南風の記憶

沖縄の高校野球応援! また野球小説<「続・プレイボール」ーちばあきお原作「プレイボール」もう一つの続編」連載中。俳句関連、その他社会問題についても書いています。

不遜にも「プレイボール」「キャプテン」の”続編”を書いて思ったこと

 

 ここ二年半ほど、私自身が心身の不調から立ち直ることができず、小説「続・プレイボール」「続・キャプテン」の執筆が滞ってしまい、ズブの素人である私を応援して下さった原作「キャプテン」「プレイボール」ファンの方には申し訳なく思っています。

 

 さて、本当に不遜ながら、あの不朽の名作「プレイボール」の“続編”に挑戦してみて、私なりに感じたことを少し書き記しておきたい。

 

 あれは――まさに“石を削るような作業”とでも言い表すべきものではないだろうか。

 

 原作「キャプテン」「プレイボール」の熱心な読者ほど、共感していただけるだろう。あの世界観には“無駄”がない。

 

 いわゆる友情や恋愛、少々クサい台詞……普通の少年漫画には当然のように散りばめられているそれらの要素が一切排除され、ただ野球とそれを取り巻く日常を淡々と描いた作品、それが「キャプテン」「プレイボール」の世界観なのだ。

 

 同作の無駄を排する姿勢は、登場人物の描き方にも表れている。

 例えば作中最強キャラであるイガラシを筆頭に、近藤や佐野(青葉学院)、井口(江田川)ら、他の登場人物達と比べ明らかに才能に秀でたキャラクターであっても、彼らのことを「天才」などと安易な説明的台詞で済ませるようなことはない。あくまでも彼らのプレーぶりを見て、“読者が”(←ここが重要)彼らを天才だと認めるような描き方をしているのだ。

 言い換えれば、同作の世界観はどこまでも“具体的”なのである。

 

 また同作は、いわゆる回想シーンがほとんどないことも特徴的だ。今ぱっと思いつくのは、「プレイボール」終盤でキャプテン谷口が、勉強会を開いた部長に練習時間延長の直談判をしに行く時くらいか。だから物語は、常に“現在進行形”だ。

 

 

 一切の無駄を排し、どこまでも“具体的”で、かつ物語はいつも“現在進行形”だ。

 同作を読んだ多くの方が、「いつの間にか引き込まれてしまった」「ついつい長時間読みふけっていた」との感想を漏らすが、それはちばあきお先生が、作品において上記のような仕掛けを施していたからである。

 

 ただ……この一切の無駄を排するあきお先生の作品姿勢が、先生ご自身の寿命を縮めてしまったことと無関係だとは、私には思えない。

 

 無駄を排するためには、そもそも「何が無駄か」を感じ取る感覚の鋭敏さが不可欠だ。そしてその鋭敏さを保つためには、作品世界に入り込む際、いつでも神経を研ぎ澄ませておかなければならない。

 

 しかし、いかに天才・ちばあきおと言えども、人間だ。どうしたって弛緩してしまう時もある。

 

 実際に「プレイボール」終盤などは、例えば半田の学年が一つ下がっていたり、いつの間にか消えてしまったキャラが出るなど、精緻な物語が特徴のあきお先生らしからぬ弛緩が散見される。ご自身の体調不良もあり、どうしようもない状況だったのだろう。

 

 ただ……求道者たるちばあきおにとって、ご自身の“弛緩”は到底受け入れ難いものだったのではないだろうか。

 

 もちろん真相は分からない。ただ、作品へと向かう際の神経の鋭敏さを取り戻せないことに対する、ご自身への怒りと失望、その他諸々の感情が、最期に自罰的な行為へと向かわせたのではないかと思えてならない。もしそうだとしたら、あまりにも悲しすぎる。

 

 しかし――それでも、作品は遺された。数多ある野球漫画誌に燦然と輝く名作として。