないでくれよな」
「うむ……」
ようやく坂田の表情が、ふっと和らぐ。
「たしかにそのとおりだ。ここは、おまえを信じるよ」
「ああ。まかせとけって」
それだけ言葉を交わすと、坂田は踵を返してポジションに戻り、ホームベース手前で屈み込む。
やがてこの回の先頭打者、墨高の四番谷口が右打席に入ってきた。
(さて、どう出てくるかな)
谷口は思案しながら右打席に入り、チョコン打法の構えをした。傍らで、江島のキャッチャー坂田が(まずココよ)とサインを出す。
マウンド上。橋本がアンダースローのフォームから、外角低めに速球を投じてきた。ボールは糸を引くようにして、コースいっぱいに決まる。
(む。コントロールは、まだ衰えてないようだ)
眼前では、江島の内野陣が橋本に声を掛ける。
「ナイスピーよ橋本!」
「どんどん攻めていこうぜ」
谷口はさりげないふうにしながら、内野陣の守備位置に注目した。
(サードもファーストも、ベース寄りに下がっている。クリーンアップだし、普通に打ってくることしか考えてないな。しかも彼らは、早くこの回の守備を終わらせたがっている。仕かけるなら、今だ!)
続く二球目。橋本が投球動作を始めると同時に、谷口はバットを寝かせた。マスク越しに、坂田が目を見張る。
(なに、バントだと)
コン。打球は緩く三塁線の内側に転がった。セーフティバント。深めに守っていたサードは慌ててダッシュするが、捕球した時、すでに谷口は一塁ベースを駆け抜けていた。
(しまった。ここで仕かけてくるとは……)
坂田は唇を噛み、前方の野手陣を見渡す。さっきまでの浮かれムードから一変して、皆一様に引きつった表情を浮かべている。
「こら、きさまら! ピリッとしろい」
ホームベース手前より檄を飛ばした。
「だから浮かれるなと言ったろう。動揺してるヒマはねえぞ。まだランナーを一塁に出しただけ。これを機に気持ちを引きしめ直すんだ、いいな!」
オ、オウと声だけは快活な返事が返ってくる。無理もない、と坂田は胸の内につぶやいた。
(初回から何度もピンチをしのいできて、ようやく手にした二点だからな。連中の気が抜けちまうのも仕方あるまい。だが、ここはどうあっても、食い止めねば)
ノーアウト一塁。次打者のイガラシは右打席に入り、ひそかにほくそ笑んだ。
(キャプテンの言ったとおり、やつら浮足立ってきてる)
横目で「しまっていこうぜ!」と声を上げる坂田を見やる。
(フフ。キャッチャーはどうにか立て直そうと必死だが、一度失った流れを取り戻すのは、そう簡単じゃないぜ)
イガラシもチョコン打法の構えをし、一塁ベース上の谷口と目を見合わせる。谷口は手振りでサインを出し、それからじりじりと離塁していく。
(なるほどバントエンドランか。さらに揺さぶろうってことね)
帽子のつばを摘まみ「了解」の合図を出す。
眼前のマウンド上。橋本がセットポジションから、第一球を投じてきた。同時に、ランナー谷口がスタートを切る。イガラシはすかさずバットを寝かせた。江島のファーストとサードが鋭くダッシュしてくる。
(そう素直に送るわけねえだろ)
イガラシはバットを押し出すようにして、ボールをマウンドと一塁線の間に強く転がした。前進してきたファーストのミットの下を、打球がすり抜けていく。
「しまった」
ファーストが声を上げた。イガラシは悠々と一塁ベースを駆け抜け、その間に谷口は三塁へ滑り込む。バントエンドランとプッシュバント成功、ノーアウト一・三塁。
「ナイスバントよイガラシ!」
ベース上で立ち上がり、谷口は一塁でクールな表情の一年生に声を掛ける。
(これで逆転への足がかりをつかんだってわけだ)
谷口の視線の先では、江島ナインがさっきまでの浮かれた様子とは一変して、皆一様に引きつったマウンドへと集まる。
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